こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第16主日(マルコ6:30-34)良い休みを学ぶとよく働き、人に良い休みを与える

2024-07-19 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2024/7/21(No.1306)
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年間第16主日(マルコ6:30-34)
良い休みを学ぶとよく働き、人に良い休みを与える
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「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい。」(6・31)私は、このイエスの言葉が、弟子たちに対する深い思いやりとして映りました。何らかの形で人を雇っている立場にある人々にとって、学ぶことの多い態度だなと思ったのです。

イエスが弟子たちに「休みなさい」と言っている今週の朗読箇所は、小教区で人を雇ったり、協力者を募る立場になってようやく自分のこととして受けとめることが出来るようになりました。弟子たちに配慮するイエスの姿はつねに主任司祭のお手本です。

最高の模範があるにもかかわらず、私は雇っている人々にとって良い雇い主とは言えないと思います。協力者に対しても、良い責任者ではないと痛感します。未だに、人が人のために働いているということを、十分理解していないからです。

かつて、2人の主任司祭のもとで教会の務めを学びました。雇っている人、協力者への接し方も見て学びました。当時は20代後半から30代に入るという本当に若い時期でしたので、人が人のもとで働いていることについてほとんど理解していなかったと思います。

一方で、ある部分では雇われている身でもあります。主任司祭としてくださっているのは大司教様です。大司教様に任命された場所で務めを果たします。若い頃よりも今の方が、大司教様の期待に応えたいと考えるようになりましたし、大司教様がどんな気持ちで任地を決めて、私たちを働かせているのかなぁということも考えるようになりました。

そこであらためて思い返すのです。「しばらく休むがよい。」私は、イエスのような配慮を、雇っている人に持っているのだろうか。協力を仰いでいる人に、イエスのような温かい思いやりを掛けているのだろうか。むしろ配慮にも思いやりにも、足りない面があるのではないかと思うことばかりです。
子どもたち、また学生たちは夏休みに入りました。夏休みにも、今日のイエスの呼びかけ
を当てはめて考えることができます。「さあ、夏休みだ。しばらく休みなさい。」やってきた休みを何となく過ごすのではなく、イエスが休みなさいと言っているのだと考えるわけです。そのことで、休みは次の学期への準備をさせてくれるはずです。

私の主任神父様になってくれた2人の神父様は、次によく働くために休みを取るということを上手に実行していたと思います。神父様自身のためだけではなくて、主任神父様のもとで働く司祭にも、「良く休んで良く働く」ということを実践しておられたと感じました。

イエスは弟子たちにはしっかりした休みを取らせつつ、押し寄せてくる群衆には「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた」(6・34)となっています。責任者が、態度で弟子たちを教え育てています。まず休みなさい。しっかり休んだら、私がしていることをあなたがたもしなさい。導きが必要な人々がまだまだたくさんいるから、いろいろと教えてあげなさい。そんなふうに、イエスはご自分の働きぶりで教えてくださっています。

私たちは皆、イエスから「休みなさい」と声をかけてもらう必要があると思います。イエスが私たちにくださる休みの中で、私たちは次に備える時間を持ちます。イエスが用意した場所で休むなら、その休みは本来の姿にどのように向き合うべきかを考える良い機会になるはずです。

もっと、雇われている人の気持ちに寄り添って「休みなさい」と声を掛けてあげられる人でありたいと思いました。そして、休みから帰ってきたら、また気持ちを込めて働く人へと育ててあげる必要にも気づきました。

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‥次の説教は‥‥
年間第17主日(ヨハネ6:1-15)
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ちょっとひとやすみ
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▼今年の広島カープ、すごく期待を持たせてくれている。一ヶ月首位だったこともあるし、全体的に粘り強さが戻ってきた。だがリーグ三連覇の時のような得点力が無い。それは一にも二にも、ホームランバッターがいないからだ。
▼ホームランを期待しているのは特に助っ人外国人ということになるが、今年の外国人選手はいわゆる「大砲」ではない。前評判からはすごく期待したのだが、助っ人のホームランを見たことがなかった。
▼その日も、無得点のまま試合が進み、「得点してくれないとピッチャーの気持ちが折れて失点してしまうじゃないか」とハラハラしながら試合の流れをラジコで聞いていた。
▼七回にノーアウト一二塁、絶好のチャンスが回ってきた。しかし後続が二人倒れ、次のバッターが助っ人外国人。「あー、ダメか」と思った二球目、球場が悲鳴に変わる。スリーランホームランが飛び出したのだ。助っ人外国人に、心からお詫び申し上げます。

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今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第913回目。ひどい肩こりが頭痛を誘う。病院(CT)と整骨院のお世話になる。

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† 神に感謝 †
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年間第15主日(マルコ6:7-13)神のことばの一節を持ち帰り、杖一本とする

2024-07-13 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2024/7/14(No.1305)
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年間第15主日(マルコ6:7-13)
神のことばの一節を持ち帰り、杖一本とする
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「旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず・・・」(6・7)八年前、2016年の1月下旬に、まれに見る大雪が降りました。私は上五島の浜串小教区にいましたが、本教会の浜串で7時のミサをした後、9時に巡回の福見教会でミサをしなければなりませんでした。

しかしすでに相当の雪が積もっており、車を出して山道を登るのは不可能でした。このままでは巡回教会のミサが出来なくなります。考えた挙げ句、ミサの時間を一時間遅らせて、歩いて巡回教会に向かうことにしました。この時、竹を切った杖を手に持って、片道一時間半歩いて出かけたのです。

浜串教会から峠を登り、いったん峠を降ります。そしてもう一つ峠を登って降ったところに福見教会があります。汗びっしょりになりながら司祭館で全身を拭き、身を整えてからミサをしました。

現代ですから、説教の原稿はスマホがあれば話すことは出来ます。文字通りの杖一本ではありませんでしたが、車に乗らず、ほとんど何も持たず、待っている信者のもとにミサをしに行ったのは忘れられない思い出です。

杖一本を持って出かける。イエス様時代のパレスチナで杖を持ち歩く人とは、旅をする人の姿だけでなく、一般的には羊飼いの姿なのでしょう。出かけた先に、杖を使って案内し、導く羊たちがいる。旅の途中に出会う危険な動物を追い払うだけでなく、その杖によって養う羊たちが目的地で待っています。そう考えて道を進むとき、たとえそれが困難な道であっても元気が出ます。

「杖」は、「あなたにわたしの羊を任せる」そのしるしとなります。食べ物や、施しを受ける袋や金銭は、イエスから派遣されたしるしにはなり得ません。待ち受ける人々は弟子たちの宣教する姿を自然と見極めます。神の国を告げ知らせる人がパンや袋や金銭を頼りにしていたら、人々から見切られてしまうでしょう。弟子たちは、羊を導くための「杖」に寄り頼んで宣教するので信頼されるのです。

弟子たちは、はっきりと「杖一本」持っていくように指示を受けました。皆さんはどうでしょうか。「杖一本」は難しいかも知れませんが、イエスから派遣された「しるし」これを拠り所に生活を組み立てることは可能です。特に、日曜日毎に朗読される聖書の一節を、今週の拠り所に持ち帰ろう。この積み重ねをしていけば、皆さんの生活も杖一本を手に、ミサから派遣されて生活に戻る人になれます。

場合によっては、福音朗読の一節ではなく、第一朗読や、第二朗読の一節が心に残って、一週間を組み立てる土台にできるかも知れません。13日土曜日の朝、第一朗読はイザヤ書でした。最後の部分で「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」わたしは言った。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」という対話がありました。とても印象に残りました。第一朗読、第二朗読は、皆さんが読むわけですから、心に残る可能性は十分あります。

神のことばの一節を、生活に派遣される者として持ち帰りましょう。あなたの生活で信仰を表していく頼みの道具として、ミサで「行きましょう」と派遣された「しるし」として、神のことばはふさわしいと思います。今週は、どの一節を持ち帰りますか?どの一節が、あなたの一週間を助けてくれると感じるでしょうか。

