こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

復活節第3主日(ルカ24:13-35)時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると

2017-04-30 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2017/4/30(No.883)
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復活節第3主日
(ルカ24:13-35)
時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると
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復活節第3主日A年は復活したイエスがエマオで現れる場面が取り上げられます。「そして時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。」(24・33-34)復活したイエスが、同じ時に別の場所に現れたことについて、真剣に考えてみたいと思います。

咳がなかなか収まらず、ご心配をかけております。月曜日に漁船で海に繰り出したのですが、船に乗っているあいだは一度も咳をしませんでした。ですからこれからしばらく、海に船を浮かべて生活をしてみます。用事がある時は司祭館をピンポン鳴らすのではなくて、丘の上から、わたしの船に向かって手旗信号を送ってください。よろしくお願いします。

育成会と女性の会で、ステキなお話が持ち上がっています。5月6日繰り上げのミサと、7日9時のミサで、こどもの日を迎えた小学生中学生に、女性の会からプレゼントを用意してくださるそうです。もちろん、ミサに来てくれた小学生中学生というのが条件です。女性の会からの真心、とてもありがたいなぁと思っています。

育成会も、子供たちのために同じく6日繰り上げのミサと7日9時のミサで、子供のためにミサをささげてくださるそうです。このような取り組みは、女性の会にとっても、育成会にとっても、胸を張って誇ることができるものだと思います。

ここから先の話は、内緒の話なのですが、こどもたちもお母さんのために動き出しています。こどもたちのプレゼントを受け取るために、すべてのお母さんは母の日の繰り上げミサと2番ミサのどちらかにおいでください。

福音朗読に戻りましょう。復活したイエスはエマオに向かっている弟子に現れましたが、この弟子たちは復活したイエスになかなか気づきません。最終的にどうやって気付くかというと、イエスが「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」(24・27)このあたりから何かを感じ始め、「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」ここに至ってようやく「二人の目が開け、イエスだと分かった」(24・31)のでした。

何となく皆さんもお気づきになっていると思いますが、イエスが聖書を解き明かしてくださり、パンを裂いてお渡しになるというのは、これはミサのことを言っているわけです。エマオに向かう弟子たちと道すがら話したり話しかけられたりしているあいだは気付かなくて、ミサの原型と言えるような動作に至ってようやく復活したイエスに出会っていると実感したのです。

さてここで問題となるのは、どのようにして復活したイエスは同じ時間に別の場所で現れることができるのでしょうか。答えは意外と簡単かもしれません。イエスが聖書を解き明かし、パンを裂いてくださるとき、同じ時間に別の場所で、復活したイエスは現れてくださるのです。

イスラエルから帰国の途に着いて、いったんインチョン空港に降り立ちました。どこかで時計を日本の時間に合わせなければならなかったのですが、面白いことに韓国と日本は時差がないので、韓国で時計を合わせれば、そのまま日本に降り立った時には時計合わせが要らないのでした。

このことをあとで次のように考えました。わたしたちは朝のミサをしばしば朝6時にささげています。おそらく韓国でも似たような時間でささげているでしょう。そしてわたしたちが習った教えによると、ミサがささげられるとき、イエス・キリストはパンとぶどう酒のもとに実際においでになると理解し、信じています。

当然それは韓国でも同じことでしょう。するとイエスは、何の矛盾もなく、朝の6時にささげられているミサの中で、日本においても韓国においても、同時に現存しておられるのです。むしろ復活したイエスでなければ、同じ時間に別の場所に存在することは考えられません。復活の出来事を信じているわたしたちは、聖書を読み解き、パンを裂いて祝う主の過越の中で、同じ時、別々の場所でイエスを囲むのです。

もう一つ、考えなければなりません。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」(24・32)この弟子たちの言葉を見落としてはいけないと思います。ミサに集まり、みことばを解き明かしてもらい、パンを裂いてくださるイエスに、わたしたちの心は燃えているのでしょうか。

復活したイエスに燃えるともし火をいただいた弟子たちは、時を移さず出発して、復活の喜びを告げ知らせています。わたしたちが朝のミサに集い、本当にイエスに燃えるともし火をいただいたなら、その日一日のどこかで、燃えるともし火を誰かに示し、分かち合う必要があるのです。

復活したイエスは、同じ時、別の場所で、ご自分のもとに集まるすべての人に聖書を解き明かし、パンを裂いてくださいます。田平教会で平日のミサにあずかる人は、残念ながら上五島の一般的な平日のミサよりも少ないです。もし、朝から新聞を待ってすでに起きているような人がいるなら、新聞に目を光らせる前に、ミサにおいでになってみことばに照らされ、聖体に養われてほしいのです。

平日のミサ、復活したイエスは誰よりも、何よりもわたしたちを燃やしてくださいます。田平教会献堂百周年に向けて、同じ時間に別の場所で同時に現れる復活した主に出会い、一日を始める。そんな田平教会の信者が、もう少し増える2017年であればと願っています。

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‥次の説教は‥‥
復活節第4主日
(ヨハネ10:1-10)
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ちょっとひとやすみ
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▼スーツケース。長く使っているとキャスターに問題が生じる。「安物」だからなのかもしれないが、わたしのスーツケースのキャスターは摩耗して、まっすぐ引くことができなくなってしまった。
▼思う方向に素直に引けないスーツケースほど、旅行中に迷惑なものはない。それでネットで調べたら、案外修理キットも豊富に売られていて、自分でキャスターを付け替える強者もいることが分かった。
▼そこでわたしも修理キットを買い、自前でキャスターを付け替えることに。まずは摩耗したキャスターを取り外すために、キャスターを固定している金属棒を切断する。水道工事業者が塩化ビニールのパイプを切断するのに使うような金鋸を手に入れてギコギコし始める。
▼あまり実感はないが、それでも5分ほどするとストンと車軸が切断された。軸を引き抜き、キャスターも取り外す。もう片方も同じようにして取り外す。ここまで15分くらいか。
▼次に、新しく買ったキャスターをセット。大きさが心配だったが、大丈夫のようだ。説明書に沿って六角レンチでねじを締めると、おお、うまく付け替え完了!こうして裏返しにすると修理していないキャスターと不揃いな感じもするが、通常の持ち方になれば何も不自由はない。
▼しかし、勘のいい人はこう思うだろう。「キャスターの修理をするということは、どこかに行くということだろうか?」恐らくそういうことだろうねぇ(笑)

