こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第17主日(マタイ13:44-52)神の国の働きを新しいものからも古いものからも見る

2020-07-25 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2020/7/26(No.1073)
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年間第17主日(マタイ13:44-52)
神の国の働きを新しいものからも古いものからも見る
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【期間限定】YouTubeで説教を視聴できます。
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(ミサ再開のため、現在は古いもののみ視聴可)
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「天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」(13・52)自分の倉から新しいものと古いものを取り出し、どちらからも天の国のことを自在に話せる。これがまことの学者です。この世の中に数え切れないほど学者がいても、天の国のことを学んだ学者は限られています。

7月25日は聖ヤコブの祝日でした。聖ヤコブの霊名をいただいた人で皆さん誰を思い出しますか?まずは田平出身の山内豊神父様を思い出してください。今年は25日に豊神父様の住まいを訪問して、お祝いの品を渡し、一緒にミサをささげてきました。いつもは一人でささげるミサを中田神父と教会役員とが一緒にささげたので、とても喜んでおられました。

それはそうだろうと思います。私も政府の緊急事態宣言の期間、教区本部の通達に従って個人でミサをささげていました。「主はみなさんと共に」と唱えても誰も返事のないミサです。「主よ、あわれみたまえ」と自分で言って、「主よ、あわれみたまえ」と自分で答えるミサです。私はせいぜい二ヶ月くらいでしたが、豊神父様は引退してから10年、15年、忠実にささげてくださいました。一緒にミサをささげながら、頭の下がる思いがしました。

ミサが終わってから、しばらく豊神父様が思い出話を語ってくださいました。私たちがまったく知らない原爆投下から半年後の浦上と大浦の様子から、私が知っている時代の話まで、自在に引き出しから出して話してくださいました。それはすべて、神様が豊神父様を導いてくれた信仰の歩みでした。どの話からも、神父様が司祭になって神様を証しする材料になっていました。

私は山内神父様に、イエス様が言う「天の国のことを学んだ学者」の姿を見ました。思い出話の中で一つ紹介しませんでしたが、豊神父様が司祭になるにあたって、「天の国のことを学んだ学者」に育っていたことを伺わせる思い出を語っていました。

豊神父様は大神学校の最終学年になって、「考えに考えた結果、私は司祭になる自信がありません」と、霊的指導を8年間つきっきりでしてくれたカナダ人の司祭に打ち明けたそうです。それに対してカナダ人の霊的指導司祭(おそらくツルデル神父様だと思います)は次のように言ったそうです。「だったら司祭になりなさい。」その場に居合わせた人が気づいたか分かりませんが、その思い出を語りながら、「あの時『だったら司祭になりなさい』と言ってもらったおかげで、こうして司祭叙階60周年を迎えることができました」と感慨深げに振り返っていたのを私は見逃しませんでした。

私も、今50歳を過ぎて、その意味が分かります。「司祭になる自信がない」自信がないほうが、むしろ司祭に適しています。「自信がある」という人は得てして成功しないからです。自分の能力を過信せず、いつも慎重に司祭職を果たす、用心深い人。自分の能力ではなく、「弱さの中に働く神の力」を信じて生きる人。そのような人をイエスは弟子として求めておられるのです。

歳を取った人の話に、中田神父はあまり興味がありませんでした。そもそも歳を取った人のどこが優れているのか、理解できていませんでした。記憶力も、瞬発力もない。けれども自分がかつて煙たがっていた中年になった時に、この歳にならないと語れないことがあるし、ここに辿り着かないと気づかないことがあると、納得したのです。

「天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」40年前の体験に良い味付けをして、天の国のこと、信仰を生きる人のことを語る材料にできる。今若い人のあいだで猛烈に流行していることの中に、天の国のこと、信仰を生きている人のことを語る材料を見つけることができる。30代、40代でも、できなかったかも知れません。それが今少しだけできるようになった。豊神父様の年代になる時が、私は楽しみになってきたのです。

私たちはそれぞれ「古いもの」を持っています。「古いもの」を持っていない人もいますが、ほとんどの方が「古いもの」を持っています。その「古いもの」は、倉から取り出した時に、神の国のことを何か感じさせるでしょうか。「古いもの」でも、取り出せばいつでも神の国の何かを感じさせる。そういうものは貴重です。いつまでも大切に保管してください。

