こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

復活節第3主日(ルカ24:13-35)今弟子はどこへ行き、何をすべきか

2020-04-25 | Weblog
当ブログをお読みくださり、ありがとうございます。

●●●重要なお知らせ●●●
ホームページサーバーを変更しました。「お気に入り登録」など
新しいURLに切り替えてください。ご不便をおかけしますが、
どうかよろしくお願いいたします。新しい「話の森」URLは、
http://ss104313.stars.ne.jp/
です。ブログのみの利用者の皆様は変更の必要はありません。
●●●重要なお知らせ●●●

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://ss104313.stars.ne.jp/voice/200426.mp3
(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
2020/4/26(No.1060)
‥‥‥†‥‥‥‥
復活節第3主日(ルカ24:13-35)
今弟子はどこへ行き、何をすべきか
‥‥‥†‥‥‥‥

復活節第3主日は、復活したイエスがエマオで弟子たちに現れる場面が朗読されました。エマオに向かう弟子たちの出会っている方が復活したイエスだと気づいたのは、イエスが「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」(24・30)場面でした。ここに注目して学びを得ることにしましょう。

皆さんも、最近人と会うことが少なくなっていると思います。会う人が少なくなれば、変わった人と出会うことも少ないでしょう。面白い話を聞くことも少ないでしょう。そこで私のちょっとした失敗で、大いに笑ってください。

先週、春物の長袖シャツを買いました。思い切って派手な色のシャツを買いました。あわせて春物のジャンパーを買いました。こちらは地味な色です。シャツと合わせると、ちょうど良い着こなしになるなと、自分で喜んでおりました。

古くから付き合いのある人に、春物の服を買った話をしました。「どこで買ったの?」と聞かれたので、「西松屋で買ったよ」と答えたのです。実際には「しまむら」で買った服でした。するとその人は笑い転げて「笑いすぎておなか痛い。助けて~」と言うのです。何がそんなにおかしいのか分からない私は、「西松屋で買った服は似合わないかなぁ?」とさらに追い打ちをかけたのです。するとその人は笑いすぎて声も出なくなりました。
笑いをこらえながら、その人は必死の思いでこう言ったのです。「神父様の服は、もしかして『しまむら』で買ったんじゃないの?『西松屋』は子供服専門の店よ。」ここでようやく笑っていた理由が分かりました。

福音朗読に戻りましょう。エマオに向かう弟子たちは、完全に気落ちしてエルサレムを離れようとしていました。「心ここにあらず」そんな人にとっては、身近な人がそこに居てもその人だと気づかないかも知れません。そんな状態で、イエスと共に歩いていたのです。

復活したイエスはまず、聖書を説明し始めます。「(イエスは)モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。」(24・27)たとえば裁判などで証拠として採用されるのは、一つは「証言」、もう一つは「物的証拠」です。復活したイエスは、言ってみれば「証言」を通してイエスが苦しみを受けて復活することになっていると説明します。

しかし弟子たちは「証言」によって変わることができませんでした。彼らの失望を希望に変えるためには、「証言」だけでは十分ではなかったのです。聖書の一つひとつの言葉は力ある言葉ですが、エマオに向かう弟子たちの心はすべてが奪われ、空虚になっていたので、聖書の言葉だけでは変わることができなかったのです。

そこでイエスは、ご自身のわざによって弟子たちの心に触れようとしました。ここで物的証拠を示されるのです。「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。」(24・30-31)

パンを裂いたとき、二人は目の前におられる方がイエスだと分かりました。イエスは復活し、生きておられると分かりました。私はこの「イエスがパンを裂いたとき」は、単に夕食の席で食べるパンを裂いたときに限らなくてもよいのではないかと思うのです。イエスがパンを裂かれる様子は、最後の晩餐を思い起こさせます。最後の晩餐のかたどりなら、それは同時に、十字架上の出来事でもあります。

つまりこういうことです。食卓のパンを裂いたときに復活したイエスが目の前におられると理解した。出来事が教えているのは、イエスがご自分の身体を裂いてお与えになる場面はすべて、パンを裂いてくださったあの二人の弟子の体験と重なるのだということです。

対立している人と人との間に和解をもたらすため、イエスがご自身を裂いて両者の歩み寄りを叶えてくださる。ゆるしがたい人が心から罪を悔やんでいる。人間としてはゆるせないけれども、イエスがご自身を引き裂いてゆるしの力を与えてくださる。このようにイエスがご自分を裂いて与えてくださる場所で、人は復活したイエスに出会い、「イエスは生きている」と実感することができるのです。

イエスがご自身をパンとして裂いてお与えになる場面は福音書の中だけではありません。新型コロナウィルスの影響で、ミサが中止となり希望をなくしている私たちにこそ、必要とされています。イエスは喜んでご自身を裂いてお与えになり、「わたしは生きて、いつもあなたたちと共にいる」と声をかけ、力づけてくださるのです。

イエスが生きておられると理解した二人の弟子は、エルサレムに戻りました。エルサレムは危険な場所になっていたはずです。イエスが復活して生きていると主張すれば、自分たちに危害が及ぶかも知れません。それでもあえて、二人はエルサレムに留まっている弟子たちの元へ行ったのでした。「イエスは生きておられる」と知った私たちにも、復活の喜びを告げ知らせる使命が与えられています。

