こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

四旬節第1主日(マルコ1:12-15)すべてが神に信頼することから始まる

2012-02-26 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
12/02/26(No.577)
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四旬節第1主日
(マルコ1:12-15)
すべてが神に信頼することから始まる
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説教の前に、福見教会は来年4月に教会献堂百周年を祝おうとしています。福見教会では、信徒が一致してこの日を迎えるために、標語を募集しました。すべての応募の中から、百周年の準備会議のメンバーが5つを選びまして、その中から1つ、教会の垂れ幕にしたいと思っています。福見教会の方々は、必ず5つの候補のどれかに、1票を投じていただきたいと思います。

今日、浦上教会で叙階式が行われますが、わたしにとっての叙階式はほろ苦い思い出です。叙階式の前日、浦上教会の真下にあるカトリックセンターで叙階式を受けるわたしたちは明日に備えて泊まっていました。すでに島本大司教さまから浦上教会で働いてくださいと任命されていたこともあって、夜になってもなかなか寝付けませんでした。

「落ち着け、落ち着け」そう思うのですが、どうしても眠くなりません。そうしてようやく眠りについたのが2時頃だったのでしょうか。わたしは夢を見ていました。叙階式がすでに終わり、祝賀会が浦上教会の信徒会館で行われていたのです。

わたしのほかに、2人が司祭に叙階されることになっていましたが、その2人は無事に叙階式を終えて舞台に上がり、皆さんから祝福を受けていました。そしてわたしは、なぜかパジャマ姿で、司祭に叙階された2人のお祝いをしている信徒会館の外に立って中を覗いていたのです。

ビックリして、飛び起きました。時間は朝の4時、まだ辺りは真っ暗です。「あー、夢か。」夢でよかったですが、この先が思いやられるなぁと思ったのを覚えています。興奮して、そのあとは結局眠れませんでした。

今になって思うのですが、あの夢はわたしに1つのことを教えてくれていたのだと思います。それは、司祭に叙階されるというのは純粋に神の恵みによるものだということです。わたしは司祭に叙階されることが許されて、前日カトリックセンターに待機していました。朝目が覚めれば、当然司祭に叙階される。わたしはそう思っていたのかもしれません。

ところが、イエスはわたしに違うことを教えようとしておられました。あなたは寝坊して、司祭叙階式に間に合わなかった。あなたの準備は十分足りていたけれども、夢の中ではわたしがあなたを呼ばなかったから、あなたは司祭に叙階されなかった。司祭叙階の恵みがどこから来るのか、もう一度よく考えなさい。そういうお告げだったのでしょう。

今であれば、イエスがわたしに教えようとしていることはよく分かります。司祭の務め、たとえそれが、どんなたやすい務めでも、神の恵みがなければその務めを果たすことはできないのです。司祭はだれかのために祝福を祈ることができます。ロザリオなどの信心用具の祝別、御像や十字架像の祝別も、特別な技術は何も必要ではありませんが、神の恵みがなければわたしは無力なのです。

一切を、神に頼って生きている。一切を、神に頼って果たす。そういう生き方を忘れてはいけないよと、叙階式の直前に夢の中で念を押してくださったのだと考えています。

今週の福音朗読はとても短いのですが、イエスが誘惑にさらされて、それと戦って打ち勝つ場面と、最初の宣教活動の様子が生き生きと描かれていると思います。わたしは、自分の叙階式にまつわる苦い思い出と重ねて考えました。

直前の誘惑、神に信頼することだけが、誘惑に打ち勝つ方法です。自分は鍛えているから、自分は長い訓練を受けているから誘惑に勝てる。そんなものではないのです。自分の力に頼ってはいけないことをよくよく教えるために、イエスが父なる神に信頼して過ごした四十日間を紹介するわけです。

人が過ちを犯さないためのいちばん確かな道は、神に全面的に信頼することなのです。わたしは配偶者を愛している。わたしは自分の愛情に絶対の自信を持っている。そうかもしれませんが、それは誘惑に打ち勝つ最高の武器ではないのです。自分に頼ろうとするとき、悪魔は巧みにその隙を攻撃してきます。

