こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第17主日(マタイ13:44-52)天の国のことを学んだ学者

2017-07-29 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2017/7/30(No.896)
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年間第17主日
(マタイ13:44-52)
天の国のことを学んだ学者
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「天の国は次のようにたとえられる。」年間の主日もおよそ半分を過ぎました。イエスは天の国を三通りにたとえて説明なさいました。畑に隠された宝、商人が探しまわる高価な真珠、網にかかった魚から良いものを選り分ける。この三通りのたとえはさまざまなことを連想させます。一人ひとりにしっくり当てはまる受けとめ方を見いだしましょう。

転勤してきて、鉄道に関係する違反で二度警察のお世話になりました。北松中央病院手前の高架を間違って右折した時と、ナフコ前の踏切一時停止を怠った時です。ナフコ前の違反は9千円と2点減点です。

五島という、線路のない土地に6年も住んで浦島太郎状態になっている司祭を、なぜ呼び止めるのでしょうか。それとスータンを着ている時は遠慮してほしいです。9千円は痛いので、「必要経費」と言い張って教会の通帳から支払おうと思っています。お父さんウソだよ。

さて今週のたとえに戻りますが、三つのたとえは広がりを感じさせるたとえだと思います。ただ単に、埋もれている宝、良い真珠、網でとらえた魚だけではなさそうです。大地と湖、そしてそこでやり取りされる品物で世界全体を表していると考えられます。「天の国」を学ぶ材料は、この世界のあらゆる場所にあるということです。

ほかにも、たとえは三つの暮らし方をしている人でもあります。初めの人は、畑は耕すが、畑の所有者ではない人です。畑の所有者であれば、畑を買い取ったりはしません。この人は小作人で、人に使われて一生を終えるはずだったのに宝物を探し当てたのです。商人はみずから生計を立てる人で、取引の中で高価な真珠を探し当てる力を発揮した人です。網にかかった魚をより分ける人たちは、平凡な作業を繰り返していても、良いものを見逃さない人たちと言えるでしょう。ここでは「天の国」について、あらゆる人に学ぶ機会が与えられるのだと分かります。

もともと「天の国」は隠された宝であり、掘り当てたなら、あらゆる努力を払って手に入れる価値があります。「天の国」は価値を知っている人だけが見つける宝であり、価値の分からない人には「猫に小判」なのだから、「天の国」の価値を見抜く力が必要になってきます。

また「天の国」は区別が必要な宝なので、見かけや、目の前だけの楽しみなどに惑わされず、正しく見分けなければなりません。ニラは食べることができますが、ニラとよく似たスイセンの葉は食べると食中毒を起こします。正しく見分けることができなければ命にかかわるのです。

イエスが示した三つのたとえは、「畑に隠された宝」「高価な真珠」「より分けられた魚」というだけではなく、広がりを持っていると思います。ここまでいくつかの取り上げ方をしましたが、皆さんが受け入れやすい取り上げ方は見つかったでしょうか。

さてわたしはもっと大胆に、「天の国につながる宝」を一つ示したいと思います。それは「祈り」です。祈りのいくつかの特徴が、今週の「天の国」のたとえに表現されていると思います。

まず祈りは「掘り下げていくとそのすばらしさが分かる宝」です。毎日祈りを唱えていても、祈りの言葉の持つ意味をあらためて考えることは少ないかもしれません。アヴィラの聖テレジアは、「主の祈り」をテーマにして一冊の本を残しました。わたしもこの聖人の残した本を通して、「主の祈り」という畑に隠された宝を掘り当てました。

また祈りは、持ち物すべてと交換しても惜しくない「高価な真珠」です。ベトナム人のトゥアン枢機卿を紹介します。彼は25歳で司祭に叙階され、39歳ですでに司教に選ばれ、47歳で大司教になりましたが、ベトナム政府は彼を危険人物と決めつけます。不当逮捕され、13年間獄中生活を強いられました。

すべてのものを没収されましたが、彼はパンとぶどう酒の差し入れだけでミサをささげ、祈りから受けた照らしで獄中から面会人に小さなメモを渡し、教区民を導く言葉を与え続けたのでした。

トゥアン枢機卿はすべてを失いましたが、祈りからすべてを手に入れたのでした。すべてを失ってもすべてを得ることができる「祈り」。持ち物すべてと交換しても惜しくないものが他に考えられるでしょうか。

さらに祈りは「良いものと悪いものを選り分ける篩(ふるい)」のようなものです。福者に上げられたユスト高山右近は、難しい決断をしなければならないとき必ず祈って答えを尋ね求めました。ある時右近の上司である荒木村重は天下人織田信長に謀反を企てます。

