こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

四旬節第1主日(マタイ4:1-11)今年は「これらの石がパンに」を黙想します

2023-02-25 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2023/2/26(No.1223)
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四旬節第1主日(マタイ4:1-11)今年は「これらの石がパンに」を黙想します
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「瀬戸山の風」3月号に書いたのですが、中村大司教様の田平小教区公式訪問の際は、皆様にご協力頂き、感謝申し上げます。それなのに、私は信徒との集いの式次第の中で、評議会議長あいさつをすっ飛ばしてしまい、穴があったら入りたいくらいです。責任を取って田平教会主任司祭を降りたいくらいです。まだ、降りませんけど。

四旬節第1主日は、イエスが悪魔から誘惑を受ける場面が朗読されます。悪魔は三つの誘惑で挑みます。三つとも考える材料にするのではなく、今年はその中の最初の誘惑「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」を考えてみたいと思います。

この誘惑で、「空腹を覚えられたイエス」がパンを欲しがるというのは分かるのですが、なぜ悪魔が「石」「石ころ」をパンになるように命じたらどうだと誘惑するのだろうか?とふと考えました。30年このかた、考えたことも無かったのですが、イエスにパンの誘惑をするだけだったら、何も無いところからパンを生み出すことだってできそうなものです。悪魔はなぜ、「石」「石ころ」を最初に取り上げたのか。

どこかの解説に書かれていたわけではないのですが、「聖書の分かち合い」だと思って聞いてください。この「石」をパン屋に持ち込んだら、パンと交換してくれるとしたらどうでしょうか。どこにも説明されていませんが、石にいくらかの価値があって、パン屋が喜んでパンと交換してくれる。その可能性も無くはありませんね。

しかしそれでも悪魔はイエスを、この世のものに依存して神への信頼から引き離してしまおうとしていることに変わりはありません。こうしてみると、悪魔の誘惑は私たちへの誘惑でもあるわけです。

私たちも日常で神への信頼から遠ざかっているなら、追い詰められた事態になるとますますこの世のものにすがろうとしてしまいます。まんまと悪魔の誘惑に引っかかってしまいます。そこをイエスはご自分の模範で戒めようとするのです。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」(4・4)

ただ実際は、私たちは誰かを通して、「神の口から出る一つ一つの言葉」を聞きます。中田神父は二人の神父様に助任司祭としてお仕えし、それぞれの神父様の言葉でこれまで活かされてきたと強く感じています。一つは川添神父様の、「お前なぁ。六十(歳)にならんと言えんこともあっとぞ」です。私は調子に乗りすぎて公の場で失言したことがありました。それを戒めた言葉です。今中田神父は、もう少しで六十歳になろうとしている中で、「あの言葉は神の口から出る一つ一つの言葉であった」としみじみ思うのです。

もう一つは、竹山神父様の言葉です。教会建設を本腰入れて始めようとする時期で、肺炎でお亡くなりになる前、個人的に言われた言葉です。振り返ると私への遺言となってしまいました。「聖堂は、どうやって建つか分かるか?聖堂はな、祈らんば建たんとぞ。」今まさに耐震工事が目の前に迫っている。その準備として積立もしている。しかししかし、祈らなければ、耐震工事は完成しない。そういうことではないでしょうか。

祈りの積立が十分でなければ、ルカ14章30節の「あの人は建て始めたが、完成することはできなかった」ということにもなりかねません。祈りが込められた聖堂として、耐震工事は完了しなければなりません。竹山神父様の言葉も、六十歳を間近にようやく「神の口から出る一つ一つの言葉であった」と思います。

私たちを活かしているのは、「神の口から出る一つ一つの言葉」です。微量の金が混じっている石で活かされているのでもなく、行列ができるほどのパン屋さんのパンでもありません。むしろこの世のパンを犠牲にして、100年以上前に聖堂を完成させた先祖の祈り、先祖の口を通して唱えられた「神の口から出る一つ一つの言葉」が、私たちを活かしているのです。

悪魔は、この世のものにすがり、しがみつく人を簡単に誘惑して自分よりも悪い存在にしてしまいます。しかし「神の口から出る一つ一つの言葉」に拠り所をおいて生きる人は、たとえその人がか弱い子どもであっても、誘惑し征服することはできないのです。

