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こうじ神父
「今週の説教」
2019/10/27(No.1028)
‥‥‥†‥‥‥‥
年間第30主日(ルカ18:9-14)
欠けたところを認めてから本当の付き合いが始まる
‥‥‥†‥‥‥‥
年間第30主日、年間の主日も押し迫ってきました。ご存知のように「王であるキリスト」の祭日が、年間の最後の主日です。この日、「王であるキリスト」の祭日に、私たちが教皇と呼び、マスコミが法王と呼ぶ教皇フランシスコが長崎においでになり、ミサをささげてくださいます。偶然とは思えない巡り合わせを感じました。
教皇様について、一つのエピソードを手に入れましたので紹介します。教皇フランシスコは、若いころ、日本に宣教師として渡り、日本で人々にキリストを宣べ伝えたいという夢を持っていました。しかし彼は肺結核を患って、片方の肺を摘出しなければならなくなり、健康に不安があったので日本に宣教に来ることができませんでした。一度は自らの意志で、自らのタイミングで願ったわけですが、祈りが叶えられたのは80歳を過ぎてから、神様の考えるタイミングでのことでした。
福音朗読に入りましょう。神殿で祈るファリサイ派の人と徴税人とは、まったく正反対の人物として描かれています。ファリサイ派の人は律法の規定をどんな些細なこともおろそかにせず、その上さらに他の人ができないあっと驚く犠牲、週に二度の断食や、全収入の十分の一の献げものを実行していました。
一方で徴税人は、自分には神に胸を張って披露するものがないので、不足や欠点を認め、憐れみをこい求めました。イエスが指摘したとおり、「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない」(18・14)という結果になります。神様が徴税人を憐れむのは理解しますが、律法の厳しい規定を楽々とこなし、それ以上の献げものを実行するファリサイ派の人は、なぜ退けられたのでしょうか。
ここには神が何を喜びとされるかが問われているのです。神がもし、人間の努力で手に入れた正しさを喜ぶのであれば、ファリサイ派の人の祈りも受け入れられたでしょう。しかし神が喜ぶのは人間の努力で手に入れた正しさではないのです。徴税人が示したように、自分の欠点や不足を認め、神により頼む心をもとにして祈る姿を喜ぶのです。
中田神父の手元には10年目になる腕時計があります。浜串教会時代に、子供達が漁港で海水浴をする時に見張りの大人がどうしても必要で、日中頻繁に司祭館のチャイムを鳴らして見張りをせがまれました。ただ黙って見ているのもつまらないので、一緒に海に入るため、この機会にダイバーズウォッチを買ったのです。値は張りましたが、海水で錆びがこないか、そんな心配をしなくてよくなりました。
ところがどこでしくじったのか、ある時時計のガラス面をよく見ると、見逃せないひっかき傷が目に留まったのです。私は飽きっぽい人間なので、その傷を見た時にかなりテンションが下がりまして、腕にはめて見せびらかす気持ちが萎えてしまったことがあります。鍵束と一緒にポケットに入れたのが悪かったのでしょう。
けれども、興味を失ったはずの傷物の時計を、10年経った今も私は使い続けています。価値も下がり、質屋にも持ち込めない時計ですが、私はむしろ愛着が湧いてきたのです。見逃せないほどの傷が付いたけれども、私は誇りに思っている。そう思えるようになりました。時間が経ったことで、無視できない傷も含めて、受け入れ、包み込めるようになったわけです。
説教の冒頭、教皇様は肺結核で片肺を摘出し、当時抱いていた日本宣教の望みを断念したと話しました。けれども教皇様になって、日本に来ることになりました。それは、日本への思いを、ご自身の健康上の不安もすべて受け止めて、神様のお望みを聞かせてくださいと祈ったから、叶えてもらったのではないでしょうか。ご自身の能力と努力で行く行かないを決められるはずだった時には神様はその望みを叶えてくれず、ご自身の能力努力に信頼を置くのをやめて、神により頼み、神の望みを聞こうとした時に、願いは叶ったわけです。