右近はどちらかに忠誠を誓わなければなりません。彼は祈って、「より上位のかたに仕える」決断をしました。最後は、この世を支配する天下人より上位におられる天の父に仕える道を歩んだのでした。

このように、「祈り」は今週朗読されたイエスの三通りのたとえをうまく表現していると思います。もっと言うと、長崎教区民がこれから畑に隠された宝を見いだし、高価な真珠を手に入れ、良いものと悪いものを区別できるようになるためには、徹底して「祈り」を鍛え上げることが必要だと、心底思っています。

子供の時代、わたしたちは祈祷書のいくつかの祈りを暗記していました。ロザリオに続けて唱える「元后あわれみ深き御母」などは、だれもが暗記していたはずです。今の子供たちに祈祷書なしで唱えてごらんと言ってもまず言えません。今と昔では鍛えられかたが全然違うのです。

わたしは「祈りの道場」という場を設けて、数日間缶詰めになって祈りを覚える道場を開きたいと思うことがあります。道場を去る頃には、朝晩の祈りやロザリオ、十字架の道行きなどの先唱を率先してできる。そんな弟子を長崎教区に送り出したい。わたしのこの十年来の夢です。

わたしはすでに「天の国の幸い」を予感できるだけの宝を手に入れているでしょうか。「天の国のことを学んだ学者」でしょうか。頭でっかちの学者でなく、畑に隠された宝を語れる学者が、田平教会に、長崎教区に、現れてほしいのです。「天の国のことを学んだ学者」がいれば、あちこちで人々に天の国のすばらしさが語られることでしょう。

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‥次の説教は‥‥
主の変容
(マタイ17:1-9)
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ちょっとひとやすみ
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▼7月31日雲仙で召命フェスティバルが開催され、十数名の子供たちを連れていくことにしている。2年に1回開かれていて、「言ってみれば」まったく同じことをしているだけである。ところが。
▼この召命フェスティバルは毎回盛況で、わたしが圧倒されるのは召命祈願ミサに持ち寄ってささげる献金である。記憶ははっきりしないが100万円とか相当な金額が報告されていた。
▼「言わば」毎年同じことを、同じようにしているのに、なぜ子供たちを惹きつけるのだろうか。プログラムに「靴飛ばし大会」があり、何の変哲もなく、毎回全く変わらない。ほかにも「ジャンケンコーナー」があり、「ジャンケンマン」と称するヒーロー戦隊まがいの若手司祭が登場するが、この人物も一度も変わったことがない。
▼それなのに、である。それなのに、いつも熱狂して子供たちがプログラムに参加する。わたしはここではたと思うのだが、この「召命フェスティバル」を企画している教区召命委員会(だったと思う)は、「高価な真珠」を見つけ、そこにすべてを注力しているのだ。
▼同じことを繰り返せば、ふつう子供たちは飽きてしまう。それがそうはならない。何か、子供たちに訴えかけるものを畑から掘り出し、手に入れているに違いない。だから子供たちをあそこまで熱狂させることができるのだろう。
▼要は、畑に隠されている宝を当てることである。いつ巡ってくるか分からない高価な真珠を見逃さないことである。どれが良いもので、どれが捨てるべきものかを瞬時に見分けることである。召命フェスティバルのプログラムは、本物を捉えているのだと感じた。

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今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第503回目。韓国語聖歌を覚えるか。アレルヤ ノレハジャ(アレルヤ歌おう)

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年間第16主日(マタイ13:24-43)イエスの業を微塵も疑わない

2017-07-22 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2017/7/23(No.895)
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年間第16主日
(マタイ13:24-43)
イエスの業を微塵も疑わない
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年間第16主日は先週の「種をまく人のたとえ」と結びつけて考えてよいと思います。イエスによってまかれた種は実を結ぶ。しかも、実を結ぶことに何の疑いもない。先週と合わせて、このように今週の朗読を読み解くことができます。

2週間ほど前に、郷里の鯛之浦教会評議会議長から電話があり、故郷での銀祝を祝うミサと祝賀会を11月に予定したいが、何週目を希望しますかと尋ねられました。上五島地区は11月の第2週はいつも合同堅信式に当たっているので、次のように返事をしました。「喜んで招待をお受けします。11月第1日曜日でお願いします。」

11月5日(日)に招待を受けましたので、ついでに田平小教区の皆さんの上五島巡礼を計画したいと思います。11月4日(土)から1泊2日で募集します。ふるってご応募ください。宿泊をどう確保するか、はっきり決まっていませんが、20人くらい募集したいと思います。申し込みは後日申込用紙を用意しますので、記入し主任司祭に預けてください。

