こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

復活節第4主日(ヨハネ10:11-18)あなたは自分の「カバン」をどこに置きますか

2021-04-24 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2021/4/25(No.1119)
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復活節第4主日(ヨハネ10:11-18)
あなたは自分の「カバン」をどこに置きますか
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復活節第4主日を迎えました。4月の最後の日曜日でもあるので、「世界召命祈願日」とも重なります。福音朗読を、召命のテーマと結びつけて、話したいと思います。

もう一つ、4月25日は「聖マルコ福音記者」の祝日です。日曜日だったので、祝日表から消えています。けれども今年の典礼暦がB年で、マルコ福音書を中心に朗読することを考えれば、何も聖マルコ福音記者の祝日が消えなくても良いのに、と思います。

福音朗読に戻りましょう。最後の部分が物語全体の鍵だと思います。「だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」(10・18)

皆さんは、「わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる」という部分が引っかからないでしょうか。「捨てる」という表現は、あまり良い響きではありません。まるで命を投げ出すような感じに聞こえますが、本当にイエスは、そんなつもりだったのでしょうか?ここには、翻訳の壁があると思います。

私たちは聖書を日本語訳で読みます。するとどうしても、日本語からしか意味をくみ取れません。新約聖書が本来書かれたのはギリシャ語ですから、本来書かれた言葉にできるだけ近い翻訳をするのが理想です。それぞれの国が、その努力をしています。たとえば英語では、この部分を次のように翻訳しています。”I have authority to lay it down, and I have authority to take it again.”

何となく分かってもらえたでしょう。”to lay it down”は、「横に置く」とか「横たえる」という意味です。日本語で訳された「捨てる」とは聞こえ方がずいぶん違います。「わたしは命を置く権限を持っているし、命を取り戻す権限も持っている」日本で「捨てる」と翻訳した事情は分かりませんが、響きはずいぶん違います。

そこで、「命を置く」という理解で朗読を読み直してみましょう。すると、イエスが羊のために取った行動は、仕方なく取った行動ではないことがよく分かります。羊を救うために、喜んで命を置いたのです。

ではどこに、イエスはご自分の命を置いたのでしょうか。それは御父のご計画・御父のお望みに、置いたということです。「御父のご計画に命を捨てた」のではなく、「御父のご計画に命を置いた」のです。

イエスがご自分の命を置いた御父のご計画は、「狭い門から入りなさい」(マタイ7・13)とたとえられたような狭い道かも知れません。しかし、羊飼いとして確実に人々を導く道でした。反対に「滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い」(同7・13)とあるように、広々とした道に命を置いても、必ずしもそれが正解とは限らないのです。

今週は世界召命祈願日です。いくつかの修道会から、「紹介をしてください」とお願いされて、冊子を置いています。宣伝はそれだけではありません。すでに私たちの先輩達がいくつかの修道会に入り、司祭や修道者になっています。もちろん、教区司祭も田平教会は大勢います。この先輩方がそのまま、それぞれの召命の「生き証人」です。

今週の福音朗読と重ねて、召命を考えてみましょう。司祭や修道者への道が召命のすべてではありませんが、非常に分かりやすいのでここに焦点を当ててみましょう。司祭や修道者の召命を生きた人は、イエスが言われた「わたしは羊のために命を捨てる」という生き方の人です。

この場合も、「命を捨てる」という表現はふさわしくないでしょう。この世の生き方に「命を捨てる」生き方などないからです。「わたしは羊のために命を置く」それも「御父のお望みに命を置く」そういう生き方が司祭や修道者の召命なのだと思います。

「命を置く」これでも説明が足りないかも知れません。すべての人の召命に神様が呼びかける相手は、特に「青少年」だからです。青少年のために、もっと思い切ってかみ砕いてみましょう。青少年の皆さんが「置く」もので、何を思い出すでしょうか。神父様は青少年の時を振り返って、「カバン」を思い出しました。

さて、青少年の皆さんはカバンをどこに置きますか?カバンをお家に置いたまま学校には行きません。反対に学校に置いたままお家に帰ることもしません。カバンはどこに置くのでしょうか?カバンは、いつも、自分の目標の上に置くと思います。保育園の先生になりたいとか、歌手になりたいとか、目標を決めて、カバンを背負って頑張ると思います。

そこでお願いです。そのうちの何人か、「神様の導き」「神様の見守り」にカバンを置いて、勉強や部活をしてください。神様は、いつも皆さんを導いてくれます。その導きの上にカバンを置いて毎日の勉強や部活や習いごとをしてくれたら、ある人を神様の特別な働きに誘ってくれるはずです。