神の口から出る一つ一つの言葉は、特にこのミサを通して私たちに豊かに与えられます。悪魔に隙を見せず、神のことばが一人一人を満たし、強めてくださるよう、このミサの中で祈っていきましょう。

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‥次の説教は‥‥
四旬節第2主日(マタイ17:1-9)
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ちょっとひとやすみ
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▼葬儀が入った。田平教会では葬儀の後に「七回のミサ」をお願いしてくる。かつては「七日連続のミサ」のことだったが、なかなか一週間ミサに続けて参加できなくなってきているので、「日曜日ごとに、七回」ミサを依頼する形になってきている。
▼ただ、復活の主日や、クリスマス(2022年は日曜日だった)、神の母聖マリアの祭日(2023年1月1日も日曜日)が途中に入ると、一週ずらすことになる。そうすると七週でおささげしているミサも八週かけておささげとなる。
▼亡くなった方のご遺族から七つのミサを依頼される。2月26日から開始したとして、七週目が復活の主日(今年は4月9日)になり、ここは一回休みとなる。すると八週目が4月16日。「間に合った。」

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今週の1枚
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第830回目。田平小教区公式訪問で大司教様の侍者をしてくれた高校生。7年前は。

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† 神に感謝 †
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年間第7主日(マタイ5:38-48)希望の扉を開く家族になろう

2023-02-18 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2023/2/19(No.1222)
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年間第7主日(マタイ5:38-48)
希望の扉を開く家族になろう
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本日、親子での洗礼式が入りました。特にお子さんと一緒に洗礼を受けるお母さんは、朗読された聖書の言葉から、洗礼を受けた後の人生をどのように歩いたらよいか、汲み取ってほしいと思います。

朗読された箇所は、「敵に対してどのように振る舞うべきか」を教えてくれますが、いくつかは、「敵」ではなく「自分の子」に対してどのように振る舞うべきか、と受けとめて考えてみると良いと思います。

例を挙げましょう。「だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。」(5・41)一ミリオンはだいたい1480メートルだそうです。遊園地、例えばハウステンボスに出かけたとしましょう。すると子どもはあっちにも行こうこっちにも行こう、まぁ次々と両親を引っ張り回すと思います。子どもが行きたいと言っても、親は足が疲れたらいつまでも付き合えません。そんな事情を子どもは考えませんから、一日くたくたになるまで付き合わされることになります。

しかしもし、子どもに最後まで付き合って、子どものほうが降参するまで一緒に歩けば、子どもは親の深い愛を受けとめるでしょう。それは遊園地だけのことではありません。今日洗礼を受けるこの子は、二週間もすれば初聖体を受けます。初聖体を受け、卒園して小学校に上がると、教会では教会学校に通うでしょう。お母さんよりも早く、祈りを覚え、先へ先へと進む子どもと、ぜひどこまでも付き合ってください。

初聖体、その後の堅信へと、子どものカトリック信仰が成長し、先へ進むのに合わせて、お母さんもたとえ一ミリオンだろうが二ミリオンだろうが、ずっと一緒に歩いてほしいのです。

「求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」(5・42)これも子どもと親の間で当てはまります。ついこの前与えたばかりなのに、子どもは平気で壊したり無くしたりします。「あんまりひどいから、代わりの物はあげない。」そう言いたくなりそうですが、背を向けず、辛抱強く与えてください。

私は小学生の時、祈祷書を無くす困った子どもでした。「無くす」というよりは、教会バックを持って回るのが面倒くさかったのです。そのためどこで無くしたのかも分からず、母親を大変困らせていました。あまりにも無くすものだから、最終的に母親は、祈りを一つ覚えてからでないと外に遊びに行くのを許さなくなり、そのせいで中田神父はほとんどの祈りを覚えたのでした。ちなみに学校内での漢字の試験は、祈りを暗記する習慣が付いてから同級生に負けたことがありませんでした。

今日親子で洗礼を受けることで、親子はあらためて教会の扉を開いた、と中田神父は考えています。この扉は、洗礼を受けた親子と家族にとってどんな扉でしょうか。中田神父は「希望の扉」と言って良いと思います。洗礼によって希望の扉を開いた親子は、扉の先で、イエス・キリストからたくさんのお世話を受け、恵みで満たされるのです。扉の向こうにイエス・キリストが待っていて、迎えてくださるから「希望の扉」なのです。