巡礼の細かい時間割も決まっていません。確実なことは中田神父の銀祝記念ミサが11月5日(日)の11時くらいなので、そのミサには参加してもらいます。あとは、土日で教会を巡って上五島の信仰を吸い込んでいただければ幸いです。中田神父は銀祝の記念ミサのあと祝賀会も出席なので、鯛之浦でのミサ後は巡礼団と別行動になります。

このような招待を受けると、11月5日はほかのどの日よりも確実な未来に変わります。信徒総会の時点で配られる年間行事予定と比べても確実な未来です。天気が変わろうが、鯛之浦教会にいかなる事情が生じようが、わたしのために時間を空けてもらえます。疑いをはさむ余地もありません。もっと言えば、わたしが不治の病に侵されたとしても、そこに存在しさえすれば、銀祝の行事は確実なわけです。

福音朗読に戻りましょう。「毒麦のたとえ」「からし種」と「パン種」のたとえ、ここにも未来について微塵も疑いを持っていない雰囲気が伝わります。「『まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい』と、刈り取る者に言いつけよう。」(13・30)良質な麦と毒麦の区別は果たしてつくのか。そういった疑いすら微塵も感じられません。

また「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」(13・33)ここでも、天の国が豊かになり、発展することに何の疑いも持っていないのです。パン種がうまく生地にいきわたるのかなど、わたしたちが心配しそうなことが何も語られていないのです。

これはイエスが、神の国の成長・発展について微塵も疑いを持っていないことをよく表しています。まるで毒麦を抜き集め、良い麦を倉に納める様子をすでに確かめて来たかのようです。あるいは三サトンの粉が膨れる様子を確認済みであるかのようです。イエスにとって神の国の成長は、神が成長させてくださるのだから何の疑いもないこと、疑いをはさむ余地すらないことなのです。

もう一つ、マタイ福音書が読まれていた共同体の中では、イエスがメシアであることについて微塵も疑いを持っていませんでした。マタイ福音書第11章には洗礼者ヨハネのように「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」とイエスがメシアであるか心の揺れがある人たちも登場しますが、マタイ福音書が書き上げられた西暦80年ころにはイエスが死んで復活し、救いを成し遂げられたこと、イエスがメシアであることは疑いのない真実だったのです。

では、同じようにマタイ福音書の朗読を聞いたわたしたちは、神の国の成長が疑う余地のないことであり、イエスが救い主であることもまた疑いようのない真実であると、表明しているのでしょうか。苦労が多いのに結果が見えてこない。召命がみるみる減っているのに働き手を送ってもらえない。イエスさまがわたしを見ておられるのか、救ってくださるのか、疑問に感じるときがある。

なるほど、イエスのたとえもイエスのみわざも、今のわたしたちにとっては疑いをはさみたくなるかもしれません。けれども、いつの時代にも見えないものを見ることができるのは、微塵も疑いを持たない人たちです。

旧約聖書のダニエルの物語は有名ですが、わたしの体験から例を挙げましょう。三十代前半に、長崎の滑石教会で助任司祭をさせてもらった時期がありました。その時お見舞いをしているおばあさんの中に、九十歳を過ぎた方がいて、常々こう言っていました。「神父さま、わたしは滑石教会が栄えますように、滑石教会が栄えますようにと、いつも祈っています。」

このおばあちゃんは、生きている間に、滑石教会の繁栄を見ることができたのでしょうか。少なくともこの滑石教会には、お世話になっている教会が栄えることを微塵も疑わずに祈り続けてくれた人がいたのです。このような人に、神さまが応えてくれないはずがないと思います。

一年を切った田平教会献堂百周年に向けて、わたしたちも毎日祈っています。用意された「田平教会献堂百周年の祈り」の中に、次の言葉があります。「私たちも、この聖堂を祈りと賛美の歌がこだまする家にします。この家がすべての人のともしびとなり、宣教の拠点となるよう努力します。」そうなればいいですねと他人事のように祈っているのでしょうか。こうなることを微塵も疑わずに祈るべきではないでしょうか。

マタイ福音書時代の教会共同体は、イエスが示した神の国の姿を微塵も疑わない人々が証ししてくれました。わたしたちの時代も、わたしたちの教会に注がれる神のまなざしを微塵も疑わずに祈ることで、証ししたいと思います。イエスの働きを微塵も疑わない人々に、神のみわざは実を結びます。

