こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第7主日(マタイ5:38-48)イエスの教えは困難な道を選んででも伝える価値がある

2014-02-23 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
14/02/23(No.695)
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年間第7主日
(マタイ5:38-48)
イエスの教えは困難な道を選んででも伝える価値がある
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無事に、国宝大浦天主堂から福岡県大刀洗町の今村教会まで徒歩巡礼を終えてきました。わたしの体はけっこう頑丈なようで、100キロの徒歩巡礼から戻って金曜日にはミニバレーに参加できるくらいに回復していました。

そうは言っても、ちょうどの時の悪天候で、初日と二日目は雨と風にずいぶん苦しめられました。雨対策でカッパを着て歩いたのですが、正面から雨が当たって体温が奪われ、宿泊先に着くまでみんな必死の思いで歩を進めました。

初日こそおしゃべりしながら歩いていましたが、二日目からはだれも一言も口をきかず、黙々と歩いたのでした。かかとの内側におせちの黒豆くらいの靴擦れができて、内心は痛い痛いと訴えたかったのですが、それぞれ何かしら痛みを抱えて歩いている中で、だれにも訴えることができませんでした。そもそも、足の痛みを主張してもだれも相手にしてくれなかったかも知れません。

まぁそんな中で歩き通しましたが、三日目の30キロを超えたあたりで、今回の計画を立てた先輩の神父さま(この人が今村教会の前任の主任神父さまです)から「もうすぐだよ」と教えてもらったときにはどんなにありがたかったことでしょう。みんな元気を取り戻しました。

ところが、もう少しと声がかかってからなお2キロほど歩くと、広い田んぼの道に入りまして、「あれが今村教会」と言われた方角を見るとたしかにレンガ造りで二つの塔がそびえ立つ壮麗な教会が見えました。しかし、広い田んぼの中で見えた教会にしばらく歩いても近づきません。場所が分かっているのに歩いても歩いても近づかないのは、長い距離を歩くよりもはるかに疲れました。

到着すると、今村教会では100人くらいの人が出迎えてくれました。平日にもかかわらず、こんなにたくさんの人が五島の神父たちを出迎えてくれたことが嬉しくて、歩いてきてよかったなぁと実感しました。

国宝大浦天主堂を出発するとき、ミサをささげて出発しましたが、到着した今村教会でも、無事にたどり着けたことを感謝して、集まっている信徒やシスターとミサをささげました。巡礼が、ミサに始まってミサに終わるというのはすばらしい体験です。

余談ですが、もし何か話をする場面が与えられたらどう言おうかと、三日目の巡礼中考えながら歩いていました。「わたしたちは何のために、この巡礼を計画し、実行したのか」ということです。それは、約150年前の浦上キリシタンが何のために今村まで歩いたのかを考えることでもありました。

今週の福音にその答えを求めてみました。何のために今村まで歩いたのか。それは、イエス・キリストのみことばが真実であることを知らせるためです。260年間、キリシタンたちは「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(5・44)とのみことばに生きてきました。その態度が間違っていなかったことを、今こそ知らせるために、浦上のキリシタンたちは今村へ行ったのだと思います。

「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。」(5・46)「自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。」(5・47)自分を愛してくれない人を愛し、すべての人に平和があるように挨拶して今日まで生きのびてきたことが間違ってなかったと、浦上の人々は知らせに行ったのだと思います。

では振り返って、一日30キロずつ歩いたわたしたちは、今村教会にたどり着いたときに何を知らせに行ったのでしょうか。キリスト者として現代に生きることは間違っていませんと、伝えることができたでしょうか。

当時の人々とまったく同じではないかも知れませんが、「わたしたちは、迎えてくださった今村の皆さんと同じ信仰を持っています。」そういう気持ちは伝えることができたかなと思います。