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第490回目。キャスター交換。お店だと、材料代だけでは済まない。何事も経験。

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神のいつくしみの主日(ヨハネ20:19-31)わたしも神のいつくしみを届ける人になろう

2017-04-23 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2017/4/23(No.882)
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神のいつくしみの主日
(ヨハネ20:19-31)
わたしも神のいつくしみを届ける人になろう
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「神のいつくしみの主日」を迎えました。一年前の「神のいつくしみの主日」が前任地での最後の日曜日でした。残りわずかとなった日々を惜しみながら説教台に立ったのを思い出します。今年は、去年とは違った学びを見つけました。

さて今年の初めあたりから、百周年記念誌のタイトル募集をしておりました。少しずつ応募が集まっておりましたが、特に黙想会のとき、わたしが声をかけたこともあって、たくさんの方が応募してくださり、最終的に51通の応募がありました。

27人、51通の応募をすべて開きまして、なかなか一つに決めるのが難しく、最終的に「タイトルとサブタイトル」という形をとり、2人の方の応募を組み合わせて今回の記念誌のタイトルとすることといたしました。メインのタイトルは「百年の祈り未来へ」を短くして主任司祭が一文字加え、「祈りは未来へ」とさせていただき、サブタイトルは「瀬戸山天主堂100年の歩み」を使わせてもらいました。

最終的に、記念誌のタイトルは、「祈りは未来へ~瀬戸山天主堂100年の歩み~」とさせていただきたいと思います。応募されたほかのタイトルも印象深いものばかりでした。この場をお借りして感謝申し上げます。採用された2人にはあらためて記念品を差し上げますが、応募された全員にも、何かのしるしは差し上げようと思っています。

ちょっとだけ余談です。メインのタイトルからは「百年」を外させていただき、一文字だけ主任司祭の責任で付け加えたと言いました。「一文字加えたから、わたしも記念品もらえるかなぁ」と言ったら、「ダメ」と言われました。一文字変えても応募した人の作品であることに変わりはないそうです。それはそうと、記念誌編集部会の皆が、良いタイトルができたと喜んでおられました。前回の記念誌「永遠の潮騒」にかかわった方々もきっと喜んでくださると思います。

福音朗読に戻りましょう。今週の朗読箇所は、直前の箇所と読み比べると興味深いです。直前のヨハネ20章1節から18節は、週の初めの日の出来事で、前半では複数の弟子たちが登場し、後半ではマグダラのマリアに焦点が当てられています。

同じように、今週の朗読も週の初めの日の出来事で、前半は弟子たち全般が取り上げられ、後半はトマスに焦点が置かれています。何かを考えさせるために、福音記者がこのように整えたと考えることもできるかもしれません。

そこで考えたのは、イエスの復活の出来事は、共同体にも、個人にも、救いの恵みを届けるということです。中でもトマスは、取り残された人の代表のように見えます。共同体に広く喜びが届いても、一人二人の、取り残された人がどうしても出てくる。そんな取り残された人にも、イエスの救いの手が届く。そのことを教えているのでしょう。

福音朗読の学びは、わたしたちの信仰生活に何を教えてくれるでしょうか。朗読箇所は、わたしたちの信仰生活の何かに似ていないでしょうか。お気づきの人もいるかもしれませんが、週の初めの日に、共同体が集まっている場面は、わたしたちのこの主日の集まりのことではないでしょうか。

もちろんわたしたちは、「自分たちのいる家」である「教会」の戸に鍵をかけてはいないでしょう。しかし、人によっては、日曜日のこの時間に教会に行って集まっているのだと、公にしていない人もいるかもしれない。そこまでではなくても、教会に行って何をしているか聞かれた時、「いやちょっと」と口ごもる人もいるのではないでしょうか。

そんな、いろんなものを背負って集まっているわたしたちの中に、イエスが来て真ん中に立ってくださいます。それはつまり、わたしたちがささげるミサ、聖体祭儀です。パンとぶどう酒のもとに、イエスさまが確かにおいでくださる。ここに集い、聖体祭儀を共に祝うわたしたちは、「平和があるように」といつくしみ深い声をかけられ、「聖霊を受けなさい」と使命を授けられ、派遣されていくのです。

しかし、中にはどうしても事情があってこの祭儀にあずかれなかった人がいるかもしれません。だれかから、「この前のミサに行ってないの?あーそれは残念」と、さらに追い打ちをかけられるかもしれません。いつの間にかわたしたちは、「ミサに行けなかった人」を、「ミサに行くことができた人」の立場で見ているかもしれないのです。

その時こそわたしたちは、「神のいつくしみ」を示すまたとない機会になります。その時のミサに参加できなかったことをあれこれ言うよりも、また主の日に集まって、いつくしみ深い神に近づこう。共同体にも、個人にもいつくしみ深い神が待っていてくださる。そんな声かけが必要なのだと思います。

今年の復活徹夜祭を思い出してください。光の祭儀の様子を、生まれて初めて見た人もいたのではないでしょうか。声は聞こえるけれども、何をしているのかは分からない。わたしは特に関わっているメンバーではないから、見ることができなくても仕方がない。そんな思いだったでしょうか。

わたしは、「もっと多くの参列者が、光の祭儀、復活のローソクにおこなっている儀式を見せてあげたい」そう思ったので、知恵を絞りました。より多くの人に、参加していてもはじかれているその人に、司祭が執り行っていることを見せたい。何か工夫すれば、神のいつくしみがそこに感じられるのではないでしょうか。