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‥次の説教は‥‥
年間第17主日
(マタイ13:44-52)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼梅雨が明けて、じっとしていても汗が出てくる。しかも痒い。指の間とか、髪の生え際とか。生え際あるからね(笑)服が肌に触れる瞬間とか。子供のように皮膚がただれるまでかくことはないが、やはりかいてしまう。
▼最近は汗をだらだら流すほど汗をかいたことがない。やはり体の状態を入れ替えるためにも、いっぱい汗をかくことも必要ではないだろうか。冷や汗では、どうも体のリフレッシュにならないような気がする。
▼フィリピンから司祭20名、信徒50名の巡礼団がやってきた。12時到着予定だったが、途中免税店に立ち寄ったことが影響したらしく、大幅に到着が遅れた。わたしは「ああ、ありがちなこと」と流していたが、もう一つの教会はおカンムリだったらしい。
▼それはそうだ。到着に合わせて歓迎する人たちを待たせると、暑い中余計に待たされて具合が悪くなる。日本は秒単位で時間を守る国なので、文化をよく理解して「郷に入っては郷に従え」を実践してね。
▼思ったことを思った通りに言って、「しまった」ということ。木曜日の夜、典礼委員会があり、「夏の暑い盛りなので、体の弱い高齢者は亡くなったりします。身近な高齢者が夏を越せるように、見守りをお願いします」と言ったら、その晩遅くおばあちゃんが亡くなって土曜日通夜、日曜日葬儀ミサ。
▼経験上、そういうことが多いのでご注意を、という意味だったが、事実そうなってみると「しまった」と思う。これから通夜と葬儀を意識して、土日を過ごす。ほかにもいるご年配の皆さん、どうか暑さをうまくしのいでお過ごしください。

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今週の1枚
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第502回目。たぶんアップしたことがないと思うので。三人の田平教会主任。

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年間第15主日(マタイ13:1-23)イエスに種まかれた生き方を生きる

2017-07-15 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2017/7/16(No.894)
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年間第15主日
(マタイ13:1-23)
イエスに種まかれた生き方を生きる
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年間第15主日は種まく人のたとえです。種まく人のたとえは、続く毒麦のたとえと並んで、イエスがたとえ話の説明をする珍しいたとえです。わたしたちの生き方につながるたとえだと読みましたので、一緒に考えてみましょう。熱中症なのか、土曜日一日で五回くらい下痢しました。今週は早めに説教を終わります。

農夫が種まきをする様子は、パレスチナのどこにでもありふれた光景でした。誰もが見たことのある光景ですから、当然語られている内容も誰もが理解できたのだと思います。それなのに弟子たちはたとえの説明を求めました。あまりに日常すぎて、たとえに込められた意味を汲み取れなかったのでしょうか。

わたしも、今週の種まく人のたとえは、何を伝えればよいのかなかなか見えませんでした。種まく人がイエスだとしたら、まかれた種は何を意味しているのか。何を当てはめれば分かるだろうかともがきました。

そこで一つの答えにたどり着いたのですが、イエスがまかれた種とは「どのように生きるか」という「生き方」だったのではないでしょうか。道端で、土の少ない石地で、茨の生い茂る場所で、良い土地で。あらゆる場所で、イエスの生き方が示され、種まかれたのです。

しかし、イエスの生き方をすべての人が重く受け止めたわけではありませんでした。イエスの生き方は「重荷を負って苦労する人」の生き方ですから、あこがれを持つ人はいないし、華々しさもありません。弱くしいたげられている人の立場に立ってみなければ、イエスの示した生き方が「本当に価値ある生き方」だと見抜けないのです。

そうしてみると、イエスが種まかれた「イエスに倣うという生き方」は、多くが無駄になるかもしれません。イエスの生き方に興味を持っても、この世を生きるだけならありとあらゆる生き方があり、目移りするほどです。自分さえよければよいという生き方のほうが、かえって魅惑的ですらあります。

イエスは、様々な形で、ご自分の生き方を種まきなさいました。すべてを超えて神を愛し、隣人を自分のように愛する。この生き方を様々な形で種まいたのです。ある時は、幸いについての教えを説くことで。ある時は、奇跡を行うことで。ある時は、宗教指導者に追い詰められている人を守り抜くことで。

実を結んだ人たちはイエスが示してくださった生き方を重く受け止めた人たちです。三十倍とか、六十倍とか、百倍と聞くと怯んでしまうかもしれません。でも三十倍の実を結ぶ人を基準に考えれば、その倍実を結んだ人たち、三倍ちょっと実を結んだ人たちです。

イエスの生き方を種まかれて、重荷を負って労苦しているなら、その人はすでに実りを約束されています。実を実らせるのは神なのですから。人の二倍三倍苦労した人はいくらでもいるはずです。イエスの生き方に倣ったために重荷を負って労苦しているその人たちに、あふれるほどの実りを約束してくれるのです。