先週だったか、平日の侍者が足りなくなって困っていますとお話ししました。呼びかけに返事がありました。感謝します。神様の導きにカバンを置いてくれる人には、神様も特別な呼びかけをしてくれます。どうか、勇気を出して返事をしてください。

教会でミサをしている神父様に興味を持っている人もいるでしょう。もしかしたら、「神父様の仕事だったら、ぼくにもできそうだな」と思っているかも知れません。ぜひその人は、あなたのカバンを神様の導きに預けてみてください。きっと、特別な働きを与えてくれると思います。

あなたが大切にしているバッグやカバンを、あなたはどこに置きますか?あなたの目標に置きますか?あなたの夢に置きますか?神様の導きにあなたがそれを置くなら、想像を超える、真似のできない働きに、神様があなたを使ってくださいます。

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‥次の説教は‥‥
復活節第5主日(ヨハネ15:1-8)
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ちょっとひとやすみ
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▼教会の祈りを英語版で唱えるととんでもなく時間がかかる。最近夜更かしが辛い年齢なのに、教会の祈りを完了するために起きていることが多い。何だか本末転倒な気もする。
▼日本語版と見比べてすぐに分かることがある。共同祈願だ。共同祈願だから先唱があって応唱があるわけだが、ページがまたがる場合に応唱の表記法が違っている。日本語版ではページがまたがるとごていねいに次のページにも応唱を印刷している。
▼しかし英語版は、いっさいそんな気配りがない。ドライなのだと理解はするが、日本人の細やかさには感心する。

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今週の1枚
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第726回目。共同祈願のページの一部。またがっているページだが、応唱がない。

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復活節第3主日(ルカ24:35-48)私たちも「ここに何か食べ物があるか」と言ってみる

2021-04-17 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2021/4/18(No.1118)
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復活節第3主日(ルカ24:35-48)
私たちも「ここに何か食べ物があるか」と言ってみる
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「彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、『ここに何か食べ物があるか』と言われた。」(24・41)イエスが食べ物を願ったことが、今年は特に目に留まりました。いろいろと気付きがありましたので、皆さんと分かち合いたいと思います。

イエスの呼びかけをもっとくだけた言い方にすると「何かない?」ということでしょう。忘れられない思い出があります。当時赴任していた教会はすべての教会学校小学生を集めても五人くらいしかいない時代でした。その中に兄弟がいました。

お兄ちゃんは落ち着きのある子でしたが、弟は反対に何をしでかすか分からない子でした。二人とも自転車で教会に来るのですが、弟は自転車をそのまま放り投げ、教会までの階段を駆け上がります。お兄ちゃんが弟の自転車を立て掛けて弟を追いかけます。

弟が先に、司祭館にたどり着きます。この弟が司祭館の玄関を開けるなり、何と言うと思いますか?「ただいま!」と言うんです。考えられます?当時の賄いが「いらっしゃい」と迎えると、一目散に食堂に行きます。そのあとが傑作です。「賄いさん!何かなか?」

この弟は、「何かない?」と言いながら、司祭館の冷蔵庫をあさくって、めぼしい食べ物やお菓子に勝手に手を出します。賄いさんは孫のような子供達に親切ですが、主任司祭はたまったものじゃありません。こいつらのおかげで接待交際費をそうとう使いました。

「こいつらは自分を誰だと思っているのだろう?」当時はそんな風に考えていました。ここに居るのが当然だと思っているから、「ただいま」と言うし、「何か食べ物ないかな」と言っているのでしょう。確かに当時は、この騒がしい弟と、弟にいつも驚かされる兄がいるのが司祭館の日常でした。

復活したイエスも、呆気にとられている弟子たちに同じ言葉をかけました。「ここに何か食べ物があるか」(24・41)。イエスにとって、弟子たちと共にいること、弟子たちと共に同じ食べ物を食べることは、ごく普通の出来事、いつもの光景だったわけです。

復活したイエスが、ごく普通に弟子たちの前で振る舞われるのを見た時、弟子たちは自然と恐れから解放されました。「喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっている」(同上)彼らが、ようやく落ち着きを取り戻したのです。

実際は、十字架上での最後の場面に多くの弟子が立ち会っていません。逃げ出したのです。それでも逃げ出した弟子たちを責めることなく、いつも通り振る舞う復活した主を見て、力不足の弟子たちをいつも包んでくださっていたかつてのことを思い出したのです。

イエス・キリストは今も私たちのそばにいてくださる。弱い自分たちを何事もなかったかのように温かく受け入れてくださっている。その姿を見て、弟子たちはイエスの復活を頭でなく心で理解したのです。心で理解していなければ、出来事は書物に残らなかったことでしょう。

「賄いさん!何かなか?」という子供達を見て、当時は「お前の冷蔵庫じゃなかろうもん」と思っていました。しかしこの子たちは、私に復活したイエス様を見せてくださっていたのかも知れません。80段以上ある階段を走ってきて、司祭館と教会の敷地に飛び込んでくるのを当たり前のこととしている。よその子でそんなことが起こりうるでしょうか?復活したイエスが共におられる子供でなければ、決して起こらないと思います。

さて私たちは、「ここに何か食べ物があるか」という言葉をどう受けとめるでしょうか。今この場で、同じ声が聞こえるでしょうか。もし復活したイエスが「ここに何か食べ物があるか」と問いかけるとしたら、私たちはどう答えるのでしょうか?私たちに、復活した主に食べさせてあげる物を用意できるのでしょうか?

