こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第22主日(マタイ16:21-27)イエスのみことばが、すみずみにまで行き渡るように

2008-08-31 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
08/08/31(No.374)
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年間第22主日
(マタイ16:21-27)
イエスのみことばが、すみずみにまで行き渡るように
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今日8月31日、長崎教区民である私たちは、まずは島本大司教さまのことを思い起こす日としたいと思います。6年前の今日、聖地巡礼から帰った直後の31日に、島本大司教さまは肺炎のために天に召されました。たいていの聖職者は、容態が悪いらしいという連絡があって、あの神父さまも心配だなぁと皆が心配する中で亡くなっていくものですが、島本大司教さまは亡くなったという連絡が突然入りました。

初めはどうしても信じられず、連絡を入れてくれたシスターにちゃんと確認したのかと聞き返したことを今でも覚えています。私は同級生と一緒に島本大司教さまから助祭の叙階と司祭の叙階の恵みをいただいたので、ショックは特別でした。きっと皆さまも、島本大司教さまには親しみを覚えていたと思います。今日1日、何かの形で島本大司教さまのために祈りの時間を設けてください。

さて中田神父は昨日までお休みをいただいて五島に帰っておりました。皆さんに特別な連絡はしませんでしたが、今年は私が休暇を取るのに合わせて、侍者の子を上五島の教会巡礼に連れていきました。3泊4日の旅でした。軽自動車のレンタカーを借りていましたので、そのうちの2日間、みっちり上五島の教会を2人で見て回りました。

本当は、夏休みでもあるし、海水浴にも連れていってあげようと思っていたのですが、初日は雨降りで行けませんでしたし、翌日は高波で海水浴場の入口に「遊泳禁止」の立て看板が設置されていてどうしても泳ぐことができませんでした。侍者の子もシュノーケルまで準備して五島での海水浴を楽しみにしていたのですが、最後までホースを口にくわえることはできませんでした。

教会巡礼のことですが、この機会にと思って上五島の教会のすべてを見せてあげようと思い、巡回教会も含め可能な限りの教会に直接行ってお祈りをしてきました。私も運転含めヘトヘトになるくらいでしたから、侍者の子も相当大変だったと思います。そんな中で、五島の教会が馬込教会と比べてみて違う所と、似ている所など、学んでくれたこともいろいろあったと思います。

その中で、2つ取り上げると、1つは、上五島では1人の神父さまが3つとか4つの教会を受け持ってお世話していると知ってもらえたことです。上五島では、実に11の小教区のうち7つの小教区が、3つ以上の教会を抱えています。中田神父と同じような環境にある神父さまがたくさんいらっしゃるということを知って、侍者の子は大変驚いておりました。

もう1つの大きな収穫は、中に入ったすべての教会で、必ずお祈りをしてきたということです。そんなに長い時間ではありませんでしたが、それぞれ教会に入る度に、必ずお祈りをささげてきました。私はちょっとした願いを込めて祈っていましたが、侍者の子はもしかしたらただただお祈りを一緒にしただけかも知れません。それでも、この子の中には、上五島のお祈りしてきたすべての教会のことが、鮮明に記憶に残ることだろうと思います。

あまりたくさん詰め込むとかわいそうだと思ったので、ある程度にしましたが、知っている範囲で上五島の教会がどのようにしてできたか話をしました。上五島の教会の成り立ちは、実は今週の福音を考える良い材料になると思います。今週の福音の中の、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(16・24)に注目してみましょう。

どんな教会でも、完成までにはその教会の信者たちが働いて協力をしています。私たちの教会もそうです。材料を運んだり、コンクリートをこねたり、ペンキ塗りを手伝ったり、また労働の奉仕でなくても炊き出しであったり、いろんなことで協力を惜しまなかっただろうと思います。もう1つ、建設費を信者でまかなったことでしょう。

さらに、上五島の教会では、教会のために労働献金をささげていました。「日労献金」と言っていましたが、少し詳しく言うと、日曜日と大祝日に収入があった人は、収入のうちの3%を「日曜日の労働献金」として教会に納めていたのです。おそらく今でも、その習慣は残っていると思います。

長崎教区は、主日・祝日に労働することについて独特の規定を持っており、それは祝日表にちゃんと書かれています。それによると、「特殊な場合に、また正当な理由によって、主日または守るべき祝日に働かなければならない信徒は、主任司祭の許可を得た上で働くことができる。主任司祭の許可の期間は三ヶ月が限度であるから、期間が過ぎれば、また許可を願う必要がある」と規定しています。この規定に加えて、上五島の信徒は、労働で得た収入のうち3%を、教会へおささげしていたわけです。

祝日表に書かれている部分は、全信徒が目にするわけですから、すべての人に共通の規定です。ところが上五島の信徒は、それ以上のこと、つまり主日に得た収入の一部を、教会のために手放してきたわけです。それは、実際にはイエスのみことば「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」を実行していたのだと思います。

なかなか、自分で得た収入を手放すということは難しいものです。その動機付けを、きっと上五島の信徒は「神さまのため」という形で維持し続けていたのだと思います。彼らにとって、収入のうち3%をささげることが、「自分を捨て、自分の十字架を背負って、イエスに従うこと」の具体的な形だったわけです。そしてその思いは、上五島のそれぞれの教会という姿に表れています。

私たちは教会で祈る時、聖堂そのものが何か祈る雰囲気を与えてくれることを体験しています。この、自分たちにとって見慣れた教会が、すでに私たちの祈りの方向付けをしてくれていると思うのです。たとえば、自分たちの教会がずらっとマリアさまイエスさま、天使たち、もろもろの聖人方の御像が据えられた教会だとしましょう。それは、諸聖人方の取り次ぎを願う方向に、私たちを促すだろうと思います。一方でほとんど御像を置いていない聖堂であれば、まっすぐにイエスさまに祈りをささげるようにと促しているのだと思います。建てられた聖堂の趣が、私たちの祈りの方向付けをしてくれることは十分あり得ると思うのです。

上五島の教会は、私が見る限りどこでも平均的に御像が置いてありました。私は、上五島の教会の特徴は、むしろイエスのみことばを形に表そうとしたというのが特徴だと思っています。日曜日の労働で得た収入から一部を手放し、教会にささげた。その信徒たちが祈る聖堂は、祈っている時にイエスのみことばがなるほどなと心に響く聖堂に仕上がっているわけです。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」というイエスのみことばが響き渡る聖堂なのです。