イエスが種まかれた生き方は、この世では重荷を負って労苦する生き方ですが、この生き方を重く受け止めた人の報いは、それまでの労苦を忘れさせます。辛抱強く、イエスに種まかれた生き方を積み上げていきましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第16主日
(マタイ13:24-43)
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ちょっとひとやすみ
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▼非常にありがたい。有料版メルマガの購読者が現れた。わたしと面識のある人かもしれないし、面識のない人かもしれない。有料版メルマガではないが、ネットでの宣教に共感してくださり、ご寄付もいただいた。非常にありがたい。
▼昔から懇意にしている人が2時間かけてわたしを訪ねてきた。わたしは事情があっても2時間かけて人を訪ねるのは慎重になる。だがその人は事情はあったとしてもわたしが聞きたい先輩の近況を携えて訪ねてくれた。非常にありがたい。
▼土曜日は本当に参った。数日前は珍しく便秘か?と思っていたら、今度は下痢だ。しかも一日に五回もトイレに駆け込んだ。「駆け込み寺」というのは聞いたことがあるが、「駆け込み厠」というのもあるのか。それでも倒れたわけでもないし、「用心しろよ」というきついお灸だと思えば非常にありがたい。
▼7月に入って急に教会行事が立て込んできた。お告げのマリア修道会四季の静修、子供たちとの食事会、平戸地区合同黙想会、新たに献堂百周年の実行委員会会議も入る。なかなか忙しくて、釣りに行く暇がない。ありがたくない。
▼体重が、79kgから78kgに移行した。「誤差の範囲」と言えなくもないが、誤差もいつ計っても78kgなら誤差ではなくなる。お医者さんの話では78kgなんてとんでもなくて、70kgに落としてくださいなどと言うが、そう簡単にはいかない。ただ、毎日できそうな運動が見つかったので、75kgくらいにはなれるかも。非常にありがたい。

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今週の1枚
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第501回目。教会内部の鐘。お借りした写真でよく見えないが、ラテン語が。

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年間第14主日(マタイ11:25-30)わたしはイエスと一緒に軛にかけられている

2017-07-08 | Weblog
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‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
2017/7/9(No.893)
‥‥‥†‥‥‥‥
年間第14主日
(マタイ11:25-30)
わたしはイエスと一緒に軛にかけられている
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年間第14主日、朗読は大変厄介です。「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(11・30)「イエスの軛は負いやすく、イエスの荷は軽い」と、信仰を誰かに伝えるときに語らなければなりません。むしろ「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」(マタイ5・39)と宣教するほうが簡単かもしれません。どのように理解したらよいのでしょうか。

司祭の働きから学びたいと思います。カトリック教会は洗礼を受けた時から記録を残して一人のカトリック信徒の魂の状態を保管し続けます。幼子が洗礼を受けたとしましょう。その子は洗礼台帳に記載され、同時に信徒記録票が作成されます。信徒記録票は、いわばその人がいつか進学や就職で転出することになった時のための基本台帳です。

洗礼を受けた子どもは、その後の教会での出来事が追加されていきます。初聖体を受けると、洗礼台帳の備考欄に初聖体の記録が追加されます。堅信を受けると、まずは堅信台帳に堅信の記載をしますが、同じように洗礼台帳と、信徒記録票にも堅信の記録を書き加えなければなりません、婚姻も同じことで、婚姻台帳、洗礼台帳、信徒記録票と合計3箇所に記帳しなければなりません。

正直、大変な作業です。洗礼台帳がすべての台帳の出発点なので、できれば洗礼台帳に堅信の記録を追記すれば、堅信台帳にも、信徒記録票にも、同時に記録が完了する。そういう魔法のような台帳が出来上がればいいのになと思います。

わたしに言わせると、パソコンを駆使し、資金を投入すれば可能だと思うのですが、パソコンを駆使できる世代が司教になり、長老クラスにならないと、そういう時代はやってこないかもしれません。

ただ、聞いた話では、韓国の教会はすでにそういうシステムが出来上がっているそうです。年間5万人も信者が増える国ですから、ある意味そういうオンラインシステムがなければ対応できないのでしょう。

さてここからが問題なのですが、長崎教区の全司祭が、洗礼を受けた人があとで堅信を受けた場合、堅信台帳への記入・洗礼台帳の追記・信徒記録票への追記、すべてを確実にこなしてくれているかと言うとそうではありません。