わたしはイエスさまを愛してこの奉献生活を生きている。わたしの愛は揺るがないから、誘惑に打ち勝つことができる。そういう思いは、悪魔が誘惑する格好の材料になってしまいます。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(1・15)この一言を人々に告げ知らせるとき、わたしは神に信頼して声を上げるのです。宣教開始までの準備が万全であっても、自分に信頼するのではなく、先に宣教に出かけられたイエスに信頼してついて行くのです。

これは、生き方をすっかり変えることでもあります。神への信頼を土台に置いた生き方。どんなに得意なことでも、自分に信頼するのではなく、最後まで神の導きにだけ信頼を置いて務めを果たす。徹底してこの生き方を貫く人は、四旬節の回心を果たした人なのだと思います。

どうか、今年の四旬節が、わたしの中にあるわずかな自信さえも砕いて、神に信頼することだけを追い求める四十日でありますように。神に信頼することより確かな道はないと、人々に証言できる人にわたしたちを造りかえてくださいますように。

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‥次の説教は‥‥
四旬節第2主日
(マルコ9:2-10)
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ちょっとひとやすみ
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▼初聖体式が、来週日曜日、3月4日と迫ってきた。毎年、主任司祭からのプレゼントはロザリオなのだが、「五大陸ロザリオ」というのを手に入れたので、それをプレゼントする予定である。
▼ロザリオがそれぞれの神秘ごとに色分けされているロザリオで、「青・黄・緑・赤・白」それぞれが大陸を表している。世界平和のために祈る趣旨らしい。子どもにそれが理解できるとは思わないが、「今、青の何個目を唱えているのよ」と促して、ロザリオを繰る練習にはなるだろう。
▼先週ワインの話をしたと思うが、そのワインが無事に届いた。1本は、「シャトー・ローザン・ガシー1966年」、もう1本は「シャトー・カルディナル・ヴィルモリーヌ1966年」となっている。名前を聞いても、実際には口に含んでも、どれくらい美味しいのかも分からず飲むのだから、これ以上の贅沢はない。
▼味が分かる人が、「この値段にふさわしい」と納得して味わうなら、それは贅沢ではないと考える。味の分かる人が飲んでいるのだから、ふさわしい楽しみ方だ。わたしは味も何も分からずに美味しいであろうワインを飲もうというのだから、贅沢なのである。
▼1本は、紹介していた同級生の司祭にプレゼント。1本は、自分で飲むが、予定では、黙想会の指導に来てくれる説教師の司祭と飲む予定。どのみち1人では飲み終えることはできないのだから、2人で楽しく飲めれば一石二鳥である。
▼そう言えば、説教師の司祭に泊まってもらう部屋が、テレビも何もないため困るだろうと思い、配線工事を予定している。にわか工事を引き受けてくれた信徒の方と、屋上の配線を見に行った。どのように分配すればよいかを検討するためである。
▼登ってみて分かったが、やはりわたしは高所恐怖症なのだと再確認した。手すりも何もない屋上に立ってみて、真ん中にいてさえも足がすくんで動けない。これはたまらないと、信徒のかたに訳を言ってすぐ降りることにした。信徒のかたは客室まで何メーター、屋上から垂らして何メーターと、屋上から2階の窓をのぞき込んでいた。落ちはしないのだろうが、わたしだったら気を失っているだろう。

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新企画今週の1枚
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第184回目。遅くなるかも知れませんが、新司祭と一緒に初ミサの様子。
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年間第7主日(マルコ2:1-12)イエスの前に運ばれた人は、いやされて

2012-02-19 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
12/02/19(No.576)
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年間第7主日
(マルコ2:1-12)
イエスの前に運ばれた人は、いやされて
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次の日曜日、浦上教会で叙階式が行われます。司祭叙階が1人、助祭叙階が2人です。司祭になるのは、曽根小教区の大水助祭です。わたしは叙階式というのは、教会が自分たちと社会に向けて証しをするとても大きな場だと思います。

何を証しするかと言いますと、ひとことで言えば「イエス・キリストは自分の生涯をかけて信じるに値する方です」という証しです。とくに司祭・助祭叙階は、生涯独身を貫いて、その生き方を全うするわけですから、教会にとって、また社会に対して、決定的な影響を与えることができます。午後3時からですので、あわせてお祈りいただければと思います。