イエスのみことばが響き渡る聖堂は、本当にすばらしい聖堂だと思います。今週の福音朗読に、この聖堂で耳を傾ける時、みことばがすんなり心に届く聖堂はすばらしいと思います。反対に、「イエスのみことばは理解できるけれども、この聖堂はみことばとはかけ離れた聖堂ではないか」と感じるなら、やはり建物のどこかに、神の望みに沿わない部分があるということになるかも知れません。

そして最後に、私たちはもう一つの聖堂を知っています。それは、私たち自身です。私たちは、「聖霊の神殿」と言われたりするものです。私たち自身が聖霊の神殿であれば、私たちの中でもイエスのみことばが響き渡るのでなければならないと思います。私の心に、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」というみことばが届いたのに、それが響かないとすれば、私はどこかで、神の望みに反する生き方をしているのではないでしょうか。

久しぶりに上五島の教会を隅々まで巡礼してみて、イエスのみことばとしっかり向き合う時間を与えていただきました。皆さん一人ひとりも、自分たちの聖堂に座って、聖霊の神殿である自分自身にも注意を向けて、イエスのみことばがちゃんと響き渡っているか、あらためて考えてみましょう。そしてこれから始まる一週間が、生活の中でイエスのみことばが響き渡るものとなるように恵みを願いたいと思います。


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ちょっとひとやすみ
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▼近頃の小学生は順応が早いのだろうか。五島の実家で3泊4日、しかも馬込教会の教会学校で小学生は1人だから、たった1人での教会巡礼キャンプとなった。私は前もって、この子が小学生とは全く縁のない実家(残念ながら母親にとっての孫が誰もいませんので)にいて取り残されないようにと、こちらの教会学校での様子を撮影したビデオとか、クリスマス寸劇のビデオとかを用意して、時間を持て余さないようにと考えていた。
▼ところが実際は、家のいつもながらの料理をパクパク食べてくれたし、「風呂だぞ」と言ったらその場でパンツ一丁になって風呂場に行って、「神父さま、シャワーはどうやってお湯を出すんですか?」と裸ん坊になったままで尋ねてくれた。いやはや、今どきの子供は物怖じしないのである。
▼もう一つ、家で退屈しないようにと、「Wii Fit」を購入して先に送り届けていた。それも家族とのスキンシップに役立ったらしく、特に次男とは本気になってゲームのスコアを競い合ったり、時間をどう消化するかなど何の心配も要らないくらいに楽しんでくれた。夜は10時頃に寝付いたが、小学生くらいの子はいったん眠ると頬をつねっても顔に落書きされても何も気づかないものらしい。いいように遊ばれていた。落書きはしなかったけど。
▼教会巡礼の途中、中田神父が好んで食べる五島うどんの店にその子を連れて入ると、店の店員がカウンターしか空いてなかったのに、「お父さんと一緒にテーブルで食べようね」と言ってテーブルをすぐに調えてくれたのには参った。確かに、10歳の子供と42歳のおじさんでは、親子と思われるのが当然かも知れない。他にも「お父さんと旅行に来てるの?」というシーンがあった。
▼郷里での朝はふだんより早い。起きて教会のミサに行けるのかしらと思っていたが、思いのほか早く起きて一緒にミサとラジオ体操に参加してくれた。以前と比べると参加者が少なくなっている故郷の朝のミサに連れていったのは、少々申し訳ない気持ちになった。今は夏休みでも小学生はあまり来ないようだ。
▼物怖じしない小学生は思ったことをポンポン口にする。「○○兄ちゃん(次男)はどうして結婚しないの?」すると弟が「余計なお世話じゃ」と痛い所を突かれてムキになっていた。他にもいろいろあったが、振り回された母も弟も、突然「孫」「甥っ子」が現れた気分だったかも知れない。振り回されながらも、楽しかったのではないだろうか。

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今週のナイスショット
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第46回目。小学生を1人連れて、教会巡礼の旅をしました。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
年間第23主日
(マタイ18:15-20)
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年間第21主日(マタイ16:13-20)「あなたの答えはそれだけですか」と問われています

2008-08-24 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
08/08/24(No.373)
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年間第21主日
(マタイ16:13-20)
「あなたの答えはそれだけですか」と問われています
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今日は、イエスが弟子たちに向けてなされた問いかけについて、考えてみたいと思います。イエスは、弟子たちが一瞬はっとするような問いかけをなさいました。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(16:15)。

この問いかけは、イエスにとっては、ごく自然な成り行きで出てきたのだと思います。イエスは、「人々は人の子のことを何者だと言っているか」(16:13)と前置きした上で、弟子たちが今持っている精一杯の信仰を引き出そうという考えだったと思います。

弟子たちが口々に言った答えは、どれも部分的にはイエスのことを言い当てていたでしょう。けれども、イエスの中には「あなたたちの理解はそこまでですか」という思いがあったのです。弟子たちは一通り答えさせられて、さらに問い詰めているわけですから、下手な答えができるはずがありません。人間の知恵に頼って答えようとして、言葉に詰まってしまうことは十分想像できます。人間の知恵でイエスの質問に答えようとしても、答えられるはずがありません。

信仰の問いかけに人間の知恵で答えようとしても十分答えることはできないということを1つの例で考えてみましょう。ここに集まっている皆さんはなぜ、今日の主日のミサに来たのでしょうか。これを例に考えてみましょう。なぜ、今日の主日のミサに来たのですか?用事でどうしても来ることができない人は別として、最初から来ようとしない人もいるはずです。そんな中で、あなたはなぜ、主日のミサに来ているのでしょう。

「日曜日の務めを果たすため」「日曜日に行かないと、何となく落ち着かないから」。だいたいの人がそういう理由で今日集まっているのかも知れません。では、「もっと他に理由はありますか」と聞かれたら、あなたはどう答えるでしょうか。

「もっと他に理由はありますか」と言われて、もう少し考える人もいるでしょう。「日曜日にミサに来ると、力がみなぎるから」とか「この一週間を感謝するため」とか、「イエスの声を聞くため」とか、さらに踏み込んだ答えが見つかるでしょう。

では、もう一度「もう終わりですか?理由はそれだけですか?」と言われたら、どう答えるでしょうか。もっと他に答えはないのですか?そう言われたら、何と答えるでしょうか。その時こそ、イエスの「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」という問いに答える時だと思うのです。

弟子たちに戻りましょう。イエスの問いかけに、ペトロが毅然として答えます。上手に答えなければうっかり返事なんてできないと尻込みして、口をつぐんでいる弟子たちの中で、単純で、素直な心を持ったペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」(15:16)と答えます。誰も答えられずにいた中で、もしかすると誰よりも田舎者だったペトロが、聖霊に支えられてすばらしい信仰を表しました。