いろんな教会に赴任してみて、堅信を受けた子の洗礼台帳に当たってみると洗礼台帳には追記されていない。そういうケースはざらにあります。堅信がそうであれば結婚も同じことです。婚姻台帳には確かに記載されていますが、おおもとの洗礼台帳に追記されていないので、未完成のままです。場合によっては、「この人は書類上、結婚していない」という扱いを受ける可能性もあるわけです。

なぜそういうことが起こるかと言いますと、制度上の不備があるからだと思います。教区長である大司教様は、数年に一度小教区を訪問し、すべての台帳に目を通してご自分のサインをするのです。ここに欠陥がある。大司教様は前回のサインをされた頁から今回までの記録に目を通します。仮に5年間だとすると、5年間の洗礼台帳、堅信台帳、婚姻台帳、死亡台帳にサインをするわけです。

しかし、今年堅信を受けた子どもの原簿である洗礼台帳にも堅信を追記しているかどうかは、14年前の洗礼台帳を見なければ分からないわけです。結婚に至ってはなおさらです。今年結婚した人の記録を洗礼台帳に追記しているかどうかは、25年前、30年前の洗礼台帳を見なければ分からない。何が言いたいか、お判りでしょうか。

つまり、洗礼台帳に追記してなくても、バレたりはしないし、いよいよにならないと問題が表面化することもないということなのです。さらに問題なのは、司祭たちはそのことをうすうす分かっているのです。それは数年とかの長さではなくて、場合によっては10年20年、30年前の台帳を見ても同じようなケースに遭遇します。極端な話その人が亡くなってしまえば、洗礼台帳に堅信の追記がなくても婚姻の追記がなくても、表面化しないのです。

わたしは、こういう司祭たちは「知恵のある司祭」「賢い司祭」なのだろうなと思います。ただしイエスはこう言います。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。」(11・25)

神が御自分の思いを示そうとするのは、悪知恵・悪賢さを働かす者に対してではなく、だれかが、この教会の魂の記録を完成させなければならないと、重荷を負い、軛を背負う覚悟を持つとき、その時代の小教区、その時代の司祭にご自身をお示しになるのだと思います。

ではわたしはどうか。わたしは意地悪な人間なので、諸先輩が追記していない分は、わざと青のボールペンで追記しています。それでもわたしに与えられる時間も永遠ではありませんので、青のボールペンでどこまで未記入部分をさかのぼることができるか分かりません。けれども、中田藤吉神父さまに、百年後にやってきた司祭として胸を張って報告ができる程度には、形を整えたいとは思っています。

歴代主任の記録に青のボールペンで書き込むのは疲れます。重荷です。軛と言えます。しかし、誰も知りえない魂の記録を完成させる達成感は、言葉では表せないものがあります。この達成感がなければ、もともと怠け者のわたしが尻拭いなどするはずがありません。

今回話したことは、主任司祭しか知りえない部分ですが、どこかの時代に赴任した主任司祭が「青ボールペンの仕事」をしてくだされば(別に青のボールペンでなくてもよいですが)、その小教区の魂の記録は救われます。得てして、大教会ほど台帳記録に潜む危険は大きいのです。その誘惑を振り切って、神が世に与えてくださった魂に身をかがめ、台帳記入というゴールの見えない地道な作業に取り組んでくれる司祭こそ、「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」(11・30)この言葉の意味を理解するのだと思います。

「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」イエスの言葉の意味を理解できるのは、嘘偽りのない柔和と謙遜を身に付けた人です。軛は二頭の動物を一つにまとめる道具です。わたしと一緒に軛につながれているもう一頭は誰でしょうか。疑いもなくそれはイエス・キリストです。軛が負いやすく、軽い根拠もここにあるのです。

