こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第18主日(ヨハネ6:24-35)イエスが与えてくれるものなら何でも(2)

2021-07-31 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2021/8/1(No.1133)
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年間第18主日(ヨハネ6:24-35)
イエスが与えてくれるものなら何でも(2)
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3年前の説教を引っ張り出して、もう一度取り上げることにしました。福音朗読で群衆がイエスに問いかけ、イエスが群衆に答えるやり取りが出てきます。「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」(6・34)「わたしが命のパンである」(6・35)。群衆とイエスの、しりとりのような言葉のやり取りはまったく噛み合っていません。この噛み合わないやり取りから今年も学びを得ましょう。

小教区報「瀬戸山の風」に書きましたが、墓地写真台帳を作成することにしました。これからのことを考えると、子や孫の世代が皆、墓地の場所を正確に記憶し続けているとは限りません。お墓の場所を調べてもらって墓参りをする。そんな事態が近いうちにやって来るかも知れません。

そこで、お墓に無事たどり着けるように台帳を作成することにしました。「瀬戸山の風」には来月も墓地写真台帳のことを書くつもりですが、150基ほど取りかかった時点で、すでにいくつか問題点が生じております。

たとえば、昔の墓のことです。石材店に建ててもらった墓ではなくて、レンガくらいの大きさの石をいくつも寄せて作った墓があります。これが誰の墓なのか、写真を撮影しただけでは全く分かりません。他にも、こけが生えてしまって名前が読めなくなっている墓もあり、これは困難な作業になるな、と感じながら進めております。

さて群衆とイエスの噛み合わない対話の最後はこうでした。「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」「わたしが命のパンである」これは、イエスが招く場所にたどり着けない人間の、変わらない姿なのかもしれません。

多くの人がいろんな時代、いろんな場面で「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と問いかけるのですが、考えの及ばない私たちは、命のパンであるイエスにたどり着けないのです。

ミサの始めにお知らせしましたが、京都教区の名誉司教であったライムンド田中健一司教様が93歳でお亡くなりになりました。私は全く面識がありませんが、愛媛県宇和島市で生まれ、高松教区の司祭となりまして、司祭生活銀祝のときに京都教区の司教に選ばれ、以来21年間司教職を全うしました。

私がすぐに考えるのは、愛媛県で生まれ育った人にとって、京都教区の司教を務めるというのは相当困難な職務ではなかったか、ということです。同じことは、大阪の前田枢機卿様、広島の白浜司教様にも当てはまります。全く畑違いの教区で、どのように職務を全うしたのでしょうか。

イエスに近づくすべての人が、イエスからのパンを得ようとします。真剣に探し求めている人もいますし、見当違いなその場限りのパンを求める人もいます。司教としての召し出しを受けるような人は特に、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と、日々真剣に願い求めていることでしょう。

それに答えてイエスが、「わたしが命のパンである」と司教職という答えを示した時、きっと驚いたに違いありません。なぜ私が司教職なのですか。なぜ、自分の教区ではなく畑違いの教区なのですか。誰でも自分の理解を超えることは怪しく思うものです。そもそも受け入れられる内容のものしか、私たちは想像し得ないからです。

もしも、予期せぬ別の答えだとしたら、それを受け入れることができるでしょうか。私たちはか弱い人間なので、イエスの示す答えと噛み合わないことがあり得るわけです。「自分はそういう答えを考えていませんでした」と。

では「予想と違う」と言っている私たちと「わたしが命のパンである」と言われるイエスと、どちらに合わせるべきでしょうか。私たちがイエスの答えを驚き怪しまないために、次のような心構えが必要です。「イエスが与えてくださるものなら何でも受け取ります。」パンをくださいと願う私たちにどんな答えが示されたとしても、私たちは受け入れる。そんな心構えが必要だと思います。