一方で私たちは、「新しいもの」を持っています。新しい味付けで生まれ変わったものも、「新しいもの」に含まれます。新しい世代の人は「カセットテープ」を知らないので、それを見た時に「新しい何か」だと考え、今カセットテープは静かなブームになっているそうです。そう言えば、スペインのサンチアゴ巡礼も、500年前にすたれて誰も見向きもしなくなっていましたが、21世紀になって、最盛期だった年間50万人の巡礼者に迫る勢いなのだそうです。ちなみに、「サンチアゴ」とは「聖ヤコブ」のスペインでの呼び名で、聖ヤコブにささげられた壮麗な大聖堂への巡礼を「サンチアゴ巡礼」と呼びます。

私たちの中になる「古いもの」と「新しいもの」が、倉から引き出される時、いつも「天の国のことを知らせる道具」でありたいものです。もっと言うなら、私たちが大切にしまっているものの中に、「天の国のことを知らせる道具」以外のものがあるとすれば、それらに執着すべきではありません。私たちが大切にしまうべき「古いもの」「新しいもの」は、「天の国のことを知らせる道具かどうか」いつもこの基準で整理整頓したいものです。

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‥次の説教は‥‥
年間第18主日(マタイ14:13-21)
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ちょっとひとやすみ
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▼「PLCアダプター」という物を買った。コンセントに差すだけで、有線LANを用意できるというスグレモノ。田平教会の司祭館は建て増しをした結果東西に長いため、無線LANで東側の台所と西側の勉強部屋を接続できない。
▼そこで、まずは「無線LANの増設機器」を買って接続してみた。これで主任司祭の用事は済んだのだが、現状では台所に無線が届かないのは問題になる。台所でも無線Wi-Fiが必要になっている。だが、いろいろ増設機器の置き場所を工夫するが、確実に接続できない。
▼そこで、昔から目を付けていた「電力線インターネット」の原理を応用した「電力線室内LAN」の機器を購入。自分が目を付けた頃からしても進歩しているようなので、導入を決断。届いた商品は至って簡単で、親機と子機を適当な場所のコンセントに差すだけで準備ができた。
▼「おお!」と思わず声を上げる。これだと、コンセントのある場所であれば自由にLANを利用できる環境が用意できる。たまに、接続が不安定なことはあるが、無線と違って距離を気にせず、LANケーブルでインターネットを利用できる環境が整った。
▼今週の説教との兼ね合いで言えば、この「PLCアダプター」は「古くて新しい機器」だが、「天の国のことを知らせる道具」かと問われると疑問が残る。それでも、教会学校の子供達に、西側の勉強部屋でしか見せることのできない素材を見せることもあるのだから、良い買い物だったと考えよう。

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今週の1枚
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第680回目。せっかくの連休だったが、休日らしきこともせず巣籠もり。

ホームページもご覧ください。
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今週の「笑える」
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「釣りアイテムを『ガマダス』で揃えてみた」「そんなメーカーあったっけ?」
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† 神に感謝 †
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年間第16主日(マタイ13:24-43)ちょっと毒のある人いるよね

2020-07-18 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2020/7/19(No.1072)
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年間第16主日(マタイ13:24-43)
ちょっと毒のある人いるよね
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「畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。」(13・27)ついつい取り除きたくなる要素を、辛抱強くそばに置きます。たとえでイエスが教えようとしていることを見つけ、私たちの信仰生活に、教会生活に、活かしていきましょう。

新型コロナウィルスの感染が、平戸地区の行事にも影響してきました。今年の「福者カミロ・コンスタンツォ殉教祭」は協議の結果中止ととなりました。県内の感染者も増えてきています。8月の人の移動とか、政府のキャンペーンとか、様々なことで危険が増すと判断しました。

教会の行事を社会情勢で中止せざるを得ない。そんな時代が来ています。もし強行して多大な迷惑をかければ、私たちキリスト信者の行動は人々に理解されなくなります。ここは忍耐が必要です。