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‥次の説教は‥‥
年間第16主日(マルコ6:30-34)
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ちょっとひとやすみ
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▼今年は雷の音をあまり聞かない。五月に、雷がひどかった日があったかもしれない。パソコンなどを立ち上げていると、雷の音にビクビクする。それと、去年もそうだったが、自分一人雷を警戒すれば良いわけではない。三人が注意しなければ、結局何かしらの出費を強いられることになる。
▼今年は、去年の学習が活かされている。配電盤の場所も把握している。外回りで電源を取る場所もだいたい分かっている。用心しても防げないこともあるかもしれないが、去年よりは被害を少なくできるだろう。

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今週の1枚
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第912回目。YouTube活動の報告。単調になってきたのか、登録の伸びが鈍化。

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† 神に感謝 †
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年間第14主日(マルコ6:1-6)恵みの豊かさで驚きを与え続けてください

2024-07-06 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2024/7/7(No.1304)
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年間第14主日(マルコ6:1-6)
恵みの豊かさで驚きを与え続けてください
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主任司祭と助祭の霊名のお祝いを用意してくださり、感謝申し上げます。私たちの霊名のお祝いは、「皆さんもどうぞ、それぞれの霊名をお祝いしてください」という「しるし」と考えてください。

そう言っても「誕生日すら家庭で祝えないのに、霊名のお祝いなど考えたことがない」そんな家庭もあるでしょう。それでもあえて、考えてくださいと呼びかけたいと思います。誕生日は、人として歩み始めた日を思い出すことができます。霊名の日は、「神の子どもとして」歩み始めたことを思い出すことができます。

もちろん、二つ祝うのは大変かもしれません。どちらか祝って二つとも思い出してはいかがでしょうか。冷めた見方をすれば、司祭たちの霊名の祝いは「あんな司祭が福江教会にいたなぁ」と思い出すきっかけかも知れません。霊名の日を思うためなら、理由は何でも構いません。

切実な理由で誕生日を祝えない方々もいます。この前指摘を受けました。現代では経済的な理由もあって記念日を祝えないのだと。今日、司祭と助祭のお祝いのために、小教区で予算を組んでもらっています。ありがたいことです。ただ、「祝う」「喜び合う」ということを突き詰めたら、お金をかけないで祝う、喜び合うこともできるはずです。

いちばんお金をかけないで、誕生日と霊名のお祝いを祝う方法を教えましょう。その日にミサに行くことです。ミサに行って、誕生日・霊名の日の祝福を神様に願う。早起きさえすれば、お金はかかりません。ぜひお勧めします。洗礼を受けて神様の子どもとしていただいた場所に行く。誕生日にもミサに行く。これは最高の祝い方だと思います。

洗礼の恵み、結婚の恵み、さまざまな召命の恵み。教会を通して神様からいただいたものがあります。それらが自分にとってどんな意味があるのか、答えが与えられるまで考える人であってほしいです。福音朗読ではイエスが故郷の会堂で教えておられます。当時は旧約聖書が神から与えられた賜物でした。イエスは聖書について、律法について、深く教えてくださっていたでしょう。

もっと言うと、イエスご自身が、当時の人々に与えられた神からの賜物でした。イエスは身をもって、そのことを教えようとしました。しかし故郷の人々は、自分たちがすでに知っていることの中に、神から与えられた賜物であるイエスを押し込めて理解しようとしたのです。「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」(6・3)

「この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。」(6・2)郷里の人々は答えが与えられるまで思い巡らし、深く掘り下げるべきでしたが、そこまでの忍耐心も、イエスへの敬意も持っていませんでした。今風に言えば、郷里の人々はイエスを「上から目線」で見ていたので、正しく理解できなかったのです。

私の身近な先輩に、「自分は奇跡を信じている。私自身司祭になれたことが、イエス様の奇跡だ」と言う方がいます。言いにくいことですが、中田神父はこの先輩のことを上から目線で見ていました。奇跡は、上から目線でしか見ていなかった私にではなく、誰よりも苦労したこの先輩の上に起こったのでした。

私と、この先輩はいろんな地区で一緒に働きました。神学生の時だけでなく、どの地区に行っても苦労させられていました。誰よりも苦労したので、受けた恵みを誰よりも思い巡らし、掘り下げてきたと思います。ですから、みずからの上に起こった驚くべきわざを、誰よりも感謝できるのだと思います。

今になって私は、この先輩を上から目線で見ていたことがとんでもない間違いであったこと、そのためにどれだけ私自身成長するチャンスを無駄にしてきたかを思い知らされています。

しかし時間は残されています。私たちが神からいただいた恵みがどんなにすばらしいものであるか、考える時間はあります。この恵みが与えられていなかったら私はどうなっていただろうか。私たちはどうなっていただろうか。考える時間はあると思うのです。

神のわざを、自分たちがすでに知っていることの中に押し込めようとしたら、恵みの豊かさを台無しにしてしまいます。「十分に知っている。少なくともここにいる誰よりも知っている」そう思った瞬間に、私たちは神の恵みの豊かさを台無しにするのです。

神はいつも、その時代の人々を通して恵みの豊かさを証明してくださいます。今日も、恵みの豊かさを示して私たちに驚きを与えてください。ミサの中でこのように祈ってまいりましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第15主日(マルコ6:7-13)
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ちょっとひとやすみ
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▼長崎教区内の女子修道会が協力して「祈りの集い」というのがおこなわれている。単に「祈りましょう」というのではなく、「祈りかた」から始まり、共に祈ってくれる「同伴」のお世話も受ける。そういった内容のようである。長崎教区内の各地区を巡回しているが、今月下五島地区で開催され、福江教会が会場となっている。
▼「そういった内容のようである」と言ったのは、古い育てられかたで司祭になった中田神父はこの祈りの集いに付いて行けていない。「霊的同伴」という言葉を一度も聞かずに神学校を卒業して今に至っているので、「同伴」と聞いただけで「最新式」「自分には関係ない」と思ってしまう。
▼神の働きの豊かさは、いつの時代にも証明される。理解が追い付いていないのであれば、「霊的指導を言い換えただけだろ」と、霊的同伴のあり方を形の合わない箱に押し込もうとするのだけはやめよう。

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今週の1枚
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第911回目。チャンスは私の髪ほど薄いが、霊名のお祝いの様子があれば。

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年間第13主日(マルコ5:21-43)イエスは必ずご自身との真の出会いに導く

2024-06-28 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2024/6/30(No.1303)
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年間第13主日(マルコ5:21-43)
イエスは必ずご自身との真の出会いに導く
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私は日曜日のミサ後、信者さんからスータンの裾を掴まれたことがあります。その日の福音朗読が今週の「ヤイロの娘とイエスの服に触れる女」でして、二つがおり混ざった奇跡物語でした。スータンを掴んだ高齢の女性は、私を通してイエスに触れ、救いの体験を味わいたいと思ったのでしょう。当時の説教を少し練り直してお届けします。

二つの物語のうち、十二年間出血の止まらない女性は、「この方の服にでも触れればいやしていただける」(5・28)と考えてイエスに近づき、服に触れると確かに出血は止まりました。この女性にとっての目的は十分果たされたのですが、イエスはその女性を探しています。女性にとっての目的は果たされていても、イエスがその人に積ませたい体験は、まだ終わっていないからです。

女性が勇気を出して名乗ると、イエスから声をかけてもらいます。イエスと出会い、イエスを信じる人になること。それが女性に積ませたい体験でした。イエスとの出会いが信仰に変わり、「救われた」と実感して生きていく。奇跡の先で、この体験を女性は積んだのです。

会堂長ヤイロは、きっとその光景を目に焼き付けたでしょう。すでにイエスを信じ始めていましたが、試練を受けます。会堂長の家から人が来て、人間的な希望を断ち切られてしまうのです。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう」(5・35)。

娘が回復することがイエスに近づいた目的ですから、ヤイロはイエスに期待することは何もありません。そんなヤイロにイエスは「恐れることはない。ただ信じなさい」(5・36)と言います。イエスにとって、ヤイロに積ませたい体験はまだ終わっていないからです。

「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」(5・39)人々はイエスをあざ笑います。これも会堂長ヤイロにとって試練です。この先もイエスを信じ続けることができるだろうか。迷いやためらいが生じても不思議ではありません。