ぜひこれからも、「希望の扉を開く家族」として成長していってください。教会でこれからお世話になる扉は、「向こうに誰が迎えてくれるのか分からない」そういう扉を開けようとしているわけではありません。扉の向こうで必ずイエス様が待っていて、恵みでいっぱいにしてくださいます。喜びでいっぱいにしてくださるのです。

日々の生活では、「この扉の向こうはどうなっているのだろう」そんな心配をしながら前に進むこともあるかも知れません。しかし教会でお世話になる扉は常に「希望の扉」です。安心して、信頼して教会生活を進めていきましょう。

できれば、家庭で一日の始まりにお祈りをちょっとして(たとえば家族で主の祈り、アヴェ・マリアの祈り、栄唱を唱える)、一日の始まりも、神様に向かって扉を開いてくれると、希望に満ちた一日を始めることができると思います。

今日の洗礼式を通して、ご家族みなが「希望の扉を開く生活」がどんなものかを知りました。周りの方々も、どうか良いお手本となって、田平教会家族がそろって、「希望の扉を開く」教会家族となりますように。それではこれから、洗礼式を始めることにしましょう。

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‥次の説教は‥‥
四旬節第1主日(マタイ4:1-11)
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ちょっとひとやすみ
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▼大司教様、田平小教区を公式訪問してくださりありがとうございます。大司教様が訪問してくださったことで、田平小教区は勇気を持って目の前の難題に正面から立ち向かうチャンスを頂きました。
▼大司教様が公式訪問する機会は数年に一度なので、次に訪問されるときには今回の課題とすでに取り組んで、新しい課題や目標を見つけていることでしょう。大司教様がともに歩んでくださる姿を見せてくださることで、小教区は安心できます。
▼どうかこれからもお体に気をつけられて、この長崎大司教区を導くイエス様の見えるしるしとなってください。いつも考えていることは、大司教様が取り組んでいきたいことに、長崎教区民は全力で協力する、ということです。

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今週の1枚
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第829回目。もしチャンスがあれば、ミサの様子・信徒との集いの様子を。

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年間第6主日(マタイ5:17-37)わたしが来たのは堅信を受けるあなたのためである

2023-02-09 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2023/2/12(No.1221)
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年間第6主日(マタイ5:17-37)
わたしが来たのは堅信を受けるあなたのためである
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今日は、今年堅信を受ける中学生、来年堅信を受ける中学生のために話したいと思います。日曜日にここで話している内容を「説教」と言います。あまり聞いたことのない言葉でしょうね。「お父さんお母さんに説教された」そういう経験ありませんか?

たまに中田神父もお父さんお母さんがするような「説教」をすることもありますが、ミサの中での「説教」は、直前の福音朗読、イエス様のみことばを「解き明かして教える」ということです。

イエス様のみことばを「解き明かす」と言っても、中田神父がイエス様より偉いわけではありません。イエス様の言いたいこと、伝えたいことを10分の1でもいいから、伝えようとしているのが「説教」です。

ですから、できるだけ、その日の朗読を繰り返し読んで、「イエス様は何を伝えたいのだろうか」と考え、それを毎日の生活と結び付くように工夫して中田神父は説教をしています。結構苦労して準備しているので、頭はこんなに禿げてしまいました。

今週の朗読箇所、長かったのですが、鍵になっているみことば、全体をまとめるようなみことばが最初に語られています。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」(5・17)今日はここで終わりです。この一節を味わうために、いろいろ話したいと思います。

イエス様は「わたしが来たのは(中略)廃止するためではなく、完成するためである」と言っています。今週朗読しているイエス様の物語はマタイ福音書から取られていますが、福音書は四つありますから、福音書全体で、「わたしが来たのは、◯◯のためである」という言い方を何回しているのでしょうか。

福音書全体を見渡すと、重なっている箇所を除いて、5箇所、見つけることができました。5つとも、並べてみましょう。

マタイ5:17「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。
マタイ9:13「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
マタイ10:34「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。」
ルカ12:49「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。」
ヨハネ10:10「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」