福音朗読に戻りましょう。僕たちは毒麦を取り除きたいと考えていますが、主人は「取り除く」のではなく「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。」(13・30)と命じました。私たちも、僕のような考えに傾き、僕が提案した行動を取ろうとするのだと思います。

このように考える私たちは、たとえ話の主人ではなく、僕なのだと思います。私たちの身の回りにも、「毒麦を抜いてしまおう」という考えや行動はたやすく入り込みます。たとえば、人材を集める必要があって、募集してみたら思いがけない人まで応募してきたとしましょう。

すると「この人がいたらやっかいだ」そういう考えが先に立ち、早めに手を打とうとするのではないでしょうか。たとえば「人数が定員を超えたので何人かはお断りすることになります。人選はお任せください。」その後に「毒麦」と考えるメンバーを取り除こうとするでしょう。

「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。」この世界では見る人の都合で、あるものが「毒麦」と見られてしまいます。たとえ話の主人は、見る人の都合ではなく、本性が現れて、みずからが毒麦であり、焼かれなければならない束であると正体を見せるまで忍耐して待ちます。主人の考えに立つと、両方とも育つままにしておけば、誰かが判断しなくても、変わらない本性の部分が現れて、どのように扱うべきか決まってくると言うのです。

たとえ話のまことの主人であるイエスは、「わたしに倣いなさい」と暗示しています。今は裁きの時ではなく、憐れみの時なのです。神は悪をうやむやにせず、いつか裁くでしょう。しかしイエスが再びおいでになり、収穫を命ずるまでは、憐れみの時、忍耐の時なのです。

イエスの思いに反し、急いで判断を下してしまい、「抜き集めよう」とする。人間的な判断で事態を丸く収めようとする。これらはイエスの思いを理解しない者のすることです。ここが、たとえ話を聞く人が「僕」に終わるか、「イエスの弟子」になるかの分かれ目です。

イエスの思いを知らず、イエスの前に立ちはだかる人は決してイエスの弟子にはなれません。イエスの再臨の時まで長く感じるかも知れませんが、私たちはよく観察し、見極めなければなりません。イエスがここまでして忍耐の時を過ごすそのわけを考えなければなりません。

忍耐の時を受け入れる。どんなに勇気の要ることでしょうか。勇み足で毒麦を抜くほうが、どれほどやりやすいでしょうか。なぜ「僕」のような考えに傾くのか。私たちがほぼ間違いなく、自分のことを「良い麦」と理解しているからです。「毒麦」「毒のある人間」「他人に害を与える人間」とは、夢にも思っていないからです。

たとえを語るイエスがこうまでして「両方とも育つままにしておく」のは、「私という毒麦」を収穫のときに束ねて燃えさかる火に投げ込まないためなのだと、もし一度でも考えるなら、イエスの忍耐に私たちも理解が及ぶのだと思います。実際、私を「毒麦」の立場に置いた方が、たとえ話はよりよく理解できるのではないでしょうか。

「抜き集められても仕方ない」というような発言や行動を、私たちはこれまで一度もしたことがないのでしょうか。「あんなことを言ったり態度を取ったりしています。抜き集めておきましょうか。」私たちにほんのわずかでも、指摘される覚えがないと言うのでしょうか。

私が前任地にいた時、東北からの旅行者を熱心に五島に案内してくれる旅行会社の人がいました。最初のうちは教会訪問の申し込みを受け入れて、自由に教会訪問していってくださいと返事をして、直接会うことはありませんでした。

ある時たまたま聖堂内に用事があって入ってみると、巡礼の引率者らしき人が聖堂内に入り込んだスズメを追い払おうとしていました。その時こんなふうに言っていたのです。「おーいスズメ、ここから出なさい。そうでないと焼いて食べるぞ。」

私はびっくりしてとっさに注意したのです。「スズメを焼かないでください。食べないでください。」彼は自分の発言を詫びました。実はそれが縁で、その後この旅行会社のツアーの教会訪問を何度も受け入れることになりました。

彼はあのとき、軽い気持ちであんな発言をしたのかも知れません。けれども私はそれをすぐに罰しようとしたのでした。「毒麦を抜いてやったぞ」そういう気持ちだったかも知れません。あとで考えると、巡礼者も一緒にいる場で責任者を叱責するのは良くなかったと思います。