イエスの示すパンが「本当の意味でパンとなる」そのためには、受け取る人間のほうが変わる必要があります。イエスが示すものを、「パン」として受け入れなければ、それは「命のパン」にはなり得ないからです。これがイエスの示された答えなのだと、謙虚に受けとめなければ、「パン」は人間の命に変わることができないのです。

イエスは集まった群衆にご自身をパンとして示しましたが、群衆はイエスを「命のパン」として受け入れることが出来ませんでした。群衆は、命のパンを受け取るために自分自身が変わる必要がありましたが、最後まで変わることができなかったのです。

イエスは命のパンとしてご自身を私たちに与えてくださいます。それが癒やしの奇跡を与えている姿であるか、十字架上で命をささげている姿であるか、私たちは選べません。「イエスが与えてくださるものなら何でも受け取ります。」そう心に決めましょう。どの場面のイエスであっても、それは私たちに必要なものを与えてくれる命のパンなのです。

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‥次の説教は‥‥
年間第19主日(ヨハネ6:41-51)
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ちょっとひとやすみ
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▼自分には関心の無いことでも、別の人には重大な関心事ということもある。人間は一人として同じではないのだから、違う関心を持っている人を「あなたは間違っている」などと決して言ってはいけない。
▼しかし、頭でそうだと分かっていても、しばしば「あの人は間違っている」と言う。違いを受け入れたり、違いから何か収穫を得たり出来るかどうか。人としての成長がここにある。いつまでも違いを受け入れないなら、それ以上の成長はない。
▼新しい風は、いつも若い人からとは限らない。新しい風を取り入れようとするすべての人から来る。新しい風は、「新しいもの」ではないかも知れない。すでにあるもの、すでに知られているものということもある。違いを謙虚に受けとめるなら、すでに知られているものからも吸収して、新しくなれる。

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今週の1枚
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第740回目。アサガオ。確かに朝は開いて、昼夜はしぼんでいる。朝の楽しみ。

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年間第17主日(ヨハネ6:1-15)(再掲)大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年

2021-07-24 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2021/7/25(No.1132)
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年間第17主日(ヨハネ6:1-15)
(再掲)大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年
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(本日、「祖父母と高齢者のための世界祈願日」が設けられていて、教皇フランシスコのメッセージを抜粋して読み上げました。そのため、2015年浜串小教区での説教を再掲して、今週のメルマガ・ブログ記事と致します。ご了承ください。)

年間第17主日B年の福音朗読はヨハネ福音記者が描く「五千人に食べ物を与える」場面が選ばれました。出来事そのものは共観福音書と呼ばれる「マタイ・マルコ・ルカ福音書」にも記されています。ヨハネは共観福音書とは異なる捉え方を持っています。出来事を「しるし」として捉え、イエスへの信仰を増し加えるように招くのです。

さて子供たちのドッヂボール大会は本当に残念でした。対戦相手が青砂ヶ浦と桐だったのでわたし自身は最初から戦意喪失だったのですが、子供たちはむしろやる気満々だったようです。練習の成果を発揮させてあげたかったのですが、台風ではどうにもなりません。

中止になったので話しますがわたしの心の中では、福音朗読に登場する弟子と似たような言葉が響いていたのです。「ここに大会に参加できる子供が8人います。けれども、8人ではどうにもならないでしょう。」10人いて本来のチーム、8人では歯が立たないと思っていたのです。

福音朗読の場面は、もっと深刻な場面だったと思います。男の人が五千人いて全体ではそれ以上ですから、「大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年」を弟子たちが見つけたとしても、それは焼け石に水、何の足しにもならないと考えるのは無理もありません。

ところがイエスは、「足りない状況」「何の役にも立たない状況」を確認してから動き出します。イエスが望めば、フィリポに「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」(6・5)と尋ねなくとも動くことはできたはずです。弟子たちから希望の持てる返事が返ってくるはずがないからです。