完全に希望を絶たれた人にイエスは現れて、ご自身を裂いてお与えになり、勇気と希望を与えてくださいます。ミサに参加する可能性を完全に奪われた私たちにも、復活したイエスはご自身を裂いて与えてくださり、苦難を耐え、苦しみからでも復活したイエスを喜んで伝えられる人になるよう望んでおられます。

裂かれたパン、裂かれたイエスご自身は、どんな暗闇をも打ち破る希望の光です。エマオへ向かおうとしていた弟子たちに現れたイエスは、今私たちを力づけ、励ましてくださいます。信頼して、また祭壇で食卓を囲む日を待ちましょう。イエスは今も私たちと共に歩いてくださり、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」(24・17)と声をかけてくださいます。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
復活節第4主日(ヨハネ10:1-10)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼不謹慎な話と思われるだろうが、釣りに行けなくて困っている。魚を確保して、お刺身、焼き魚、煮付けなど食べたいが、それができない。原因は春の嵐だ。月曜日が公休日の中田神父にとってその日は待ちに待った「漁に出る日」なのだが、このところずっと強風に邪魔されている。
▼平戸瀬戸は東西に平戸大橋が架けられていて、海水は南北に満ち干する。この状況で東風はわりあい私の漁場に影響しないが、西風、または南北の風は釣りを困難にする。この季節の風は南西の風、南南西の風。しかも5m以上だ。
▼5mまでなら、「行く!」と覚悟を決めて行く。しかし6mとか、7mになると、これはもう「命がけ」ということになる。さすがに命はかけられない。新型コロナウィルスの影響で命の危険なら同情してもらえるが、「釣りに行っていた」では笑われるのが関の山だ。
▼こうして説教を書きながらも強風が「ザワザワ~」とか「ガサガサ~」とか音を立てている。恨めしい。最近道路からのすべての進入口に「三角コーン」と「ポール」を設置して人の出入りが厳しく制限されているので、教会敷地内はあらゆる野鳥がなわばりを主張して一日中鳴いている。人間の出入りが極端に少なくなったことを鳥たちも理解しているらしい。
▼さらに始末が悪いのが野良猫だ。夜、パートナーを求めて「ニャオーンニャオーン!」と鳴く。最近は日中も鳴いている。迷惑なので、水をかけたり石を投げたりするが、「何するんだよ!」みたいに私のほうが睨まれる。世帯主は私なのに。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第667回目。肘をついて「うーうー」うなりながら説教を考えてたらこの有様。

ホームページもご覧ください。
http://ss104313.stars.ne.jp/

【文庫本の問い合わせについて】
文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
3冊セットの提供が可能になりました。ABC年セットで
2000円です。ご希望の方は住所と名前を添えて連絡ください。
† 神に感謝 †
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神のいつくしみの主日(ヨハネ20:19-31)信じない者ではなく、信じる者になりなさい

2020-04-18 | Weblog
当ブログをお読みくださり、ありがとうございます。

●●●重要なお知らせ●●●
ホームページサーバーを変更しました。「お気に入り登録」など
新しいURLに切り替えてください。ご不便をおかけしますが、
どうかよろしくお願いいたします。新しい「話の森」URLは、
http://ss104313.stars.ne.jp/
です。ブログのみの利用者の皆様は変更の必要はありません。
●●●重要なお知らせ●●●

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://ss104313.stars.ne.jp/voice/200419.mp3
(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
2020/4/19(No.1059)
‥‥‥†‥‥‥‥
神のいつくしみの主日(ヨハネ20:19-31)
信じない者ではなく、信じる者になりなさい
‥‥‥†‥‥‥‥

復活節第二主日、神のいつくしみの主日を迎えました。緊急事態宣言が全国に広げられましたが、私の印象は、限定的に使用された法律も、最終的には全国民を規制する法律に化けるのか。そういう印象です。感染者数が多い少ないはこの際問題ではないのは分かりますが、全国一律には違うのではないか、そういう思いが拭いきれません。

さて今週の福音朗読から届けたいメッセージは、神が与えようとするのは、徹底していつくしみなのだということです。復活した主は平和を与え、使命を与え、いつくしみを与えてくださいました。すべてひっくるめて考えると、復活した主は私たちが生きるように、命を与えてくれました。いつくしみのある所に、神が、神の愛が、現れるのです。

朗読では二つの出来事が組み合わされていますが、どちらも「週の初めの日」の出来事です。それは私たちにとっての日曜日です。弟子たちに復活したイエスが出現したことと、最初の出現に立ち会っていなかったトマスに、イエスが出現したことが組み合わされています。ここから、「週の初めの日」つまり日曜日に、イエスを信じる集まりにも、イエスを信じる個人にも、いつくしみを示してくださるということです。

最初の出現でイエスが弟子たちに手とわき腹とをお見せになると、「弟子たちは、主を見て喜んだ」(20・20)とあります。本来は、「喜べる立場か?」と非難されても仕方ない状態です。イエスの十字架の場面で弟子たちはその場にいなかったのですから。それでも「主を見て喜んだ」と書かれている。これは、イエスのいつくしみがどれほど大きいかを物語っていると思います。

神のいつくしみを考えるとき、「放蕩息子のたとえ」を思い出さずにはいられません。弟のしたことは、兄からの非難でも分かるように、弁解のしようがないものでした。けれどもこの物語が示そうとしているのは、それを上回る父親のいつくしみでした。人間は、神のいつくしみのおかげで、すべてを水に流してもらい、いつくしみを受けた人間に生まれ変わるのです。

