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こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

復活節第4主日(ヨハネ10:11-18)あなたは命をどこに置きますか

2015-04-26 | Weblog
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‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
15/04/26(No.766)
‥‥‥†‥‥‥‥
復活節第4主日
(ヨハネ10:11-18)
あなたは命をどこに置きますか
‥‥‥†‥‥‥‥

今年の復活節第4主日の福音朗読は、「良い羊飼い」として自分を示すイエスの姿が描かれています。「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」このイエスのみことばに分け入っていきたいと思います。

去年の同じころの話ですが、6月には毎年教区司祭の黙想会が入ります、気がけておいてくださいと言ったのに、今年の黙想会の案内を見ると5月26日から4日間となっていました。

まるでわたしが嘘ついたような格好になっていますが、去年話した時点では毎年そうだったのです。もはや、長崎教区には決まりごとは何も通用しないのだと思いました。

黙想会の前日5月25日(月)に、黙想会とは全く関係ないですが、気になる予定が入っています。西日本の司祭たちが長崎に集まって、教区対抗のソフトボール大会です。2年に1度の交流会なのですが、前回長崎教区チームは20代30代でチームを組んだのでお呼びがかかりませんでした。

ところが、前回のチームがあまりに強すぎて、よその教区(例えば福岡教区)から楽しくないと不満が出たそうです。そこで長崎教区のチームがあまり強くならないように配慮するということになり、40代50代の司祭に選手に出ろという命令が下りました。秋のソフトボールの頃にしか練習していないので怪我しないようにこれから準備しますが、内心は「今回のチームも強すぎると言わせてやる」と意気込んでいます。

今週末から聖母月に入ります。どうぞ、ロザリオの信心に都合付けて参加してください。なお聖母行列ですが、月の半ば5月17日の午後4時から行列を開始、その後引き続き主日のミサとしたいと思います。

福音朗読に戻りましょう。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」(10・11)日本語で「命を捨てる」と訳された部分は、要らなくなったものを捨てることと勘違いされやすいので、本来の意味までたどって理解しておく必要があります。

ギリシャ語の聖書に当たってみると、「命を捨てる」とは違った印象を持つはずです。わたしが所有しているギリシャ語の聖書には英訳が付いていて、”The Good Shepherd lays down His life for the sheep.”とあります。日本語ですと「良い羊飼いは羊のために命を置く」となるでしょうか。

「命を捨てる」ではなく「命を置く」と訳せば、印象はがらっと変わるはずです。イエスはなぜ命を置くのでしょうか。イエスはどこに、いのちを置くのでしょうか。

イエスがご自分の命を置く理由は、羊のためです。羊を守るため、羊を愛しておられ、羊を導くためです。羊は、弱い動物なので、羊飼いに守られなければ身を守ることができません。雇い人のように羊を置き去りにしていく人のもとでは、生きていけないからです。

もう一つ、イエスは「わたしは命を、再び受けるために、捨てる」(10・17)と言っています。これはイエスがどこに命を置くかにつながっていますが、「命を捨てる」のではなく、「命を置く」から、再び受けることができるわけです。するとますます、イエスがどこに命を置くかは大事になってきます。

どこに、イエスは命を置くのでしょうか。それはイエスが置いた命を、御父がたしかにお受け取りになる場所のはずです。イエスが命を置く場所は十字架です。十字架の上に置かれた命を、御父がすべて受け取り、そしてイエスにお返しになるのです。

イエスは良い羊飼いとして、わたしたち羊のために命を置いてくださいました。わたしたちも、いつか命を置く必要があります。どこに、命を置くのでしょうか。わたしたちの命を受け取り、再びそれを与えてくださる方のもとに置くべきです。そのお方とは疑いもなく、イエス・キリストです。

もう少し踏み込んで考えると、わたしたちは明日をも知れぬ命を生きています。いや、今日を無事に終えることすら、約束できない身なのです。ですから、日々わたしたちは自分の命をイエス・キリストに置いて生きていく。そういう覚悟が必要なのではないでしょうか。

わたしたちキリスト者が確実に自分の命を日々イエス・キリストに置いて生きるとき、世に対して証しを立てることができます。次のような証しです。「わたしたちは今日の命を、イエス・キリストに置いて生きています。イエス・キリストに命を置いて生きるなら、たとえ今日で命が尽きようとも、イエス・キリストが命を受け取ってくださり、再び命を与えてくださるからです。あなたはどこに、いのちを置いて生きていますか。」

わたしたちキリスト者が例外なく、命をイエス・キリストに置いて生きるとき、証しは力あるものとなるでしょう。あなたは命を、どこに置いていきますか。その答えが決まれば、イエスが羊のために命を捨てる意味も、身近に迫って来ると思います。

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‥次の説教は‥‥
復活節第5主日
(ヨハネ15:1-8)
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‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼88歳の女性の葬儀ミサに参列した。中町教会で行われたミサで、中町教会の主任司祭と共に司式をさせていただいた。関わりがあったということで説教もさせていただいた。この女性が洗礼を受けて教会の葬儀で旅立つまでには長い長い前置きの話がある。
▼この方には3人の子供さんがいて、そのうちの1人が純心高校にお世話になる間に学校の先生であったシスターに導かれ、洗礼を受けた。さらに修道女となったが、家族の中ではカトリックの洗礼を受けた人は誰もいないので、十分理解してもらえなかった。
▼それでもシスターとなった子供の生き方が、長い時間をかけて両親に理解され、2007年に父親が、2008年に母親が洗礼を受けた。その両方の洗礼にわたしが関わったので、葬儀ミサにも参列することになったわけである。
▼福音宣教はこれが唯一という方法はないと思う。かつては「これが福音宣教」と受け止められた向きがあって、それを強引に推し進めて宣教師にも宣教地の人々にもさまざまな失敗があった。習慣も文化も異なる人々に単一の習慣・文化を押しつければ、当然ひずみも出てくる。
▼そうではなく、やはりその土地の特性に合った宣教の姿勢が必要である。もっと言うと、一人ひとりに合った宣教の方法が考えられてよいと思う。ある人は信じたいと願っているその時をつかんで導き、根本的なことを確認させて洗礼を受けてからさまざまなことを教えてもよいと思っている。
▼ある人は長い時間をかけて、それも何十年という長い時間の中で、信じるに値するのかをその人が見極めて、それから洗礼に導くこともあってよいと思う。だから福音宣教の中で結果として洗礼に導けるかどうか、目の前の結果に一喜一憂しないで取り組もう。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第373回目。自炊生活に不釣り合いな、「鯛飯」。まだ人には出せない味だが。