それでも、イエスは弟子たちの返事を確認してから動き出しました。なぜそうなさったのだろうかと考えます。わたしはこう考えました。「大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年」とは、イエスのことだったのではないでしょうか。

物語としては少年という形になっていますが、イエスが少年に「そのパンと魚を貸してくれ」と言った様子もありませんし、弟子たちに「その少年をこちらに来させなさい」と指示した形跡もありません。いつの間にか少年のことは物語から消えていますから、少年がいたかどうかはさほど重要ではないのでしょう。

大事なのは、少年という姿が何を意味しているかということかもしれません。大人に対しての少年ですから、力の足りない存在、未成熟・未完成の存在、無力な存在を意味していると思います。そして、わたしが考えたように、イエスは無力な存在であるかのように地上での最期を遂げられましたから、物語に登場する少年の可能性もあるわけです。

イエスが動き出し、弟子たちがイエスの働きに協力して、五千人の群衆は食べ物を得ることができました。そしてこのことを、ヨハネ福音記者は「しるし」と見ています。どんなしるしでしょうか。それは、イエスが天からのまことのパンであるというしるしです。

しかし、イエスが天からのまことのパンであるということを示すだけでしたら、「大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年」を物語に登場させる必要はなかったように思います。フィリポの「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」(6・7)という判断だけで、切迫した状況は十分理解できるからです。

あえて少年を登場させているのは、パンの奇跡に留まらない、神の救いのわざの「しるし」という意味があるからではないでしょうか。イエスは五千人に食べ物を与える天からのまことのパンという存在にとどまらず、全人類のまことのパンとなられるお方である。しかも少年という無力な存在となって、救いを成し遂げようとしておられるのです。

実際、イエスの救いのわざは、全人類に対しての「大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年」という意味合いがあると思います。神の独り子が、全人類を救うために十字架にはりつけにされます。何千年何万年という歴史の、約三十数年の働きで全人類を救います。

ユダヤの国のごく限られた場所での三十数年の働きで、全人類に天からのいのちのパンを与えてくださるのです。この壮大な救いの計画の「しるし」として、「大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年」さらにその少年で暗示されている無力な姿で死んでいく神の独り子イエスが物語に登場しているのではないかと思いました。

弟子たちは、この少年を無力な存在と考えました。しかしイエスは、その無力な存在を使って、神の驚くべきわざを行います。「人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった」(6・13)のです。イエスご自身、無力な存在として地上の最期を迎えましたが、全人類に天国の門を開いてくださったのです。

注意すべき点があります。群衆は「自分を王にするために連れて行こう」としました。イエスを利用しようとしたのです。無力な存在を使って五千人に食べ物を与えたイエスを、手放したくなかったのです。

わたしたちもこの点は十分注意しなければなりません。と言うのは、教会を人々にパンを食べさせる道具として利用しようとする見えない力は今でも働いているからです。わたしたちが人々の心を満たしたわけでもないのに、教会は観光の目玉になるとか教会でいやしをいただきましょうと言ってすり寄って来る大勢の人々がいるのです。

教会に来ていやされるのは、その人がイエスと出会ったからです。教会に引きつけられるのは、隠れておられるイエスに気付いたからです。「イエスは、(中略)ひとりでまた山に退かれた。」(6・15)だれかを教会で案内するとき、隠れておられるイエスに導いてあげて、隠れておられるイエスの声に耳を傾けさせる必要があります。

