こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

神のいつくしみの主日(ヨハネ20:19-31)私たちは見ないのに信じることができる民

2018-04-07 | Weblog
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(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/180408.mp3
(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)

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こうじ神父
「今週の説教」
2018/4/8(No.939)
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神のいつくしみの主日(ヨハネ20:19-31)私たちは見ないのに信じることができる民
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「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」(20・29)神のいつくしみの主日にあたり、このみことばを味わってみたいと思います。「見ないのに信じる」という姿には、二つのことを汲み取れると思います。

一つは、「見ないのに信じる」このために何が必要なのか、ということです。それは「聞くこと」だと思います。多くの出来事は、見ることができるのはごくわずかでも、大勢の人が聞くことができる場合が多いのではないでしょうか。

私は今現在、初金曜日と翌日の土曜日とで25人の病人訪問をしていますが、このほとんどが、ミサにあずかりたくてもあずかることができません。1人か、2人は、家族の協力があって、年に数回ミサにあずかるくらいで、毎週参加することはまず不可能です。

それでも、聖体を司祭が運び、聖体拝領の準備の祈りを唱えて、「神の小羊の食卓に招かれた者は幸い」という言葉を聞いて、信仰告白をして聖体を拝領します。目の前でさえもミサの様子を見ることはできませんが、ミサの主要な部分を耳で聞くことで、いのちの糧にあずかっているのです。

病人訪問をしているある人たちに、ミサの説教を2か月とか3か月に1回まとめたものを届けています。ミサの説教は、私の顔を見なくても声さえ聞くことができれば意味がありますから、「見ないのに信じる」またとない材料になっています。何回も何回も聞いてくださっている人もいます。

皆さんは教会に来て、1回聞いて、反芻することもなく、それっきりかもしれません。けれども病気でミサに来ることのできない人が、「見ないのにイエス・キリストを信じる」そのために説教を繰り返し聞いてくれています。

もう一つ、「見ないのに信じる」について考えるためには、「まだ見ぬ未来」について考えてみてはいかがでしょうか。たとえば、「神の国の完成を待ち望みながら、主の祈りを唱えましょう」という招き方があります。「神の国の完成」はまさに、「まだ見ぬ世界」です。けれども私たちは、「見えないものを見ているかのように」主の祈りを唱えているのです。あたかも、すでに実現しているかのように、主の祈りを唱えるのです。

同じように、今見ていないけれども、あたかも見ているかのように信じている人は、すでに幸いを得ている人です。これはわたしたちにぴったり当てはまっています。今のわたしたちが、「見ないのに信じる人は、幸いである」この生き方を歩んでいるのです。

わたしたちは何を見ないのに信じているのでしょうか。5月13日を、私たちは「見ないのに信じる」神の民なのです。5月13日になって、神がこの教会を百年守ってくださって、私たちも一役になったことを、見たから信じるのでしょうか。そうではありません。「見ないのに信じる」のです。この日に向けて委員会の中に加わった人はその中で、毎日の祈りで献堂百周年の祈りを唱えた人は祈りの中で、その日を見ないのに、その日の喜びと感謝をすでに信じてきたのです。

献堂百周年が、目の前まで来ました。一人か二人は、百年前に生きていたかもしれません。献堂された日をわたしたちは見ないで信じています。今こそ、献堂されてから百年のその日を、「わたしたちは見ないのに信じる者たちである」と、人々の前に証しましょう。信じること、信じたことが報われることを、約束してくださる復活のイエスが、私たちの後ろ盾です。


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‥次の説教は‥‥
復活節第3主日
(ルカ24:35-48)
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ちょっとひとやすみ
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▼メルマガ配信が遅れてしまった。中には心配をしていた人もいるかもしれない。ようやく夕方4時半に説教をひとまず書いて、それからこのコーナーを書いている。私たちは呼び止められてようやくお役に立てる、そういうことが多いので、こればかりは致し方ない。
▼イエスは呼び止められて働き始めた人だろうか。違うと思う。しばしば人を呼び止めて働きかけた。漁師を弟子にするときも、マタイを弟子にするときも、ヤコブの井戸でサマリア人の女性に福音を語る時も。
▼ひょっとしたら、ここが日本における宣教の致命的な部分なのかもしれない。私たちはどれだけの人を、信仰を語り合うために呼び止めたのだろうか。一度も呼び止めたことがなかったのではないだろうか。するとイエスの働きはいつ、この日本に実を結ぶのだろうか。
▼とにかく、働きかけよう。折がよくても悪くても。今回の「ちょっとひとやすみ」はこの辺で。

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今週の1枚
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第546回目。桜は強風で散ってしまい、その次の目を楽しませるものが現れた。

ホームページもご覧ください。
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文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
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† 神に感謝 †
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