あるいはこう言い換えることができるかも知れません。「三日前に、大浦天主堂でミサをささげましたが、100キロ歩いて今日は今村教会で皆さんと一緒にミサをささげることができます。」迫害を生きた先祖をもつ者同士、敵をも愛してきた者同士、同じ祈りで、同じ礼拝で感謝をささげることができる。その喜びは分かち合うことができたと思います。

今回今村教会まで巡礼して、皆さんにこうして説教の中で話しながら、どうしても一つ足りないと思いました。浦上のキリシタンたちは今村に行って同じ迫害を耐え抜いた信仰の友を得たあと、また大浦まで歩いて帰ってきたのです。

わたしたちは、帰り道は車で2時間、あっという間に帰り着きました。もちろん国宝大浦天主堂に戻ってきて感謝の祈りをささげて解散しましたが、当時の浦上キリシタンは歩いて帰ってきたのです。しかも、長崎で起こっていること、フランス人宣教師が来崎していること、宣教師が建てた教会があることをその目で確かめてもらうために、今村のキリシタン2人を伴って戻ってきたのです。

それが来年実現できるかどうかは分かりませんが、少なくともわたしは、帰り道を帰ってきて、ようやくこの大きな計画は完成すると感じました。幸いに足の状態を含め体のどこにも故障が来ていませんので、次は今村から出発して、国宝大浦天主堂まで歩きたいと思います。

大浦から今村まで車であれば2時間、あっという間に着きます。その距離を三日かけて歩いてみて、イエス・キリストを伝えることは、いちばん困難な方法を選んだとしても伝えに行くだけの価値があることを学びました。「復讐してはならない」「敵を愛しなさい」イエスが命じた戒めは、いちばん困難な道を選んだとしても伝える価値があります。あなたはそれを、だれに伝えますか。わたしは、出会った人すべてに、少しでも伝わるように、人生のすべてを賭けて生きてみたいと思います。

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‥次の説教は‥‥
年間第8主日
(マタイ6:24-34)
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ちょっとひとやすみ
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▼準備ができるとしても、これだけのことを準備してくれるものだろうか。今村教会に到着して、100人くらいの人が出迎え、わたしたち全員分の花束を用意してくれていた。ミサをともにささげたあと、茶話会を用意してくれていた。
▼今村教会周辺は米所のようで、お土産ですと言って一人10kgずつお米を差し入れしていただいた。ほかにも地域で売られているお菓子とか漬け物とか、とにかく両手に抱えきれないほどの差し入れをいただいて帰ってきた。
▼このもてなしは、浦上のキリシタンたちが今村から連れ帰ってきたキリシタンたちを手厚くもてなしたことを思い起こさせる。浦上のキリシタンたちは、自分たちと遠く離れた場所にも同じ信仰を奉じている人がいると初めて知り、できる限りのもてなしをしたのだそうだ。
▼同じ信仰を持つ、それだけで奉仕しあうことができる。信仰の友というのは本当にありがたいと思った。この点では、いろんな宗教が同じ実践をしていると思う。この体験を分かち合えば、何かお互いに理解し合える部分があるのかも知れない。
▼いやはや疲れた。帰ってきてすぐに通夜の予定が入っていたが、親戚になる後輩司祭に通夜を任せたところ、引き受けてくれたが、彼は正座ができない状態だったようで、ずっとひざまずいたまま式を進めていた。それを思えば、丈夫な体を与えてもらったことを感謝しなければならないと思った。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
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第302回目。上五島地区恒例の高校生合同黙想会。彼らとの今村巡礼もアリ?