そこにいやしと慰めがあるからです。そのためには、わたしたちも常に、この聖堂の中に隠れておられるイエスの声に耳を傾ける努力が必要です。蝉の鳴き声の中でも心を沈め、心に語りかけるイエスの言葉に耳を澄ます。そのための心の静けさを、このミサの中で願い求めましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第18主日(ヨハネ6:24-35)
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ちょっとひとやすみ
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▼今回の「祖父母と高齢者のための世界祈願日」の通達は、記憶では19日(月)に指示されたものであり、いくら何でも遅すぎる。評議会での検討も叶わなかった。なぜそういうことになったのか、本部や司教団、中央協議会の事情を知りたい。
▼教皇様のメッセージはとても温かみがあり、説得力がある。ただしかし、あの分量を真夏のミサ説教に代えて朗読してほしいと言われても素直に「はいそうですか」とは言えない。私なりに抜粋して読み上げた。それでも14分以上あっただろう。
▼継続する取り組みであるなら、慌てて指示するようなことにならない準備が必要だろう。しかしそれでも、できるだけ要請に応える努力はするつもりである。

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今週の1枚
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第739回目。夏。栄養は野菜から摂取。野菜はどこから?天から来る(笑)

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年間第16主日(マルコ6:30-34)「イエスの教え」を通して人々に注がれる神の憐れみ

2021-07-17 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2021/7/18(No.1131)
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年間第16主日(マルコ6:30-34)
「イエスの教え」を通して人々に注がれる神の憐れみ
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「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。」(6・34)弟子たちが、初めての宣教活動できっと疲れて帰ってくると思い、イエスは戻ってきた弟子たちに「人里離れたところへ行って、しばらく休むがよい」(6・31)とねぎらいます。

しかしご自身は休むこともせず、ひっきりなしにやって来る群衆のお世話をし続けました。「いろいろと教え始められた」(6・34)というのがイエスのなされたことだったのですが、なぜ「教えること」を選ばれたのでしょうか。

集まってくる群衆は、もしかしたら何か奇跡をしてもらえると思って集まっていたかも知れません。そんな群衆にあえて「いろいろと教える」というのは遠回りのようにも思えます。

「あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。」(ルカ11・11-12)魚を欲しがっているなら、魚を与えるのが手っ取り早いと言えるかも知れません。

しかしこのようにも言われています。「このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」(同11・13)今回の朗読で「いろいろと教え始められた」というのは、目の前のものも大事ですが、もっと大切な物を与えようとしておられるのだと考えることもできます。

「教える」「教育する」ということが大切なのはだれもが理解できることです。以前ある映像を見たとき、教育が人間だけでなく動物でもおこなわれているのには驚きました。神様は、教えることで「目の前のものよりも大切なものを与える」という本能を、動物にも与えておられるのだなと、映像を見て思いました。

その映像とはこういうものです。大人の象が、水飲み場からなかなか上がれないでいる子どもの象に陸への上がり方を教えている映像でした。本当は長い鼻を使ったりして子どもの象に力を貸せば、簡単に水の中から引き上げられるのに、大人の象たちがわざわざ、足の着き方、体重のかけ方を何度も何度も実演して、その子ども象が自力で上がれるように教えていたのでした。

私も、その映像を見ながら「そうだよな」と理解しました。水飲み場からなかなか陸に上がれない。そういう場面は今後何度も経験するかも知れません。そのたびに大人が助けてあげるわけにはいかないのです。今、自力で陸に上がれるようになっていなければ、将来溺れて死んでしまうかも知れないのです。

本能で生きている彼らには、「教えることが救うこと」「陸上への上がり方を教えることが本当の意味で助けること、救うこと」だったのです。それを大人の象たちは痛いほど知っているので、決して甘やかさず、自力で這い上がる方法を、何度も実演して教えていたのでした。

イエスも、目の前のことだけにとらわれて群衆に深い憐れみを示したのではありませんでした。「深い憐れみ」は、目の前のことで終わらず、羊飼いの声を聞き分ける羊になるように導く憐れみです。この場面でも、父なる神は決して群衆を見捨てたりはしない、そんなことを教えておられたのかも知れません。

「なぜあの時こうしてくれなかったのか」そう言って相手を責める人がいますが、その人が自分を本当に心にかけている人なら、先を見据えて手を貸してくれるでしょう。神のなさり方も同じです。人の心に深く刻まれる教えを通して、その人の生涯にわたって羊飼いであるイエスの導きを感じられる。そのためにいろいろと教えてくださるのです。

