こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

聖家族(ルカ2:41-52)神様の時間割に合わせる

2018-12-29 | Weblog
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‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
18/12/30(No.980)
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聖家族
(ルカ2:41-52)
神様の時間割に合わせる
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私たちが今日お祝いしている「聖家族」では、養父ヨセフの声は聞くことができません。その代わりに、心配して肝を冷やした母マリアの次の言葉を聞きました。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」(2・48)イエスの行動と、マリアの心の変化を学び、私たちの教会共同体に活かす道を確認し、新たな2019年に備えましょう。

「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」(2・48)イエスの行動を簡単に言うと、どういう行動を取ったのでしょうか。結論から先に言ってもいいですが、もう少し状況を確かめてみましょう。「イエスが道連れの中にいるものと思い」とありますから、どうやら両親は懸命に探し回ったようです。

結果イエスは、両親が考えもしなかった神殿に留まっていました。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」(2・48)ではイエスはどうすればよかったのでしょうか。前もって、「わたしは神殿に留まりたいです。よろしいでしょうか?」と相談すればよかったのでしょうか。

もうそろそろ、イエスの行動を一言で言ってもよいと思います。イエスはいきなり行動に出たのです。両親にも相談せず、両親が心配するかも知れないのに、いきなり行動に出たのです。

「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」(2・49)イエスはいたって落ち着いています。イエスの答えから考えると、両親ヨセフとマリアの見ているものとは違う何かを、イエスは見ていたのでしょう。

ときおり、両親が「子供の行動や考えを理解できない」と感じることがあると思います。当の本人は、なぜそうしたのか分かっているのです。親は理解できずにうろたえますが、子供は平然としています。私はこのような場合、必ず次のように話してあげることにしています。

つまり、子供の成長には前もって時間割があるということです。どのような時間割で子供は成長していくのか。それは神様が計画している時間割に沿ってです。ふだんは子供のそばに両親がいて、子供の成長を両親が託されています。ただし、すべての子供には神が計画された成長の時間割があって、神がその時間割に沿って成長するように導いているのです。

もちろん、両親も我が子の成長に対して時間割を描いているでしょう。何歳になったらこんなことを体験させよう覚えさせよう。これくらいの年頃になったら、こんなことにも触れさせよう。しかし子供は、必ずしもその通りに成長するわけではありません。両親の期待よりも歩みが遅かったり、もっと後で生じてくると思っていたことが思いがけなく早くやってきたりするのです。

これに対して、両親は心配したり、驚いたりするのです。こんな場合でも私は、子供の取った態度が両親の思い描いている時間割から外れているだけであって、本当は、もっと違う時間割の中で子供は成長しているのですよ。そのように話してあげます。子供一人一人に備わっている神様の計画した時間割、その中で確実に歩み続けているのです。

「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」イエスの言葉を聞いて、マリアはもう一度考えました。「イエスははっきり考えを持っている。私はイエスの考えに自分を合わせよう。」マリアはイエスの中にある父なる神の計画を感じ取り、今はイエスに備わった時間割を理解できないけれども、理解できる時が来るまで待とう。それが遠回りのようで近道になると判断したのだと思います。

「母はこれらのことをすべて心に納めていた。」(2・51)父なる神がイエスに用意された計画を、ヨセフとマリアでも十分理解することはできません。いつもイエスの行動の方が先を行くので、両親の考える時間割の枠に当てはまらず、困惑することばかりです。けれどもマリアが示した態度は、彼女を必ず御父がイエスに用意した計画を理解できるところまで成長させるでしょう。

なぜそのような行動に出たのだろうか。イエスのいきなりとも思える行動を前にして、両親という立場上「謝りなさい」と言う権利を持っていたかも知れません。けれどもヨセフとマリアは、どうやったら今回イエスが取った行動を理解できるだろうか、そのために思いを巡らすことにしたのです。

イエスにしてみれば、「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」と言っているのですから、「父上母上とは違う捉え方です」ときっぱり言っているのです。ヨセフとマリアは、イエスが今回取った行動をもっと確かめようと、両親がよりどころにしていた考えを横に置いて、父なる神の計画を知ろうとしたのです。ルカはこの場面で、イエスが何者であるかを書き記そうとしただけではなく、神がイエスに用意した計画を思い巡らし始めた両親ヨセフとマリアも描こうとしたわけです。

イエスが何をしようとしていたのか、それを本当に知るためには父なる神の計画に完全に従おうとするイエスを見いだす必要がありました。ヨセフとマリアに倣い、父なる神の計画を、私たちも思い巡らす人になりましょう。思い通りに行かない時、その出来事のどこかに神が用意した時間割、神が用意した計画と少しずれがあるかも知れません。