八日の後、新しい週の初めの日、トマスも神のいつくしみに触れることになります。トマスの心は頑なになっていました。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」(20・25)もはや弟子たちにはトマスの心を開く力は無かったのです。トマスがへそを曲げているだけかも知れません。けれども似たようなことは、私たちの誰にでも起こることではないでしょうか。

兄弟姉妹でいがみ合っている人たちがいます。兄弟は本来最も理解し合えるはずの関係です。それなのにどちらも折れようとせず、何年も一言も口をきかない場合があります。司祭は「兄弟」と呼ばれたりする間柄ですが、その中でも同級生は理解し合える間柄のはずです。けれども同級生と一言も口を聞かないこともあります。そうなった理由とか、その人の言い分があるわけです。こじれた関係、こじれた絆は、とても人間の力では修復できないものになってしまいます。

そんな、人間にはもはや心を開かせる術がないときに、神のいつくしみが必要なのです。神はどれほど頑なで、心を閉ざすもっともな理由がある人でも、神のいつくしみで覆い、いやしを与えてくださいます。頭では心を開くべきだと分かっていてもそうできない弱い人間を、神のいつくしみは黙って、覆い尽くしてくださるのです。心を開けず、後れを取った人たちを黙って受け入れ、群れに連れ戻してくださる。それが神のいつくしみの働きなのです。

今、神のいつくしみは誰に必要でしょうか。新型コロナウィルスの影響で、人が人と近づくことを避けようとしています。多くの人が自宅にこもり、もしかしたら自分の殻に閉じこもっているかも知れません。今年の神のいつくしみの主日は、すべての人に必要な恵みの日となった。私はそう考えます。

ミサに来ることを制限されました。司祭も会衆のいないミサを要請されています。いつまで、私たちは耐えなければならないのでしょうか。ある人は神様の働きが遅すぎるのではないかと悲観しているかも知れません。たとえ人間には遅いと思われても、神は遅れることなくご自身のいつくしみを示してくださいます。神がお与えになるはいつもご自身のいつくしみであって、罰ではないのです。

神のいつくしみに信頼を寄せましょう。ミサ再開の日を、神は取り上げているのではなく、私たちにより深く求めさせているのです。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」(20・27)ミサ再開の日を信じない者ではなく、信じる者になりましょう。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
復活節第3主日(ルカ24:13-35)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼ドラッグストアに行ってきた。入り口には「マスクは入荷未定です」と張り紙がしてあった。月に1億枚とか、2億枚とか生産していても、入荷しないらしい。私はその理由が分かるような気がする。
▼今の生活では、100歩進めば店がある。コンビニ、スーパー、小売店。そのどれもが「マスク」を100枚販売しようとしたら、店頭に必要な枚数は、10億枚も、20億枚も必要なのではないか。昔は町内に店は数軒しかなく、そういう時代であれば店頭に必要な枚数は数百万枚程度で、入荷しないなどということは無かったことだろう。
▼ちょっと歩けば似たような店がある。この状態が、1億枚生産しても店頭に並ばない原因ではないのか。だとすれば私たちが期待した今の生活の形が、マスク不足を引き起こしているのである。私は(効果のほどは別として)マスクは買わず、手作りの物を使用している。
▼また、ドラッグストアで目の飛び出るような商品を見た。2500円以上する歯磨き粉だ。私の198円の歯磨き粉が、ゆうに12個買えるではないか!こんな物を使う人がいるのか?用途が同じでも、「保険が利くもの」と「保険が利かないもの」との違いを見たような感じだった。
▼部屋が暗くてうんざりしていたので、思い切って部屋の明かりを取り替えた。はやりのLED照明だ。ついこの前蛍光灯照明の蛍光管を交換したのに。だが今の快適さを考えると、もっと早くから取り替えるべきであった。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第666回目。自分のマスクはくしゃみを飛ばさないため。蛍光管も買い直した。

ホームページもご覧ください。
http://ss104313.stars.ne.jp/

【文庫本の問い合わせについて】
文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
ありがとうございます。現在A年説教集のみ提供可能です。
ご希望の方は住所と名前を添えて連絡ください。
† 神に感謝 †
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

復活の主日(日中)(ヨハネ20:1-9)信じて、ミサ再開の日を待とう

2020-04-08 | Weblog
当ブログをお読みくださり、ありがとうございます。

●●●重要なお知らせ●●●
ホームページサーバーを変更しました。「お気に入り登録」など
新しいURLに切り替えてください。ご不便をおかけしますが、
どうかよろしくお願いいたします。新しい「話の森」URLは、
http://ss104313.stars.ne.jp/
です。ブログのみの利用者の皆様は変更の必要はありません。
●●●重要なお知らせ●●●

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://ss104313.stars.ne.jp/voice/200412.mp3
(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
2020/4/12(No.1058)
‥‥‥†‥‥‥‥
復活の主日(日中)(ヨハネ20:1-9)
信じて、ミサ再開の日を待とう
‥‥‥†‥‥‥‥

あらためて主の復活おめでとうございます。イエスが復活の栄光を受けたとき、ご自身が死んで復活すると、誰よりも心の準備をさせてもらったのは弟子たちでした。ここに今年は注目しましょう。

マグダラのマリアは、墓から石が取りのけてあるのを見ましたが、彼女の心は準備ができていませんでした。弟子たちは三度も、イエスの死と復活について予告を受けたので、出来事の向こうにあるものを捉える準備がいくらかできています。しかし完全には捉えきれません。