振り返ると、私は自分自身を「毒麦」とは思っていませんでしたが、引率者を皆の前で叱る態度は「毒麦」の態度だったかも知れない。神の前に、神の僕から「抜き集めましょうか」と言われるのは私だったかも知れません。神はそれを制して忍耐し、今日まで、振り返りと反省の機会を与えてくれたのだと思います。

私たちは常にイエスの語るたとえ話の中に含まれています。けれども常に「良い麦」だとは限りません。「毒麦」の立場でもたとえ話を読み返し、よりイエスの忍耐を学ぶ必要があります。イエスの忍耐は、私を含むすべての人のいのちを守るためだからです。

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‥次の説教は‥‥
年間第17主日(マタイ13:44-52)
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ちょっとひとやすみ
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▼手元に紙芝居が二つある。一つは長崎原爆に遭い、ご苦労された片岡さんという女性の半生を描いたもの。一つは平戸地区のカテキスタ委員会がかつて制作した「カミロ・コンスタンツォ神父福者殉教者」の生涯を描いたもの。どちらも興味深い。
▼紙芝居には当然「読み聞かせ」が必要になる。まずは読み聞かせる相手は「小学生・中学生」ということになるだろうから、子供達に伝わるような読み方を考える必要があるだろう。登場人物、特に主人公が男性なのか女性なのか、どのような背景があるのか、さまざまなことを知っておく必要があるだろう。
▼保育園で先生が読み聞かせをする姿を思い浮かべる。上手な先生のもとには園児たちが集まり、「これを読んで」「あれを読んで」とたくさん依頼されるかも知れない。なかなか、司祭はそのような「求められる読み手」にはなれそうもない。
▼少し話は逸れるが、NHK衛星放送で、「天地創造」が放送された。「イサクをいけにえにささげる」この場面が最も印象深かった。そのように、場面が映像として、「紙芝居」朗読で表現できたらすばらしい。
▼大げさな読み方や変に声を変えたりするのもどうかと思うが、聞き手、受け手が十分想像を働かせることができる。そういう朗読で紹介した二つの紙芝居を活かしたいものだ。

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今週の1枚
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第679回目。茶色の「手動裁断機」の箱に「1.7才」と書いてある。これは何?

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今週の「笑える」
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「私、あれって。お告げのアレになったと」「もしかして『まごころ会員』?」
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† 神に感謝 †
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年間第15主日(マタイ13:1-23)あなたの中でも百倍の経験は存在する

2020-07-11 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2020/7/12(No.1071)
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年間第15主日(マタイ13:1-23)
あなたの中でも百倍の経験は存在する
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「ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。」(13・8)種蒔きしたものの中で、豊かに実を結ぶものが出てきます。それが百倍になるのか、どうなるのかは神様に任せるとして、私たちはいつか豊かな実りにあずかると希望することができます。

人間誰でも、何かしらの才能を種蒔かれていると思います。それは神様から、生きていくために役に立てて欲しいと与えられているわけです。ですから「種を蒔く人」の原点は人となられた神の子、イエス・キリストのことです。イエスは実りを計算するのではなく、実りを得られない危険も承知で人類に種蒔きを開始します。

「その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。」(13・1)これはイエスがたとえを通して弟子たちに種まきをするという暗示かも知れません。あるいは父なる神が自ら家を出て、人間の世界に独り子イエスを遣わし、人類の救いのために「一粒の麦」となって死んでくださったことの象徴でしょうか。蒔かれた種は確かに実りました。蒔かれた種の実りである十二使徒も、その後の教会指導者たちも、いのちをかけて神の民を守ってくれました。

蒔かれた種が、多くの実を結ぶ。それは体験によって知るのがいちばんでしょう。私の母方の祖母はカタカナしか読めない環境で孫たちを慈しんでくれましたが、中でも祈りの精神を教えてくれました。時間になると何を置いてもロザリオと晩の祈り、日常生活では「歩きながら主の祈りを唱えなさい。そうすれば歩みも軽やかになります」と教えてくれたのでした。祈りのない生活などない。それが祖母の教えでした。私の人生の土台を作ってくれた人です。そう考えると、祖母が蒔いた種は私の中で百倍に実ったのだと思います。