現代は、少し違うと思います。「ここに何か食べ物があるか」と問いかける主ご自身が、食べ物となってくださいます。つまり、「ここに何か食べ物があるか」と呼びかけるイエスご自身が「皆、これを取って食べなさい」と招いてくださるのです。

イエスご自身が食べ物となるのはなぜでしょうか。私たちの生活の「日常」となるためです。冷蔵庫を開ければ食べ物がある。それは私たちの日常です。イエスはご自身が食べ物となって、教会に集まり、ミサを共にささげ、聖体拝領する姿が私たちの「日常」となるために、心を砕いてくださるのです。私たちはイエスから「ここに何か食べ物があるか」と問われたなら、「はい。ここに食べ物があります」と、聖堂に集まり、祭壇を指差す信者でありたいものです。

ただ、もう少しすると、この田平教会聖堂は、耐震補強工事のために閉じられてしまいます。遠い先の話ではありません。それでも私たちは、「ここに何か食べ物があるか」というイエスの問いかけに答える準備をしておかなければなりません。耐震工事の期間中はおそらく信徒会館でしょう。そして工事が完了した暁には、またこの場所を使えるようになるでしょう。

イエスは最後に宣教の使命も託します。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる」(24・46-48)。

宣教と言うと、とても重く感じるかも知れません。ただ、これを一言で言うこともできます。出かけて行って、「ここに何か食べ物があるか」と言うのです。そして復活したイエスと同じく、「私が、あなたがたの食べ物となってあげましょう」と言って、教会へと導くのです。私たちはそのために、今日御聖体をいただくのです。

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‥次の説教は‥‥
復活節第4主日(ヨハネ10:11-18)
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ちょっとひとやすみ
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▼教会学校が始まった。ゆるしの秘跡を全体でおこなった。各クラスで習うことは違うが、「基本的な祈り」を理解すること、「神様を身近に感じる」そういうことを学んで欲しい、そういう始業のあいさつをした。
▼もう一つ、「神父様はふつうの日のミサで手伝ってくれる侍者が足りなくて困っています。眠れなくて、病院に行くかも知れません。こんな神父様を助けるために、ふつうの日に早起きできるお友だちはお家の人と相談して手伝ってください。」と投げかけてみた。
▼するとその場で、たくさんの子供が手を挙げてくれた。「本当に来るの?」と思っているわけだが、これが現実なら、今年度は侍者が多すぎて困るかも知れない。贅沢な悩みである。

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今週の1枚
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第725回目。「ここに何か食べ物があるか。」誇りを持って「はい」と答えよう。

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神のいつくしみの主日(ヨハネ20:19-31)見ないのに、見た人と同じくらい証しができますか

2021-04-10 | Weblog
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2021/4/11(No.1117)
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神のいつくしみの主日(ヨハネ20:19-31)
見ないのに、見た人と同じくらい証しができますか
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イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」(20・29)今年あらためてイエスがトマスにかけた言葉を読み味わって、聖書のみことばは何度読み返しても新しさがあると感じました。

数日前、老人ホームにミサに行きました。ミサの参加者は、当然のことですが先唱のお手伝いをしている職員を除いて全員高齢者です。高齢者と聞くと、動作が遅いと考えるかも知れませんが、祈りに関しては案外早口です。早口と言うより、早すぎます。

この日のミサは復活の八日間という期間だったので、平日でありながら「栄光の賛歌」があります。私が「天のいと高きところには神に栄光」と唱えると、皆さん一斉に競争です。「地には善意の人に平和あれ。われら主をほめ、主をたたえ、主を拝み、主をあがめ、主の大いなる栄光のゆえに感謝したてまつる。」まるで100m競争です。高齢者が、早口で唱えているのを見ていたら、今にも息が切れて死んでしまうのではないかと心配します。

私の正直な感想は「本当は、ゆっくり唱えられないのだろうな」というものです。動作はゆっくりで、じれったいのに、祈りは誰とも歩調を合わせず早口で唱える。これは実は、「ゆっくり唱えることができないのだ」と、私は見抜いています。