ヨハネ福音書はもう一人の弟子の様子を「先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた」(20・8)と描いています。死と復活の予告がなければ、とてもここまで理解が及ばなかったでしょう。ただ、予告があったとしても、弟子たちの力だけで理解し、信じることができたのかというとそうでもないようです。直後にこう書かれています。「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。」(20・9)

もし、人間の力だけでイエスの復活を捉えることができるのであれば、違う書き方になっていたでしょう。「二人はようやく理解することができた」そういう結び方になったかも知れません。「入って来て、見て、信じた」この直後に「二人はまだ理解していなかったのである」と続けるのには、何か理由があるでしょう。

マタイ・マルコ・ルカ福音書には、三度にわたってイエスの死と復活の予告があります。私たちの感覚からすれば、どんな人間も三度指摘されれば十分理解できるでしょう。それでもペトロともう一人の弟子は、イエスの復活の出来事にたどり着けなかったのです。なぜでしょうか。

それは、「人間の理解を超える出来事は、ただ示されただけでは理解できない」ということなのだと思います。決して理解できないわけではなく、イエスのほうから近づいてくださって初めて、人間の理解を超える出来事にも心と身体の目が開かれるのです。

弟子たちはイエスの死後、完全に希望を失ってしまいました。マグダラのマリアは墓に行きましたが、彼女は終わってしまった出来事にすがりつこうとします。人間の力が及ぶのはここまでなのです。イエスが近づいてくださるとき初めて、復活したイエスが示そうとする未来に、限りある人間の目が開かれていくのです。

私たちも、今年の四旬節、受難の主日と大きな悲しみを背負いました。ミサに参加できず、心の中では死んだも同然でした。しかしここで、過去にしがみついてはいけません。イエスと同じく死んだのでしたら、復活したイエスが近づいて、未来に目を向けさせてくださいます。

私たちの死んだも同然の体験は無駄ではないのです。死んだからこそ、未来に目を向けてもらえるのです。全世界の教会が、再び復活するための「霊的な死」を体験しました。イエスは必ず私たちを、復活の希望に招いてくださる。固く信じて、ミサ再開の日を待ちましょう。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
神のいつくしみの主日(ヨハネ20:19-31)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼4月8日付の長崎教区の通達によって、「司祭は会衆なしのミサをささげてください」と明確に制限がかかった。修道院にミサをしに行くことも禁じられる。「司祭の対応がまちまちで、信徒が不安を感じている」という指摘もあったし、「教区の対応のあいまいさに問題がある」という反省も出たらしい。
▼声には出してなかったが、「ミサ参加の呼びかけはしませんが、司祭はミサはしています」みたいなお知らせをする教会もあったわけで、「それだと『来ていいよ』と言っているのと同じだなぁ」と思ったものだ。たとえ人数を限定しても、問題は残る。問題ある状態で続けるよりも、会衆なしでしたほうが良くないかなぁと感じていた。
▼教区の対応のあいまいさは私からは発言は控える。これで本当に、表現は俗っぽいが「無観客ミサ」になるわけだ。司祭はますます、「見えない神の民」を意識して、行動しなければならない。こんな時だからこそ、「そちらの教会ではどのような工夫をしていますか?」と情報共有をすべきだと思うのだが。
▼本部事務局に、一つ提案してみよう。「この聖なる三日間、誰の説教も聞くことなく、教区民は過ごすことになるのでしょうか?」私の番宣をするつもりは毛頭無いが(もともと毛もないが)、「誰かが説教を公開しているわけだし、大司教様の説教を公開する方法もまだ間に合うでしょ~」それくらいは言ってもいいだろう。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第665回目。教区には、声を上げようにも上げられない人がいるに違いない。

ホームページもご覧ください。
http://ss104313.stars.ne.jp/

【文庫本の問い合わせについて】
文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
3冊セットの提供が可能になりました。ABC年セットで
2000円です。ご希望の方は住所と名前を添えて連絡ください。
† 神に感謝 †
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

復活徹夜祭(マタイ28:1-10)あなたは2020年のもう一人のマリア

2020-04-05 | Weblog
当ブログをお読みくださり、ありがとうございます。

●●●重要なお知らせ●●●
ホームページサーバーを変更しました。「お気に入り登録」など
新しいURLに切り替えてください。ご不便をおかけしますが、
どうかよろしくお願いいたします。新しい「話の森」URLは、
http://ss104313.stars.ne.jp/
です。ブログのみの利用者の皆様は変更の必要はありません。
●●●重要なお知らせ●●●

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://ss104313.stars.ne.jp/voice/200411.mp3
(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
2020/4/11(No.1057)
‥‥‥†‥‥‥‥
復活徹夜祭(マタイ28:1-10)あなたは2020年のもう一人のマリア
‥‥‥†‥‥‥‥

主の復活おめでとうございます。ここには実は誰もいません。まるでそれは、イエスが復活した瞬間のようです。もしイエスが復活して墓から出られたのであれば、今宵のように、誰もいなかったのでしょう。私はここから、今年の復活徹夜祭の説教を始めたいと思います。

今年の小教区黙想会で、ベルゴリオ枢機卿が教皇フランシスコとして選出される直前に、カリタスの黙想会で語った言葉を思い出しました。彼はカリタスの黙想会参加者に「 (問題は)イエスを聖具室に縛りつけていること」だと語り、イエスが戸口に立って呼びかけるヨハネの黙示録の一節を引用して、この話はイエスが中に入れてくれと戸を叩いている話ではなく、内側に閉じ込められているイエスが外に出してくれと言っている話であると思うようになったと述べたのでした(黙示録30・20)。