7月4日、マトラ神父様の帰天百年祭行事が行われました。今年の小中学生の黙想会で、「マトラ神父様の働き」を材料にして黙想会を開こうと思っています。マトラ神父様がその時手がけた取り組みが、百年後の今も受け継がれています。マトラ神父様も、当時の平戸の神の民が「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた」のです。

黙想会は、特定のことをテーマにして学ぶとても良い機会です。マトラ神父様の、平戸のキリシタンたちに対する深い愛が今の子どもたちにも理解されて、将来、神の国のために良い働きができる人に育ってほしいと願っています。いつか、「小学生のときにマトラ神父様のことを学んだなぁ」と思い出してくれて、その時あらためて神父様の働きを振り返ってくれたら幸いです。

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ちょっとひとやすみ
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▼ICレコーダーの話。この言葉を「あいしーれこーだ」と聞き取りしたなら、今回の話題は共感できるかも知れない。「ボイスレコーダー」とも言うが、今回は「ICレコーダー」と表記することにしたい。
▼この録音機器をある場面で推薦し、「ぜひ使ってもらいたい」と言った。しかし相手は「カセットテープレコーダー」をずっと使ってきた世代。「あいしー何とか」と言っている時点で話が伝わらない様子だった。「総理大臣のインタビューとかで、テーブルにずらっと並んでいる小さな機器が、ICレコーダーと言って録音するやつです」とあらためて説明した。
▼「それは分かりますが、今さらそんな複雑な物を使えと言われても困ります。」どこがそんなに複雑なのだろうかと思ったが、複雑と感じている人に「簡単だよ」と言っても伝わらない。どうやって、簡単便利な録音機なのだと納得させるか、しばし考えている。

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今週の1枚
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第738回目。この録音機器を使って、世代間ギャップを超えられるかの挑戦。

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年間第15主日(マルコ6:7-13)派遣される宣教者の後ろに教会家族がある

2021-07-10 | Weblog
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年間第15主日(マルコ6:7-13)
派遣される宣教者の後ろに教会家族がある
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今週の福音朗読は「十二人を派遣する」という場面が選ばれました。この派遣の箇所、しばしば私自身が派遣されてきた歩みを思い出させます。また、一週間遅れになりましたが、7月3日中田神父の聖トマスの霊名を皆さんにお祝いしていただけることに感謝します。

私は助任司祭として二つの教会に、主任司祭として四つの教会に赴任してきました。「二人ずつ組みにして」(6・7)という派遣ではありませんでしたが、「杖一本のほか何も持たず」(6・8)の通り、予備知識も持たず、変な思い込みも持たずにどの教会にも赴任しました。

朗読で言われている「杖」は、当時夜道で身を守る唯一の道具であったし、羊飼いの身分を表すしるしでもありました。するとイエスが持つのを許可した「杖」は、「他は手放せても、これだけは手放せないもの」ということでしょう。そういう意味では、私の「これだけは手放せない一本の杖」は「大司教様の任命書」だったかも知れません。

他のもの、書物や乗り物や身の回りの品は、どんなに高価な物でも手放そうと思えば手放せる品物でした。いちばん感じたのは、釣り道具は土地が変われば以前のものはほとんど役に立たないということです。

「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。」(6・10)一度だけ、この戒めに背きました。伊王島の馬込小教区に赴任してすぐ、司祭館を建て替えてしまったのです。大島崎戸の太田尾小教区を出るときに馬込小教区の辞令を受けましたが、早速地区のある先輩から「あそこの司祭館は建て替えないといけないよ」と聞かされました。

しかもその先輩は(すでに亡くなっていますが)口だけでなく、帯封のついた建設資金も渡してくださいました。馬込教会司祭館は今思うと「建て替えありき」で住み始めたのでした。司祭館は建て替えましたが、もちろん旅立ちのその日までとどまったことには間違いありません。