そんな中でもイエスは娘を生き返らせ、父親に返してくださいました。ここでヤイロは自分が最初に持っていた目的にたどり着いたのですから、物語は終わりでしょうか。それだけでは終わりません。会堂長ヤイロは、娘の回復という目的のその向こうに、たどり着きます。イエスとの出会いが信仰に変わり、「救われた」と実感してこれから生きていく。その体験をヤイロは積んだのです。

イエスはすべての人に、同じ体験を積ませようと考えておられます。イエスの服に触れ、いやされるだけの出会いではなく、自分の娘を返してもらうだけの出会いでもなく、イエスとの出会いが信仰に変わり、「救われた」と実感してこれから生きていく。この体験をすべての人に与えようとされるのです。

私の父は肺がんで亡くなりました。71歳でした。担当した医師はカトリック信者でした。家族は「余命半年でしょう」と告知を受け、その通り半年で旅立っていきました。闘病中、どのような精神状態だったか知るよしもありませんが、主治医に父は「自分は神様を信じているから何も怖くない」と伝えたそうです。実際にはそれだけではなかったと思いますが、根底にある覚悟は揺らぐことはなかったのでしょう。

私なら「半年です」と医者に言われても受け入れられず、食ってかかるでしょう。しかし父は、自分のことだけ考えていたのではなく、司祭である息子のためにも、最後の教えを残そうとしていたのだと思います。「神様に出会ったのだから、恐れずに自分を委ねて旅立つ。」私は父親の最後の半年で、イエスと出会わせてもらった。そう思っています。

長崎港の沖合にある伊王島の馬込教会から月に一度、有川の病院を訪ねました。刻々と状態が変化する中、私はついに一度も「父を取り上げないでください」とは祈りませんでした。「信仰の道から逸れないように、最期まで歩ませてください」その思いだけでした。

5月31日、父の命日が来ると、祭服を着ながら、イエスの服に触れているのだと考えています。服に触れるだけではありません。実際には救い主イエスに出会わせてもらっているのです。この境地に導いてくれた父には今でも感謝しています。

イエスはすべての人に、「ご自身と出会って救われた」この体験を積ませようとしています。詰まるところそれが、人々に証しすることの出来る唯一の体験です。これまでの人生振り返って、人に証しできる救いの体験、信仰の体験に思い当たるでしょうか。

イエスが、すべての人にこの体験を積ませようとしているのであれば、それは必ず見つかるし、必ず体験するのです。私たちは、人に証しするだけの救いの体験を積んで、宣教する人に必ずなれるのです。

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‥次の説教は‥‥
年間第14主日(マルコ6:1-6)
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‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
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▼洗剤に特別のこだわりはないので、洗剤が切れたら目に付いた物を買う。去年までは液体洗剤を買っていたが、今年になってから「ジェルボール」タイプの洗剤を使い始めた。簡単ではあるが、分量の調節はできないので、そこが難点。
▼全く違う洗剤を見つけた。シートタイプの洗剤。「シート」と聞くと、レシートをポケットに入れたまま洗濯して紙くずが服のあちこちに付き、ひどい目に遭ったことがあるので心配だが、「水に溶ける」と書いてあるので信用してみる。

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今週の1枚
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第910回目。果たして使用感は?汚れ落ちは?いろいろ気になる。

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† 神に感謝 †
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年間第12主日(マルコ4:35-41)イエスは大事な場面で「向こう岸に渡ろう」と促す

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こうじ神父
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2024/6/23(No.1302)
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年間第12主日(マルコ4:35-41)
イエスは大事な場面で「向こう岸に渡ろう」と促す
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イエスは弟子たちに「向こう岸に渡ろう」と言います。中田神父は「向こう岸に渡ろう」とだけ言っていることに注目しました。たとえば福江港から「向こう岸に渡ろう」とだけ言われたら、皆さんは戸惑うのではないでしょうか?一般的に考えれば、それは「久賀島に渡ろう」とか、「奈留島に渡ろう」とか、目的地があるはずです。しかしイエスは「向こう岸に渡ろう」とだけ告げています。

もちろん、向こう岸には「ゲラサ人の地方」があり、宣教するという目的もちゃんとあるのでしょうが、ここでは向こう岸に着いてからのことよりも、向こう岸に渡る中で経験することを強調していると考えられます。そのような見方で、今週の学びを得ることにしましょう。

幼い頃の話をさせてもらいます。私の父は、私が小学生の頃は遠洋漁業の巻き網船に乗る漁師でした。鯛ノ浦港を母港に持つ船団で、一度だけですが船を見せてもらうために連れて行ってもらったことがあります。「フェリーひさか」ほどの大きさの船がずらりと停泊していました。小学生にとっては圧倒される光景でした。

父親が、「船に乗ってみるか」と誘ってくれたのですが、岸壁から船に渡していたのは幅30センチくらいの板一枚でした。父が先に渡って、船から私に「こちらに来い」と言うのです。とてもではありませんが、狭い板の上を渡って行けそうにありませんでした。

見かねた父が私の所に戻ってきて、私を抱きかかえて船に乗せてくれました。そのとき板がゆさゆさ揺れたのは今でも覚えています。あの時狭い板を渡ったことは、のちに大いに役に立ちました。父が亡くなった後に赴任した浜串小教区で新船の祝福をしたとき、同じ幅の板を渡りましたが、幼いときの経験が無ければきっと渡れなかったでしょう。

福音に戻りましょう。イエスが弟子たちに「向こう岸に渡ろう」と呼びかけたとき、渡るまでの間に何が起こるか、イエスは十分理解していたと思います。突風が吹き、舟が水浸しになります。何も手を打たなければ、海の藻屑となって消えてしまうでしょう。イエスは艫の方で枕をして眠っています。御父への深い信頼を見せようとしたのでしょう。

弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」(4・38)と叫びました。イエスが見せた御父への深い信頼は、弟子たちには伝わってなかったのです。しかし、イエス様と弟子たちが乗ったこの舟は、「向こう岸」に渡ることになります。

「向こう岸に渡る」とは、単に「ゲラサ人の住む地方に着いた」という意味だったのでしょうか。そうではありません。「イエスと一緒に乗った舟は必ず目的地へたどり着く」その経験を積むことを意味していました。イエスと一緒の舟に乗り、向こう岸に渡るとき、自分を見失うほどの恐れを感じる中でも、必ず目的地にたどり着かせてくれるのです。

小学生の時、狭い板を見て、これではどれだけ父親が渡ってきなさいと言っても渡れないと感じました。父親への深い信頼が無かったからです。当時の父親の年齢を超えて、今なら分かります。深い信頼が、渡れないと思った向こう岸へと人を渡らせてくれるのです。

人への信頼がそうであるなら、父なる神とイエス・キリストへの深い信頼はなおさらです。神への深い信頼は、人を憎しみから愛のあるところに渡らせてくださいます。争いから和解へと渡らせてくださいます。絶望から希望へ、悲しみから喜びへ、暗闇から光へと渡らせてくださるのです。

イエスの「向こう岸に渡ろう」という呼びかけを聞いて、私たち長崎教区民は、具体的に何を思い浮かべたら良いでしょうか。いろいろあると思いますが、たとえばそれは、「小教区再編」の動きだと思います。人間の考えだけでは「わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と叫びたくなります。

けれども乗りかかったこの舟は、イエスと一緒に乗る舟です。必ず、目的地へたどり着くのです。司祭・信徒・修道者が一同に集まって、「向こう岸に渡ろう」と呼びかけるイエスに深い信頼を寄せましょう。その時初めて、次の段階に移って宣教・司牧が続いていくのです。

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‥次の説教は‥‥
年間第13主日(マルコ5:21-43)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼梅雨の合間の晴れ。晴れているけれど、なかなかすることが思い付かない。そうだ。バイクを動かそう。今週玉之浦教会に向かう途中、自分の前に一台の車がいて、長い間その車に付き合わされた。
▼どこに行くのかな~と思っていたら、井持浦教会を少し過ぎたあたりで、狭い、急な上り坂を登っていった。よく見ると、先には教会墓地のようだった。今から走って、教会墓地をお参りしてこよう。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第909回目。田平修道院の墓にまた一人納められた。田平時代は6人見送った。