つまりこういうことです。「栄光の賛歌」をゆっくり唱えるためには、頭の中に祈りの文字がくっきり浮かんでいなければなりません。それをなぞるように、あるいは筆で書き写すようにゆっくり唱えることは、多くの高齢者には難しいのです。むしろ、誰よりもゆっくり唱えることのできる人、もっと言うと恐ろしくゆっくり唱えることのできる人のほうが、祈りを深く理解していると思います。

ここで、イエスがトマスにかけた先の言葉が浮かびます。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」トマスは心を閉ざして、他の弟子たちの話に耳を傾けることができなくなっていました。他の弟子たちが「私たちは主を見た」と言った時、素直に喜べなかったのです。

心を開いて、主が復活してくださったことを喜んでいたら、トマスはもっと偉大になれたでしょう。マルコ福音書が書き残した通りです。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」(マルコ9・35)広い心で、起こっている出来事を迎え入れることができたなら、「わたしの主、わたしの神よ」(20・28)という答えも、もっと輝いたことでしょう。

ここで一つ、まとめを作りましょう。祈りをよく覚えている人は、すらすら唱えることができます。しかし、それでもあえて、恐ろしいほど祈りをゆっくり唱えることのできる人のほうが、深く祈りを理解している人なのです。だからと言ってミサのときに「栄光の賛歌」を恐ろしくゆっくり唱える必要はありませんが、それができるだろうか?ということは、ご自分で確かめてみると良いと思います。

「地には善意の人に平和あれ。われら主をほめ、主をたたえ、主を拝み、主をあがめ、主の大いなる栄光のゆえに感謝したてまつる。」こんなスピードで、完璧に唱えきることができるでしょうか?皆さんはその境地までたどり着いているでしょうか。

「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」見ないのに、まるで見てきたかのように、すみずみまで描き切る。イエスのみことばをこの耳で聞いていないのに、まるで聞いたかのように語る。トマスだけでなく、他の弟子たちも、自分が見たこと聞いたことを次の世代に宣教し、語り継ぎます。

そして何世代か入れ替われば、直接見聞きした人は誰も居なくなります。それでも、「見ないのに信じる人は、幸いである」そんな弟子に育っていく人たちがいて、今の教会が成り立っているのです。

私たちの中で、教皇聖ヨハネ・パウロ二世と、教皇フランシスコを直接見た人は結構いるはずです。けれども何十年かすれば、両教皇を直接見た人は居なくなります。教皇様が司式してくださったミサに参加した時のあの一体感を、私たちは次の世代にちゃんと伝えることができるでしょうか?受け取ってくれる相手が、次の何十年間、来日した教皇様を生き生きと伝えられるかどうか。これはまさに私たちにかかっているのです。

たとえば「信仰宣言」を、どんなに遅い速度ででも唱えることができる。それくらい体に覚え込ませてください。そうすれば、どんなに教会から遠ざかっている人にでも、あなたの信仰は伝わるでしょう。その時あなたは、真の意味で「見ないのに信じる人は、幸いである」とイエスから喜んでもらえる人になれるのです。

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‥次の説教は‥‥
復活節第3主日(ルカ24:35-48)
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‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
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▼脚本家の橋田壽賀子さんが亡くなり、すぐにあちこちのテレビ局が特集を組んだ。インタビュー番組の中で、「これまでひっきりなしに記事の依頼があり、それを断るのが楽しい側面もあったが、ある時からぱったりと記事の依頼が無くなった。その時に『あー、私は世の中に必要なくなったのかしら』と感じた」というやり取りがあった。
▼橋田さんの言葉から、「世の中に必要とされる」というのは生きる大きな原動力だと理解できる。世の中に必要とされているから頑張れるし、やりがいを持って生きている。それでも何かの変化で、今まで頼みに来てくれていた人が来なくなり、今までその人なりに与えられた「舞台」に立っていた人が舞台を降りる時もやって来る。
▼その時「もう生きている意味が無い」と感じるか、「もう一段高い要求が来た」と感じるかはその人次第だ。誰からも頼まれごとをされなくなった時、私はそれを受け入れることができるだろうか。受け入れることができるように、すでに受け入れている人に教えを請うことにする。

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今週の1枚
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第724回目。カタツムリがすでに出現。「恐ろしくゆっくり」を学びたい。

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復活の主日(日中)(ヨハネ20:1-9)沈黙の中に声を聞いた人に、復活の主は答えてくださる

2021-04-03 | Weblog
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こうじ神父
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2021/4/4(No.1116)
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復活の主日(日中)(ヨハネ20:1-9)
沈黙の中に声を聞いた人に、復活の主は答えてくださる
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あらためて主の御復活おめでとうございます。病人訪問で、「御復活と聖霊降臨は雨が降るんですよ」と話していた方がいました。説教を書いている時点では予報は雨でしたが、果たしてどうなっているでしょうか。

