こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第25主日(マルコ9:30-37)すべての人の後になれますか?

2006-09-24 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
06/09/24(No.259)
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年間第25主日
(マルコ9:30-37)
すべての人の後になれますか?
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今日の福音朗読は、二度目の死と復活の予告から始まっています。「弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった」(9・32)とありますが、一度目の予告のあとに弟子の代表であるペトロが「サタン、引き下がれ」(8・34)と叱られたあとのことですから、弟子たちが何も尋ねられないのはよく分かります。どんな人も、また叱られるのではないかと思えば、尋ねたいことも尋ねられないものです。

弟子たちはそれでも懲りないのか、「だれがいちばん偉いか」というようなことを途中で議論していました。だれがボスなのかという議論は人間に限ったことではありません。つい最近稲佐山に車で上がってきましたが、そこにはサルが集団で生活し、見せ物になっていました。

このサルたちも、だれがいちばん偉いかをいつも争っています。冷静に考えれば、弟子たちが熱中していた議論は、サルがいちばん問題にしている程度の話題だったわけです。「途中で何を議論していたのか」というイエスの言葉は、「早くそんな愚かな議論から離れなさい」と言っているかのようです。

「いちばん先になりたい」とか、「いちばん上になりたい」という議論は、かえって人間を動物のレベルに下げてしまいます。そこでイエスは、人間が最も高められるような形でいちばんを目指す道を示そうとされました。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」(9・35)。

そうは言っても、たとえば明日の町民運動会でグランドを走れば、だれかが一番になって、だれかがビリになります。まだどこかの地区が優勝して、どこかの地区が最下位になるかも知れません。運動会での競争はまったく気にしなくてよいのです。運動会で順位をどれだけ競っても動物のレベルに下がったりはしません。

動物は競争して一番を目指すとか優勝するとか、そういうことをいっさい考えたりはしません。ですから、今日イエスが問題にしようとしている「だれがいちばん偉いか」とは別物だと考えてください。むしろおおいに優勝を目指して欲しいと思います。

イエスが教えたかったのは、たとえば動物でも競争をするような事柄にうつつをぬかすのではなく、イエスが示そうとする「人間だけが目指すことのできる高い理想」に目を留めなさいということだったのです。そして意外に思うかもしれませんが、その高い理想は自分たちの足下に、大人たちにまとわりつく子どもたちを受け入れることにあるというのです。

イエスは「一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた」(9・35)のでした。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」(9・36)。持っている力を見せつけるような人になるのではなく、小さな子供、つまり弱く小さな相手を寛大に受け入れる人になるようにと教えるのです。

このような、人間にしか理解できない偉大さをもう少し考えるために、「すべての人の後になる」ということを考えてみましょう。すべての人の後になると、順番も最後になってしまいます。船に乗る順番にたとえると、いちばん最後に乗り降りすることは、だれも好まないのではないでしょうか。私の場合で言うと、いちばん後ろでは相当なストレスになると思います。自分がいちばん後ろだから、これですべての人が乗り降りしたことが分かった。あーうれしいとは、なかなか言えないと思います。

車に当てはめて考えてもよいでしょう。車の列の最後尾にいると、前の状況が全く分からず、なぜこんなに長い列になっているのかつかめないので、きっとイライラが募るだろうと思います。また、高速道路などでは、先頭車が事故を起こせば重大事故も起こりえます。できればもらい事故を受けたくないので、自分が先頭にいるような状態にいつもしておきたいと思うものです。そうしてみると、どの場合であっても「すべての人の後になる」というのは人間であってもそう簡単には理解できない価値観なのです。

それでは、イエスが示した生き方は、どのようなたとえを使えば理解できるのでしょうか。私は、イエスご自身の生き方に説明を求めなければ、なかなか理解できないのではないかと思いました。つまり、死と復活によって人間を救ってくださったイエスを受け入れることができなければ、「すべての人の後になり、すべての人に仕える」(9・35)生き方を受け入れることはできないのではないでしょうか。

イエスは三度の予告で念を押した通り、十字架の上で命を捧げ、復活します。十字架上の死は、不法な裁判と指導者にあおられた群衆の叫びによるものでした。罪もないイエスが亡き者にされた、それはすべての人間よりも低いものとされたということではないでしょうか。言い換えれば、イエスの十字架の姿こそが、「すべての人の後になり、すべての人に仕える」姿だったのです。私たちがイエスを信じているというなら、十字架にかけられ、すべての人の後になったイエスが間違っていなかったのだと言えなければならないのです。