私は福岡の大神学校時代、上級生になって福岡市内の教会に日曜学校の実習に出るようになりました。聖書を開いて子供達に教えますが、聖書全体を見渡すためには書名を覚えていなければなりません。

福岡市内の子供達は優秀な子供達がいました。西南学院とか九大を目指している子供から問い詰められて答えに窮することもあったのです。旧約聖書、新約聖書全体の書名を覚えていれば、神の働きがどのように私たちに届いてきたのかをじっくり話すことができます。最初のうちはそれができず、申し訳ない気持ちになりました。

完全に旧約聖書と新約聖書の書名を覚えたのは浦上教会の助任になったときです。子供達の要理に加え、カトリックセンターでの聖書講座にも呼ばれることがあり、概略を話すときにどうしても書名をすべて覚えておく必要がありました。その時代に苦労して覚えたことが、今になって大いに役に立っています。「鉄道唱歌」という歌に合わせて私は覚えました。皆さんもその気になれば、きっと覚えられると思います。

この、旧約聖書と新約聖書の書名をすべて覚えたことが六十倍の実りだったかも知れません。三十倍の実りは、まったく違うところからでした。私はまとまった時間の話をするときに、初めに参加者の気持ちをつかむため少し時間を使います。話を聞く人たちは、最初から熱心に耳を傾けてくれる人ばかりではありません。「聞いてみようかな」という気持ちにさせないと聞いてくれない人もいるわけです。

そこで私は、純粋に興味を引くためだけの話題を持ち出して、こちらを向いてもらうことにしています。最初の頃はあとで聞く話の準備になっていることもありましたが、繋がっている話をしても繋げてくれない人もいるので、最近はあまり気にしていません。

その中でいちばん役に立ったのが、「ルービックキューブ」でした。ご年配の方はよく知らないかも知れませんが、サイコロの形をしたパズルで、六つの面すべての色が完全に揃うことを楽しむものです。私はこれを高校生の時夢中になって取り組んでいました。現在でも、2分半から3分あれば、六面すべての色を揃えることができます。興味がある方は、「こうじ神父ブログ」の「今週の1枚」というリンクをご覧になってください。

このルービックキューブは一時期日本でも爆発的に人気が出て、その時期はたいていの家庭に一個あって、完成できないまま放置され、見向きもしなくなっていたのです。子供達や学生たちに「私の所に持っておいで。完成させてあげるよ」と言うと喜んで司祭館に持ち込んできて、話が弾むのでした。たくさんの家に放置されていて、それを話題にして人を知り、家庭を知るきっかけになるわけですから、これは三十倍の実りをもたらした道具だったと思います。

振り返って、私たちはどのような種蒔きを受けたのでしょうか。蒔かれた種がいつどのように実を結ぶのか、それは神様がお決めになることです。神様は多くの種蒔きが無駄になるかも知れないと理解しています。それは私たちの用心が足りずに奪い取られたり、覆い塞いだりするからです。それでも神様が私たちに蒔いてくださった種は、見事な実をつけるのです。人間の目には失敗に見える結果からも、神は実を結ぶことができます。それは独り子イエスの十字架上の死で証明済みです。

ですから私たちは信じましょう。神様が私たちに種蒔きしてくれた。あとは神様が実を結ばせてくれる。信じて、心を開き、神様の声に、神様の導きに委ねましょう。神様に心を開ききるなら、聖霊の働きで、私たちは実を結ぶことができる。私たちそのものが、この世界に神から蒔かれた種なのです。

