こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第30主日(ルカ18:9-14)欠けたところを認めてから本当の付き合いが始まる

2019-10-26 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2019/10/27(No.1028)
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年間第30主日(ルカ18:9-14)
欠けたところを認めてから本当の付き合いが始まる
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年間第30主日、年間の主日も押し迫ってきました。ご存知のように「王であるキリスト」の祭日が、年間の最後の主日です。この日、「王であるキリスト」の祭日に、私たちが教皇と呼び、マスコミが法王と呼ぶ教皇フランシスコが長崎においでになり、ミサをささげてくださいます。偶然とは思えない巡り合わせを感じました。

教皇様について、一つのエピソードを手に入れましたので紹介します。教皇フランシスコは、若いころ、日本に宣教師として渡り、日本で人々にキリストを宣べ伝えたいという夢を持っていました。しかし彼は肺結核を患って、片方の肺を摘出しなければならなくなり、健康に不安があったので日本に宣教に来ることができませんでした。一度は自らの意志で、自らのタイミングで願ったわけですが、祈りが叶えられたのは80歳を過ぎてから、神様の考えるタイミングでのことでした。

福音朗読に入りましょう。神殿で祈るファリサイ派の人と徴税人とは、まったく正反対の人物として描かれています。ファリサイ派の人は律法の規定をどんな些細なこともおろそかにせず、その上さらに他の人ができないあっと驚く犠牲、週に二度の断食や、全収入の十分の一の献げものを実行していました。

一方で徴税人は、自分には神に胸を張って披露するものがないので、不足や欠点を認め、憐れみをこい求めました。イエスが指摘したとおり、「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない」(18・14)という結果になります。神様が徴税人を憐れむのは理解しますが、律法の厳しい規定を楽々とこなし、それ以上の献げものを実行するファリサイ派の人は、なぜ退けられたのでしょうか。

ここには神が何を喜びとされるかが問われているのです。神がもし、人間の努力で手に入れた正しさを喜ぶのであれば、ファリサイ派の人の祈りも受け入れられたでしょう。しかし神が喜ぶのは人間の努力で手に入れた正しさではないのです。徴税人が示したように、自分の欠点や不足を認め、神により頼む心をもとにして祈る姿を喜ぶのです。

中田神父の手元には10年目になる腕時計があります。浜串教会時代に、子供達が漁港で海水浴をする時に見張りの大人がどうしても必要で、日中頻繁に司祭館のチャイムを鳴らして見張りをせがまれました。ただ黙って見ているのもつまらないので、一緒に海に入るため、この機会にダイバーズウォッチを買ったのです。値は張りましたが、海水で錆びがこないか、そんな心配をしなくてよくなりました。

ところがどこでしくじったのか、ある時時計のガラス面をよく見ると、見逃せないひっかき傷が目に留まったのです。私は飽きっぽい人間なので、その傷を見た時にかなりテンションが下がりまして、腕にはめて見せびらかす気持ちが萎えてしまったことがあります。鍵束と一緒にポケットに入れたのが悪かったのでしょう。

けれども、興味を失ったはずの傷物の時計を、10年経った今も私は使い続けています。価値も下がり、質屋にも持ち込めない時計ですが、私はむしろ愛着が湧いてきたのです。見逃せないほどの傷が付いたけれども、私は誇りに思っている。そう思えるようになりました。時間が経ったことで、無視できない傷も含めて、受け入れ、包み込めるようになったわけです。

説教の冒頭、教皇様は肺結核で片肺を摘出し、当時抱いていた日本宣教の望みを断念したと話しました。けれども教皇様になって、日本に来ることになりました。それは、日本への思いを、ご自身の健康上の不安もすべて受け止めて、神様のお望みを聞かせてくださいと祈ったから、叶えてもらったのではないでしょうか。ご自身の能力と努力で行く行かないを決められるはずだった時には神様はその望みを叶えてくれず、ご自身の能力努力に信頼を置くのをやめて、神により頼み、神の望みを聞こうとした時に、願いは叶ったわけです。