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‥次の説教は‥‥
年間第15主日
(マタイ13:1-23)
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‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
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▼「来週に続く・・・」「水曜日9時55分に・・・」だいたい見当はつくと思うが、これはドラマの最後に出ることの多い字幕だ。日本語だと「来週に続く」「水曜日9時55分に」を辞書で引くことなどあり得ないわけだが、勉強中のハングルだとわけが違う。
▼「○○9○○55○○・・・(○○の部分は実際はハングル)」ムムム?いったいこれは何だ?録画したドラマを一時停止して、ハングルのメモを取り、辞書を引く。ありがたいことに最近はネットでも翻訳辞書が使える。しかも「文字順」を気にしなくてよい。
▼英語だと「r」で始まる単語の意味を調べるには「a」から辞書をめくっていくわけだが、ネット上では該当する単語を入力すれば一発で翻訳してくれる。辞書を引いて苦笑する。「来週9時55分に・・・そりゃぁそうだよな。」自嘲気味に笑う。最近はその繰り返しだ。
▼それでも半年前とは韓国人との応対にも勇気が出てきた。大したものだ。初めに来た頃は避けていたが、今は「一応話を聞いてみるか」と来たものだ。「チョヌン ナカダシンプ イムニダ」韓国人はこれだけで大喜びしてくれる。その輪に加わることができるようになっただけでもすごい変化だ。
▼最近「根の深い木」という韓国王朝ドラマを観て、ハングルを勉強する気持ちが高まった。ドラマの中では王政が道を踏み外さないように手綱を操作する人々こそ国の根幹であると信じる一派が王の周りで暗躍。しかし王は民の声を聞くために、漢字ではなく、ハングルをひそかに開発させる。28文字で自国民すべてが読み書きできるという優れものだった。
▼ドラマなので単なるハングルの成り立ちというわけにはいかないが、たとえば日本語のカタカナ、ひらがなに匹敵する画期的な文字であることはよく理解できた。わたしの祖母はカタカナしか理解できなかった。そのことを思う時、すべての民に理解できる文字を開発した勇気を学ぶことができた。
▼実は7月17日にこの「国民すべてに分かる表現を」ということに触発された講話をする予定である。だんだんと、自分が果たす役割は「言いっ放し」ではなく「歴史が正しかったかどうかを判断する」そういう重みをもつようになってきた。自分が話したことを理解し受けとめ、長い時間をかけて形にしてくれる人が現れると嬉しい。そうなるように話そうと思う。

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今週の1枚
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第500回目。自分に洗礼を授けてくれた神父様。出身の田平にて隠居中。

ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/

【文庫本の問い合わせについて】
文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
3冊セットの提供が可能になりました。ABC年セットで
2000円です。ご希望の方は住所と名前を添えて連絡ください。
† 神に感謝 †
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年間第13主日(マタイ10:37-42)わたしのために命を失う者は、かえってそれを得る

2017-07-01 | Weblog
当ブログをお読みくださり、ありがとうございます。

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/170702.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
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こうじ神父
「今週の説教」
2017/7/2(No.892)
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年間第13主日
(マタイ10:37-42)
わたしのために命を失う者は、かえってそれを得る
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(ミサの初めに)年間第13主日を迎えました。今日は7月の聖トマスの祝日にいちばん近いので、わたしの霊名も祝ってもらえて感謝しています。そして佐世保から「みことば会」の皆さんがこの日のミサに参加してくれました。懐かしいです。小教区の皆さんのため、今日特別に来ている方々のため、心を込めてこのミサをささげたいと思います。

「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。」(10・37)これはイエスが弟子たちを前にして話している言葉です。イエスが話している言葉は、よく考える必要があります。12人の弟子たちは、すでに父と母を残して、イエスに従った人たちです。イエスが言っているような説明は必要ない人たちです。

イエスの言葉をうまく説明するためには、ここにいる弟子たちは誰なのかをまず考える必要があります。わたしはこう考えます。ここでイエスの言葉を聞いているのは、マタイ福音書が書かれた時代の人々で、イエスが目の前で語っているその意味は、福音書の中のイエスが、朗読を聞いている人々に生き生きと現れているのです。

福音書の朗読を聞いているのは、ほとんどが男性だったと思います。キリスト者たちは初めはユダヤ人の集会がおこなわれる会堂を利用していたはずです。そこに集まるのは、ユダヤ教の習慣に従えば男性ばかりです。女性は、男性が聞いて学んだことを、家に帰ってから聞いて学んでいたのです。この、男性ばかりの集まりが、イエスが語りかけている相手だと思います。

次に、イエスが言っていることですが、これは無理な要求でしょうか。納得できる要求でしょうか。いくつか例を挙げます。わたしが受けたものを比べてみましょう。わたしは父や母から名前をもらいました。神からは洗礼の恵みをもらいました。また、父と母から形をもらいました。父や母の特徴をもらっています。神からは、形はないけれども命をもらいました。

今あげた例で、神が与えてくれたものよりも父や母が与えてくれたものを大切にしたらどうなるでしょうか。神が与えてくれた命よりも、父や母が与えてくれた「形」を大切にする。もし見える形を大切にしても見えない命を大切にしないなら、どんな意味があるのでしょうか。

違う例を考えてみましょう。「わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。」(10・37)両親は子供に対して、何か計画を考えると思います。2歳になったらこういうことを体験させたい、3歳の時はこの計画、保育園の時期にこの計画、大人になるまでの計画を持っていると思います。そして将来は、こんな人になってほしいと考えているでしょう。