今日、復活したイエスさまは、わたしたちにトマスの姿を示して、何かの事情で漏れてしまった人に、あなたが恵みといつくしみを届ける人になってくださいと派遣します。どのように答えようかを考えてください。あなたが神のいつくしみを届けるために力を貸してくれるなら、イエスの復活を見ないのに信じる人はもっと増えていくのです。

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‥次の説教は‥‥
復活節第3主日
(ルカ24:13-35)
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ちょっとひとやすみ
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▼じわじわと、来ている。復活徹夜祭に、光の祭儀(復活のローソクの儀式)をカメラ越しにスクリーンに投影してみた。これが大好評で、「初めて様子を見ることができた」とか、「神父様の言葉が、あのような動作と一緒に唱えられていたとは知らなかった」そのほかにもおおむね良い反応をいただいた。
▼プロジェクターを個人的に買ったのだが、個人的に買っただけでは面白くないので、何とか公のために働く場所ができないかと思っていたのだが、典礼のオルガンを弾いてくれるシスターからのひとことで今回のアイディアが具体化した。
▼何でも、自分のために買ったものが自分のために役に立つのは当たり前のことだ。それを超えて、誰かのために、多くの人のために役立ったときに「買ってよかったなぁ」ということになる。今回は本当に買ってよかった。
▼たまに失敗もある。しかし、自分のアイディアがそれほど的外れでもないのだなと感じさせる出来事だった。十字架の道行きのために、等身大の十字架を担がせるようにしたことも、アイディアとしては新しくもないのだが、喜んでくれた。何となく、「じわじわ、来ている」と感じる一年だった。
▼平戸地区から異動していく司祭の送別会に参加してきた。一人の先輩が、「経済的に困りだしたら、○○をやってみようと思います」と発言したが、わたしと同じ手法だったので、「ここでも突飛ではなかったのだ」と感じたのだった。次に迎える司祭たちとも、交わりを深め、刺激を受けてこの地区のために働きたい。

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今週の1枚
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第489回目。百周年記念誌のタイトルに応募くださった皆様に感謝。

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復活の主日(日中)(ヨハネ20:1-9)いつか代父を務めたお兄ちゃんだと気付いて

2017-04-16 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2017/4/16(No.881)
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復活の主日(日中)
(ヨハネ20:1-9)
いつか代父を務めたお兄ちゃんだと気付いて
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あらためて主のご復活おめでとうございます。本日の福音朗読の中から、「先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた」(20・8)という部分を、徹夜祭に引き続き行われている今日の洗礼式に結びつけて話したいと思います。

福音朗読は、主の復活を連想させますが、描かれている事実だけですと「空の墓の出来事」と言える場面です。しかし、先に墓に着いた弟子は、状況からイエスの復活を信じました。肉眼で見ているものを超えて、その先にある真実を捉え、信じることは可能でしょうか。

わたしは幼い時に、山内豊神父様から洗礼を授けてもらいました。その時の代父は、本家のおじさんで、霊名もおじさんの霊名をもらいました。記録を見れば、授けた神父様も代父も分かりますが、それを信じることができるためにはもう一つの出来事が必要でした。

わたしが中学生で神学校に入学してから、山内豊神父様が一度わたしに声をかけてくれたことがありました。わたしには、山内神父様のあとの神父様からしか記憶がありませんので、わたしにとっては見知らぬ神父様でした。けれどもわたしの神学校入学をどこからか聞きつけて声をかけてくれた。その姿を見て、わたしにここまでしてくれるこの神父様はどんなにわたしを可愛がってくれているかが分かりました。

代父のおじさんも、わたしが神学校に入学してからはことあるごとにわたしに導いてくれました。ここまで面倒を見てくれるのは、わたしの神さまの子供としての始まりに関わってくれたからに違いないと思いました。洗礼の台帳に記録されている以上の愛を、二人から受けたので、わたしは山内神父様が洗礼を授けてくれて、本家のおじさんが代父になってくれたと納得し、信じることができるようになったのです。

イエスの復活を、弟子たちが空の墓から信じたのは、彼ら弟子たちの心の目が、肉眼で見える以上の何かを捉えたからだと思います。イエスは死の束縛にとどまっておられる方ではない。死に対して勝利し、死を超越して、今復活しておられる。自分たちは、肉眼で今見ている場面の向こうにある真実を告げ知らせなければならない。墓に来た弟子たちの中に、まだ十分ではないけれども、希望が芽生えていたのです。

今日わたしたちは、一人のお子さんの洗礼を見届けます。この子は小さいので、ひょっとしたら堅信を受けたばかりのお兄ちゃんが洗礼の代父になってくれたことも、中田神父が洗礼を授けたことも、忘れてしまうかもしれません。けれども後に、信仰の成長のために惜しまず協力してくれる姿を見たら、どうしてここまでお世話してくれるのか、気付いてほしいと思います。面倒を見てくれるお兄ちゃんの姿のその先に、代父として手伝ってくれた姿を見つけてくれたら嬉しいなと思います。