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年間第6主日(マタイ5:17-37)イエス・キリストというピースを埋めて人の一生は完成する

2014-02-16 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
14/02/16(No.694)
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年間第6主日
(マタイ5:17-37)
イエス・キリストというピースを埋めて人の一生は完成する
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今週の福音朗読のまとめとして、「イエス・キリストというピースを埋めて人の一生は完成する」としたいと思います。わたしたちの人生に起きるさまざまな場面はどこかできちんと繋がっているのですが、人生をパズルにたとえるなら「イエス・キリスト」というピースがあって初めてすべに説明がつき、すべてが意味あるものになるということです。

いよいよ、およそ100キロの徒歩巡礼が明日から始まります。このあと鯛ノ浦11時発の船で長崎に移動し、明日の朝、国宝大浦天主堂で巡礼に参加する神父さま6人でミサをして、朝8時に大浦を出発します。予定では3日かけて福岡県三井郡大刀洗町にある今村教会に到着となっています。無事に帰ることができるように、お祈りください。

月曜日、巡礼前の最後の調整に浜串教会から鯛ノ浦教会まで歩いて往復したのですが、神ノ浦集落内の狭い道路を歩いていて軽自動車と接触し、初めて「死ぬかも知れない」という恐怖を味わいました。わたしは道路端の白線の上を歩いていたのですが、やってくる軽自動車は脇見運転をしていたのか、わたしにまっすぐ突っ込んできました。生まれて初めて、脇腹の肉が役に立ちました。今回のことを教訓に、ウォーキングに出るときは保険証と免許証くらいは持っていこうと思います。

教会入り口に貼り付けた巡礼コース表は御覧になったでしょうか。浦上のキリシタンが自分たちの信仰をプチジャン神父に「ワレラノムネ、アナタノムネトオナジ」と表明した2年後の1867年に、浦上キリシタンたちは今村のキリシタンを確かめに行きました。彼らは「長崎ではフランス人宣教師が入っている。宣教師の居留地内には教会も建てられている。宣教師から教えを受けることもできるし秘跡を授けてもらうこともできる」と伝えに行ったのでした。

今村のキリシタンにも、長崎のキリシタン同様正統信仰が誤りなく保たれていたのですが、外国に港を開いた長崎は外国人居留地に宣教師がやってきて、正統信仰を確認してもらうことができたのに対し、その他の地域では宣教師は移動が制限され、入ることは叶いませんでした。

もし勇気あるキリシタンが長崎の状況を伝えに行ってくれなかったら、外国人居留地から遠く離れた人々はカトリック教会に復帰できなかったかも知れません。命がけで守り抜いてきた人々の信仰を宣教師が正しいものと確認する。この1つの作業、1つの部品が欠けるだけで、260年もの間奇跡的に守り抜いてきた信仰がバラバラになってしまう危険もあったのです。

今週選ばれた朗読箇所でイエスは律法について次のように仰いました。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」(5・17)

イエスが律法を完成させるとはどういうことでしょうか。わたしは、イエスが律法と預言の書すべてをつなぎ止める鍵を持っておいでになった、というふうに考えてみました。
つなぐものがなければバラバラになる。材料をつなぐのにどうしても必要なものがあるように、イエスは律法と預言書がバラバラにならないようにつなぎ止めるのに必要な鍵として、おいでになったのです。

イエスが宣教活動をしていた当時、律法はバラバラになりかけていました。それぞれの掟が、どのように結びついて、全体として人を神へと向かわせるものなのか、あるべき姿を失っていました。そのことを見事に表しているのが律法学者の次の質問です。

「そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。『先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。』」(マタイ22・35-36)どれが第一となって、律法がしっかり組み合わされてわたしたちを活かす掟となっているのか、彼らは見失っていたのです。

今日の福音朗読の中にも律法がバラバラになっているさまがあちこち見られます。「殺してはならない」という掟は理解していても、それが「兄弟に腹を立てる」「ばかと言う」「愚か者と言う」それらと実は繋がっていることは理解していなかったのです。それに似たことが今週の朗読にいくつも紹介されています。

これに対し、イエスははっきりと、ご自分が律法と預言書の要の石、すべてを一つにつなぎ合わせる鍵であることをお示しになりました。しかも、とてもわかりやすい言葉でお示しになりました。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」「隣人を自分のように愛しなさい。」(同22・37,39)イエスが、律法のすべてをつなぐ鍵となってくださり、律法は完成されました。