神様もわたしのために計画を持っていると思います。そして神さまの計画、神さまが持っている時間割は、両親が考えている計画と少し違うかもしれません。そんな時、神さまの計画と父母の計画、曲げることができないのはどちらの計画でしょうか。

父母は、自分たちがこどもに思い描いた計画通りに子供たちが成長しないと、心配したり焦ったり、苛立ったりするかもしれません。その時父母が、「なぜ計画通りに進まないのだろうか」と考えるのは、本当に正しいことでしょうか。

ところで神さまの計画は、予定が狂ったり、思い通りにならなかったりしているのでしょうか。わたしは、神さまの計画や時間割は、すべて神さまの望み通りに進んでいくと信じています。神さまはご自分が人間に立てた計画を、心配したり焦ったり苛立ったりはしないと思います。

そこで考えてほしいのですが、「わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。」子供の成長を見守る両親は、神さまがこどもに持っている計画よりも、自分たちが子供に思い描いている計画を愛するのは、ふさわしくないと思います。わたしたち両親も、神さまも子供を愛しています。子供を愛することは素晴らしいのですが、子供にかけた両親の計画を愛するようになると、神さまの望みに合わなくなるのではないでしょうか。

わたしたちは子供を見守る時、わたしたちの計画通りに育っていることを喜ぶのではなくて、神さまの望みに答える子供に成長していることを喜ぶ人になっていきたいと思います。

田平教会の主任司祭としては、いろいろ投げかけたことを自分に当てはめ、このように実行したら主任司祭が喜ぶのではないだろうか。そのように考え行動する信徒に育ってほしいといつも願っています。けれども、それは中田神父の思い描く理想ですから、神さまの望みは少し違うところにあるかもしれません。だから、「どうしてわたしの投げかけを、右から左に受け流すのだろうかと苛立ってはいけない」今はそう思っています。

イエスは時代を超えて、いつもわたしたちに語りかけています。今は聖書を通してイエスは語りかけます。イエスの声を聞こうとする人はみな、イエスの弟子です。それぞれの生活の中で、「わたしの思いよりも、神の思いが実現しますように」こんな考えを基本にして、生活してほしいと思います。

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‥次の説教は‥‥
年間第14主日
(マタイ11:25-30)
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ちょっとひとやすみ
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▼わたしが代表を務めるボランティアグループについて、わたしのメルマガと比べながら考えてみた。読書に支障のある方々のために音訳を通して情報提供の手助けをしている。会員は例外なく会費を納めて活動を続けている。自分たちの活動を維持するためだ。
▼今は会費の区分が緩和されたが、わたしの記憶によるといちばん活動している中心的な会員は月額600円の会費を払っていたと思う。その次のランクの会員が300円、そして名前を連ねて、つながりだけでも保っていたいという会員は100円だった。
▼わたしの中では「中心的に働いている会員こそ会費を100円に抑えたほうがよいのではないか」という考えがある。中心的な会員はその働きぶりで十分会費を補っていると思うからだ。むしろ中心的な働きができなくなった方々に、多めの会費で活動を負担してもらうのが合理的だと思っている。
▼ところが実際は、個人的な事情をかなり横に置いてまでボランティアを支えてくださっている中心的会員が最も活動資金を負担してきた。長年の伝統であるし、それなりの理由や事情もあるだろうから、責任者の座にいるというだけで仕組みをとやかく言うつもりはない。「働きも会費の納入も、よく頑張るなぁ」と感心するばかりだ。
▼そこで改めて考えてみた。わたしのメルマガ発行に対して、わたしは会費を払うことができるだろうか。自分の働きに対して、いくらかの費用を自分が払うことに意味とか価値を見いだせるだろうか。考えてみた。
▼自分の働きに自分で費用を支払うと、何か変化が起こるだろうか。ひょっとしたら、もっと自分の働きに責任を感じるようになるかもしれない。もっと内容を吟味したり、何度も読み返して対価に見合うメッセージを汲み取ろうとするかもしれない。
▼ということで、有料版(内容は無料メルマガと同じ)を発行し、自分が購読することにする。有料メルマガを自分で購読して、こりゃダメだと思ったら有料版は廃刊としたい。わたしは、このメルマガ配信に月額432円(税込)払う。無料版も継続するし、一切配信を受けず、ブログで読むこともできる。読者もどれかを選んでもらいたい。
▼有料版を購読してくださる方が納めてくださった購読料は定期的に報告します。関心のある方へ、URLはコチラ。http://www.mag2.com/m/0001627418.html 月途中の登録でも、月内に発行されたメルマガがすべて届きます。

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今週の1枚
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第499回目。司祭館の敷地の梅が実をつけた。いつまで鳥に見つからないだろうか

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ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
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