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‥次の説教は‥‥
神の母聖マリア
(ルカ2:16-21)
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ちょっとひとやすみ
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▼iPad(第三世代)を手放すことにした。iPadを動かすのはiOSであるが、現在のバージョンは12である。ところが手放すiPadはバージョン9.6.3であり、さまざまなアプリが動作しなくなってしまった。
▼出荷状態に戻す作業を施して、再就職先へ。初めから制約の多いタブレットであることを承知の上で引き取ってもらう人には感謝している。NHKの「らじるらじる」がインストールできたので、私だったら音楽プレーヤーとして使うかな。
▼実家のノートパソコンが不調になり、数字キーを押しても数字が出なくなったと、帰省している妹から連絡があった。ネット接続はできるようになったのに、機器がなくては役に立たない。そこでクリスマスプレゼントのつもりでiPadを買ってあげることにした。
▼当時は非常に高価だったタブレットも、ぐっと身近になっていた。最新のiOS12を搭載した状態で、うらやましい限り。きっとSkypeをインストールして、茨城に帰っていく孫とテレビ電話でもするのだろう。
▼ここ数年、新年をまたぐ時間に振り返りができていない。振り返りをしていた頃は、あれほどこの儀式を大切にしていたのに。状況が変わったと言えばそれまでだが、少しだけでも振り返りをして、新年を迎えたいものだ。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
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第587回目。聖家族。小さな命は、それだけで多くを引き寄せる。

ホームページもご覧ください。
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† 神に感謝 †
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主の降誕(日中)(ヨハネ1:1-18△1:1-5,9-14)すべてに始まりを与えてくださる神

2018-12-23 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
18/12/25(No.979)
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主の降誕(日中)
(ヨハネ1:1-18△1:1-5,9-14)
すべてに始まりを与えてくださる神
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あらためて主の降誕おめでとうございます。夜半のミサ、日中のミサ、両方あずかってくださっているでしょうか。両方参加できる人は、どちらかだけ参加ではなく、両方参加してください。

「万物は言によって成った。」(1・3)ヨハネ福音書は、キリスト教が誕生して、ペトロやパウロがローマで殉教し、迫害が一層激しくなり、ユダヤ人が用いていた会堂からキリスト者が追放され、敵意の目で見られていた時代に書かれた書物です。その雰囲気の中で一つ一つの言葉が紡ぎ出されていることを意識して読み込むとより理解が進みます。

そのような時代の中でヨハネ福音記者が語った先の言葉は、神の言葉が万物に始まりを与えたという絶対の確信に満ちています。どの集会からも追い出され、日々命を狙われているその時に、「万物は言によって成った」と語ることは、どれだけ勇気のいることでしょうか。

それでも福音記者の確信は揺らぎませんでした。すべてのものが、神の言葉によって始まりを与えてもらっているというのです。そうであるなら、私たちもあらゆるものを眺める時、この出来事は、神の言葉によって始まったのだと考えるべきだと思います。

家族の形、教会家族の形、大切な人との出会い、旅立ちや別れも、出来事はすべて、神の言葉によって始まったのです。一日が無事に始まり、無事に終わりました。今日も、自分の務めを全うしました。どんなことも、始まりが神の言葉であるなら、私たちはもっと神に感謝する必要があるのではないでしょうか。

今日の福音朗読は、ヨハネ福音の冒頭の箇所です。真っ先に、「万物は言によって成った」と述べて、福音記者の流儀で神に感謝を述べているのだと思います。どんな困難の中でも、始まりに神の言葉があったのだから恐れない。信頼は揺るがない。神は必ず手を差し伸べてくださる。私たちにそのように教えているのです。

特に教会生活は、神の言葉によって成り立っています。「父と子と聖霊のみ名によってあなたに洗礼を授けます」との言葉で私たちの神の子としての生活が始まりました。堅信の時には「父のたまものである聖霊の印を受けなさい」という言葉でした。最後の晩餐の言葉を唱えて、小さなパンが聖体となります。「わたしはあなたの罪を赦します」と宣言する時、実際に罪が赦されます。他にも、どの秘跡をとっても、神の言葉によって成り立っているのです。

私たちの身の回り、私たちの生活、あらゆるものが神の言葉によって始まりを与えられました。私たちがそう理解するだけで終わってはいけません。私たちが信じたこと理解したことを、幼子イエスに変わってだれかに語りかけなければなりません。今こそその時だと思います。

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‥次の説教は‥‥
聖家族
(ルカ2:41-52)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼中学生のクリスマス会には、ケーキを買った。ショートケーキの詰め合わせというセットを買った。最初から8個入りだったのだが、よく考えたらぞっとする。中学生が全員集まったら10人である。私が遠慮しても、10個は必要だったはずだ。しかもわたしは一週間前に「いつもは教会学校に来ない子にも声をかけなさい」と言ったわけで、全員来る可能性もあったわけだ。
▼実際には来なかった。食べ物にも釣られなかったということなのか。真相を知りたくて子供達に聞くと、「誘わなかった」と言うのである。「どうして?」とさらに聞くと、「話したことないもん」ということだった。そんなものなのだろうか。ふだんは話さなくても、今回だけ声かけるというところまでは至らないということか。
▼結局子供が6名。私を含め7人で1個ずつケーキを取り分けた。私が子供の時代であれば、残る1個は取り合いのけんかになっただろう。だが何も起こらない。「食べたい人?」と言っても牽制して手を挙げない。「持ち帰るぞ」と言っても悔しそうにしない。そんなものかなぁと思いつつ、静かにクリスマス会が進んでいった。
▼最後の最後、ようやく終わり頃に賑やかになり、ケーキの他に買っておいたポテトチップスとプリッツ(「ポッキー食べなさい」と指さしたら「プリッツだよ」と返された)は喜んで取り分けた。お金のかかったケーキには反応薄かったのに、プリッツやポテチには取り合いになる。不思議な光景を見た。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
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第586回目。中学生とささやかなクリスマス会。保護者の気分。