「十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。」(6・12-13)私はと言うと、悪霊を追い出せたかは分かりませんが、「あの病院に入院したら退院は難しい」と言われた入院患者を長年見舞って、退院の日を見ることが出来たケースもありました。もう一方の「油を塗って多くの病人をいやした」これは確かです。イエスに権能を授けられて働いたこの三十年で、何度も実感しました。

何かしらの結果を出したとは思います。しかしそれは、いつかは司祭の手を離れていくものです。なぜなら、司祭はいつも「その土地から旅立つときまで」を全力で働いているからです。もし何らかの結果が出たとしたら、それは権能を授けてくださったイエスのおかげであるし、働きの報いは信徒皆さんのものです。

百周年の報いも信徒の皆さんのものだし、新型コロナで幸いにして感染者を出さずにここまで来たのも役員を始め信徒の皆さんが覚悟を決めて協力してくれたからです。そして許されることなら、耐震補強工事も見届けたいと思っています。幸い田平教会の役員は、これまで赴任してきたどの小教区よりもすぐに動き、よく働く方々です。平戸地区でも自慢できますし、教区でも指折りの役員たちだと思っています。

ところで、「派遣される司祭と、教会共同体の関係」について最後に考えてみましょう。修道者の派遣も、同じように当てはめながら考えてほしいと思います。派遣される司祭は、さらに大きな器に支えられて派遣されていきます。その器とは、教会共同体です。

中田神父は小学校を卒業して神学校に入りました。それから14年間、「鯛ノ浦教会」という教会共同体に支えられてきました。大神学校に入ってからは、私一人の選んだ道ではなくなってきました。小教区報で神学校の様子をお願いされて書くと、時折信徒の人から「神学生さんの書いた記事を読みました。応援しているので頑張ってください」と言われることがありました。

さらに上級生になってスータンを着る頃になると、巡回教会で子供の黙想会のお手伝いをして、巡回教会の信徒から「お祈りしているので頑張ってください」と言われることもありました。本当は休暇を終えて神学校に戻るとき、「帰りたくないなぁ」と思うこともありました。そんな時に思い出していたのは、鯛ノ浦教会、また巡回教会で声かけをしてくれた「あの人この人」のことでした。以前話した「タクシー代」を手渡してくれた人もその中に含まれています。

この「鯛ノ浦教会の共同体」が、神学校への「派遣」に背中を押してくれた、「器」でした。そして司祭となって、初めての場所に赴任するときの「支えとなった器」でした。この支えとなってくれる器は、派遣を繰り返し受けていく中で、さらに大きな器になっていきました。二度目の助任司祭の時は鯛ノ浦教会と浦上教会という器に支えられて滑石教会に派遣され、初めての主任司祭の時は故郷の鯛ノ浦教会と、助任としてお世話になった浦上教会、滑石教会の支えのもとに、主任司祭の第一歩を踏み出したのです。

田平の神の家族も、これまでたくさんの司祭と修道者を日本の教会に送り出してきました。田平の神の家族は、出身司祭修道者たちが新しい派遣を受ける度に、支えとなっている大きな器、その原点なのです。

私は、派遣を受けるたびに、これまでお世話になった教会共同体の支えを思い出します。個別の信徒の名前は思い出せなくなるかも知れませんが、大きな支えを背中に受けて今があることを知っています。皆さんも、弟子を派遣する福音朗読を目にするとき、田平教会が支えている人が今も元気で、神の国のために働いてくださいと、お祈りをしてほしいと思います。派遣の後ろには、教会家族の支えが必ずあるのです。