ホームページもご覧ください。
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文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
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復活節第3主日(ルカ24:35-48)主イエス、聖書を開いてわたしたちに話してください

2015-04-19 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
15/04/19(No.765)
‥‥‥†‥‥‥‥
復活節第3主日
(ルカ24:35-48)
主イエス、聖書を開いてわたしたちに話してください
‥‥‥†‥‥‥‥

月曜日にいつもの趣味ができないまま週末が来てしまい、せめて土曜日くらいは気晴らしを、と思っていたところをがまんして説教作りに時間を取ったにもかかわらず、どうしてもとっかかりが見つかりませんでした。そこで不本意ながら、6年前の説教を参考にさせてもらいたいと思います。

復活節第3主日は、長崎教区では1つの特別な意味を持つ日曜日です。毎年同じことが繰り返されているのですが、御復活の2週間後というのは、司祭の異動の日です。カトリック教報ですでに詳細は御覧になっていると思いますが、たくさんの小教区が異動になっていました。

目を引いたのは、今年は浦上教会、大浦教会、稲佐教会に勤めておられた司祭とカトリックセンターの司祭1人の合計4人が引退をされたことです。ここ数年、教区の重石となってくださっていた方々が次々と引退され、長崎教区のご意見番はこれから誰が背負ってくださるのだろうかと心配になります。教区も一つの組織ですから、「ご無理ごもっとも」「はいはいその通り」という方々ばかりでは心配になります。

今日、福音朗読の中でわたしの目に留まった箇所は、最後の部分です。「そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。」(24・45-48)

この箇所を取り上げたのは、イエスがご自身の復活を弟子たちに説明するのに、(聖書に)「次のように書いてある」と仰った点が、興味を引いたのです。イエスは復活の出来事を弟子たちに悟らせるために、聖書を引用したのです。

別に気になる点などないと思われるかもしれません。けれども、復活したイエスは目の前にいるのに、出来事を悟らせるのに聖書に頼って説明しているのです。手と足を見せるとか、焼いた魚一切れを弟子たちの前で食べるだけでは、弟子たちの心の目を開くには十分ではなかったということになります。

この問題を解決するには少し説明が必要だと思います。朗読された福音書はルカ福音書です。ルカ福音書の朗読に耳を傾けた人々は、ギリシャ語を話す人々で、ユダヤ教の教えを知らない異邦人でした。ルカ福音書の読者には、旧約聖書の予備知識は少なく、どんな小さなことでも聖書の知識から説明が必要でした。

ですから、イエスの復活を語るために、ルカは読者として念頭に置いていた異邦の民に分かるように説明をしなければなりません。そこでルカは、イエスが弟子たちに説明している場面を取り上げているにもかかわらず、聖書の説明を土台にして復活の出来事を悟らせようとしているイエスの姿を描いたのでした。

もう少し踏み込んで考えるなら、ルカ福音書の読者となっている人たちと時代も場所も離れ、文化や歴史の土台も根本から違っているわたしたちにもイエスの復活を悟らせるために、ルカは聖書に書かれていることを根拠にして、弟子たちに出来事を解き明かすイエスを描くのです。実にこの2000年代に生きているわたしたちのためでもあるのです。

このことから伝わってくるのは、イエスの復活は直接その時代に見た人たちだけが理解できるというものではなく、聖書を丹念に読み返すなら、聖霊に照らされて、あらゆる国、あらゆる時代の人々が理解できるものなのだよということです。イエスの復活は、聖書を丹念に開くなら、当時の人々と同じようにわたしたちも悟ることができる神秘なのだということです。

今週の朗読個所の狙いが理解できると、わたしたちにも大きな励ましが与えられます。どこかでわたしたちは、イエスの復活を当時の人々のように大胆に証言するのはちょっと難しいのではないかとひるんでいるのだと思います。ひるんでいるだけではなく、「わたしたちはその場にいなかったのだから、当時ほど宣教が成功しなくても仕方がないよ」と思っているのではないでしょうか。

その、ちょっとした「諦め」「後ろ向きな態度」に、ルカは釘を刺そうとしているかもしれません。「イエスの復活を今の時代に伝えるのは難しい。当然だとあなたは思っているのか。聖書に書いてあるではないか。聖書を丹念に読めば、今の時代でも十分に理解できる出来事ではないか。」今週の朗読はそんな励ましを与えてくれているなぁと思いました。

与えられた朗読個所に耳を傾けて、わたしたちには、受けた信仰をしっかりと生きて、告げ知らせる使命があることをあらためて確認しました。イエスは復活の出来事を目撃した人にも、聖書を解き明かして復活の出来事を説明しました。

わたしたちも、みことばの力に信頼して、勇気を持ってイエスの復活を告げ知らせる者になりたいと思います。イエスの復活を告げ知らせようとするわたしたちに、イエスはいつも心の目を開こうと働いてくださいます。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
復活節第4主日
(ヨハネ10:11-18)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼何をどう考えても、とっかかりが見つからないというのは本当につらい。準備が足りないからだと言われればそれまでだが、火曜日から何となく準備に取り掛かっていたにもかかわらず、それでも土曜日にまとまったものが用意できなかった。メルマガの読者にもお詫びしたい。
▼今年の司祭異動で引退される4人の司祭のうち、1人は小神学生時代にお世話になった大先輩である。わたしが司祭召命の道を外れ、自分の学力に天狗になって別の進路を探ろうとした高校三年生の時に導いてくださった。
▼話せば長くなるが、学校を3日欠席して郷里に帰り、神学校を退学して別の道を歩きたいと親を悲しませた。だが小教区の主任司祭も、神学校の校長も、さらには大神学院の郷里の先輩も、わたしのことを心配し、心から祈ってくれていたので考え直すことができた。
▼今になって思うと、明確な別の進路があったわけではなかったと思う。実際に神学校を退学していたら、もしかしたら後悔していたかもしれない。曲がりなりにもこうして20年以上司祭として歩んでいるのは、当時の校長先生を務めてくれた司祭のおかげである。
▼その大先輩が引退する。一時代の幕が下りるような気がする。教区にとってもご意見番のような存在であったので、これから誰が、教区のご意見番を果たしてくれるのだろうか。はたして教区長は、どのような意見に耳を傾けて今後のかじ取りをしてくださるのだろうか。
▼今年の人事異動を見ると、誰をそばに置こうとしているのかよくわかる。ぜひ、これからのかじ取りに、それらの諸先輩方が体を張って貢献してほしい。耳に優しいことばかりでなく、耳に痛いことも、時には体を張って届けてほしい。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第372回目。聖週間前に用意した冊子。今年は意外にも?すべてなくなっていた

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神のいつくしみの主日(ヨハネ20:19-31)神のいつくしみにより多くの人を招こう

2015-04-12 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
15/04/12(No.764)
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神のいつくしみの主日
(ヨハネ20:19-31)
神のいつくしみにより多くの人を招こう
‥‥‥†‥‥‥‥

神のいつくしみの主日と呼ばれるようになった復活節第2主日、神のいつくしみをまずイエスを信じるわたしたちが知り、イエスをまだ信じていない人々にどのようにしたら神のいつくしみが届くかを考えてみましょう。

復活の卵の当たりくじ、あと2人受け取りに来ていません。景品の10個入りパックの卵は、あと二、三日もすればヒヨコになって逃げて行ってしまいます。心当たりの方は今日中に受け取りに来てください。

自炊も2週間になりました。作った中で、おいしくなかったものとおいしかったなぁというのがあります。まったくおいしくなかったのは野菜炒めです。野菜が嫌いだからではなく、おいしくなかったのです。わたしが作ったものは「野菜炒め」ではなく、「野菜炒めた」です。「野菜炒め」は料理ですが、「野菜炒めた」は料理とは言えません。

おいしかったものがあります。ラーメンです。まっすぐの麺が2束入ったものを買い置きしていますが、麺や具を調理してお湯を決められた分量の3分の2に減らし、あと3分の1は豆乳を足してひと煮立ちしたら調味料を入れて完成です。この豆乳を「投入」するところがポイントでして、クリーミーでおいしかったです。これからも、「これはうまい」「これは最悪」という料理が出来上がったら報告します。

復活したイエスは、幾度となく弟子たちに現れます。今週の朗読で二度にわたって復活したイエスが現れ、「あなたがたに平和があるように」(20・21,26)と言っています。イエスは弟子たちに平和を与えます。イエスが与える平和を届ける道具として、弟子たちは選ばれました。

復活したイエスが弟子たちに現れ、平和を与えてくださいましたが、もしイエスのほうから何も言葉を発しなかったとしたら、その場の雰囲気はどうなっていたでしょう。きっと緊張が走り、場面は凍りついたと思います。イエスは弟子たちが逃げ去った中で、十字架にはりつけにされてお亡くなりになったからです。復活したイエスが、裁きをもたらすためにやって来たとしても不思議ではない状況で、「あなたがたに平和があるように」と言われたのです。

どんなに弟子たちは救われたことでしょう。自分たちの弱さや罪を嫌でも思い出すことになる場面で、イエスは何も責めず、ご自分から近づいて和解の手を差し伸べられたのです。「手とわき腹とをお見せになった。」(20・20)イエスは、どんな場面にもご自分を和解の道具として与えてくださり、そこに平和をもたらしてくれるのです。

これが「神のいつくしみ」の姿なのだと思います。わたしたちがいつくしみを注がれるのにふさわしいから神がいつくしみを示しているのではなく、まったくふさわしくなかったのに、みずから近づいてくださり、いつくしみの手を差し伸べてくださるのです。

弟子たちは、復活したイエスを通して、「神のいつくしみ」の姿を間近に見ました。トマスが復活したイエスの最初の出現に立ち会えず、八日の後に出会った時も、頑なに心を閉ざしていたのにイエスが近づいてその心に触れ、いつくしみの手を差し伸べ、平和の絆で結び合わせたのです。弟子たちは二度にわたって、神が人間にどのようにいつくしみを示されるのかを体験しました。

弟子たちは、自分たちの体験を人々に届けに行く使命を受けます。神は人間がいつくしみを注ぐのにふさわしいからいつくしみを示したのではなく、まったくふさわしくなかったのにいつくしみの手を差し伸べられた。この体験を人々に届けに行くのです。

その第一の方法は、イエスに注がれた聖霊によって、人々の罪を赦すということでした。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」(20・22-23)この使命は選ばれた弟子たちを通して、また弟子たちの後継者である司教と、その協力者である司祭によって届けられます。