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主の降誕(夜半)(ルカ2:1-14)すべての人の救いのために来られた

2018-12-23 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
18/12/24(No.978)
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主の降誕(夜半)
(ルカ2:1-14)
すべての人の救いのために来られた
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主の降誕、おめでとうございます。「わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。」(2・10)夫婦にとって、一人の人の誕生は大きな喜びです。しかしながら主の天使は、この一人の人の誕生を、「民全体に与えられる大きな喜び」と表現しました。

今日のミサの始まりは、照明を落とした暗い中で始まりました。人は暗闇に置かれると、光を探し求めるものです。探し求める光が、今日この世界に与えられたのです。ヨセフとマリアにとっての光、羊飼い、これから訪ねてくる占星術の学者たち、もっと言うと、暗闇に置かれている民全体、すべての人にとっての光が、今日与えられたのです。

今日のミサの中で、私たち皆が暗闇の中に置かれました。「私は暗闇の中に住んではいない。私は十分光の中に暮らしている。」そう考える人もいるかも知れません。しかしながら私たちの毎日の生活は、希望を失いそうになる出来事がたくさんあります。

私自身には生じていなくても、家族や親戚、親しい友人が、悲しい思いをして落ち込んでいたりしないでしょうか。あなたはそれを知って、共に悲しんであげるのではないでしょうか。

慰めの言葉も浮かばないような悲しい出来事を体験した時、「しかたがないよ」「あきらめようよ」ではなくて、「どんな悲しみの中でも希望を与えてくれる方がいるよ」と声をかける人でありたい。その希望の光として、イエスはこの世に生まれてきてくださったのです。

イエスは、一組の夫婦の希望として生まれてきたのではありません。周囲の人々という限られた範囲の希望として生まれたのでもありません。今何かの形で闇の中に置かれている人、何らかの影を背負って生きている人、そうしたすべての人を照らす光として、お生まれになったのです。

考えてみると、何も暗闇を抱えていない人など一人もいません。理解してもらえないことを抱えていたり、取り返しのつかない過去を抱えていたり、心や体の不調に苦しんでいたり、何かしら塞ぎ込みそうになるものを抱えて生きているわけです。イエスはその一つ一つに耳を傾け、癒やしと慰めを与えてくださいます。

イエスが今置かれている姿が、すでに光を与えようとしています。お産の環境がない中で生まれたこと、イエスの誕生に不安を抱いたヘロデに命を狙われていること。どんなに過酷な未来にも、イエスはご自分の命をかけて、私たちのために手を差し伸べてくださるのです。

この夜半のミサを終えたなら、どうか馬小屋の近くに来て、しばらく祈って帰ってください。そして「私の抱えている闇に、あなたは答えてくださいますか?」と問いかけてみてください。救い主は今、すぐに答えてくださいます。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
主の降誕(日中)
(ヨハネ1:1-18△1:1-5,9-14)
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ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼主の降誕おめでとうございます。今年は中学生とケーキを分け合って食べた。ローソクが入っていたのに電気を消さなかった。残念。あまりはしゃいでいる様子ではなかったが、私が遠慮させるような雰囲気にしてしまったのだろうか。中学1年生とか2年生は、場合によっては孫の年齢だ。じいさんがそこにいたので楽しめなかったのだろうか。
▼司祭館にはいろんなお歳暮が届く。一人ではとても行き届かない。食べ物、飲み物、感謝していただくが、全部食べ、飲むこともできず、お裾分けすることになる。多くは子供達や修道院ということになるが、早く手放さずに時間が経つと、それだけでおいしさが半減したりする。もったいないことだ。
▼感謝して受け取ったので、右から左に誰かに渡せば、気を悪くするだろう。食べ残しを分けることもできないし、食べなければ「おいしかった」とお礼のしようもない。悩ましいところだ。いずれにしても、お歳暮を通して自分のことを思い出してくれている人々にあらためて感謝の気持ちがわいてくる。
▼想像した通りの味のものもある。だが中には、見た目を裏切るおいしさのものもある。見た目、「酸っぱそうだなぁ」と思った果物が意外に甘くて驚いた。「スイートスプリング」というのだろうか。自宅に実ったものを届けてくれたそうだ。
▼以前にも書いたと思うが、私の実家には家の周辺にたくさんの果物の木が植えられていて、年中木に登って食べたりしていた。ビワの木や金柑の木には登れないが、ヤマモモ、柿、梨、いろいろあった。私個人としては金柑が庭にあったらいいなと思っている。
▼信徒会館の裏庭を開拓する計画があるが、寄付していただいた土地に柿の木がある。これは切らずに残しておこう。こっそり、金柑の木も植えようか。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
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第585回目。スイートスプリングだろうか。酸っぱい見た目に似合わず甘かった。