先日聖香油のミサに参加した帰り、私は「復活の出来事」を身近に感じる体験をしました。大司教館のFで始まる名前の神父様から、「中田神父様、あんた隠し事のなかね?最近おたくの頭を見る度に、『生えてきたなぁ』って思うとよ。まさか、『ニューモ』ね?」

これには参りました。「ニューモ」は使っていません。「死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」(ルカ15・24)この聖書の言葉を体験させてくれたF神父様には、私が使い始めた「コスモス」で売られているシャンプーを送りたいと思います。

今年は沈黙の中にメッセージを読み取ろうとしています。朗読では「マグダラのマリア」だけが声を上げます。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」(20・2)

もちろん、主イエスは墓から取り去られたのではありません。墓においでになりませんが、状況を理解する方法は二つあるでしょう。

一つは、マグダラのマリアをもう一度墓に連れて行って、現場検証をすることです。彼女からあらためて話を聞き、彼女の証言から本当に起きていることを突き止める方法です。

もう一つは、マグダラのマリアの証言が表面的なものかも知れないので、弟子たちが独自に墓を調べて、証言の向こうにある出来事を突き止める方法です。実際弟子たちは、マグダラのマリアの証言にあまりとらわれず、その向こうにある真実を捉えようと墓に向かったのでした。

それはつまり、言葉が伝えてくれたことにとらわれず、沈黙を保っている空の墓に、耳を傾けに行ったということです。沈黙を保っている墓に、弟子たちが真実を捉えるヒントがある。一つも漏らさないようにと神経を集中して、ついに真実を捉えたのです。「それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。」(20・8)

沈黙の中で答えを探す経験は、誰もが通る道です。私は現役主任司祭を肺炎で失ったことがありました。私たちだけを残して、いったいどうすれば良いのですか?沈黙の中に答えを探さなければなりませんでした。

こんな私たちを、イエスは導いてくださいます。「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。」(20・9)今でしたら、イエスのみことばが入ってきます。沈黙の中で、神は必ず答えを示してくださると。

私たちが信頼して耳を澄ませば、答えを聞かせてくださる。復活した主は、今も人間的な思い込みの声を外に出した沈黙の場所で、空の墓で答えてくださり、希望と慰めを与えてくださるのです。

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‥次の説教は‥‥
神のいつくしみの主日(ヨハネ20:19-31)
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ちょっとひとやすみ
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▼今年の聖週間は苦労して過ごした一週間だった。昨年「受難の主日(枝の主日)」からちょうど公式ミサが中止となった。だから典礼行事はしたけれども最終の打ち合わせも無かったし、そもそも時間に終われる必要も無かった。
▼すると実質は2年ぶりの公式行事となる。だからてんやわんやだった。たとえコロナ禍であっても、礼拝だけは途切れさせたくないものだ。人間は忘れやすい生き物だから、一年あいだが開くと本当に思い出せなくなる。

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今週の1枚
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第723回目。台風で徹底的に痛めつけられた藤の木から、復活の新芽が出た。

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復活徹夜祭(マルコ16:1-7)あなたは何に死んで、復活の神秘を掘り下げますか

2021-04-03 | Weblog
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復活徹夜祭(マルコ16:1-7)
あなたは何に死んで、復活の神秘を掘り下げますか
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主の復活おめでとうございます。B年マルコ福音書を頼りに、今年の復活の喜びまでの道を辿ってきました。四旬節第4主日あたりからしきりに触れてきたことですが、「沈黙を守るイエス」からも、栄光の姿を読み取る信者に成長する必要があります。

今年の学びを得るきっかけとして「教会の祈り」に目を向けたいと思います。司祭や奉献生活者が日頃から唱えているものに「教会の祈り(または時課の典礼)というものがあります。日本語に翻訳されていますが、実は海外のものと比べると不完全です。日本語版は、一年中の季節を一冊で済ませようとした簡略版すが、外国語版、たとえば英語版は四冊に分かれていて、待降節・年間主日①・四旬節と復活節・年間主日②となっています。

この半年、試みに海外の物を使っております。もちろん外国語ですからお祈りが完璧に理解できているわけではありませんが、日本語版では到底気付けなかった部分が見えます。英語版の教会の祈りで一つ取り上げると、「四旬節と復活節とは、離れがたく一つに結ばれている。いわば表裏一体なのだ」ということです。

教会の祈りの特徴は詩編をふんだんに唱えることです。毎日、朝の祈り・昼の祈り・晩の祈り・寝る前の祈りと唱え、更に読書の祈りも加わります。これらの祈りにふんだんに詩編が用いられているのです。