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‥次の説教は‥‥
年間第16主日(マルコ6:30-34)
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ちょっとひとやすみ
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▼ヘチマがいつの間にかぶら下がっている。かなり雨の日が続いたので、「緑のカーテン」を見に行ってなかった。「規格外のキュウリ」のような大きさだ。ヘチマだから、もっと大きくなると思っている。いつ頃収穫するのだろうか。
▼日頃お世話になっている女子修道会が抱えている「志願院」に田平教会から志願者が入っている。その志願院に「アイス代」を届けた。この志願院には前任地から志願者として入っている生徒もいて、縁のある志願者をねぎらおうと思って「陣中見舞い」である。
▼「アイス代」では味がない。そこでこう書いて渡してもらった。「イエス様をアイス」志願者にふさわしい添え書きではないか!アイスを食べて、涼しさを味わって、ますます「イエス様をアイス」志願者・シスターになってほしい。

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今週の1枚
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第737回目。ヘチマがこんなに大きくなった。マジックで落書きしてみようか。

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年間第14主日(マルコ6:1-6)イエスが示された覚悟が、マトラ神父の覚悟になった

2021-07-03 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2021/7/4(No.1129)
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年間第14主日(マルコ6:1-6)
イエスが示された覚悟が、マトラ神父の覚悟になった
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年間第14主日の福音朗読、「ナザレで受け入れられない」という箇所が選ばれました。実は預言者が受け入れてもらえなかったというのは、聖書の中ではよくあるテーマです。この出来事を、すぐそばにいたはずなのに一言も発していない「弟子たち」に目を向けるきっかけとしましょう。そこから、私たちにとっての教訓を得ることにしましょう。

土曜日から、梅雨末期の本格的な雨となりました。今日7月4日に、マトラ神父様の帰天百年を記念する一連の行事が紐差教会で行われます。私たちも「マトラ年の祈り」を一年間唱えることでこの日を準備してきました。当日は午前中田崎墓地に集まってロザリオを唱え、午後からは教会聖堂で記念ミサが大司教様をお迎えして行われます。そこでマトラ神父様についても、朗読箇所に結びつけてみたいと思います。

マトラ神父様はフランス・リヨン教区のファルネイという小さな町に生まれました。司祭になってすぐに日本宣教に送られ、その後40年間、平戸の宣教司牧に身を捧げ、一度も帰国することなく、田崎の墓地に眠りにつきました。100年前の話ですから、一度帰国してしまえば、二度と日本に戻ることは無かったかも知れません。そのため自ら退路を断って、日本で生涯を全うします。

私は今週の福音朗読、ほとんど表に現れない「弟子たち」に目を向けてみようと考えました。それまでのガリラヤでの活動を考えれば、イエスが郷里のナザレでも、ものすごい歓迎を受けるだろうと考えたかも知れません。もっと言うと、自分たちがいつか故郷に錦を飾る日が来る、そんなことまで想像したかも知れません。

ところが現実は完全に期待を裏切るものでした。故郷に錦を飾るどころか、ナザレの人々は「生まれも育ちも取り立てるほどのものも無いのに、あなたは何様のつもりか」という反応でした。ナザレの人が判断の拠り所にしたのは、わずかな血縁関係の知識と、生い立ちだけでした。

弟子たちは、この時点で自分たちが描いた淡い期待を捨てなければなりませんでした。「ひょっとしたら故郷で偉い人扱いされる」そんな夢は、完全に打ち砕かれました。それだけでなく、「このままイエスに付いて行くべきだろうか」という不安も生じたかも知れません。

イエスは表に現れていない弟子たちのこうした不安を、十分承知していたことでしょう。そこであえて退路を断ち、ご自身がこれから歩む道を示そうとされます。「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」(6・4)。中田神父は「ここまで言う必要があるのかな」と思ったりしますが、これは弟子たちにも向けたイエスの決意表明だったのでしょう。この後イエスは各地を回って宣教します。