考えてみるとこんな大きな喜びの日に、子どもたちを何とかして叙階式に参加させることができるなら、子どもたちの心に憧れを抱かせる絶好の機会なのになぁと今になって思います。五島の場合は、26日日曜日午後3時の叙階式に参加させて、その日のうちにどうやって帰ってくるのかという問題があります。なかなか実現は難しいのですけれども、叙階式や、誓願式に子どもたちを連れて行くのは、チャンスがあれば実行したいと思います。

今週の中風の人をいやす物語で鍵を握っているのは、病人を運んできた四人の人です。大勢の人が集まっている場所に、四人の男が中風の人を運んできました。この四人は、イエスさまだったら病気を治せると信じて、中風の人を運んできた人たちです。群衆に阻まれていて、ふつうであればあきらめるところを、彼らはイエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろしたとあります。

イエスはこの人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言いました。四人は、病気の治癒のために行動したつもりでした。けれども、イエスは奇跡を、罪を赦す神の子としての権能に結び付けたのです。イエスは神の子であると、人々が神を賛美し、律法学者が神への冒とくだと心の中で考えるようになったきっかけを、病人を運んだ四人の行動で橋渡しをしたことになります。

中風の人は、病気であっただけでなく、何かの罪を抱えていたことになります。どのような罪だったのかは分かりません。運んできた四人は、病気を抱えている人の罪までは分からなかったかも知れません。けれどもイエスによって、罪の赦しと、最終的に病気のいやしまでいただいた様子を見て、イエスは罪を赦し、病気もいやす、この世でただ一人の人だと知りました。

病気の人を四人がイエスの前に運んできて、その様子をすべての人が注目しています。運んできた四人、弟子たち、取り囲んでいる人々、律法学者などです。もっと言うと、今日物語を黙想しているわたしたちも、様子に注目している中に含まれていると言えます。

そして、それぞれにイエスさまに対する思いが湧いてきました。神を賛美する人々も現れましたし、神を冒とくしているとして心の底から憎しみを覚えた人も現れました。同じ場所にわたしたちも立っているわけです。

わたしたちも、自分の信仰を言い表す必要があります。イエスは病気の人を連れてきたときに、連れてきた人に見えていなかった部分、罪の赦しも与えて下さいました。このことでイエスさまは、わたしたちに考えさせようとしていると思います。「わたしは、あなたが気付いていない部分にも力をもっています。あなたはわたしを、信じて受け入れてくれますか。」

この招きに、よく考えて答える。これが今週のわたしたちの宿題です。例えばそれは、司祭・助祭に叙階される人々のように、「生涯をかけて信じるに値する方です」という信仰を表すこともできるでしょうし、「生活の基本、生きる土台です」という信仰の表し方もできるでしょう。ある人は命の危険にさしかかっていて、「最期を委ねることのできるお方です」と答えるかも知れません。

後輩司祭が誕生するこの時期、20年前を振り返って、わたしはどうだったのかなぁとやはり考えてしまいます。「生涯をかけて、信じるに値するお方です」と、たしかに証しをしたと思うのですが、今その証しは曇っているのではないかなぁ、そう反省させられます。

わたしたちは誓いを立てたり、決心を抱いたり、またその誓いからある一定の時間が経っていたりしますが、それが初めのままの純粋な状態で保たれているかなぁと振り返ってみたらよいと思います。もし思う所があれば、何を補えばよいか、考えましょう。わたしたちの生活は、証しの生活であるし、証しを機会あるごとに振り返り、更新していく生活でもあると思います。

最後に、イエスの前に運んでこられた人は、罪を赦され、病もいやされてどこへ行ったのでしょうか。その続きの物語を、わたしたちが受け継ぎましょう。わたしたちの生き方で、「起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った」その後の物語を「イエスを証しする物語」として、完成させましょう。