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‥次の説教は‥‥
年間第16主日(マタイ13:24-43)
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ちょっとひとやすみ
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▼「弟子は取らない。」ここにはすでに「弟子にしてください」と言いに来た人がいる。「弟子は取らない。」言ってみたいものだ。少し形を変えるなら、「助任は取らない。」まぁ、助任司祭をつける教会と言えば、今は浦上教会しかないだろうが。
▼なぜ「弟子を取らない」のだろうか。せっかく自分が完成させた高い技術や理論を、学びたいという人が目の前に現れて、それを「弟子は取らない」と言って断る。なぜだろうか。弟子を取らなければ、その技術、技法は廃れてしまうのに。
▼イエスさえ弟子を取った。しかも12人いちどに受け入れた。もし「弟子になりたい」と言う人が目の前に現れたら、私は二つ返事で受け入れる。指導することができるか、ちゃんと一人前に育てることができるか、そんなことは気にしない。
▼弟子が与えられたら、私が与えられるものはすべて与えるだろう。弟子に追い越されるかも知れないが、そんなことは関係ない。弟子になりたいという人が私を選んだ。それだけで十分ではないか。説教もいくらでも真似してよい。考え方や癖や、欠点も見て構わない。その弟子が越えていく踏み台になることも。

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今週の1枚
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第678回目。ルービックキューブ。懐かしいでしょ。自宅に転がっている?
https://youtu.be/eS-Ywt-ZZjE
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今週の「笑える」
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「ふちか。これ何だろう?」「いやいや、『不知火』は『しらぬい』だから」
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† 神に感謝 †
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年間第14主日(マタイ11:25-30)人は十字架上でこそ、学びと安らぎを得る

2020-07-04 | Weblog
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2020/7/5(No.1070)
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年間第14主日(マタイ11:25-30)
人は十字架上でこそ、学びと安らぎを得る
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「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」(11・29)イエスの軛を私たちが負うとき、私たちは最も学びを得ます。イエスの軛を負うときがいつなのかを考えてみましょう。どのような学びを得て、それがどのように安らぎに結びつくのでしょうか。

福音朗読に戻りましょう。イエスは「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」と言います。ここで言う「わたしの軛」は、何のことでしょうか。イエスが私たちに求めることは、「わたしの軛」と言えるでしょう。マタイ福音書から探してみると、5章から7章でまとめられている「山上の説教」は「わたしの軛」に当てはまるでしょう。

具体的には、「腹を立ててはならない」「姦淫してはならない」「離縁してはならない」「誓ってはならない」「復讐してはならない」「敵を愛しなさい」「天に富を積みなさい」「人を裁くな」こういったことが並べられていますから、これらを守ることはイエスが言う「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」と言うことになるでしょう。

けれどもイエスは、これら日常生活の具体的なことをずらっと頭に思い浮かべて、「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」と言ったのでしょうか。違うかも知れません。それらをすべて含む軛、一度ですべてを超える、そんな軛のことを思い浮かべてあのように言ったのかも知れません。それは何でしょうか。

もしイエスが、軛として一つだけ思い浮かべておられたのなら、それは「十字架上の犠牲」のことだと思います。十字架上で、人間の救いのためにご自身をささげることを、「わたしの軛」と言っておられたのではないでしょうか。

そうであるなら、「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」とは、「わたしと共に十字架を負い、わたしに学びなさい」と言っておられるのです。人が、日々の十字架を負うとき、私たちはイエスがになった十字架を一緒に担うことになります。「イエスの十字架を一緒に担う」と言うよりむしろ、自分の十字架を担って初めて、人間を救うために十字架にかけられたイエスの御心を知るのです。

日々の十字架を担うとき、私たちにはどんな学びがあるのでしょうか。イエスはゲッセマネの園で、苦しみもだえ、次のように言いました。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」(マタイ26・39)「杯」とは、これから待ち受けている十字架の死に至るまでの苦しみのことでしょう。イエスはこの緊迫した場面で、自分の知恵に頼らず、御父に心をすべて開いて、「御心のままに」と自分を委ねたのです。

日々の十字架を担う私たちの学びはここにあります。「なぜ?」と思うような試練、苦しみ、理不尽な仕打ち。これらに自分の知恵で意味とか価値を探そうとすると、絶望的になるかも知れません。こんなに親切にしているのに裏切られたとか、こんなに思いやっているのに恩を仇で返されたとか。そんな仕打ちを甘んじて受け入れる理由がどこにあるでしょうか。

けれどもイエスは、私たちに模範を示し、慰めてくださいます。「わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」私たちにとって日々の十字架を担うことが、イエスの軛を負ういちばんの近道です。時代を超え、場所を超えて、十字架こそが、私たちとイエスとの共通の軛ではないでしょうか。