ここに、私たちの信仰を見直すヒントが隠されています。なぜ日曜日のミサに来るのか考えてきましたが、私たちが知恵を絞って出てくる答えは限度があるのです。さらに踏み込んだ答えをイエスに申し上げるためには、私たちの心を聖霊に解き放ち、霊の導きを願う必要があるわけです。心を聖霊に開け放つ時、私は今までにない答えを、イエスに申し上げることができることでしょう。

私はなぜこの信仰の道を歩んでいるのか。人間の知恵で答えてもそれはたかが知れています。むしろ、実際は人間のどんな知恵によっても、正しく言い当てることはできないと悟り、聖霊の導きを願うこと、それが私の信仰を純粋にしてくれるのではないでしょうか。

ペトロが信仰告白をしたとき、イエスはペトロに向かって、「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ」(15:15)と仰いました。ペトロの中にあった良いものを、神が言葉にしてくださったのです。ペトロが温めていたイエスに対する信仰を見て、「幸い」と仰ったのです。それはたとえば、「あなたはわたしのすべてです」というような思いではなかったでしょうか。

ペトロは聖霊に心を開き、すばらしい答えをイエスに申し上げました。私たちも、自分で考えた答えにしがみつかないようにしたいものです。自分の知識を駆使して、これで十分だろうという答えは、イエスのたった一つの言葉でひっくり返されてしまいます。「あなたはその答えで本当に十分だと思うのか」。そう言われると、きっと私の精一杯の答えも、かすんでしまうことでしょう。

「あなたがたは、わたしを何者だと言うのか」。主日のミサに来た時は、私に問いかけるイエスとじっくり向き合う良い機会です。しばし立ち止まって、イエスの問いかけに向き合いましょう。聖霊が私を照らし、私の口にイエスへの答えを上らせてくださることを信じましょう。

人間の言葉に頼らずに、聖霊の導きに従ったペトロの信仰告白を、イエスは喜ばれました。なぜ私たちはミサに行くのか、なぜ健康で幸せな時も祈りが必要なのか、なぜ受けた信仰を次の世代に伝える必要があるのか、等々。私の信仰の知識など、ちっぽけなものに過ぎません。大切なのは、聖霊に導かれ、神に支えられて言うべき言葉が与えられるのだということを、心を開いて受け入れることです。その証拠に、聖霊に支えられてイエスに表明したペトロの純粋な信仰は、今の教会を支える一枚岩となっているのです。


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ちょっとひとやすみ
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▼聖母被昇天の日に横浜から若い夫婦が私を訪ねに来てくれた。これで2年連続、合計3回目の面会となった。夫婦は長崎の教会を訪ねるとふだん通っている教会とは違う新鮮な気持ちを受け取り、充電できるのだと言っていた。今年も目一杯エネルギーを蓄えることができたそうだ。
▼2人はメールマガジンを楽しみに読んでくれているのだが、聞くと配信が木曜日に届いたり、本文が届かずにタイトルだけだったりしているらしい。じつはこの症状は初めて聞いたわけではなくて、日曜日に予約配信したメルマガ届かないので日曜日に再度配信するというようなことがこれまでにも発生していた。
▼そこで読者の皆さんにお願い。メルマガの配信先に特にこだわりがなければ、E-magazineから配信を受けている読者の方は、(a)『めろんぱん』に配信先を変更してほしい。遅配や不達のトラブルは、今のところE-magazineに集中している。E-magazineには申し訳ないが、配信先を変える方法がいちばん確実である。
▼現在メルマガの発行スタンドは5社利用しているが、パソコンからでも、ケータイからでもパソコン用のメルマガを購読手続きが確認できたのは『めろんぱん』1社だった。他はケータイのアドレスでは申し込みできなかったり、指定のURLをケータイで表示できなかったりでうまくいかなかった。ケータイで通常のパソコン用メルマガの配信を希望する人は、この会社をお勧めしておきたい。
▼ほかにも、メルマガのことで「こうしてほしい」とか「こういうことはできないのか」というような声があれば、ぜひ寄せてほしい。皮肉なことだが、メルマガについての声を聞くいちばん多いパターンは直接出会ってからである。メールで配信している活動なのに、である。声を聞かせてもらうと、独りよがりな部分や、確かにそのほうが効率的だなとか自分では見えにくいことが見えたりする。力を貸してほしい。

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今週のセンテンス
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第45回目。「昔は良かった」というのは人類学的にも正しいことのようです。

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年間第22主日
(マタイ16:21-27)
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年間第20主日(マタイ15:21-28)何度も突き返されるのは、訓練しているからです

2008-08-17 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
08/08/17(No.372)
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年間第20主日
(マタイ15:21-28)
何度も突き返されるのは、訓練しているからです
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私は今日の福音朗読を繰り返し読みながら、イエスとカナンの女のやり取りを、知らないうちに経験済みなのではないかなと思うようになりました。実に身近な所で、よく似ている経験をしているものだと思ったのです。

それは、ついこの前起こった、1人のシスターとのやり取りです。このシスターは自分で解決できないことが起こるとあちこちに連絡を取って解決してもらう要領のいいシスターなのですが、その時もパソコンのトラブルに見舞われて私のところに電話をかけてきていました。

このシスターがパソコンのことで困った場合、まず自分が雇われている教会の1人の信者さんに連絡を取ります。ほとんどの場合はその信者さんの協力で問題は解決するのですが、その人の手が空いてなかったり、まれにその信者さんの手に負えなかったりすると、いよいよ困って私のところに電話をかけて、問題を解決してほしいと相談してくるのです。

私は、人の相談に関して、基本的にはその人が苦労して自分で解決するまで手を出さない人間です。なぜかというと、多くの場合、人が抱えている問題は、その人が全力で取り組めば自分で解決できることが多いとみているからです。

ですから私は、たいていの場合、その人の中にすでにある解決策を引き出したり、その人が問題を解決できる方向を示すだけで、手は出さないのです。本人がもがき苦しんで答えにたどり着くように、そのための手伝いしかしないことにしています。

今回もそうでした。確かに、シスターが電話で話している内容を総合すると、問題は少々手こずりそうだなぁと感じましたが、私が伊王島から出向いて、手を差し伸べて解決するほどの難問ではないと判断したのです。

シスターはこう言いました。「神父さま、長崎に今日来る予定はありませんか~」「ないね~」「パソコンのこういう問題にぶつかって、解決できずに困っているんですけど」「わたしが行かなくても解決できそうだから、もうちょっともがき苦しんでみたら」「そんなこと言わないで助けてください」「いやだ」。