信徒はどうでしょうか。信徒もまた、神のいつくしみを人々に示すために、互いにゆるしあい、また家族でゆるしあい、平和の絆を保つようにすることができます。もう1つ、すべての信徒にできることがあると思います。それは、今こうして集っているミサに、より多くの人を導くことです。

復活したイエスは、祭壇上で特別のいつくしみを示してくださいます。それは、十字架上で一度きりささげられたいけにえを、繰り返し祭壇上でささげてわたしたちを恵みにあずからせてくださいます。ミサは、みことばと聖体によって神のいつくしみを最高に表す祭儀です。このミサに集う人は、男性も女性も、子供も大人も、健康な人も病人も、互いに平和のあいさつを交わし、すべて平和の絆で結ばれるのです。

わたしたちはこのミサに、より多くの人を導く必要があります。少なくとも、声をかけることはできます。「神のいつくしみが特別に示されているミサに、あなたも来てみませんか。」こんな形式ばった言葉でなくてもよいので、あなただったらどんな声をかけられたら「一度行ってみようかなぁ」と思うか、それを言葉にしてほしいと思います。

みなさんの近くに、ミサの中で示される神のいつくしみに触れてもらいたい人はまだまだいるはずです。あなたが、みことばと聖体によって神のいつくしみを感じることができるなら、ぜひ身近な人にも同じ体験ができると伝えに行きましょう。あなたがミサの中で味わっている神のいつくしみが、人々に神のいつくしみを届ける何よりの力の源です。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
復活節第3主日
(ルカ24:35-48)
‥‥‥†‥‥‥‥


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ちょっとひとやすみ
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▼結果的に事無きを得た話。聖週間の説教を前もって受難の主日前に準備して配信する作業をした中で、危うく失敗するところだった。それは、聖なる三日間に対応する「今週の一枚」のリンクと、録音説教のリンクの日付が間違ったまま配信されるところだったのである。
▼まずどのように間違っていたかだが、今年の聖週間のメルマガ配信の土台になる資料は、かなり前から作成してある。「土台になる資料」とは、たとえば「○○○○主日/マルコ○○○○」というような下書きの資料である。およそ2年前に作成されていた。
▼その中で、2015年の聖なる三日間の日付を、4月9日(木)・10日(金)・11日(土)と思い込んでいたのである。実際にはすべて一週間早いわけだが、2年前作成した時には正しい日付だと思っていた。
▼復活の主日(日中)までのすべての配信予約を完了し、あとは実際に配信されるだけという段階になって、聖なる三日間の「今週の一枚」のリンクと、録音説教のリンクの日付が間違っているような気がして確かめてみたら、やはりずれていた。このまま配信していたら、正しくリンクを作成したと思い込んでいるわけだから、きっと間違いに気付かなかっただろう。録音説教も永遠に聞けずじまいになるところだった。
▼この間違いに気付いたのはヒョウタンからコマ、想像もできないような偶然からだった。復活の主日(日中)の「ちょっとひとやすみ」に目を通していたところ、「おや?」と思う部分が見つかり、このまま配信すると重大な間違いになる可能性が考えられた。そこで4月5日の配信予定の「ちょっとひとやすみ」を書き換え、配信し直そうとした時に偶然聖なる三日間の部分の間違いにも気付いたのである。
▼復活の主日(日中)の「ちょっとひとやすみ」を書き変えねばならないと気付いたのは3月27日の金曜日、すでにマリア文庫の会員と熊本の国立ハンセン病療養所の入所者を慰問するために熊本に向かう時だった。この日までに、受難の主日から復活の主日(日中)まですべての配信予約は終えてあるから、復活の主日(日中)の「ちょっとひとやすみ」だけの間違いだと思い込んでいたら、聖なる三日間のミスはそのまま配信されていただろう。直前に関連する間違いにも気付くことができ、ほっと胸をなでおろす。
▼配信スタンドにログインし、再配信が可能かを確認。あるマガジンスタンドは「編集し直して再配信」が可能だったが、あるスタンドは「配信予定としているものをいったん解除し、あらためて正しいものを用意して再配信」というスタイルだった。
▼いずれにしても、受難の主日までに、すべての配信予定が正しいものに差し替えられ、事無きを得た。「間違ってないだろう」「間違ってないはず」は、人間が犯しがちな最大の間違いであると、今回は学習した。

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今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第371回目。13日(月)に司祭団が浜串に来て釣り会。なので下見に。

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復活の主日(日中)(ヨハネ20:1-9)復活した主は全世界を照らす光

2015-04-05 | Weblog
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こうじ神父
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‥‥‥†‥‥‥‥
復活の主日(日中)
(ヨハネ20:1-9)
復活した主は全世界を照らす光
‥‥‥†‥‥‥‥