一時期よく「グリフィンの祈り」という聖歌が歌われていました。「大きなことを成し遂げるために神に力を願ったのに、謙遜を学ぶようにと弱くなってしまった。人々の称賛を得ようとして神に成功を願ったのに、得意にならないようにともくろみは失敗してしまった。願ったことは何一つ叶えられなかったけれども、希望するすべてのものを私は神から受けた。」こんな感じだったと思います。願ったものを神から受けるためには、神と人間との物々交換ではなくて、自分の欠点や不足を神に心を開き、すべてを委ねて神により頼む時、与えられるわけです。

ファリサイ派の人の祈りは神と物々交換の取引を持ちかける祈りでした。これだけの努力を差し出しましたから、わたしを正しい者と認めてください。この物々交換が果たして成り立つでしょうか。私たち人間に、神と取引できるものが何か一つでもあるのでしょうか。

「24時間断食してもミサの恵みを受けるのに値しない私ですが、今日もこうしてあなたのもとに集まりました。」そんな祈りを神は喜ぶのです。「全収入の十分の一をささげてもミサの恵みをいただくには十分ではありませんが、今日、この献金をおささげします。」そんな祈りを神は求めているのです。

あなたにとって、神により頼む心が湧いてくる理由は何ですか?胸を張ってキリスト者として生きていることですか。私が神のために費やした時間や労力を並べるよりも、こんな私でも今日を与えてくださった。こんな私にも、今週の説教を思い浮かばせてくださった。神に自分の不足を素直に認めるところから、神との深いお付き合いは始まるのだと思います。

自分の弱さや欠点を認めて、あなたは神に心を開きますか?それなら、私の目にもっと弱いと映る人のためにも神に祈ってあげてください。そうすることで、私もまた、神に義とされて家に帰ることができます。

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‥次の説教は‥‥
年間第31主日(ルカ19:1-10)
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ちょっとひとやすみ
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▼長崎教区に二人の司教様が与えられていることはすでにご存知と思う。教区長の髙見大司教様と、中村補佐司教様。その補佐司教様が田平で隠退生活を送っている神父様を電撃訪問なさったようだ。
▼引退した神父様は隣に住む弟さんの車で床屋に連れられて散髪に出かけていた。補佐司教様はまず引退した神父様の住まいを訪ねたらしいが留守。お隣に尋ねると引退神父様の弟さんの奥さんがいて、「主人の車で床屋に行ってます」ということだった。
▼ある意味幸い。引退した神父様がどこに行くかを告げずに出ていたら、病院に薬をもらいに行くか、食材の買い出しに行くか、散髪に行くか、あるいは教会の案内所に「ニュースはないか?」と訪ねてくるので、そのすべてを回らなければならなかっただろう。
▼フットワークの軽さを感じた。長崎教区は大きな仕掛けの時計のようで、フットワークに問題があったと思う。しかし補佐司教様のフットワークがあれば、長崎教区に活気が戻ってくる。大司教様と補佐司教様、良い特徴を出し合って長崎教区を導いてくださることになった。
▼うっかりしていたが、人に勧めてみて我が身を直す羽目に。「長崎教区に司教様が二人与えられたのだから、これまで司教様のためにお祈りを一つしていたのであれば、二人司教様がいる分、お祈りを二つささげてほしい。」人に言っておきながら自分が実行していなかった。
▼経験が教えてくれること。1回できることは2回できる。2回できることは3回できる。3回できることは頑張れば4回できる。ただし、4回できたとしても5回できるかは分からない。。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」(マタイ18・21)ペトロは7回までならできたのだろうか?

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今週の1枚
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第635回目。「補佐司教様が床屋に来たぞ!」と、引退神父様が喜んで話された。

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年間第29主日(ルカ18:1-8)気を落とさずに祈り続けてほしい

2019-10-19 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2019/10/20(No.1027)
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年間第29主日
(ルカ18:1-8)
気を落とさずに祈り続けてほしい
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「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。」(18・1)私たちも、イエスから、「気を落とさずに絶えず祈る心」を学び、持ち帰ることにしましょう。

19日(土)、宝亀小教区中野教会の大神学生が教会奉仕者に選任されました。教会に与えられる恵みは、いつも私たちの祈りに神様が答えてくれるしるしだと思います。教会奉仕者に選任される神学生の努力ももちろん必要ですが、最終的には神の民の祈りに、神様が答えてくださって、恵みは与えられるのです。