私は助けに行かない理由をいつものように並べました。「わたしは今、馬込小教区の信者のために説教を書いているから、そちらの教会のために時間を割くことはできません。それにいつも言っているように、まだもがき苦しむ量が足りないですね」「いやー、それは分かりますけど、わたしたちの教会で使っているパソコンの問題が解決すれば、また話のネタにもなるし、わたしが手伝って上げられる時は助けてもらったお返しができますよ。そうでしょう?」

そうした押し問答を繰り返した挙げ句、そこまで言うならということで必要な知識を提供しました。皆さんは、そんなにいじわるしなくても、そこに行ってちょちょいのちょいと解決してあげればいいのにと思っているかも知れません。そうしてあげてもいいのですが、それはひんぱんに救急車を呼び出すようなもので、いつでも電話をかければ救急車が来てくれると思われては困るわけです。そうたやすく救急車は出動できないし、出動するまでもないことが多いということを分かってもらう必要があるのです。

今話した経験は、今日の福音とちょうど重なり合うと思いました。カナンの女がイエスに自分の問題を解決してほしい、つまり「娘を助けてください」と願います。それに対してイエスは、すぐに手を出すことはなさいません。イエスには、第一にお世話しなければならない人々、「イスラエルの家の羊たち」がいるのです。その人々に十分お世話しないで、第二の任務「異邦人へのお世話」に向かうわけにはいかないときっぱり言うのです。

弟子たちは、「そんなにいじわるしなくても、助けて上げてくださいよ」というような雰囲気なのですが、イエスはカナンの女がもっともがき苦しんで、全力で取り組むことを求めるのです。何度も突き返され、立派な答えが見つかるまで、カナンの女の内面の成長を促しているのです。

カナンの女は、何度も願いを突き返されているうちに、自分が本当に願うべきことが分かってきます。最初は、ただ娘の苦しみが取り除かれればいいと、それだけのためにイエスにすがりついていました。けれども、何度も突き返されているうちに、イエスは「イスラエルの失われた羊に遣わされている」のだから、第一の使命を妨げるわけにはいかないことに気づきます。そして、第一の使命を妨げずにイエスの救いの力にすがるためにはどうすればいいのかを必死に考え出したのです。

どんなにはね返されてもあきらめなければ、答えは見つかるものです。イエスがカナンの女に言った「婦人よ、あなたの信仰は立派だ」(15・28)というのは、はじめから立派な信仰に育っていたわけではないと思います。何度も突き返されて、はね返されているうちに本当に願うべきことが何か、分かっていったのです。

この女性が最後にイエスに答えた「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」(15・27)とは、「イエスさま、これだったらあなたの第一の使命を妨げずに済みますよね。そうですよね」という、もがき苦しんでようやくつかんだ答えだったわけです。

8月の説教の中で、私は「信仰の訓練」ということに触れているのですが、今週はきっと、その訓練の中でも特別厳しい訓練が示されていると感じました。つまり、私たちは大いにもがいて苦しんで、イエスに申し上げる言葉を練り上げる必要があるのだと思います。夢でうなされるとか、答えを見つけようとして1日そのことだけに費やしたとか、そんな格闘をする中で、イエスは私たちを育ててくださり、正しい道に導いてくださるのです。

電話でパソコンのことをすがりついてきたシスターは、最終的にどういう応急処置が可能か、自分で理解しました。もしかしたら私が出向いて手を差し伸べたほうが簡単かも知れません。けれども、簡単な方法を選べば、次も簡単な方法で済ませようとするのです。そのシスターは今回と似たようなことがまたいつか起こった時、今度は自分で解決したり、人に指導してあげることができるようになると思います。

信仰の歩みの中で、何度も突き返されたりして答えが見つからない苦労を経験している人は、それはきっとイエスによって鍛えられているのです。イエスはそうやすやすと答えを教えてくれない方なのかも知れません。答えを教えてくれないのはいじわるだからではなく、鍛え、清めていると考えましょう。

もがき苦しんでようやく答えをつかんだ時、その時私たちはイエスの手足として今まで以上に使い物になる信者になれるのではないでしょうか。


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ちょっとひとやすみ
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▼四男が伊王島に来た。11月に予定を入れに来た。考えてみれば8つ年が離れているとしても34歳である。お年頃ということになる。今年は、家族に大きな変化が始まる年になっているようである。
▼こういう時におもしろいのは、張り切る人が必ず1人や2人はいるということである。自分のことのように張り切るからおもしろい。そんなに張り切るのだったら、全部おたくが引き受けてくれたら?と時には言いたくなる。
▼けれども、そんな人もやはり1人や2人は必要かも知れない。だれかがお節介焼かなければ、進む話も進まないというものである。問題は、お節介までで済めばいいのだが、というところだろうか。いやいや、あまり余計なことは言わないことにしておこう。
▼今年は夏休みで五島に帰る時、教会学校の小学生を同じ日程で実家に連れて行こうと思っている。上五島の生活を通して、上五島のカトリック教会をくまなく見学させ、信仰生活を体験させるのが目的である。何かを感じてくれればと心から願う。
▼上五島には、伊王島の馬込教会のような「島に溶け込んだ教会」がたくさんある。下五島にもあるだろうが、上五島生まれの私は上五島をひいきしたい。頭ヶ島(かしらがしま)教会、大曽(おおそ)教会、冷水(ひやみず)教会、青砂ヶ浦(あおさがうら)教会、かつての江袋(えぶくろ)教会。まだまだ青い海に映える教会がたくさんある。
▼最後になるが、上五島の信者がどんなに自分たちの教会を大切にしているかを伝えたい。それは台風の夜だった。教会の役員が司祭館を訪ねてきて、「何も飛ばされていませんか?教会をのぞいてみましたが、大丈夫のようです」と言いに来た。自分の家の心配以上に、教会の心配をしてくれる。それを当然のことと思っている信者がたくさんいる。それが上五島の教会である。

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今週のセンテンス
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第44回目。女性が家庭を飛び出してしまうのはよくよくの理由からです。

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‥次の説教は‥‥
年間第21主日
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聖母の被昇天(ルカ1:39-56)完全な信頼を寄せるマリアに神は報いる

2008-08-15 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
08/08/15(No.371)
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聖母の被昇天
(ルカ1:39-56)
完全な信頼を寄せるマリアに神は報いる
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今日は聖母の被昇天の祭日です。ルカ福音記者によると、エリザベトを訪ねていったマリアの口から、神をたたえる「マリアの賛歌」がほとばしり出たのでした。この「マリアの賛歌」を通して、体も魂も天に上げられるほどすぐれていたマリアの信仰を学びたいと思います。きっと私たちにも、何かを教えてくれる姿がマリアの中に見つかると思います。