手元にあるこの「四旬節・復活節用」の、「読書の祈り」第一朗読を唱えながら、「へぇ。こうなってるんだ」という気付きがありました。詩編を唱える前に先唱があるのですが、四旬節中に使う先唱と、復活節中に使う先唱とでは、「アレルヤ」が付くかつかないか、それだけしか違いがないのです。

日本語の教会の祈りですが、同じ「読書の祈り」の第一朗読に添えられている先唱は、例外を除いて残念ながら一年中同じ箇所を唱えています。四旬節と復活節が表裏一体であるということを連想させる作りにはなっていません。今後、本来の姿、つまり四冊セットの完全版ができることを心から願っています。

さて教会の祈りの完全版が私に気付かせてくれたことは、「四旬節と復活節とは、離れがたく一つに結ばれている。表裏一体だ」ということでした。四旬節に唱えていた「読書の祈り第一朗読」に添えられている先唱に「アレルヤ」を付け加えるだけで、そのまま復活節の「読書の祈り第一朗読」に変身する。これは何を意味しているのだろうか。その答えを探し求めながら、四旬節の期間祈りを唱えていたのです。

そしてようやく、この原稿を用意する直前に答えらしきものが見えました。それが、先ほどから言っている「四旬節と復活節は、表裏一体なのかな」という思いでした。もう少し踏み込んで言うと、イエスの受難と復活は表裏一体だと、完全版の教会の祈りを唱えていて気付いたのです。

もしこの仮定が的を射ているなら、私たちの日々の苦しみにも光が差します。誰でも何かしら体の不調があり、また病気を抱え、障害を抱えています。いっさい体の不調がない完璧な肉体をもつ人などまずいないでしょう。完璧な肉体をもつ人が仮にいたとしても、その人はきっと、僅かな体の不調を持つ人さえ理解できないかも知れません。

私は見た目には健康そうにしていますが、四種類の薬を服用しています。尿酸値を下げる薬、血中コレステロールを低下させる薬、更には血圧を下げる薬も服用しています。「薬を日頃から持ち歩く生活になったらもうおしまいだ」と、若い頃は本気で思っていました。

けれども今、薬を持ち歩く生活が日常になってみるとよく分かるのです。薬を服用している人の気持ちなど、何も気にしていなかった。自分が同じ立場になって、かつては「薬を何錠も飲む人の人生はもう終わっている」と思っていたけれど、そうではない。「その人生は終わっている」と決めてかかっていた生き方にいったん自分を置いて、初めて見える世界があるということです。

今なら、薬を飲み始めたという人に、こう言ってあげるでしょう。「ようこそ。」自分が、受け入れられないと言っていた状態に一旦死んでみて、人は初めて復活するのです。
イエスが先に、死と復活が切り離せないもの、表裏一体だと証明してくださいました。私たちもこれまで思い描いていた自分に死ぬことで、復活の栄光にあずかる者となれます。

どれだけ働いても疲れなかった人が急に倒れて入院し、退院して初めて仕事の量を考える人になる。一度死を味わったことで、その先の復活を体験できたのです。

神の使いも言っています。「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」(12・6)いろんな思い込みに死ななければ、私たちはイエスが招く場所にたどり着けないのです。

復活の喜びをしみじみと味わうために、私たちは何かの形で死を味わうべきだと思います。故意に命を危険にさらす必要はありませんが、思い込みや偏見は、一度死ぬべき最上位のものです。今年も、復活の喜びを深く掘り下げる材料を探しましょう。私たちが更に一つ、何かに死ぬならば、そこで味わう苦痛や惨めさや沈黙を通して、復活の神秘をより深く学ぶことになるのです。

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‥次の説教は‥‥
復活の主日(日中)(ヨハネ20:1-9)
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ちょっとひとやすみ
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▼今年、受難の火曜日に行われた「聖香油ミサ」からの帰り、大司教館に立ち寄った時のこと。大司教館におられる「法務担当司祭」の司祭から声をかけられた。私からすれば雲の上のような存在の先輩司祭だ。その先輩が奇妙なことを私に言うのだ。
▼「中田さん。正直に言ってみて。何か隠し事をしてないか?」私も過去を追求されて何もホコリが出ない聖人ではないので、一瞬青ざめたが、次の言葉で吹き出しそうになった。「中田さんの頭、教区行事のたびに眺めているけれど、最近『うぶ毛』が生えてきてるよね?何かした?ひょっとして、ニューモ?」
▼「そんなの何もしてませんよ。ただ、シャンプーはたしかに変えました。」そう答えるとシャンプーを詳しく聞いてきた。そこで「コスモス」に買いに行って、プレゼントしようと思っている。突然聞かれたことが「頭髪」のことだったので、拍子抜けした。

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今週の1枚
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第722回目。聖金曜日、食卓に並んだ。何もないところから生えてきた?