これから堅信を受ける、中学生の皆さんに当てはめてみましょう。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」イエス様は堅信の秘跡で、中学生のあなたを完成するために来るのです。知恵と理解、判断と勇気、神様を知り、神様を愛し、神様を敬う。これらはまだまだ十分ではありませんでした。けれどもイエス様がおいでになって、聖霊によって堅信の恵みを注いでくださり、あなたを完成させてくれるのです。

「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」堅信を受ける中学生は直前に赦しの秘跡を受けました。正しい人、立派な人だから堅信のお恵みを受けるのではないのです。自分の力だけではとても正しい道を歩けないので、イエス様が導いて聖霊によって堅信のお恵みを授けてくださるのです。

「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。」剣は何かをぶった切るためのものです。テレビゲームをなかなか止めず、お父さんお母さんに頼まれたことを後回しにし、しまいには果たさなかったことがないでしょうか。

テレビゲームの誘惑をぶった切るために、イエス様は堅信を受ける中学生のもとに剣を用意します。「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。」これも同じようなものです。誘惑から離れないときに、誘惑を燃やしてしまって離れることができるように、イエス様は堅信を受けるあなたのもとに火を投げ込むのです。

そして最後に、「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」イエス様は堅信を受けるあなたが命を受けるために、それも豊かに受けるために、聖霊を通しておいでになるのです。

ここまで話した四つ五つのことが、堅信を受ける中学生に豊かに命を与えてくれるのです。口から食べるものばかりではなく、ミサに来て読み聞かせてもらったイエスのみことばと、私たちの中に来てくださる御聖体が、堅信を受けた中学生を豊かに命を育んでくださいます。信頼して、2月19日の堅信式に臨むことにしましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第7主日(マタイ5:38-48)
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ちょっとひとやすみ
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▼長崎新聞のコラムに、LGBTの発言で更迭された総理秘書官のことが取り上げられていて、この秘書官が「総理に申し訳ない」と言ったそうだが、「誰を向いて申し訳ないのか」と厳しく質していた。もっともなことだ。
▼司祭もミサの中で説教する。思い上がった説教や理屈ばかりの説教は「誰を向いて話しているのか」そういうことになる。信徒に向けて話しているなら、上から目線の説教などできるはずがない。信徒の中にいるイエスに向かって説教しているならなおさらである。
▼誰に向かって説教しているのか。誰に、理解を得ようと話しているのか。「誰それ」ではないはずだ。説教はすべて、そこにおられるイエスに向けてである。「わたしはお前の説教を聞くためにここに来た。」

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今週の1枚
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第828回目。亀の手。味噌汁でも、そのまま生でもいける。五島が懐かしくなる

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年間第5主日(マタイ5:13-16)私たちは26聖人にささげられた教会の家族

2023-02-04 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2023/2/5(No.1220)
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年間第5主日(マタイ5:13-16)私たちは26聖人にささげられた教会の家族
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ミサの初めでもお知らせしましたが、田平修道院のシスターが容態が良くないそうなので、お祈りください。今年は、2月5日が日曜日で回ってきました。長崎教区にとって、2月5日は日本26聖人殉教者の祝日です。さらに私たちが今ミサをささげている聖堂は、日本26聖人に献げられていますから、日本26聖人そのものに親しみがなくても、この聖堂への愛着を通して、2月5日を心に刻んでほしいと思います。

さて、田平教会は山の上にある教会です。台風の風もいちばん受けますし、雷の影響もしばしばです。献堂百周年の時に記念誌のタイトル募集をしたことを思い出します。「祈りは未来へ」というタイトルが選ばれましたが、中田神父も応募していました。「天空の教会」です。気温差の大きな日、田平教会はときおり霧に包まれました。そこに教会だけが浮かび上がる光景を想像して書いたのですが、一次審査で即刻ボツになりました。

ところで新約聖書の舞台であるパレスチナでは、「山の上にある」ということはおおいに利点があったようです。「山の上にある町は、隠れることができない」(5・14)と言われていますし、「ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らす」このことにも触れています。

当然、山の上にある町がたいまつをともしたり、それぞれの家がともし火を燭台の上に置けば、その町全体が周囲からよく見えるようになり、「世の光」の役割を果たすでしょう。同じ役割を、田平教会聖堂は百年以上、果たしてきました。今現在であれば、土曜日の繰り上げミサの明かりは、きっと平戸瀬戸を通過する大型船、大小さまざまの漁船の目に留まり、対岸の平戸島の人々の目にも留まっていることと思います。