それでは洗礼式に移りましょう。

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‥次の説教は‥‥
神のいつくしみの主日
(ヨハネ20:19-31)
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‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼あらためてご復活おめでとうございます。車が趣味の人は、今はいい時代だろうか。3ナンバーの車だといろいろカッコいい車もあるようだし、少々維持費がかさんでも、納得いく車が選べそうだ。
▼わたしは、たぶん、一生涯3ナンバーには乗らない。理由はいろいろある。司祭が3ナンバーを乗るメリットは何かが分からない。さらに車を大切に扱う趣味がない。車は汚れていても、走ればいいと思っている。洗剤で洗うのは年に2度くらいか。
▼かつて、教区報の「ほしかげ」というコーナーに、「車に司祭が300万円も使う理由が分からない」みたいなことを書いた。このときわたしの中で、「わたしは3ナンバーは買わない」と決めた。300万円以下で納まる車を買って、50万円別のことに使えるほうがわたしにはお得感があると思っている。
▼3ナンバーというのは、どういうくくりか知らないが、そりゃあ、お金が出せるなら好みのものが選べるのは当然だ。わたしは、「制約がある中の一品」を選びたいと思う。道具はすべてそうだ。金に糸目をつけなければ、良いものが買えるのは当然だ。
▼だが使えるお金はここまで、という制約を決めて、その中で「これだ」という物を見つける。わたしの信念。そういうわけで、次の車はトヨタカローラと決めている。決め手は3ナンバーでなく、5ナンバーだということだ。
▼いつだったか一度だけ軽自動車でバイパスと高速を乗り継ぎ、田平から長崎に行ったことがある。このとき日産のAD(たぶん)という車と、トヨタカローラに何度も追い越された。「くそっ」と思ったが、ADにはイマイチ魅力を感じず、カローラにはなぜだか「ふーん」と興味を持って後ろからのスタイルを眺めた。まるで女性の後姿を眺めるようなものか。
▼「やはり間違いない。」わたしの感性はADではなくカローラを選んだ。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
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第488回目。もしチャンスがあって、お許しがあれば、ご復活日中の洗礼式の様子。

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復活徹夜祭(マタイ28:1-10)確かに、あなたがたに伝えました

2017-04-15 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2017/4/15(No.880)
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復活徹夜祭
(マタイ28:1-10)
確かに、あなたがたに伝えました
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主の復活、おめでとうございます。「あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。」(28・7)弟子たちは復活したイエスと、ガリラヤで再開することになります。ガリラヤにこだわって、今年の復活祭の学びを得ることにしましょう。

主の天使がイエスの墓を訪ねに来たマグダラのマリアともう一人のマリアに語りかけます。墓は、イエスが十字架の上で亡くなられて、その結果としてご遺体が納められている場所です。人間の通るべき順番に沿って、婦人たちはイエスを訪ね求めたのです。

ところが主の天使は、十字架にかけられたイエスは、もはや人間の通るべき道のりの先にはおられない、新しい見方に立たなければ、イエスには会えない。そのように促しました。一方で、「番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった」(28・4)とありますが、それは、彼らが人間の辿るべき道の先にしかイエスを見ることができなかったので、完全に我を失ったのです。

では、主の天使が婦人たちに伝えた「ガリラヤ」とは、いったいどのような場所だったのでしょうか。マタイがイエスの宣教開始を描く中に次のように触れられています。「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」(マタイ4・15-16)つまり日の当たらない地方だったということです。

また、昨晩のヨハネによる受難の朗読の中で、律法学者のニコデモがイエスを擁護すると、他の律法学者からこう言われました。「あなたもガリラヤ出身なのか。よく調べてみなさい。ガリラヤからは預言者の出ないことが分かる。」(ヨハネ7・52)ガリラヤは、人々から低く見られていた地方、日の目を見ない土地のシンボルだったのです。イエスはそのガリラヤに先に行って待っておられます。

さらに踏み込んで、低く見られていた人々が住む町ガリラヤに弟子たちが行くとはどういうことでしょうか。ここでわたしは、二つのことを考えました。一つは、人々が見るようにガリラヤを見ている間は、イエスに出会うことはできないのだろうということです。

もう一つは、イエスは三年間の宣教活動のほとんどの時間をガリラヤで過ごし、その教えは人々に受け入れられました。わたしたちが上からの立場で人に接したり、この世が重要視するような物の見方で生き続けるなら、イエスに出会うことはできないのだと思います。

イエスが弟子たちを「ガリラヤへ行くように。そこでわたしに会うことになる」と促すのは、「世の人々があこがれる価値観とは全く違う価値観で生きたあの日々を思い出しなさい。ガリラヤでわたしがしたように、人々から見放された人にも手を差し伸べ続けるなら、あなたたちはわたしに出会う。」そのように教えたいのだと思います。

さて、これから入信の秘跡に臨もうとしておられる吉田さん。吉田さんはご家族と一緒に引っ越してこの田平町においでになりました。それは、環境を変えるということだったと思います。わたしは、引っ越して住まいを変えることも環境を変えることだと思いますが、カトリックの司祭としては、むしろ今日洗礼をお受けになることが、最も環境を変えるきっかけになるのではないか、と思っています。

今日お父さんが洗礼をお受けになることで、ご家族全員がカトリックの洗礼に結ばれた家族になります。ミサにおいでになった時、全員が聖体拝領のできる家族になります。一つの祈りを、みんなで唱え、一つの歌を、みんなで歌う家族になります。これこそが、環境を変える出来事、環境が新しくなる出来事ではないでしょうか。

主の天使は、神から託されたことばを婦人たちに伝えたあと、「確かに、あなたがたに伝えました」(28・7)と結びました。洗礼式を前に、わたしも同じことを言いたいと思います。神様は、環境を変えたいとのご家族の望みに、はっきりと関わってくださいました。

フランシスコ・ザビエルが宣教した平戸にご家族を招き、フランシスコ・ザビエルの洗礼名のもとに洗礼を受けて今日のこの復活の喜びを迎えらえるよう、神は長い時間をかけて導いてくださったのです。これから受ける洗礼式を通して、神はそのことをはっきり教えようとしておられるのです。「確かに、あなたに伝えました。」

ここにお集まりの皆さんも、復活した主イエスに出会うためにおいでになった方々です。復活した主と出会うために、わたしたちはこの世があこがれるような価値を追い求めてはいけません。むしろ降りて行って、悩みを抱えている人や声を上げることのできない人に耳を傾ける人になりましょう。そこで初めて、わたしたちは復活した主に出会うのです。今日から、実行しましょう。「確かに、あなたがたに伝えました。」

