こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第17主日(ヨハネ6:1-15)大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年

2015-07-26 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
15/07/26(No.779)
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年間第17主日
(ヨハネ6:1-15)
大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年
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年間第17主日B年の福音朗読はヨハネ福音記者が描く「五千人に食べ物を与える」場面が選ばれました。出来事そのものは共観福音書と呼ばれる「マタイ・マルコ・ルカ福音書」にも記されています。ヨハネは共観福音書とは異なる捉え方を持っています。出来事を「しるし」として捉え、イエスへの信仰を増し加えるように招くのです。

さて子供たちのドッヂボール大会は本当に残念でした。対戦相手が青砂ヶ浦と桐だったのでわたし自身は最初から戦意喪失だったのですが、子供たちはむしろやる気満々だったようです。練習の成果を発揮させてあげたかったのですが、台風ではどうにもなりません。

中止になったので話しますがわたしの心の中では、福音朗読に登場する弟子と似たような言葉が響いていたのです。「ここに大会に参加できる子供が8人います。けれども、8人ではどうにもならないでしょう。」10人いて本来のチーム、8人では歯が立たないと思っていたのです。

福音朗読の場面は、もっと深刻な場面だったと思います。男の人が五千人いて全体ではそれ以上ですから、「大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年」を弟子たちが見つけたとしても、それは焼け石に水、何の足しにもならないと考えるのは無理もありません。

ところがイエスは、「足りない状況」「何の役にも立たない状況」を確認してから動き出します。イエスが望めば、フィリポに「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」(6・5)と尋ねなくとも動くことはできたはずです。弟子たちから希望の持てる返事が返ってくるはずがないからです。

それでも、イエスは弟子たちの返事を確認してから動き出しました。なぜそうなさったのだろうかと考えます。わたしはこう考えました。「大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年」とは、イエスのことだったのではないでしょうか。

物語としては少年という形になっていますが、イエスが少年に「そのパンと魚を貸してくれ」と言った様子もありませんし、弟子たちに「その少年をこちらに来させなさい」と指示した形跡もありません。いつの間にか少年のことは物語から消えていますから、少年がいたかどうかはさほど重要ではないのでしょう。

大事なのは、少年という姿が何を意味しているかということかもしれません。大人に対しての少年ですから、力の足りない存在、未成熟・未完成の存在、無力な存在を意味していると思います。そして、わたしが考えたように、イエスは無力な存在であるかのように地上での最期を遂げられましたから、物語に登場する少年の可能性もあるわけです。

イエスが動き出し、弟子たちがイエスの働きに協力して、五千人の群衆は食べ物を得ることができました。そしてこのことを、ヨハネ福音記者は「しるし」と見ています。どんなしるしでしょうか。それは、イエスが天からのまことのパンであるというしるしです。

しかし、イエスが天からのまことのパンであるということを示すだけでしたら、「大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年」を物語に登場させる必要はなかったように思います。フィリポの「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」(6・7)という判断だけで、切迫した状況は十分理解できるからです。

あえて少年を登場させているのは、パンの奇跡に留まらない、神の救いのわざの「しるし」という意味があるからではないでしょうか。イエスは五千人に食べ物を与える天からのまことのパンという存在にとどまらず、全人類のまことのパンとなられるお方である。しかも少年という無力な存在となって、救いを成し遂げようとしておられるのです。

実際、イエスの救いのわざは、全人類に対しての「大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年」という意味合いがあると思います。神の独り子が、全人類を救うために十字架にはりつけにされます。何千年何万年という歴史の、約三十数年の働きで全人類を救います。

ユダヤの国のごく限られた場所での三十数年の働きで、全人類に天からのいのちのパンを与えてくださるのです。この壮大な救いの計画の「しるし」として、「大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年」さらにその少年で暗示されている無力な姿で死んでいく神の独り子イエスが物語に登場しているのではないかと思いました。