中田神父には選任を受けた大神学生について語るだけの情報を持っていませんが、この日までに私が体験したことのない苦労を体験したと聞いております。たとえばそれは、休学した期間があったということです。休学すると、2年とか、3年とか、場合によってはそれ以上の時間を回り道することになります。

この間に本人が祈りを忘れたら、復学することはまず不可能です。休学したことで祈りの大切さを、休学したことのない私以上に学んでこの日を迎えたに違いありません。休学中に、「気を落とさずに絶えず祈る心」を鍛えたのです。

しばしば私たちは、体験をすることで、物事の良さを理解できるようになります。11月、日本に再び教皇様がおいでくださいます。「気を落とさずに絶えず祈ること」これがいかに大切か、教皇様のために祈ってみて皆さんも良く理解できるようになっているでしょう。絶えず祈り続け、祈りを積み重ねたことで、私たちに教皇様来日という神様の恵みが与えられようとしています。

ひょっとしたら政治家も、バチカンの元首を招こうとずっと動いていたかも知れません。ただ政治家の行動だけでは、今回の教皇来日は実現しなかったのです。私たちを訪問して、日本の教会を守ってくださる。来日のテーマは「すべてのいのちを守るため」です。そこに日本の教会といういのちを守ることも、教皇様にとっての大切な来日の動機だと考えています。

さて今週福音朗読に選ばれた「やもめと裁判官のたとえ」は、一人のやもめの切なる願いに「神を畏れず人を人とも思わない裁判官」が応えるという物語でした。「相手を裁いて、わたしを守ってください」とやもめは言っています。名誉の挽回もあるかも知れませんが、私は、「いのちの危険」が彼女には迫っていたのではないかと思うのです。

当時の男性優位の社会では、社会的に弱い立場にある未亡人の女性は、不利な扱い、不当な扱いを受けても泣き寝入りすることがしばしばだったでしょう。しかし物語の彼女は泣き寝入りで終わらず、裁判官に保護を願いました。泣き寝入りで済む問題ではなかった、そう考えてみました。いのちの危険すら感じていたので、裁判官にすがったのだと考えたのです。

いのちの危険を感じ、いのちを守ろうとする人は、どんなに困難な道でもやり抜きます。登場したやもめは、いのちを粗末に扱われ、いのちを守ってもらおうとしたのかも知れません。不正な裁判官の言い分によると、「うるさい」と思うほど、「ひっきりなしにやって来た」のでした。やもめにはどうしても守りたいものがあって、これほど裁判官に食い下がった。不思議ではありません。

私たちもきっとそうでしょう。いのちに関わることを守ろうとするなら、それが何年かかろうとも、守り抜くたたかいを続けるでしょう。守るものが裁判官に申し出る内容でなくても構いません。

もしその人が、いのちを大切にしてくれる人に出会えず、さまよってきたとしましょう。その人は祈るでしょう。「私のいのちを大切に守ってくれる人に出会わせてください」と。それが10年でも20年でもです。ひょっとするとその人は、25年祈り続けて、自分の祈りに神様が応えてくれて、いのちを大切にしてくれる人と出会うかも知れません。

38年前、日本に初めて教皇様がおいでになりました。260年間一人の宣教師もなく、260年後にプチジャン神父様が与えられた時と同じくらいの喜びで、私たちは教皇ヨハネ・パウロ二世をお迎えしました。再び日本の教会は、いのちの危険にさしかかっているのではないでしょうか。38年前、神学生も溢れるほど与えられていましたが、現在長崎の神学院には学年ごとに2人とか、3人といった状況です。大神学院にしても状況は変わりません。これは、司祭を確保する瀕死の状態、いのちの危険にさしかかっている状況かも知れません。

洗礼を受ける人も、少なくなってきました。カトリック信者同士の結婚も、めったに受け付けることがなくなりました。これらの目に見える状況が、日本の教会がひょっとしたらいのちの危険にさしかかっていることを物語っているのではないでしょうか。そこへフランシスコ教皇様が、「すべてのいのちを守るため」においでになったのです。

もちろん、教皇様の来日テーマは、人間のいのち、自然界のいのちのことでしょう。けれども私たちが教皇様来日に向けて心一つにして祈る中で、昼も夜も祈る中で、神様は私たち日本の教会のいのちを守るためにも教皇様を送ってくださるのではないでしょうか。