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‥次の説教は‥‥
復活の主日(日中)
(ヨハネ20:1-9)
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ちょっとひとやすみ
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▼ご復活おめでとうございます。ことしは、ありがたいことに洗礼式が復活徹夜祭と復活の主日日中と、両方組まれている。親子での洗礼であれば、同時によかったのだが、今回は分けて行うことにした。どちらのケースも、これで家族全員がカトリック教会の家族となった。
▼こちらに来て、事情はいろいろあって一概ではないが、洗礼式を何度も経験させてもらっている。前任者が残していってくれたのかもしれないが、勉強会も含め、働かさせているぞ。新たな年度は、どのようになっていくだろうか。
▼せっかくプロジェクターを買ったので、復活徹夜祭に光の儀式を撮影して離れている人にも見せてみようと思った。デジカメをカメラ代わりにして(ビデオカメラ持ってないので)、復活のローソクと、その周りを照らす明かりだけでプロジェクターから投影してみようと思っている。果たしてどうなるか。
▼プロジェクターで感じた人もいるだろう。赴任最初の年度は、いろいろと物入りである。思い切ったことをするということもあるし、前任地でいろんなものを捨てて新任地に行くということもある。
▼たとえば、お賽銭のうち硬貨を計算する機械を持っていたが、前任地に置いてきた。不要になったからではない。どう考えても必要なのだが、置いていけば後任の司祭も助かるだろうし、地区の活動(クリスマス街頭募金)にも重宝する。覚えてくれる人はいないかもしれないが、恩を売るわけだ。
▼硬貨を計算する機械も結構な値段。プロジェクターも結構な値段。いろいろ物入りの一年だっが、十分に活躍してくれた。プロジェクターなどは明確な使用目的を持たぬまま購入したが、考えれば使い道は出てくるものだ。さていそいで復活の主日日中のミサにとりかかろう。

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今週の1枚
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第487回目。もしチャンスがあって、お許しがあれば、徹夜祭の洗礼式の様子を。

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聖金曜日(ヨハネ18:1-19:42)十字架は天と地のかすがい、いのちを与えて一つに結ぶ

2017-04-14 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2017/4/14(No.879)
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聖金曜日
(ヨハネ18:1-19:42)
十字架は天と地のかすがい、いのちを与えて一つに結ぶ
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今年の聖金曜日受難の朗読の中で、「成し遂げられた」というイエスの言葉が印象に残りました。聖木曜日、弟子たちとの最後の晩餐の中で、ご自分のそばにおいて大切に育ててきた弟子たちに、イエスはご自分を食べ物として与えてくださいました。今日の聖金曜日の出来事の中で、イエスはいのちを与えてくださり、「成し遂げられた」のです。

聖木曜日の、食事の形でご自分を与える姿は、人と人との間でご自分を与える姿と捉えることができます。今日の、十字架の上でいのちを与えてくださる姿は、天と地の間でのやり取りを思わせます。イエスが十字架の上でいのちを与えてくださったことで、地上に暮らすわたしたちに天上の世界が開かれたのです。

ところで、「分け与える」ためには与える方と受ける相手とは近くにいなければなりません。イエスは最後の晩さんの時、ご自身を表すパンとぶどう酒を食事の席に共についている弟子たちに分け与えました。

同じように、十字架のそばには、母マリアと愛する弟子とがいます。イエスは十字架の上でいのちを投げ捨てるのではなく、母と愛する弟子に分け与えるのです。最後の晩さんの席でも、十字架の上でも、イエスは人々を引き寄せ、いのちを与えて一つに結び合わせてくださいます。

ここに大切なしるしが込められています。イエスはパンとぶどう酒の形においても、十字架の上でも、いのちを投げ与えるのではなく、分け与えてくださるのです。そのためには、わたしたちはイエスのそばにいる必要があるのではないでしょうか。委ねられたいのちの重さを感じながら、わたしに与えていただいたイエス・キリストといういのちに養われて生きていく。そういう思いを新たにする必要があるのです。

イエスは食事の形でも、実体においても、いのちを分け与えて「成し遂げられた」お方です。わたしたちはその姿を遠くに立って見つめていてはいけないのです。主の食卓にあずかり、主の十字架のそばに立ってあがめ、尊び、主の復活をたたえる者でなければなりません。

わたしたちがこの二日間で学んだことは次の事柄です。イエスは人を引き寄せ、パンとぶどう酒の形のもとで、また十字架の上でも、いのちを分け与えてわたしたちを一つに結び合わせてくださるお方です。

イエスに分け与えられたいのちを失わないならば、わたしたちは新しいいのちに生まれます。寿命が来れば終わるいのちではなく、天の国と結ばれているいのちに今日から生きるのです。イエスは天と地を、ご自分のいのちを与えて結んでくださいました。死ぬことによってしかいのちを分け与えることができないので、わたしたちのために十字架上で死んでくださったのです。

今日は静かに、いのちを与えてくださる場所となったその十字架をたたえて家に帰りましょう。このあとの十字架の礼拝は、少し時間を取って各自十分な礼拝をおささげしましょう。

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‥次の説教は‥‥
復活徹夜祭
(マタイ28:1-10)
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ちょっとひとやすみ
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▼春だからか。頭がぼーっとして準備が進まない。机に向かっていてもその姿勢のまま居眠りしたりしている。先ほど午後2時だったのに、うとうとして次に時計を見たら午後3時を指している。これでは聖なる三日間の実りが思いやられる。
▼この田平小教区に赴任して1年が過ぎた。4月8日に赴任してきたので、まるまる1年過ぎている。たくさんの人に助けられた。25周年を迎えたことでたくさんの人に声をかけてもらった。ありがたい限りだ。
▼一つ、悔いがあるとすれば、人に「このように進むとよいでしょう」と促したことに比べて、自分自身がそれに釣り合うだけ成長できていないことだろう。たとえば、「イエスは十字架にはりつけにされました。十字架にはりつけにされる生き方を不自由と思うなら、わたしたちはイエスの弟子ではありません。」そういう自分は、十字架にはりつけにされる生き方を選び取って来ただろうか。
▼ほかにも、「このように生きてみたらどうでしょう」と促したことがある。その促しを、自分自身も覚悟を持って伝えただろうか。うわべだけの、もし自分に命じられたら「お断りだ」と拒むような日々だったのではないだろうか。
▼わたしの知る限り、田平教会にも何人かこのメルマガを読んでいる人がいるようである。説教は別として、この「ちょっとひとやすみ」は遠くの人に向けて書いている。殴り書きのようなこの文章を読んで、なおかつ直接本人を見ているはずだが、書いていることと普段の生活とは釣り合っているだろうか。調子のいいことを書いておきながら、生活はかけ離れたものになっていないだろうか。