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待降節第4主日(ルカ1:39-45)主がおっしゃったことは必ず実現する

2018-12-22 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
18/12/23(No.977)
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待降節第4主日
(ルカ1:39-45)
主がおっしゃったことは必ず実現する
‥‥‥†‥‥‥‥

「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」(1・45)私たちに、神の働きかけを心の底から信じさせる投げかけです。私たちの中に、エリサベトと同じ信仰が育っているか、ご降誕を目の前にして、確認するひとときとしましょう。

今年、何回か釣りに行った中で、11月でしたか、3年目にして初めてイトヨリを釣りました。賄いさんにあげたので食べていませんが、「こういう場所で、こういう魚がいるのではないか」そんな推理を立てて、その通りに釣り上げた一匹でした。

釣りが好きな人は大抵せっかちな人なので、釣れないと場所を変えます。散々場所を変えてそれでも釣果がなければ、釣った経験のある場所に戻ります。いろんな試行錯誤を繰り返しながら、最終的には実績のある場所に望みをかけるわけです。

今年一年で数えるほどしか行ってないので、あれこれ言えた義理ではありませんが、自分が釣った場所の中で、今回のイトヨリを釣った場所は、「そうだろうよ。ここで釣れないはずがない。やっぱりいたか!」とブツブツ独り言を言いながら帰った忘れられない思い出です。

福音朗読に戻りますが、エリサベトの言葉は、マリアをたたえる言葉であると同時に、自らに対する言い聞かせでもあったのだと思います。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」エリサベトの夫ザカリアは、主の使いの言葉を全面的に信じることができませんでした。神の使いに「あなたの妻から男の子が生まれる」と告げられた時、信じることができなかったのです。

エリサベトはどうだったでしょうか。「私は信じたいと思います」と夫に答えたでしょうか。むしろ、「冗談言わないでください。私がいくつだと思っているんですか?本気で言っているのですか?」そう答えたのではないでしょうか。

けれども、神の計画は人が信じるかどうかで始まるのではありません。最初は信じていない人の中でも神様は計画を始めることができるのです。マリアがエリサベトを訪ねた頃には、立派な妊婦になっていたでしょう。ようやくエリサベトは、「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」このように賛美できる心境になったわけです。

人が思い描いたとおりではないかも知れませんが、神の描いた計画は必ず結果が返ってくる。その体験を積んだ人は、ますます同じ体験を深めようとします。どんな人も、結果が返ってくる場所に答えを探すからです。エリサベトにとってそれは、神の計画でした。人間のどのような業も、エリサベトを「これは必ず実現する」と納得させることはできなかったのです。

マリアも同じ気持ちでした。神の救いを待ち望んでいたマリアは、人間のどのような働きにも自分を委ねることはせず、ただひたすら、神のなさる業に信頼を置いたのです。たとえそれが人間の理解を超えることでも、神のなさり方よりも信頼できる方法をマリアは知らなかったのです。そしてマリアが持っていた神への信頼を分かち合える人、分かち合える女性は、現時点ではエリサベトの他にはいませんでした。だから急いでエリサベトに挨拶に行ったのです。

私は、趣味の釣りで迷ったら実績のある場所に戻ります。場所探しは、それはそれで楽しいですが、どうしても結果につながらないと、「あの場所だったら」という場所に行きます。たとえとしては比べものになりませんが、マリアとエリサベトが「主がおっしゃったことは必ず実現する」この体験に信頼を置いていたことを話すきっかけになればと思いました。

最後に教皇様来日のニュースを取り上げて終わりたいと思います。すでに皆さんの中でも話題になっているかと思います。来年末に、教皇フランシスコは日本を訪問したいと願っております。

教皇様は、先に前田大司教様を枢機卿に親任しました。世界で120人しか選ばれない職責で、80歳以下の枢機卿はいざという時には教皇選挙に召集される身分です。日本に枢機卿が与えられたことを見ても、いかに教皇様が日本に心をかけてくださっているかが分かりますが、今回はさらに、ご自身が日本を訪れることを表明されたわけです。

「わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。」(1・43)教皇様が日本においでになる大切なわけを、私たちも来年末まで思い巡らしたいと思います。教皇聖ヨハネ・パウロ二世が来日した時にまかれた種が、今たくさんの実を結んでいるように、今回の訪問で、次の時代に必要なものを教皇様の言葉と行いから学ぶことにしましょう。