あらためてご復活おめでとうございます。わたしたちは昨晩の復活徹夜祭で光の祭儀を行い、復活した主が、わたしたちの心の闇を照らし、導いてくださる方となっておられるのを体験しました。
ローソクの光は、使い方によって2つの照らし方をすると思います。光の祭儀では、復活賛歌を歌うために、侍者たちにローソクで手元を照らしてもらいました。1つの働きは、手元を照らすということです。
また、洗礼の約束の更新では、全員復活のローソクから火をともし、信仰を宣言しました。これは自分たちの信仰を互いに確かめ合い、また世に向かって信仰を宣言するための働きでした。ローソクの光のもう1つの働きは、世を照らすということです。
復活の主日の日中の典礼で朗読される福音は、ヨハネ福音書が決まって朗読されます。与えられた朗読の中で、「見る」という言葉がいくつかの違った働きをしています。それはたとえて言えば、ローソクが手元を照らす働きと、世を照らす働きに使われるようなものです。
マグダラのマリアは墓に行き、「墓から石が取りのけてあるのを見た」(20・1)とあります。彼女の目は、いわば手元を見ただけでした。そのため戻って弟子たちに報告する時も、「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません」(20・2)という報告にとどまったのです。
ペトロともう一人の弟子は、外に出て墓へ行きます。先に墓に着いたもう一人の弟子がペトロに続いて墓に入って来たとき、マグダラのマリアとは違う結果になりました。「見て、信じた」(20・8)のです。もう一人の弟子の目は、手元を見ただけではなく、自分たちが見ている出来事の本当の意味まで深く見通したのです。
そこには、ただ手元を見るだけの見方とは違った見方があることが分かります。たとえば旅行に出かけるとき、船に乗っている知らない幼子が泣いているとして、泣き止んでほしいなぁと思って見るのと、微笑ましいなぁと愛情をもって見るのが違っているようなものです。
イエスが愛しておられたもう一人の弟子は、自分が深く愛されていたことを思い起こしながら、空の墓を見つめたのです。そのことで、イエスは復活して、わたしたちの救いを成し遂げられた、わたしたちにまた愛を注いでくださる方となられたことを見通したのです。
イエスが愛しておられたもう一人の弟子に倣いましょう。日々の出来事の意味を考えるとき、愛情を持って出来事を見ると、すべてが神からの贈り物として受け止めることができるようになります。復活した主は今わたしたちの手元だけでなく、全世界を照らし、愛によって治め、導いてくださるのです。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
神のいつくしみの主日
(ヨハネ20:19-31)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼ここ数カ月で、かつての大神学院でお世話になった教授たちが次々に亡くなった。カナダ人で、8年間霊的指導司祭だった司祭、そして教義神学を4年間教えていただき、院長としても導いていただいた日本人の司祭だ。亡くなった連絡が入り、どちらも出席すべき恩人だったが、とうとう恩を返せなかった。せめてもの償いに、心を合わせてミサをささげた。
▼それぞれ、タイプが全く違う司祭だった。指導司祭だったカナダ人司祭はわたしの印象では物事を合理的に考えるタイプ。結果オーライという点ではわたしの性格にぴったりだった。日本人の教義神学教授で院長としてかかわった司祭は、言い方は適当ではないかもしれないが、「テキトー」な司祭だった。また「歩く思想事典」という異名を取り、授業はまるで聖書思想事典のコビペのようだった。
▼この両司祭は確実に亡くなった。特に反面教師のような生活だった一方の司祭は、待たされそうである。すぐに天国で合流とはいかないだろうが、いずれそうなるのだろう。だが本当に、2人とも天国にいるのだろうか。疑っているわけではない。ただまったく性格の違う2人が、至福の状態でいられる天国とはどういう場所なのだろうか、と想像してしまうのである。
▼神とわたしの間で至福を味わうというのは理解できる。ただ、大神学院時代に教授同士で激しくやり合った人たちが、仲良くいられるのだろうかという疑問をぬぐえないのである。彼らの少し前にも、もっと性格のきつい教授が旅立っている。それらのメンバーが一堂に会して、どのような天国になっているのだろうか。
▼「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。」(ヨハネ14・2)住むところがたくさんあれば、揉めなくても済むのかもしれない。
▼実はわたしも司祭として相性の合う司祭も合わない司祭もいる。彼らと天国で同席して、火花を散らしたりしないか心配である。無論、火花を散らすような精神状態ではまだ天国には迎え入れられないだろうが。

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今週の1枚
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第370回目。ゴミ屋敷よさようなら。これから大胆に私物と縁を切る。

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復活徹夜祭(マルコ16:1-7)思い起こし、物語れ

2015-04-04 | Weblog
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‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
15/04/05(No.762)
‥‥‥†‥‥‥‥
復活徹夜祭
(マルコ16:1-7)
思い起こし、物語れ
‥‥‥†‥‥‥‥

主の復活おめでとうございます。今年の聖週間も慌ただしかったですが、無事にこの日を迎えることができてホッとしています。福音朗読は、婦人たちがイエスのご遺体をお納めした場所を訪ねるところから始まっています。婦人たちは「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」(16・3)と話し合っていますから、墓を塞いでいる石を動かしてもらってご遺体と対面するつもりだったのは明らかです。

ところが、石は既にわきへ転がしてありました。(16・4参照)奇妙なのは、婦人たちでは手に負えないはずの石が転がしてあるのに、だれがそうしたのか、またどのようにして転がしたのか疑問も持たず、墓の中に入っていくのです。出発の時は気にしていたのに、その場では石にほとんど気を取られず墓に入れるものでしょうか。

あれほど墓の入り口の石を気にかけて出発したのですから、ふつうに考えれば石がわきへ転がしてあれば驚き怪しむはずです。そうならなかったのは、一つのことが考えられます。それは「もっと驚くべきことを見たので、他のことはどうでもよくなった」という状況です。

婦人たちが墓の中に入ると、「白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えた」(16・5)とあります。そしてこの様子に婦人たちはひどく驚いたと、わざわざ書いてあります。ですから、墓の石がどのようにして転がしてあったのかはもはやどうでもよくなり、「あの方は復活なさって、ここにはおられない」(16・6)と語る神の使いが、婦人たちの心を占領していたのです。

弟子たちが恐れに捉えられて家に閉じこもっている中、婦人たちは行動を起こしました。その結果墓の中で神の使いが「あの方は復活なさって、ここにはおられない」と話すのを聞いて、婦人たちはさらに行動に駆られます。「どこに行けば、主にお会いできるのか。どのようにすれば、主にお会いできるのか」ということです。