もっと言えば、イエスはすべてのものを一つにつなぎ合わせ、完成する鍵です。わたしたちの人生の一つ一つの出来事を意味あるものにつなぎ合わせてくれるもの、それは運命とか偶然とかではなくて、イエス・キリストなのです。都合の良い出来事には自分なりの意味を見つけるかも知れませんが、説明のつかないこと、ほかの人には降りかかっていない災難など、すべてを意味のあるものにしてくれるのは人間の力では到底不可能です。イエスはそれらをすべてつなぎ合わせ、わたしの人生の中で意味のあるものにしてくださいます。

わたしは明日から、徒歩巡礼の旅に出ます。260年の迫害に耐えて信仰を密かに守り、子孫に伝えた苦労は、どんな言葉でも説明し尽くすことはできないと思います。ですが、「司祭が今わたしたちに与えられた。イエスはわたしたちの苦しみを忘れてはおられなかった」この体験は、浦上キリシタンの苦しみ、涙をつなぎ合わせ、意味のあるものにしてくれたのではないでしょうか。そのことをだれよりもよく分かっていた浦上のキリシタンは、熱意に駆られて今村に飛んでいったのだと思います。100キロ近く歩いて、わたしも「苦労をすべて意味のあるものにつなぎ合わせるのはイエス・キリストしかいない」ということを学んで帰ってきたいと思います。

皆さんお一人お一人の人生も、何かでつなぎ合わされて一つにまとまるのだと思います。あなたの人生の喜びや悲しみをつなぎ合わせるものは何でしょうか。お金や出世やそのほかの優越感でしょうか。それらはいつかわたしにとって意味のないものになるのではないでしょうか。イエス・キリストこそ、わたしの人生を完成させるかけがえのない要石であることを確認しましょう。そして「完成させるためにやってきたイエス」を、人々に告げ知らせる勇気を、このミサの中で願いましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第7主日
(マタイ5:38-48)
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ちょっとひとやすみ
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▼先進国の人々は、50人もの使用人に奉仕してもらって暮らしているようなものであると何かの記事を読んだことがある。たとえば台所の調理器具、蛇口をひねればすぐに出る水道、そんなことを取り上げただけでもかつては考えられなかった環境だと言える。
▼ガスコンロは火をおこす人がいつもいて、すぐに火が利用できるのと同じ。これで使用人1人。水道が完備されているのは、いつでも水を汲んで用意してくれる人がいるのと同じ。これで2人目の使用人。食材を切っているうちに炊飯器がご飯を炊きあげる。これで3人目。こうして数えると、本当に50人もの使用人に仕えてもらっていることになるかも知れない。
▼さて徒歩巡礼に行くが、いくつかの装備や道具を買った。18日(火)がすでに雨の予報になっているが、水は通さず、体の湿気は外に逃がす雨具を買った。今の雨具はここまで進歩しているのだなと感心した。
▼また、飲み水を素早く口に含み、歩き続けるために特殊なキャップの付いたボトルを持っていく。ありがたいことに、日頃からハーフマラソンなどで給水の大切さをよく知っている人から差し入れてもらった。最後の自主トレの日、このボトルを腰にセットして30キロ歩いた。30キロ歩けるのであれば、42.195キロも歩ける?
▼それと、これは当日使用するかまだ躊躇しているのだが、ノルディックスキーのポールのような物も買った。しかしこれは、使用すれば上り坂の時など電動アシストのような補助になってとても快適に歩けるのだが、はたしてこのような歩き方が「巡礼」にふさわしいかどうか、まだためらっている。少なくとも同僚司祭は使用しないので、抜け駆けのようでもあり、今回は難しいかも。
▼最後に、これは昔から使っていたのだが、おサイフケータイ機能。巡礼途中でコンビニに入ってトイレを借りるとき、まぁ飲み水か、ゼリー状の栄養補助食品などを買うことになると思うが、財布を取り出してまた収納するのはきっと面倒である。そんな時、「ピッ」とレジを済ませることができるのは非常にありがたい。ここも使用人が1人いるのと同じかも知れない。