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‥次の説教は‥‥
主の降誕(夜半)
(ルカ2:1-14)
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ちょっとひとやすみ
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▼日本語のミサ典礼書は1978年に発行され、試用期間10年という条件で採用されたと理解している。今年は2018年だから、それから40年も経ったわけだ。試用期間10年が終わってからも30年経っている事態を、重く受け止めなければならないと思う。
▼フランシスコ教皇様がいよいよ日本においでになる。日本の司教団はそのためにずいぶん骨折られたのだと思う。その中でも、前田万葉枢機卿様の働きは大きかったのではないだろうか。もちろん日本の司教団が一致して働きかけたとは思うが、そこに枢機卿様が一人加わっていたのが決め手になったとしても不思議ではないだろう。
▼一介の司祭がとやかく言う筋合いではないが、この機会に、日本語のミサ典礼書の発行を決断して欲しいと思う。私は去年の今頃、母親と韓国に行った際に、韓国語のミサ典礼書が新しく発行されるという情報を得ていたので、受け取りができるように手配をしてもらっていた。
▼日本に帰ってその韓国語のミサ典礼書を開いた。当時の学習レベルでは一頁も読み終えることはできなかったわけだが、発行年が2017年になっている。これを見ただけで、「あー、日本の教会は・・・」とつい思ってしまった。
▼「あー、日本の教会は・・・」と他人事のように言ってはいけない。日本の教会は私たちの教会でもある。何とか、一つの教会を動かすことで、例えば教区全体、日本の教会全体に少しでも連鎖があればと願う。だれもが新しい日本語のミサ典礼書を願っている。いろんな形でその思いを届け、一日も早い完成を願っている。

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今週の1枚
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第584回目。韓国語のミサ典礼書より。2017という数字がうらやましい。

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待降節第3主日(ルカ3:10-18)当たり前のことをする中に準備を織り込む

2018-12-15 | Weblog
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こうじ神父
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18/12/16(No.976)
‥‥‥†‥‥‥‥
待降節第3主日
(ルカ3:10-18)
当たり前のことをする中に準備を織り込む
‥‥‥†‥‥‥‥

「ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。」(3・18)今週の福音朗読の結びを読みながら、二度見したと言いますか、腑に落ちないなと私は思いました。「福音」はイエスがもたらすはずのものです。なぜイエスと出会う前に、洗礼者ヨハネは福音を告げ知らせていたと書かれているのでしょうか。

移転を控えている坊田公民館の前を通り過ぎる時に、道路反対側の小屋に面白い看板を目にしました。黒い下地に、目立つように白と黄色のペンキで、こう書いてありました。「天の国は近い。罪を悔い改めなさい。」念のため、写真を撮ってきました。

余程、私たち田平教会に対抗意識があるのでしょうか。坊田地区の人たちが悔い改めないから、強い口調で警告を発しているのでしょうか。その辺は分かりませんが、いつまでこの張り紙を貼るのか興味深いです。ご復活の頃にも貼ってあるなら傑作です。またその時期に注意して見てみたいと思います。

福音朗読に戻りましょう。悔い改めは洗礼者ヨハネのほうが専門家です。彼は自分には厳しい生活を課していましたが、集まってきた群衆には、それぞれの生活の中で、当然払うべき努力の範囲で生活を神に向け直すように促しました。決して無理なことを要求しませんでした。

もしかしたら、無理難題を要求した方が、受けが良かったかも知れません。ですがヨハネは決してそんな態度に出ませんでした。当時の宗教指導者たちが平気で背負いきれない重荷を民衆に背負わせていたのとは対照的でした。「イエスは言われた。「あなたたち律法の専門家も不幸だ。人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとしないからだ。」(ルカ11・46)

ヨハネの示した方向に、福音があるのだと思います。来たるべき方を信じて歩く。無理難題の向こうに福音があるのではなく、徴税人も罪人も、イエスを信じて歩くなら、そこに福音があるのです。ヨハネは本能的にそれを理解していて、そのように民衆に説いたのです。

実際イエスも出会うすべての人に、ご自身を信じてついてくるようにと促しました。その中には徴税人も罪人もいました。決して受け入れようとしない宗教指導者たちにも、指導的立場に留まりながらイエスの示す方向に向き直るためあらゆる手を尽くしました。十字架の上でさえも、同時にはりつけにされている罪人に神に向き直るためのチャンスを与え、一人は回心しました。

ヨハネはまだイエスを見ないうちから、聖霊によってイエスの方向に人を向き直らせ、福音を告げ知らせたのでした。人をイエスの指し示す方向に向き直らせる時、すでにその人は福音を告げ知らせているのです。下着を二枚持っている者が一枚を分けてあげるとき。食べ物を分けてあげるとき。規定を守ってお願いするとき。自分の給料で満足し、感謝できるとき。すでにその人の中で、福音が芽生えているのです。

私たちは福音を告げ知らせる者でなければなりません。だれもが、イエスの示す方向に人を案内する者でなければなりません。それは日常を超えた特別な使命ではなく、今日果たすべきことを果たして、その先をちょっと眺めたときにイエス・キリストがおられる。その積み重ねなのです。

「だれか失敗して私にチャンスが回ってこないだろうか。」この考えの先に、イエス・キリストが待っておられるでしょうか。おられないと思います。「だれかに責任を負わせたら、私が責任を逃れることができる。」これまた同じことで、その先を見つめてもイエス・キリストは待っておられないでしょう。