もはや、墓に留まってもイエスとお会いできないことは明らかです。そうであれば次に取るべき行動を考えなければなりません。それは、神の使いが促している通り、「行って、弟子たちとペトロに告げる」(16・7)ということです。

自分たちが動いて弟子たちに知らせに行けば、行動を起こしたそのことでイエスに会えるかもしれない。婦人たちは、期待に胸を膨らませていました。み使いの言葉は、墓の石がどのようにして転がしてあったかなど、どうでもよいと思わせるのに十分でした。

この時点で婦人たちが持ち合わせている情報は限られていました。墓にはイエスがおられないということ、主の使いによれば、イエスは復活されたということ、復活したイエスは先にガリラヤへ行かれ、そこでお目にかかれるということです。

婦人たちはこの限られた情報を弟子たちに伝えることになります。弟子たちはユダヤ人たちを恐れて家に閉じこもっています。婦人たちが体験したのは、次につながる行動を起こすことが、イエスに出会う近道だということです。イエスに会うためには弟子たちがガリラヤに出向く必要があります。弟子たちは動いてくれるでしょうか。

弟子たちが動くかどうかは、きっと婦人たちの熱意が鍵となります。婦人たちは神の使いから、ガリラヤでイエスにお目にかかれると伝えるように言われたのですが、「ガリラヤ」という土地をどれくらい重みがある土地と感じたでしょうか。

マルコ福音書に書かれているわけではありませんが、弟子たちは、婦人たちが持ち帰ったガリラヤという地名が鍵となる土地だと理解できたのではないかと思います。実際、イエスの活動の舞台はほとんどがガリラヤ湖周辺です。奇跡を行い、権威ある言葉を語り、弱い立場に置かれている人を守り、神の国への希望を人々に示したのはガリラヤでした。

今は恐れのために動けないでいる弟子たちですが、後に約束された聖霊を受けて、彼らも復活したイエスを人々に語ることになります。ガリラヤに行きなさいというイエスからの伝言は、「ガリラヤで何を見たか聞いたか、思い起こしなさい。それが素晴らしいものだったのなら、それを語りなさい。」そんな呼びかけだったのではないでしょうか。

わたしたちにも、墓へ行った婦人たちはみ使いの言葉を持ち帰ってくれます。「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる。」(16・7)

現代にあって、ガリラヤはこの教会堂だと思います。復活したイエスは先にこの聖堂に来て、わたしたちがここに集えばお目にかかれるのです。かつて自分が幼かった時もそして今も、復活したイエスは七つの秘跡を通して奇跡を行い、権威ある言葉を語り、弱い立場に置かれている人を守り、神の国への希望を示し続けるのです。

そこで一つのお願いです。行動を起こすと、復活したイエスに会うことができます。何かの行動を起こしましょう。婦人たちは墓にたたずんでいてもイエスに出会えませんでした。次の行動を起こした時に復活したイエスに出会います。弟子たちも、ガリラヤという場所が何だったかを思い出し、行動したとき復活したイエスに出会いました。

わたしたちもそうです。わたしが受けた信仰が豊かにされた場所を思い起こし、わたしはこのようにして信仰を育ててもらったと物語るとき、復活したイエスと出会うのです。出会う人に向かって、次の世代に向かって、思い起こし、物語ること。これがわたしたちにとって復活した主と出会う道です。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
復活の主日(日中)
(ヨハネ20:1-9)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼ご復活おめでとうございます。知り合いの話では、日本の商業の中にクリスマス・ハロウィン・バレンタインなどが定着し、盛り上げるのも頭打ちなので、次のターゲットはイースター(復活祭)なのだそうだ。芸能人やタレントが「ハッピー・イースター!」とはしゃぐ日が間近に来るのだろうか。外箱だけの真似は、日本お得意の芸だ。
▼復活したキリストの光が世を照らす。キリストの光に自分が照らされていると感じ、神に感謝する。そうやって、静かにまことの復活の喜びが日本に行きわたる日をわたしは信じたい。それが何年何百年かかるとしても、日本にキリスト教が最終的に受け入れられたと言えるのはこの復活の喜びが理解できた時だと思っている。
▼今週すでに4月に入っているが、生活環境に大きな変化が生じた。司祭館のためにとある修道会がこれまで奉仕してくれていたが、ことしはシスターを派遣できないらしく、わたしは完全な独身生活が始まった。メルマガの読者の中で、完全な独身生活をしておられる方がいたら、声をかけてほしい。そして、独身生活の心得とか秘訣を教えてほしい。
▼4月5日で早くもゴミ屋敷の前兆が見える司祭館。料理も洗濯も掃除もして、なおかつ司祭として委ねられた信徒のためにも働いていく。わたしにはとてもではないが両立可能だとは思えない。以前に書いたかもしれないが、一食分の料理をして食べて片付ける。それだけで疲れてもう何もしたくなくなる。
▼もちろん、完全な独身生活ならではの気楽さはあるだろう。だがその利点を加味したとしても、デメリットはあまりにも大きい。この負のスパイラルから抜け出せる日はいつか。来年か、再来年か。それとも、もうこのアリ地獄から抜けることはできないのか。
▼気の早い話だが、来年の復活祭は3月27日、ここ数年で最も早くなる。3月27日の2週間後は4月10日、4月10日を起点に1か月前は3月13日、2か月前は2月14日。バレンタインのチョコが来る日だ。中身はどんなチョコだろうか。チョコっと気になる。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第369回目。浜串教会の竹内君がJFAアカデミー福島に県でただ1人サッカー留学。

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聖金曜日(ヨハネ18:1-19:42)あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか

2015-04-03 | Weblog
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‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
15/04/03(No.761)
‥‥‥†‥‥‥‥
聖金曜日
(ヨハネ18:1-19:42)
あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか
‥‥‥†‥‥‥‥