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聖金曜日(ヨハネ18:1-19:42)イエスはなぜ沈黙のうちに死ぬのか

2021-04-02 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2021/4/2(No.1114)
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聖金曜日(ヨハネ18:1-19:42)
イエスはなぜ沈黙のうちに死ぬのか
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主の御受難を、ヨハネ福音書の朗読で辿りました。今年の典礼暦はB年ですから、黙想するためには受難の主日に朗読されたマルコ福音書第15章を用いたいと思います。

受難の主日で指摘したように、マルコ福音書の受難の朗読で、イエスは最初と最後の言葉だけしか記録されていません。沈黙の中に、救い主の私たちへの愛を見なければなりません。次第にすべてを奪われていく中に、救い主の私たちへの愛を見なければなりません。

葦の棒で頭を叩かれ、ひどい言葉で侮辱され、衣服を剥がされ、罪状書きが貼られた十字架にはりつけにされ、ののしられる。それらの姿の中に、救い主の私たちへの愛を見なければなりません。どうすればあれほどの惨めさの中に、神の愛を見ることができるのでしょうか。それはただ一つ、「沈黙によってのみ」見ることができるのだと思います。

昨年末、大分教区の教区長浜口末男司教様が亡くなりました。大神学生時代に上五島の大曽教会に浜口神父様がおられてたいへんお世話になったので、葬儀ミサに出席したかったのですが新型コロナウィルスの影響で叶いませんでした。たいへん慕われていた司教様でしたのでだれもが出席したかったはずです。

葬儀ミサに出席できなかったので、平戸地区の司祭たちは同じ日、同じ時間に追悼ミサをささげました。そのミサの中で平戸地区長の山村神父様が次のような思い出を語ってくれました。「私山村神父がいちど命の危険にあった時、たいへん怖い思いをしたとその時のことを当時の浜口神父様に話したことがありました。すると浜口神父様は表情を変えずにこう諭してくださいました。」

「『山村神父様の覚悟はその程度か?司祭はすべて、司祭になった瞬間から、イエスのためにいつ命をささげてもよい。この覚悟ができていないといけない。』私山村神父は、浜口神父様の言葉を聞いて、深く心を打たれたのです。晩年浜口司教様がご自身の病気を誰にも一切知らせず、沈黙の中で最後まで命を燃やし尽くしたことも、かつての体験と重ねて納得できたのです」と話してくれました。浜口司教様は、教区民すべてのために、ご自身による沈黙のおささげで遺言を託されたのです。

このあと行われる十字架の礼拝で、布を剥いでいくしぐさがあります。すべてが失われる姿を現しています。今日、聖櫃には御聖体が収められていません。この祈りの家を聖なるものとしている御聖体も取り去られているのです。あらゆるものが取り去られて、何も残っていないのでしょうか。

そうではありません。私たちを救おうとされるイエスの愛は、決して奪われないのです。すべてを奪われているのは、沈黙によってイエスの愛を見るためです。この静けさの中に私たちもしばし身を置いて、沈黙の中で神の愛を確かめることにしましょう。

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‥次の説教は‥‥
復活徹夜祭(マルコ16:1-7)
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ちょっとひとやすみ
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▼聖金曜日の典礼の初めは、司祭が床にひれ伏す、あるいは祭壇に深く礼をすることから始まる。これは私の理解では、イエスの死に倣うことだ。中田神父は床にひれ伏すことを選んでいる。ただ中田神父が床にひれ伏す時の思いはその年によって違っている。
▼ある年は、司祭叙階式のときに床にひれ伏した時と思いを重ねていた。司祭に叙階されるとは、イエスの死により一致することだと考えていた。その当時を振り返りながら、床にひれ伏し、昨年の聖金曜日からこの一年、本当にイエスの死に一致しようとしていただろうかと振り返っていた。今年はどのような思いに重ねて床にひれ伏すのだろうか。

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今週の1枚
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第721回目。今年も、午後3時に十字架の道行の典礼を行う。主任司祭が担ぐ。

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聖木曜日(ヨハネ13:1-5)どこまで互いに足を洗い合うことができるのか

2021-04-01 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2021/4/1(No.1113)
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聖木曜日(ヨハネ13:1-5)
どこまで互いに足を洗い合うことができるのか
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聖木曜日、今年は新型コロナウィルスの影響を考慮して洗足式を中止しました。この最後の晩餐に行われたことは、主イエスの受難を前にして、生きて伝えることのできる最後の遺言です。互いに足を洗い合うこと、ご自分を食べ物として、弟子たちに与え尽くすこと、この両方に、生きている間に残すべき教えがすべて込められていたのです。

まず、最後の晩餐で残してくださった聖体の秘跡について考えましょう。主は私たちのために、聖体の秘跡と、そのための儀式を残してくださいました。主が与えることのできるものの中で、最も尊いものを残してくださいました。

いちばん大切なものを残す時、方法はいろいろ考えられたでしょう。その中で「人の命」に繋がる「食べ物」の形をイエスは選ばれました。しかも単純な食べ物ではなく、「イエスご自身」を食べ物として与えようとされたのです。

この説教を考える時に、ふと思い出したのは使徒言行録に記されている「ペトロ、ヤッファで幻を見る」という場面でした。ペトロがヤッファの町に近づいたころ、祈るために屋上に上がっていると我を忘れたようになり、幻を見ます。そこで神と対話する場面は以下の通りです。

「(ペトロは我を忘れたようになり)天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、地上に下りて来るのを見た。その中には、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていた。そして、『ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい』と言う声がした。しかし、ペトロは言った。『主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません。』すると、また声が聞こえてきた。『神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。』こういうことが三度あり、その入れ物は急に天に引き上げられた。」(使10・10-16)

イエスは最後の晩餐でご自身を食べ物としてお与えになりました。「取って食べなさい」と言われました。ただ、イエスご自身を食べるということは、いつも楽しいことばかり、口に甘いことばかりではないと思うのです。

できれば食べるのを避けたい。逃げようとする弱さを乗り越えて、イエス・キリストを食べて生き続ける。そのような生き方、証の生活を私たちは遺言として与えられたわけです。主が与えてくださった食べ物を、「主よとんでもないことです。これは食べられません」と拒まず、糧としていく。いつかそのような日が来ると考える時に、責任を伴う遺言であったことが分かります。

次に、イエスが弟子たちの足を洗う場面を考えてみましょう。「聖体の秘跡」が「儀式の形で与えられた愛の掟」だとすると、互いに足を洗い合うことは「儀式にとらわれない、その場で求められる愛の掟」と言えるでしょう。イエスが最後の晩さんで残してくださったのは、儀式を伴う愛と、儀式を伴わない愛。どちらでもイエスの愛を残してくださったのです。

イエスが弟子たち全員の足を洗ったのであれば、イスカリオテのユダの足も洗ったことになります。イエスはユダの心の中をご存知です。すでに裏切る考えが植え付けられていました。人間的に見れば、「何でこの人のために身をかがめなければならないのだ」と思っても不思議ではありません。

弟子たちにとっても、ユダが信用できないという思いがあったでしょう。12章6節では「彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである」となっています。なぜこんな奴のために、先生が身をかがめなければならないのだ」という思いだったでしょう。

人にはお互い相性がありますから、理解できない人には心を開けません。また、人からガッカリさせられたことをいつまでも引きずって、その人のために身をかがめ、足を洗い合うことが受け入れられない場合もあります。イエスはきっと、将来そうしたことが起こることも織り込み済みで、「最後の晩さんの聖体の秘跡」をお定めになったのです。

ここに集まっている私たちは、最後の晩さんの中で与えられたものを、イエスからすべて受け取らなければなりません。「儀式の中での愛は受け取るけれども、儀式を伴わない愛はできない」とか、その反対も、イエスの遺言の片方だけで終わってしまうことになります。

「これを取って食べなさい」「これを受けて飲みなさい」イエスの招きに、十分に応えられるように、このミサの中で恵みを願ってまいりましょう。

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‥次の説教は‥‥
聖金曜日(ヨハネ18:1-19:42)
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ちょっとひとやすみ
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▼原則から言えば、「聖木曜日」に「聖香油ミサ」が行われる。ただ長崎教区は受難の火曜日に実施した。そしてミサの終わりには新司祭・銀祝・金祝・ダイヤモンド祝の司祭のお祝い式を簡素ながら実施した。
▼田平教会は、出身の神父様がダイヤモンド祝を迎えていたが、健康上の都合で出席できなかった。それで聖香油ミサ後に大司教館に住んでおられる師にお祝いを届けに行った。それと、田平小教区でもお祝いを計画したいと伝えると、師のほうから次のように提案があった。
▼「最後の奉公と思ってお願いしたいことがあります。召命のために話をする場を用意してもらえないでしょうか?」「もちろんです」と返事をして、持ち帰って検討したいと思う。平戸地区の子供達を招いてあげると、師の思いがさらに実を結ぶかも知れない。

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今週の1枚
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第720回目。あらためて銀祝のときに発注した祭服の紹介。夏用なので三色。

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