日本26聖人に置き換えて考えてみましょう。彼らが殉教した場所は、当時は最も見晴らしの良い場所だったかもしれません。彼らはともし火は持ってなかったでしょうが、彼ら自身が「世の光」でした。そして「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」(5・16)このイエスのことばを完全に実行したのです。

振り返って、田平教会聖堂は、人が居ないのに明かりがともるでしょうか?そんなことはありません。田平教会の家族が、ミサに参加したり、聖堂内での典礼行事や、黙想会に出席したりすることで、夜の時間に明かりをともすことになります。

ではもう少し踏み込んで、田平教会聖堂を、「山の上にあって、明かりがともる聖堂」にする人々は、募集して集めた人々でしょうか。バイト代を払って集められたのでしょうか。そうではありません。この聖堂に集まる一人一人、自分の中に光があって、その光を人々の前に輝かそうと、この聖堂に集まっているのではないでしょうか。

もちろん、漠然とこの聖堂に集まっている人もいるでしょう。けれども今日から皆さんは全員、この聖堂を「山の上にある町」「燭台の上のともし火」にするために集まる人々に変わりました。イエスの次のことばを聞いたからです。「あなたがたは世の光である。」(5・14)

念のために言っておきますが、「あなたがたは世の光である」この光は、暗闇の中でだけ働くのではありません。日曜日の一番ミサ二番ミサの人にも当てはまります。田平教会聖堂に集まるすべての人が、田平教会聖堂を「山の上にある町」「燭台の上のともし火」にしてくれている人々です。

「この教会が燦然と輝くのは、レンガで作られた百年前の聖堂だから」それもありますが、この百年の歴史を繋いできた皆さんの中にある光が、この聖堂を輝かせているのです。その自覚と誇りが必要です。

最後に残っているのは次の言葉です。「人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」先日一組の夫婦が田平教会聖堂を訪ねてくれました。一年半前に訪ねたとき、県道に沿って柵が設けられていて敷地内にも入れなかった経験をしたそうです。けれども今回は、「お祈りをなさるための訪問でしたらどうぞお入りください」と案内所にお伝えして、聖堂内で熱心にお祈りをささげて帰られたそうです。

この夫婦は、私たちと同じようにこの田平教会聖堂を「山の上にある町」にしてくれました。田平教会を訪問して、レンガと、ステンドグラスまでたどり着く人はいくらでもいます。けれどもこの聖堂で祈る人々がいて、ミサをささげる人々がいる。そこまでたどり着く人は数えるほどしかいません。レンガとステンドグラスをたたえる人がどれだけいても、その人々は「地の塩、世の光」ではないので、天の父をあがめる人は増えないのです。

私たちは違います。私たちが集まるとき、私たちは天の父をあがめる人を増やすのです。いつその結果が見えてくるかは分かりませんが、私たちは信じて、この聖堂を「山の上にある町」「燭台の上のともし火」にするために引き続き集まりましょう。2月19日、ペトロ中村倫明大司教様の小教区訪問が実現すると、「人々があなたがたの天の父をあがめるようになる」その時が現実のものとなるかも知れません。

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‥次の説教は‥‥
年間第6主日(マタイ5:17-37)
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ちょっとひとやすみ
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▼ネジを巻き直すのは時間が経つにつれて難しくなってくる。堅信組の、堅信式前のテストを行ったが、以前であれば「祈りの試験」で祈りが唱えられないと、「この程度の祈りが唱えられなくて堅信を受けるのかい?」という強い口調だったが、「頑張ったんだなぁ」と思ってつい許してあげる気持ちが湧いてくる。
▼筆記試験でも、七つの秘跡の試験箇所の中で「堅信の秘跡」の項目に完成できなかった項目があると、以前であれば「堅信を受けるのに、ほかでもない堅信の秘跡の箇所が完成できないとはどういうことよ?」と言っていたのに、今や「よく頑張ったなぁ」とつい許してしまう。
▼ネジを巻き直すのが難しくなってきているとすれば、何も与えられなくなる危険もある。自分で巻けないネジは、強制的に人に巻いてもらう。それも有りだと思う。

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今週の1枚
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第827回目。毎日の読書第4巻の18頁。第一朗読の該当箇所が見つからない。

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