イエスのご死去を朗読でたどっていきました。イエスを死に追いやる人々の中で働く悪の力は、その人の正しい判断力までも奪い去りました。大祭司アンナスは、イエスを縛ったまま大祭司カイアファのもとへ送りました。カイアファも何も手を貸さず、総督ピラトの元へ送ります。

裁判を開いて尋問したピラトは、「わたしはあの男に何の罪も見いだせない」(18・38)と言い、釈放しようと努めたのです。しかし、ピラトはイエスではなく強盗のバラバを釈放したのでした。祭司長たちにそそのかされた群衆も、心の声に耳を傾けることができませんでした。

もう一人、イエスの死に深くかかわっている人がいます。それはペトロです。ペトロは三度、イエスのことを否定しています。ペトロに焦点を当てて、今年の聖金曜日を黙想したいと思います。

イエスは宣教活動を開始するにあたり、十二人の弟子を集めました。その弟子の頭がペトロです。しかしペトロは、門番の女中の言葉に、致命的な過ちを犯してしまいます。「あなたもの、あの人の弟子の一人ではありませんか。」(18・17)ペトロは「違う」と言ったのです。

ペトロが「違う」と言ったことは、個人の問題では済まされません。彼は弟子の代表、一番弟子だからです。ペトロが「違う」と言うならば、だれが「わたしはイエスの弟子である」と言うのでしょうか。

ペトロが「弟子ではない」「違う」と打ち消したのは、イエスがみずから選んだ弟子さえも、敵対する悪の勢力に打ち勝てなかったということなのです。それはつまり、イエスが十字架にかけられていのちをささげなければ、どんな人間も自分を救えない、自分だけではなく他の人をも救えないということなのです。弱く、貧しい、愚かな人間を救うために、イエスの十字架上の死がどうしても必要だったのです。

イエスの最期の場面で、十二人の弟子たちがみな「わたしたちはイエスの弟子である」と声を上げていたら、出来事はさぞ変わっていたことでしょう。けれども、それは実現しませんでした。かろうじてイエスのそばにとどまった「愛する弟子」も、ただ黙ってイエスの最期を見届けることしかできなかったのです。

イエスは、十字架の上でいのちをおささげになりました。今、わたしたちにも門番の女中は問いかけています。「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか。」残念ながら、わたしたちも場合によっては自分が弟子であることを「違う」と打ち消してきました。こんな弱いわたしたちを、イエスさまは黙って背負い、赦し、救ってくださいます。今はただ、感謝して十字架上のイエスを礼拝しましょう。

このあと、十字架の礼拝の儀が執り行われます。一人ずつ十字架の前で深々とお辞儀をし、礼拝をささげます。弟子であることを打ち消したわたしをそれでも愛してくださる十字架上のイエスに、感謝の誠をささげましょう。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
復活徹夜祭
(マルコ16:1-7)
‥‥‥†‥‥‥‥


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ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼聖金曜日は断食の日でもある。大斎・小斎と言って、通常大斎は1食のみ普通に食べる。あと2食は断食にふさわしい食事。小斎は肉を使った料理を食べない。もともとヨーロッパで確立した断食の規則だから、このようなスタイルだが、日本人にはアワビもサザエもあるので、日本(アジア)に適合した規定を設けたほうがよいと思う。
▼それは横に置いといて、断食をしていれば当然お腹がすく。妄想する。肉は出てこないが、魚が食べたいなぁという欲求はある。魚を常時食べていると、毎日食べても飽きない魚と、毎日食べるのはちょっと、という魚がある。
▼アジ・イワシは、毎日でも食べられる。アジを包丁ではなく、指で三枚(骨と、左右両側の身でいわゆる「三枚」)に開き、刺身で食べれば毎日でも食べることができる。もちろん少量(三切れとか、五切れとか)ということで、五匹とか十匹毎日食べるという意味ではない。
▼では毎日食べるのはちょっと、という魚は何か。意外に思うかもしれないが、わたしにとってそれは鯛である。養殖の鯛ではない。広い海で釣り上げた天然の真鯛のことだ。たとえ天然の真鯛でも、毎日となるとちょっと辛い。特に去年は数えるのも面倒になるくらい釣り上げたので、見ているだけでもお腹がいっぱいになってしまう。
▼まぁこんなたわごとは、五島列島に赴任しているから言えるのであって、この先で海と隔絶された小教区(想像すらできないが)に赴任すれば、こんなたわごとは口にしなくなるだろう。今のうち、今のうち。
▼断食で意識はもうろう。早く12時過ぎて、土曜日になってほしいものだ。だが土曜日も聖土曜日。断食の務めはないとしてもイエスの死を悲しんで喪に服す時間には変わりない。聖土曜日の、実り豊かな過ごし方を知っている人がいたら教えてほしい。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第368回目。最近読んでいる長編小説。これを読み終わるのは果たしていつ?

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聖木曜日(ヨハネ13:1-15)仕えるイエスを祭壇から受け、生活に持ち帰る

2015-04-02 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
15/04/02(No.760)
‥‥‥†‥‥‥‥
聖木曜日
(ヨハネ13:1-15)
仕えるイエスを祭壇から受け、生活に持ち帰る
‥‥‥†‥‥‥‥

聖木曜日、イエスが最後の晩餐で弟子たちの足を洗う場面が朗読されました。イエスが弟子たちの足を洗ったのは聖体の秘跡を制定された最後の晩さんの中でのことでした。朗読の部分に最後の晩さんの場面も重ねながら、黙想することにしましょう。

今年3月1日に、長崎教区は司祭助祭叙階式を行い、2名の司祭が長崎教区に与えられました。初めての任地も、今日現在公表されており、一人は浦上の助任司祭、一人は福江の助任司祭として司祭の歩みをスタートさせます。

3月1日の叙階式、教区報の記事をまとめるのに一人の司祭のご両親にミサ前にお話を聞かせてもらいました。助祭に叙階されてから、3年間も待ってこの日を迎えておられたので、さぞかし待たされただろうなぁと思い、ねぎらいの声をかけたのです。

すると、ご両親はわたしの予想していなかった返事をくださいました。きっと「首を長くして待ちました」というような返事だろうと予想していたのに、「本人を信頼して、わたしたちはその日のために備えてきました。きっと神さまは、本人に必要な時間だったから、3年間という期間を置いたのでしょう。むしろ、この3年間が、本人に恵みの重さを実感させていると思います。」そう答えたのです。

本日朗読された福音の個所も、恵みの重さを実感させると言えるかもしれません。イエスが弟子たちの足を洗います。これはユダヤ人が通常外出先から帰って来たときにするの所作ではありません。イエスは聖体の秘跡を制定される最後の晩餐の途中で弟子たちの足を洗っているのです。おそらく、パンとぶどう酒を分け合う少し前に行われたのでしょう。

イエスの動作が、外出先からのけがれを落とすためのものでないとすれば、特別な意味があるはずです。それは、イエスの弟子たちに対する愛の表れです。ほかにも、これから取り扱う秘跡がどれほどの恵みであるかを悟らせるために、将来聖体の秘跡を取り扱うことになる弟子たちを敬う態度であったかもしれません。

イエスは「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」(13・14)と言いました。イエスが、聖体の秘跡を意識した場面で弟子たちの足を洗ったとすれば、後に弟子たちも、足を洗う場面がやって来たとき、取り扱う恵みの重さを思い出したことでしょう。聖体の秘跡は、互いに足を洗い合うほど人に仕えようという思いがなければ取り扱えないのです。

今日わたしたちも、選ばれた人が洗足式に臨みます。これは司祭が、自分の取り扱う聖体の秘跡の恵みの重みを感じるきっかけにすべきですし、信徒もまた、これから祭壇上で執り行われる聖体の秘跡の恵みの重みを考えるきっかけにしてほしいと思います。できれば、毎週の主日のミサ、そこで執り行われている聖体祭儀のたびに、これは、互いに足を洗いあって執り行ってもよいくらいの尊い秘跡、互いに仕え合う秘跡なのだと思い起こしたいものです。

今日、イエスは最後の晩餐の中で聖体の秘跡を制定してくださいました。聖体の秘跡はのちに弟子たちによって記念として行われるようになりますから、弟子たちの司祭叙階の秘跡もこの場面に織り込まれていると考えてよいと思います。

聖体の秘跡、叙階の秘跡が、弟子たちの足を洗うイエスの仕える姿と深く結びついています。わたしたちはミサに集うたびにいつも、イエスがご自分の弟子である司祭たちに仕え、司祭が聖体のイエスと祭壇を囲む信徒に仕え、信徒は司祭が祭壇上で仕える姿を見ているのです。

あらためて、ミサは司祭が祭壇上でイエスに仕える秘跡でなければならないと思いました。信徒は、ミサに参加して、イエスに仕える司祭を見るはずです。決して、司祭が横暴に振る舞ったり、信徒に仕えられるためにミサがあるのではないのです。今日の聖木曜日の典礼で、もう一度仕えるために来られたイエスを祭壇上で再現する、体現する司祭でなければ不合格であると感じました。

わたしたちが、祭壇上で何よりも尊いものを見たのであれば、見たものを生活の中に取り入れるべきです。すなわち、家庭でも互いに仕え合うということです。イエスが弟子たちをこの上なく愛し抜かれた最後の晩餐の場面が、いつも祭壇上で再現され、それを見て一人ひとりが生活の中で隣人愛を実践する。こうして祭壇を囲んだ恵みが家庭に、社会に広がるように、今日のミサの中で恵みを願いましょう。

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‥次の説教は‥‥
聖金曜日
(ヨハネ18:1-19:42)
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ちょっとひとやすみ
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▼聖木曜日、どのように1日を過ごすのが適切だろうか。説教でも考えた通り、互いに仕え合う、奉仕するために1日を用いるのが適切だと思う。聖週間の典礼の儀式書に、司祭にとってヒントになる指示が書いてあった。
▼聖木曜日の典礼を進めるにあたっての指示の中に次の点も含まれている。「聖体はミサの中だけで授けられる。病者には一日中、いつでも授けに行くことができる。」
▼聖金曜日の指示の中にも似たような記述がある。「きょう、聖体拝領は主の受難の祭儀中にのみ信者に授与されるが、この祭儀に参加できない病者には一日中いつでも授けに行くことができる。」
▼つまり、聖木曜日、聖金曜日に司祭が実りある時間の過ごし方をするためには、病人を見舞い、聖体を授けることがおおいに勧められるということだ。幸い、聖木曜日は通常の病人訪問の予定を組んであるので、わたしにとっては良い機会が与えられた。
▼病人訪問する人の中に一人、手作りのCDを持って行く人がいる。わたしは以前から視覚障害者の支援ボランティア団体「マリア文庫」にミサの録音CDを届けていたが、いつだったかその話を聞いた家族が興味を持ってくれて、「そのCDを主人にも聞かせてあげたいのですが」と相談してきた。
▼もともと制作しているものをもう1枚造るだけのことだから、お安い御用と引き受け、それからもう3年くらいは続いているだろうか。この病人に関しては、少し遅れてではあるがミサの様子を聞いて、毎週礼拝が叶わないその補いをしている。

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今週の1枚
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第367回目。先週の小中学生による大浦・二十六聖人の巡礼の一コマ。

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