まさに、今年の復活徹夜祭はその思いでこの場にいます。私は、イエスを聖櫃に縛り付けるような説教をしてはいけないのです。イエスが外に出て、大胆に語ることができるような説教をしなければならないのです。その助けになればと思い、一つの思い出話を紹介します。

私は、大神学生時代にあっと驚く神父様に出会いました。その神父様は私と、私の先輩を外に連れ出して、初めて見る物、初めて聞くこと、初めて味わうものを経験させてくださいました。これは宇都宮で本当にあった出来事です。

最初は最高級ランクのステーキをおごってもらいました。そのあと生まれて初めてスナックに連れて行ってもらい、お店の人と歌を歌いました。見るもの聞くものすべてが、あっと驚くものでした。

しかしその神父様自身はそのすべてにまったく流されることなく、連れて行ってくれる前も連れて行ってくれた後も、まったく変わらない神父様でした。今日の福音朗読で例えるなら、番兵に過ぎなかった私は見るもの聞くものすべてに恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになったのでした。

神父様は圧倒的なお姿で教えてくださったのです。「恐れることはない(中略)。あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ(中略)。さあ、出かけていって弟子たちに告げなさい。」復活したイエス・キリストを知った人は、何にも縛られることなく、まったく自由にキリストを告げ知らせるのである。私はそのことを出会った神父様から教わったのです。

今や、イエスは何にも縛られず、復活してすべての時間、すべての場所、すべての国に福音を告げ知らせます。ミサが中止され、自分の殻に閉じこもっている場合ではありません。あなたも私も、復活したキリストを自分の殻に閉じ込めることなく、「私を出して、告げ知らせに行ってくれ」と叫んでいる復活したキリストのお手伝いをしましょう。このメッセージを聞いたあなたは、2020年にイエスを墓に訪ねたマグダラのマリアともう一人のマリアなのです。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
復活の主日(日中)(ヨハネ20:1-9)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼主のご復活おめでとうございます。黙想会などが開催された小教区はそう多くはないと思う。平戸地区では紐差教会、田平教会、平戸ザビエル教会、上神崎教会が黙想会を開くことができた。その仕上げ、「赦しの秘跡」で笑うに笑えない出来事があった。
▼司祭と告白者がやりとりをする中で、告白者が司祭の声を聞き取りづらかったらしい。「よく聞こえません」と言って、接近したのが分かる。私も仕方なく接近して、少し声を大きくする。その状態で私が心の中で考えた。「これって、『濃厚接触者』の状態だよね。」
▼Instagram(インスタグラム)という道具(アプリ)がある。Twitter(ツイッター)とか、そういうたぐいのものだ。この「インスタグラム」は「インスタばえ」という言葉があるとおり、写真を投稿して楽しむ場所だ。
▼ところが、私は写真はあまり趣味ではない。「今週の一枚」も、文字だけではあまりに味気ないので写真を載せているだけで、写真の腕に覚えがあるわけでも何でもない。だから、正直言ってInstagram(インスタグラム)は苦手なのである。
▼ところが、このInstagram(インスタグラム)に、ときどきフォロワーが付く。いつ掲載したか分からない写真を見た人が、フォローしてくるのである。次にいつ写真を掲載するかも、その写真の出来栄えがどうなるかもまったく見通せないのに、フォローしてくる。写真を見たいなら見ても構わないが、フォローしなくても良いではないか。
▼そこで仕方なく、Instagram(インスタグラム)の使い方を考えてみた。まったく趣旨にそぐわないのだが、使い方を思い付いた。興味がある方は”thomas.k.nakada”という名前のインスタグラムユーザーを検索して欲しい。Instagram(インスタグラム)の効果的な使い方が理解できないおじさんが出した結論だ。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第664回目。植物は奪われても奪われても復活する。来年また使わせてね。

ホームページもご覧ください。
http://ss104313.stars.ne.jp/

【文庫本の問い合わせについて】
文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
3冊セットの提供が可能になりました。ABC年セットで
2000円です。ご希望の方は住所と名前を添えて連絡ください。
† 神に感謝 †
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

聖金曜日(ヨハネ18:1-19:42)神はすべてのことから善を引き出される

2020-04-05 | Weblog
当ブログをお読みくださり、ありがとうございます。

●●●重要なお知らせ●●●
ホームページサーバーを変更しました。「お気に入り登録」など
新しいURLに切り替えてください。ご不便をおかけしますが、
どうかよろしくお願いいたします。新しい「話の森」URLは、
http://ss104313.stars.ne.jp/
です。ブログのみの利用者の皆様は変更の必要はありません。
●●●重要なお知らせ●●●

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://ss104313.stars.ne.jp/voice/200410.mp3
(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
2020/4/10(No.1056)
‥‥‥†‥‥‥‥
聖金曜日(ヨハネ18:1-19:42)
神はすべてのことから善を引き出される
‥‥‥†‥‥‥‥

今日、全世界が、主のご受難を黙想します。単に思い巡らすのではなく、どうしてお亡くなりにならなければならなかったのか、一人ひとり胸に手を置いて考えます。私が犯した罪をイエスは背負って、十字架の上で命をささげてくださったのです。