「マリアの賛歌」と呼ばれるマリアの心の底からの声を聞きましょう。マリアは次のように言いました。

1:47 「わたしの魂は主をあがめ、/わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
1:48 身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう、
1:49 力ある方が、/わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、
1:50 その憐れみは代々に限りなく、/主を畏れる者に及びます。
1:51 主はその腕で力を振るい、/思い上がる者を打ち散らし、
1:52 権力ある者をその座から引き降ろし、/身分の低い者を高く上げ、
1:53 飢えた人を良い物で満たし、/富める者を空腹のまま追い返されます。
1:54 その僕イスラエルを受け入れて、/憐れみをお忘れになりません、
1:55 わたしたちの先祖におっしゃったとおり、/アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」

考えたいことがあります。それは、「この賛歌はどのようにして後の時代に伝わっていったのか」ということです。マリアがルカに直接言い残したとは考えられません。ルカは12使徒ではありませんので、マリアから口伝えに聞くことはできませんでした。すると、マリアから直接この賛歌を聞いた人は分からないけれども、マリアのすばらしさを伝えるものとして人々が残してくれたと考えられます。

では、もし仮に、マリアの目の前にいたエリザベトのおかげでこの祈りが伝わったとしましょう。エリザベトは確かに目の前にいましたが、けっこうな長さのこの賛美を、エリザベトが1度聞いただけでそれを人に伝えることができるでしょうか。私は不可能だと思います。むしろ、マリアはこの日以来、繰り返し賛歌を唱え、神のはからいのすばらしさをエリザベトと一緒にたたえていたのではないでしょうか。

そのことを想像させる箇所が、今日の朗読の最後の箇所です。「マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った」(ルカ1・56)。この3ヶ月の間に、マリアとエリザベトの間で、「マリアの賛歌」は繰り返し唱えられ、暗記するほどになっていたのではないでしょうか。私にはそう思えます。

そしてマリアは、自分の家に帰ってからも、ずっと「マリアの賛歌」を唱え続けたはずです。なぜかと言うと、マリアの胎内には、イエスが宿っていたからです。「わたしの魂は主をあがめる」という「マリアの賛歌」を唱え続けさせる根拠が、マリアの胎内に宿っていたからです。

マリアは、ずっと賛歌を唱えたかも知れません。そうすると、多くの人が、「マリアはこんな賛歌を口ずさんでいた」と記憶することになります。そうして、マリアの賛歌は人々の記憶に残り、ついにルカ福音記者にも伝わってきたのではないでしょうか。まとめると、マリアは、彼女を通してなされた神の偉大なわざを、繰り返し、度ごとに、人々と共にたたえ続けたということです。

もう1つ付け加えるなら、マリアはイエスと共に暮らした約30年の間も、「マリアの賛歌」を唱え続けたのではないでしょうか。目の前にいるイエスは、神がマリアに目を留めてくださったことの「目に見えるしるし」だからです。ここで私が言いたいのは、イエスは「マリアの賛歌」を深く心に刻み、マリアが賛美の形で言い残したことを、後に実現したということです。

マリアの賛歌から拾ってみましょう。「身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださった」(1・48)「思い上がる者を打ち散らし」(1・51)「身分の低い者を高く上げ」(1・52)さらに「憐れみをお忘れになりません」(1・54)。イエスは、マリアがはるか先に言い残した人類に対する神の計らいを実現したのです。

マリアの神に対する絶対の信頼は、「マリアの賛歌」として人々の口から口に伝わりました。神の計らいを信じて疑わないマリアの生き方が間違ってないことを神の独り子イエスは御自分の救いの働きによって証明してくださいました。そして聖母の被昇天は、神の計らいを信じて疑わないマリアに目を留めてくださったことの最高の証しではないでしょうか。


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ちょっとひとやすみ
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▼このメルマガを読んでくださっている世代は、どんな世代なのだろうか。若い世代なのだろうか。それともご年配の世代なのだろうか。一概には言えないかも知れないが、年代は高いかも知れないと思っている。
▼はっきりした根拠があるわけではない。何となくそう思って、もしかしたら、「ちょっとひとやすみ」の内容は、まったく興味も関心もない話題が多いのではないか、と不安になった。もし読者の世代が高ければ、私が思い付いたことを話すだけで終わらず、いろんな世代の人に楽しみにしてもらえる工夫が必要かも知れない。
▼などと殊勝なことを言いながら、まずはパソコンの話。最近動きがひどく鈍いと思うことがあり、ハードディスクを疑ってプロパティを見てみたら、9割近くファイルが詰め込まれていることが分かった。これでは動きが悪いはずである。
▼そこで2倍の容量のハードディスクに引っ越しをしようとしたところ、引っ越しソフトを使ったにもかかわらずうまく引っ越しができなかった。準備した機材が無駄になってしまった。しかたなく、ハードディスクに圧縮をかけてみたところ、インターネットには繋がらないわ、プリンターを認識しないわで大変な目に遭い、しかたなく圧縮を解除して通常の状態に戻した。
▼これで戻らなかったら・・・費やした時間も無駄、買い物も無駄、さらにパソコンもがらくた同然に・・・と恐れていたが、さすがに某有名メーカーパソコンは出来がいい。さんざんいじめたが、ちゃんと元に戻ってくれた。インターネットにも繋がったし、プリンターも元通り。失った時間だけは戻らなかったが。
▼その日の夜、雨が少し降った。前に降ったのはいつだろう?梅雨の時か?それほど久しぶりの雨だった。雨か・・・と思って窓を開けっ放しにしていたら今度はお腹を冷やしてゴロゴロ言い始め、トイレでうずくまってしまった。もう間に合わないと思いつつも、トイレから出て来てタンスをあちこち開けて、腹巻きを取り出した。今はようやくお腹も落ち着いている。
▼世の中こぞってオリンピック。けれども周りをよく見れば、オリンピックそっちのけで紛争している国もある。どうなっているのだろう?ますます、平和は単にスポーツを開催するだけでは訪れない、主の平和が皆さんと共にあるようにと願わなければ平和は実現しないと再認識させられた。

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今週のセンテンス
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お休みします

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‥次の説教は‥‥
年間第20主日
(マタイ15:21-28)
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===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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年間第19主日(マタイ14:22-33)信仰表明も礼拝も真剣勝負のようなものです

2008-08-10 | Weblog
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(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
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http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/80810.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
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こうじ神父
「今週の説教」
08/08/10(No.370)
‥‥‥†‥‥‥‥
年間第19主日
(マタイ14:22-33)
信仰表明も礼拝も真剣勝負のようなものです
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今日の福音朗読は、湖の上でペトロの信仰が試され、信仰がぐらつき、イエスにもう一度支えてもらったという出来事が含まれています。信仰面での訓練と言っても良いと思いますが、ペトロは、ほかの箇所でも信仰の訓練を受け、その度に信仰がぐらつき、イエスに助けられています。まず、ほかの箇所も拾い上げてみましょう。

