こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第21主日(マタイ16:13-20)私にとってでなく、私たちにとってイエスとは誰か

2023-08-26 | Weblog
当ブログをお読みくださり、ありがとうございます。

■■YouTubeチャンネル登録はこちら■■
https://www.youtube.com/channel/UCYRgrlA29PNjJmB0gngYQqA

↓↓聖週間の説教一覧はこちらから↓↓
ご覧ください。
http://ss104313.stars.ne.jp/

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://ss104313.stars.ne.jp/voice/230827.mp3
(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
2023/8/27(No.1253)
‥‥‥†‥‥‥‥
年間第21主日(マタイ16:13-20)
私にとってでなく、私たちにとってイエスとは誰か
‥‥‥†‥‥‥‥

8月27日、学生たちはすでに二学期が始まっているそうで、忙しいなぁと思います。8月31日までしっかり休んでいた頃の記憶は、遠い昔の話になったようです。夏休みの間に日頃会わない人と出会ったことでしょう。その機会に一緒にお祈りしたり、一緒にミサに参加できたなら、貴重な信仰体験になったと思います。

福音朗読はペトロが信仰を言い表す場面でした。弟子たちは、人々が言っている評判を伝えます。人々は「洗礼者ヨハネ」「エリヤ」「預言者の一人」など、優れた人物の一人と言っていました。一般の人々にとってイエスは、「偉大な人物の一人」にとどまっていたのです。

しかし弟子の頭であるペトロは違っていました。「あなたはメシア、生ける神の子です」(16・16)と答えます。その答えは、イエスが「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」(16・17)と指摘したとおり、天からの照らしを受けての答えだったのですが、「偉大な人物の一人」にとどまらない立派な答えでした。

人が何かを言い表した時、それはその場しのぎであってはいけません。言葉に責任を持つ必要があります。説教のあとに私たちは信仰宣言をします。「天地の創造主、全能の父である神を信じます。」ミサの中で父なる神を信じますと言っておきながら、ミサを終えて一歩教会の外に出た途端に神をないがしろにする人のような態度(人の悪口を言ったり人を軽んじたり)、そうした態度を取るべきではありません。生涯、父である神を信じる者として言葉に責任を持つべきです。

ペトロは表明した自分の信仰に忠実であろうとしました。熱心さのあまりイエスに叱られることもありましたが、「あなたはメシア、生ける神の子です」この信仰に恥じない生き方を貫こうとしました。これは私たちへの模範でもあります。私たちも、イエスを誰だと思っているかみずからに問いかけ、その信仰に忠実に生きなければなりません。

「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」(16・15)弟子たちはそれぞれ、何かしらの答えを持っていたでしょう。ただ「自分よりも立派な答えを他の弟子に言われるかも知れない。それは嫌だなぁ。」そんな余計な考えが邪魔をしていたのかも知れません。

そんな中で、ペトロが答えます。「あなたはメシア、生ける神の子です」。ペトロは自分にとってイエスが誰なのかを答えたというより、「自分たちにとって」イエスは誰なのかを答えてくれました。他の弟子がどう答えるかは分からない。けれども、弟子を代表して、「自分たちにとってすべてである方」そう思った時に天の父の照らしによって答えることができたのです。

「私にとってイエスは誰か」それは、狭い考えに陥るかも知れません。「私たちにとってイエスは誰か」を考えてみましょう。あなたの家族にとってイエスはどんな存在ですか。私たちの教会家族にとってイエスはどんな方ですか。それがしっかり答えられるようになったら、生涯にわたってその答えに忠実であり続ける努力を重ねていきましょう。