イエスが人間を救うために万全の準備をしておられたことを今年の聖なる一週間で黙想していますが、イエスがお亡くなりになる準備を着々としておられたと考えるのは、不謹慎なことではないでしょうか。どんな人間でも、いついつ亡くなるために今日抜かりなく準備するなどと考えるのは、命を大切にすることにならないと思うのです。

一つだけ、こういう言い方は可能でしょう。「わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。」(ヨハネ10・18)再び受けるために、準備します。三度にわたる受難の予告さえも、「命を再び受けることもできる」ことを弟子たちに理解させる準備の時間でした。

「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」(ヨハネ12・32)イエスが上げられたのは、人々の歓喜の声によってだったでしょうか。そうではありません。「殺せ。殺せ。十字架につけろ。」(19・15)宗教指導者に扇動された群衆の叫びによって、イエスは上げられたのでした。しかしイエスが「地上から上げられる」のは、この方法をおいて他になかったのです。

神はあらゆることから、善を引き出すお方です。「地上から上げられる」本来であればこれは高められること、栄誉を受けることのはずです。それが、十字架にはりつけにされることで、「地上から上げられる」ことになったのです。人々の敵意から、「死と復活」という驚くべきわざを成し遂げたのです。何も見えなくなって、人類が決定的な背きをイエスにおこなったその時に、神はイエスに栄光をお与えになったのです。

イエス・キリストのことばと行いは、しばしば「分裂」をもたらすもととなりました。「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。」(ルカ12・51)しかし同時に、イエスは生涯にわたることばと行いによって、救いの計画の完成を準備してこられたのです。

私たちの罪が、イエスを地上から上げてしまいました。十字架の上ではりつけにされていますが、あの十字架は罪を犯した私たちの「手」です。一人の人間の手では、イエスを地上から上げることは決してできません。何千何万という人の手が重なって、イエスを地上から上げたのです。一人ひとりの罪は些細なものかも知れません。しかしその罪が何千何万と重なって、イエスを地上から上げてしまったのです。

私たちは逃げることなく、今はただ、胸を打ち、赦しを願いましょう。主はすべての罪を背負って復活し、私たちを救ってくださいます。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
復活徹夜祭(マタイ28:1-10)
‥‥‥†‥‥‥‥

‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼今年、二つの貴重な体験をした。一つはポリープの除去手術、一つは黙想会の感謝のミサである。大腸検査をして、ポリープが4個見つかり、その場で除去手術をしてもらった。見事な施術で、気がついたら手術は終わり、日帰りで退院することができた。
▼もちろん多少の痛みは残った。その日一日、「チクチクした痛み」を感じたし、軟らかい食べ物を食べたのに「おなかを通過する感覚」が見事に伝わってきた。少し命が縮まったのかも知れないが、「命を長らえた」という思いのほうが強かった。
▼きっと大腸検査を放置していれば、ポリープはさらにいたずらをしていたに違いない。自然に治癒したりはしないのだろうから、検査を一年先延ばしにすればそれだけ、検査の所見に命の縮まる思いをしたことだろう。自分の命であっても自分自身の思い通りにならず、常に神の手の中にあるのだということを実感する出来事だった。
▼もう一つは、田平教会の黙想指導をして、たしか「夜の部」の感謝のミサの時だったと思う。「主はみなさんと共に」と招きながら、会衆と自分自身との間に「越えることのできない淵」があるような感覚に襲われた。
▼何しろ初めてのことで的確に表現しづらいが、「あの世とこの世」の隔たりくらいに感じる「淵」が私には見えた。あれは何だったのだろうか。二度と会えない別れのような、そんな隔たり。何を意味していたのか、いまだに分からない。
▼何を暗示していたのかは分からないが、十字架上のイエスも、地上から上げられてののしり叫ぶ群衆との隔たりを感じたかも知れない。イエスをはりつけにした群衆は、そこに集まってはいてもイエスとの間に越えることのできない「淵」がある。イエスも、どれだけ「十字架から降りよ」と言われても降りることのできない「淵」がある。そんなところだろうか。
▼初めて祭壇上のイエスと心一つにミサをささげたのかも知れない。イエスはミサに集まったすべての人の祈りを御父にささげてくださる。私が「見えない淵」を見たのであれば、何とかしてその淵を渡り、ミサに参加しているすべての人の祈りを神に取り次がなければならない。それは、これからささげる一つひとつのミサにかかっている。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第663回目。私の知っている人が二人、不眠という「十字架」を背負っている。
http://ss104313.stars.ne.jp/200410.jpg

ホームページもご覧ください。
http://ss104313.stars.ne.jp/

【文庫本の問い合わせについて】
文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
3冊セットの提供が可能になりました。ABC年セットで
2000円です。ご希望の方は住所と名前を添えて連絡ください。
† 神に感謝 †
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

聖木曜日(ヨハネ13:1-15)ご自身を与える愛は、はるか昔に準備されていた

2020-04-04 | Weblog
当ブログをお読みくださり、ありがとうございます。

●●●重要なお知らせ●●●
ホームページサーバーを変更しました。「お気に入り登録」など
新しいURLに切り替えてください。ご不便をおかけしますが、
どうかよろしくお願いいたします。新しい「話の森」URLは、
http://ss104313.stars.ne.jp/
です。ブログのみの利用者の皆様は変更の必要はありません。
●●●重要なお知らせ●●●