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今週の1枚
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第301回目。鯛ノ浦教会へ往復30キロ。トレッキングステッキでなく竹棒2本持参

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年間第5主日(マタイ5:13-16)わたしたちの持つ「塩」は社会に化学変化を起こす

2014-02-09 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
14/02/09(No.693)
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年間第5主日
(マタイ5:13-16)
わたしたちの持つ「塩」は社会に化学変化を起こす
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今週は「わたしたちの持つ『塩』は社会に化学変化を起こす」とまとめたいと思います。中学校高校時代、わたしはにずっと疑問に思っていることがありました。「今勉強していることは、大人になっても使わないのに、なぜ勉強しなければならないのだろう」ということです。

教会の主任司祭になって、1千万円以上のお金を管理することも出て来ましたが、それでも連立方程式とか因数分解とか、予算決算を立てるにあたって必要ないといえば必要ありません。また外国人と会話することがなければ、英語もほとんど必要ないです。英語の弁論大会とか、聞いている生徒のほとんどが理解していないのにバカげている、とさえ思っていました。目標もない勉強は無意味だと思うことがありました。

ところが、48歳になろうとしている今、さまざまな体験を積む中で、どの分野の勉強も無駄ではないと分かりました。いつかハウステンボスに行くことがある中学生高校生に、一つの体験を紹介しておきます。

わたしがハウステンボスのあるお土産品店にいたときのことです。アジア系の観光客が「英語話せますか」と聞いてきて、「このカメラで、この店の様子をバックにわたしを撮影してほしい」とお願いされたのです。やりとりはすべて英語です。

そこでわたしは、「構いませんよ」と答えて、そのアジア系の外国人をカメラで撮影してあげました。この出来事の中には、3つのことが含まれています。1つは彼がわたしのことを「この人は英語が話せるだろう」と思ったことです。2つめは「この人は自分が英語で要求していることを、聞き取れるだろう」と考えたことです。最後は、「自分の求めを拒否しないで引き受けてくれそうだ」ということです。

外国人は、まったく頼めそうにない日本人には声を掛けないでしょう。少なくとも「話せそうだ」「聞き取りができそうだ」「要求に応じてくれそうだ」この3つをわたしに見て取ったので、声を掛けたのです。これは英語の問題だけでなく、数学の因数分解でもあります。この体験から最低限これだけは取り出せる、その技術も役に立ったわけです。

さらに今日、化学(かがく・ばけがく)についても話したいと思います。高校時代に、これこそ無駄の真骨頂だと思ったのが化学(かがく・ばけがく)でした。社会のどこに化学が存在するのか?わたしにはまったく理解できなかったからです。

けれども、司祭になって自炊してすぐに気づきました。料理は言わば化学です。釣りたての魚が、今日食べるのがおいしいか、明日まで待って食べたほうがおいしいか。化学変化がそこにはあるのです。調味料も化学変化を起こす魔法の道具です。たとえば塩は、料理に対してほんのわずか、ひとつまみに過ぎない量しか加えなくても、おいしさを引き立てるのです。1グラムの4分の1とかで、化学変化を起こすのです。

こんなことを考えるようになって、「あー、学校で勉強しなかったことが、今になって必要になるなんて」と後悔しています。教科書通りに必要になるとは限りませんが、数学も化学も物理も、わたしが遠ざけてきたものが身近なところで物事を考える役に立つのだなぁと思うと、学生時代何とまぁ無駄な過ごし方をしたのだろうと思うのです。

福音朗読では、「あなたがたは地の塩である」「あなたがたは世の光である」と言っています。わたしたちがこの世に対して「塩」であるなら、社会に対して「化学変化」を起こせるということになります。1グラムの何分の一、もしかしたら一万分の一であっても、わたしたちの行動は社会に化学変化を起こす力を持っているということです。