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‥次の説教は‥‥
四旬節第1主日
(マルコ1:12-15)
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ちょっとひとやすみ
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▼誕生日が近づいてきた。来月の話だが、最近は年に1度だけの特別ご褒美として、誕生日ワインを購入している。1966年生まれなので、1966年のワインを購入するわけだ。最近始めた習慣だが、購入し始めた頃と比べると、購入をためらい始めている。
▼というのは、1966年物というのは、つまり46年物のワインということになる。わたしがネットで調べる限り、数千円のワインは見つからない。1万円をくだらないのである。今回調べた結果、12800円のワインがようやく見つかったので、それを注文することにした。
▼偶然か、あるいはネット大手なのか、去年と同じ店舗からの注文となった。担当者からは「ご注文いただき、ありがとうございます。遠い場所からの注文に、ネットで出会うことのできる縁を大切にしたいと思いました」みたいなメッセージが付いていたが、去年も同じ時期に購入したのに、気付いてくれよと思ったりもした。
▼商品が届いて、味見をしたら、また感想をここに載せようと思っているが、去年からはさらに贅沢なことをしている。誕生日が1週間違いの同級生が同じ新上五島町に赴任してきたので、彼にもプレゼントしようという計画だ。
▼ちょっと彼とは心をゆるせる部分があって、それは彼も、お酒を飲んだら真っ赤になる共通点があるということ。上五島の司祭たちは、ほとんどがお酒に強くて、ちょっとわたしとかとは違う人種だと思う。まぁその点、同席したときに顔が真っ赤になる人がもう一人いるのはほっとする。

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新企画今週の1枚
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第183回目。中学生がときどき学んでいるカテキズムテキスト。英語。
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年間第6主日(マルコ1:40-45)イエスに触れた人は、清められる

2012-02-12 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
12/02/12(No.575)
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年間第6主日
(マルコ1:40-45)
イエスに触れた人は、清められる
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本原教会に、同じ郷里の戸村神父さまという先輩がおられます。本原教会はフランシスコ会が担当している教会です。先週の月曜日、本原教会の朝のミサに参加しました。先輩神父さまを初め、4人で共同ミサをささげました。

その日、2月6日は聖アガタの記念日でした。ミサ中、先輩司祭とのつながりを思い出していました。中学・高校時代もよく本原教会に顔を出していましたが、特に大学生の時代にかわいがってもらいました。

聖アガタの、「アガタ」とは、「よいもの」という意味があるそうです。創世記に、「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。」(創世記1・31)とありますが、殉教者アガタも、ご自身を神への純粋なささげもとのなさって、「よいもの」となられました。

戸村神父さまも、同郷のわたしを、いつも「よいもの」として扱って下さいました。大学の夏のスクーリングで、休暇になると当時栃木県の松が峰教会に赴任していた神父さまのところに転がり込み、ご飯をご馳走になり、観光名所の日光に連れて行ってもらったりしました。

よく考えるとわたしは教区の神学生だったので、どれだけかわいがってもらってもフランシスコ会には得にならないわけです。それなのに、先輩はわたしを「よいもの」として、「極めて良いもの」として接して下さいました。その心の広さに、わたしは頭の下がる思いです。

福音は、重い皮膚病を患っている人をご覧になったイエスが、「深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』」と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。」(マルコ1・41-42)という奇跡物語ですが、「手を差し伸べてその人に触れ」という部分に、わたしは心を打たれます。

重い皮膚病、それは、病気にかかっていない人を震え上がらせる症状だったと思います。思わず飛び退くような症状の人に、イエスは手を差し伸べ、触れて下さいました。イエスが医学の専門家だったから診察したのではなく、イエスは深く憐れんで、手を差し伸べたのです。

初めに、本原教会の同郷の神父さまの話をしましたが、目的があってわたしをかわいがって下さったわけではありませんでした。教区の神学生とか、自分のところの修道会の神学生とか、そういう区別なしに、寛大に接してくれた。その寛大さが、わたしの心に触れたのでした。

イエスのなさった奇跡は、それだけで十分心に触れる出来事だったと思います。声が届くはるか遠くから、「よろしい。清くなれ」と仰っても、病気は治ったかも知れません。けれどもイエスは、あえてこの重い皮膚病を患っている人に近寄り、触れた下さったのです。病気であるか、健康であるか、まったく区別なく接してくださるイエスの憐れみ深さに、この重い皮膚病の人は触れたのではないでしょうか。

イエスに触れてもらい、重い皮膚病の人はいやされたのですが、イエスは「だれにも、何も話さないように気をつけなさい」(1・44)と厳しく注意します。心を打たれ、どうしても話したくなるような体験をした人は、たとえ話すことを止められても、止めることはできないと思います。

例えばそれは、「これは内緒よ。だれにも話さないでね」と言った話が、どこまでも伝わっていくのと同じです。わたしが戸村神父さまに受けた恩も、面と向かって「だれにも話すなよ」と言われたことはありませんが、きっとそのつもりだと思います。けれどもわたしには、仕舞っておくにはもったいない、貴重な体験です。

重い皮膚病をいやされたその人にとっても、イエスが自分に触れて下さったその憐れみ深さ、病気を完全に取り去ってくださる神のわざを、話さないではいられなかったのではないでしょうか。

これは、わたしたちへの模範だと思います。わたしたちも、イエスのように、だれかの心に触れるようなお世話、おもてなしをする力が与えられています。何も経済的に豊かでなければ、心に触れるお世話ができないということではありません。祈りを教えることによっても、親切をほどこすことによっても、人の心に触れ、その人が心を洗われるということは可能です。

イエスはまずそのお手本を示してくれました。そしてわたしは幸いに、そのような人の心に触れるお世話を知っている恩人と出会いました。今はわたしが、だれかの心に触れ、その人をいやしたり慰めたり、もう一度立ち上がるお手伝いをしたりする番だと思います。

もしもカトリック信者が、だれかの心に触れるようなお世話ができるとしたら、それはわたしを通してその人にイエス・キリストを届けるときです。わたし自身は、心に触れるような力は持ち合わせていないかも知れません。けれどもイエスは、人の心に触れ、イエスに心打たれた人が自分の体験を次の人に知らせる、そういう力を持っています。

ですから、わたしの生活の中で、心からある人にお世話しようとするなら、もてなす人にイエス・キリストを体験させるとよいと思います。食事に招待したとき、食前の祈りを唱えて体験させるのも良いでしょう。そのとき、お世話を受ける人は、「同じことをほかの人からも受けたことがあるけれども、どうしてこの人のお世話は心に触れるのだろうか」と感じてくれると思います。

こうして、わたしたちのお世話、奉仕、隣人愛を通してイエス・キリストを体験させるためには、もっともっとイエス・キリストを知る必要があります。聖書の朗読会を活用したり、教会備え付けの聖書を借りていって、平日読み続けることもできます。いろいろ手を尽くしてイエス・キリストをよりよく知ると、わたしたちの生活そのままでだれかがわたしたちを通してイエスに触れる方法も、見つけることができるでしょう。

より多くの人が、イエスに触れ、イエスに触れた人が、さらに多くの人にイエスを知らせることができるよう、ミサの中で恵みを願いましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第7主日
(マルコ2:1-12)
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ちょっとひとやすみ
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▼今年の26聖人殉教記念ミサは、2月5日がちょうど日曜日に当たっていたので、日曜日に26聖人殉教記念ミサをするという方針がちょうど2月5日に当たっていたので良かった。ただ、会場となる西坂の殉教記念公園に向かっている時点で雨が降っていたので、残念ながら会場を中町教会に移動するのだと思っていた。
▼ところが、いつまでたっても会場変更のお知らせが入らない。長崎市内の人に尋ねてみても「変更はありません」としか言ってこない。これだけ雨が見えているのに、主催者は何を考えているのだろうと思った。26聖人記念館で祭服に着替えている時点でも、傘なしでは立っていられない状況だった。
▼ところが、ミサが始まるというそのときに、雨はほぼやんでしまい、傘をささずに済む程度におさまった。この時点で、わたしを含め多くの人の疑問も不満も消えてしまったかも知れない。雨のやんだ曇り空は、40分以上続いた。
▼説教が終わって、ミサの奉献文も唱えた頃、またもや雨。司祭たちはしばらくがまんしようとしたが、それも長くは続かず、次第に傘をさしはじめた。全員が傘をさす頃には、傘にあたる音で大司教の声が聞こえないくらいだった。「完全に、本部の判断ミスだ。」そう言いたかったが、ある1つの出来事でわたしは考えを変えた。
▼ミサは、「派遣の祝福とあいさつ」で終わる。派遣のあいさつをしたのは中町教会の主任司祭だった。「2012年の26聖人殉教記念ミサを終わります。行きましょう。主の平和のうちに。」本人がどういう意図でこう言ったかは分からないが、「2012年の」と言ってくれたことが、救いの言葉に聞こえた。
▼「いろんなことがあり、いろんなことを感じた今年のミサでしたが、無事に今年の殉教記念ミサを終わりました。行きましょう。主の平和のうちに。」そういう意図はなかったとしても、そう感じた人はいるはずだ。だから、わたしたちは語る言葉が本人の意図しないことも伝えてくれるかも知れない。そう思って言葉一つひとつをていねいに語りたい。

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新企画今週の1枚
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第182回目。知り合いから26聖人殉教記念ミサの写真を分けてもらいました。
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年間第5主日(マルコ1:29-39)イエスによって変えられ、わたしも人を動かしていく

2012-02-05 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
12/02/05(No.574)
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年間第5主日
(マルコ1:29-39)
イエスによって変えられ、わたしも人を動かしていく
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皆さん。マラソン大会、結果出しましたよ。何と、去年の13位から、5位に急上昇しました。1キロ6分、48分でゴールするだけの練習を積んできましたが、本番では1キロ5分25秒でカバーし、43分21秒でした。詳しいことは、張り付けている成績一覧を見てください。

ほぼ、満足できる結果だったのですが、惜しかったのは自分の前を走っていた4位の先輩です。8秒差でした。20メートルあったでしょうか。3位は、土井ノ浦の後輩です。彼とは1分近く離れていたので、来年追い抜くのは難しいかもしれませんが、目標にはしたいと思います。

ついでの話ですが、水曜日の晩、中学生のけいこのために浜串教会の聖堂の2階に上がってすぐ、「マラソン5位、おめでとうございます」と言ってもらいました。嬉しかったですねー。これまでの2ヶ月間の苦労が吹っ飛びました。わたしくらいの年齢であれば、中学生の子供がいても不思議ではないわけですが、子供に喜んでもらった親の気持ちがよく分かりました。子供が喜んでくれているその一言があれば、親はどんな苦労も苦労と感じないのでしょうね。

では福音の学びに入りましょう。イエスと弟子たち一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行きました。シモンのしゅうとめが、熱を出して寝ていたのですが、イエスは彼女を深くあわれみ、彼女の熱を取り去ってくださいました。

シモンのしゅうとめは、イエスのいやしを受けて、一同をもてなします。この出来事は一見するとわたしたちには縁遠いように見えるかもしれません。同じように、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、多くの悪霊を追い出してくださったとなっていますが、わたしたちはこの話を身近な出来事と感じることができないかもしれません。

奇跡に目を奪われがちですが、イエスとシモンのしゅうとめの反応を整理すると、中心にあるのは「悩み苦しんでいる人がいて、イエスはその人の悩み苦しみを取り去ってくださり、その人は一同をもてなす」という図式です。この中心にあるものが、何より大事だと思います。

つまり、わたしたちは人生を歩む中で、さまざまな悩み苦しみを経験しますが、その都度イエスはやって来て、あなたの悩み苦しみを取り去ってくださいます。もちろん、それは人間側が期待したとおりには起こらないかもしれません。

病人訪問をしながら、司祭はご聖体のイエスさまを届けますが、残念ながら司祭は病気を取り除くことはできません。けれども、ご聖体のイエスさまがおいでくださったことで、お見舞いを受けた人は慰められ、力を受けるのではないでしょうか。

ですからイエスは今も、人生のさまざまな悩み苦しみを抱えている人のもとを訪ねて、その悩み苦しみを取り除いてくださっています。救いの入り口を開くために洗礼を授けてくださり、罪の暗闇の中にある人に罪のゆるしを与えてくださり、いのちのためにご聖体となって食べ物を与えてくださいます。

また人生に迷う時期に堅信の秘跡で聖霊の七つの賜物を注いでくださり、病気や老齢でいのちの危険にさらされている人を病者の塗油で励ましてくださり、イエスを捜し求める人々のために叙階の秘跡によってイエスの代理である司祭を生み出してくださり、2人が一体となって歩んでいくために婚姻の秘跡で祝福してくださいます。

人間の側の期待通りとはいかないかもしれませんが、さまざまな形で、「悩み苦しんでいる人がいて、イエスはその人の悩み苦しみを取り去ってくださる」という図式が成り立っているのだと思います。問題は、そのあとの、「その人は一同をもてなす」という部分が残ります。わたしたちは、人生の様々な場面でイエスと出会いますが、その結果、一同をもてなすということにつながっているでしょうか。

シモンのしゅうとめは、自分が直面している悩み苦しみを取り除いてもらった感謝を、一同をもてなすことで態度に表しました。わたしたちもぜひ、イエスに出会い、イエスに自分の重荷を取り除いてもらった感謝を、形に表したいと思います。

いろんな場所に、感謝を表す形があるでしょう。家族に対してもてなしをすること、教会という、神の家族に対して奉仕活動をしてもてなすこともあるでしょう。小学生、中学生、高校生の教会活動のために力を貸すことも考えられます。自分が関わっているボランティアのグループ、社会の中での活動に参加することを通してなど、いろんな場所で自分にできるもてなしを発揮できます。

イエスはこの一連の動きを促すために、巡回して宣教しました。イエスは宣教に先駆けて人里離れた所で祈っておられますが、弟子たちはイエスを見つけると、「みんなが捜しています」と言いました。けれどもイエスは1つの場所に執着せず、次々に近くのほかの町や村へ出かけます。

人々がイエスに出会い、イエスによってもてなす人に変えられていく。その一連の動きを活発にするために、どんどん場所を変えていきました。初めは、イエスさまがエンジンを動かしてくださいます。それは、エンジンがかかった人が、他の人のエンジンを動かすためです。イエスはそうして、あちこちで神に出会い、神に変えられる人を生み出し、その人が周りの人を動かすことを期待しているのです。

きっと、今日のミサで、イエスはわたしたちのエンジンを動かしてくださり、わたしたちにも、わたしたちにつながるだれかを動かす人になるように、期待しているのだと思います。わたしたちはすでに模範になる信仰の先輩をたくさんいただいています。

特に、今日2月5日に祝う日本26聖人はそうです。26聖人はイエスによって殉教者の証しをするだけのエンジンを動かしてもらい、まわりの多くの人をさらに動かしたのでした。今日26聖人の取り次ぎを願いましょう。そして、イエスによって変えられ、まわりの人をもてなすことができるよう、ミサの中で恵を願いましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第6主日
(マルコ1:40-45)
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ちょっとひとやすみ
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▼困ったことになった。日頃利用しているプロバイダーのメールサーバーが故障して、メインのメールアドレスでの送受信ができなくなってしまった。受付の人に「故障、どうなってますか」と問い合わせたら、「復旧のために努力しています」という返事だった。
▼1日置いてまた電話したら、「送信はできるようになりましたが、受信はまだ復旧できていません。また、いつごろ復旧できるかも、現在見通しが立っていません」ということだった。そう言われても、毎日のことだからどこかで決断しなければならない。つまり、メインのメール用に現在のプロバイダー提供のアドレスを使い続けるか、別の物を用意するかだ。
▼半日考えて、新しくWebメールを用意して、これをメインのメールアドレスにすることにした。本来は、プロバイダー提供のものが安心なのだが、これからメールを送って来る人が「メールを送りましたが、読んでもらえたでしょうか」ということがあってはいけない。残念だが、今のままでは危険が高まっていて、待っていられないと感じた。
▼インターネット検索や、Webの閲覧は問題なくできている。だから、現在のプロバイダーは活かそうと思う。だが、こんなことが度重なると、やはりプロバイダーそのものにも魅力を感じなくなる。ぜひ最大限の努力をして、この難局を乗り切ってほしいものだ。
▼マラソン大会。くどいようだが、4位の先輩とは8秒しか差がなかった。上り坂ではすぐそこまで近づくのだが、下りになると逃げられる。その繰り返しで、最後のゴール前もあと少しの気力が自分に足りなかった。
▼ただ、ゴール前に追い越して4位になったら、来年の目標を失っていたかもしれないから、それはそれでよかったのかもしれない。今年は、順位を一けた台にすることが目標だったが、来年は、タイムを競うマラソンにしたい。

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新企画今週の1枚
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第181回目。お世辞にもカッコいいとは言えないが、走っている様子。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/120205.jpg

ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/
===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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司祭の本業ではありませんが・・・マラソン大会の

2012-02-02 | Weblog
【お知らせ】

司祭の本業ではありませんが、マラソン大会の結果などを
ホームページ「話の森」にアップしました。
ランニングパンツが食い込んでいて、とてもお見せできませんが、
それでものぞいてみたい方はどうぞ。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/

また、福江教会の主任司祭である下口神父さまが、
これまでのマラソン大会32回の歴史をまとめてくださっています。
あわせてごらんになると面白いと思います。1993年あたりが、
個人的にはお勧めです(笑)
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