ペトロが経験したほかの信仰の訓練の1つは、イエスと弟子たちがフィリポ・カイサリア地方に行った時のことです。イエスは弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」(マタイ16・13)とお尋ねになり、さらに「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(16・15)と問いかけ、ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」(16・16)と答えました。

この答えは立派だったのですが、直後にイエスが、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け(16・21)ると、ペトロは自分の信仰表明がぐらついてしまい、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」(16・22)とイエスをいさめます。ところがイエスから叱られ、本来の弟子のあるべき姿を諭してもらいます。

もう1つは、イエスの最後の場面に当たり、最高法院で裁判を受けている時、ペトロは3度イエスを知らないと言いました。ペトロは、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」(26・33)と言い切ったのですが、その信仰はぐらつき、3度目に知らないと言う時には、「呪いの言葉さえ口にしながら、『そんな人は知らない』と誓って打ち消した」(26・74)のです。この時もイエスは黙ってその過ちを背負い、赦して立ち直らせてくださったのです。

こうして並べて考えてみると、今週の湖の上での出来事は、ただ単にペトロがイエスに信頼して湖を歩き始め、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので助けてもらったという出来事の記録ではないような気がします。12人の弟子の代表であるペトロですら、イエスへの信仰はある時揺らいでしまい、イエスに助けてもらう必要がある。そして、イエスはほんのわずかな間さえも信仰を固く保つことのできない弱い人間に必ず手を差し伸べて助けてくださり、ちゃんと使ってくださるということです。

皆さんは、ペトロをだらしないなぁと思うでしょうか。湖の上で沈みかけて怖くなり、「主よ、助けてください」(14・30)と叫んだペトロ。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」(16・22)とイエスを心配したペトロ。また、「そんな人は知らない」と、いよいよの場面で尻込みしたペトロ。彼は情けない、だらしない使徒だったのでしょうか。

私は、だれも自分のことを棚に上げてペトロのことをとやかく言えないと思います。簡単な例を挙げましょう。皆さんはミサの時や祈りの時に気を散らすことがあるはずです。赦しの秘跡の告白でそのことを言ったりするでしょう。こんなささいなことで心が散り散りになる私たちが、ペトロのことを言えるはずがありません。

私はミサ中または祈りの時に気が散ったというのはたいしたことではないと思っています。はっきり言うと罪ではないと思います。なぜ気が散ったかは罪の材料になり得ます。たとえば近くの人がミサの間にあくびをした。「あの人はミサの時にあくびなんかして。失礼な人だわ」と思った。そう思っていることは罪になるでしょう。なぜ気が散ったかを言わなければなりません。気が散りましただけでは告白の仕方が不十分です。

祈りの時に気が散りましたというのも同じことです。気が散ったことはたいしたことではありません。罪にも入らないかも知れません。問題は、なぜ気が散ったかです。こんな理由で気が散りましたと告白で言わなければ、その人の告白は不十分です。家庭で祈りをしている時にテレビのことを思い出した。テレビを消してないなぁとか、次の番組は何だったかなぁと思った。それは罪の材料になり得ます。そこまで言わなければ告白になっていません。

ちょっと道をそれましたが、私がこの話をしたのは、私たちは自分のことを棚に上げて、ペトロのことをとやかく言えないということを言いたいのです。むしろこのペトロの出来事を通して、イエスが彼に何を期待しているのか、また、わずか1時間のミサの礼拝の中でもセミの声に引きずられ、周りに座っている人に気を取られたりして気が散る弱い人間である私たちに、イエスは何を求めているのかを学び取るべきだと思います。

私は考えるきっかけとして、座禅を思い浮かべました。座禅を組むのはどんな仏教の宗派か分かりませんが、いったん座禅を組むと、それが終わるまで他のことは一切頭の中から追い出さなければなりません。何か考え事をしていると、指導してくださる方はそれに気づき、長い木の棒でピシャッとたたくわけです。

この座禅で気が付くのは、座禅の間は、座禅よりも大事なことは何もないということです。よくよく考えれば、座禅よりも大切なことがあるかも知れません。家族が重い病気にかかっているとか、今日までに解決しなければならない問題を抱えているとか、それらが本当は座禅よりも大事かも知れません。

けれども、もしもそのようなことが頭に浮かべば、指導者は容赦なくその人の肩をピシャッとたたくことでしょう。この座禅は、私たちにミサのあるべき姿や祈りの心構えをよく教えてくれると思います。ミサに参加していて、隣の人があくびをしたかも知れませんが、それはミサの大切さとは比べようもないくらいちっぽけなことです。隣があくびをして、「あの人はこんなところであくびをして」と思ったら、本当は指導者から肩をピシャッとたたかれてもおかしくないことなのです。

ペトロは信仰の訓練を受けている時、イエスに思いを向けることだけ考える必要がありました。湖の上を歩いている時、イエスにしっかり向かうことだけ考える。風が吹いても、足もとが沈み始めても、ペトロにとって大事なことは、イエスが「来なさい」(14・29)と言ったその一言だったはずです。いっさいのものを頭から追い出して、イエスに信頼することを、ここでは教えようとしたのだと思います。

同じことは私たちにも求められています。ミサや祈りが始まってから終わるまで、もっと大切なことは何もないのだと、固く心に決めてみてはいかがでしょうか。いっさいを考えの外に置いて、説教であれば説教を聞き、パンとぶどう酒がイエスの体と血に変わる聖変化の場面であればその出来事に、いっさいのものを外に置いてそのことだけに心を向ける。これが私たちの信仰の訓練につながるのだと思います。

ミサの1時間さえも、信仰がぐらつく私たちです。ミサは、イエスと私たちが最高に深く出会う礼拝の場です。それ以外に考え事は何も必要ありません。だれかがあくびをしようが、出たり入ったりしようが、イエスと出会っていることより大事なことは何もないのです。もしそのことを疑って、イエスを横に置いて立ち上がった人に気を取られるなら、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」(14・31)と肩をピシャッとたたかれることでしょう。

ペトロは信仰を言い表すことが真剣勝負であることを思い知らされました。イエスが命を分け与えるという真剣勝負の場面であるミサをもっと集中して過ごせるように、私たちも力を願いましょう。