水は爆発しませんが、水を電気分解して発生する水素は爆発します。水素と結合している酸素も、物が発火するのに欠かせません。わたしたちカトリック信者は、二万数千人の上五島の人口の中で何分の一に過ぎないかも知れません。けれども、化学変化を起こすには十分な人数です。

日本の人口に対して、カトリック信者の数はそれこそ百分の一とか、それ以下かも知れません。けれども、わたしたちは地の塩であり、かならず、味を感じさせることはできるはずなのです。もっと言えば、日本人全体に化学変化を起こす力を十分持っているはずなのです。

その、化学変化を起こすための条件を、イエスは教えてくれています。「塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられようか。」(5・13)「塩気を常に保ち続けること」これが、対象となる物に対して化学変化を起こす条件だということです。

わたしたちカトリック信者が、カトリックでない人々に対して塩気を感じさせるとはどういうことでしょうか。何でもまかり通る世の中にあって、神はこのような生き方や振る舞いをお認めにならないと、きっぱり言うことのできる人々がそこにいるということです。

ほかにも、「いのちは大切である」と知っていても、日本では「いのちの始まりから大切だ」とは言いません。日本の法律も、「いのちの始まりからいのちに手をかけてはいけない」と書かれていません。そんな日本にあって、「いのちはその始まりから大切だ。神がいのちを授けてくださったからだ」ときっぱりと言うことのできる人々がいる。それはカトリック信徒でない日本の人々に、塩味を感じさせることなのです。

わたしたちがカトリック信者としてイエス・キリストの望みに生活で応えようとするなら、もっと大きなことが起こるかも知れません。カトリックでない人の中に、「何でもまかり通るわけではないのだな」とか「いのちは、始まりの瞬間から大切なのだな」という実感が湧いてくるようになれば、それはわたしたちの働きが大きな化学変化を起こしたことになるのです。

化学工場の爆発はとてつもない被害を及ぼしますが、わたしたちカトリック信者が起こす化学変化、爆発は、とてつもない良い影響を及ぼすのです。わたしたちに与えられている「イエス・キリスト」という大切な塩を用いて、社会に変化を与える人となりましょう。そのための恵みを、このミサの中で祈りましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第6主日
(マタイ5:17-37)
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ちょっとひとやすみ
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▼どこでもそのようなことは起こっているのかも知れないが、病院に紹介状を持って診察をしてもらいに行ったら、1時間半くらい待たされて、3分かからないで診察が終わった。3分かからないのなら、先にわたしのために3分先生が時間を割いてくれれば済むことではないのか。そう思うが、順番なのだから仕方がないのだろう。
▼1時間ちょっと過ぎた頃に眠くなり、うとうと眠っていた。すると女性の看護師が「ちょっとすみません。お名前を聞かせてください」と言ってわたしを起こした。わたしは名前を呼ばれているのに眠っていたのかと思ったのだが、どうもそうではなかったらしい。
▼だいたい、わたしは指示された番号の部屋の前に座っているのに、違う番号の部屋から看護師がわたしのところに来て起こすというのも理解に苦しむ。まぁ若い人がほとんど受診していないので、見渡してわたしがいたから決めつけてきたのかも知れない。
▼診察の結果はだいたい聞かされていた通りで、コレステロールの数値を下げる薬と、尿酸値を下げる薬を飲みなさいということになった。これでとうとう、病人である。薬を飲み続ける、薬を持って回る、どこででも薬を取り出す。これまでわたしが否定していたグループに、わたしも加わることになった。よろしくお願いします。
▼月に一度開かれる「食生活改善」の集会に参加した。体に優しい、カロリー控えめの、工夫を凝らした食事をいただいてきた。だが周囲を取り囲む高齢者たちは、「わたしはこれは食べないので、神父さん食べてください」と言って、一品譲ってくれる。結局、わたしはあれもこれも人の分まで食べて、カロリー控えめがカロリー過多である。
▼今月の「食事改善の集い」は最後に豆まきが計画されていた。「年男」という理由でわたしが豆まきをすることになった。それでわたしは、「ババは内、ジジも内」と言いながら豆をまいた。