弟子たちは、この少年を無力な存在と考えました。しかしイエスは、その無力な存在を使って、神の驚くべきわざを行います。「人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった」(6・13)のです。イエスご自身、無力な存在として地上の最期を迎えましたが、全人類に天国の門を開いてくださったのです。

注意すべき点があります。群衆は「自分を王にするために連れて行こう」としました。イエスを利用しようとしたのです。無力な存在を使って五千人に食べ物を与えたイエスを、手放したくなかったのです。

わたしたちもこの点は十分注意しなければなりません。と言うのは、教会を人々にパンを食べさせる道具として利用しようとする見えない力は今でも働いているからです。わたしたちが人々の心を満たしたわけでもないのに、教会は観光の目玉になるとか教会でいやしをいただきましょうと言ってすり寄って来る大勢の人々がいるのです。

教会に来ていやされるのは、その人がイエスと出会ったからです。教会に引きつけられるのは、隠れておられるイエスに気付いたからです。「イエスは、(中略)ひとりでまた山に退かれた。」(6・15)だれかを教会で案内するとき、隠れておられるイエスに導いてあげて、隠れておられるイエスの声に耳を傾けさせる必要があります。そこにいやしと慰めがあるからです。そのためには、わたしたちも常に、この聖堂の中に隠れておられるイエスの声に耳を傾ける努力が必要です。蝉の鳴き声の中でも心を沈め、心に語りかけるイエスの言葉に耳を澄ます。そのための心の静けさを、このミサの中で願い求めましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第18主日
(ヨハネ6:24-35)
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ちょっとひとやすみ
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▼先週上五島地区でたくさんの奉仕をしてくださっている修道会が中心になって「子どもの集い」を開き、小学生の女子と一泊する中で召命について学ぶ場を作ってくれた。そのことに関連してだが、司祭・修道者召命は深刻な問題を抱えていると思った。
▼今回の「子どもの集い」には同じ修道会の志願者も集いを盛り上げるために参加してくれていた。人数は10人もいなかったと思う。修道会が長崎教区全体で抱えている施設を考えると、もっと先輩の志願者が中高生志願者の2倍の20人いるとしても、合計で30人、これは心配だと思った。
▼今話したのは一つの女子修道会の話だったが、司祭召命はそれ以上にピンチである。もちろん年に一人ずつは長崎教区にも司祭が誕生しているが、裾野である神学生は極端に少ない。上五島に中学高校の神学生は何人いるかと言うと、教区の神学生はゼロである。かろうじて、修道会の神学生が一人いるだけ。
▼上五島の肩を持つわけではないが、かつては上五島は召命の宝庫だった。ほかにもそういう表現が当てはまる地域があるかもしれないが、上五島は神学生に対して良くも悪くも厳しい接し方をして厳しく育てられたので、かなりの確率で各教会から司祭が誕生している。巡回教会からも誕生している。
▼だが今はどうだ。神学生は一人で、その神学生が通っている修道会の神学院には中学生が二人、高校生はいないそうだ。長崎教区のカトリック神学院の中高生も激減している。原因はさまざまあるだろうが、司祭が子供たちを振り返らせるだけの魅力がないというのが、最大の原因ではないだろうか。
▼ただし上五島に、これまで神学生を送り出し、司祭叙階まで導いた経験のある一人の司祭が赴任していて、学ぶところが多い。その司祭が赴任した教会は、3年で生まれ変わっている。荒れていた中学生が教会を大事に思うような子供に変わり、小学生も引きつけられて神学院に入学する。
▼わたしの見たところ、圧倒的に司祭にしかできない仕事で秀でているのが魅力なのだと思う。ミサをささげる。司祭ならだれでもささげている。だが圧倒的な力でミサをささげているかと言われればそうではないだろう。
▼ロザリオの信心、その他の祈りの場に司祭が一緒に祈る。似たような祈りの場でどの司祭でも一緒に祈るが、圧倒的な存在感があるかと言われればそうではない。司祭としての圧倒的な存在が感じられず、上五島全体の司祭召命が枯渇しているのではないだろうか。
▼今からでも遅くはない。侍者にすら居眠りされている司祭ではいけない。圧倒的な存在感、迫力で、ミサをささげている時間があっという間に終わってしまった。そういうミサをささげよう。少なくともその覚悟でささげるなら、状況は変わるに違いない。