私たちも今は、洗礼者ヨハネのように「わたしよりも優れた方」(3・16)を待っています。今の生活の積み上げの先に、イエス・キリストをお迎えする場所が用意できるでしょうか。たとえそれが家畜小屋のような粗末な場所であっても、誠実な準備を積み重ねているなら、イエス・キリストを迎えるのにふさわしい部屋を用意できます。

「わたしたちはどうすればよいのですか。」腰が引けるような大げさな準備は必要ありません。形式張ってだれかに言ってもらう必要もありません。あなたの今の生活の中で、救い主を迎える準備は必ずできるのです。

あと少し、人に親切にするとか、あと少し、怒りたい気持ちを我慢するとか、そんな身近な努力で、イエス・キリストを迎えるための静かで暖かい部屋を整えましょう。幼子としておいでになる救い主が、私たちの心を住まいとしてくださる日が近づいています。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
待降節第4主日
(ルカ1:39-45)
‥‥‥†‥‥‥‥


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ちょっとひとやすみ
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▼とうとう宗教家が金で解決する事態となった。大げさな言い方だが、金で解決したのはこれから書く三点である。
▼(1)ノートパソコンのイヤホンジャックにイヤホンを差したのに利用できなかったので、イヤホンジャックの細かな設定を探る努力をせずに解決できそうな備品を買ったこと。
▼(2)冬になり、重宝する靴下を探したが見つからず、また買ったこと。(3)バイクのバッテリーが上がってしまい、車庫から教会正門下までのスロープで3度押しがけを試したがうまくいかず、バイク屋さんを呼んでお金で解決したこと。
▼お金を出す前に、何とかできなかったかと思うが、特にバイクのバッテリー上がりは、この一週間急に気温が下がり、油断していてバッテリーの残量がみるみる減ったのだと思う。3回押しがけして、筋肉痛でお尻が痛くなった。
▼貧乏暇なし。23日は主日の説教、24日夜はクリスマス夜半の説教、25日朝はクリスマス日中の説教。30日は主日の説教、1月1日は神の母聖マリアの説教、2日は里帰りした人たち30人への黙想会説教。1月20日は佐世保地区で講座を受け持っていて45分の講話。貧乏暇なし。

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今週の1枚
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第583回目。「天の国」は近いそうだ。似たような看板をかつて五島でも見た。

ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/

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† 神に感謝 †
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待降節第2主日(ルカ3:1-6)すべてに始まりを与えてくださる神

2018-12-08 | Weblog
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(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
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こうじ神父
「今週の説教」
18/12/09(No.975)
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待降節第2主日
(ルカ3:1-6)
すべてに始まりを与えてくださる神
‥‥‥†‥‥‥‥

待降節第2主日は洗礼者ヨハネが活動を始める様子を描きます。田平教会でも同じ始まり方で3回話しているので、そろそろ皆さんも覚えてくれていると思います。ただ今年は、洗礼者ヨハネに焦点を当てるのではなく、洗礼者ヨハネを活動へと駆り立てた「神の言葉」に注目したいと思います。

洗礼者ヨハネのおかげで、イエスの宣教活動の地ならしができたことは確かです。彼が授けていた悔い改めの洗礼は、当時ユダヤ人たちが行っていた身を洗い清める儀式と違う新しさがありました。当時のユダヤ人たちが行っていた儀式は、毎日身を洗い、清められていくと考えていました。

一方ヨハネが授けていた悔い改めの洗礼は、一度だけ受ける儀式だったようです。今の洗礼がそうであるように、一度悔い改めの洗礼を受け、繰り返す儀式とは考えていませんでした。そういう意味で彼は先駆者です。

ではヨハネは「先駆者になるぞ」と思って悔い改めの洗礼を宣べ伝えたのでしょうか。決してそうではなかったと思います。一度限りの、決定的な洗礼を授けてくださるお方に、道を整える。そのことだけを考えていました。

ヨハネは自ら意識して「私が始まりだ」とは思っていませんでした。けれども彼は先駆者です。すると彼に先駆者の役割を与え方がいるはずです。それは、父なる神でした。ですから今日の場面は、神がヨハネに先駆者の役割を与えて活動させたという、新しい時代の始まりに関する父なる神の物語なのです。

今日の洗礼者ヨハネの活動のように、新しい形の始まり、新しい時代の始まりを神様が与えてくださるさまを、私たちは捉えたことがあるでしょうか。ここにおられる皆さんはたしかに経験済みです。私たちの教会の百年を祝うために、長く一つの祈りを唱えてきました。「田平教会献堂百周年の祈り」です。祈りの第一声は何だったでしょうか。「すべてに始まりを与えてくださる全能の神よ」でした。

この教会の建設に、中田藤吉神父様が先頭に立ってくださいました。中田神父様の呼びかけに、田平の神の民はすべて惜しまずに協力しました。ただし始まりを与えてくださったのは、父なる神、全能の神だったわけです。

私たちはあの祈りを二百回、三百回と唱えて何を学んだのでしょうか。それは、神様が私たちの教会の始まりを与えてくださったということです。始まりを与えていただいて、百年の歴史を紡いできました。この歴史の糸をさらに紡いでいくためには何が必要でしょうか。私は百周年の記念誌に、「縄をなう働き」をたとえに話しました。縄を伸ばしていくためには、少しずつ藁を継ぎ足していく必要があるのです。