イエスは、ナザレの人々をあえて突き放す形で、退路を断ちました。マトラ神父は、二度と戻らないことで、退路を断ちました。「不退転の決意」という言葉がありますが、イエスに従う弟子たちも、マトラ神父の宣教司牧で導かれた平戸の神の民も、この不退転の決意に背中を押され、「いただいた信仰の恵みに恥じない生き方をしよう」と心に決めたのではないでしょうか。

実際、イエスの弟子たちは今週の朗読箇所の直前、つまり先週の福音朗読で、治る見込みのない出血症の女性のいやしと、死の宣告を受けた会堂長ヤイロの娘のよみがえりを目撃し、「ただひたすら、イエスを信じる」という心の準備をさせてもらったのでした。

そして今週、イエスが故郷のナザレで受け入れられない現実を突きつけられ、「ただひたすらに信じる」その決意をいっそう固めます。その上で来週の朗読箇所では、二人ずつ組みにして宣教に派遣されていくのです。「ただひたすら、イエスを信じる」この態度に少しでも狂いがあれば、弟子たちの派遣は不可能だったでしょう。

非常によく練られた段階を経て、弟子たちは宣教する者へと準備されていったのです。あえて弟子たちの様子が場面の背後に回されていたのは、「ただひたすら信じる」という準備の様子を暗示していたのかも知れません。

マトラ神父に育てられた平戸の神の民はどうだったのでしょうか。いくつかの例を紹介します。今回マトラ神父帰天百年に合わせて用意された記念誌に、紐差修道院のシスターの手記が載っています。その最後に、マトラ神父様が晩年、「自分は40年間身を捧げてきた紐差に骨を埋めるから、愛苦会の会員達が世の終わりまで祈り続けてほしい」と願ったそうです。

それに応えてシスターは、「毎日、貧しい祈りを捧げている」と書かれていました。一日も忘れることなく祈るのは、そのご恩を一日も忘れたことがないからです。退路を断って、生涯を捧げたマトラ神父様の熱意は、シスターに確実に伝わったのでした。

もう一つ、法人司教区設立80周年で記念講演をされた当時のパリ外国宣教会日本管区長の文章の中に、「マトラ神父が来た時の平戸地区の信者は3500人だったが、彼が亡くなられた1921年には8300人ほどになり、共同体は倍に増えたのです」と紹介しています。

マトラ神父様は「収穫は多いのに、働き手が少ないのです。父よ、収穫のために働き手を送ってください」(マタイ9章37節38節参照)をご自分のモットーとしていました。財産が二倍に増えるということは人生の中でそうあることではありません。マトラ神父様は、平戸の神の民を二倍に増やして、神様の財産を二倍にしたのです。皆さんはいわば、退路を断ってご自身を捧げたマトラ神父様の「宝物」なのです。

祈りを唱えていると、この祈りは私のことを念頭に用意されているのではないか、と思うことがあります。マトラ神父様がモットーにしていた祈りをここであらためて唱え、「この祈りは、他人のための祈りではなく、私のために用意された祈りなのだ」と気付かせていただきましょう。では皆さん一緒に唱えましょう。「収穫は多いのに、働き手が少ないのです。父よ、収穫のために働き手を送ってください。」

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‥次の説教は‥‥
年間第15主日(マルコ6:7-13)
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ちょっとひとやすみ
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▼「からし種」ではないが、植物が成長する様子は目を見張るものがある。ヘチマを司祭館の西日を避けるために植えてもらったが、毎日30cmずつ伸びて、先端は雨よけのひさしに着いてしまった。ひさしの先には蔓を伸ばす場所はないので、どのように伸びるのだろうか。
▼ツルムラサキという野菜をいただいた。こちらも葉をどんどん付けていくそうだ。「夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。」(マルコ4・27)マトラ神父様が蒔いた種は、今も目を見張る成長を続けているだろうか。

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今週の1枚
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第736回目。ツルムラサキとその和え物。霊名聖トマスのお祝い。感謝のうちに

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† 神に感謝 †
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