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
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▼ちょっと時間が経ってしまったが、7月にカトリック新聞の諮問委員会が開かれ、委員の端くれである私も東京出張をしていた。会議は夕方に設定されていて、翌日夕方の便で帰る私は、会議後の時間から翌日の夕方まで、結構時間を使えるのだった。
▼午後6時からの会議が9時に終わった後、まっすぐ宿泊先のカトリック会館には帰らず、待ち合わせていた知人と「月島」に向かった。「月島」と言えばNHKの連続テレビ小説の舞台でもあり、話題作りにはちょうどいいと、場所の選定の絶妙さをベタ褒めした。
▼「月島=もんじゃ」というイメージは連続テレビ小説の受け売りだが、せっかくの月島なのでもんじゃ焼きを食べることにした。2品注文したと思うが、目の前でじゅーじゅー焼いてもらってふーふーしながら食べると、話しながら、聞きながら、みんなで食べるのにはもってこいの食べ物だなと感心した。おいしかった。
▼ご馳走になって安心して泊まり先に帰り、翌朝は事務局長の神父様と一緒にミサをささげた。いつも思うのだが、チャペルで司祭2人でミサをささげるという環境の変化は、はじめは戸惑っただろうなぁと何度来ても思う。私だったら、毎日欠かさずささげる気力があるだろうかとふと思った。
▼荷造りを済ませてこの日の訪問先に向かう。この日の見学リストも前日の知人の勧めた場所だ。1つは築地、もう1つは東京大学。どちらも「行ったことがない」ただそれだけなのだが、何か刺激を受けることができればと思って訪ねていった。
▼地下鉄を乗り継いで築地へ。朝10時に到着したが、それでも忙しそうに動いている関係者を見ていると、何かワクワクするものを感じた。こちらが突っ立っているものだから、「じゃまだ。どけ」という目をして目の前をびゅんびゅんテーラーで走って行く。その、「じゃまだよ」という扱いが何ともすがすがしかった。実はそういう扱いを期待していったのかも知れない。
▼築地を見学し終えると、またも地下鉄で東京大学に向かった。大学はいつも感じるのだが、簡単にたどり着けそうでたどり着けない。広大な敷地だから少々見当違いをしてもたどり着けると思っていたのだが、東京ドームに行ってみたりあちこち歩き疲れてようやく東大正門にたどり着いた。
▼校内に入ってまず探したのは「安田講堂」。私の中ではあの小説家が屋根に登って演説している白黒の記録映像が浮かぶ。それから学生紛争。今はまったくその面影もないが、自分自身も古いんだなと思い知らされた。
▼「東大赤門」が見つからず、知人に電話をかけてみると「なーんだ」というほど簡単に見つかった。つくづく土地勘がないとあらためて思い知らされる。赤門の前には将来の受験生とおぼしき中学生のご一行が、説明を受けたり記念写真を撮ったりしていた。私も記念に1枚撮影。普通は東大に合格した人がここで撮影すると思うのだが。まぁいいか。
▼その後、せっかくなので学食を食べに行った。カツ丼。特別変わった味はしなかったが、東大生の中で食べたということだけが田舎者には経験できない経験である。そして最後はどうしても生協に行って東大グッズを買って帰り、教会学校の子供にプレゼント。東大のシャープペンで勉強すると、東大に行けるかも?
▼さあて、校内を出て山手線のどこかにたどり着かなければ、飛行機の時間が残り少ない。そう思って構内をウロウロ、校内を出てもなかなか地下鉄もJR駅にもたどり着けず、泣きながら地下鉄に入って、「お茶の水」あたりで山手線に乗り換えた。次回東京に行く時には、ハンディナビゲーション(Mio P350など)を必ず持って行くぞと決めた。

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今週のセンテンス
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第43回目。女性ははけ口がなくなるとどういう行動を取るのでしょうか。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
聖母の被昇天
(ルカ1:39-56)
‥‥‥†‥‥‥‥
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年間第18主日(マタイ14:13-21)イエスが増やせない元手など存在するでしょうか

2008-08-03 | Weblog
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(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
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http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/80803.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
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こうじ神父
「今週の説教」
08/08/03(No.369)
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年間第18主日
(マタイ14:13-21)
イエスが増やせない元手など存在するでしょうか
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今日の福音は、イエスが行ったパンの奇跡についてです。この福音を書いたマタイは、パンの奇跡を二回書き残しましたが、今日読まれたのは、その最初の分です。マタイはここで、イエスのどんな心を描こうとしたのでしょうか。

はじめに、イエスと弟子たちのあいだで繰り返し使われた言葉に注意を向けましょう。同じ場所に立っているのに、両方の話ぶりで場所の風景がすっかり変わってしまうことが分かります。

「ここは人里離れた所です」。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません」。弟子たちは、自分たちが立っている場所、置かれている立場に、ほとんど期待していません。全く望みがないとさえ思っているでしょう。ところがイエスは、大きな希望を保ち続けています。「それをここに持って来なさい」。弟子たちが見落としている何かを、そこにいるすべての人に思い出させようとしているのです。

弟子たちにとっても、イエスにとっても、集まっている群衆にお世話したいという気持ちには変わりがありません。ただ違うのは、ここではお世話ができないと考えるのか、ここで十分にお世話ができると考えるか、それだけです。

どこから、違いが出てくるのでしょうか。それは、「ここにイエスがいる」とはっきり意識するか、意識しないか、その差だと思います。意識して「イエスがいる」と思っている人は、それだけで力づけられます。希望のないように見えた場所が、イエスがいることですっかり変えられます。見た目には何もない場所なのに、すべての人が「食べて満腹する」場所に変わるのです。マタイはこのことを、最初のパンの奇跡で描こうとしているわけです。

実際、どんなに考えても、目の前にいる大勢の人に食べ物を用意することなどできるはずがありません。誰でも、できるかできないかぐらいは分かるものです。それなのに、「あなたがたが、彼らに食べる物を与えなさい」と言われたときは、「そりゃぁないよ」と思ったことでしょう。

「自分たちには、絶対にできない」。ここからイエスの働きが始まります。人間の力ではどうすることもできないと思うところに、イエスの力が働くのです。何の足しにもならないと思う分量や、人数や、与えられた時間を、イエスは考えられないくらい大きな恵みで満たしてくださるのです。

自分たちには絶対できないけれども、同じ信仰を持った先祖たちが、その絶対できないことを成し遂げました。日本の殉教者たちです。その中で188人は、今年の11月23日に福者に選ばれます。この188殉教者の中で、子どもたちの殉教はとても考えさせられます。子どもたちの殉教の中で、例として有馬の殉教者ディエゴ林田のことを取り上げたいと思います。彼は殉教したとき12歳の少年でした。

ディエゴ林田少年は、12歳ですでに教会の子どもたちに要理を教える先生を務め、子どもたちだけで活動する「マルチレスの組(殉教の組)」のリーダーになっていました。有馬では禁教令が出されるとすぐに、有馬直純(なおずみ)によって迫害が始まりました。有馬のキリシタンの中から選ばれた人々が、有馬川の中州で火あぶりにされることになります。

ここで大人たちは自分たちの足で中州に用意された刑場まで歩いていったのですが、役人は子どもに過ぎないと思ったディエゴ林田を背負って刑場に運ぼうとしました。ところが少年は自分の足で歩くことを申し出たのです。「イエスさまは、十字架を担ぎ、カルワリオ山へ歩いていきました。わたしも歩かせてください」。

縄で縛られたキリシタンたちは炎の中で次々に息絶えていきましたが、ディエゴ林田の縄は焼け落ちてしまい、少年は同じく火あぶりにされている母の元へ駆け寄り、母と一緒に息を引きとしました。ディエゴの姉で19歳のマグダレナも、縄が焼き切れたとき、足もとの燃えるまきをつかむと、頭上にかざしてすべてを神にささげて殉教しました。

人間の力が絶対及ばないところまで来ると、そこで神の力が大いに働くのだと思います。人間の力で殉教しようと考えても不可能だと思いますが、これ以上無理だと考えるその時から、神が人間という5つのパンと2匹の魚に過ぎないものを使って、あっと驚く業を成し遂げるのです。

私の中には、たいした力も信仰体験もないかも知れません。けれども、私の中にイエスがおられることは忘れてはいけません。殉教者が教えてくれているのは、「イエスが一緒にいてくださるなら、わたしのような小さな者でも使い物になる」ということだと思います。

「わたしなんかでは何の足しにもならない」。そう考えている人がいるかも知れません。けれども、イエスが手にとって大きな事をなさったのは、そのどうしようもないほど小さなものだったのです。私は小さいかも知れません。けれども、私を使ってくださる神は、小さなものから驚くほど大きな事を成し遂げる方です。この神の力に、あらためて信頼を寄せたいと思います。

もう一度、私の身の回りを見直すことにしましょう。今まさに、あなたを使って働こうとしているイエスに対して、私たちは知らず知らずのうちに、「わたしにはできません」とか「わたしは期待しているようなお役には立てません」と失礼なことを言っていないでしょうか。

それは、「イエスでもわたしは使い物になりません」と言っているようなものです。何と失礼な言い方でしょう。イエスが業を成し遂げることを忘れるとき私たちは無力ですが、イエスがきっと成し遂げてくださると確信するとき、ちっぽけな私たちでも限りなく生かされるのです。

最後に、イエスが弟子たちにパンを配らせている姿を思い起こしましょう。イエスは、ご自分が与えようとするものを、弟子たちを通してお与えになりました。それは今でも続いています。イエスは現代社会の中で、教会を通してご自分の与えようとするものを人々に分かち合うのです。イエスが何倍にも豊かにしてくれたものを、私たちが配ります。イエスが豊かにしてくれても、私には配る力はありませんと、誰が言えるでしょうか。

人に惜しまず与え、働きに協力し、それでも十分におつりがくる。そんな活力のある私にイエスは変えることができます。豊かにしてもらう元手に私もなりうるのだと信じる。そのための力を、ミサの中で祈ってまいりましょう。


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼さっそくCDの依頼を受けた。切手を送ってくださった方もいらっしゃったが、200回以上の読者が声を上げてくださった。意外と言っては失礼かも知れないが、いるんだなぁと感心した。さらに脱帽したのは、創刊当初から欠かさず読んでくださっている人がいたということ。
▼「全部読み続けているのは私一人です(笑)」と、いささか自虐気味に書いたのだったが、その方は「神父様、ことに寄ったら貴方お一人ではないかもしれません」と声をかけてくださいました。それはもう脱帽の域です。発行人すら記憶していない詳細なメルマガからの出会いの喜びを伝えてくださいました。感謝申し上げます。
▼もしかしたら、私は高所恐怖症が解消したかも知れません。そこまでしか言うことはできませんが、谷底が170メートル以上の高所を歩いてみて、何ともないような気がしてきました。解消してなかったらごめんなさい。
▼ここからは、先週見た夢にお付き合いください。あまりにリアルで、途中で夢じゃないかと疑う要素が見あたりませんでした。よく作り込まれていて、おもしろかったのでご報告します。正夢になる日が来るやも知れませんので、その時は笑ってください。
▼転勤した夢でした。任地も明確に意識していました(ここでは伏せておきます)。下見に行こうと思って、その教会を訪ね、たまたまその日のミサをしようと思い、そこにいたシスターに「今からミサをしたいんだけど、いいかな」と声をかけました。
▼すると、その若いシスターは「勝手にすれば」とつれない返事です。「いいのかな、そんな返事の仕方して」と私が言うと「主任神父でもあるまいし」と言い返されました。「あ、そう。覚えときましょう」と言って祭壇の準備をし、ミサを始めました。何事もなく進んでいたミサでしたが、「主の祈り」(交わりの祭儀)の部分になって、突然式文が思い出せなくなり、どうしてもミサを進めることができません。
▼あちこち本を開くけれども見つからない。しだいに自分がどこを唱えていいかも分からなくなっていると、小さい子供が祭壇に上がってきて、「ご聖体まだ?」と言っています。まもなく年配のシスターが子供に近づき、「あのね、神父様はミサの途中が分からなくなってしまったから、もう少し待とうね」と子供に言い聞かせる始末。目の前でそう言われている私は絶句し、金縛り状態になりました。
▼さらに、中央玄関当たりでは、別の司祭がミサを始めました。どうやら当地の主任司祭なのでしょう。「・・・聖霊の交わりが皆さんと共に」そう言った途端、聖堂内にいた大人、子供、修道女がいっせいにそちらを向いて「また司祭と共に」と応じています。
▼「あー、まだ私は地域の信者に受け入れられていない。しかたない。これから徐々に受け入れてもらえるように努力しよう。それにしてもなぜ、祈りが思い出せないのだ・・・。ミサが思い出せない。うう・・・」ともがいている頃にようやく目が覚めました。
▼よくできたストーリーだったなぁとほとほと感心します。あまりにできすぎているわけでもないし、はじめに受け入れてもらえてないのもありそうな話だし、本当にこれは現実なんだと思ってここから出発しようと覚悟を決めていたところでした。ビックリして目が覚めたのが12時半、ベッドに腹ばいになり、軽く除湿をかけてそろそろ風邪ひきそうな状況になっていました。ただの夢とは思えない脚本、演出でした。

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今週のセンテンス
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第42回目。夫婦の役割についての認識はすでに変化しつつあります。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
年間第19主日
(マタイ14:22-33)
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