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今週の1枚
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第300回目。神学院に入学する手続きに立ち会った小学生が、もう司祭叙階。

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主の奉献(ルカ2:22-40)主の奉献に倣ってわたしたち自身を奉献する

2014-02-02 | Weblog
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主の奉献
(ルカ2:22-40)
主の奉献に倣ってわたしたち自身を奉献する
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主の奉献の祝日を迎えました。今週の福音を「主の奉献に倣ってわたしたち自身を奉献する」とまとめたいと思います。イエスの神殿奉献から、わたしたち自身に求められる態度を拾うことにしましょう。

今回この説教を準備していて、「主の奉献の説教って毎年準備していたかなぁ」と思って調べていたら、説明が「カトリック中央協議会ホームページ」に掲載されていました。次のようにあります。

「主の奉献の祝日は、イエスが生まれてから40日後に律法の定めに従って両親によって神殿でささげられたことを記念します(ルカ2・22-40、レビ12章参照)。これに基づいて、主の降誕の祭日(12月25日)から40日目の2月2日に祝われています。(以下省略)」納得できました。2月2日と日曜日が重なった年だけ説教を書いていたわけです。

ちなみに11世紀からは、この日にろうそくの祝福が加えられたとあります。今年は忘れましたが、来年覚えていたら、「主の奉献の日に、合わせてろうそくの祝福をします」と呼びかけたいと思います。

昨年末に生活習慣病予防検診を受けましたが、その結果が最近郵送されてきました。病気を3つもらいました。「肝機能障害」「高脂血症」「高尿酸血症」です。精密検査に行くようにと紹介状も添えられていました。「あーしょうかい」と思いました。今回の病気の原因は、食べ過ぎと運動不足です。原因は明白ですから、課題を克服したいです。

歩くということでは、以前よりもはるかに歩くようになりました。「あそこは歩いて行ける場所ではない」と思っていたような場所にも、歩いて往復するようになりました。先日は、浜串教会から佐野原教会まで歩いて往復しました。途中のエネルギー補給のために「かんころ餅」を持って歩き、20kmちょっとでしたが、4時間で往復しました。

福音の学びを得ることにしましょう。わたしが注目したのは、「イエスの両親がモーセの律法に定められたことを果たすために行動し、その中でまったく予想もしなかった光景を目にした」ということです。

ヨセフとマリアは信仰篤い人でしたので、律法で定められていることを忠実に果たそうと神殿に赴いたのでした。律法に定められた通りにわが子を主に献げ、いけにえとして動物を献げました。定められたことを忠実に果たした2人にとって、予想通りに出来事は終わるはずでした。

ところが、ヨセフとマリアが抱いて連れてきたイエスをシメオンという預言者が腕に抱き、予想もできない言葉で神をたたえるのを聞いたのです。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」(2・29-32)

預言者シメオンは「正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。」(2・25-26)そういう人物です。

彼が「イスラエルの慰められるのを待ち望んでいた」のは、イスラエルが救われるのを待ち望んでいたということでしょう。彼もまた、律法の定めを忠実に果たす中で救いを待ち望んでいたのですが、両親に抱かれたイエスと出会い、まったく違う道を知ったのです。「律法によって救われる道」ではなく、「イエスによって救われる道」です。

シメオンは「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた」とあります。律法の定めに従ってわが子を神殿に奉献する親子はこれまで数え切れないほどシメオンの前を通り過ぎたことでしょう。けれどもそうした親子によってはシメオンが慰めを得ることはなかったのです。

ところが聖家族がやってきたとき、「まことの救い」を見たのです。彼には聖霊がとどまっていました。両親の腕に抱きかかえられているイエスによってイスラエルの民は救われる。イスラエルの民だけでなく、異邦人を含む万民が、イエスによって救われると確信したのです。