まだ、私たちには十分な理解がないかも知れません。イエスを信じていることに疑いの余地はありませんが、私の生活の中でイエスが十字架にかかってすべての人の後になったように、船の乗り降りでいちばん最後に回ることはまだ受け入れられないかも知れません。いざとなれば、私がいちばん最後の順番で乗り降りしても構わない。そのような心になって初めて、十字架にかかって死に、復活したイエスをより深く理解したことになるのだと思います。

すべての人の後になることは、今の私にとって受け入れることができるでしょうか。もしも、私が最後に船に乗り降りするというのが絶対に許せないことだとしたら、試しに実行してみて、十字架の上からすべての人の後になりなさいと呼びかけているイエスに耳を傾けることにしましょう。こうした態度は、他の動物では絶対に理解できない価値観でもあるし、何よりも自分を無にしてすべての人の後になったイエスに見習うことになるのです。


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ちょっとひとやすみ
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▼ぐおおお~。眠い。大きな声では言えないが、朝6時半のミサ、昼12時半のミサ、夕方5時20分のミサ、夜7時10分のミサと、4回ミサをした。もしどこかに訴えたい人がいたら訴えてもらって結構。気が付いたらそうなっていたのだからしようがない。
▼過ぎた週もオフラインミーティング。15年くらい前インターネットがまだ月額3万円とか5万円だった時代、「パソコン通信」が主流で、通信速度は400bpsとか1200bpsとかだった時代にネット上でだけ知り合った人が会いに来てくれた。たぶん13年ほど音信不通だったと思うが、出会うべき人とは出会うようになっているらしい。
▼伊王島に来るとお約束のように釣りに行くが、今回はチャンスがなかった。司祭館で一泊することになったにもかかわらず、風が強くてとてもボートに乗るような天気ではなかった。さらに追い打ちをかけるかのように台風被害でボートを係留していた桟橋は陥没。周囲の目を考えれば釣りを断念するのは仕方ない判断だったと思う。
▼ダメだ。もう書けない。

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こうじ神父絵手紙
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第45回目。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
年間第26主日
(マルコ9:38-43,45,47-48)
‥‥‥†‥‥‥‥
===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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年間第24主日(マルコ8:27-35)イエスに「はい」と答えるのはそう単純ではない

2006-09-17 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
06/09/17(No.258)
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年間第24主日
(マルコ8:27-35)
イエスに「はい」と答えるのはそう単純ではない
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非常に強い台風13号が接近しつつあります。台風が襲いかかるときほど、私たち人間にできることはほんの少ししかないことを思い知らされます。去年でしたか、台風がもたらした大雨で川が氾濫し、家が流され、屋根が橋桁にぶつかる様子がテレビに流れたことがありました。あんなひどい場面を目の前にしても、私たちには黙って見ているしかありません。

家を失わないまでも、厳重に家の周りの対策をしたあとは、私たちにできることと言えば台風の進路予想をじっと見守ることくらいです。たとえ台風の進路予想をどれだけ見続けても、台風が過ぎ去った後にしか私たちには動くことはできません。天気予報よりも早く台風の動きを読むことはできないわけです。この時ばかりは、天気予報に全面的に信頼を寄せることになります。

さて、イエスは「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(8・34)と仰いました。今日はこの呼びかけに注目したいと思います。イエスが「わたしに従いなさい」と呼びかけたとき、私たちはほぼ間違いなく「はい」と答えるわけですが、私たちが返事する「はい」の中身をよく考えてみるとためになると思います。

まず、イエスに従うという態度は、今近づきつつある台風に備えている私たちの姿に似ていると思います。私たちは今天気予報に細心の注意を払い、刻々と変化する情報に応じて対処しなければなりません。だれ一人、天気予報を無視して、先走ったことをすべきではありません。そのように、イエスに従うということは、イエスの声に細心の注意を払い、決して先走ったことをせず、呼びかけに応じて対処が必要です。

天気予報が一致してこの進路で進むと言っているのに、「いや違う。台風は反対に進むから、天気予報を信じてはいけない」と誰が言えるでしょうか。仮にそういうことを言う人がいたとしても、私たちはその人を信じるべきではないと思います。気象予報士の予報は、最新の気象学の知識と気象衛星からのデータをすべて考え合わせての結論です。一人の人間の知識で変わるはずがありません。

人間が判断する台風情報ですら、全面的に信頼するのですから、イエスが弟子たちに打ち明けたことは、イエスでしか分からないことも含めて、すべてのことを考え合わせて打ち明けているのですから、その言葉を遮ることは誤りのはずです。

イエスが「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」と打ち明けたとき、それはすべてを見通す方が最終的に言われたのですから、誰もその言葉を遮ることはできないはずなのです。ところがペトロはイエスに全面的な信頼を置くことができず、イエスの言葉を遮り、いさめたというのです。イエスが打ち明ける一つひとつの言葉に、私たちが慎重に耳を傾けることがどれほど大切か、ここに表されていると思います。

次に呼びかけをする立場に立って考えてみましょう。気象情報をもとにテレビやラジオやマイク放送で呼びかけをする人は、聞いている人全員が呼びかける人の言葉に細心の注意を払って聞いていることをよく理解していなければなりません。呼びかける人の一言が多くの人の生命財産を守ったり危険にさらしたりするのですから、慎重に知らせるべき内容を検討しなければなりません。

イエスも、「わたしに従いなさい」と仰るとき、聞く人すべての運命を背負っています。ですからイエスは全責任を担って、従うことを求めるのです。イエスに従った人の運命に全責任を持って、私に従えば命を救うことになりますと、固く約束してくださるのです。

中には、一つの間違った放送が地域住民全体に大きな被害をもたらすこともあります。これこれの地域は避難の必要はありませんと、住民全体に間違った情報を流したために、何百人、何千人の命を危険にさらすことが起こりえます。そうした誤った情報で河川の氾濫を予測できず、避難が遅れて甚大な被害をこうむった例もありました。残念ながら、人間の判断は誤りが起こりうるのです。

ではイエスの判断はどうなのでしょうか。「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」。このイエスの呼びかけは人類全体に及ぶのですが、もしもイエスに間違いがあれば、人類全体に被害が及ぶことになります。

疑いもなく、イエスの判断に誤りは起こりえません。イエスの招きは「たぶん大丈夫です」という程度のものではなく、完全に信頼できるものです。「台風がおそらくいついつ長崎県に最接近するでしょう」というような「おそらく」の付いた情報ではなく、「命を救うためには、わたしの後に従うこと、これしかありません」という固い呼びかけなのです。

さらに、「わたしに従いなさい」とは、イエスの招きの前には、ある時は自分を横に置くことも必要になります。例えば、何年もの準備を重ねて何かの活動を立ち上げ、これでようやく動き出す準備ができたとしましょう。そこで思いがけずその活動を別の誰かに引き継いでもらうように言われたら、普通であれば納得できないことでしょう。

この活動は準備の時からすべてに私は立ち会ってきた。この活動の成功まで、あともう少しというところに来ている。私以上にこの計画を詳しく知り尽くしている人はいない。それなのに、なぜ私は活動を誰かに引き継がなければならないのか。絶対に納得いかない。そんな体験をしたことのある人もいるかも知れません。

仕事のことだけを考えれば、もしかしたら私の考えは正しいかも知れません。けれども、信仰者として、「わたしに従いなさい」という呼びかけを考え合わせれば、このような形で自分を横に置かなければならないとしても、私はイエスに従うことを優先した方がよいと思います。実際イエスは、かなり厳しい口調で私たちに従うことを求めています。「自分を捨てて従いなさい。自分の十字架を背負って、従いなさい」。私たちは一方ではこの世に生きる者としての強い信念がありますが、一方ではイエスに従うことのために、自分を捨てる覚悟も必要なのです。

ここまで考えると、「わたしに従いなさい」というイエスの呼びかけに「はい」と答えることは、それほど単純なものではないということが分かります。「はい、イエスに従います」と言うからには、決してイエスの言葉を遮ったりせず、全面的に信頼することが必要です。また、求められていることが納得いかない場合に、それが最終的にイエスの求めであると思ったならば、自分を捨てて従う、十字架として担っていく覚悟も必要です。こうしたことを考え合わせての「はい」なのです。

台風がやってきて、家の中から一歩も外に出ることのできない時間がやってくるかも知れません。おそらくその時間何もできないのですから、私はイエスに自分のすべてをかけて「はい」と言えるのだろうか。そういうことを考えてみてはいかがでしょうか。何もできないときにこそ、イエスに信頼を寄せるまたとない機会だと思います。


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ちょっとひとやすみ
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▼ごくごくまれに起こること。10円玉で周囲にギザギザの付いたものを見つけること。最近はまずないことだが、500円札や伊藤博文の千円札を目にすること。もっとまれなことは、裁断ミスしたお札を発見すること。
▼裁断ミスした出版物は、これはないとも限らない。昨日までに、一度だけ自分の蔵書の中で見かけたことがある。今日、新たに裁断ミスした書物を発見した。それも新共同訳聖書だ。その聖書を手に入れたのは7月だったが、裁断ミスに気付いたのは今日のことだった。
▼高島教会に台風の心配をしながら船で渡っている途中、聖書の通読を高島で続けるためにと、備え付けに運んでいた聖書を開いてみた。何ヶ所か、折り目の付いた場所があって、扱い方が乱暴だったかなと思い、直していた。その中に、どう見てもどう考えても自分でこしらえた折り目とは思えないものが見つかった。
▼それが、裁断ミスで織り込まれたページだ。初めは単純な折り目で開けばそれで終わりかと思ったが、実際は単純ではなかった。中央では折り目が食い込み、開いたページは余白がついていて、開くと端がはみ出てしまう。脇腹がはみ出ている人は普段どうしているか。隠しているに違いない。同じように、折り曲げたまま隠すことにした。

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こうじ神父絵手紙
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第43回目。「ちょっとひとやすみ」の裁断ミスした聖書。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
年間第25主日
(マルコ9:30-37)
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年間第23主日(マルコ7:31-37)人間には不可能でもイエスには可能です

2006-09-10 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
06/09/10(No.257)
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年間第23主日
(マルコ7:31-37)
人間には不可能でもイエスには可能です
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今日朗読された箇所で行われた奇跡、「たちまち耳が開き、舌のもつれが解けてはっきり話せるようになった」この場面は、イエスが直接働きかけるならば、この人間世界において奇跡は起こりうるということを物語っていると思います。

私は、今でも身近なところでイエスが直接働きかけ、奇跡は起こっていると信じている一人です。昨日も、奇跡的に見つかるはずのないものが見つかりました。それは、ある人の洗礼の記録です。名前は出しませんが、よく見つかったなあと心から神に感謝しています。

どんな方の洗礼の記録かと言いますと、転出した人の記録で、転出先の教会が敬老者の対象になっている人の洗礼の記録を掘り起こして、敬老の日にあらためて一人ひとりの洗礼の恵みに感謝しましょうという試みなのだそうです。たまたま、私たちの小教区に関わっているある夫婦の調査依頼が届きまして、ひとまず調査に取りかかりました。

奥さんは誕生日と洗礼の記録ときちんと向こうの教会に登録されていてそれをこちらの小教区の原簿と照らし合わせ、間違いなく洗礼を受けています、番号は何番で、代母はだれで、授けた神父様はだれですとすぐに見つかったのです。ところが、ご主人の洗礼の記録が、どうしても見つからなかったのです。

残念ながら、問い合わせをしてきた教会には次のように答えるしかありませんでした。「奥さんについてはすぐに調べがつき、こちらで台帳の記録も見つかりましたが、ご主人に関して、洗礼を受けたとされる日付では、洗礼の台帳に記録がありませんでした。今のところご主人に関しては証明のしようがありません。堅信の記録などをさらに教えてもらえば、洗礼につながる何かが見つかるかも知れません」。もちろんこんな返事はしたくはありませんが、証明できないのですから仕方ありません。

ところが、調べの付かなかったご主人の記録について、返事したその教会から再度調べて欲しいと依頼が来たのです。こちらは綿密に調べてこれ以上調べようがないというのに、どうしろというのだろうかと思っていたのですが、思わぬことで大きく展開したのです。調べが付かなかったご主人のさらにその親の記録によると、ご主人はこちらの小教区で洗礼を受けたのではなく、当時大司教館が置かれていた大浦で洗礼を受けていることが分かったのです。

まさに奇跡的な出来事でした。調べて欲しいと言われていた本人がすでに75歳です。その75歳の人の両親の記録と言えば、100年以上前の記録になります。ある意味で、見つかったのは奇跡だと思ったのです。こんな身近なところで、奇跡は起こるのだと実感しました。

今回の調査は、私の力で答えにたどり着いたとはとても思えません。そうなると、これはもう神様が私の目を開いて小さな小さな解決の糸口にたどり着かせてくださったとしか考えられないわけです。おそらく、私の耳にはイエスの「エッファタ」という声が聞こえたのだと思います。「エッファタ」これは「開け」という意味でした。イエスが、見えなくなっていた私の目を開くため、天を仰いで深く息をつき、「エッファタ」「開け」と言ったに違いない。そうとしか考えられないと思いました。

イエスが直接働きかけてくれなければ、おそらく事態は一歩も前に進まなかっただろうと思います。洗礼台帳に明確な記録がない以上、どれだけ再調査を依頼されても「こちらには記録がない、これ以上調べようがない」としか答えようがないからです。まったく出口の見つからないところにイエスが直接働きかけてくださり、見えない私の目が開かれ、もしやこういうことではないだろうか、そうだとしたら100年以上前の話になるけれどもこの人の両親の記録があれば、何か分かるかも知れない。このように考えることができたわけです。

皆さんは、神父さんの体験は奇跡と言うほどのものじゃないと思うかも知れません。けれども、私の考えでは絶対に解決の糸口は見つからないと思っていたことが解決したのですから、奇跡と言えるのではないでしょうか。いったん無理だと判断したことを、そんなに簡単に無理じゃないと考えを改めることができるものでしょうか。私はこうした体験が、神様が直接働きかければ、絶対に起こりえないと思われていたことでも起こりうるのだという証明になると信じております。

神様が望んで、直接、また具体的に働きかけると、誰も変えられないものでも変わりうるということを今日は学びました。私たちが変えるのではありません。神様が驚くべき業を行います。私たちにできるのは、「わたしにはできないことだけれども、あなたにならできます」という深い信頼の心を呼び起こすことではないでしょうか。

何度呼びかけても同じことだと思っている事柄があるかも知れません。教会の行事を呼びかけるとき、来る人は来るし、来ない人は来ない。それ以上変わらないと思っているかも知れない。けれども、変えるのは私たちではなくてイエスです。イエスに触れさせるお手伝いをすれば、いつかきっとイエスがその人を変えてくださいます。

無理と思わないで、ミサに誘ってみましょう。キリストが近くにいてくださるという実感をたくさん持たせることで、イエスはその人に具体的に働いて、変わらないと諦めていた人の心さえも変えてくださるでしょう。変えてくださるのはイエスですから、私たちはイエスのもとに身近な人を案内するお手伝いをしてあげましょう。イエスのもとに案内するにも力が必要ですから、そのための力を、今日のミサの中でいただくことにいたしましょう。


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ちょっとひとやすみ
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▼バイクツーリングの途中、郊外のショッピングセンターに立ち寄った。実はこの店の釣り具コーナーには大変お世話になっていて、その日も道具を漁るために立ち寄っていた。けれどもめぼしい道具はなく、昼時でもあったので食品コーナーに立ち寄り、惣菜を二つと牛乳を一つ取ってレジへ向かった。
▼高菜ピラフ230円、野菜コロッケ120円、おいしい牛乳105円。この3つをレジに運んだ。ところがレジに立っていたアルバイトの学生店員が、「合計225円です」と言う。一瞬その店員の顔を見て、複雑な思いをいったん飲み込んでこう言った。「本当に?」
▼複雑な思いが頭をよぎった。「はい、じゃあ225円ね」とすましてレジを通過したらどうなるのだろうか。レジの店員はあとで責任を取らされるのだろうか。さらに念入りに「二百・・・いくらでしたっけ」と尋ねたならば、アルバイトの店員は再度225円と言うだろう。そうなると私の責任はもっと重くなる。そんなこともいろいろ考えた。
▼「あっ、すみません。高菜ピラフはレジ通してませんでした。合計455円です」。結局何事もなく、いちばんまともな形ですべてが収まった。あの店員、私の一件でバッチリ目が覚めて仕事に集中できただろうか。それとも相変わらずその日一日ずさんな仕事をし続けたのだろうか。もう一度会ってみたいものだ。

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こうじ神父絵手紙
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第42回目。これからもお幸せに。

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‥次の説教は‥‥
年間第24主日
(マルコ8:27-35)
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年間第22主日(マルコ7:1-8,14-15,21-23)

2006-09-03 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
06/09/03(No.256)
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年間第22主日
(マルコ7:1-8,14-15,21-23)
イエスの導きを受け入れることこそが神への忠実
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今日はまず、ファリサイ派について勉強することから始めましょう。もともとは、「分離された者」という意味があって、律法を忠実に守るものとして一般のユダヤ人からは分離された者だという自負を表す表現でした。イエス・キリストの時代に6000人あまりいたと言われています。律法学者のほとんどの人と、少数の祭司がこの派に属していました。

イエスの時代になぜファリサイ派が台頭してきたのでしょうか。それにはわけがあります。イスラエルの人々はモーセが受けた掟を忠実に受け継いできたのですが、時代が進むにつれて、当時の掟の命じる範囲内で暮らすことが困難になっていました。イエスの時代はモーセの時代から何百年も経っており、当時では考えられなかった事情や場面がたくさん現れてきたからです。そこで、いろんな場面に合った解釈を掟に加えていく必要が出てきます。

また、神殿を拠り所にして礼拝を行ってきた祭司たちは現実の社会から逃避して礼拝の掟にしがみついていました。すでに実社会はモーセの律法の枠に収まらなくなってきていましたから、礼拝の掟に忠実であり続けるためには、社会の実情を無視するしかなかったのです。

そのような中で、現実の社会に当時のモーセの律法をどのように当てはめるか、大胆に解釈する律法学者が幅をきかせてきたわけです。律法学者たちはあらゆる場面を考えて律法に忠実であるための道をさまざまに解釈していましたが、そのあげくには自分たちでも守ることができないほど数多くの言い伝えを抱えることになったのでした。

数え切れないほどの掟は、実際には守りきれるはずもなく、彼らに残された道は昔の人の言い伝えを振り回す偽善者となることしかありませんでした。こうして、自分たちが作り上げてきたたくさんの言い伝えによって、本来の神の望みから遠く離れてしまったのです。

現実に当てはめようとして、あまりにも解釈がふくれあがったとき、本当にしなければならないことは、どうやったら生活の中で神の望みに忠実でいられるのか、誰かに教えてもらうということです。ファリサイ派の人々は行き詰まっていたのですから、本来はまことの教師であるイエスの解釈に耳を傾ける必要があったのです。ところが彼らにはその謙虚さが足りませんでした。

真っ先に、律法の唯一の正当な解釈を行うことのできるイエスに、時代に適応した律法の遵守の仕方を教えていただくべきでした。モーセの律法の精神はどのようなものであり、今の時代に、律法をどのように当てはめて生きるべきであるか。それを本当に知っているのは、ただ一人イエスだけだったからです。

ところが、ファリサイ派の人々は、昔の人の言い伝えにとらわれ続け、イエスに耳を傾けようとはしませんでした。彼らの考えは、過去に縛られ、それも、人間に過ぎない者の解釈に固執していたのです。

イエスはファリサイ派の人々を、はっきりと偽善者扱いします。律法の唯一の教師、唯一の解釈者であるイエスに耳を傾けない彼らは、熱心さは評価できたとしても、けっきょくは間違っていたわけです。イエスに解釈を仰ぐ、イエス様の判断に心を開いて、委ねる。そうした態度こそが、ファリサイ派はもとより、すべての人に求められていたのです。

ファリサイ派の人々はイエスに心を開かず偽善的な態度から抜け出すことができませんでしたが、今日ここで私たちが考えたいのは、私たちも、ひょっとすると、ファリサイ派の人々と同じ態度に陥る危険がある、ということなのです。

ひとつの例を挙げたいと思います。6年前、2000年4月に、「主の祈り」が全面的に新しくなりましたが、当初は(今もなお、という方もいらっしゃるかも知れませんが)、「自分たちは長く昔の『天にましますわれらの父よ』を唱えてきたから、いまさら『天におられるわたしたちの父よ』に移っていくようにと言われても、覚え直すことなどできない」と思われた方もいらっしゃるかと思います。

ですが、日本の16教区の司教様方が集まって、日本のカトリック教会の公式の祈りとして採用したのには、それなりの重大なお考えがあったのだと思います。「昔の祈りが言いやすいし、覚えてもいるので、昔の祈りから変える理由はない」とは、ごもっともな意見ではあるのですが、ここで今日の福音の教訓を活かしていただけたらと思っています。

信仰を親から子に、子から孫に伝えると言うことについて、腹を割って考えてみましょう。正直言って、信仰はそれほど上手く伝わっていないのではないでしょうか。それは、守るべきこと、教えるべきことがあまりにも多くて、伝えきれなくなっているのではないでしょうか。

使徒信条、天主の十戒、公教会の六つの掟、さらに幼い頃山のように覚えさせられた要理、それから祈祷書の中にある種々の祈り、細かいことでは食前食後の祈り、よくまあ覚えたものですが、それらを暗記すべきものとして次の子どもや孫に引き継がせるというのは、もはや不可能なのではないでしょうか。

そこで日本の教会は、主の祈りを一つの例として、暗記すべきものとしてではなく、繰り返し唱える中で自然と身に付くような祈りとなるように、新しく口語体の祈りに切り替えたわけです。「天にましますわれらの父よ」という言い方は普段の暮らしの中で決して使いませんが、「天におられるわたしたちの父よ」という言い方でしたら暮らしの中で使っている言葉です。

主の祈りについてまとめると、日本の教会は今の時代の必要に応えて、祈りを暗記するものとして示すのではなく、意味を理解してなじんでいくものとして示すために、大きく梶を切ったと言うことです。ほかの祈りについても同じことが言えます。祈りを学ぶことが重荷になるような祈りであれば、私たちもファリサイ派の人々と同じ過ちを犯すことになるのではないでしょうか。

新しい主の祈りは、宣教の視点からも画期的な収穫がありました。今回まとめられた主の祈りは、聖公会というカトリックに近いキリスト教と一致して作成した文章です。キリストを信じるほかの兄弟たちと、一つの祈りを同じ言葉でようやく唱えることができるようになりました。どんなにすぐれていてもこれまでは同じ言葉で一つの祈りを唱えることができなかったことを考えると、今回の新しい主の祈りは、イエス様が今の時代にあって「主の祈りはこう唱えましょう」と言っておられるのと同じことではないでしょうか。

ファリサイ派人々の過ちは、清めに関する掟も含め、神に忠実であるためだと言って自分たちも守れないような規則を人々に押しつけたことでした。彼らはイエスから偽善者と断罪されたのですが、次の世代に重荷を押しつけるようなことをすれば、イエスは私たちにも偽善者の印を押すことになるでしょう。

主の祈りは一つの例ですが、神への忠実を次の世代に伝えるために、重荷ではなく喜びと感じられるような伝え方を信仰のすべてにわたって工夫してみましょう。日本の教会全体としても工夫しますが、家庭にあってもその家庭にあった工夫をすべきだと思います。そして何よりも、唯一の教師、唯一の解釈者であるイエスに、これからも常に心を開いていくように、またイエスに導かれた方々の指導に寛大に自身を委ねていくことができるよう、ミサの中で続けて祈ってまいりましょう。


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ちょっとひとやすみ
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▼賛否はいろいろあるかも知れないが、説教案を6年前のものから練り直してみた。たぶんこれからも続けていくことになりそう。今回は相当に苦し紛れで6年前のものを見直してみたのだが、過去の引き出しを開けてみれば「玉石混淆(ぎょくせきこんこう)」、自分で「おお」、と思う部分もあるし、「これは違うなあ」という部分も見えてくる。
▼そういう振り返りも含めて、前の前のローテーションを見直してみようと思う。まあどう言い訳しても半分はネタ切れかも知れない。けれどもメルマガとして世に出ていない部分なので、古くて新しい発見とまったく新しい発見とをこれからもお見せできるのではないかなと考えている。
▼そうは言ってもメルマガは2002年の3月10日から始まっているわけだから、6年前にさかのぼったとしても2008年3月頃にはもはやさかのぼれない状態に逆戻りすることになる。その時は前の前の前のローテーションにまた戻るか?今のところそれは未定。たくさんの引き出しをもう一度全部開いてみて、何かの発見に結びつけて行くつもりだ。
▼「プロフェッショナル」という番組があるが、説教する司祭は何かしらのプロフェッショナルであるはずだ。9月24日放送予定の旅番組の収録が過ぎた週にあって取材に応じた。ディレクターが「神父さんの話は分かりやすくてすばらしい」と褒めちぎっていたが、自分にとってプロフェッショナルとは、「事実を事実以上に難しくしないこと、できれば事実よりも分かりやすくすること」かも知れない。難しかったかな。

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こうじ神父絵手紙
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第41回目。今週の馬込教会訪問者。本人の了解を得ていませんが・・・。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
年間第23主日
(マルコ7:31-37)
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===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
コメント
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