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今週の1枚
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第486回目。いよいよ写真のネタも底をついたか。雑草の生命力はすごい。

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聖木曜日(ヨハネ13:1-15)聖体によって一つにする、結ぶ

2017-04-13 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2017/4/13(No.878)
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聖木曜日
(ヨハネ13:1-15)
聖体によって一つにする、結ぶ
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聖なる三日間が始まります。主イエスの過ぎ越しの神秘を、聖なる三日間を通してわたしたちも体験することにしましょう。福音朗読は最後の晩餐の途中、弟子たちの足を洗うという場面でした。最後の晩餐にちなんで、食事について思い出すことから少し話したいと思います。

わたしの幼い時、母親は安い魚を手に入れてすり身にして味噌汁を作って食べさせてくれました。たとえばエソを下ごしらえして、すり鉢で小骨もいっしょにすって塩で味を調え、鍋の中に少しずつ入れていました。熱が加わると、固まってみそ汁の具になりました。この料理はわたしも受け継ぎました。

イエスはご自分を食べ物として与えました。食事の席は、人と人とを引き寄せ、結び合わせる力を持っています。イエス自身が、人と人を引き寄せ、結び合わせる食材となってくださいました。どのように食べなさいとか、どの人は食べるにふさわしいとか、何も要求せず、ただ黙って食べられてしまう存在になりました。この点は重要です。

今日の洗足式も、イエスの食べ物になるという姿勢が込められていると思います。足を洗う時、足をこのように差し出せとか、右足から出せ左足から出せとか、何も言わず、ただ黙って足を洗います。ここにも、イエスが弟子たちを引き寄せ、イエスに固く結び合わせる働きが表されています。

司祭の働きも、極めれば極めるほど、小言を決して言わないで仕える姿に変わっていくはずです。司祭が奉仕しやすいようにお膳立てをしろとか、司祭の都合が最優先だとか、どうでもいいことです。司祭の働きは、突き詰めれば食べられてしまう存在になることなのです。

主イエスの模範は、弟子たちにとどまりません。「あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」(13・14)という呼びかけは、イエスを信じるすべての人に及んでいきます。足を洗う動作は、僕の中でも最も低い僕に命じられた務めだったと言われます。イエスは、最も低い僕に自分を置くことを互いに実践しなさいと言い残されたのです。

今の時代に生きるわたしたちには、僕という身分はないので、なかなか実感が湧かないかもしれません。けれどもイエスは、「食べ物」「食材」となって、また食事の途中に弟子たちの足元に膝をついて、互いに実践すべきお手本を残してくださったのです。

わたしは、生活の場で、食べ物となる覚悟があるでしょうか。自分から食べる人を選べないし、ひょっとしたら食べてもらえないこともありうる、そんな身分に自分を置く覚悟があるでしょうか。決して膝をつきたくない人前で、膝をつく覚悟ができているでしょうか。イエスはその心構えを、今日からの聖なる三日間でわたしたちに求めます。

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‥次の説教は‥‥
聖金曜日
(ヨハネ18:1-19:42)
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ちょっとひとやすみ
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▼いいところあるじゃないか。長いこと貸したままになっていたお金を「返してくれ」と言ったら即刻入金してくれ、しかも5%の「迷惑料」まで付けてくれた。今回手紙を書いて請求したが、もっと早く請求すれば早く戻っていたのかな。
▼聖なる三日間が始まった。銀祝を迎えると今まで言わなかったようなことを口にしたりする。立派なダルメシアンを飼っている近所の人に「お父さん。今日は聖木曜日よ。ミサに来て、足を洗ってもらう列に加わったら?」
▼するとそのお父さんは「はーい、気にかけてくださってありがとうございます」と返事をくれた。彼は来るのだろうか。三日間見守ってみることにしよう。三日間連続来るのは無理でも、「来てくれたんだ」と分かれば、それだけでも今までにない変化だと思う。
▼今年は説教の準備に追われそうだ。これまでだと受難の主日にはすべての準備を終えているはずなのに、今年はうまくいかなかった。言い訳は見苦しい。やはり結果を出して、期待に応えるのがあるべき姿だ。
▼結果を出すと言えば、昨日町内の壮年ナイターソフトが始まった。120cmの長尺バットを購入し、ボチボチ素振りをしていたが、3打数2安打となり、結果につながった。2打席目までは大振りせず、当てにいったのでヒットになるのは当然だが、3打席目は自分の能力も考えずに大きいのを狙ってセカンドゴロに倒れた。
▼あわよくばあと1打席回ってきてほしかったのだが、最終回、自分の前の人が倒れて試合終了となった。しかも試合は、9点取ったのに12点取られて負けるという後味の悪い試合となった。聖週間を真面目に過ごして、楽しいナイターにつなげたい。

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今週の1枚
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第485回目。妹夫婦から嬉しい電報をいただいた。こんなに気が利いてたかなぁ。

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受難の主日(マタイ27:11-54)正しい人を正しい人と証言する信仰

2017-04-09 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2017/4/9(No.877)
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受難の主日(マタイ27:11-54)正しい人を正しい人と証言する信仰
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受難の主日、聖なる一週間を迎えました。この一週間で、一年分の恵みをいただくようなつもりで過ごしていきましょう。

「受難の朗読」について少し説明したいと思います。受難朗読は、古くから聖金曜日の主の受難の記念祭儀に行われていました。きょうの主日にも受難朗読をするのは、主日ごとにキリストの生涯の主な出来事を記念していくためです。現在の朗読配分では、毎年聖金曜日にヨハネ福音書が読まれ、他の福音書は受難の主日に三年周期で読まれます。今年はA年なので、マタイ福音書です。

受難朗読は福音朗読の中でも最も重要な部分で、特別に長い朗読になっています。本日の「聖書と典礼」に掲載されていない長い形(マタイ26・14-27・66)は、ユダの裏切り、最後の晩餐から始まり、イエスの遺体が墓に納められるところまで続きます。また、伝統的に受難朗読を分担して朗読するようになっているのは、キリストの受難の出来事をより生き生きと再現するための工夫です。

朗読から二つのことを取り上げたいと思います。一つはマタイが、イエスの死の場面に、すでにイエスの復活後のことを書いているということです。「そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。」(27・51-53)

福音記者は、イエスの十字架上の死が、すでに迫害の中にある教会共同体にとって、さらに墓に眠る聖なる人々にとって、希望となることは明白であると教えようとしているのです。

もう一つは、ピラトの妻が伝言で、「あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました。」(27・19)と証言したことです。ピラトも無罪を確信していましたが、ユダヤ人群衆はその頑なさのために致命的な過ちを犯したのでした。

わたしたちは繰り返し受難の朗読に耳を傾けています。わたしたちもまた、イエスは十字架の上で亡くなられたのち復活することを理解してこの典礼にあずかっています。そうであるなら、マタイ時代の教会共同体や、墓に眠る聖なる人々と同様に、わたしたちも十字架上のイエスを希望の源として仰ぐ必要があります。声に出して、十字架上のイエスはわたしたちの希望ですと、表明する必要があります。また、十字架上のイエスの前にたたずむわたしたちは、あえて罪を犯したりして心を頑なにしてはいけないのです。

これから始まる聖週間は、「すべての人をご自分のもとに引き寄せる」(ヨハネ12・32参照)イエスに導かれていく一週間です。

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‥次の説教は‥‥
聖木曜日
(ヨハネ13:1-15)
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ちょっとひとやすみ
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▼今年の聖週間が始まった。今年は聖週間の典礼のすべての説教を今日のうちに用意できなかった。一度こういうことになると、もはやなしくずしでいろいろ言い訳をして用意できなくなる可能性がある。残念な聖週間の幕開けとなった。
▼わたしの中では、「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」(ヨハネ12・32)をイメージして今年の聖週間の説教をまとめようと思っている。ひょっとしたら、無理やりそうなるように導入する場面もあるかもしれないが、今年の聖週間を何かのテーマをもって過ごしていく助けになればと思っているので了承願いたい。
▼黙想会の感謝の言葉を何人かの方からいただいた。黙想会の録音を分けてほしいという話もいただいた。病気で自宅にとどまっていたりして、黙想会に参加できなかった方々の中には「お友達から黙想会の評判を聞きました」と教えてくれた人もいた。去年の焼き直しではあったが、黙想ができた黙想会であったならうれしい限りだ。
▼来年からは、どなたか説教師を呼ぶことにしよう。今年は黙想会で頭一杯になった。来年からは黙想会の時間も含めて、「田平教会献堂百周年」のために費やすつもりだ。来年2018年の5月20日あたりを希望しているが、お願いの手紙を出した後の返事を確認する必要がある。
▼自分自身の「司祭叙階銀祝(25周年)」の記念品が先ほど到着した。注文した通りの品物が届いているのだが、これが田平教会と出身教会と、赴任して回った教会であっという間になくなる。目の前には大量に積み上げられているのに、あっけないものだ。
▼赴任した教会ではないが、大神学院時代に実習に行った教会も2つあるのを思い出した。少なからず恩義がある。ただ覚えてくれているかどうかは定かではないが。まあ、それは横に置いて、感謝の気持ちが伝わるようにしようと思う。同期で他教区や修道会の司祭もいるなぁ。

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今週の1枚
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第484回目。たいしたものではないけれども、何かの時に思い出してくれれば。

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四旬節第5主日(ヨハネ11:1-45)ラザロを解放したイエスを信じる

2017-04-02 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2017/4/2(No.876)
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四旬節第5主日
(ヨハネ11:1-45)
ラザロを解放したイエスを信じる
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四旬節第5主日A年に朗読された箇所は、「ラザロの死」に始まり、「ラザロを生き返らせる」物語で頂点を迎えます。ヨハネ福音書の中でイエスがことばとしるしでもってご自分が誰であるかを教える前半部の総まとめでもあります。わたしたちも四旬節を過ごしてきて、イエスが誰であるかを学ぶ締めくくりとして、朗読を振り返ってみましょう。

4月1日は、どのように過ごされたでしょうか。わたしはこの日の朝のミサで、「かつては『4月1日付の辞令で台湾に転勤することになりました』とある人に言って、その人が食事も喉を通らないほど心配させたことがありましたが、今年も誰にどんなウソを言おうかと楽しみにしております。ただし、『今日こそは騙されない』と身構えている人には年に一度、ウソを言わない日にしようと思っています。」そんな話をしたわけです。

ミサの帰りでした。朝ミサの参加者を見送りながら、小学生にも「おはよう」と声かけましたら、「神父さま、髪の毛がふさふさしてます」と言われました。「え?そうかなぁ」と言った途端、その子は「引っかかった引っかかった」と言って帰って行きました。誰かに何かを言ってからかってやろうという一日の計画が、打ち砕かれた瞬間でした。