一時期よく「グリフィンの祈り」という聖歌が歌われていました。「大きなことを成し遂げるために神に力を願ったのに、謙遜を学ぶようにと弱くなってしまった。人々の称賛を得ようとして神に成功を願ったのに、得意にならないようにともくろみは失敗してしまった。願ったことは何一つ叶えられなかったけれども、希望するすべてのものを私は神から受けた。」こんな感じだったと思います。願ったものを神から受けるためには、神と人間との物々交換ではなくて、自分の欠点や不足を神に心を開き、すべてを委ねて神により頼む時、与えられるわけです。
ファリサイ派の人の祈りは神と物々交換の取引を持ちかける祈りでした。これだけの努力を差し出しましたから、わたしを正しい者と認めてください。この物々交換が果たして成り立つでしょうか。私たち人間に、神と取引できるものが何か一つでもあるのでしょうか。
「24時間断食してもミサの恵みを受けるのに値しない私ですが、今日もこうしてあなたのもとに集まりました。」そんな祈りを神は喜ぶのです。「全収入の十分の一をささげてもミサの恵みをいただくには十分ではありませんが、今日、この献金をおささげします。」そんな祈りを神は求めているのです。
あなたにとって、神により頼む心が湧いてくる理由は何ですか?胸を張ってキリスト者として生きていることですか。私が神のために費やした時間や労力を並べるよりも、こんな私でも今日を与えてくださった。こんな私にも、今週の説教を思い浮かばせてくださった。神に自分の不足を素直に認めるところから、神との深いお付き合いは始まるのだと思います。
自分の弱さや欠点を認めて、あなたは神に心を開きますか?それなら、私の目にもっと弱いと映る人のためにも神に祈ってあげてください。そうすることで、私もまた、神に義とされて家に帰ることができます。
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‥次の説教は‥‥
年間第31主日(ルカ19:1-10)
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ちょっとひとやすみ
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▼長崎教区に二人の司教様が与えられていることはすでにご存知と思う。教区長の髙見大司教様と、中村補佐司教様。その補佐司教様が田平で隠退生活を送っている神父様を電撃訪問なさったようだ。
▼引退した神父様は隣に住む弟さんの車で床屋に連れられて散髪に出かけていた。補佐司教様はまず引退した神父様の住まいを訪ねたらしいが留守。お隣に尋ねると引退神父様の弟さんの奥さんがいて、「主人の車で床屋に行ってます」ということだった。
▼ある意味幸い。引退した神父様がどこに行くかを告げずに出ていたら、病院に薬をもらいに行くか、食材の買い出しに行くか、散髪に行くか、あるいは教会の案内所に「ニュースはないか?」と訪ねてくるので、そのすべてを回らなければならなかっただろう。
▼フットワークの軽さを感じた。長崎教区は大きな仕掛けの時計のようで、フットワークに問題があったと思う。しかし補佐司教様のフットワークがあれば、長崎教区に活気が戻ってくる。大司教様と補佐司教様、良い特徴を出し合って長崎教区を導いてくださることになった。
▼うっかりしていたが、人に勧めてみて我が身を直す羽目に。「長崎教区に司教様が二人与えられたのだから、これまで司教様のためにお祈りを一つしていたのであれば、二人司教様がいる分、お祈りを二つささげてほしい。」人に言っておきながら自分が実行していなかった。
▼経験が教えてくれること。1回できることは2回できる。2回できることは3回できる。3回できることは頑張れば4回できる。ただし、4回できたとしても5回できるかは分からない。。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」(マタイ18・21)ペトロは7回までならできたのだろうか?
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今週の1枚
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第635回目。「補佐司教様が床屋に来たぞ!」と、引退神父様が喜んで話された。
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【文庫本の問い合わせについて】
文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
3冊セットの提供が可能になりました。ABC年セットで
2000円です。ご希望の方は住所と名前を添えて連絡ください。
† 神に感謝 †
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こうじ神父
「今週の説教」
2019/10/27(No.1028)
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年間第30主日(ルカ18:9-14)
欠けたところを認めてから本当の付き合いが始まる
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年間第30主日、年間の主日も押し迫ってきました。ご存知のように「王であるキリスト」の祭日が、年間の最後の主日です。この日、「王であるキリスト」の祭日に、私たちが教皇と呼び、マスコミが法王と呼ぶ教皇フランシスコが長崎においでになり、ミサをささげてくださいます。偶然とは思えない巡り合わせを感じました。
教皇様について、一つのエピソードを手に入れましたので紹介します。教皇フランシスコは、若いころ、日本に宣教師として渡り、日本で人々にキリストを宣べ伝えたいという夢を持っていました。しかし彼は肺結核を患って、片方の肺を摘出しなければならなくなり、健康に不安があったので日本に宣教に来ることができませんでした。一度は自らの意志で、自らのタイミングで願ったわけですが、祈りが叶えられたのは80歳を過ぎてから、神様の考えるタイミングでのことでした。
福音朗読に入りましょう。神殿で祈るファリサイ派の人と徴税人とは、まったく正反対の人物として描かれています。ファリサイ派の人は律法の規定をどんな些細なこともおろそかにせず、その上さらに他の人ができないあっと驚く犠牲、週に二度の断食や、全収入の十分の一の献げものを実行していました。
一方で徴税人は、自分には神に胸を張って披露するものがないので、不足や欠点を認め、憐れみをこい求めました。イエスが指摘したとおり、「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない」(18・14)という結果になります。神様が徴税人を憐れむのは理解しますが、律法の厳しい規定を楽々とこなし、それ以上の献げものを実行するファリサイ派の人は、なぜ退けられたのでしょうか。
ここには神が何を喜びとされるかが問われているのです。神がもし、人間の努力で手に入れた正しさを喜ぶのであれば、ファリサイ派の人の祈りも受け入れられたでしょう。しかし神が喜ぶのは人間の努力で手に入れた正しさではないのです。徴税人が示したように、自分の欠点や不足を認め、神により頼む心をもとにして祈る姿を喜ぶのです。
中田神父の手元には10年目になる腕時計があります。浜串教会時代に、子供達が漁港で海水浴をする時に見張りの大人がどうしても必要で、日中頻繁に司祭館のチャイムを鳴らして見張りをせがまれました。ただ黙って見ているのもつまらないので、一緒に海に入るため、この機会にダイバーズウォッチを買ったのです。値は張りましたが、海水で錆びがこないか、そんな心配をしなくてよくなりました。
ところがどこでしくじったのか、ある時時計のガラス面をよく見ると、見逃せないひっかき傷が目に留まったのです。私は飽きっぽい人間なので、その傷を見た時にかなりテンションが下がりまして、腕にはめて見せびらかす気持ちが萎えてしまったことがあります。鍵束と一緒にポケットに入れたのが悪かったのでしょう。
けれども、興味を失ったはずの傷物の時計を、10年経った今も私は使い続けています。価値も下がり、質屋にも持ち込めない時計ですが、私はむしろ愛着が湧いてきたのです。見逃せないほどの傷が付いたけれども、私は誇りに思っている。そう思えるようになりました。時間が経ったことで、無視できない傷も含めて、受け入れ、包み込めるようになったわけです。
説教の冒頭、教皇様は肺結核で片肺を摘出し、当時抱いていた日本宣教の望みを断念したと話しました。けれども教皇様になって、日本に来ることになりました。それは、日本への思いを、ご自身の健康上の不安もすべて受け止めて、神様のお望みを聞かせてくださいと祈ったから、叶えてもらったのではないでしょうか。ご自身の能力と努力で行く行かないを決められるはずだった時には神様はその望みを叶えてくれず、ご自身の能力努力に信頼を置くのをやめて、神により頼み、神の望みを聞こうとした時に、願いは叶ったわけです。
一時期よく「グリフィンの祈り」という聖歌が歌われていました。「大きなことを成し遂げるために神に力を願ったのに、謙遜を学ぶようにと弱くなってしまった。人々の称賛を得ようとして神に成功を願ったのに、得意にならないようにともくろみは失敗してしまった。願ったことは何一つ叶えられなかったけれども、希望するすべてのものを私は神から受けた。」こんな感じだったと思います。願ったものを神から受けるためには、神と人間との物々交換ではなくて、自分の欠点や不足を神に心を開き、すべてを委ねて神により頼む時、与えられるわけです。
ファリサイ派の人の祈りは神と物々交換の取引を持ちかける祈りでした。これだけの努力を差し出しましたから、わたしを正しい者と認めてください。この物々交換が果たして成り立つでしょうか。私たち人間に、神と取引できるものが何か一つでもあるのでしょうか。
「24時間断食してもミサの恵みを受けるのに値しない私ですが、今日もこうしてあなたのもとに集まりました。」そんな祈りを神は喜ぶのです。「全収入の十分の一をささげてもミサの恵みをいただくには十分ではありませんが、今日、この献金をおささげします。」そんな祈りを神は求めているのです。
あなたにとって、神により頼む心が湧いてくる理由は何ですか?胸を張ってキリスト者として生きていることですか。私が神のために費やした時間や労力を並べるよりも、こんな私でも今日を与えてくださった。こんな私にも、今週の説教を思い浮かばせてくださった。神に自分の不足を素直に認めるところから、神との深いお付き合いは始まるのだと思います。
自分の弱さや欠点を認めて、あなたは神に心を開きますか?それなら、私の目にもっと弱いと映る人のためにも神に祈ってあげてください。そうすることで、私もまた、神に義とされて家に帰ることができます。
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▼長崎教区に二人の司教様が与えられていることはすでにご存知と思う。教区長の髙見大司教様と、中村補佐司教様。その補佐司教様が田平で隠退生活を送っている神父様を電撃訪問なさったようだ。
▼引退した神父様は隣に住む弟さんの車で床屋に連れられて散髪に出かけていた。補佐司教様はまず引退した神父様の住まいを訪ねたらしいが留守。お隣に尋ねると引退神父様の弟さんの奥さんがいて、「主人の車で床屋に行ってます」ということだった。
▼ある意味幸い。引退した神父様がどこに行くかを告げずに出ていたら、病院に薬をもらいに行くか、食材の買い出しに行くか、散髪に行くか、あるいは教会の案内所に「ニュースはないか?」と訪ねてくるので、そのすべてを回らなければならなかっただろう。
▼フットワークの軽さを感じた。長崎教区は大きな仕掛けの時計のようで、フットワークに問題があったと思う。しかし補佐司教様のフットワークがあれば、長崎教区に活気が戻ってくる。大司教様と補佐司教様、良い特徴を出し合って長崎教区を導いてくださることになった。
▼うっかりしていたが、人に勧めてみて我が身を直す羽目に。「長崎教区に司教様が二人与えられたのだから、これまで司教様のためにお祈りを一つしていたのであれば、二人司教様がいる分、お祈りを二つささげてほしい。」人に言っておきながら自分が実行していなかった。
▼経験が教えてくれること。1回できることは2回できる。2回できることは3回できる。3回できることは頑張れば4回できる。ただし、4回できたとしても5回できるかは分からない。。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」(マタイ18・21)ペトロは7回までならできたのだろうか?
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今週の1枚
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第635回目。「補佐司教様が床屋に来たぞ!」と、引退神父様が喜んで話された。
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† 神に感謝 †