「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。」(18・7)「気を落とさずに絶えず祈る」この心が、聖霊を通して教皇様を動かしてくださったのだと考えました。

私たちの頭の中には、日本の教会の再生へのはっきりした道筋はないかも知れません。しかし「気を落とさずに絶えず祈る心」を失わないならば、教皇様の来日に刺激を受けて、何か突破口が示されると信じています。そのためには文字通り、日本の教会のために「気を落とさずに絶えず祈ること」が私たちに求められています。

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‥次の説教は‥‥
年間第30主日(ルカ18:9-14)
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ちょっとひとやすみ
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▼「流れについて行けなくなる」これが自分の中で感じる「老化」の最たるものである。教会の諸行事に使えるようにと、およそ一年前に一眼レフカメラを買った。まぁEOS-Kissと言えばどの程度のものか分かるだろう。
▼このカメラはモニター画面が180度開き、画面そのものも180度回転させることができる。つまり自撮り用にもってこいのカメラだということだ。自撮りが大好きなのではない。関わっている視覚障害者ボランティアの会員に、責任者として毎週朝礼動画を届けている。その朝礼動画撮影のためには、カメラの中に自分がどのように収まっているのか確認するために、自撮り機能が必要なのだ。
▼ボランティア団体の会員のために使用しているので、これは純粋に教会のためとは言えないが、司祭活動の一環として使っているのでご理解願いたい。いつの日か、黙想会の動画を撮って小教区のためにお役に立てる日が来るかも知れないので、使用で購入してはいないことを断っておく。
▼ではどこが今週の話題「流れについて行けない」という部分なのかと言うと、このカメラを活用するために「リモコン」を買ったわけだ。ON/OFFの操作だけなのだから何と言うこともないと思っていたが、思わぬ落とし穴があった。
▼ある祝賀会の折、「このカメラで撮影して欲しい。手元のリモコンで撮影できるから」と伝えてカメラを預けた。ところが撮影ができなかったようである。残念な結果だったが、リモコンで撮影するには実は本体の設定を変更し、「リモコン撮影」を明示してあげる必要があった。それが分からなかった。
▼今は理解できている。危うく、私は「流れについて行けなくなる」年寄りの悲哀を味わうところだった。53歳だが、気持ちは40歳くらい。すべて通用するわけではないが、どこまでも「老化」には抵抗するぞ。

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今週の1枚
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第634回目。教会奉仕者選任式を受けた神学生。また一歩を踏み出した。

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年間第28主日(ルカ17:11-19)この人のほかに神を賛美する人はいないのか

2019-10-12 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2019/10/13(No.1026)
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年間第28主日(ルカ17:11-19)この人のほかに神を賛美する人はいないのか
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年間第28主日を迎えました。年間主日は第33主日、その後の「王であるキリスト」を迎えると待降節ですから、あと5週かそこらで年間の主日は終了です。この年間の季節の終盤に、これほど大きな台風が日本に接近、あるいは上陸して、話題にしたり心配したりするとは思ってもみませんでした。

さて今週与えられた福音朗読箇所「重い皮膚病を患っている十人の人をいやす」物語から、「神を賛美できる人になれて初めて、私たちは救われた人になれる」この結論にたどり着きたいと思います。ごく身近なことでも、私たちは神様の愛と憐れみの恩恵を受けていて、それを理解したなら、具体的に感謝すべきだ、ということです。

ごく身近なことから始めましょう。ミサに参加して、司祭が唱える奉献文に耳を傾けていると、今現在三人の牧者の名前を呼んでいます。一人は教皇フランシスコ、一人はヨセフ髙見三明大司教、一人はペトロ中村倫明補佐司教です。補佐司教様の名前をうっかり忘れて、言い直すこともありますが、今現在ほぼ毎日この三人の牧者の名前を呼んでいます。

ところで、この三人の牧者の名前を呼ぶことは、当然なこと、別に不思議でも何でもないことでしょうか。決してそうではありません。教皇様について言えば、前任者のベネディクト16世名誉教皇は2月28日に引退されました。次の教皇選挙が行われたのは3月12日、新しい教皇様が選ばれたのは翌13日でした。