同じ一つの軛に繋がれているから、重荷は負いやすく、軽くなります。同じ一つの軛に繋がれているから、共にいてくださるイエスのおかげで安らぎを得ることができるのです。もちろん十字架の重さはイエスとはまったく違いますが、神に心を完全に開いて日々の十字架を担うなら、十字架を担う日々はいちばん学ぶときであり、いちばん安らぎを得るときになるでしょう。

同じ一つの十字架を担った、長崎の小神学生時代の体験を話しましょう。私が知っているわけではありませんが、当時の神学校はちょっとした軍隊生活のようなものでした。好き嫌いは決して許されず、縦割りで分けられた六人掛けのテーブルで食事をしていた中で、食べ残そうものなら最上級生がそれを決して許さず、食べるまでほかのメンバーは待たされるのでした。

あるとき新入生がワカメスープを食べられず、残してしまいました。現時点ではもう時効ですが、テーブルの最上級生は切れ目の先輩でした。最初に全員注がれたワカメスープに新入生が箸を付けなかったので、先輩は「食べ終わるまでこのテーブルは食後のレクレーションに入ることは許さん」と言うのです。

困り果てまして、ほかのメンバーは恐ろしくて凍りついています。私はとっさに思い付きまして、給食の鍋のような大鍋に用意されたワカメスープがすべて無くなれば、先輩も嫌がらせはできないに違いないと思い、大鍋のワカメスープを全部平らげようと、私がおかわりをし始めたのです。10杯、それ以上おかわりしたでしょうか。最後には先輩が根負けしまして、新入生は勘弁してもらい、私たちも食堂を出てレクレーションに移ることができたのでした。

後に思ったのですが、私はあの時、初めての同じ一つの十字架を背負うことができたのでした。新入生は食べられずに苦しんでいる。ほかのメンバーは身動き一つできずに苦しんでいる。イエスも、そばで苦しんでいたはずです。幸い私は行動を起こせたので、他人の苦しみとイエスの苦しみを学ぶことになり、最後に許されて、安らぎを得たのです。

神秘的ではありますが、十字架上でこそ、人はイエスと同じ軛を担うことができます。十字架上でこそ、最高の学びを得ることができます。十字架上が、神が与えてくださる安らぎを得られる場所なのです。日々の担う十字架を通して、私たちも最高の学びと安らぎに預かりましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第15主日(マタイ13:1-23)
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ちょっとひとやすみ
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▼長い長い一日だった。朝6時に平日(土)のミサをささげ、食事を取り、朝9時に老人ホームの病人訪問に出る。戻ってきて10時から葬儀ミサを執り行う。昼食を済ませ、午後1時からミサを伴わない結婚式。それに続けて小学5・6年生の教会学校、締めは夕食を終えてから夜7時の主日前晩のミサ。「ぶっ倒れそう」とはこのことだ。
▼亡くなった神父様を思い出す。1年だけお仕えした助任司祭の時代、「暑くて今日は死にそうです」と言ったら「●ね」と言われた。当時はパワハラも何もなかった時代。言われれば意地を出してそれを乗り越えていく時代だった。次に同じような状況になって「今日も暑かなあ。死にそうですって言え」と言うので、「言いませんからね」と返したのが懐かしい。
▼ぐったり疲れた一日だったが、充実感はある。まるで30代の時のような働きぶりで一日を終えられることに心から感謝している。日曜日は二日過ぎたが「聖トマ使徒」の霊名のお祝いをしてもらうので、心置きなく祝ってもらえそうだ。
▼熊本県は大災害に見舞われた。12時のニュースを見て、言葉を失った。人吉市にはお世話になったことがあり、川沿いの町々が見る影もなく浸水しているのを見て、胸が張り裂ける思いだった。祈ることを通して、嘆く人、泣く人の心に寄り添いたい。

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今週の1枚
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第677回目。水分を制する者は健康を制す。最近は水をよく飲むようにしている。

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今週の「笑える」
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「Woo~翼のついたエンジェル♪」「それだと『みんな飛べるエンジェル』」
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† 神に感謝 †
コメント
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