これから話すのはウソでも何でもないのですが、黙想会を終えてすぐ、長崎に用事で出かけ、日帰りで帰ってくる途中居眠り運転をしてしまい、事故を起こすところでした。西海町の大串インターからずーっとバイパスを乗り継いで佐々まで来るルートです。

大串インターから入って間もなく眠気が来て、緑色のポールが立ててある中央分離帯のブロックに接触し、ようやく目が覚めました。接触した時すごい音がしました。西海町なのに、「ゴト、ゴト、五島」って、音がしたのです。今日はもうここしか笑うところはありません。分からなかった人はこれ以降の真面目な話だけ聞いていってください。

では福音朗読に戻りましょう。マルタとマリアの兄弟ラザロの病気の知らせを受け、何日かして訪ねてみるとラザロは亡くなって墓に葬られていました。マルタとマリアの兄弟なのですから、年齢的にまだ若かったでしょう。人を悲しみの淵に追いやる死に対して、イエスは心の底から憤りを感じたのでした。

イエスは人間にいのちを与え、人を縛り付ける「死」から解放し、生かしてくださるために御父のもとからおいでになりました。人々の中には、この場面でイエスに疑問をいだく人も現れます。「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」(11・37)。

しるしがあるからと言って、誰もがマルタのようにイエスを「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」(11・27)と信仰告白できるわけではありません。人間の弱さとか、人間の限界に、イエスは再び憤りを覚えるのです。

そこでラザロを通して、イエスは決定的に、ご自分が人にいのちを与え、生かすためにおいでになったことを示されました。「ラザロ、出て来なさい」(11・43)。こうしてイエスは、人間を悲しみの淵に突き落とす「死」ですら、解き放ってくださる方であることを示されました。

イエスは人間の悲しみに無頓着でいられない方であることを、決定的な形で示されたのですが、一方ではイエスを信じない人たちとの対立も決定的となります。祭司長とファリサイ派の人々は、イエスの存在が耐えられないものとなります。彼らは偽善者であり、イエスに厳しく問い詰められていました。またイエスの行動で民が騒ぎを起こすことにでもなれば、ユダヤ全域を支配下に置いているローマが黙ってはいません。イエスには死んでもらわなければならないと考えるようになります。

結果として、イエスは最後まで信じようとしない人々によって死に追いやられることになりました。人にいのちを与え、人を生かすためにおいでになったイエスが、その働きのために死に追いやられます。イエスのわざは無駄だったのでしょうか。しかしイエスは十字架の死を通って復活し、この疑問に復活をもって答えてくださいました。

ラザロの生き返りは、人に取るべき態度を迫る出来事でした。イエスは人を悲しみの淵に突き落とすような死からも人を解放してくださいます。あなたはこの方を信じますか、拒みますか。態度を迫るのです。

もしかしたら、9割以上は神の望みにかなった生活をしているのに、ほんのわずか、隠れて神の望みに背いているかもしれません。イエスを拒んだ宗教指導者たちがそうだったでしょう。9割9分、神の望みにかなって生きていますから、ほんのわずか、悪に手を染めていても見逃してください。そういう生き方にもイエスは釘を刺し、それは偽善である、わたしを信じて生きるか、拒むのか、どちらかであると迫るのです。

まもなくすると、わたしたちは聖なる一週間、聖週間を迎えます。その頂点である聖なる三日間が始まります。この日々を迎えるにあたって、わたしたちはイエスの求めに答えを出さなければなりません。イエスは、信じて神の前にひざまずくのか、イエスの目を盗んでイエスを拒む生活を続けるのか、決めなければならないと思います。

イエスに返事をする一つの姿として、できる限り聖なる三日間の典礼に続けて参加しましょう。大人の人だけではありません。小学生も中学生も高校生も、聖なる三日間は教会の典礼の頂点ですから、続けて参加するようにしましょう。

「わたしたちはイエスに活かされて生きているので、イエスのもとに集まります。」この返事をもって、誰にでも堂々と、聖なる三日間の過ごし方を説明してください。その毅然とした態度が、今のわたしたちに求められているのだと思います。

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‥次の説教は‥‥
受難の主日
(マタイ27:11-54)
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ちょっとひとやすみ
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▼大人の黙想会が終わった。いろんなことがあった。黙想会の最終日にゆるしの秘跡を受けるので、その導入になるような話をしてゆるしの秘跡に移った。「例年だと4人の司祭が待機してくだされば30~40分くらいで終わります。」そういう説明だったので1時間充てていたのだが、なんとまぁ、1時間半もかかってしまった。
▼お手伝いしてくださった先輩司祭たちは辛抱強くゆるしの秘跡をしてくださったが、帰る頃には「長いぞ!あと一人雇うか、時間を二度組むか、方法を考えろ」というようなお顔をして帰って行かれた。わたしも簡単に考えていたが、先輩司祭たちには申し訳ないことをした。
▼2回目の話を短くして、残りの時間で「イスラエル巡礼報告会」を開いた。プロジェクターとスクリーンを購入し、聖堂内でみんなとイスラエル巡礼の様子を分かち合った。手短に説明したつもりだったが、これも相当長くかかった。
▼黙想会の間に何人かの人がこんな質問をしてきた。「自分の家族は黙想会に参加できません。黙想会費だけ払えばいいでしょうか?」ちょっとそれは乱暴なので、「黙想会の代わりになるものを用意するので、それを自宅で活用して黙想会の代わりにしてください」と答えた。「黙想会費だけ」と聞くよりは、「ゆるしの秘跡だけでも授けに来てください」と言ってほしかったのだが。
▼「黙想会は疲れるでしょう。これで疲れをいやしてください。」ありがたい声をかけてくれる人もいた。ご飯の差し入れもあった。説教師の司祭は、しばしばこうして励まされてその年の説教を完遂するのである。

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今週の1枚
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第483回目。黙想会中にスクリーンで巡礼写真をスライドする。遠くまで見えた。

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