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† 神に感謝 †
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年間第11主日(マルコ4:26-34)実を付けさせてくださる神に全幅の信頼を置く

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‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
2024/6/16(No.1301)
‥‥‥†‥‥‥‥
年間第11主日(マルコ4:26-34)
実を付けさせてくださる神に全幅の信頼を置く
‥‥‥†‥‥‥‥

すでに福江教会にはお知らせしていますが、今週は助任司祭が黙想会出席のため留守をします。さらに主任司祭が地区長として顧問会に出席するので助祭だけが島に残る曜日があります。「曜日がある」と濁したのは、正確に話すと防犯上の問題が生じるかも知れないので曖昧にしています(ほかにも司祭を守る目的もあります)。

助祭はミサが出来ませんので、何も手を打たなければ平日のお世話を休まなければなりません。幸いに助祭には浜脇小教区・井持浦小教区で「みことばの祭儀と聖体拝領」を何度か経験させています。それで福江小教区でも、今回思い切って「みことばの祭儀と聖体拝領」をさせることにしました。福江教会にこんなに早くその日がやって来るとは思ってもみませんでした。助祭様は福江に来たことで相当鍛えられています。

福音朗読は、「成長する種」のたとえから始まる箇所です。種を蒔いたら、その種は知らないうちに成長し、ひとりでに実を結ぶとあります。蒔かれた種には、見えないけれども神の働きが続いていて、人が寝起きしているうちにいつの間にか成長して、実を結ぶというのです。

もちろん人が手を入れて、お世話しているのですが、お世話しているその人も、例えば水やりをしたことがどのように芽を出すことに繋がるのか、実を結ぶことに繋がるのか、分かっていないのです。種蒔きから始まって、人がお世話したことがどのように実を結ぶことに関わっているのかをご存知なのは神だけなのです。

本人がどうしてそうなるのかを知らないというのは実に不思議なことです。着実に芽を出し、実を付けているのです。お世話している人の力なのではないでしょうか。「あなたが芽を出させ、実を付けさせているのだよ」と自信を持たせたらどうでしょうか。ただ、お世話する人はそれを受け入れないでしょう。ぼんやりとではあっても、芽を出させ、実を結ばせているのは神なのだと理解しているからです。

これは、「誰に信頼を置くべきなのか」ということを教える大切なたとえなのだと思います。私たちは多くの場合、自分の手の中で物事を考えがちです。子育てをしているとき、「これだけのお世話をしたのに、どうして期待したところまで成長してくれないのだろうか」と思い悩むことがないでしょうか。

中田神父は、司祭召命について似たようなことを考えます。これだけのお世話をしたのに、どうして道を続けられなかったのだろうか、残念に思うことがあります。直接司祭召命に関わっている小神学院の担当者、大神学院の担当者たちはもっと責任を感じていることでしょう。

しかし今日のイエスのたとえは、神の国は人間の手の中でいくら考えてもその通りにはならないよ、と教えているのです。人がいくら何をしてもどうにもならないのではなく、神の国の成長を信じて、お世話をする。そうすると、人間の考えのその先で、神様が思い描いた実りが待っているということです。

あらためて、神の働きに信頼を置いて、自分にできるお世話を続けていく覚悟が求められています。他の箇所のたとえでは、ぶどう園の収穫を受け取るために、僕を送り、さらに多くの僕を送り、それでもダメで最後に自分の一人息子を送って収穫を受け取ろうとしました。中田神父は司祭召命、修道者召命のために、最後に残っているものさえも与えて収穫に手を貸しただろうか、もう一度考える必要があります。

成長させ、実を付けさせてくださる神に、全幅の信頼を置きましょう。私たちの手の中で思い描いている結果に縛られることなく、その先で神が結果を用意してくださると信頼しましょう。神に全幅の信頼を置く生き方こそが、蒔かれた種から結果を引き出す道なのですから。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
年間第12主日(マルコ4:35-41)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼釣りの動画を久しぶりにアップした。すぐに350回視聴された。ミサの動画は70回くらいが関の山。以前は200カウントくらいあったのに、めっきり減ってしまった。
▼そこでショート動画で行動に出た。"Why Japanese people enjoy my fishing movie very much, but our holy mass does not. Why? Tell me our Mary!

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第908回目。シマノのリール。価格帯40~50番目。サハラしか持っていない。

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† 神に感謝 †
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年間第10主日(マルコ3:20-35)イエスは敵対する人を縛って、私たちを自由にする

2024-06-07 | Weblog
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‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
2024/6/9(No.1300)
‥‥‥†‥‥‥‥
年間第10主日(マルコ3:20-35)
イエスは敵対する人を縛って、私たちを自由にする
‥‥‥†‥‥‥‥

痛恨のミスをしました。過ぎた金曜日は「イエスのみこころ」の祭日で、福江教会と浜脇教会両方が献げられた祝日でした。お知らせをして、一人でも多くこの日のミサに参加してもらうように、祈ってもらうように呼びかけるべきでした。主任司祭として恥ずかしいです。

ここからは毎度のことです。説教って、難しいです。どうしても分からない朗読箇所にぶつかると、「これをどう理解すれば良いのだろう」と悩んでしまいます。今週もそういう箇所がありました。3章27節です。「また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。」なぜイエス様が、このような荒っぽい例えを使うのでしょうか。

理解に苦しんでいたのは「強い人」にたとえられているのが誰かということでした。二つ考えてみました。一つは、悪霊(サタン)です。サタンはこの世では勢力があります。ですからこの世の勢力であるサタンに支配されている人々を解放するためには、サタンを縛り上げて取り返す必要があります。

もう一つ考えたのは、律法学者たちに代表される当時の宗教指導者たちです。宗教指導者たちも民衆を抑圧し、民衆を身動きのできない家財道具のようにしてしまっていました。そこでイエスは宗教指導者が手も足も出せないようにしてから、民衆を解放してくださいました。

二つ考えてみましたが、ひょっとしたら第三の「強い人」がこの世にはいるのかもしれません。誰かが、言葉や態度で他者を圧迫し、身動きが取れないようにしているとしたら、その人はサタンであり、神に敵対する勢力です。

そのような人をイエスはお許しになりません。動けないようになっている人をイエスは必ず見つけ出し、圧迫している人を縛り上げ、助け出してくださいます。「いやいや。私は誰も圧迫していない。私は神様の敵対勢力ではない。」自分ではそう思っていますが、私たちにも、第三の「強い人」の側に立つ危険はあると思っています。

家族に対して。周りの家族がいくら言い聞かせようとしても、全く耳を貸さない。反対に声を荒げて押さえつける。すると家族は「言っても無駄だ」と諦めてしまいます。家族はその人に何も言わなくなってしまいます。その原因を作ったあなたは、第三の「強い人」「神に敵対する人」になってしまっているのです。

イエス様は、この世の「強い人」「神に敵対する人」をお許しになりません。必ず縛り上げて、圧迫されている人を解放してくださいます。たとえを通して示されたことは、私たちの希望の拠り所です。

私たちはいろんな形で押さえつけようとする人に諦めてしまったり絶望したりしますが、イエスは決して圧迫する人を放置せず、縛り上げてくださる。圧迫されている人を解放してくださる。常にこの希望を保って生きていきたいものです。どんなに圧迫されていても、イエスを信じているなら、希望を取り上げられることはないのです。

イエスを信じ、イエスに希望を置くことで、「私たちはイエスから兄弟姉妹としていただいたのです」と誇りを持って言える信徒でありましょう。たとえ見た目は弱くても、イエスの力は弱さの中にこそ働きます。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
年間第11主日(マルコ4:26-34)
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‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
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▼メルマガ記念の1300号。しかし心は痛恨のミスで沈んでいる。穴があったら入りたい気分だ。もちろんそれだけではないわけだが、どうして考えが及ばなかったかと悔やまれる。
▼田平修道院でお世話になったシスターが天国に旅立った。「ふくれまんじゅう」を何度もご馳走してくれた。天国には最上の小麦と小豆があると思うので、天国でもたくさんの人に「ふくれまんじゅう」を振る舞ってくれることだろう。
▼いよいよ、梅雨がそこまで来ている。アウトドアの楽しみができないことが増えてきそうだ。そんな時は梅雨が上がってからのことを想像しながら過ごす。たとえば釣り糸の結び方をもう一度おさらいしておく。フロロカーボンのリーダーと本線のPEとの結束を練習する。非常に滑りやすい糸なので、結び目が解けて涙することのないよう、念入りに練習。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第907回目。久賀島当番のときの楽しみが一つ出来た。ここに立派な漁港がある

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† 神に感謝 †
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キリストの聖体(マルコ14:12-16,22-26)私たちの準備を用いて世界に一つだけのものを

2024-06-01 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2024/6/2(No.1299)
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キリストの聖体(マルコ14:12-16,22-26)
私たちの準備を用いて世界に一つだけのものを
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主の昇天から続く祝祭日も、今日のキリストの聖体、金曜日のイエスのみ心をもって終わります。いつものことですが、主の昇天・聖霊降臨・三位一体・キリストの聖体・イエスのみ心、この連続する祝祭日はよく覚えておきましょう。

キリストの聖体の祭日に用意された福音朗読は、最後の晩餐の場面です。イエス様は、弟子たちの準備を最大限用いて聖体の秘跡を制定する主の晩さんをおこないました。
イエス様は、世界に一つだけの食事の席を用意してくださいました。パンを用いてご自分の身体を与え、ぶどう酒を用いてご自分の血を与えてくださいます。私たちを養う食べ物、永遠に生きる食べ物となってくださいました。

イエス様の指示を受けて都に行った弟子たちは、席が整って用意のできた二階の広間に、過越の食事を用意しました。食卓のパンとぶどう酒は、おそらく弟子たちが用意したのでしょう。弟子たちが準備したものを、イエス様は確かに用いられたのです。

こう言って良いのではないでしょうか。イエス様は、私たち人間の準備を用いて世界に一つだけの食卓を用意してくださった。では私たちの時代にあって、この準備はどんなものでしょうか。単に祭壇上に整えられたパンとぶどう酒だけが、私たちの準備でしょうか。

それ以上のものだと、中田神父は考えました。祭壇上に供えられたパンとぶどう酒を支えているのは、本日お集まりの皆さんであり、皆さんの祈りと献金のおかげでしょう。今日ここに集まることのできなかった方々の祈りと犠牲も、祭壇上のパンとぶどう酒を支えています。

また、聖体の秘跡をこの祭壇上で続けていく司祭も、パンとぶどう酒がイエス様の御体と御血になるために長い時間をかけて用意されたものと言えます。さらに、司祭を助けてくれている助祭も、キリストの聖体を届けてくれるために長い間準備して用意されました。すると、ここに集められたすべてのものが、イエス様に受け入れられて、世界に一つだけの食事の席となっているわけです。

おとといの午後、教会前で草取りをしている方を見つけました。「ご苦労さまです」と声をかけました。すぐその後に石垣に張り付いた蔦(つた)を取り除いている方にも会いました。感謝の気持ちでお辞儀をして行きました。こうした方々の奉仕も、キリストの聖体の祭日を成り立たせている隠れた準備だと思っています。ありがとうございます。

教会に集い、聖体祭儀を祝うすべての準備が、イエス様に用いられて今日キリストの聖体の祭日となりました。さらに、目には見えませんが、私たちの心も、パンとぶどう酒とともにささげられ、イエス様に用いられ、キリストの聖体に変えられていきます。

感謝の気持ち、赦しを願う気持ち、平和を願い求める気持ち。私たちの心もパンとぶどう酒とともにささげられ、イエス様はそれを受け取って御聖体に変えて与え返してくださいます。悲しみが悲しみで戻って来るのではなく、悲しみも喜びも、愛の形見・御聖体として戻って来るのです。

私たちも、キリストの聖体の祭日に、受け取ったものを愛でお返しする人に変わりましょう。私たち自身が、愛の形見・キリストの聖体を受けた証しに、イエス様のなさり方を世に示していきましょう。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
年間第10主日(マルコ3:20-35)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼日焼けをする季節になった。郵便局までの往復三分でも、紫外線を浴びた、そう感じる。この前は油断して長袖と手袋の間を日焼けでやけどしてしまった。なぜそうなったか?手袋と長袖シャツのあいだの隙間。ご想像にお任せする。
▼田平教会時代、「ふくれまんじゅう」でたいへんお世話になった高齢のシスターがお亡くなりになった。シスターが作ったふくれまんじゅうを食べて、心もお腹も膨れた。教会の信徒からも慕われ、ミサに来た人と行き帰りに語らっているのをよく見かけた。永遠の安息を心からお祈り申し上げます。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第906回目。バンドの留め輪がちぎれ、マジックテープ自作。火傷が痛々しい。

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† 神に感謝 †
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三位一体の主日(マタイ28:16-20)送り出す方、送られる方、永遠に続く

2024-05-25 | Weblog
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‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
2024/5/26(No.1298)
‥‥‥†‥‥‥‥
三位一体の主日(マタイ28:16-20)
送り出す方、送られる方、永遠に続く
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フランシスコ教皇様は、今年、世界子どもの日を定め、5月25日と26日二日間にわたって子供たちとの集いを開きます。この日に合わせてメッセージも発表なさいました。年齢は離れていますが、教皇様はローマに集まった世界中の子供たちに、慈しみ深い父として接してくださり、すべての子供がイエス様に愛されていることを届けてくださいます。

本日、三位一体の主日です。叙唱に次のようにあります。「聖なる父、全能永遠の神、(中略)あなたは御ひとり子と聖霊とともに唯一の神、唯一の主です。わたしたちは父と子と聖霊の栄光を等しくたたえ、三位一体の神を信じ、礼拝します。」中田神父はこの神秘を、「唯一の神の中に御父・御子・聖霊を見る」そのように説明したいと思います。

神がお一人であることは、何人も神様がいるより、理に適っています。神様が何人もいるというのであれば、ある一つのことの神様がいて、また別のことの神様がいることになります。なぜ、両方のことをお一人の神様ができないのでしょうか。そう考えると、神がお一人であることは十分納得できます。

その上で私たちキリスト者は、唯一の神の中に、御父・御子・聖霊を見るわけです。唯一の神ですが、三つの面を持っています。例えてみましょう。井持浦にルルドの泉があります。泉の中に、湧き出させる力があり、湧き出る水があり、水が豊かであればいつまでも湧き続けます。

湧き出させる力、湧き出る水、いつまでも湧き出ること。この三つが一つになって、井持浦のルルドが成り立っています。もちろん完全な泉は存在しないので、永遠に湧き続けることはできないかもしれません。

そのように唯一の神の中に、救い主を送り出す方、救い主として送り出される方、永遠に続く救いの働きは一つなのです。誰かが別の誰かを送り出しているのではなく、唯一の神の中に、送り出す働き、送られる働き、永遠に続く働きがあるのです。御父・御子・聖霊の姿を見るとは、そういうことではないでしょうか。

十分な説明は、きっと誰にもできないと思います。不完全ですが、毎年こうして思い巡らすことは大切です。そしてもう一つ大切なことがあります。思い巡らすだけでなく、三位一体の神の働きを、私たちが見倣うことも大切なことです。私たちが、「送り出す働き、送られる働き、その働きを続けていくこと」この三つを教会生活の中に取り込むことが、頭で理解すること以上に大切なのだと思います。

私たちの教会生活に、この三つが見いだせるでしょうか。じつはミサは、この三つの働きを実現する場所なのです。「行きましょう主の平和のうちに」「神に感謝」ミサの最後は派遣です。派遣の中に、送り出す働きがあり、送られる働きがあり、その働きを続けていくこと、この三つがすべて含まれています。

私たちが三位一体の神秘を頭で理解しようとする、それ以上に体験によって実践によって、三位一体の神が私たちの救いのためにすべて必要なことをしてくださったその愛を学びたいものです。

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‥次の説教は‥‥
キリストの聖体(マルコ14:12-16,22-26)
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‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
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▼三位一体の主日は、私たち自身の多様性における一致を探る大切な機会だと考えている。主任司祭、助任司祭、預かっている助祭。この三者は多様性があるがイエス・キリストを伝えることでは一つである。
▼多様性は、表面的な一致よりも深くなる。理解しようと努めなければならないし、自分と違うことを受け入れなければならない。一人でいるときよりも、もっとイエス・キリストを伝えるために努力が必要になった。

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今週の1枚
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第905 目。青年と大司教様との集い。大司教様は62歳かな?実にタフである。

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聖霊降臨の主日(ヨハネ15:26-27;16:12-15)あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる

2024-05-18 | Weblog
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‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
2024/5/19(No.1297)
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聖霊降臨の主日(ヨハネ15:26-27;16:12-15)
あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる
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「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。」(16・12)長崎教区で聖書愛読の取り組みが始まって、もう20年くらいなるでしょうか。よく「カトリック教会の人はプロテスタント教会の人に比べて聖書を読む量が少ない」と思われています。

実際そうかもしれません。それでも、遅ればせながら聖書愛読や聖書の分かち合いが教会の中で、小共同体の中で進められた結果、聖書の物語の箇所が思い出せる人もいらっしゃるでしょう。

たとえばルカ福音書の15章は「見失った羊」のたとえ、「無くした銀貨」のたとえ、「放蕩息子」のたとえです。もう一歩踏み込んで、ルカ15章15節の「聖句」を覚えている方はおられるでしょうか。ここはカトリック教会の人々の弱い部分です。プロテスタント教会の人々は、物語の一節一節まで覚えている人が多いです。頭が上がらないです。

疑問は早めに解決しておきましょう。ルカ福音書15章「放蕩息子」のたとえ、その中の15章15節は「それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた」でした。あまり見栄えのしない箇所に見えますが、物語は弟が畑に送り込まれて豚の世話をした、そこから大きく展開していきましたから、その意味では覚えておいてよいでしょう。

ほかにも、聖書愛読などを通して覚えた聖句があるかもしれません。または、3月の黙想会で話したように、登場人物に結び付けて聖句を覚えた人もいるかもしれません。ここで一つ問題があります。学んだり覚えたりしたその聖句は、どこで使えばよいのでしょうか?

諺や、四字熟語は覚えたものをすぐに生活に活かせるかもしれません。しかし聖書の言葉、聖句は、生活にはなかなか結び付かないと思われがちです。いつ、覚えた聖句の出番はやって来るのでしょうか。

福江教会には今年助祭が派遣されています。助祭はミサがまだできないし、ゆるしの秘跡もまだできません。「仕事の場所が限られてくるなぁ」と心配していたのですが、すぐにそれを補うすばらしいものを持っていることに気付きました。それは、「聖書の言葉を思い出させ、理解させてくださる」ということです。

こんなことがありました。「わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」(使6・4)これは使徒言行録の中で、今で言う助祭を選び出したあとに使徒たちが語った言葉です。言葉自体は聖書を何度も読む中で覚えていましたが、生活の中で生きてくる場面があるなどとは夢にも思いませんでした。

助祭様が来てすぐ、ミサの打ち合わせをしました。主任司祭はこの部分をしますから、助祭はこことここを受け持ってください。そういう打ち合わせです。その中で「聖体拝領は助祭ができることなので助祭がしてください」とお願いしたのですが、「でも助祭に丸ごと聖体拝領を任せたら、偉そうに見えるかなぁ」と言いましたら、助祭様がこう答えたのです。「いえ、主任神父様は席で待っていてください。『わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします』あれです。」確かにそうだなぁと思いました。

これは、聖霊が助祭を通して語ってくれたことでした。聖霊は使徒たちの時代から変わらず私たちに注がれて、聖書の言葉を解き明かしてくれるのです。聖書の言葉が私たちの生活に染み渡ることを教えてくれるのです。生活の出来事の中に、聖書で表せる部分があるわけです。

そこで、聖霊降臨の主日にちなんでもう一箇所覚えていってください。ルカ福音書12章12節です。こう書かれています。「言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる。」すばらしいと思いませんか。聖霊降臨の主日に、最高の聖句を与えていただきました。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
三位一体の主日(マタイ28:16-20)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼聖体拝領を助祭がしている間、主任司祭はそれこそ「祈りと御言葉の奉仕に専念」しているのだが、祭壇の上のものを片付ければ時間短縮になると思うこともある。
▼ただ一方では、「いずれ司祭になって単独でミサをすれば一人でしなければならなくなるのだし、今のうちに訓練させておこう」という思いもあり、そのままにしている。
▼助祭時代の準備過程にしなければならないことのリストを受け取った。こんなに必要なのかと思ったりもする。これから助祭を預かった者として、この養成準備を見守っていく。司祭叙階まで、本人も見守る側もそれぞれ気を引き締める。

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今週の1枚
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第904回目。ルルド祭の直前、浜串教会の皆さんが私を訪ねに来てくれた。

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主の昇天(マルコ16:15-20)洗礼式は、すべての造られたものに伝えられた福音

2024-05-10 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2024/5/12(No.1296)
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主の昇天(マルコ16:15-20)
洗礼式は、すべての造られたものに伝えられた福音
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今日、浜脇教会に大きな喜びが与えられました。教会としては大きくないかも知れません。けれども神様は、浜脇教会家族にも大きな喜びを与えてくださるのです。典礼は、主の昇天を祝っています。天に昇られたイエス様は、私たちに大きな喜びを与える力を持つお方です。

復活したイエス様が、天に上げられる前に弟子たちに語ったことは、三年間一緒に暮らす中で語られたどの言葉よりも大胆なものでした。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」(16・15)福音とは、神がイエス・キリストを通して私たちのためにおこなってくださったすべてのことです。

それは、聖霊によっておとめマリアから生まれ、ことばと行いで神の国を告げ知らせ、十字架にかけられて死に、三日目に復活し、天に昇り、聖霊を送って、生者と死者を裁くために来られる。これらのことです。この福音を全世界で、すべての造られたものに宣べ伝えるのです。

ではどのようにして「全世界に」宣べ伝えるのでしょうか。すべての国の言葉で福音を知らせるとき、全世界に宣べ伝えることになります。現代ではすでに、あらゆる国のあらゆる言葉で、イエス様の救いの働きが宣べ伝えられています。私たちは私たちの言葉で、宣べ伝えます。

もう一つ、どのようにして「すべての造られたものに」福音が宣べ伝えられるのでしょうか。一つの例が、今日行われる洗礼式です。人間の命は、小さな命ですが、すべての造られたものの中で最も複雑で神秘的です。これほど複雑で神秘的な命に洗礼の恵みを注ぐことは、すべての造られたものに向けてのすばらしい福音宣教だと思います。

こうして私たちは、現代にあって、全世界に福音を宣べ伝え、すべての造られたものに福音を宣べ伝えています。いただいた恵みを大切に守っていきましょう。「守る」方法は二通りあります。誰にも見つからないように隠しておくか、恵みを育んでいくかです。洗礼の恵みを守るとはどちらを意味しますか?もちろん育んでいく方法のことです。

幼児洗礼は初めのうちは、御聖体をいただくことも、聖書の言葉を味わうこともできません。しかし聖体拝領の列に並んで、頭に司祭の手を置いてもらい、祝福をいただきます。これは立派な「恵みを育む道」です。徐々に恵みに近づき、イエス様から養ってもらう準備になります。

教会に近づいて恵みを育むことは、天に昇ったイエス様に近づいて育んでもらうことでもあります。今や「天と地の一切の権能を授かっている」(マタイ28・18)イエス様が、私たちとともに働き、宣教の使命を続けさせてくださいます。

先週浜脇教会からの帰りぎわ、洗礼を控えたご家族のお子さんが私を見て「アーメン、アーメン」と言っていました。「彼らは新しい言葉を語る。」(マルコ16・17)十分に、この子は「信じる者には次のようなしるしが伴う」(同)とのイエスの予言を実行していると思いました。

天に行かれるイエス様が、これからも聖霊を通して恵みを注ぎ続けてくださいます。その恵みを、あなたは誰にも見つからないように隠して守り続けますか、育んで守っていきますか。どんなことでも、隠し続けることはできません。個人で、家庭で、教会家族で恵みを育んで、守っていきましょう。天に昇られたイエス様もそれを望んでおられます。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
聖霊降臨の主日(ヨハネ15:26-27;16:12-15)
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‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼木曜日にカトリックのミッション校が井持浦教会とルルドに巡礼に来て、前もってお願いされていたので教会案内とルルドの説明をしようと待機していた。2班に分かれていて、昼前の班は私が説明をしたが、昼からの班は私が聖堂で待っているとガイドの人がルルドに誘導して、ガイドが説明をし始めた。「じゃあ必要ないじゃん」と思った。
▼修学旅行生は中学3年生だったが、聖堂内でよく話を聞いてくれた。感心だった。話の終わり、「5月12日にルルド祭125周年行事があります。天気を心配しています。良かったら、君たちからも行事が無事にできるように祈ってもらえないだろうか?」そう言って今回の125周年のために用意した祈りのカードを配り、祈ってもらった。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第903回目。この画像を見た人、ぜひダウンロードしてお祈りしてください。

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復活節第6主日(ヨハネ15:9-17)あなたも「互いに愛し合いなさい」に招き入れられる

2024-05-04 | Weblog
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‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
2024/5/5(No.1295)
‥‥‥†‥‥‥‥
復活節第6主日(ヨハネ15:9-17)
あなたも「互いに愛し合いなさい」に招き入れられる
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五月になりました。教会は五月を「聖母月(マリア様の月)」と呼びます。いつもより30分早くミサに来て、マリア様にささげるロザリオの祈りに参加しましょう。イエス様は「わたしの愛にとどまりなさい」(15・9)と招いています。五月はロザリオを唱えることで、マリア様を通してイエス様の愛に留まることにしましょう。

五月五日は「こどもの日」です。今日は、子供たちにも届いてほしいなぁという気持ちで話しています。与えられた福音朗読のいちばん最後をもう一度読みましょう。「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」(15・17)

これは、今日の福音のまとめだけでなくて、イエス様が私たちに求める生き方のまとめでもあると思います。ちょっと言い方を変えると、「互いに愛し合うこと」は、イエス様が私たちに求めている「必要なこと」です。

「必要なこと」と言いました。ルカ福音書の中の「マルタとマリア」の物語を思い出しました。イエス様はマルタにこう言います。「しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」(ルカ10・42)「互いに愛し合う」ことは、イエス様が私たちに求める「ただ一つの必要なこと」そう言えるかもしれません。

「ただ一つの必要なこと」が「互いに愛し合うこと」なのですが、「互いに愛し合うこと」は、そんなに簡単ではありません。学校やクラブで、仲良くできる人よりも仲良くできない人の方が多いかもしれません。仲良くできない人が多いとしたら、「互いに愛し合う」ことは非常に難しいです。それなのにイエス様は、「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」と言っています。「できればお願いします」と言っているのではありません。「命令です」と言っているのです。

イエス様は、無理と分かっているのに命令する方だと思いますか?中田神父はそうは思いません。難しい命令かもしれませんが、必ずやり遂げるための力と助けを与えてくださいます。仲良くできない人の方が多いとき、イエス様の力と助けがなければ、命令をやり遂げることはできません。どこで、その力と助けをいただけるのでしょうか。

力と助けをいただく場所、それは今参加しているミサの中なのです。ミサに参加し、聖書の言葉と御聖体でイエス様に交わり、いただいたイエス様の愛を人々に分かち合いに行く(「宣教」のことです)。今参加しているミサが、仲良くできている人ともできていない人とも互いに愛し合う力と助けをいただく場所なのです。いただいたイエス様の愛を分かち合うことで、愛し合うことができるようになります。

今日の説教は「こどもの日」を少し意識して話しました。目の前で話を聞いた子供たちは少ないかもしれません。けれどもこのミサの説教をあとで見たり聞いたりした人が、もう一度子供たちと一緒に観たり聞いたりしてくれたら嬉しいです。一人でも多くの人が、「互いに愛し合いなさい」というイエス様の声に、耳を傾けることができますように。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
主の昇天(マルコ16:15-20)
‥‥‥†‥‥‥‥


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ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼浜脇小教区から、二家族の洗礼の申込を受けている。小教区としては小さな家族だが、大きな喜びを生み出す小教区と言える。私たちは「大家族」だった時代を知っているから、どうしても小さな家族になったときに戸惑ってしまう。
▼しかし、こうして小さな教会家族に大きな喜びが与えられるのは、「教会が生きている」証拠である。どの教会にも当てはまると思うが、「大きな喜び」がそこにあるとき、その教会家族は「生きている教会」なのだ。それぞれ、「大きな喜び」を見つけてほしい。

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今週の1枚
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第902回目。子供のように受け入れなければ、天の国に入ることはできない。

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復活節第5主日(ヨハネ15:1-8)見えるしるしを通してぶどうの木イエスに繋がる

2024-04-26 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2024/4/28(No.1294)
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復活節第5主日(ヨハネ15:1-8)
見えるしるしを通してぶどうの木イエスに繋がる
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新年度から主任司祭と助任司祭と助祭の組み合わせでスタートしました。ミサの割り当てには、司祭が三人の時よりも慎重になります。福江教会、井持浦教会、浜脇教会の三小教区に、二人の司祭が偏らずに担当できているか。

助任司祭の負担が重くなってないか。助祭は単調な奉仕ばかりになっていないかなど、考えることがいっぱいあって日々綱渡りです。主任司祭は管理職なので多少のストレスは覚悟の上ですが、助任司祭や助祭にはストレスを抱えさせたくないのが本音です。

そんな中、平日に久賀修道院のミサに行ってきました。久賀修道院のミサは「修道院担当」が回ってきた司祭が当番になります。13時35分福江港出発の船に乗って、14時前に上陸して、16時にミサをして17時半に奥浦港に到着です。福江港から出発して奥浦港に戻ります。

14時に久賀島に上陸ですから、修道院の16時ミサまで2時間あります。2時間は結構な時間ですので、この時間で日曜日の説教でも考えてみようと思い、少し材料を持ち込みました。最高に静かな環境の中で日曜日の福音朗読をしっかり読み味わえるな、と思っていました。

いざ読み込もうと思ったとき、予想外のことが起こりました。司祭館周辺に人影が見えるのです。磨りガラス越しなので誰かは分かりませんでしたが、たしかに人がいます。そうこうしているうちに今度はチェーンソーの音が聞こえ始めました(音真似)。どうやら、教会と司祭館周りの木を切って、日曜日のミサの時に気持ちよく参加できるよう作業に来てくれていたのでしょう。

作業している信徒の方はご苦労さまなのですが、可哀想に主任司祭は当てにしていた静かな環境は諦めなければなりませんでした。ただ、文字にはまとまりませんでしたが、周辺で伐採作業をしている音を聞きながら、与えられた朗読箇所のうち、響いてくる箇所がありました。

「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。」(15・4)中田神父は自分への呼びかけとして受けとめたのですが、浜脇で日曜日に信徒の皆さんが気持ちよくミサに参加できるよう平日に作業に来てくれた。その信徒の方はご自身の働きを通して教会と教会におられるイエスに、繋がってくれたのです。一人の人の働きが、多くの人のミサ参加を快適なものにしてくれました。イエスに繋がって、多くの実を結んだのです。

それに比べて、司祭館にじっとして人影に気付きながら様子を見に行くこともせず、声もかけなかった主任司祭は、作業に来てくれた信徒を通してイエスに繋がる良い機会だったのに、機会を逃してしまいました。日曜日の説教を準備しようと静かな環境を当てにしました。むしろ私は、作業に来てくれた信徒にすぐに会いに行って声をかけていれば、もっと早くに説教もまとまったのだと思います。後になって気付いたことでした。

「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。」

イエスの呼びかけは、十分理解できる内容です。しかし、「実を結ぶ枝」はいきなりぶどうの幹に繋がっているわけではありません。ぶどうの幹にすでに繋がっている枝があって、その枝を通して幹に繋がっています。作業に来てくれた信徒は、教会敷地の景観を通して、ぶどうの幹であるイエスに繋がった。中田神父も、作業に来ていた信徒を通して、ぶどうの幹であるイエスに繋がることができたのです。

私たちは、ぶどうの木であるイエスに繋がることで豊かに実を結びます。実を結びますが、イエスに繋がるせっかくのチャンスを見落とす危険もあります。あなたのすぐそばにいる人が、ぶどうの木であるイエスに繋がる確かな枝かもしれません。

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‥次の説教は‥‥
復活節第6主日(ヨハネ15:9-17)
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‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
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▼天気予報を見るとき、海上の波とか、もっと言うと自分が住んでいない地域の天気とか、そういうのが気になる。五島市も狭いようで広く、島の東側と西側、北側と南側とでは天気に違いが出る。
▼五島にいて長崎の天気を気にするとか、福江にいて田平(平戸)の天気を気にするとか。済んでいる実感がないわけではないが、転勤族の宿命とでもいおうか。電話の応対で前任地の教会の名前を言うまではよくある話だが、「まだ行ったことのない教会」の名前をうっかり口にした。行ったことないし行こうと思わないのになぜその名前が出たのか。

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今週の1枚
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第901回目。写真を撮ってくれた方の腕にはいつも惚れ惚れする。人が見える。

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復活節第4主日(ヨハネ10:11-18)羊飼いイエスはすべての羊のために命を置く方

2024-04-20 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2024/4/21(No.1293)
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復活節第4主日(ヨハネ10:11-18)
羊飼いイエスはすべての羊のために命を置く方
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新しく迎えた助祭様、よくやってくれています。ミサの中で、「お互いに平和のあいさつを交わしましょう」それと「感謝の祭儀を終わります。行きましょう、主の平和のうちに」を聞くと、私にもこんな時代があったのだなぁと身が引き締まります。頑張りすぎて、疲れてしまわないか心配です。

金曜日でしたが、小学校の遠足と思われる長い行列を見ました。先生方が一定の間隔で導いていました。先頭の列は上級生なのか、ほとんど先生の手を借りずに颯爽と歩いています。後ろの方になるにつれて、小さなお友だちが、先生の手厚いサポートで遅れないように歩いていました。

しかし、一団についていけない子供たちもいました。ある子供は上級生が手を握ってくれていました。ある子供は、先生が一人つきっきりで歩き、その子を励まし続けていました。どの子供たちも、目的地まで無事に着いてくれよと、願わずにはいられませんでした。

福音朗読を読み返しましょう。イエスはご自分を「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」(10・11)また、「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」(10・14)と仰っています。

この羊は黙っていてもついてくる。この羊は時々迷うので時々声を掛ける。この羊はつきっきりでお世話をしなければ、見失い、命を落とす。どの羊のこともよく知っています。羊も、羊飼いに全面的に信頼しています。イエスと、御父からイエスに託された人々との間には、深い信頼関係があります。

羊飼いであるイエスは、羊の囲いに入っていない羊も含めて、すべての羊を導こうとします。手のかからない相手も、つきっきりでいなければならない者も、命を捨てる必要がある者も、どんな相手もかけがえがないのです。

どんな人間も、イエスにとってはかけがえがない。それは、自分の力では正しく生きることのできない人間に対する神の愛が、常に無償だからです。どんなに手のかかる人も、反対に手のかからない人も、あふれるほどの愛で愛されています。その証拠が、「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」ということです。

日本語訳の「命を捨てる」という部分は、ギリシャ語聖書にそって訳せば「命を置く」となるそうです。すると10章18節「わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる」は、「わたしは命を置くこともでき、それを再び受けることもできる」となります。命を置くことができる方は、神であるイエス・キリストお一人だけです。

良い羊飼いであるイエスは、時に、見守るだけでよい私のために命を置いてくださいます。時に、九十九匹を野原に残してでも、私のために命を置いてくださいます。ご自分の羊のためなら、どんなことでもする。それが羊飼いイエスであり、信徒・奉献生活者・聖職者の模範なのです。信頼をもって、ついていくことにしましょう。

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‥次の説教は‥‥
復活節第5主日(ヨハネ15:1-8)
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ちょっとひとやすみ
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▼昨年度は朝一番でウォーキングに出ていたが、考えるところがあり、夕食後に小一時間ウォーキングをすることにした。助任も助祭も了承してくれた。何かあったらすぐに戻って対処する。
▼ウォーキング前にお湯をためて出発。県道・国道だけでなく、「この先はどうなっているのだ?」という細道を歩くことにしている。「あー、こうなっているのか。」そういう発見を楽しみにして。

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今週の1枚
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第900回目。結婚式が行われた。もし可能なら、結婚式の様子を。

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復活節第3主日(ルカ24:35-48)イエスを真ん中に迎えるとき、平和が与えられる

2024-04-13 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2024/4/14(No.1292)
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復活節第3主日(ルカ24:35-48)
イエスを真ん中に迎えるとき、平和が与えられる
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復活節第3主日は、長崎教区の司祭が異動して、新任地で最初の主日ミサをささげる日です。中田神父も何度も経験してきました。福江小教区では洪助祭様が、初赴任の福江教会で福音朗読と説教をなさいます。前晩のミサでデビューしました。緊張したことでしょう。上手に話そうと思うのではなく、誠実に語ってくれることを期待しています。

今週の福音朗読を、説教する司祭や助祭に当てはめると、「イエスが彼らの真ん中に立ち」(24・36)という場面がどれほど大切であるかを教えてくれます。説教者によって、聞いていて飽きない説教をなさる人、7分から8分の説教が、10分にも15分にも感じる説教の人、いろいろだと思います。

その違いはどこから来るのか。私は、説教者の真ん中にイエスが立っているかどうか。そこが分かれ目だと思っています。いくら楽しい話をたくさんしても、ミサに参加している修道者・信徒の皆さんの目は節穴ではありません。「説教の中心で、イエスが語られているか」そこを見抜きます。いくら笑いの絶えない話でも、真ん中にイエス様がいない説教を聞かされれば、「早く終わってくれ」と思うに違いありません。

今週の福音で、イエスは弟子たちの真ん中に立ちました。場所としての「真ん中」という意味だけではありません。失意の中にあって、頼るもののない弟子たちの真ん中にイエスが立ってくださった。拠り所となる中心に、イエスが来てくださったのです。真ん中にイエスが来てくださるとき、私たちには平和が訪れるのです。

ただ避けて通れない事実もあります。イエスは私たちの真ん中に立ち、「手とわき腹とをお見せになった」(24・40)のです。手にはおそらく釘跡があり、わき腹には槍で刺された傷があるはずです。イエスを置いて逃げた罪、イエスが苦しみを受けても何もすることができなかった罪を、もう一度見なければなりません。人類の罪がイエス様を十字架にかけた事実と、しっかり向き合わなければならないのです。

イエスは御自分の死と復活を通して私たちを救ってくださいました。イエスは私たちにも、生活の真ん中に復活したイエスが留まることを期待しています。拠り所のない生活をしている人、社会生活の中で競争を強いられている人。どんな人でもイエスへの信仰を生活の真ん中に置くならば、復活したイエスがいつも「あなたがたに平和があるように」と力づけ、励ましてくださいます。

例えるなら、それは「芯の通っている人」です。信仰生活の真ん中に「復活したイエス」という芯の通った生き方をする人です。説教をするときに「復活したイエス」という芯の通った説教をする人です。私たちが、真ん中にイエスが立ってくださることを受け入れるなら、私たちの一つ一つの働きが復活したイエスを証しすることになります。復活したイエスへの信仰が私たちの中心にあるなら、証しの力が与えられます。「エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる」(24・47-48)のです。

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‥次の説教は‥‥
復活節第4主日(ヨハネ10:11-18)
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ちょっとひとやすみ
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▼人事異動が完了し、これから新体制。頭のリセットが必要。年齢を重ねると頭のリセットはだんだん難しくなる。経験を積むと、経験を持ち込んでしまう。新しいことへのチャレンジも、そのための頭の切り替えも難しくなる。
▼「芯の通った信仰」を説教の中で考えてみた。芯の通った考え方があれば、貫いていける。私にとって、貫いていきたいことは何か。それが、「中心にイエスへの信仰がある」と証明する行動に繋がっているか。

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今週の1枚
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第899回目。下五島にも韓国からの巡礼団が増えてきた。案内を工夫したい。

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