およそ二週間、私たちは教皇様の名前を呼ぶことができなかったのです。二千年続く教会、266代の歴代教皇によって引き継がれてきた教会ですが、教皇様がお亡くなりになるたび、また選挙のたびに、名前を呼ぶことができない時間を200回以上経験してきたのです。

司教様についてはどうでしょうか。司教様が与えられていない期間を司教座の空位期間と呼びますが、長崎教区は幸いに空位期間はそれほど長くは経験したことがありません。最近では島本大司教様がお亡くなりになったあと空位期間がしばらくあって、髙見司教様が教区長になられました。

長崎はそうですが、すでにお隣の福岡教区は、四月の下旬から司教座は空位であり、5ヶ月以上が経過しています。つまり福岡教区は現在ミサ奉献分ではおそらく「私たちの教父フランシスコ、日本の司教団、すべての教役者をはじめ、全世界を愛の完成に導いてください」と唱えているわけです。5ヶ月もですよ。ほかにも、新潟教区も司教座は空位になっております。

これだけでも、教皇様、司教様が与えられるのは当然ではなくて、感謝すべきことだということが分かります。司祭はこれらの牧者の名前を毎日唱えますし、信者の皆さんも「今日は誰の名前が出るかな?」みたいな場面ではないので聞き流しているかも知れません。けれどもたとえば教区長の名前を呼ばずに毎日毎日ミサをささげている教区、司祭方がおられることを考えれば、ミサのたった一箇所でありながら、ありがたいな、感謝すべきだなとあらためて理解できます。

さて福音朗読、重い皮膚病を患った十人の人がイエスに憐れみをこい求めました。「声を張り上げて、『イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください』と言った。」(17・13)そのうちの九人はユダヤ人、一人はサマリア人でした。もしかしたらこの時点から、心にある思いは違っていたのかも知れません。九人のユダヤ人は「私たちはあなた様と同じユダヤ人です」と考え、サマリア人は「外国人扱いの私ですが、もし憐れみを受けられるのであれば」そんな思いだったかも知れません。

彼ら十人は、祭司のもとに体を見せに行く時点ですでにいやしを体験していました。九人が「あなた様と同じユダヤ人です」と考えていたとしたら、いやしを体験しても次の行動には移らないでしょう。私たちが何気なく教皇様、司教様の名前を唱えてミサをしているような状態です。「これはあって当然のことではない。」そう思うなら、新たな行動を起こすに違いありません。感謝の祈りをささげ、この幸せが続くようにと願うでしょう。

サマリア人は、自分の身に起こったことを「こうなって当然だ」とは考えませんでした。すぐに次の行動を起こしたのです。サマリア人は礼拝の問題でユダヤ人からは救いを遠ざけられている人々と思われていました。そのサマリア人にも、イエスの愛と憐れみは届いたのです。必ず、神は救う。救いを求める人に必ず答えてくださるイエスに、祭司に体を見せに行く途中気づいて、「大声で神を賛美しながら戻って来た」(17・15)のです。

「大声で」神を賛美することがふだんの生活にあるでしょうか。私は神のなさり方、神の不思議な計らいに触れて、大声で思い出し笑いをしたことがあります。頭の中に消そうとしても消せないものがあり、思い悩んでいた時、テレビを見ていて思い悩んでいたものがこれで完全に払拭できる、そう感じた瞬間でした。「これが神様のなさり方だ。私はこうして前を向くことができるようにしていただいたのだ」そう感じた時、あまりのおかしさに大声で笑ったのです。

ミサに参加して、私たちは当たり前のように受けている恩恵を、あらためて見直してはいかがでしょうか。82歳の教皇様が長崎に来てくださいます。当たり前では決してないと思います。この田平教会に昨年度10万人の人が訪ねてきました。そのうちの何人かは、貴重な献金をしてくださいました。当たり前に当てにしたり、何の感謝も感動もなく受け取ったりしているのではないでしょうか。

聖歌を歌う時、招きの祈りに答える時、「大声で」歌い、唱えてみてはいかがでしょう。歌っているのかつぶやいているのか分からないのでは、私たちはイエスから「ほかの九人はどこにいるのか」(17・17)と言われるに違いありません。

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‥次の説教は‥‥
年間第29主日(ルカ18:1-8)
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ちょっとひとやすみ
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▼パソコン・スマホの永遠の課題、誤変換。文字入力をしていて閉口することがある。「なかだしんぷ」を変換。すると「中田新婦」が現れる。なかには目を覆う変換候補も。私が一度も文章に入力したことのない変換候補は、何度か私を悩ませてきた。
▼しかし考え方によっては、私が悩まされるのは、目を覆うその言葉を知っているからであろう。100%知らない単語であれば何も反応しないわけだ。さらに「文字に過ぎない」現象を超越する人間であれば問題は無いはず。これからはその品のない言葉さえも超越して、メルマガを1100号1200号と継続していきたい。
▼ちなみに私は今53歳であるから、衰えはあってもメルマガをぼちぼち発行できるとするなら、あと20年は継続可能かも知れない。一年に55回出すとしたら、20年で1100回出すことができる。最終的に引退の頃には2500回なんてこともあるかも知れない。世界新記録?
▼しかしこの活動をこれからも安定して継続させるためには、どこかの時点で協力を仰がなければならないだろう。たとえばミサの録音をネット上にアップしているが、その作業のために小一時間必要である。
▼40代とか50代で活動時間、睡眠時間を一時間削るのは容易いかも知れないが、これが60代70代となれば、そうはいかないだろう。協力者が一時間提供してくれてその一時間私は別の活動に充てたり、場合によっては休息を取ったりできれば、どんなにありがたいことだろうか。
▼現在接近中の台風19号。田平教会、田平町からははるか遠くだが、接近しようとしている東海・関東・東北地方のみなさまのために、ささやかながら祈りをささげたい。昼食を終えてメルマガ配信、ホームページ更新、ブログ更新(これらにも一時間かかる。毎週合計二時間)を終えたら、ロザリオの月にふさわしく、ロザリオを一環となえたい。

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今週の1枚
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第633回目。ルームランナーが壊れてしまった。モーターが異常停止。お蔵入り。

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年間第27主日(ルカ17:5-10)あなたにもいつか本物の信仰が必要になる

2019-10-05 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2019/10/6(No.1025)
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年間第27主日
(ルカ17:5-10)
あなたにもいつか本物の信仰が必要になる
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「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。」(17・6)からし種にたとえられた信仰を、今週は掘り下げてみましょう。私たちにも、あっと驚く行動を起こさせる「からし種一粒ほどの信仰」があるでしょうか。むしろ「からし種一粒ほどの信仰」を見つけて帰ることが、今週の課題だと言えます。

古い話ですが、私の父が生きている頃、父は刺身を食べるのに、唐辛子を箸でこさいでしょう油に落として食べていました。小学生だった私に「試しにやってみるか?」と勧められて刺身を食べると、あまりの辛さに魚を口から出すほどでした。それを見て父が笑っていた、そんな記憶があります。

それから何年かして父は船で指を機械に巻かれ、障害が残ったので船を降りて牛を飼い始めました。牛は藁を食べると当然糞をします。その糞を乾かし、袋詰めにして販売します。この袋詰めを、中学生の頃から手伝わされていました。すべての糞を処理できるわけではなく、一部は場所を決めて捨てていたのです。

その、糞を捨てる場所のそばに、唐辛子が植えられていました。畑と山を開墾して作った牛の放牧場だったので、唐辛子を植えていた場所だったのでしょう。残り物の糞を捨てるそばにあった唐辛子は、いつの間にかピーマンのように育っていました。そして何を思ったか、私はそのピーマンの大きさの唐辛子をちぎって、食べてみたのです。

唐辛子が、ピーマンになれるはずがありません。食べたら火の出るような辛さでした。誰も見たことのない大きな唐辛子。唐辛子がピーマンのように育つことに、素直な驚きと発見を味わったのです。あっと驚く成長、誰も見たことのない巨大な実を、父が亡くなった今でも覚えています。

さて福音朗読、使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」(17・5)と願いました。私たちは腕を磨いたり技術を向上させたりという経験を皆持っていますが、使徒たちが考えていた「信仰を増してもらう」ということも、何か経験の積み上げやより大きな信仰に取り替えてもらうような感覚だったかも知れません。

しかしイエスの答えは、小さなからし種に示されると言います。完全にすりつぶした辛子のチューブではなく、ほんの少し種が残してある辛子のチューブをご存知でしょう。あの小さな種に、イエスの考える信仰は示されるというのです。

私たちはどうかすると、大きい力があれば大きいことが成し遂げられると思いがちです。けれども他方で、小さな力が、大きな事を成し遂げることも知っています。車のタイヤを破裂させるのはタイヤを半分に切ったからではなくて釘一本が開ける小さな穴です。仰向けになっている人を押さえつけるのに大げさな道具は必要ありません。おでこを指一本で抑えるだけで、どんなに大男でも押さえつけることができるのです。「からし種一粒ほどの信仰」とはそういうことでしょう。

私はたまにピーマンを見ると、「これはひょっとしたら唐辛子なのではないか?」と思うことがあります。実際にはあり得ないことです。あり得ないことですが、私は幼い頃にそのあり得ないことを見たわけです。

イエスが言われる「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、」この「もし、あれば」と言っているのは、あなたたちの信仰が本物であればとか、あなたたちの信仰が本当に神から与えられたものであれば、そういう意味ではないでしょうか。

もし私たちに根付いた信仰が本物であれば、神から与えられたものであれば、闇の中でも光を見つけ出します。絶望の中でも希望を見つけ出します。暗闇の中で光を見つけ出す信仰は強力なライトではありません。真っ暗闇の中、手探りで生きている人生でも失うことのない小さな持ち物です。

絶望の中で希望を見つけ出す信仰は、絶望を打ち壊すショベルカーのような信仰ではありません。10年、20年と絶望を味わう中でもみずからに引っかかっていた髪の毛一筋ほどのよりどころなのです。そのような小さな持ち物が、闇に光を見いだし、絶望の中で希望を拾う「からし種一粒ほどの信仰」なのでしょう。

みなさんそれぞれ、信じていたものをたたき壊され、何も信じられなくなる時を味わったことがあるでしょう。何も信じられないのは確かですが、その時その人が死の淵から生きて戻ってくるのは、神が与えてくださる「からし種一粒ほどの信仰」なのです。「信仰は二の次で、まずはこの世の生活だ」そんな思い違いから抜け出た時、私たちは本物の信仰に出会うのだと思います。

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‥次の説教は‥‥
年間第28主日(ルカ17:11-19)
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ちょっとひとやすみ
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▼辛いもの。好きな人多いねー。辛さが10段階まで選べるとして、あなたは「何辛」を選ぶ?私は「3辛」で十分。「5辛」を一度試して、「二度とこんな辛さで食べるか」と思った。まずはそういう前提で今週の話に入りたい。
▼田平教会に辛いもの好きのシスターがやって来た。話を聞けば私ならアウト、という辛さを平気だと言う。それでも「参った」と言わせたくて、辛いものが好きな人のつてで激辛のインスタント食品を手に入れてもらった。
▼「食べても知らないよ。」そう言ってシスターには渡したが、どうやら食べておいしかったらしい。「また面白いものが見つかったらおごってください。」何という強者だろうか。半径一メートルは近づきたくないような激辛食品をおいしかったとは。
▼パッケージの見た目からも、「危険だよ」と訴えかけているようだ。二つ買ってもらい、一つは私のためだと言うが、とんでもないので棚に並べてしばらく遠ざけていた。神様は必要な体験は必ずさせる。これが私の信念。
▼とうとうその体験の時がやって来た。縁を切るために、存在を消すために、食べることに。お湯を注ぎ、辛さの素となるソースを恐る恐るかけ、かき混ぜる。汁なし担々麺のようになった。これを食うのか?
▼いや、きれいさっぱり縁を切るためだ。私の視界から消えてもらうためだ。そう思って一口食べた。ぶわっと、汗が噴き出してきた。顔からポタポタ汗がしたたる。こんなことなら激辛大好きシスターに二つともあげるべきだったか。
▼だが20分で苦しみは消えた。二度と食べようとは思わないが、食べられないほどでもないな。しかもこれで縁を切って、視界からも消える。万々歳。ついに離れることができた。

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今週の1枚
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第632回目。確かにこれ以上辛いものをかつて口にしたことがない。「十辛」か?

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http://hanashi-no-mori.news-site.net/

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文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
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† 神に感謝 †
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