責任も任せられることもあるでしょうが、「あなたは幸いだ」という約束の言葉をイエスから受け取ることになるのです。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
年間第22主日(マタイ16:21-27)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼YouTubeのショート動画を見たことがあるだろうか。それぞれ工夫を凝らして、たいてい10秒くらいで楽しめるように作られている。そこで中田神父も挑戦してみたが、最初の「短い動画」は「ショート動画」に区分されず、「通常の動画扱い」となった。
▼どうしてだろうと、そこからようやく調べ始めたのだが、そもそも「縦の動画(あるいは正方形)」でなければ「ショート動画」と認識しないらしい。失敗したので、次回は縦の動画を撮影して、ショート動画の練習としたい。それがうまくいったら、下五島のいろんな場所を題材にショート動画を用意できたらと考えている。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第860回目。玉之浦教会を訪ねた時の写真。まだここでミサをささげていない。

ホームページもご覧ください。
http://ss104313.stars.ne.jp/


† 神に感謝 †
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

年間第20主日(マタイ15:21-28)神の計画に従う信仰、機知に富んだ彼女の信仰

2023-08-17 | Weblog
当ブログをお読みくださり、ありがとうございます。

■■YouTubeチャンネル登録はこちら■■
https://www.youtube.com/channel/UCYRgrlA29PNjJmB0gngYQqA

↓↓聖週間の説教一覧はこちらから↓↓
ご覧ください。
http://ss104313.stars.ne.jp/

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://ss104313.stars.ne.jp/voice/230820.mp3
(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
2023/8/20(No.1252)
‥‥‥†‥‥‥‥
年間第20主日(マタイ15:21-28)
神の計画に従う信仰、機知に富んだ彼女の信仰
‥‥‥†‥‥‥‥

持ち物を売り買いするサービスで「メルカリ」というのがありますね。中田神父も利用したことがありますが、なんとこのサイトに、私の説教集「取って食べなさい」がABC年三冊セットで売りに出されていたんです。

初め、「けしからん!」とムッときたのですが、考え直しました。説教集を売りに出した人も十分味わったはずだ。せっかくだから、他の人にも味わってもらおう。そう考えたのだと受けとめることにしました。

説教集「取って食べなさい」がどうなるのか、しばらく様子を見ていますと、なんと中古の本であるにもかかわらず千円でどなたかが買い取ってくれていたのです。読者が増えることは有難いことです。

説教集「取って食べなさい」で引っ張りますが、最初は説教集を作る予定などありませんでした。伊王島馬込小教区に赴任した際、すぐに司祭館建設の話が持ち上がりました。司祭館落成が見通せる頃、建設に協力いただいた小教区の皆さん、寄附をくださったたくさんの方々に感謝のしるしが必要でしたが、これといって特別なものが思い浮かばなかったのです。

そこで役員に、「説教集を作れば、ここまでの司祭館建設のいきさつも盛り込んだ記念品が用意できるよ」と投げかけました。ではそうしましょうと二つ返事で決まりまして発行に至ったわけです。本来は司祭館建設に関わった方への返礼の品でしたので、関係する場所や人に行き渡るだけの部数を用意しました。用意した部数はすぐに無くなりました。

ところが「取って食べなさい」には続きがありました。司祭館建設の御礼として出したのは「B年・C年」の二冊でしたが、当時の馬込小教区の信徒におだてられて「A年も発行してください。新しい司祭館に住みながら生まれてきた説教を読みたいです」と言うのです。上手に言うよね。そこで、小教区の分だけ用意してみたのですが、協力いただいたほかの方々からも「ABC年揃えたい」ということになり、追加で印刷する運びとなりました。

その後も声がかかりまして、ABC年三種類とも追加印刷をしましたが、今現在は残っていません。馬込教会の後、浜串、田平、そしてこちら福江にお世話になり、それぞれで配ってもうどこにも在庫はありません。

しかしそれでも、願う人はいるのですね。「もう残っていないのですか?」私はそう言われて、製本するには100万円単位のお金が必要なので難しいけれども、答えるる方法を思い付きました。パソコンが必要になりますが、PDFファイルでしたらお渡しできます。こんな感じです。

イエスは、今週の箇所で、カナンの女性から「私たちがあなたのいつくしみに与る方法はないのですか?」と求められて、マルコ福音書の該当箇所では「それほど言うなら、よろしい。」(マルコ7・27)と答えておられます。イスラエルの民が優先順位は高い。けれども救いの計画の順番を壊さないなら、よろしい。そうしてイエスも女性の願いに答えてくださいました。

「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」(マタイ15・27)無理を承知で何かを願う時、「主よ、ごもっともです」と素直に認める信仰をまず持ちたいものです。その上で、「それほど言うなら、よろしい」と応じてくださる願い方があるのだと思います。私たちも、常に機転の利いた言葉で信仰の恵みを願いましょう。教会の善のために、神の力あるわざを願いましょう。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
年間第21主日(マタイ16:13-20)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼甲子園大会真っ盛り。長崎県代表は負けてしまったが、17日の四試合は非常に見応えのある試合だった。応援しているのは(長崎県代表を除けば)岩手県代表。監督の子が強打者という触れ込みで、どこまでチームを引っ張ってくれるか楽しみにしている。ちなみに19日に行われる準々決勝では宮城県代表との東北対決だ。
▼今年は高校生と縁がある。地域の魅力を学びたいということで15日に男子高校生が福江教会についてインタビューにやって来た。19日にはスタンプラリーに井持浦教会を含めたいので協力をお願いしますとやって来る。高校生は熱気があり、輝いている。人生の貴重な経験として、出会いの時を活用してほしい。おじいさんも、喜んで協力する。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第859回目。福江教会ルルドのマリア様。日没後の撮影で、影が強かったかも。

ホームページもご覧ください。
http://ss104313.stars.ne.jp/


† 神に感謝 †
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

聖母の被昇天(ルカ1:39-56)神の計らいを信じ、真っ直ぐに生きる人

2023-08-14 | Weblog
当ブログをお読みくださり、ありがとうございます。

■■YouTubeチャンネル登録はこちら■■
https://www.youtube.com/channel/UCYRgrlA29PNjJmB0gngYQqA

↓↓聖週間の説教一覧はこちらから↓↓
ご覧ください。
http://ss104313.stars.ne.jp/

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://ss104313.stars.ne.jp/voice/230815.mp3
(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
2023/8/15(No.1251)
‥‥‥†‥‥‥‥
聖母の被昇天(ルカ1:39-56)
神の計らいを信じ、真っ直ぐに生きる人
‥‥‥†‥‥‥‥

下五島地区の教会を、この四ヶ月つとめて見て回りました。その中で、貝津教会だけ一度目にたどり着けず、二度目の教会巡りでたどり着きました。国道384号線を進んでいくと、貝津教会に分かれる道があります。写真、前は見えると思いますが遠くの人は聖体拝領の時にでも見てください。

この写真を見ると、「ここから貝津教会」というのは分かるはずなのですが、250ccバイクで流しているとマリア様の大きな御像だけが目に入り、「おや?こんなところにマリア様だけぽつんと立っている。保育園も見えないし、どうしてだろう?」考えるうちに通り過ぎて、そのまま国道を進んでしまいました。結局この日は着けずじまいでした。

違う日に、再度貝津教会目指してバイクで出かけました。バイクを停め、気になって写真に収めたマリア様がこれです。そのときようやく貝津教会の案内板に気づき、通り過ぎてしまったのだと分かりました。マリア様に見とれて道を間違えた経験でした。見とれた経験ありますか?

どうすれば、間違えることなく貝津教会に行けたのでしょうか。本日の福音朗読によると、「そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した」とあります(1・39-40)道に迷わず、エリサベトに挨拶しています。考え事をしていたらこうはいかなかったでしょう。

マリア様は神の不思議な働きかけのことだけを考えていたのでしょう。本来なら、出来事を受け入れてヨセフは何か言われないだろうか。ヨセフとの生活は続けられるだろうか、いろいろ考えたはずです。ところがマリアは、迷いは一切横に置いて、ただ一つ、神の不思議な働きかけを喜び合えるエリサベトを訪問することだけ考えたので、道に迷わなかったのです。

神は必ず、目を留めてくださる。心に掛けてくださる。必要なことを見つけたなら、あとは神様に全面的に信頼する。中田神父もそのようにして貝津教会を目指していたら、道に迷うことはなかったのでしょう。

天に上げられたマリアは、私たちが生涯を通じてどのように生きるべきか、模範を示されました。この世では低くされて生きている人、常に主を畏れ敬いつつ生きる人に神は目を留めます。だから神の憐れみ深さを一心に信じて、他のことには気を取られずに生きる。これが大切です。

このように生活する中で教会に集うひとときは、同じ思い、同じ喜びを体験した人と出会うひとときです。ここに集まった人は皆、神が私に目を留めてくださっていることに気づき、感謝しに集まった人です。神が見守っているかどうか気づかないままここに集まっていても、少なくともその人も神が呼び集めてくださった人です。

すると、ここに集まって神の計らいを喜び合う私たちは、だれもがエリサベトであり、だれもがマリアなのです。私たちはマリア、エリサベトなのですから互いに神をほめたたえ、平和のあいさつを交わしましょう。

私たちと私たちの先祖は教会に集い、互いに神のはからいを喜び合いました。残るは「わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに」(1・55)これが実現するために私たちの応答、次の世代への信仰伝達が必要です。

神のいつくしみ、計らいがとこしえにあることを一心に信じて、次の世代も途切れることなくこの聖堂に集まる。こうして私たちは天に上げられたマリアの生き方は正しいと世に証しし、私たちの人生を幸いな人生とすることができるのです。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
年間第20主日(マタイ15:21-28)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼八月から、A4の用紙ギリギリに収まる内容に説教を抑えている。暑いということもあるが、聖書愛読(詩編)を実施しているので「ミサが長い」との不満が出ないように主任司祭も協力している。
▼奉献文も、司祭の練習も兼ねて主任司祭は第三奉献文を使っていたのをやめて、第二奉献文を使っている。全体で7分くらいは短くなる。と言っても助任二人にはかなわない。助任司祭たちはそもそも説教は短いし、奉献文を唱えるのもささっと唱えている。主任司祭が努力して45分で収めているところを40分で終わる。見事としか言いようがない。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第858回目。迷子になった分かれ道。マリア様に見とれて、真っ直ぐ通った。

ホームページもご覧ください。
http://ss104313.stars.ne.jp/


† 神に感謝 †
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

年間第19主日(マタイ14:22-33)イエスから「数段難しい課題」を与えられたら

2023-08-11 | Weblog
当ブログをお読みくださり、ありがとうございます。

■■YouTubeチャンネル登録はこちら■■
https://www.youtube.com/channel/UCYRgrlA29PNjJmB0gngYQqA

↓↓聖週間の説教一覧はこちらから↓↓
ご覧ください。
http://ss104313.stars.ne.jp/

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://ss104313.stars.ne.jp/voice/230813.mp3
(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
2023/8/13(No.1250)
‥‥‥†‥‥‥‥
年間第19主日(マタイ14:22-33)
イエスから「数段難しい課題」を与えられたら
‥‥‥†‥‥‥‥

井持浦教会から福江に帰るとき、大宝地区で三叉路になりますね。井持浦からですとこの三叉路を左に曲がって福江に帰ります。これまで三叉路から右の道を使ったことはなかったのですが、好奇心にかられて、主任司祭が休暇を入れている水曜日にバイクで三叉路までやって来て、その先をまっすぐ走ってみました。

なんとか福江には帰り着きました。帰り着きましたが、まぁ遠いこと。自動車学校のそばを通ったことだけは覚えていますが、あとはどこをどうやって帰り着いたのか、まったく覚えていません。もう二度と、あの道は通らないでしょうね。

ミサ中の福音朗読は、説教するのが難しいときがあります。今週の「湖の上を歩く」という物語がまさにそうです。私たちに当てはめやすい物語はよいのですが、水の上を歩くイエスと、「水の上を歩いてそちらに行かせてください」(14・28)と願うペトロを、どのように当てはめたら良いのか。ずいぶん苦労しました。

こう考えてみました。私たちが「数段難しい課題を与えられた時」どのように向き合えば良いのかをイエスは問うている。今週の朗読をこのように考えてみました。それが「もう一段難しい課題」でしたら、努力を重ねれば、また長い年月をかければ、できるようになるかも知れません。しかし「数段難しい課題」は、どれだけ努力しようと、年月を重ねようと、たどり着けないと感じるのではないでしょうか。

ペトロは、「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」と願いました。これは「もう一段難しい課題」だったでしょうか。ペトロの願いは「数段難しい課題」であり、努力などではとてもたどり着けない願いだったのです。

イエスは、「無茶言うなよ」と言いましたか?「来なさい」(14・29)と言ったのです。常識的に考えれば、「来なさい」とは言いませんよね。ここに、「数段難しい課題を与えられた時」の振る舞いかたが示されているのです。それは、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」(14・27)この言葉を全面的に信頼するということです。

中田神父はこの30年で、「もう一段難しい課題」をイエスから次々与えられてきました。それが今回は「三つの小教区の主任司祭と、初めての地区長」でした。私にとっては「数段難しい課題」でした。今回示されたイエスの「来なさい」に、私は応えることができるだろうか。気分は沈みそうでした。

ペトロが強い風に気がついて怖くなり、沈みかけ、「主よ、助けてください」と叫んだとき、イエスはどうなさったでしょうか。「すぐに手を伸ばして捕まえ」(14・31)たのです。イエスはペトロのすぐそばで、見守ってくださっていたのです。

中田神父に今回与えられた任務が「これまでより数段難しい課題」であるなら、イエスはすぐに手を伸ばして捕まえることのできる場所で見守ってくださっているはずです。疑わず、深い信頼を寄せること。必要なのはこれだけだと思いました。

皆さんにも、イエスが「数段難しいこと」をお願いする時があるでしょう。その時イエスは必ず、手を伸ばして捕まえることのできるすぐそばで、見守ってくださっている。そのことを信じましょう。

いちばん大切な人を失ってしまった時。これまでの生活が一変するような災難に遭った時。沈みそうになるその時、イエスは必ずあなたのすぐそばで見守っておられるのです。イエスの次のことばを、励ましと受け取りましょう。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」(14・31)。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
聖母の被昇天(ルカ1:39-56)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼高校生の黙想会を「山の日」に開催した。下五島地区はリモート参加。直接参加のカトリックセンターと全く同じとはいかないが、良い黙想の時間を過ごせたと思う。自分らしさを発揮しながらもカトリックの高校生として生きていく。そのための示唆をいただいたと思う。
▼「放蕩息子のたとえ」を使って、分かち合いも取り組んだ。高校生は大人よりもスムーズに分かち合いに溶け込んでいく。ここも新しい気づきだった。司祭も分かち合いに参加し。中田神父は(いつも指摘することだが)兄は弟のことを「あなたのあの弟は」と押し付けるが、父親は「お前のあの弟は」と押し戻しているところが緊張感ありますね、と分かち合った。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第857回目。中国新聞の8月6日のカープヤクルト戦。この日だけ縦読みができる

http://ss104313.stars.ne.jp/230813.jpg
ホームページもご覧ください。
http://ss104313.stars.ne.jp/


† 神に感謝 †
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

主の変容(マタイ17:1-9)イエスみずから近づき、恐れを取り除いてくださる

2023-08-05 | Weblog
当ブログをお読みくださり、ありがとうございます。

■■YouTubeチャンネル登録はこちら■■
https://www.youtube.com/channel/UCYRgrlA29PNjJmB0gngYQqA

↓↓聖週間の説教一覧はこちらから↓↓
ご覧ください。
http://ss104313.stars.ne.jp/

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://ss104313.stars.ne.jp/voice/230806.mp3
(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
2023/8/6(No.1249)
‥‥‥†‥‥‥‥
主の変容(マタイ17:1-9)
イエスみずから近づき、恐れを取り除いてくださる
‥‥‥†‥‥‥‥

聖書愛読が始まりました。戸惑いの中でのスタートでした。主任司祭の指導力不足もあったと思います。詩編朗読は、かたまりことに、例えばオルガン側が先に読み、朗読台側が次を読みます。こうして、詩編を読むことと、詩編に耳を傾けること、両方を深めることができます。

予定では今後四年間、詩編を聖書愛読の材料に使います。その中で詩編の特徴や、どの詩編がどの典礼聖歌に使われているのか、詩編をより身近に感じられるようになると思っています。詩編をすべて読み終える経験は、生涯にわたる貴重な経験となるでしょう。

期間中、主日のミサが長いと感じるかもしれないので、主任司祭も協力しようと考えています。説教は短かめにして、奉献文も聖書愛読期間中は第二奉献文にします。これでかなりコンパクトになるでしょう。

イエスの姿が変わる場面が福音朗読に選ばれました。イエスの姿がこの世のものとは思えないものに変わっていった。これはイエスが「人間の姿」から「神の姿」に変わっていったということでしょう。イエスはまことの神・まことの人です。イエスが望めば、望みのままに、より神の姿を強調したり、より人間の姿を強調したりできるわけです。ここでは、より神の姿が強調されました。

私たちはどうでしょうか。ペトロと仲間たちが光り輝く雲に覆われ、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」(17・5)という声が雲の中から聞こえたとき、弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れたのです。人が、ほんの少し神の側に近づいただけで、恐ろしさを感じてしまうのです。

だからこそイエスは、みずから弟子たちに近づいてくださるのです。神が人間に近づいて、恐れを感じる神と人との間の距離を近づけてくださるのです。私たち人間が決して埋めることのできない距離を、イエスが埋めてくださいます。

典型的なのは「死」の神秘です。私たちはいつかこの地上の生活を終えなければなりません。そのときが近づいてくると、多くの人は恐れを感じます。より神に近づくはずなのに恐ろしいのです。この距離を埋めることができるのはイエスただ一人です。イエスだけが「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」(ヨハネ11・25)と約束してくださる方なのです。

イエスが私たちに近づいてくれなければ、私たちが人生で感じる恐怖を乗り越えることは非常に難しい。難病を発症したり重大な交通事故に遭遇したりして、思い描いていた人生が見通せなくなることもあります。そうした恐怖を、イエスはみずから近づいてくださり、「恐れることはない」と力づけてくださいます。

8月6日、広島原爆の日、9日は長崎原爆の日です。数え切れない人が恐れに捕らえられたでしょう。人が恐れを感じるとき、そのときこそイエスがみずから近づいてくださり、力づけてくださるときなのです。「起きなさい。恐れることはない。」(マタイ17・7)

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
年間第19主日(マタイ14:22-33)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼記憶の無いこと、体験のないことをどのように話せば良いのだろうか。広島原爆の日、長崎原爆の日、または終戦記念日(聖母の被昇天)に特別な役割のある教会の主任司祭(教区長)は、どのように話を用意するのだろうか。
▼体験者の話に耳を傾ける。これは参考になると思う。ただどのようにそれを自分のものにするのか分からない。原爆記念の日を迎える広島の教会と長崎の教会、大きな責任を任された司祭たちに敬意を表したい。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第856回目。井持浦教会ルルド。125周年記念に右下にベルナデッタ像設置計画中

http://ss104313.stars.ne.jp/230806.jpg
ホームページもご覧ください。
http://ss104313.stars.ne.jp/


† 神に感謝 †
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする