こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第26主日(マルコ9:38-43,45,47-48)多様性を認めて神の国が豊かになる

2024-09-28 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2024/9/29(No.1317)
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年間第26主日(マルコ9:38-43,45,47-48)
多様性を認めて神の国が豊かになる
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信徒の皆さんは、司祭の異動を通して次の経験をしたことがあるでしょう。「前の神父様はこうしていたけれども、今度の神父様は違う仕方をする。」ここで信徒の皆さんが偉いなぁと思うのは、以前のやり方と今度の神父様のやり方が違っていても、徐々に合わせてくれるという点です。

「前の神父様のやり方しか受け入れない」ではなく、「今度の神父様のやり方でも、教会を前に進めていこう」その精神が偉いなぁと思うのです。今週の福音朗読はまさにそうした体験と重なる出来事が起こっています。

「ヨハネがイエスに言った。『先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。』」(9・38)当時、教会共同体があちこちで生まれてくる中で、「自分たちと違う」「これまでと違う」そういう違和感を覚えた共同体とぶつかっています。

しかしイエスの答えは違っていました。「やめさせてはならない。(中略)わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。」(9・39-40)違いを、認め合うことで、どんな集まりでも豊かになっていくのです。それは教会共同体でも全く同じです。

皆さんがすでに体験したことを一つ、例に挙げましょう。聖書愛読運動は、長崎教区で取り組んで22年になりますが、どの書物を、どのように読むのか、二年前と去年からの取り組みとは全く違うでしょう。「前までの取り組みと違うのでやめさせようとしました」と考えますか?決してそうは思わないでしょう。

むしろ、「こんな聖書愛読の仕方もあるんだなぁ」と、豊かさを味わうまたとない機会になっていると思います。主任司祭は小教区を三つ回っていますが、それぞれ、どの書物を読むか、どのように取り組むか、違いがあります。それは混乱をもたらすものではなく、確かに豊かさをもたらし、聖書に親しみを持つ機会となっているのです。

違いがあるところでは、時に摩擦を生むかも知れません。お互いに、「自分たちのやり方が絶対良い」とさえ言い出す人が現れるかも知れません。けれども、違うということに、少し窓を開いてもらえないでしょうか。自分と違う人に少し心を開くと、「どうすればお互いの良いところを活かせるか」考えるようになるでしょう。それは豊かさを生む鍵だと思うのです。

こちらに住んで、景色はさほど特別とは感じませんが、石垣は立派だなぁと感じることがあります。武家屋敷通りとか、立派ですよね。石垣を積み上げている石は、もちろん一つずつ、少しずつ違いがあります。違いを見極めながら、かつて職人たちが石を積み、立派な石垣に仕上げたのです。人工の石垣にはない美しさと強さが、それぞれ違う石を積み上げた石垣の素晴らしさです。

教会に集まる皆さんも、一人一人、違っています。もし違いを認めないなら、偏った教会家族になり、もろさを晒してしまうでしょう。違いを認め、活かし合うのは難しいことですが、最後に一つの家族にしてくださるのはイエスです。「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」と仰ったイエスが、今日も、この教会を豊かにしてくれます。

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‥次の説教は‥‥
年間第27主日(マルコ10:2-6)
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ちょっとひとやすみ
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▼一つずつ覚えていく。一度に一つしか覚えられない。場合によっては一つ覚える間に一つ抜けたり忘れたりする。それは同時に迷惑をかける原因となる。「あれもこれも、同時にしてほしい。」悲しいけれども、今の自分には一度に二つも三つも期待されるのは荷が重すぎる。
▼神様の愛、あふれ出る愛を、私たちは受けて満たされ、養われていく。しかし私たちの器はそれぞれ違う。あふれ出る神様の愛を、うまく受けとめる形になっていないかもしれない。教会共同体に、器の形、器の大きさが違う人たちが集まれば、神様の愛をその教会家族は豊かに受けることができる。
▼教会には多様な「味方」が必要なのだから、多様な人に集まってもらうために多様な「見方」も必要だ。紋切り型の物の「見方」では、多種多様な「味方」を集められないのではないか。

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今週の1枚
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第924回目。すべての命を守るための月間中、海岸清掃。どこかでしたような?

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† 神に感謝 †
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年間第25主日(マルコ9:30-37)全面的にイエスを受け入れますか、一部分ですか

2024-09-20 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2024/9/22(No.1316)
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年間第25主日(マルコ9:30-37)
全面的にイエスを受け入れますか、一部分ですか
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「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」(9・37)イエス様に示された子供は、名前も分からないし、どんな性格なのかも描かれていません。「このような子供の一人を受け入れる」と言われて、人によっては「どのような子供ですか?」と問い返したくなります。どのように理解すれば良いのでしょうか。

一般的な特徴を考えてみましょう。子供は、大きな力を持っていません。重たい物も持てないでしょうし、高い場所にある物も取ることができません。大きなお金を動かすこともないし、たくさんの人を動かすこともないでしょう。人々の中で低く見られることが多く、助けが必要な小さな存在です。

子供の、そうした特徴が当てはまる人物がいます。それはイエス・キリストです。イエスはすべての人の中で最も低い者となり、最も小さな者となられました。「このような子供の一人を受け入れる」とは、イエスのように私たちが低く見られる時、小さな者と見られる時、自分自身を受け入れる必要があります。低く見られた自分を受け入れるとき、それはイエスを受け入れることになるのです。

私たちは、いつでもふさわしい評価を当てにしています。本来よりも低く見られることには耐えられません。本来より低く見られることを「子供扱いされた」と言うことがあります。子供に失礼かも知れませんが、私たちは子供扱いされることに耐えられないのです。

しかしイエスは、最期の場面で誰よりも低く扱われました。そしてそれを甘んじて受け入れたのです。鞭で打たれ、茨の冠を被せられ、つばをかけられ、ののしられ、最も罪の重い人間と同じく十字架に磔にされました。

私たちは、たとえ「子供扱い」されたとしても、イエスの最期ほどの屈辱は味わわないでしょう。そうであるなら、受けた仕打ちを、子供扱いされたことを、受け入れてほしいのです。自分自身の中にある「子供扱いされたくない」という頑なな思いを捨てて、これも「このような子供の一人を受け入れることだ」と受けとめてほしいのです。

自分が歩んできたキャリアとかけ離れた仕事に回される人がいるかもしれません。これまでの働きが評価されず、立ち位置を一段階落とされる人がいるかもしれません。私のことを全く分かっていないと、怒りを覚えるかも知れません。

しかし、どれだけ子供扱いされようとも、評価を落とされようとも、神は私のことをよくご存知です。神は誰よりも私を正しく評価してくださる方です。イエスはすべてをご存知の父なる神に、十字架上で「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」(ルカ23・46)と仰せになりました。

幼きイエスの聖テレジアをご存知でしょうか?カルメル会に16歳で入会し、わずか8年の奉献生活で亡くなりました。もともと健康に恵まれていなかったので、修道院内では日記を付けることと、高齢の修道女の身の回りの世話、そうしたことを長上に命じられ、果たしていました。

しかし彼女が亡くなってから日記が公にされると、たぐいまれな聖なる生活を過ごしていたことが明らかになりました。そのため、教会は彼女を聖なる人、「聖人」と認定しました。

彼女の内面を満たしていた聖なる生活がもっと早くに知られていれば、たとえ病弱であっても、もっと崇高な仕事を長上から与えられても不思議ではありませんでした。しかし生前に、テレジアの聖性を見抜いた姉妹は誰一人いなかったのです。誰一人、気づかなかったのです。

幼きイエスのテレジアは、すべての人の中で最も低く、最も小さな者となり、同じ姿を取られたイエスを受け入れました。私たちも、置かれた場所でイエスを受け入れなければなりません。それも、最も低く、最も小さな者となられたイエスを受け入れます。それは全面的にイエスを受け入れますか、一部分ですかという大きな問いかけになります。

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‥次の説教は‥‥
年間第26主日(マルコ9:38-43,45,47-48)
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ちょっとひとやすみ
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▼下五島地区は今年秋の行事が多い。10月6日地区交流スポーツ大会。10月14日貝津教会献堂百周年。10月20日牢屋の窄殉教祭。10月27日井持浦教会出身司祭の叙階25周年(銀祝)。11月3日教区民を追悼するミサ。かなり詰まっている。
▼その割にはあまり慌てていない。小教区の典礼委員会が金曜日に開催されたが、いくつかの行事に小教区がどのように関わるのか質問されて返答できなかった。そこまでの話し合いが出来ていないので返事のしようも無かったのだが、自分で情けなかった。

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今週の1枚
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第923回目。「逆噴射」とすら言えるカープの失速。9月20日で3勝14敗。終了。

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† 神に感謝 †
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年間第24主日(マルコ8:27-35)ためらわずに信仰を表しつつイエスへの心は柔軟に

2024-09-13 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2024/9/15(No.1315)
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年間第24主日(マルコ8:27-35)
ためらわずに信仰を表しつつイエスへの心は柔軟に
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言いにくいことを誰かが言ってあげる。そういう時があります。その場合、誰が言うのかですが、その場を代表する人が発言することになるでしょう。その中には、「年長者」という人々もいると思います。

中田神父は、下五島地区では二つの立場でその場を代表する人です。「年長者」と「地区長」です。たまたま年齢的にも、下五島地区で私がいちばん年上の司祭です。そして地区長です。何か発言を求められると、私に回ってくることがあります。

「年長者」という意味では、敬老者のお祝いを受ける対象の方は、本日のミサを代表する人かも知れません。信仰の点で年長者の方に「何か意見をください」とお願いされたとき、それは機会を与えられたのだと思って引き受けてくれたらありがたいです。

今日、福音朗読でペトロが信仰を表す場面が朗読されました。ペトロはおそらく、弟子たちの中で年長者だったと思います。弟子たちはイエス様から「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(8・29)と問われたとき、何かの考えを持っていたでしょう。しかし、自分の考えが本当に十分な答えかどうか、自信が無かったのでしょう。

そこへ、ペトロが進んで返事をしました。ペトロは、自分は年長者だから、「言わないで済むなら黙っていよう」そういう考えではいけないと考えたと思います。自分が、弟子たちを代表して答える必要がある。そういう気持ちがあったのだと思います。

年長者が、「ここは私が」と考える理由は何でしょうか。自分の意見は長年の経験から来ているから立派な受け答えができると考えるからでしょうか。そうではなく、私の想像ですが、何かをためらうような年齢でなくなったからではないでしょうか。それぞれの立場で、もう折り返しを過ぎているから、自分の言葉に責任を持つのもそう長くはない。だから「ここは私が答えよう」と考えるのではないでしょうか。

「これを言ったら、この後の長い人生に重荷になるのではなかろうか。」そういう、余計な考えにとらわれないで、言うべきことが言えるのは年長者のすばらしい点です。ミサに参加している方々でためらわない年齢になった皆さん、ぜひこれからも教会のために、言っておきたいことは聞かせてほしいと思います。もし、「こういう形でお伝えしたい」ということがあれば、それも教えてほしいと思います。

ただし、一つだけ忘れてはいけないことがあります。「一寸先は闇」という諺を知っている、理解している皆さんだからこそですが、イエス様はその「一寸先」を歩いておられる方、知っておられる方です。イエスが打ち明けること、教えることは、私たちが決して理解できない「一寸先のこと」だと受けとめましょう。ですからイエスはいつも、正しい答えを持っておられ、私たちに正しい道を示してくださるのです。

私たちは「一寸先」が分からないにもかかわらず、イエスが示される道に不平不満をぶつけてしまいます。「なぜこういう結論になるのですか?納得できません。」ペトロも、イエス様の死と復活の予告に同意できませんでした。

そこでお願いです。頑なになりがちな私の頭と心を、敬老の日を迎えるこの時期、イエス様に柔軟にしていただきましょう。私の頭と心は年々頑なになっていきます。「一寸先」「五分先」すら読めなくなってきました。そんな中、イエス様はつねに私たちの一歩先、半歩先を歩いておられる。そのことを信じて、自分を委ねていきたいと思います。

もはや、何かを言うのにためらうような年齢ではない方々。言いたいことをはっきり述べて、同時にイエスの前では柔軟な人となりましょう。その姿を毎年見せてくださることが、敬老者の皆さんの毎年の目標だと思います。

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‥次の説教は‥‥
年間第25主日(マルコ9:30-37)
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‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
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▼かつて福江教会の主任も務めたことのある大先輩が、私の少し上の先輩に、司祭は明日亡くなっても悔いの無いよう、今日を全力でささげるべきだと話したという。鯛ノ浦教会に赴任してきた助任司祭の一人も、一日を全力で働いて夕日を眺めながら司祭館に戻るときに「今日このまま終わっても悔いは無い」と思ったそうだ。
▼中田神父にはそれだけの覚悟はない。長く生きるためには、「逃げるのは恥だが役に立つ」というドラマのように、逃げることも選ぶかもしれない。もちろん20代30代の時からそのような考えだったわけではないが、いくつもの教会に置いてもらっているうちに、「今日で終わりでも構わない」と思えなくなった。
▼今から夢を描くと笑われそうだが、引退してすぐ病院生活とか自活できない状態ではなく、赦しの秘跡や病人訪問、時には司祭館での留守番をお願いされたら喜んで手伝い、それ以外は広島カープの試合観戦と釣りに出る。そういう生活をさせてもらいたいものだ。

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今週の1枚
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第922回目。マツダスタジアム。いつかこの球場に年間シートを確保したい。
(掲載写真は、許可を得たサイトの無料写真を使用しています)

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年間第23主日(マルコ7:31-37)今も、命をもたらす声が聞こえない人がいる

2024-09-07 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2024/9/8(No.1314)
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年間第23主日(マルコ7:31-37)
今も、命をもたらす声が聞こえない人がいる
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先週、中学二年生「堅信クラス」の親子に、「堅信を受ける中学生と保護者の心構え」についての話を、クラス担当の洪助祭にお願いされて話しました。基本的なことを話したわけですが、久しぶりに勢いのある中学生と向き合う機会になりました。

話の内容は「こうじ神父」というYouTubeチャンネルを見てくれるとありがたいですが、こんなオジサンの話をまともに聞くだろうかと半信半疑でしたが、意外と真剣に話を聞いてくれていたと思います。

反抗心も対抗心も、すべてを含め、中学生からの真剣なまなざしを感じて、柄にもなく途中からは力を込めて話していました。私を「道具」に、イエス様が中学生に向けて「エッファタ」「開け」と呼びかけていたのだろうと思います。

イエス様が「エッファタ」「開け」とおっしゃるとき、それはどこに向かって開けと命じているのでしょうか。身の回りの音に向けて開けと言っているのでしょうか?たとえば、自分の家でくつろいでいるとき、さまざまな音がそこにあると思います。

テレビの放送の音。テレビで放送されていない情報を得るためにラジオを流していることもあるでしょう。親子でリビングにいれば、子どもたちは自分だけが見たいものを見ようとしてYouTubeに耳を傾けているかも知れません。たくさんの音が、同時に聞こえている。家族でない人がそこに居たら、どの音に耳を傾けたら良いのか分からないくらいです。

情報は溢れかえっています。どの情報も、それなりに有益です。ただほとんどの情報が、聞かなかったとしても命に関わる問題ではないはずです。それに比べて、イエスが「エッファタ」「開け」と言って届けようとする声は、命に関わる大切な声なのです。

命に関わるもの。イエスは私たちに、「エッファタ」「開け」と叫んで、「命を得るために、わたしに耳を傾けなさい」と招きます。イエスが向けようとして開くのは、イエスの声、イエスの招きです。その招きに耳を傾けることが、私たちに求められているのです。

日々の生活で、イエスの招きに耳を傾けるためには、溢れかえっている音を遮断しなければならないこともあります。たくさんの音が溢れている部屋で電話を取ったなら、たいていの人はテレビの音を消したり、会話を控えたりして電話に集中するはずです。

皆さんの家庭で、イエスが「エッファタ」「開け」と招く声を聞くために、どれだけの音を遮断してくれているでしょうか。物理的にだけでなく、心の中で遮断して、イエスの招きがより良く聞こえるような努力をしたことがあるでしょうか。

イエス様が、「エッファタ」「開け」とおっしゃれば、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになります。「神様の声なんか聞こえない」と決めてかかっている人がいるなら、いちど周りの音を全部遮断してみてください。全部の音を遮ったとき、ただ一つの声「エッファタ」「開け」というイエスの声に触れるのです。

そしてイエスは心に届いた声を、誰かに届けてほしいと願っています。それは聞こえない声が聞こえたという怪しい魔術ではなく、本当に必要な声を聞いたという体験です。聞き逃しても命に関わるほどではない情報ではなく、命を養うまことの食べ物、飲み物を与えてくださる声です。私たちは今日、ミサに集まってこの声を聞いたのです。

今の時代にも、イエス様の働きは続いています。イエス様は私たちを使って、命をもたらす声が聞こえず、その声の主について語ったことのない人をいやそうとしておられるのです。私たちが良い道具となって、だれかに「エッファタ」「開け」と働きかけるとき、イエス様の働きはいつの時代にも実を結ぶのです。

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‥次の説教は‥‥
年間第24主日(マルコ8:27-35)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
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▼9月6日時点でカープ四連敗。大ブレーキとなっている。試合の中で数少ないチャンスを得点に繋げたか、得点に至らなかったか、その差だけだと思う。投手も精一杯やっているし、攻撃もあと少しの所まで押している。
▼9月5日対横浜戦の押し出しサヨナラ負けなど、圧倒的なアウェーの雰囲気の中でのことだから誰も責められない。今はホーム球場での試合だから、ファンの力でチームを勝たせなければ。やはり10日からの対巨人戦が、天王山になりそうだ。

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今週の1枚
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第921回目。堅信組に、堅信の日を覚えるために記念日にしてミサに来なさいと
言った。中田神父は1978年11月19日に小神学校で受けた。

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年間第22主日(マルコ7:1-8,14-15,21-23)イエスは私の心に飛び込んできて照らしを与える

2024-08-31 | Weblog
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‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
2024/9/1(No.1313)
‥‥‥†‥‥‥‥
年間第22主日(マルコ7:1-8,14-15,21-23)
イエスは私の心に飛び込んできて照らしを与える
‥‥‥†‥‥‥‥

8月31日は、フランシスコ・ザビエル島本要大司教様の命日でした。中田神父は助祭叙階・司祭叙階ともに島本大司教様によって秘跡の恵みを授けていただきました。今でも思い出しますが、司祭叙階の場面でリハーサルに無いことが起こりました。

前日に、私を含め司祭叙階候補者の三人は入念なリハーサルを受けていました。もしも当日、リハーサルと寸分違わず叙階式が行われていたなら、のちに記憶は「リハーサルの通りだった」と置き換えられていたかも知れません。実際はそうはなりませんでした。

大司教様が次のように問いかけました。「わたしとわたしの後継者に、尊敬と従順を約束しますか。」もちろん私たちは、リハーサルの通り「約束いたします」と答えるわけです。すると島本大司教様は私たちだけに聞こえる声で「そうか。ありがとう」と言ってくださったのです。大司教様の前でずっと緊張していた私たちに、大司教様自らが飛び込んできてくれたような瞬間でした。

人の心に入っていくというのは、決して簡単なことではありません。初対面の人と話しをしている時や、初対面の電話など、私たちは相手の人の本心を探ろうとしていることがあります。様子を伺っているので、心を開くことができないわけです。それは社会の中だけでなく、教会の中でもそうでしょう。

そこで、もっとお互いを理解するためには、どちらかが相手の心に飛び込む必要があるわけです。島本大司教様は叙階の秘跡を受けようとしている私たち三人に、私たちから飛び込むことは難しいので、ご自身のほうから飛び込んできてくださいました。

どんな人に対してであっても、自分の方から相手の心に飛び込むほうが、より早く理解し合えると思います。ただその方法は相手によってさまざまかも知れません。固く心を閉ざしている人、耳を傾けようとしない人に対しては、時には相手の心の扉を打ち壊して飛び込まなければならない場合もあるでしょう。

それが、今週の朗読のファリサイ派の人々と律法学者たちでした。彼らは自分たちのしていることが正しいと信じ切って、心の扉を閉ざしていました。昔の人の言い伝えを固く守る。ほかの道で正しい生き方を示そうとする人が現れても、決して心を開こうとしなかったのです。

こうなると、イエスが正しい道についてまことの光で照らそうとしても、彼らの心に光は届きません。そこでイエスは、少々乱暴な手段ですが、彼ら宗教指導者たちの心の扉を打ち壊して、心を照らす光を届けようとしたのでした。

宗教指導者たちを納得させるためには単なる言葉ではなく、彼らが拠り所としている律法と預言者の言葉が必要だったので、イザヤの預言(29・13)を引用して、心の扉を壊しました。ただし、イエスが心に飛び込んできてくれたことを歓迎できるかどうかは別の問題です。

ときおり、特別な才能の持ち主と出会うことがあります。心の扉を閉じている時に、まるで扉が存在しないかのように飛び込んでくる人です。自分では閉ざした心を開けずにいる。それを通り抜けてきた。その人は、イエスが私に遣わしてくれた人かも知れません。

「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである」(7・15)とイエスは仰います。イエスはいつか、そのような人と出会わせてくださって、その人の向こうにおられるイエスにつねに心を開いておくように招いているのです。イエスにつねに心の扉を開いている人は幸いです。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
年間第23主日(マルコ7:31-37)
‥‥‥†‥‥‥‥


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ちょっとひとやすみ
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▼台風10号は広い範囲に影響を与えている。九州では鹿児島・宮崎で被害があった模様。土曜日の進路も、太平洋に抜けるかと思ったが迷走して日本海に向きを変えようとしている。8月で10号。15号まで発生すると考えると、9月も台風に用心が必要だ。
▼1日が日曜日の9月が始まった。8日・15日・22日・29日まで日曜日が来る。第5日曜日はめったに来ないので、福江の司祭たちの当番表と、当番に合わせて奉仕してくれるシスターたちも勤務の提出とにらめっこで神経をつかう。どこかで心も身体もリフレッシュが必要だ。

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今週の1枚
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第920回目。二次離島久賀島に渡るフェリーのドック入り。移動に少し影響が。

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年間第21主日(ヨハネ6:60-69)信仰に上限を付けると「ひどい話」に聞こえる

2024-08-24 | Weblog
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‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
2024/8/25(No.1312)
‥‥‥†‥‥‥‥
年間第21主日(ヨハネ6:60-69)
信仰に上限を付けると「ひどい話」に聞こえる
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「種を蒔く人」のたとえをご存知でしょう。ルカの8章にありますが、たとえを説明するくだりの13節に「石地のものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人たちのことである」とあります。

試練は、私たちの信仰がどこまで成長しているのかを確かめる機会となります。イエスを信じる信仰は、中田神父の考えでは「どこまでもイエスのことばと行いに従うこと」だと理解していますが、信仰がそこまで成長していない人の場合、「これ以上は信じられない、これ以上はついていけない」と、見切りを付けてしまいます。

イエスに従い始めた人々の中には、そうやってイエスに見切りを付け、離れていく人々が現れ始めていました。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」(6・60)離れていく弟子たちとは、イエスのことばに自分たちの方から見切りを付けた人たちです。本当はイエスの進む道に最後まで従うことが正しいのに、正しさを貫くことが出来ませんでした。

試練は、現代の教会でも当然起こります。教会活動を続けていくために、礼拝のための聖堂は欠かせませんが、建物ですから年数が経つと当然手を入れる必要があります。更に年数が経てば、建て替えの必要も出てくるでしょう。

しかし、耐震補強や教会建設で積み立てが必要になると、なぜか一定数の人々は背を向けてしまいます。あからさまに転出する人々も出てきます。残念なことですが、自分たちで自分たちの教会を続けていくために協力しあいましょうと呼びかけると、身を引いてしまう人々がいるのです。ただ不思議と、補強工事や教会建設が終わると戻ってきます。

その教会にとどまって耐震補強や教会建設に協力してくれる人々は、それが「必要だと信じ、必要だと知っている」人々です。イエスがパンを取り、割いて弟子たちにお与えになった。杯も同じようにして分けてくださった。そのために今の建物に手を加えたり、新しく建て直したりすることを「必要だと信じ、必要だと知っている」これは、現代にあって最後までイエスへの信仰に従う中での試練だと思います。

イエスへの信仰は、試練によって鍛えられます。ペトロの手紙に次のように書かれています。「あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。」(一ペトロ1・7)

イエスに最後まで従っていく弟子たちの言葉にもう一度耳を傾けましょう。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」(6・68-69)

今では懐かしさすら覚えますが、私たちの信仰もこうでありたいものです。イエスへの信仰は、「ここまでは信じるけれどもこれ以上は信じることができない」というものではなく、試練の中で「信じます」と繰り返すことで磨かれていくのです。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
年間第22主日(マルコ7:1-8,14-15,21-23)
‥‥‥†‥‥‥‥


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ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼"Switch Bot(スイッチボット)"という家電を便利にする道具がある。簡単に言えば、離れていても「スイッチ」を押せる道具で重宝するのだが、例えば「部屋の電気」を考えると、一度に押せるのは通常「ONかOFF」どちらかのスイッチしかない。
▼離れたところから電気のスイッチを押せるようになったとしても、「消すことができるようになったが、つけることができない」ということになる。もちろん、スイッチそのものを付け替えると、同じ場所を押してつけたり消したりできるので、"Switch Bot(スイッチボット)"の恩恵を存分に受けられる。
▼ただし、器具を取り替えるには電気工事士の免許を持った人が必要になる。あ~。前任地だったら「ちょっと来て~」で取り替えてくれる人がいたのだが、ここでは「ちょっと来て」と気安く呼べる人はまだ見つかっていない。そもそも、布団に潜ったまま勉強部屋の電気をつけられるようになったら、ミサに寝坊するではないか。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第919回目。福江教会聖母祭(夏祭り)恒例の無茶振り。お手本など完全無視。

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† 神に感謝 †
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年間第20主日(ヨハネ6:51-58)私たちは生涯かけて命のパンを消化していく

2024-08-17 | Weblog
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‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
2024/8/18(No.1311)
‥‥‥†‥‥‥‥
年間第20主日(ヨハネ6:51-58)
私たちは生涯かけて命のパンを消化していく
‥‥‥†‥‥‥‥

昔の先輩司祭は、結論だけを若い司祭に伝える方々が多かったと思います。中田神父がお仕えした主任司祭は、「これから25年は働いてもらわないと、元は取れない。しっかり働いてくれ」と念押しされました。ほかにも、じわじわ効いてくる教えをいくつも受けました。

25年と一口に言っても、紆余曲折有るわけです。「こんなこと、あんなこともあるよ」といった途中のことはお話しなさらず、25年黙って働いてくれ、言いたいことはその後で言ってくれという教育でした。その主任神父様は、私が銀祝を迎える頃には病状が進み、「25年働きました。元を取りましたよ」という話をすることは叶いませんでした。

考えてみると、イエス様のことばも、ズバッと結論だけを言っているのかも知れません。「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。」(6・51)だからユダヤ人は「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めたのでした。

ユダヤ人は、すぐに理解できる説明を求めました。しかし、イエスが全生涯をもって示そうとすることを、目先の説明で理解しようとするのは無理があります。イエスが「天から降って来た生きたパン」であることを、全生涯をもって証明しようとしている。そうであれば、今は理解できなくても、イエスに耳を傾け、イエスに従って歩み続ける必要があります。ユダヤ人はその覚悟を受け入れず、拒否しました。

結婚生活には銀婚式があり、奉献生活には銀祝があります。司祭も銀祝があります。それまでの間に起こることをすべて説明してもらったとして、では25年の年月は必要ないと果たして言えるでしょうか。

「わたしは、天から降って来た生きたパンである」とイエスが仰ったことを短時間で効率よく説明してもらったとしても、それで私には長い信仰生活は必要なくなる、イエスを信じるのに長い年月など必要ないと、果たして言えるでしょうか?

無知な発言をした当時の私に、最初の主任神父様が言い残してくださった戒めを、私は決して忘れません。「お前なぁ。60(歳)にならんと言えんこともあるとぞ。」新米司祭でも、言いたいことがあればどんな発言も可能でしょう。しかし、長い年月が与えてくれた言葉は、年月によって重みが与えられ、その年齢にならないと意味を持たないのです。

イエスは、今も私たちを招いています。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。」(6・56)命のパンを受ける私たちの内に、いつも主イエスがいてくださいますように。毎週の福音朗読を読み込んで準備した説教の中に、主イエスがいてくださいますように。私たちの言葉や行いは拙くとも、その中に主イエスがいてくださるなら、私たちの言葉や行いは決して無駄ではないのです。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
年間第21主日(ヨハネ6:60-69)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼最近思い出してYouTubeでチェックしている動画がある。お笑い芸人「ですよ。」の動画。お笑い芸人は「一発屋」が多いと言われ、消えていくことが多いわけだが、今も現役で、言ってみればたった一つの「当たりネタ」を全力で続けている。
▼最近見た動画では、千原ジュニアさんがインタビュー形式で「ですよ。」の深掘りをしていたのが印象に残った。一発屋と言われようが、一つの当たりネタを今も全力で続けている「動機」「モチベーション」を知り、一つのことを続けていくすごみを少し理解できた気がした。
▼司祭も、「イエスキリストに倣う生き方」しか知らないし、それしかできない。知的・身体的衰えが急速に追い付き追い越そうとしているが、生涯一つのことを積み重ねていく。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第918回目。あまりの暑さに日傘を買った。日傘男子で「あいとぅいまてん」。

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聖母の被昇天(ルカ1:39-56) 神が示されたすべてを受け取ったマリアは天に上げられた

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‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
2024/8/15(No.1310)
‥‥‥†‥‥‥‥
聖母の被昇天(ルカ1:39-56)
神が示されたすべてを受け取ったマリアは天に上げられた
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年間第19主日で、命のパンを受け取る手の形は、手のひらを上にして、授けてもらう・頂くという手の形でないと受け取れませんよ、と話しました。私は聖母被昇天の今日、マリアが神を賛美した言葉の中にもそのことを見つけました。

朗読でマリアは神をたたえて、「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。」(1・51-53)と言いました。

神が力を振るうとき、きっとそれは手の甲を上にして力を振るうでしょう。思い上がる者を打ち散らす、権力ある者を引き降ろす、富める者を空腹のまま追い返す、こうした力を振るうときにも、手の甲を上にしてなさるのだと思います。

一方で、身分の低い者を高く上げる、飢えた人を良い物で満たす、こうした働きのために神は手のひらを上にして人々に近づいてくださるのです。先週のミサで説教をしたとき、すでに聖母被昇天の朗読箇所との繋がりを考えていたわけではないのですが、びっくりするほどうまく結び付きました。神様のなさることは、「時」に叶っていると思います。

賛美の歌を唱えたマリアは、小さくされた人の代表です。何よりご自身が、神に対して手のひらを上にして、差し出されたものを受け取る生涯を貫きました。幼子イエスを神殿に奉献したとき、幼子を抱く手のひらは上を向いていたはずです。

シメオンの預言には、目を背けたくなるような未来も含まれていました。「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」(ルカ2・35)それでも、マリア様の手は、示されたものをそのまま受け取る手の形を変えなかったのです。

また少年イエスと共に神殿礼拝に出かけ、わが子を見失って心配したときも、すべての出来事を心に納め、思い巡らしました。心に納めるための手の形も、きっと手のひらを上にしていたでしょう。それは、シメオンの預言が実現し、十字架の上でイエスがお亡くなりになったときも、変わらぬ姿でした。

マリア様は生涯を、神が示されたものをすべて受けとめる、手のひらを上にして頂く、その生涯を貫かれました。神が示されたものをすべて受け取る生き方を貫いたマリア様を、その体も魂も、天の栄光にあげてくださることは、ふさわしいことだと思います。

天に上げられたマリアは、「わたしの生き方に倣いなさい」と、私たちを手を開いて招いています。私たちは子供のようになって、マリアを慕ってここに集まっています。その手のひらはきっと、天に向けて開かれた手のはずです。

出来れば今日一日は、マリアの生涯を賛美するために、マリアの生き方を最高の栄誉で満たしてくださった神様を賛美するために、手を開いて、手を天に向けて差し出して、過ごしたいものです。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
年間第20主日(ヨハネ6:51-58)
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ちょっとひとやすみ
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▼いわゆる「お盆」の帰省客で下五島(五島市)もごった返している。上五島の実家には、妹夫婦と甥っ子が帰省して、実家の母を楽しませてくれた。海水浴に来た様子を妹が送ってくれたが、一年でびっくりするほど背が高くなり、幼い少年ではなく青少年といった雰囲気になっていた。日程が合わず、上五島に行けなかったのが残念。
▼8月15日聖母被昇天の日に、数多くのミサ依頼を受けている。「聖母の被昇天にあたり、・・・」というミサの依頼も小教区会計さんから用意してもらったが、そうではなく先祖のためのミサである。
▼「お盆」という感覚は、信仰とは別に日本人の中にはあると思うし、それをとやかく言う必要は無い。8月15日、聖母被昇天の祭日にミサをしてもらって、そのあと墓参りに行く。日本のカトリック信者にとってごく自然な振る舞いである。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
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第917回目。餡入りふくれ饅頭。甘い物が無かった頃、聖母被昇天の日定番。

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年間第19主日(ヨハネ6:41-51)あなたの手は命のパンを受け取る形になっているか

2024-08-09 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2024/8/11(No.1309)
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年間第19主日(ヨハネ6:41-51)
あなたの手は命のパンを受け取る形になっているか
‥‥‥†‥‥‥‥

8月、危険な暑さが続いています。下五島の教会は、エアコンの付いている教会とそうでない教会とあります。それぞれ事情があってのことでしょうが、身を守るために主任司祭のいる教会はエアコンを設置してくれたらと願います。

何かを手にする時、先を争って手にしようとする場合と、順番にいただいたりする場合とでは、手の出し方が違うと思います。先を争って手を出す時は、手の甲を上にして、上から掴もうとするはずです。順番に並んでいてももらえないかもしれない場合は、それも仕方の無いことかも知れません。

一方、順番に何かを手にする時、それは配られたもの、並んでさえいれば受け取れるものでしょうから、手の甲は下に、手のひらを上にして受け取るはずです。手の甲を上にするか、手のひらを上にするか。あらためて考えてみると面白いと思いませんか?

ここで尋ねたいことがあります。今あなたが手にしようとしているものは、手の甲を上にして掴みと取ろうとするものですか、手のひらを上にして、大切にいただこうとするものですか、どちらですか?ということです。

今週の福音朗読で、イエスははっきりと「わたしは命のパンである」(6・48)とおっしゃいました。ここで先ほど考えたことを当てはめてみましょう。命のパンであるイエス様を手に入れるのに、あなたは先を争うように手の甲を上にして手を伸ばし、掴み取ろうとするのでしょうか。それとも手のひらを上にして、与えられるその時を待っていただくのでしょうか。どちらでしょうか。

これはまさに私たちが聖体拝領をするときの動作です。司祭が「キリストのおんからだ」と言って聖体を授けます。私たちはどのように手を準備するのでしょうか。先を争って掴み取る手の出し方ですか?そうではないでしょう。もし手の甲を上にして掴み取ろうとするなら、中田神父はその人がカトリックの洗礼を受けた聖体拝領の準備のできている人かを不安に思うかも知れません。

興味深いと思いませんか?聖体を頂くみなさんの手の形が、私たちに命のパンであるイエス様との向き合い方を教えてくれているのです。私たちが命のパンにあずかるためには、順番を待つ人のように、心を整えておく必要があるのです。もっと言うと、命のパンが手のひらに授けられるその時をじっと待つ。そんな心構えが必要なのだと思います。

残念ながら、福音朗読に登場する群衆は、手を伸ばし、手の甲を上にして、先を争って掴み取ろうとする人たちになっていました。手の甲を上にして争って集まる人たちからは、命のパンであるイエスはこぼれ落ちていくのです。

神の恵みを待ち望む時。祈りに答えてくれる神に信頼して顔を上げる時。照らしを求めている時。苦しみの意味を教えてくださいと願っている時。あらゆる時に私たちは手のひらを上にして、手の甲を下にしていなければ、恵を受け取り損ねてしまいます。

私たちはこれまで、命のパンをいただくためにイエスとどんな向き合い方をしてきたでしょうか。身近なところでは聖母マリアが私たちの模範です。聖母被昇天のミサで、そのことに少し触れてみたいと思います。

私たちの手は、命のパンを感謝して受け取る手の形になっているでしょうか。恵みをいただくにふさわしい心が準備できるよう、主に照らしを願い、ミサを続けてまいりましょう。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
聖母の被昇天(ルカ1:39-56)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
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▼自国開催はやはり有利のようだ。パリオリンピック、フランスのメダル数は過去最高になったらしい。ただ、ニュースになる出来事の中には、「そんなことある?」という珍事も会っているらしい。女子の競輪種目、最終周を知らせるために鐘を鳴らすのが通常である。しかし担当する人が最終周の数え間違いをしたらしく、選手はもう一週全力で走らされたという。
▼人間のすることだから、間違いはある。しかし、選りすぐりの担当者がそのような間違いをして「間違いました」で済むのだろうか。間違いましたでは済まないこともある。責任が重くなればなるほど、任せられた務めを楽しむのは難しくなる。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第916回目。「神父様このカセット覚えてますか?」大切にしている信徒に感謝

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† 神に感謝 †
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年間第18主日(ヨハネ6:24-35)イエスは必要なときに必要なパンを与えてくださる

2024-08-03 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2024/8/4(No.1308)
‥‥‥†‥‥‥‥
年間第18主日(ヨハネ6:24-35)
イエスは必要なときに必要なパンを与えてくださる
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約一週間、体調不良でお休みしておりました。ご心配をおかけして申し訳ありません。助任司祭は今回司祭生活でいちばん働かされた一週間だったと思います。大変だったと思いますが、どこかで「これ以上無いくらいきつかった」という体験をすると、大きく成長すると思います。

今年の小教区黙想会で主任司祭から、「聖書の一節を自己紹介に使ってみてはいかがでしょうか」と話したのを皆さんは覚えているでしょうか。黙想会のテーマは「廃止するためではなく、完成するためである」(マタイ5・17)でした。中田神父は自己紹介に「『廃止するためではなく、完成するためである』を自分の生涯の目標として働こうと思っています」、そういうふうに説明しました。

イエス様のみことばの一節を大切にして信仰生活をあゆむ方法は大いに勧められるのですが、その中ではこの一節は大変難しい生き方かも知れません。「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」(6・27)ほとんどの人が、望んでそうしているわけではなくても、「朽ちる食べ物のため」働いていると思うからです。

上五島で、言い伝えになっている話があります。島の東側と西側にそれぞれ集落が広がっているのですが、その一つに奈良尾と桐という二つの集落があります。そしてこの二つの集落の特徴を私はこう言い聞かされていました。「奈良尾は稼ぐために働くが、桐は勉強させる為に働く」イエス様の「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないもののために働く」これに通じるのではないかと思います。

ご存知のように、桐教会からは何人もの司祭を輩出し、一人は司教様になりました。単純な比較をしてはいけないと十分分かっていますが、いつまでもなくならないもののために投資した結果が、このような形になったのではないかと考えています。

イエス様の示す生き方「道」は、いつも「朽ちる食べ物」ではなく「永遠の命に至る食べ物」でした。この世の物差しで計るなら、それはほとんど恩恵をもたらさないかも知れません。しかし、イエス様が示されたものを受けて食べた人は、それによってもたらされた結果を永遠に失わないのです。

中田神父も一週間のうち最初の三日間はベッドからほとんど動けませんでしたが、初金曜日にはベッドからほとんど動けない人に病人訪問で御聖体を運んでいたことをあらためて考え直すことができました。症状の重い期間を体験しなかったときは「元気な人が病気の人を見舞う」この形でしたが、これから10年20年は、「ほとんど動けない経験をした後に病気の人を見舞う」という形に変わります。御聖体を受ける人を思う気持ちは全く違うと思うのです。

イエス様ははっきりと仰いました。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」(6・35)イエス様から示されたものを、謙虚に受け、それをパンとして食べるとき、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る糧に変わるのです。

ただし、イエスが示されるパンの形を、私たちが選ぶことは出来ません。そこは注意が必要です。それが癒やしの奇跡を与えている姿であるか、最後の晩餐で弟子たちに配られるパンとぶどう酒の姿であるか、あるいは十字架上で命をささげている姿であるか、私たちは選べません。「これをどうやって食べろというのですか?」と疑うのではなく、「あなたが示されるもの、それを私はパンとして頂きましょう」そのような受けとめかたができるように私の心を準備しましょう。

今週は広島原爆の日、長崎原爆の日を迎えます。現在広島教区には上五島仲知小教区米山教会出身の白浜満司教様がおられます。白浜司教様のモットーは参考になると思います。モットーは「福音のためならどんなことでも」でした。

私たちも同じように、「イエスが与えてくださるものなら何でも受け取ります」そう心に決めましょう。どの場面のイエスであっても、それは私たちに必要なものを与えてくれる命のパンなのです。

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‥次の説教は‥‥
年間第19主日(ヨハネ6:41-51)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼完全に元に戻ったり、以前より強くなったりする年代があったと思う。しかし今は、いったん調子を落としたりすると以前の状態まで戻らないと感じている。それが「年齢」というものなのだろう。
▼完全に戻らないのだけれども、目の前のことは同じ量こなさなければならない。より慎重に、自分の調子を考えながら、務めを果たすようにする。場合によってはもっと量を減らす。そこまで考えないと、今年の夏は乗り切れそうにない。

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今週の1枚
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第915回目。田平修道院が新築落成された。近いうち必ず、正式に訪問したい。

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† 神に感謝 †
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年間第17主日(ヨハネ6:1-15)あなたがいてくだされば、絶望の中でも希望を持てます

2024-07-26 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2024/7/28(No.1307)
‥‥‥†‥‥‥‥
年間第17主日(ヨハネ6:1-15)
あなたがいてくだされば、絶望の中でも希望を持てます
‥‥‥†‥‥‥‥

(訳あって、2009年原稿を再掲)今週は、ヨハネ福音書による「五千人に食べ物を与える」という奇跡の物語で、四つの福音書ともに出来事を残しているわけですが、他の福音書の書き方とはっきり違いを見せています。共観福音書では、パンの奇跡が行われた場所は「人里離れた場所」とされていますが、ヨハネは出来事が山でおこなわれたとしています。

この「山」という表現ですが、かつて山で行われた出来事と、今回の出来事を重ねて考えてみなさいと言いたくて、「山」という場所を用いているようです。

「かつて山で行われた偉大な出来事」とは何でしょう。イスラエル人が真っ先に考えるのは「十戒の出来事」でしょう。神はモーセを通じてイスラエルの民に十戒を授けました。民はこれを守り、それによって神が民を守り、救うというものです。

ですから、イエスが五千人に食べ物を与えるという奇跡を「山」でおこなったという書き方をヨハネがしているのは、かつての山での出来事を思い出しなさい。神が十戒を与えて民を守り、救うと約束したように、今イエスも、あなたたちを守り、救う約束としてパンを与えているのですと言いたいのです。

ヨハネが描くパンの奇跡に見えるもう一つの特徴は、この出来事を「しるし」として示している点です。パンを食べさせてくれたのは、かつて十戒を授けてくれた神に私たちの目を向かわせたように、イエスもまた、神の子として私たちの救いのためにこの偉大な出来事をなさったのだと気づいて、神をたたえるべきだったのです。

ところが、群衆が取った行動は、イエスをこの世の王に仕立てようとする態度でした。この世の王は、人々を支配する存在です。救いを与えるのではなく、支配のもとに人々を置くに過ぎません。支配ではなく、神に守られ、愛されている喜びを持ちながら生きるために、奇跡をしるしとして用いたのです。

さて、このようなヨハネの理解を踏まえて、パンの奇跡の出来事をふり返ってみましょう。イエスは、フィリポに尋ねます。「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか。」(6・5)イエスはひとまずそばにいた弟子に尋ねています。弟子に何かを気づかせるためにほかなりません。

フィリポは置かれている状況が絶望的であることには気づいたようです。「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう。」(6・7)シモン・ペトロの兄弟アンデレも、何かはあるけれども、何かがあるだけで何の役にも立たないだろうと決めてかかっています。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」(6・10)

この状況は、きっと私たちの状況を指しているのだと思います。さまざまなことが、希望の持てない状況です。そこへ、イエスは見落としている大切なことを指摘します。絶望的な状況だけれども、わたしがそばにいるのを忘れてはいないか。何の役にも立たないくらいしか手持ちがないけれども、その役に立たないほどわずかのものを活かすことのできるわたしがいるではないか。そのことをイエスは、当時の弟子たちにも、私たちにも言いたいのではないでしょうか。

私たちは、イエスが示す奇跡をきちんとしるしとして読んでいるでしょうか。私が抱えていた絶望的な気分は、イエスがそばにいることを忘れていたことで生じていたのではないでしょうか。イエスは今も、私たちに「この絶望的な状況を、どうしたら打開できるだろうか」となぞかけをしているのではないかと思っています。

それに対して「もちろん、あなたがそばにいてくだされば、きっと解決できます」と答える準備をしておきましょう。その答えを、イエスは今か今かと待っておられるのではないでしょうか。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
年間第18主日(ヨハネ6:24-35)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼時々同じことを書き込んでいると思うが、「神様が経験させようと考えたことはすべて経験する」と考えるようになった。それは人との出会いもそうであるし、人生経験、健康や病気などである。
▼自分がたいした病気もしたことがないのに「病気の時は仕方が無いから、じっとしていたほうがよい」と言うのは、相手には伝わらない。辛い病気を経験して初めて、辛い病気の人に寄り添ってあげることができる。
▼病気らしい病気をしたことのない人が一ヶ月入院し、病人特有の青白い顔になり、すっかり痩せて退院したのを見たことがある。それ以前には理解できなかったことが、入院を境に理解できるようになったに違いない。神様は、必要なことは必ず経験させてくれるのである。

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今週の1枚
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年間第16主日(マルコ6:30-34)良い休みを学ぶとよく働き、人に良い休みを与える

2024-07-19 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2024/7/21(No.1306)
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年間第16主日(マルコ6:30-34)
良い休みを学ぶとよく働き、人に良い休みを与える
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「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい。」(6・31)私は、このイエスの言葉が、弟子たちに対する深い思いやりとして映りました。何らかの形で人を雇っている立場にある人々にとって、学ぶことの多い態度だなと思ったのです。

イエスが弟子たちに「休みなさい」と言っている今週の朗読箇所は、小教区で人を雇ったり、協力者を募る立場になってようやく自分のこととして受けとめることが出来るようになりました。弟子たちに配慮するイエスの姿はつねに主任司祭のお手本です。

最高の模範があるにもかかわらず、私は雇っている人々にとって良い雇い主とは言えないと思います。協力者に対しても、良い責任者ではないと痛感します。未だに、人が人のために働いているということを、十分理解していないからです。

かつて、2人の主任司祭のもとで教会の務めを学びました。雇っている人、協力者への接し方も見て学びました。当時は20代後半から30代に入るという本当に若い時期でしたので、人が人のもとで働いていることについてほとんど理解していなかったと思います。

一方で、ある部分では雇われている身でもあります。主任司祭としてくださっているのは大司教様です。大司教様に任命された場所で務めを果たします。若い頃よりも今の方が、大司教様の期待に応えたいと考えるようになりましたし、大司教様がどんな気持ちで任地を決めて、私たちを働かせているのかなぁということも考えるようになりました。

そこであらためて思い返すのです。「しばらく休むがよい。」私は、イエスのような配慮を、雇っている人に持っているのだろうか。協力を仰いでいる人に、イエスのような温かい思いやりを掛けているのだろうか。むしろ配慮にも思いやりにも、足りない面があるのではないかと思うことばかりです。
子どもたち、また学生たちは夏休みに入りました。夏休みにも、今日のイエスの呼びかけ
を当てはめて考えることができます。「さあ、夏休みだ。しばらく休みなさい。」やってきた休みを何となく過ごすのではなく、イエスが休みなさいと言っているのだと考えるわけです。そのことで、休みは次の学期への準備をさせてくれるはずです。

私の主任神父様になってくれた2人の神父様は、次によく働くために休みを取るということを上手に実行していたと思います。神父様自身のためだけではなくて、主任神父様のもとで働く司祭にも、「良く休んで良く働く」ということを実践しておられたと感じました。

イエスは弟子たちにはしっかりした休みを取らせつつ、押し寄せてくる群衆には「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた」(6・34)となっています。責任者が、態度で弟子たちを教え育てています。まず休みなさい。しっかり休んだら、私がしていることをあなたがたもしなさい。導きが必要な人々がまだまだたくさんいるから、いろいろと教えてあげなさい。そんなふうに、イエスはご自分の働きぶりで教えてくださっています。

私たちは皆、イエスから「休みなさい」と声をかけてもらう必要があると思います。イエスが私たちにくださる休みの中で、私たちは次に備える時間を持ちます。イエスが用意した場所で休むなら、その休みは本来の姿にどのように向き合うべきかを考える良い機会になるはずです。

もっと、雇われている人の気持ちに寄り添って「休みなさい」と声を掛けてあげられる人でありたいと思いました。そして、休みから帰ってきたら、また気持ちを込めて働く人へと育ててあげる必要にも気づきました。

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‥次の説教は‥‥
年間第17主日(ヨハネ6:1-15)
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ちょっとひとやすみ
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▼今年の広島カープ、すごく期待を持たせてくれている。一ヶ月首位だったこともあるし、全体的に粘り強さが戻ってきた。だがリーグ三連覇の時のような得点力が無い。それは一にも二にも、ホームランバッターがいないからだ。
▼ホームランを期待しているのは特に助っ人外国人ということになるが、今年の外国人選手はいわゆる「大砲」ではない。前評判からはすごく期待したのだが、助っ人のホームランを見たことがなかった。
▼その日も、無得点のまま試合が進み、「得点してくれないとピッチャーの気持ちが折れて失点してしまうじゃないか」とハラハラしながら試合の流れをラジコで聞いていた。
▼七回にノーアウト一二塁、絶好のチャンスが回ってきた。しかし後続が二人倒れ、次のバッターが助っ人外国人。「あー、ダメか」と思った二球目、球場が悲鳴に変わる。スリーランホームランが飛び出したのだ。助っ人外国人に、心からお詫び申し上げます。

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今週の1枚
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第913回目。ひどい肩こりが頭痛を誘う。病院(CT)と整骨院のお世話になる。

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年間第15主日(マルコ6:7-13)神のことばの一節を持ち帰り、杖一本とする

2024-07-13 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2024/7/14(No.1305)
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年間第15主日(マルコ6:7-13)
神のことばの一節を持ち帰り、杖一本とする
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「旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず・・・」(6・7)八年前、2016年の1月下旬に、まれに見る大雪が降りました。私は上五島の浜串小教区にいましたが、本教会の浜串で7時のミサをした後、9時に巡回の福見教会でミサをしなければなりませんでした。

しかしすでに相当の雪が積もっており、車を出して山道を登るのは不可能でした。このままでは巡回教会のミサが出来なくなります。考えた挙げ句、ミサの時間を一時間遅らせて、歩いて巡回教会に向かうことにしました。この時、竹を切った杖を手に持って、片道一時間半歩いて出かけたのです。

浜串教会から峠を登り、いったん峠を降ります。そしてもう一つ峠を登って降ったところに福見教会があります。汗びっしょりになりながら司祭館で全身を拭き、身を整えてからミサをしました。

現代ですから、説教の原稿はスマホがあれば話すことは出来ます。文字通りの杖一本ではありませんでしたが、車に乗らず、ほとんど何も持たず、待っている信者のもとにミサをしに行ったのは忘れられない思い出です。

杖一本を持って出かける。イエス様時代のパレスチナで杖を持ち歩く人とは、旅をする人の姿だけでなく、一般的には羊飼いの姿なのでしょう。出かけた先に、杖を使って案内し、導く羊たちがいる。旅の途中に出会う危険な動物を追い払うだけでなく、その杖によって養う羊たちが目的地で待っています。そう考えて道を進むとき、たとえそれが困難な道であっても元気が出ます。

「杖」は、「あなたにわたしの羊を任せる」そのしるしとなります。食べ物や、施しを受ける袋や金銭は、イエスから派遣されたしるしにはなり得ません。待ち受ける人々は弟子たちの宣教する姿を自然と見極めます。神の国を告げ知らせる人がパンや袋や金銭を頼りにしていたら、人々から見切られてしまうでしょう。弟子たちは、羊を導くための「杖」に寄り頼んで宣教するので信頼されるのです。

弟子たちは、はっきりと「杖一本」持っていくように指示を受けました。皆さんはどうでしょうか。「杖一本」は難しいかも知れませんが、イエスから派遣された「しるし」これを拠り所に生活を組み立てることは可能です。特に、日曜日毎に朗読される聖書の一節を、今週の拠り所に持ち帰ろう。この積み重ねをしていけば、皆さんの生活も杖一本を手に、ミサから派遣されて生活に戻る人になれます。

場合によっては、福音朗読の一節ではなく、第一朗読や、第二朗読の一節が心に残って、一週間を組み立てる土台にできるかも知れません。13日土曜日の朝、第一朗読はイザヤ書でした。最後の部分で「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」わたしは言った。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」という対話がありました。とても印象に残りました。第一朗読、第二朗読は、皆さんが読むわけですから、心に残る可能性は十分あります。

神のことばの一節を、生活に派遣される者として持ち帰りましょう。あなたの生活で信仰を表していく頼みの道具として、ミサで「行きましょう」と派遣された「しるし」として、神のことばはふさわしいと思います。今週は、どの一節を持ち帰りますか?どの一節が、あなたの一週間を助けてくれると感じるでしょうか。

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‥次の説教は‥‥
年間第16主日(マルコ6:30-34)
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ちょっとひとやすみ
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▼今年は雷の音をあまり聞かない。五月に、雷がひどかった日があったかもしれない。パソコンなどを立ち上げていると、雷の音にビクビクする。それと、去年もそうだったが、自分一人雷を警戒すれば良いわけではない。三人が注意しなければ、結局何かしらの出費を強いられることになる。
▼今年は、去年の学習が活かされている。配電盤の場所も把握している。外回りで電源を取る場所もだいたい分かっている。用心しても防げないこともあるかもしれないが、去年よりは被害を少なくできるだろう。

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今週の1枚
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第912回目。YouTube活動の報告。単調になってきたのか、登録の伸びが鈍化。

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年間第14主日(マルコ6:1-6)恵みの豊かさで驚きを与え続けてください

2024-07-06 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2024/7/7(No.1304)
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年間第14主日(マルコ6:1-6)
恵みの豊かさで驚きを与え続けてください
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主任司祭と助祭の霊名のお祝いを用意してくださり、感謝申し上げます。私たちの霊名のお祝いは、「皆さんもどうぞ、それぞれの霊名をお祝いしてください」という「しるし」と考えてください。

そう言っても「誕生日すら家庭で祝えないのに、霊名のお祝いなど考えたことがない」そんな家庭もあるでしょう。それでもあえて、考えてくださいと呼びかけたいと思います。誕生日は、人として歩み始めた日を思い出すことができます。霊名の日は、「神の子どもとして」歩み始めたことを思い出すことができます。

もちろん、二つ祝うのは大変かもしれません。どちらか祝って二つとも思い出してはいかがでしょうか。冷めた見方をすれば、司祭たちの霊名の祝いは「あんな司祭が福江教会にいたなぁ」と思い出すきっかけかも知れません。霊名の日を思うためなら、理由は何でも構いません。

切実な理由で誕生日を祝えない方々もいます。この前指摘を受けました。現代では経済的な理由もあって記念日を祝えないのだと。今日、司祭と助祭のお祝いのために、小教区で予算を組んでもらっています。ありがたいことです。ただ、「祝う」「喜び合う」ということを突き詰めたら、お金をかけないで祝う、喜び合うこともできるはずです。

いちばんお金をかけないで、誕生日と霊名のお祝いを祝う方法を教えましょう。その日にミサに行くことです。ミサに行って、誕生日・霊名の日の祝福を神様に願う。早起きさえすれば、お金はかかりません。ぜひお勧めします。洗礼を受けて神様の子どもとしていただいた場所に行く。誕生日にもミサに行く。これは最高の祝い方だと思います。

洗礼の恵み、結婚の恵み、さまざまな召命の恵み。教会を通して神様からいただいたものがあります。それらが自分にとってどんな意味があるのか、答えが与えられるまで考える人であってほしいです。福音朗読ではイエスが故郷の会堂で教えておられます。当時は旧約聖書が神から与えられた賜物でした。イエスは聖書について、律法について、深く教えてくださっていたでしょう。

もっと言うと、イエスご自身が、当時の人々に与えられた神からの賜物でした。イエスは身をもって、そのことを教えようとしました。しかし故郷の人々は、自分たちがすでに知っていることの中に、神から与えられた賜物であるイエスを押し込めて理解しようとしたのです。「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」(6・3)

「この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。」(6・2)郷里の人々は答えが与えられるまで思い巡らし、深く掘り下げるべきでしたが、そこまでの忍耐心も、イエスへの敬意も持っていませんでした。今風に言えば、郷里の人々はイエスを「上から目線」で見ていたので、正しく理解できなかったのです。

私の身近な先輩に、「自分は奇跡を信じている。私自身司祭になれたことが、イエス様の奇跡だ」と言う方がいます。言いにくいことですが、中田神父はこの先輩のことを上から目線で見ていました。奇跡は、上から目線でしか見ていなかった私にではなく、誰よりも苦労したこの先輩の上に起こったのでした。

私と、この先輩はいろんな地区で一緒に働きました。神学生の時だけでなく、どの地区に行っても苦労させられていました。誰よりも苦労したので、受けた恵みを誰よりも思い巡らし、掘り下げてきたと思います。ですから、みずからの上に起こった驚くべきわざを、誰よりも感謝できるのだと思います。

今になって私は、この先輩を上から目線で見ていたことがとんでもない間違いであったこと、そのためにどれだけ私自身成長するチャンスを無駄にしてきたかを思い知らされています。

しかし時間は残されています。私たちが神からいただいた恵みがどんなにすばらしいものであるか、考える時間はあります。この恵みが与えられていなかったら私はどうなっていただろうか。私たちはどうなっていただろうか。考える時間はあると思うのです。

神のわざを、自分たちがすでに知っていることの中に押し込めようとしたら、恵みの豊かさを台無しにしてしまいます。「十分に知っている。少なくともここにいる誰よりも知っている」そう思った瞬間に、私たちは神の恵みの豊かさを台無しにするのです。

神はいつも、その時代の人々を通して恵みの豊かさを証明してくださいます。今日も、恵みの豊かさを示して私たちに驚きを与えてください。ミサの中でこのように祈ってまいりましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第15主日(マルコ6:7-13)
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ちょっとひとやすみ
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▼長崎教区内の女子修道会が協力して「祈りの集い」というのがおこなわれている。単に「祈りましょう」というのではなく、「祈りかた」から始まり、共に祈ってくれる「同伴」のお世話も受ける。そういった内容のようである。長崎教区内の各地区を巡回しているが、今月下五島地区で開催され、福江教会が会場となっている。
▼「そういった内容のようである」と言ったのは、古い育てられかたで司祭になった中田神父はこの祈りの集いに付いて行けていない。「霊的同伴」という言葉を一度も聞かずに神学校を卒業して今に至っているので、「同伴」と聞いただけで「最新式」「自分には関係ない」と思ってしまう。
▼神の働きの豊かさは、いつの時代にも証明される。理解が追い付いていないのであれば、「霊的指導を言い換えただけだろ」と、霊的同伴のあり方を形の合わない箱に押し込もうとするのだけはやめよう。

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今週の1枚
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第911回目。チャンスは私の髪ほど薄いが、霊名のお祝いの様子があれば。

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年間第13主日(マルコ5:21-43)イエスは必ずご自身との真の出会いに導く

2024-06-28 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2024/6/30(No.1303)
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年間第13主日(マルコ5:21-43)
イエスは必ずご自身との真の出会いに導く
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私は日曜日のミサ後、信者さんからスータンの裾を掴まれたことがあります。その日の福音朗読が今週の「ヤイロの娘とイエスの服に触れる女」でして、二つがおり混ざった奇跡物語でした。スータンを掴んだ高齢の女性は、私を通してイエスに触れ、救いの体験を味わいたいと思ったのでしょう。当時の説教を少し練り直してお届けします。

二つの物語のうち、十二年間出血の止まらない女性は、「この方の服にでも触れればいやしていただける」(5・28)と考えてイエスに近づき、服に触れると確かに出血は止まりました。この女性にとっての目的は十分果たされたのですが、イエスはその女性を探しています。女性にとっての目的は果たされていても、イエスがその人に積ませたい体験は、まだ終わっていないからです。

女性が勇気を出して名乗ると、イエスから声をかけてもらいます。イエスと出会い、イエスを信じる人になること。それが女性に積ませたい体験でした。イエスとの出会いが信仰に変わり、「救われた」と実感して生きていく。奇跡の先で、この体験を女性は積んだのです。

会堂長ヤイロは、きっとその光景を目に焼き付けたでしょう。すでにイエスを信じ始めていましたが、試練を受けます。会堂長の家から人が来て、人間的な希望を断ち切られてしまうのです。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう」(5・35)。

娘が回復することがイエスに近づいた目的ですから、ヤイロはイエスに期待することは何もありません。そんなヤイロにイエスは「恐れることはない。ただ信じなさい」(5・36)と言います。イエスにとって、ヤイロに積ませたい体験はまだ終わっていないからです。

「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」(5・39)人々はイエスをあざ笑います。これも会堂長ヤイロにとって試練です。この先もイエスを信じ続けることができるだろうか。迷いやためらいが生じても不思議ではありません。

そんな中でもイエスは娘を生き返らせ、父親に返してくださいました。ここでヤイロは自分が最初に持っていた目的にたどり着いたのですから、物語は終わりでしょうか。それだけでは終わりません。会堂長ヤイロは、娘の回復という目的のその向こうに、たどり着きます。イエスとの出会いが信仰に変わり、「救われた」と実感してこれから生きていく。その体験をヤイロは積んだのです。

イエスはすべての人に、同じ体験を積ませようと考えておられます。イエスの服に触れ、いやされるだけの出会いではなく、自分の娘を返してもらうだけの出会いでもなく、イエスとの出会いが信仰に変わり、「救われた」と実感してこれから生きていく。この体験をすべての人に与えようとされるのです。

私の父は肺がんで亡くなりました。71歳でした。担当した医師はカトリック信者でした。家族は「余命半年でしょう」と告知を受け、その通り半年で旅立っていきました。闘病中、どのような精神状態だったか知るよしもありませんが、主治医に父は「自分は神様を信じているから何も怖くない」と伝えたそうです。実際にはそれだけではなかったと思いますが、根底にある覚悟は揺らぐことはなかったのでしょう。

私なら「半年です」と医者に言われても受け入れられず、食ってかかるでしょう。しかし父は、自分のことだけ考えていたのではなく、司祭である息子のためにも、最後の教えを残そうとしていたのだと思います。「神様に出会ったのだから、恐れずに自分を委ねて旅立つ。」私は父親の最後の半年で、イエスと出会わせてもらった。そう思っています。

長崎港の沖合にある伊王島の馬込教会から月に一度、有川の病院を訪ねました。刻々と状態が変化する中、私はついに一度も「父を取り上げないでください」とは祈りませんでした。「信仰の道から逸れないように、最期まで歩ませてください」その思いだけでした。

5月31日、父の命日が来ると、祭服を着ながら、イエスの服に触れているのだと考えています。服に触れるだけではありません。実際には救い主イエスに出会わせてもらっているのです。この境地に導いてくれた父には今でも感謝しています。

イエスはすべての人に、「ご自身と出会って救われた」この体験を積ませようとしています。詰まるところそれが、人々に証しすることの出来る唯一の体験です。これまでの人生振り返って、人に証しできる救いの体験、信仰の体験に思い当たるでしょうか。

イエスが、すべての人にこの体験を積ませようとしているのであれば、それは必ず見つかるし、必ず体験するのです。私たちは、人に証しするだけの救いの体験を積んで、宣教する人に必ずなれるのです。

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‥次の説教は‥‥
年間第14主日(マルコ6:1-6)
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ちょっとひとやすみ
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▼洗剤に特別のこだわりはないので、洗剤が切れたら目に付いた物を買う。去年までは液体洗剤を買っていたが、今年になってから「ジェルボール」タイプの洗剤を使い始めた。簡単ではあるが、分量の調節はできないので、そこが難点。
▼全く違う洗剤を見つけた。シートタイプの洗剤。「シート」と聞くと、レシートをポケットに入れたまま洗濯して紙くずが服のあちこちに付き、ひどい目に遭ったことがあるので心配だが、「水に溶ける」と書いてあるので信用してみる。

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今週の1枚
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