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‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
2019/7/14(No.1012)
‥‥‥†‥‥‥‥
年間第15主日
(ルカ10:25-37)
いのちへの道に導く隣人が必要
‥‥‥†‥‥‥‥
年間第15主日の福音朗読に「善いサマリア人」のたとえが選ばれました。私たちが本当に助けを必要としているとき、助けてくださるのはイエス・キリストです。そのことを学んで持ち帰ることにしましょう。
お告げのマリア修道会の志願者の皆さんがミサに参加してくれています。すでに典礼奉仕を手伝ってくれています。奉仕の本来の姿を志願者の皆さんは示してくれています。奉仕は本来人にも自分にも喜びを与えるものです。聖書朗読を手伝ったなら、朗読を聞いた人が喜ぶことになるし、きちんと神様の言葉を届けることができて良かったと、自分にも喜びがあります。奉仕は本来こうあるべきですね。
いよいよ私は、瀕死の状態の広島カープのお見舞いに行こうと思っています。これも奉仕です。チームにとっては、はるばる長崎県からのお見舞いを受けて感謝の気持ちが湧くでしょうし、私にも、全力で勝利のためチーム一丸となって戦う姿を見れば何連敗していても喜びがあります。奉仕の精神で、19日(金)のナイター観戦に行ってきます。
さて物語に登場する人物を、私たちに分かりやすい形に説明しなければなりません。半殺しにされた人は、助けを必要としているすべての人です。私たちも含まれています。私たちは時々道をそれるからです。罪を犯す人は、正しい道からそれていく人なので、導く人、助ける人が必要です。悪口を時々言うだけでも、うそを時々言うだけでも、注意してもらったり戒めてもらったりしないと、正しい道に戻ることは難しいのです。
特に、半殺しにされた人は、そのままでは死んでしまいます。いのちを救ってもらわないといけません。いのちを救ってくれる人が通りかかるのを必死に待っているのです。「うそは言うけれども、だからといって死にかかってはいないなぁ。」そう思っている人もいるかも知れませんが、人はどんなに小さな傷からでも、死ぬ危険があるのです。
次の登場人物に移りましょう。祭司が道の反対側を通りました。道の反対側を通ったこと自体は問題ではありません。ふだん右側通行をする人々は誰でも向こうから見える人と道の反対側を歩いています。祭司とは、神殿の聖所で礼拝を果たす人です。レビ人は、祭司にお仕えして礼拝に協力する人です。祭司は神殿の聖所にまで入る人ですから、私たちのカトリック教会で言えば司祭のことでしょう。レビ人は、司祭にお仕えして礼拝に協力する人ですから、修道者や志願者、神学生と考えて良いでしょう。
司祭は、半殺しにあった人を避けていきました。司祭は礼拝の時間が厳しく決められています。13日(土)は、朝6時のミサがあって、11時に葬儀のミサがあって、13時半にこどもたちの赦しの秘跡があって、19時に主日の前晩のミサがありました。時間の余裕はありませんでした。もし、外に出かけていて帰り道倒れている人を見つけたら、葬式のミサに遅れてはいけない、こどもたちの赦しの秘跡に遅れてはいけない、前晩のミサに遅れてはいけないと考えて、立ち止まらないかも知れません。
司祭にお仕えする人も、司祭の予定を考えたら、立ち止まれないと思います。11時の葬儀ミサが始まるのにオルガンを弾く私が遅れたら大変な迷惑をかける。前晩のミサで聖書朗読を頼まれている私が遅刻したらミサが止まってしまうかも知れない。イエス様の時代は携帯電話もありません。神殿で礼拝を待っている人に「大変なことが起きたので遅れます。でも必ず戻ります!」そんな連絡もできないのです。ですから、物語に登場した祭司やレビ人は、立ち止まらなかったのでしょう。
人間は、それほど弱く力が足りないのです。身体が二つあれば、同時に自分の務めを果たし、道に倒れている人を助けることもできるでしょう。けれどもそれは不可能です。そしてどちらを選ぶかと言われたら、自分の都合を選んで優先してしまうのです。人間には限界があるわけです。けれどもイエス様は、そんな私たち弱い人間に代わって、助けを必要としているすべての人のそばを通ってくださるのです。そうです。「旅をしていたあるサマリア人」とは、イエス・キリストのことなのです。
このサマリア人はその場で必要な手当てのほかに、完全に健康を取り戻して生活に戻れるまでのお世話をしてくださいます。倒れている人のために救急車を呼んで終わりではありません。救急車に一緒に乗り込んで、退院するまでずっとお世話くださいます。助けを必要としている人、特にいのちの危険にある人にずっと付き添って、健康を取り戻し、ふだんの生活に戻れるまで、手を差し伸べてくださるのです。
イエスの弟子である私たちは、当然このイエス様に倣う必要があります。もちろん弱い人間ですし、限界もありますが、イエス様は九十九匹の羊を残して見失った一匹の羊を探し回り、群れに連れ戻す方です。どれくらい見倣うことができるか分かりませんが、イエス様のやり方に合わせよう。今日からそう決めてください。
主任司祭は、いのちの危険にある人が助けを求めているとき、次の予定が入っていたらその人たちに「何分まで待てますか?」と確認して手を差し伸べることにします。最近も二度、青洲会病院に急に呼ばれました。コーヒー飲みかけていましたがすぐに行きました。ビール飲みたかったけれどもすぐに病院に向かいました。
イエス様のなさり方に、今日舵を切ることにしましょう。イエス様のなさり方に見倣う人が一人でも増えるなら、何人ものいのちの危険にある人、罪に縛られている人が、本当の意味で生きる人になるでしょう。私たちも、イエス様のなさり方に倣うことで、本当の意味でいのちを大切にする人に変わることができます。
‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
年間第16主日(ルカ10:38-42)
‥‥‥†‥‥‥‥
‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥
▼この2年で司祭館玄関に大きな変化が生じている。ほぼ毎日、クモが玄関前の階段にクモの巣を張っている。玄関前には階段があるが、階段の両脇に木が植えてあり、これを使って巣を張ろうとするのである。
▼なぜそうなったのか、疑っている原因があるが、それは後半に回すとして、このクモの糸のせいで私は毎日迷惑をこうむっている。朝ミサに行くたびに、このクモの巣に触れてしまい、顔にクモの糸をかけられるのだ。
▼このまえ霊名の祝いの食事会で中島みゆきの「糸」を歌ったが、さながら私の朝の日課は「♪縦の糸は私、横の糸はクモの巣」である。「♪織りなす布は、いつか誰かをからめ取って司祭召命が生まれ得るかも知れない。」なんと悠長な。
▼実はこうした状況の原因になっているのが「階段に手すりを付けたこと」ではないかと疑いを持っている。クモは風に乗って巣をかける場所に飛び移るが、これまでだと距離があって諦めていたのを、手すりができたおかげで「巣をかけてみようかな」という気になったのではなかろうか。
▼しかし手すりはどうしても必要だと判断して設置したので今さらどうこうできない。そうなると対処法は限られてくる。頻繁に階段を上り下りすること。だが面倒なので、田平教会の皆さんが頻繁にミサを頼みに来て、クモが巣をかけるのを諦めさせて欲しいな(笑)
‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第619回目。私の父を知る人に思いがけないところで出会った。大切にしたい。
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† 神に感謝 †
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(ルカ10:25-37)
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年間第15主日の福音朗読に「善いサマリア人」のたとえが選ばれました。私たちが本当に助けを必要としているとき、助けてくださるのはイエス・キリストです。そのことを学んで持ち帰ることにしましょう。
お告げのマリア修道会の志願者の皆さんがミサに参加してくれています。すでに典礼奉仕を手伝ってくれています。奉仕の本来の姿を志願者の皆さんは示してくれています。奉仕は本来人にも自分にも喜びを与えるものです。聖書朗読を手伝ったなら、朗読を聞いた人が喜ぶことになるし、きちんと神様の言葉を届けることができて良かったと、自分にも喜びがあります。奉仕は本来こうあるべきですね。
いよいよ私は、瀕死の状態の広島カープのお見舞いに行こうと思っています。これも奉仕です。チームにとっては、はるばる長崎県からのお見舞いを受けて感謝の気持ちが湧くでしょうし、私にも、全力で勝利のためチーム一丸となって戦う姿を見れば何連敗していても喜びがあります。奉仕の精神で、19日(金)のナイター観戦に行ってきます。
さて物語に登場する人物を、私たちに分かりやすい形に説明しなければなりません。半殺しにされた人は、助けを必要としているすべての人です。私たちも含まれています。私たちは時々道をそれるからです。罪を犯す人は、正しい道からそれていく人なので、導く人、助ける人が必要です。悪口を時々言うだけでも、うそを時々言うだけでも、注意してもらったり戒めてもらったりしないと、正しい道に戻ることは難しいのです。
特に、半殺しにされた人は、そのままでは死んでしまいます。いのちを救ってもらわないといけません。いのちを救ってくれる人が通りかかるのを必死に待っているのです。「うそは言うけれども、だからといって死にかかってはいないなぁ。」そう思っている人もいるかも知れませんが、人はどんなに小さな傷からでも、死ぬ危険があるのです。
次の登場人物に移りましょう。祭司が道の反対側を通りました。道の反対側を通ったこと自体は問題ではありません。ふだん右側通行をする人々は誰でも向こうから見える人と道の反対側を歩いています。祭司とは、神殿の聖所で礼拝を果たす人です。レビ人は、祭司にお仕えして礼拝に協力する人です。祭司は神殿の聖所にまで入る人ですから、私たちのカトリック教会で言えば司祭のことでしょう。レビ人は、司祭にお仕えして礼拝に協力する人ですから、修道者や志願者、神学生と考えて良いでしょう。
司祭は、半殺しにあった人を避けていきました。司祭は礼拝の時間が厳しく決められています。13日(土)は、朝6時のミサがあって、11時に葬儀のミサがあって、13時半にこどもたちの赦しの秘跡があって、19時に主日の前晩のミサがありました。時間の余裕はありませんでした。もし、外に出かけていて帰り道倒れている人を見つけたら、葬式のミサに遅れてはいけない、こどもたちの赦しの秘跡に遅れてはいけない、前晩のミサに遅れてはいけないと考えて、立ち止まらないかも知れません。
司祭にお仕えする人も、司祭の予定を考えたら、立ち止まれないと思います。11時の葬儀ミサが始まるのにオルガンを弾く私が遅れたら大変な迷惑をかける。前晩のミサで聖書朗読を頼まれている私が遅刻したらミサが止まってしまうかも知れない。イエス様の時代は携帯電話もありません。神殿で礼拝を待っている人に「大変なことが起きたので遅れます。でも必ず戻ります!」そんな連絡もできないのです。ですから、物語に登場した祭司やレビ人は、立ち止まらなかったのでしょう。
人間は、それほど弱く力が足りないのです。身体が二つあれば、同時に自分の務めを果たし、道に倒れている人を助けることもできるでしょう。けれどもそれは不可能です。そしてどちらを選ぶかと言われたら、自分の都合を選んで優先してしまうのです。人間には限界があるわけです。けれどもイエス様は、そんな私たち弱い人間に代わって、助けを必要としているすべての人のそばを通ってくださるのです。そうです。「旅をしていたあるサマリア人」とは、イエス・キリストのことなのです。
このサマリア人はその場で必要な手当てのほかに、完全に健康を取り戻して生活に戻れるまでのお世話をしてくださいます。倒れている人のために救急車を呼んで終わりではありません。救急車に一緒に乗り込んで、退院するまでずっとお世話くださいます。助けを必要としている人、特にいのちの危険にある人にずっと付き添って、健康を取り戻し、ふだんの生活に戻れるまで、手を差し伸べてくださるのです。
イエスの弟子である私たちは、当然このイエス様に倣う必要があります。もちろん弱い人間ですし、限界もありますが、イエス様は九十九匹の羊を残して見失った一匹の羊を探し回り、群れに連れ戻す方です。どれくらい見倣うことができるか分かりませんが、イエス様のやり方に合わせよう。今日からそう決めてください。
主任司祭は、いのちの危険にある人が助けを求めているとき、次の予定が入っていたらその人たちに「何分まで待てますか?」と確認して手を差し伸べることにします。最近も二度、青洲会病院に急に呼ばれました。コーヒー飲みかけていましたがすぐに行きました。ビール飲みたかったけれどもすぐに病院に向かいました。
イエス様のなさり方に、今日舵を切ることにしましょう。イエス様のなさり方に見倣う人が一人でも増えるなら、何人ものいのちの危険にある人、罪に縛られている人が、本当の意味で生きる人になるでしょう。私たちも、イエス様のなさり方に倣うことで、本当の意味でいのちを大切にする人に変わることができます。
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ちょっとひとやすみ
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▼この2年で司祭館玄関に大きな変化が生じている。ほぼ毎日、クモが玄関前の階段にクモの巣を張っている。玄関前には階段があるが、階段の両脇に木が植えてあり、これを使って巣を張ろうとするのである。
▼なぜそうなったのか、疑っている原因があるが、それは後半に回すとして、このクモの糸のせいで私は毎日迷惑をこうむっている。朝ミサに行くたびに、このクモの巣に触れてしまい、顔にクモの糸をかけられるのだ。
▼このまえ霊名の祝いの食事会で中島みゆきの「糸」を歌ったが、さながら私の朝の日課は「♪縦の糸は私、横の糸はクモの巣」である。「♪織りなす布は、いつか誰かをからめ取って司祭召命が生まれ得るかも知れない。」なんと悠長な。
▼実はこうした状況の原因になっているのが「階段に手すりを付けたこと」ではないかと疑いを持っている。クモは風に乗って巣をかける場所に飛び移るが、これまでだと距離があって諦めていたのを、手すりができたおかげで「巣をかけてみようかな」という気になったのではなかろうか。
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文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
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† 神に感謝 †
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