洗礼者ヨハネは、決定的な救い主、それはイエス・キリストですが、この方をふさわしく準備するように、人々を悔い改めへと導きました。彼は与えられた時間で、イエス・キリストにつながる人を少し継ぎ足したのです。決して、全世界に行ったのではありません。少し、藁を継ぎ足したのです。

これが私たちの今週の学びだと思います。父なる神は、洗礼者ヨハネを通して、当時新しい時代の始まりを与えてくださいました。父なる神の招きに答えて、ヨハネは歴史の縄をなうのに必要な人々を継ぎ足してくれました。

私たちの時代にも、歴史の縄をなう人々が必要です。一度に百人も二百人も必要なのではありません。一人とか二人、田平教会の歴史の縄を伸ばしていく人が必要なのです。そのためには働きかけが必要で、働きかけの始まりを与えてくださるのは常に父なる神です。神が私たちに始まりを与えてくださるのですから、私たちは自分のできることで、呼びかけにこたえる必要があります。

洗礼者ヨハネは、「荒れ野で叫ぶ声」となって呼びかけに答えてくれました。では私は、どのように答えたらよいでしょうか。私たち田平教会の歴史の縄を紡いでいく藁は、どこから手に入れたらよいでしょうか。家族の信仰の歴史の縄を紡いでいく藁を、どのように確保したらよいでしょうか。

「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」(3・4)私たちの教会に始まりを与えてくださる全能の神が、呼びかけの応答を待っておられます。

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‥次の説教は‥‥
待降節第3主日
(ルカ3:10-18)
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ちょっとひとやすみ
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▼私が何を好むのか、この年になってようやく分かった。この前の病人訪問で、全く同じ状況で別の結果になった出来事があった。Aさんの見舞いの時、フォトスタンドに聖フランシスコザビエルの腕「聖腕」の写真が飾られていた。
▼私はその人に「興味深い写真ですね」と話しかけ、それを受けてAさんは静かにこの写真が手に入った由来、当時の様子などを聞かせてくれた。興味深く聞かせていただいた。
▼Bさんの家では、田平教会創建当時のステンドグラスの写真を見せられた。その人は私が聞きたいかどうかも聞かず、この写真を持っていうる由来と、この写真を撮影した時の様子を延々と話した。私は我慢してその話が終わるのを待った。
▼私は、その対象物が語りかける声を聞きたいのだと知った。百万の言葉で水も漏らさぬ説明を聞きたいのではなく、写真や絵や、その人が刻んできた歴史を、そのものが語っているのを聞きたいのである。
▼「聞きたいでしょ。聞きたいはずだから話して差し上げます。」全く私の心は動かなかった。私が欲しいものは、語らずとも語りかけている実物なのだと悟った。きっとこれからも、AさんとBさんの私に対する接し方には埋まらない開きがあるのだと思う。
▼もはや好きでもないものを好きだとも言えない歳になってきた。好きでないものは我慢はするが、好きなものにはならないと思う。先に語って聞かせようとしている人よ。私は申し訳ないが、あなたの話を聞いちゃいない。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第582回目。写真を撮影できれば良いが。教会の育成会で食事に出かけた。

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【文庫本の問い合わせについて】
文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
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3冊セットの提供が可能になりました。ABC年セットで
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待降節第1主日(ルカ21:25-28,34-36)主はあなたを解放するために来られる

2018-12-01 | Weblog
当ブログをお読みくださり、ありがとうございます。

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
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(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
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こうじ神父
「今週の説教」
2018/12/02(No.974)
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待降節第1主日
(ルカ21:25-28,34-36)
主はあなたを解放するために来られる
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典礼暦が改まり、新しい一年が始まりました。主日(日曜日)の朗読福音もマルコ福音書を中心に組み立てていくB年から、ルカ福音書を中心に組み立てていくC年に切り替わります。朗読箇所から「このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。」を取り上げて、ご降誕への準備を始めることにしましょう。

土曜日の朝ミサで少し話したのですが、皆さんは引っ越しの経験があるでしょうか。私はこれまで少なくとも6回引っ越しを繰り返してきました。学生の身分から初めて赴任した浦上教会、2度目の助任司祭として滑石教会、初めての主任司祭として太田尾教会、2度目が馬込教会、3度目が浜串教会、田平教会が4度目の引っ越しです。

6回引っ越して痛いほど分かったことがあります。大切なことはどれだけ荷物を減らせるか、ということです。初めのうちはとにかく空っぽにして旅立つ、それだけのために荷造りをしていました。ですから最初から必要ない物まで箱に詰めて新しい任地に送っていたのです。「ひょっとしたら必要かも知れない」ならまだ分かりますが、絶対に必要ない、そんな物まで荷物の中にあったのです。

徐々に分かってきました。「ひょっとしたら必要かも知れない物」これも、「必要ない物」です。こうして考えられる限り物を捨てたり誰かに譲ったりして、次の任地に向かう。それでいいのだと思えるようになりました。世の中の言葉で言えば「断捨離」ということになりますが、今週の福音朗読に当てはめて考えると、「解放の時が近づいている」この呼びかけを思い起こさせます。

厳密に、福音朗読で取り上げている「解放の時」と訳されたギリシア語は、「代価を支払って奴隷を買い戻し解放すること、贖いの業」を意味する言葉です。それはまずはキリストの十字架、「御自分の血によって、人の罪を赦してくださり、そこに神の恵みが示された」この出来事のことです。さらに、イエスの再臨が、すでに始まった救いの出来事を完成させるための「解放の時」なのです。

イエスによる「解放の時」は、再臨によって完成されます。再び「解放の時」を迎えることで、完成です。私たちがキリストの再臨の時をふさわしく迎えるために、自分の身の回りにある体験で準備をするとよいと思います。私にとってその大きな出来事は時々繰り返される引っ越しです。

初めのうちは必要な物ばかり考えて荷造りをしていました。司祭として奉仕するために、これは必要、これも必要。ひょっとしたらこれも必要、息抜きのためにはこれも必要。このような物への執着から、「ひょっとしてすら、必要ない」と何度も執着から解放されて、新任の時よりも10年目、10年目よりも銀祝を迎えてから、金祝を迎えた時はなおさら、奉仕に集中できるように造り変えられるのだと思います。

あくまでこれは自分自身の体験ですが、皆さんの中にも「解放の時」を何度か繰り返して、洗礼を受けたキリスト者としてふさわしくイエスを迎える姿に造り変えられる方法はあるはずです。ぜひ見つけて欲しいと思います。今回一つだけ、例を示しますので、よりご自分に合った方法で、私たちも身近な方法で「解放の時」を知り、ふさわしくイエスを迎える生き方に自分を近づけていくことにしましょう。

おそらく皆さんの中の多くの人は、時間は大切だと言うでしょう。時間があまりに大切なために、祈りをする時間すら惜しいと思っている人もいるのではないでしょうか。たしかに起きている間目一杯活動すれば、充実感はあるかも知れません。ただそれが、救い主を迎える準備にうまくつながっているでしょうか。ここが問題です。

古い話ですが、畑作業をしながらも昼になったら「お告げの祈り」を唱えている時代がありました。私は長崎滑石教会の伯父さんに沖釣りに連れて行ってもらった時、「昼になったからお告げの祈りをしようや」と言われ、私が気にも留めていなかったことを恥ずかしく思いました。

こうして、作業中に祈りを唱えることで、畑仕事を神様の喜びに変え、趣味の釣りでさえも神様に向けることを忘れなかったのです。収穫第一、超過第一という執着から解放されて、神様の喜びとなることを第一にする人に造り変えられていったのです。

身近な祈りという手段で、私たちは自己愛の強い自分から解放されて、解放の時を待つことができるようになります。私にとって、今の生活と両立する解放の時の準備の仕方は何でしょうか。利己的な自分から解放される体験を積んで、決定的な解放の時を与えてくださる主を待つことにしましょう。

「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。」(21・34)幼子として救い主が到来するその日、準備を怠った人のように呆然として主を迎えることのないように、自分に合った準備を見つけ、準備を始めることにしましょう。

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‥次の説教は‥‥
待降節第2主日
(ルカ3:1-6)
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ちょっとひとやすみ
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▼年末の大掃除。掃除が苦手な私にはあまり心に響かないが、年末の掃除を通してこの一年を振り返り、解放の時に結びつけるのかもしれない。目的や意義をキリスト教的なものに変えながら文化を受容してきたのはキリスト教のよいところだと思うので、大掃除の意義について尋ねられたら「執着していたさまざまな物から解放されて、次の一年を身軽にイエスの僕として働くためだ」と話してあげよう。
▼「平成最後のナントカ」は今年のキーワード。私にとって平成最後のナントカは本当のところ何だろうか。あまり平静にこだわって生きてこなかったので、思いつかないのも当然だろう。平成の始まりの時には、前日の新聞と当日の新聞の両方を買いそろえた。昭和最後の新聞に意味があるのか分からないが、今回も平成最後の新聞と新元号の最初の新聞と買ってもよいかも。
▼「ボヘミアン・ラプソディー」という映画を観てきた。私の中の直感のようなモヤモヤが解決した映画だった。主人公フレディ・マーキュリーの波乱の人生。歌の中に人生が込められている。語り継がれる人には、それなりの圧倒的な人生ドラマがあると思った。
▼最近、NHKが振り切れていると感じる。「ねほりんぱほりん」という教育番組や、落語のドラマを観ていると、「NHKもメーターが振り切れたか」と思うのだ。むしろ視聴者の私たちが振り切れた人生を送っていないことを思い知らされる。石筍であったり、雨のしずくが石に穴を開けたり、そんな変化が感じられる人間、生きざまを思った。

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今週の1枚
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第581回目。うまくいったら12/2平戸文化センターでのザビエル祭の写真。

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† 神に感謝 †
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