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今週の1枚
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第386回目。上五島地区子供の集い。上五島の小学生女子40人以上が参加した。

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年間第16主日(マルコ6:30-34)人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい

2015-07-19 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
15/07/19(No.778)
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年間第16主日
(マルコ6:30-34)
人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい
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「あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」(6・31)イエスは弟子たちに休みなさいと言われました。イエスが弟子たちに与えようとした休みの模範はご自身の姿にあると思います。弟子たちに休みを与えて、弟子たちを守り育てるイエスの姿を学ぶことにしましょう。

今週水曜日、7月22日は浜串教会の守護の聖人聖マリア・マグダレナの記念日です。浜串教会家族にとっての記念日なので、ぜひ都合を付けてミサに参加してほしいものです。この日は朝6時からミサをします。

先週の水曜日に、この聖マリア・マグダレナの記念日が浜串教会にとって大事な日だよと子供たちに言い聞かせるために次のような例えを話しました。「家族の記念日は、家族全員でお祝いするでしょう?お母さんの誕生日に『わたしの誕生日じゃないから』と、お祝いに加わらないということはしないはずです。だったら、浜串教会聖堂の守護の聖人は、浜串教会家族みんなでお祝いすべきですね。水曜日朝6時、みんな来てくれますか?」

ちなみに子供たちは全員「はい」と答えました。全員「はい」と答えたのですが、わたしの心の目がよどんでいるのか、どうしても素直に信じ切れないでいます。ぜひわたしの心配が杞憂で終わるようにと願いたいと思います。

福音朗読に戻りましょう。弟子たちに「休みなさい」と言われたイエスご自身は、ご自分の心と体をどのように休ませていたのでしょうか。「イエスが休まれた」という直接的な記述は調べた範囲では見当たりません。

けれどもイエスも疲れることはあったはずです。イエスとサマリアの女の対話を記録したヨハネ福音記者によると、「イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである」(ヨハネ4・6)とあります。イエス自身も、何かの方法で休まれていたはずです。

弟子たちへ休むようにという指示を出した場面を読み返すと、一つのことに思い当りました。「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」「人里離れた所」とわざわざ場所を指定しています。そう言われれば、イエスはたびたび人里離れた所で祈っておられたことが記録されています。たとえばマルコ福音書で「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。」(マルコ1・35)とあります。

すると、人里離れた場所は、「休息」を得る適切な場所であることが分かります。「人里離れた場所」という表現で、どのような場所を言おうとしているのでしょうか。

「人里離れた場所」は、神との交わりを確かにする場所と言えます。人々の騒々しさから離れて、じっくり神と向き合う場所です。特にイエスは御父との深い憩いを得るために、人里離れた場所で祈っておられたのです。イエスは弟子たちにも、神との交わりを深めることが、何よりの休息であることを、感じさせたかったのです。

以前話したことがあるかと思いますが、日本でも日常使われている外来語に「レクレーション」という単語があります。これは英語をそのまま取り入れたものですが、言葉のもとの意味をたどるとラテン語のre-creatioに行き当たります。その意味は、「再び」「創造すること」です。本来の力を取り戻すために、自分の中に神が再び創造のわざをおこなってくださる。すると人は再び造り直されて、生きる力を取り戻すわけです。神が人間を再び創造するような時間と場所に自分を置くこと、それがレクレーション、re-creatioなのです。

するとre-creatioのためにふさわしい場所は、人里離れた場所が最もふさわしいということになります。こうしてイエスも人里離れた場所で神との交わりを確かなものとしましたし、弟子たちにも同じことを求めたわけです。

ここまで来ると、集まって来た大勢の群衆をイエスが「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた」(6・34)とあるのも分かります。イエスは群衆に、神との交わりを確かにするために、つまり本当の憩い・休みを与えるために、いろいろと教え始められたのです。イエスは群衆にいろいろと教え、彼らを憩いの水辺に伴われるのです。

わたしたちも休みが必要です。これまで話したように、神が再び創造のわざをわたしにおこなってくださり、神によって再び造り直されて、生きる力を取り戻すために、休みが必要です。再び造り上げられる、再び自分を取り戻すための人里離れた場所に自分を置くことが大切です。

みなさんにとっての人里離れた場所はどこでしょうか。だれにも煩わされずに、神の前に自分を置くことのできる静かな場所はどこでしょうか。この聖堂は確かにその一つだと思います。かなり静かです。けれども場合によっては、聖堂のほかにも人里離れた場所を持っておくとよいかもしれません。聖堂が必ずしも近いとは限らないからです。

あなたにとっての人里離れた場所が、神との交わりを確かにする場所であれば幸いです。あなたが選んだ人里離れた場所が、昔の柱時計のように、止まりかけている状態からねじを巻いてもらって力を取り戻す場所であれば幸いです。

それぞれ人里離れた場所でre-creatio「再創造」を成し遂げて、また新たな気持ちでもとの生活に戻りましょう。実際の生活はイエスへの信仰をまっすぐに生きるのが難しいかもしれません。矛盾に苦しんだり疲れたりした時、イエスは何度でも「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と声をかけてくださいます。

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‥次の説教は‥‥
年間第17主日
(ヨハネ6:1-15)
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ちょっとひとやすみ
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▼先週のメルマガをあらためて確認すると第777号に届いていた。自分で言うのもなんだがおめでたい。全く意識していなかったわけではないが、当日には忘れていたらしい。通過点とはそういうものなのだろう。
▼だれかに指摘されて、花束でも受け取れば、あーここまで来たかと感慨深く思うかもしれない。だが記録は過ぎ去るので、すぐに次の目標に向かって切り替える。1000号がわたしの当面の目標だ。
▼冬山では雪崩が起きる。ところがわたしの身近では夏でも雪崩が起きる。雪崩が発生する世界で一番低い山。それはわたしの机の上だ。先日も1枚のプリントを探しているうちに雪崩が発生した。山のように積み上げた資料が、滑って床に散乱したのである。
▼部屋はプリントやら冊子やらで足の踏み場もなくなってしまった。いつだったかソファーがきれいになって「ドヤ顔」をしたことがあったが、それ以降まったく「断舎利」は進んでいなかったのか。
▼申し訳ない話だが、それ以降一切進んでいない。ソファー自体は今すぐにでも寝そべることができるくらいきれいに片付いている。ただそれ以外は、ソファーの片づけで満足してしまったのか、何も進んでいなかったのである。
▼机に積み上げていた紙類を、雪崩が発生して仕方なく片付けた。3分の1は不要な紙だった。3分の1はすでに事務処理済みの書類だった。3分の1は、言い訳がましいが、できるだけ近くに置いておきたい書類・冊子だった。だが今回は最後の3分の1も机に置くのをやめた。そうしないとまた元の木阿弥になりそうだからである。
▼今は机が見えている(これも変な言い方だが)。少なくとも今年いっぱい、机が見える机で仕事をしようと思う。パソコンキーボードしか置かれていない机は、こんなに広かったのか。これでようやく普通の人と同じスタートラインに立った。

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今週の1枚
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第385回目。長崎市の大波止。五島や伊王島に渡る船が発着する。梅雨明けも近い。

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年間第15主日(マルコ6:7-13)イエスが「杖一本」を授けてくださる

2015-07-12 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
15/07/12(No.777)
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年間第15主日
(マルコ6:7-13)
イエスが「杖一本」を授けてくださる
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「(イエスは)十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。」(6・7)イエスが十二人を派遣します。十二人から始まった宣教活動が、今どのように広がっているのかを考えることにしましょう。

先週の浜串教会での霊名のお祝いに釣り道具の鯛ラバを花かごと一緒にいただきました。釣りの師匠が無垢のオモリに塗装を施し、経験から選んだラバーを組み合わせた手作りでした。広報部長から、「この道具で釣れたら必ず報告してください」とお願いされていました。

わたしも、釣れたら写真でも貼ろうと思っていたのですが、いざ使ってみると写真を撮る暇もないほどに釣れて、いまだに写真を撮れていません。この前も、台風がそろそろ近づこうとしていた7月2週目に、鯛を2枚釣り上げました。

さてイエスは十二人を呼び寄せました。イエスを取り囲む人々はもっとたくさんいたことでしょう。十二人が呼び寄せられている様子、それだけでも、すごい力だと思います。自分自身のことを考えると、十二人はおろか、一人呼び寄せることすら難しいと感じるからです。

イエスが十二人呼び寄せたとありますが、十二という数字はどのような意味があるのでしょうか。この数字は旧約聖書に由来する数字です。アブラハムは神から多くの子孫を与えると約束されましたが、それは後にイスラエルと呼ばれるようになる孫のヤコブの時代に実現しました。

ヤコブの息子たちの中にヨセフという名の息子がいました。ヨセフには兄たちが十人、弟が一人いました。ヨセフは後に神の不思議な導きによりエジプトで国王に次ぐ地位に就き、父親のヨセフと十一人の兄弟をエジプトに呼び寄せ、末永く幸せに暮らせるように計らいます。

ヨセフの物語を詳しく話す時間はありませんが、ヤコブの子供たちが十二人いて、拡大していくイスラエルの部族はヤコブの十二人の息子たちの名を持つ十二部族となっていきます。イエスはこのイスラエル十二部族を念頭に置いて、「新しいイスラエル十二部族」とでも呼べるような神の民を呼び集めるために、弟子の中から十二人を選んだわけです。

ここでもう一つ考える必要があります。イエスが十二人を呼び寄せた時点で、呼ばれた弟子たちも「わたしたち十二人は、イスラエルの十二部族を念頭に置いている」と理解したのでしょうか。

弟子たちは理解したと思います。イエスが考えていた「新しいイスラエル」という役割までは理解しなかったとしても、「なぜ十二人なのだろうか」という思いはすぐ聖書の物語を連想させたでしょう。彼らにもある程度聖書の知識があったでしょうから、自分たちがイスラエル十二部族になぞらえて十二人選ばれたということは感じていたと思います。

イエスは弟子たちの理解をさらに推し進め、「選ばれたあなたたちは新しいイスラエルの民であり、わたしの思いを出かけて行って届ける者となるのだ」このような指示を受け、派遣されていったのです。

イエスが弟子たちを二人一組で派遣するとき、旅支度について厳しい制約を課しています。「旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず」(6・8)とあります。「杖一本」しか、持ち物は許されていません。これは何を意味しているのでしょうか。

当然、持ち物に信頼をおかず、イエスにのみ信頼を置いて宣教せよという促しであることは想像できます。パンも、施しを受けるための袋も、お金も、宣教活動が軌道に乗れば、手に入れることになるでしょう。

ところで、「杖」はなぜ持たせたのでしょうか。一般的に、旅先で杖は身を守るのにとても重宝します。オオカミが近づくことがあるかもしれない、ヘビが道端にいるかもしれない。そういう悪路を旅するときに、履物を履き、杖を用意していることは人間の古くからの知恵でした。

もう一つ、わたしは別のことも考えました。イエスが派遣する弟子たちに持たせた杖は、イエスの権威を表す杖であったかもしれません。つまり派遣された弟子たちがすでにイエスの権威を委ねられた者だということを表す杖とも考えられます。するとこの杖だけは、旅先で棒切れを拾って杖にするわけにはいかないのです。

現代の教会でも、司教さまはミサの中で「バクルス」という名前の付いた杖を使用します。それはイエスから託された権威のしるしであり、神の民を教え導く杖なのです。派遣された弟子たちの杖も、現代の司教さまの杖も、イエスの教えが、イエスの導きが、もうここまで来ていますよというメッセージなのではないでしょうか。

弟子たちは履物を履き、杖一本を携えて派遣されていきました。わたしたちも、ミサのたびに「行きましょう。主の平和のうちに」という言葉で派遣されています。わたしたちはイエスから託された目に見える杖を持ちませんが、あたかも杖を託されたものであるかのように日々の生活に戻っていく必要があります。

日々の生活には好ましくない誘惑があり、あるときは信仰に反する暴力があり、それらに立ち向かい、戦う必要があります。その時に必要となるのはパンでも施しを受ける袋でもなく、お金でもないのです。神の望みに反する誘惑や暴力に対抗するのは、ミサによってイエスから託された「杖一本」なのです。

イエスはミサの中で、どのように「杖一本」を託されるのでしょうか。イエスはみことばと、聖体によって皆さんに「杖一本」を託しておられます。あなたの一週間を支える御言葉が必ずあります。あなたの一週間を、聖体が支えます。イエスしか授けることのできない「杖一本」を、今週も受け取って、生活に派遣されていきましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第16主日
(マルコ6:30-34)
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ちょっとひとやすみ
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▼スキージャンプのテレマーク。わたしはこれは男性が考えた悪しきルールだと勝手に思っている。というのは、スキーのジャンプ選手が着地するときに要求されているテレマークに、着地を安全にするためとか、そういう合理性は感じられないからだ。
▼さてなぜ着地の時のテレマークが悪しきルールだと切り捨てているかというと、安全のためにとっているポーズではないとすれば、これはもう難しい着地をあえてしているとしか考えられない。なぜ難しいことを選ぶのか。それには理由がある。
▼男性はしばしば、より難しい方法を好み、それを恰好良いと考えがちである。わたしはそれを釣りの時に感じた。この一年ずっと鯛ラバで釣りをしてきた。初めは簡単に鯛が釣れるからという理由だった。だが簡単に釣れ始めると、それに飽き足らなくなる。
▼鯛ラバを操作する道具の定番は、「ベイトリールと対応するロッド」である。たしかにこれが鯛ラバには最も適していると思う。だが男性という生き物は愚かというか変わっている生き物で、最も適しているものが何かを理解していてもあえて違うことをしようとするのである。
▼わたしはあるときから「ベイトリールと対応するロッド」というタックルでの釣りをしなくなった。代わりに「スピニングリールと対応するロッド」で鯛ラバを操作し、釣っている。まれに「ベイトリールと対応するロッド」も持ち込み、それで鯛を釣ることもあるが、簡単に釣れてしまい、面白くなくなったのである。
▼しかし今は、少し難易度が上がる「スピニングリールと対応するロッド」の組み合わせにも飽き足らなくなってきた。こんなことを言うと「調子に乗りすぎ」と言われそうだが、「スピニングリールと対応するロッド」のタックルでも簡単に釣れるようになってきたのである。
▼「簡単に釣れればそれで良いではないか」と言われるかもしれない。そこは、男性と女性とでは違いがあると思う。男性は、簡単な方法に次第に飽きて、より難しい方法で達成できないかを探すのである。そしてわたしは、より難易度の高い鯛の釣り方にたどり着き、今その方法で達成感・満足感を追い求めている。

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今週の1枚
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第384回目。聖トマ使徒の霊名のお祝いに。花かごに釣り師匠手製の鯛ラバが。

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年間第14主日(マルコ6:1-6)イエスの向こうに働く神を知り信仰告白する

2015-07-05 | Weblog
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年間第14主日
(マルコ6:1-6)
イエスの向こうに働く神を知り信仰告白する
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年間第14主日B年は、「ナザレで受け入れられない」という場面を取り上げます。イエスが生まれ故郷のナザレの人々に受け入れられないのは、ナザレの人々がイエスの素晴らしい業を目にして驚いた後に、イエスの業を何に結びつけようとしたかに原因があります。ナザレの人々の過ちを繰り返さず、わたしたちがイエスを受け入れるために必要なことは何か、考えることにしましょう。

今年参加した司祭黙想会を指導した大木神父さまの説教は、とても分かりやすく、堅苦しさのまったくないものでした。大木神父さまは、今回の黙想会で手痛いミスを犯したことまで率直に話してくれました。

最後の説教の時でしたが、生活している伊万里の修道院から長崎に出発する際に、今回の黙想会のために用意した原稿をお忘れになったそうです。大まかなことは頭にあったでしょうが、なるほど原稿を忘れているのを悟られないように話していたのだなと思うと、難しい話を持ち出さなかったのが納得できました。

けれども内容を落とすようなことがなかったのはさすがイエズス会士だなぁと思ったのです。その中で「黙想会は車検のようなものです」と仰っていたのが印象的でした。

車検で車を修理工場に預けて故障個所を見つけ、部品を交換したり動きの悪い部分を調整したりするように、ふだんの生活の場所から黙想会に出向いて自分の直すべき部分を探し出し、考え方を思い切って取り換えたり、調整したりする。そうやって毎年、自分と真摯に向き合う時間ですと黙想会の意義を説明してくれたのです。

毎年、ふだんの生活を横に置いて自分と向き合い、司祭としての価値はどこからきているのか、そもそも司祭職とは何なのかを問い続ける。ふだん忙しさの中でじっくり考えることができないので、黙想会の期間はとても大切です。そして、毎年毎年問い続けることも大切です。

問い続けることがなぜ大切かというと、問いかけをやめたときから、自分に都合のよい答えや、都合のよい受け止め方を探そうとするようになるからです。司祭としての価値は、本来イエス・キリストから来ますが、問い続けることをやめてしまうと、たとえば司祭としての価値をわたしが果たしてきた活動の多さや、勤めてきた年数や、影響を与えた人の数や、そうしたことで計ろうとするかもしれません。

司祭としての価値はそういう業績ではないと思います。以前の説教で触れましたが、司祭になって1回だけしかミサをささげずに死んだとしても、その1回のミサだけでも司祭であった価値があるのです。すると、やはり毎年、司祭としての価値はどこから来るのか、そもそも司祭職とは何なのかを問い続ける必要があるのだと思います。

さて、福音朗読でイエスの素晴らしい業を目にした人々は驚きの声を上げます。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。」(6・2)イエスの素晴らしさはどこから来ているのか、イエスとはいったい何者なのかを問うているわけです。

しかし、人々のたどり着いた答えは、問い続けることをやめた答えでした。「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」(6・3)人々はイエスの業の向こうに働く神の力を見ようとはせず、イエスをただの人として引きずり降ろすことに心が向いたのです。

わたしも、神さまが働くかどうかではなく、その人の出身や人間関係で計られた経験があります。中学校から神学校に入り、最初の夏休みに日曜日のミサに来た時に、大人の人たちがわたしの話をしていました。「輝あんちの息子の神学校に行ったってや。なんのそん、輝あんちの息子の神父さまにならうっとっちかよ。」父親の輝明が若いころにやんちゃであったことは聞いていましたので、わたしには言い返す言葉はありませんでしたが、心の底から見返してやろうと思ったことは確かです。

そんなわたしを通してでも神さまは働きました。イエスの業はどこから来ているのか、イエスとはいったい何者か、辛抱強く問い続ける必要があります。たとえば母マリアは、わが子イエスにまつわる様々な出来事を心の中で思い巡らし、その意味を深く問い続けました。しかし当時の人々は問い続けることをしませんでした。

わたしたちも、当時の人々の過ちを繰り返してはいけません。わたしたちにとって問い続ける価値あるものがいくつかあります。イエスとは一体どなたですかという問いもそうですが、ほかにも祈りとか、秘跡についても問い続ける辛抱強さが必要ではないでしょうか。祈りの価値はどこからきているか、そもそも祈りとは何なのか。洗礼・聖体・罪のゆるし・結婚の秘跡の価値はどこから来ているのか、そもそも秘跡とは何なのか。恵みのたびに問い続ける必要があります。

問い続けると、恵みの出所がどこなのかよくわかるようになって、もっと祈りや秘跡を大切にするようになるでしょう。問い続けることをやめると、いくら祈っても聞き入れられないとか、これこれの秘跡の恵みは小さいころさんざん受けたのでもう要らないとか、恵みを間違った答えに引きずり降ろしてしまうのです。

わたしが、神から受けている恵みや、秘跡などを通して受けている生き方について、これからも機会あるごとにその出所を問い続ける人でありたいと思います。見えるものを通して見えない神の働きに目を向け、感謝できる人になれるよう、このミサを通して取り組む力を願いましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第15主日
(マルコ6:7-13)
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ちょっとひとやすみ
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▼病人訪問のときに使用する儀式書、もう23年も使い続けているが、ビニール製の表紙に押して貼られた銀製の文字も、完全にすり減って分からなくなっている。時の流れ、時間だけがなしうる業だと思う。
▼さてこの儀式書、手にしっくりなじむのはよいのだが、ハンドバックに持ち歩いていざ取り出すと、上下逆さまに儀式書を開くことがしばしばある。最近はこういった小さなことがストレスを感じさせる。
▼ときどき、「逆さまに開くことが多いということは、一旦逆さまにして開けば、正しく開くことが多くなるのではないだろうか。」そう思って儀式書を開く前に逆さまにして開いてみる。また、上下逆さまになっている。
▼聖体拝領の儀式を病人の前で執り行いながら、儀式を行っている司祭は儀式書が上下逆さまになったことに苛立ち、腹を立てながら聖体拝領の儀式をすることになる。何ともお恥ずかしい話である。
▼50歳を前にして小さなことにストレスを感じたりイライラを募らせることが多くなった。司祭館を出る際玄関の鍵を閉めるが、頭の中は次の動作「車に乗る」ということで占領されていて、鍵束の中から車の鍵を選んで玄関の鍵穴に挿そうとする。
▼「違う違う」と思い、そこでイラッと来て車に向かい、いざ車の前に立つと今度は玄関の鍵を握っている。車の鍵穴にはさすがに玄関の鍵は入らないが、連続して間違えたことにまたイライラする。いずれにしても、以前よりも行動が矛盾していることが多くなり、イライラは募るばかりである。
▼昨日も、シャワーを浴びていて試供品のシャンプーを忘れないうちに使おうと思い、小さな袋を破って手に取り、使用したら予想以上に粘りがありまったく泡立たない。変だなと思ってよくよく見ると、まったく同じ大きさ・デザインのコンディショナーの試供品だった。コンディショナーを使った後に、あらためてシャンプーを使うこの苛立ち。どのように表現すればよいだろうか。
▼この日は追い打ちをかけるように、洗濯に回す前に体を拭いてからと思って広げて準備しておいたタオルを無視して、洗濯したてのタオルを体拭きに使い、途中準備しておいたタオルに気付いてまた腹を立てた。こうした「小さな苛立ち」で、胃ガンにでもなったら最悪の人生である。
▼そう言えば、最近聖堂内で聖体を安置する聖櫃の鍵が故障した。ここ1ヶ月ほど、スムーズに開けたり閉めたりできなくなっていたが、とうとう閉めれば開かなくなり、開ければ閉まらなくなるという状態になった(この聖櫃に限っては、「開かない、閉まらない」とイライラして無理にこじ開けたりはしていない。これだけは弁明しておく)。某修道会で販売している聖櫃、何十万円するのかなぁ(泣)

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今週の1枚
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第383回目。新上五島町でもプレミアム商品券。1世帯5セットまでの限定販売

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【文庫本の問い合わせについて】
文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
3冊セットの提供が可能になりました。ABC年セットで
2000円です。ご希望の方は住所と名前を添えて連絡ください。
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