イエスの両親、マリアとヨセフの驚きについても考えてみましょう。両親は、幼子についてのシメオンの言葉に驚きました。2人は幼子に、律法の定めを果たしに神殿に来ました。彼らも、律法によって人は救われるという「律法によって救われる道」しか知らなかったからです。

けれどもシメオンの言葉によって、「わが子イエスによって救われる道」があることを知ったのです。しかも、「イエスによって救われる道」しか、シメオンを慰めることはできなかったことを知ったのです。

わたしたちも、今日の主の奉献を通して、慰め多い人生について考える必要があります。わたしたちに与えられている掟はさまざまありますが、「掟によって救われる道」だけを考えていると、シメオンのように慰められる日をいつまでもいつまでも待たなければなりません。

そうではなく、「イエスによって救われる道」をわたしたちが受け入れるなら、わたしたちの手に慰め多い人生が与えられることになります。「イエスによって救われる道」は、時としてゆるせない人をゆるしたり、愛せない人を愛したりすることが必要になります。

もちろん、「イエスによって救われる道」を固く信じていても、わたしたちの確信を揺さぶろうとする試練は何度も訪れるでしょう。シメオンも「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています」(2・34)と預言しているからです。

それでも、わたしたちは「イエスによって救われる道」を選ぶべきです。イエスはわたしたちの希望を裏切らないからです。イエスはわたしたちのために、ご自身によって救われる道を完成させようと神殿でみずからをいけにえになさったのです。

「イエスによって救われる道」をまっすぐに見つめて信仰生活を続けましょう。掟に縛られないイエスの愛に倣って生きていきましょう。この生き方が、神に対するわたしたちの奉献生活なのだと思います。

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‥次の説教は‥‥
年間第5主日
(マタイ5:13-16)
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ちょっとひとやすみ
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▼最近あっと驚くことがあった。日曜日のミサに来ている人の中で、わたしが今村巡礼に行くことを知らない人がいたのである。2月の中旬に長い行程を3日かけて歩くのだと繰り返し話していたと思うが、「今村ってどこですか?」「いつ今村に行くのですか?」「そんなに遠くまで大丈夫ですか?」と聞かれた。ビックリしたのはわたしの方で、「大丈夫ですか?」と聞きたいくらいだった。
▼「歩くのは健康のためではなく、話題作りだ。」今でもそう思っているが、健康になれるならそれに越したことはない。「肝機能障害」も、脂肪肝ということだろうから、歩き続ければ内臓脂肪もいつかは少なくなり、肝臓の機能も回復するだろう。
▼「高脂血症」も、どうせ太り過ぎから来ているのだろう。過食気味だった食事の量を年齢相応に減らすことと、これまた歩き続ければ、サラサラの血になってくれると思う。問題は「高尿酸血症」だ。おいしいものを食べるからそうなると言われるが、おいしいものを食べるのはやはり楽しい。この誘惑とどう向き合うかが問題だ。
▼おいしいものが並ぶ。一通り食べたい。だが、その反動は必ず出る。悩ましい。これからも歩き続けると仮定して、歩いている間に考えてみよう。本当に自分の一生を悔いのないものにするために、何を選び、何を控えるか。何を優先させ、何を放棄するか。
▼これから巡礼が始まる2月17日までは、巡礼を優先させてあらゆることの優先度を下げなければならない。幸いに、巡礼が終われば、次第に暖かい春に近づいていく。そうするとボートでの釣りも再開できる。ボートでの釣りが運動になるか、と言われるとはなはだ疑問だが、わたしのストレス発散にはこれ以上のものはない。
▼3月中旬には黙想会が控えている。黙想会の説教師がもし、釣りをなさるなら、ボートでカサゴ釣りに連れて行ってあげよう。説教師を連れて行ってのボート釣りは「接待」であり「公務」である・・・ということにしよう。

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今週の1枚
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第299回目。1月28日、佐野原教会に「かんころ餅」を持参して。

ホームページもご覧ください。
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