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://ss104313.stars.ne.jp/voice/200409.mp3
(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
2020/4/9(No.1055)
‥‥‥†‥‥‥‥
聖木曜日(ヨハネ13:1-15)
ご自身を与える愛は、はるか昔に準備されていた
‥‥‥†‥‥‥‥

聖木曜日、イエスは弟子たちと最後の晩餐を囲み、生涯で最も意味深い弟子たちとの時を過ごしています。今、ミサをささげながら、同じ時間に心を合わせて祈っている田平教会の信徒の皆さんを思い浮かべ、イエスが残された愛の記念を、すべての人と分け合おうとしています。

今年は、イエスが入念に準備をしてからすべてのわざを行われたことを考えたいのですが、弟子たちとのこの最後の食事は、いつ準備をされたのでしょうか。

「どこに、過越の食事をなさる用意をいたしましょうか」(マタイ26・17)。このときすでにイエスは準備が整っていて、すべての指示をその場で与えました。弟子たちは命じられたとおりに動くだけでした。

見た目には、弟子たちに尋ねられる少し前に、準備をしておられたように見えます。事実は、はるか昔に準備が始まっていたのではないでしょうか。理解するには、最後の晩餐の意味を考える必要があります。

最後の晩餐は、イエスが聖体の秘跡を定めるための食事でした。聖体はもちろん、イエスの御体と御血です。イエスの御体と御血は、いつ準備されたのでしょうか。弟子たちが過越の食事の準備を尋ねたそのときでしょうか。

そうではありません。イエスの御体と御血が準備されたのは、マリアに天使ガブリエルが神のことばを告げに来たときでした。私たちが養われるイエスの御体と御血は、およそ30年も前、見える準備のはるか昔から、準備され、整えられてきたのです。

私たちはミサにあずかったとき、聖体拝領の1時間前から飲食をせず、準備の時間に充てます。だれも、「3時間前から食事を控えて、ミサに備えよう」とは思いません。私たちを養う主が30数年前から私たちの食べ物となるための準備をしてきたのに比べると、私たちの準備はあまりにも少ないと思います。

準備が足りないのではありません。イエスがご自身を与えてくださるまでに費やした時間に比べたら、私たちの準備や必要な時間ははるかに少ないので、どれだけ感謝しても感謝しきれないということです。

今年、聖木曜日の典礼が実施されていたとしても、「洗足式は中止してください」という通達が来ていました。この洗足式も、イエスの準備は直前の準備だけではなかったと考えています。洗礼者ヨハネの洗礼を受けたとき、洗っていただく必要の無い方が、悔い改めの洗いの水を受けたのです。「わたしの足など、決して洗わないでください」(13・8)。ペトロのことばが洗礼者ヨハネに重なります。イエスははるか前に、足を洗うほどの深い愛を準備しておられたのです。

イエスは私たちにご自身を食べ物として与えてくださいました。はるか昔から、準備しておられました。イエスの深い愛に、私たちは身を委ねましょう。今はただ、イエスの深い愛に感謝する時です。イエスの愛に洗われ、愛の記念をありがたく受け取る時です。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
聖金曜日(ヨハネ18:1-19:42)
‥‥‥†‥‥‥‥

‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼聖週間、説教の準備はふだんの日曜日よりもはるか前に始まっている。もちろんふだんの日曜日のような準備を、聖週間のためにはるか前から始めていると言っているのではない。もしそれができているのなら、その時点ですぐに文字に起こしているだろう。
▼そうではなく、「聖週間を貫く今年のテーマは何だろうか」そう考えながら長い時間過ごしているということである。たとえば今年は「イエスは私たちが考えるより前に、受難の一週間を準備しておられた」というのがテーマになっているが、それは教皇フランシスコが来日した去年の11月にさかのぼる。
▼教皇フランシスコが来日してから、恥ずかしながら教皇フランシスコについて書かれた書物を読み始めた。あの時点で何冊も教会の公の文書が発表されていたが、これまたお恥ずかしいことにまともに読んではいなかった。
▼来日してから本を読み始め、「このたびの教皇様は、少し毛並みが違うぞ」という強烈な印象を受け、「黙想会で教皇様のことをみんなで学ぼう」と考えるようになった。この黙想会の準備の中で、「神様が教皇フランシスコを準備してこられた。当然神様もご自分の救いの計画のために長い準備をされた。」ようやくテーマに繋がる見方にたどり着いた。
▼中心線が決まると、わりとたやすく説教はまとまる。中心線を見失わないように、思い浮かんだものを組み立てる。一気に組み立てることもあり、長い時間かかって、「あーでもないこーでもない」と唸りながら組み立てることもある。
▼今年は、良い準備を経て説教が誕生している。これを分かち合える田平教会の信徒は圧倒的に少ない。「メールマガジン」「ブログ」「Facebook」「ホームページ」さほど生活からかけ離れている道具ではないのだが、それを語ると固まってしまう相手が多い。
▼「毎年必ず聖週間が始まる時点で準備できている。」そんな約束はできないが、できるだけそうなるように努めている。この準備を神様にささげるだけ、というのが辛い。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第662回目。またこの部屋で、聖なる典礼を再開する。御目を留めてください。

ホームページもご覧ください。
http://ss104313.stars.ne.jp/

【文庫本の問い合わせについて】
文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
3冊セットの提供が可能になりました。ABC年セットで
2000円です。ご希望の方は住所と名前を添えて連絡ください。
† 神に感謝 †
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

受難の主日(マタイ27:11-54)「奪われた姿」が栄光と輝きに満ちている

2020-04-04 | Weblog
当ブログをお読みくださり、ありがとうございます。

●●●重要なお知らせ●●●
ホームページサーバーを変更しました。「お気に入り登録」など
新しいURLに切り替えてください。ご不便をおかけしますが、
どうかよろしくお願いいたします。新しい「話の森」URLは、
http://ss104313.stars.ne.jp/
です。ブログのみの利用者の皆様は変更の必要はありません。
●●●重要なお知らせ●●●

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://ss104313.stars.ne.jp/voice/200405.mp3
(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
2020/4/5(No.1054)
‥‥‥†‥‥‥‥
受難の主日(マタイ27:11-54)
「奪われた姿」が栄光と輝きに満ちている
‥‥‥†‥‥‥‥

2020年の受難の主日は、すべてを奪われて行う典礼となりました。「すべてを奪われた」と言えば、残念な気持ちになりますが、イエスの受難を黙想することで、「すべてを奪われた姿」が輝きを放ち、栄光の先取りと確信できるようにしましょう。

イエス様の姿をまず眺めてみましょう。イエスが十字架にかけられると、兵士たちはイエスの服を「くじを引いてその服を分け合い」(27・35)ました。兵士たちはイエスの服を奪ったのですが、イエスは「奪われた」とは言わないでしょう。無理矢理取り上げられたとしても、「与えてくださった」ものなのです。

イエスは「再び大声で叫び」(27・50)息を引き取られました。人々の罪と、不正な裁判で、イエスの命は奪われたのです。けれどもイエスはご自分の命を「奪われた」とユダヤ人たちを非難するでしょうか。そうではありません。イエスは「命を与えてくださった」のです。

ここから、客観的には「奪われた」と見えることでも、「奪われた姿」が輝きを放ち、栄光の先取りとなることは可能だと分かります。今年、私たちは修道院で受難の主日を迎えました。シスターたちは客観的には多くを奪われた方々かも知れない。たとえば、季節に合った服、好みの服を着ないで、修道服を着ています。一般の人々から見れば、いろんな服を着るチャンスを奪われていると見えるかも知れません。

ではシスターたちは、季節の服、好みの服を着るチャンスを奪われていると不平不満を持っているでしょうか。そうではありません。シスター方は、自分で決心して、いろんな服を着る自由を、神におささげしたのです。自由に着ることを、自分から神におささげしている姿が、輝きを放ち、栄光の先取りになっています。

司祭と、奉献生活者は独身を守っています。結婚して、家族ができ、家族とともに暮らすこともすばらしい人生です。きっと一般の人々から見れば、「結婚するチャンスを奪われている。取り上げられている」と見るでしょう。けれども本当にそう思っているでしょうか。

そうではありません。司祭も、奉献生活者も、準備の段階でよく考えて、「結婚し、家庭を持つ生き方」を神におささげしているのです。結婚することもできた。家族を持つこともできた。この生き方をよく考えて神におささげしている。独身生活もまた、神と人々の前で輝きを放ち、栄光の先取りとなっているのです。

イエスは人々から服を奪われ、命を奪われ、もっと活動できたはずの未来の時間も奪われました。イエスの「奪われた姿」は、悲惨な姿なのでしょうか?決してそうではありません。イエスにとって、自分から与えてくださったものなので輝きを放ち、復活という栄光の先取りになっているのです。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
聖木曜日(ヨハネ13:1-15)
‥‥‥†‥‥‥‥

‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼細かい話だが、2020年の初めに説教を残すワードファイルに連番を付けて型紙を作る。毎年同じことをしている。ただし集中力が必要になる。番号が続いていくわけだから、番号が飛んだり、同じ番号が振られたりして間違ってそのまま使用されれば、取り返しの付かないミスになる。
▼「取り返しが付かない」とは言ったが、命に関わるわけではない。ただそれでも、うっかり間違ってあとで気づいたら、その悔しさは半端ない。「どうして気づかなかったのだろう」とか、「そもそもこんな細かいことまで一人でこなしているから間違うのだ」とか、無い物ねだりの愚痴まで言ってしまう。
▼今回も、すぐに気づいたから良かったが連番を付けたワードファイルが実際のメルマガの番号とずれていて、危うくずれたままメルマガ配信、ブログ更新をするところだった。本音を言うと、今週は一週間で5回「ちょっとひとやすみ」を書くので、こんな細かい話で繋いでいるという面もある。
▼先週までのメルマガの番号はこうだ。3月29日号のメルマガが1053号、間違いが無ければ今週号が1054号となる。ところが説教を残しているワードファイルの連番は、先週が1053号、今週も1053号となっているのだ。これはおかしい。
▼ワードファイルの「ファイル名」から推理してみる。「202003291053.doc」というワードファイルがあり、続けて「202004051053.doc」というファイルがある。想像だが、「聖週間」については早くから番号を振っていて、後になって規則的な日曜日の型紙を作ってみたら、ずれが生じた。こういうことだったかも知れない。
▼とにかく、無事に今週号を1054号として発行することができた。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第661回目。公式のミサは中止になったが、変わらずせっせと準備してくれた。

ホームページもご覧ください。
http://ss104313.stars.ne.jp/

【文庫本の問い合わせについて】
文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
3冊セットの提供が可能になりました。ABC年セットで
2000円です。ご希望の方は住所と名前を添えて連絡ください。
† 神に感謝 †
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする