こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

四旬節第1主日(ルカ4:1-13)試練を通して神はそばにいてくださる

2007-02-25 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
07/02/25(No.284)
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四旬節第1主日
(ルカ4:1-13)
試練を通して神はそばにいてくださる
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人間の試練はイエスの試練を考えるにはほど遠いことはよくわかっているつもりですが、ふと思い出したことがあって、当時を振り返るとあれは確かに試練だったなと感じることがあります。そして、今この時期に話しておくと、私の体験がためになる人がいるのではないかと思っております。

私にとってあのときのことは試練だったのだなと感じたこと、それは福岡の大神学校で司祭への階段を一歩一歩踏み進めていく認可式・選任式のことです。私たちが福岡の大神学校にいた当時、8年間の準備期間のうち、前半の4年間には目に見えての準備の段階を踏むことはなくて、反対に後半の4年間では1年ごとに段階を踏んで司祭への道を歩む儀式が用意されていました。

5年生のときには「司祭・助祭候補者認可式」というのがあって、スータンを着るようになります。6年生になると、「朗読奉仕者」になって、第1朗読・第2朗読に特に奉仕する者となります。7年生になると今度は聖体奉仕者と言って、ミサの時に司祭の隣にいて聖体拝領のお手伝いをするようになります。

8年生、つまり最終学年になると、秘跡が授けられ、聖職者の最初の段階である助祭に叙階されます。この最終学年には福音書の朗読が任せられ、日曜日の説教も務めることができるようになります。そしてその後に、大神学校の卒業と、晴れて司祭の叙階を受けてミサの全体を一人でこなすことができる聖職者となるわけです。

大神学校の5年生からは毎年何かの形で段階を踏んでいくわけですが、振り返ると式を受ける直前の時間にはものすごく緊張してその時を待ったなあと思ったのです。相当に準備してその日を迎えているわけですが、式を受けるためにその場にいるのに、なぜかその場から逃げ出したい気持ちもどこかでわいてくるのです。式を受けたいと強く望んでその場にいるのに、どこかで恐れを感じているのです。

私は、あれこそ「誘惑」「試練」なのだと思いました。あと30分で式が始まる。この日のために長い準備をしてきた。この晴れの日に両親と親戚がやってきている。花束が準備され、お祝いの寄せ書きやちょっとした祝儀も準備されている。それが分かっていても、一瞬逃げ出したい気持ちになることがあるのです。

この感覚は何なのでしょう。「誘惑」と考えれば悪魔が私に攻撃を仕掛け、「逃げたいだろう。思い切って逃げてしまえ」ととんでもないささやきを吹き込んでいるということになりますが、神が最後の試練を与えていると思えるなら、「あなたに最後の試練を乗り越えて、次の段階に進んで欲しい」そんな思いが伝わってくることでしょう。

一瞬の迷いというか、その場から逃げ出したいという気持ちを感じたことは確かですが、それでも私は毎年司祭になるための段階を順に進んでいきました。その場から逃げたいと感じたときに、イエスが「さあ、この最後の試練を越えて、わたしのところに来なさい」と言っておられるのだと考えて来たのだと思います。一瞬の迷いや逃げ出したいと思うことは避けられませんが、そうした心の揺れを感じたときに、私が誰を思い出すか、誰に心が向かっていくかが今週私たちに問われているのだと思います。

「うっ、今この場から逃げ出したい」そう思うことは生きている間に何度かあることでしょう。結婚式当日を迎えた新郎新婦が控え室で待っている瞬間であるとか、会社で何か大きな契約を交わすその日の朝であるとか、イエスにすべてを委ねて洗礼を受けようとしているその決定的な瞬間が近づく中でとか、何か大きな場面で逃げ出したいと感じることはあり得るのだと思います。

逃げたくてそのような気持ちになるのではありません。それは本人がいちばん分かっています。この日のために長い準備をしてきたのです。みずから、望んで、他のことを横に置いてさえも、努力を積み重ねてこの日にたどり着いたのです。それでも一瞬の迷いが生じる。逃げ出したい気持ちに駆られる。それを、悪魔の誘惑と思うのか、最後の試練で、イエスにすべてを委ねさせるための神が用意した試練と取るのかは大きく変わってきます。

もちろんこの場合、神が用意した試練なのだと考えて向き合うことが大切なのですが、私はもっと大胆に踏み込んでこう言いたいと思います。「神が試練をお与えになる。試練とはつねに積極的なもので、悪魔は人間を誘惑することはできても、試練を与えることはできない。なぜなら、悪魔は人間に積極的なものを与えることができないのだから」ということです。

人間はいろんな場面で試練を受けます。試練は、積極的なものです。神は積極的なものを与える方ですが、悪魔にはそれができないのです。だから私が今試練に遭っているとき、それは神が試練を与えている時間を過ごしているということ、困難を乗り越えようと神と向き合っているということを知って欲しいのです。

私が今何かの試練に立たされているとしましょう。たとえばこの時期は日本中の教会で復活祭に向けて洗礼の勉強をしている人がいます。中田神父はカトリックの中学校の黙想会の準備を懸命に進めているところです。こんなものでいいのかなあとか、この場から逃れたいなあと一瞬思うかも知れません。

それは試練です。何も与えることのできない誘惑ではないのです。その一瞬の迷いを乗り越えて神に自分を委ねるとき、大きく前進していくのです。大きな進歩を遂げるチャンスであれば、それは神が与えたものに違いありません。悪魔は人間が進歩するような気の利いたものを用意することはできないのです。試練の時こそ、私たちは神と正面向き合っているということなのです。

福音朗読で、悪魔はイエスに対するあらゆる誘惑を終えてイエスから離れたとあります。誘惑しようとした悪魔は、イエスに何も害を与えることはできなかったのです。何も影響を及ぼすことはできなかったのです。

私たちが生活のあちこちで困難を感じるとき、あるいはカトリックの信仰に近づこうとして目標があまりにも遠くに感じたりするその時こそイエスがそばにいることを知りましょう。困難の先にある人間的な成長を期待して、イエスはあなたと共に一歩を踏み出そうとしておられます。

目の前の困難を何も与えない無意味な誘惑と受け取るのではなく、試練と向き合って神が成長させようとしていると知りましょう。試練を通して神がそばにいてくれるなら、悪魔は人間に対して無力であるに違いありません。


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ちょっとひとやすみ
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▼2月は28日あるわけだけれども、今月過ごした時間は、28日ではとても収まらないほどたくさんのことがあった。嬉しいこと悲しいことあったけれども、28日でこれだけのことが起こりうるのだなとあらためて世界をデザインされている方の深遠な設計図を思った。
▼それに比べて、人間の描く設計図の浅はかなこと。「やめた方がいいのになあ」ということを懲りずに繰り返したり、「そのタイミングで実行すると、変に誤解を招くと思うがなあ」と思っているところで予定だからと計画に縛られた行動に出る。なぜそこで計画し直さないのか。
▼人間の計画なんてもともとたかが知れているのだから、多少迷惑が掛かっても「えー」と言われるくらいなら取り下げた方がいい。私は自分の計画にこれっぽっちもこだわりがないから、「こうすべきではないでしょうか」と言われて、それが自分のアイディアを凌駕していたらあっさりとこちらの言い分を取り下げる。
▼デザインを描いては棄てられ、上司に見せてはやり直しを命ぜられ、どれだけ自信を持って説明に臨んでもすべてを覆され、そうして究極のものを練り上げていく現場を放送で見たことがある。何度も突き返されたりしなければ、自分の我を棄てることはできない生き物らしい。私に繰り返し「NO!」を突きつけてくださる数少ない人に、今月の締めくくりに感謝の言葉を述べたいと思う。

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こうじ神父絵手紙
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第67回目。なぜこの絵手紙か、わかる人は本人と私だけです。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
四旬節第2主日
(ルカ9:28b-36)
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===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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年間第7主日(ルカ6:27-38)いま、ここで、人にもしなさい

2007-02-18 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
07/02/18(No.283)
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年間第7主日
(ルカ6:27-38)
いま、ここで、人にもしなさい
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2月12日月曜日は大変な一日になりました。五島では江袋教会という上五島のいちばん北にある小教区の巡回教会が火災で全焼しました。高島町ではアパート火災が発生し、人命が失われました。火事は絶対に起こしてはいけません。絶対に起こらないように注意しなければなりません。

私はこの12日月曜日に外に出かけたので、ニュースを聞いたときに「うちの教会は大丈夫か」と真剣に考えました。誰もいない時間に何かが起こったらどうなる?もう一度気を引き締めたいと思いました。お一人おひとり、例えば馬込教会について「何も起こってないだろうか」そんな思いは心のどこかに置いていてほしいと思います。実はこの12日は、悲しい事件ばかりではありませんでした。私にとっては心を洗われるようなことが出かける前と外出から帰ってからと二度にわたって起こりました。出かける前、朝の9時30分くらいに、横浜教区からの巡礼グループが馬込教会に訪ねてきました。

私は9時47分の船に乗るつもりでしたが、この横浜からの巡礼者の中には、5月に司祭に叙階される人が含まれていました。司祭叙階を目の前にしている人に、「今日は忙しいから教会を開けることはできません」とは言えませんので、9時47分の船はあきらめて、聖堂に案内し、教会の歴史を紹介することにしました。

少し自慢げに、「長崎では立派な教会が多いと感じていると思いますが、これは信者一人ひとりが自分の教会を誇りに思っているので、このようにいつまでも立派な状態で保たれているのですよ」と話してあげました。あとで考えると、同じ日に五島の教会は火事で全焼してしまい、「信者のおかげで立派に守られているのですよ」という説明を帰ってからどう受け止めただろうかと考え込んでしまいました。

今日の福音では、イエスが「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである」(6・20)という招きに続けて、「敵を愛しなさい」という呼びかけをする場面になっています。その中で特に取り上げたいのは、「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」(6・31)という箇所です。

威張って言うわけではありませんが、12日月曜日は、9時47分の船をあきらめて、横浜から来た巡礼グループのために時間を作りました。まさにイエスが言ったとおりに、「この巡礼者たちがしてほしいと思うことを、してあげた」わけです。そして、その見返りは何もありません。福音朗読の別の箇所にあるとおり、「何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる」(6・35)ということです。

そういえば、火事で全焼した教会の主任神父様に、個人的に早速お見舞いを送り届けました。個人的にはいろいろある先輩ですが、そんなことは別にして、まずはお見舞いの気持ちを届けたい、全司祭が今回のことに心を痛めていることを伝えたいと思いました。思いもかけないことですが、木曜日にお礼の電話が掛かってきました。

12日月曜日、もう一つの心を洗われる出来事は、私事になりますが、自閉症の弟、知的障害者更生施設に入所している三男の弟が、余暇支援の行事でやすらぎ伊王島のバーベキューを食べに来て、そのあとで教会にみんなできて、私に会いに来ていたのです。弟が自分の意志で来たのか、更生施設の先生が生徒を教会に連れてきたのかは分かりませんが、兄が働いている教会で直接会う機会だったのに、残念ながら自分は出かけていて、弟と会うことはできませんでした。司祭館に戻ってみると、弟の置き手紙が郵便受けに入っていました。その手紙を読みながら、弟がこれまで兄の自分をどんなふうに思っていたのかを思い知らされました。手紙をそのまま読み上げたいと思います。

輝次お兄さんへ
きぼうの里から来ていました。今日は余暇支援で、長崎温泉のやすらぎ伊王島にきております。教会までみんなと一緒にきて、お兄さんがおらないことが残念やったです。元気でがんばってください。平成19年2月12日(月)午後13時50分
もっとも愛する弟 靖夫より さようなら
時間があったら電話してください。0957-25-****

私はこれまで、この三男の弟にあまりよい思いを持っていませんでした。早くから諫早の施設に入りましたが、夏休み冬休みになれば母親が送り迎えをしなければなりません。弟のおかげで母親は大きな負担を強いられている。障害がなければ迷惑もかけないのにと、ずいぶん長い間悪い感情を持っていたのです。正直な話、ゆるすことができませんでした。

なかなかゆるしてあげられない。そんな思いを持ち続けていたのに、弟の置き手紙を読んだとき、弟がどれだけ自分を尊敬していたか、愛してくれていたかがよく分かったのです。

「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」。私こそ、先に弟をゆるして、愛してあげなければならなかったのに、弟がまず先に、私をゆるして、愛してくれていた。弟はまともに聖書の勉強もしていません。それなのに、素直に、私への想いを伝えてくれた。イエスが示した生き方を、兄よりもまっすぐに生きていた。私は何と長い間、弟のことを誤解していたのだろうかと、自分を責めたのです。

目の前に、イエスが示した生き方をしている兄弟がいました。私ははっとさせられ、すぐにでも会いたくて、やすらぎ伊王島に電話を入れてみたのですが、弟たちは日帰りで泊まってはいませんでした。すぐに手紙を書き、近いうちに会おうと伝えました。弟はこんな人間なのだと決めつけていましたが、兄の私のほうが弟をまったく理解していなかったのです。弟にしてもらいたいと思うことを、弟にしてあげていなかったのです。

イエスは、「今、ここで」人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさいと呼びかけていると思います。もっと素早く、イエスの求めに応じることのできる弟子でありたいと、あらためて考えさせられました。


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ちょっとひとやすみ
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▼長崎県にお住まいの方はニュースでご存じだと思うが、五島列島の最北の小教区「仲知(ちうち)小教区」の巡回教会「江袋教会」が全焼した。初めは本当のこととは思えなかったのだが、翌日、翌々日のニュースで続報を流す中で、真っ黒に焼けこげた教会跡が映り、これは現実なのだと思い知らされた。
▼報道によると、現役の教会としては日本最古のものだったらしい。現役の教会というのは、私の理解では「教会に信徒がいて、日曜日ごとにミサが捧げられている教会」と考えているが、そのような形式の教会としては最古のものだという。五島にそのような教会があることを今回の惨事で初めて知った。
▼また出火原因は、漏電の可能性が高いということだが、漏電であれば馬込教会だっていつどうなってもおかしくない。転勤してきた当初の司祭館も、古い配線が張り巡らされた建物の中にいて、これはどこから出火しても不思議ではないと感じたのを思い出した。「かわいそうに」では決して済まされない。古い教会すべてが認識を新たにしなければならないと感じた。
▼私はすぐにお見舞いを送り届けた。私が当地の主任司祭と仲が良かったからではない。むしろ反対かも知れない。けれども、すべての司祭が今回の出来事に心を痛めていることをすぐにでも示したかったので、仲のいい司祭ではないものが真っ先にお見舞いを届けるべきだと考えた。「再建してもらって、さらに信仰深く生きていきたいと思います」とテレビのインタビューに答えていた婦人の言葉が強く胸を打った。

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こうじ神父絵手紙
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第66回目。デジタルオーディオプレーヤーを買いましたが、扱い方が分かりません。

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‥次の説教は‥‥
四旬節第1主日
(ルカ4:1-13)
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年間第6主日(ルカ6:17,20-26)イエスを必要としている人は満たされます

2007-02-11 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
07/02/11(No.282)
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年間第6主日
(ルカ6:17,20-26)
イエスを必要としている人は満たされます
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今年の司祭叙階式の日を迎えました。同じ兄弟が誕生する日ですので、司祭にとっては一年でも特別な一日と言えます。長い準備を経てこの日を迎えるわけですが、今年司祭になる人にも、山あり谷あり、一言ではとても言えないような道のりがあったことでしょう。

毎年叙階式の日が来ると、私自身も司祭に叙階された日のことを思い出します。私は15年前の3月17日、長崎の信徒発見の日に叙階されました。叙階式は順調に進んだのです。私はそのあとに浦上教会で行われた祝賀会で、どうしてもあいさつに取り入れたいことがありました。それは叙階式当日に見た夢のことです。相当に目覚めの悪い夢を見まして、何かよいものに結び付けて朝の出来事を乗り越えようと思いました。

当時は3人が新司祭に叙階され、私は前日から緊張して、朝の4時まで眠れなかったのです。叙階式の日の朝に見た夢は、叙階式後の祝賀会の様子でした。その年は、叙階式が済むと浦上教会の信徒会館で、新司祭の祝賀会をしてもらうことになっていました。祝賀会ですから、司祭に叙階された人たちは舞台の上に上がっているわけです。

共に叙階の恵みを受けた2人が舞台の上に上がっていました。大司教さまからおめでとうと言われて、握手を受けています。ところが舞台にほかの2人は見えるのですが、私はその舞台に立っていません。おかしいなあと思って自分がどんな格好をしているか確かめたら、パジャマを着て祝賀会に顔を出していたのです。夢の中では寝坊して叙階式に参加できなかったことになっていました。驚いて目を覚ましたのが朝の5時半でしたが、なんとも目覚めのよくない朝でした。

どうしても、この夢は祝賀会のあいさつに取り込んで、嫌な思いを振り切りたいと思ったのです。「新司祭の挨拶をお願いします」と言われて自分の順番が回ってきました。見渡すとすべて先輩司祭が舞台に注目していました。頭が真っ白になって、いろいろ考えていたことが出てきませんでした。それでも、どうしてもあの夢はこの場所で吹っ切りたいと思っていたので、朝から見た例の夢のことを話して、夢の時のように出遅れないよう頑張りますと言うのが精いっぱいでした。

どうしても言いたいこと、これだけは伝えたいと思うことは、はっきり伝えなければなりません。たとえ、前後のつなぎにと考えていたことを忘れてしまっても、本当に言いたいことだけは言わないとあとで後悔します。私は今日、これだけは言いたかったのだ。そういう思いで語りかければ、思いは伝わるのではないでしょうか。

福音に入りましょう。イエスは今日、おびただしい群衆を前にして話し始めます。イエスは、どうでもいい話を決してしません。「これだけは伝えたい」。イエスにははっきりした思いがあったのです。それはつまり「イエスを必要としている人は、幸いです。必要としない人は不幸です」というメッセージでした。

「貧しい人々は、幸いである」(6・20)。「今飢えている人々は、幸いである」「今泣いている人々は、幸いである」(6・21)。「人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである」(6・22)。今取り上げられた人々は、イエスに望みをかけてやってきた人々です。おそらく、イエスのもとに集うまで誰からも慰めを受けていない人に違いありません。だからこそ彼らは、イエスによって必要を満たしてもらおうと集まったのです。イエスのもとに来るまで、誰も自分たちを満たしてくれる人がいなかったからです。

彼らと正反対の人々もイエスのもとに集まっています。富んでいる人々、満腹している人々、笑っている人々、さまざまな形で満足を感じている人々。この人たちはイエスのもとに来た時点ですでに満足している人々です。イエスのもとに来て、さらに何かを手に入れたいものだと思っていたかも知れませんが、イエスの導きがなくても実際の生活にはそれほど影響はないだろうと思っている人々です。彼らにはイエスへの「飢え渇き」がありませんから、イエスのもとに集まっても何も変わらないのです。

イエスはメッセージをはっきりと届けます。「あなたは、わたしを必要としていますか、必要としていないのですか」。「気が向いたら、教会に行こう」とか、「葬式の時だけ、教会に行こう」という人は、生活の中でイエスを必要と感じていないことにならないでしょうか。六日間働いてやっと休みが来ても、教会に行かなければ、何か足りない。そう思っている人は、イエスを必要としている人です。

実際には教会に来ることができないときもあるでしょう。来ることができなかったことをとがめる人は誰もいません。どうも都合が悪くて行けなかったなあ。そう思っている人は大丈夫です。その人はイエスを必要としているからです。もしできるなら、今日顔が見えなかったなぁと思う人に、あなたが「今日の説教は『イエスを必要としている人は幸いです。必要としない人は不幸です』という内容だったよ」と話してあげましょう。そうすることで、今週来ることのできなかった人も次につながっていきます。

今日の説教で、私がどうしても伝えたかったことは、「イエスを必要としている人は幸いです。必要としない人は不幸です」ということでした。どうしても伝えたいことは、ほかのつなぎの言葉を忘れたとしても伝えなければなりません。みなさんも、中田神父がどうしても伝えたかったことはくみ取って欲しいと思います。

「わたしはイエスを必要としています」「わたしはあまり必要を感じません」。イエスのもとに集まった人と同じように、私たちもまた、出した答えによって、イエスから見た幸不幸が決まってきます。


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ちょっとひとやすみ
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▼2月9日金曜日、昼にご飯に卵を落とし、醤油をかけたものと、インスタントラーメンを食べた。1時間後、突然吐き気を催し、頭痛にも悩まされ始めた。何だろうと思いつつも、病院は行きたくないので布団をかぶっていたがどうにも吐き気と頭痛は回復せず、まずはトイレで食べたものを少しでもはき出そうと努力した。
▼少しだけ、胃の中のものが出てきた。しばらくトイレでうずくまって、もう少し吐き出したら吐き気のほうは少し引いたが、頭痛はいっこうに引く様子がない。あきらめて布団をかぶっていたが、途中何度か電話に呼び出され、宅急便を受け取ったりと、うめきながら半日過ごした。
▼土曜日、午前中少しだけ頭の痛みがあったが、昨日の吐き気は全くなく、朝から普通に食べ物も入った。頭痛も午後には引いて、今は何事もなかったかのようにしている。健康への危険信号だったのか、風邪だったのか、食あたりか、鳥インフルエンザか。いったい昨日の半日は何だったのだろう。
▼半日失ったからといって仕事が減るわけではない。減らないだけでなく積み上がっている。どうしてこんなに要領が悪いのか。いつも机に書類を積まない同級生がいたが、あのきれいな机はからするとおそらく頭の中も同じようになっているのだろう。うらやましい限りだ。今日もこうじ神父は、いつ雪崩が起きてもおかしくない机の上で、壁掛けの時計をにらみながら過ごしている。

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こうじ神父絵手紙
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第65回目。教会学校の小学生に、ときどき紙芝居を読んで聞かせています。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
年間第7主日
(ルカ6:27-38)
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年間第5主日(ルカ5:1-11)イエスは今も「漁をしなさい」と呼びかけます

2007-02-04 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
07/02/04(No.281)
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年間第5主日
(ルカ5:1-11)
イエスは今も「漁をしなさい」と呼びかけます
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今日の福音、ペトロを含む何人かの漁師は、イエスから「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」(5・4)という命令を受けます。ペトロは理解に苦しみます。何のために網を降ろすのか?こんな日が高くなってから、漁などまったく期待できません。経験からしても、たとえまぐれでも魚はかかるはずもありません。ペトロは代表して、ていねいに断ります。「わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした」(5・5)。

漁師たちの考えでは、網を降ろすのに目標がないのです。無駄に決まっていることをさせられるのは、漁師のプライドが許しません。群衆は私たちの船を見ている、ここで網を降ろして、空の網を上げることになれば、プライドはズタズタに引き裂かれることでしょう。この先生は、これほどの頭脳の持ち主でありながら、そういうことも分からないのだろうか?

実際には、ペトロが頭の中で考えた「なぜ網を降ろす必要があるのか?」を越えて、イエスの言葉は彼をその気にさせます。「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」(5・5)。イエスの言葉をいったん断り、それから引き受けるようになった、この一連の様子について、元のギリシャ語を調べると面白いことに気が付きます。

断りを言うときは漁にたずさわった者みなが答えました。「わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした」(5・5)。ところが、イエスの命令を引き受けるときには、ペトロ一人で返事をしていることになっています。「(わたしは)網を降ろしてみましょう」(5・5)。これは、「ほかの弟子が網を入れないと言っても、自分一人ででも網を入れる覚悟です」という意味です。明らかに、ペトロの中で大きな変化が起こったことが分かります。

なぜそこまでしてペトロは網を入れるのか?そこには、単純で、しかも奥の深い理由があるのです。「イエスの言葉だから」。誰かが偉大に見えたり、物事の崇高さに心を打たれたりするとき、ある場合それは人を寄せ付けないこともありますが、イエスの偉大さ、崇高さは、すべての人間的なものを捨てさせて、その人をご自分の元へ引き寄せるのです。人の目には愚かに見えても、人の目を振り切ってでも自分を駆り立てていく何かが、イエスの言葉、一つひとつの行いにはあるのではないでしょうか。

あらためて、ペトロが恥も外聞も捨て、プライドをかなぐり捨ててまでイエスに従った理由はどこにあるのでしょうか。私は、ペトロをそこまで決意させた理由は一つしかない、と考えます。それは、「お言葉ですから」という、イエスの言葉への深い信頼です。これ以外に、ペトロをその気にさせた理由は見あたりません。

「網を降ろし、漁をしなさい」。イエスは当時の漁師たちだけではなく、私たちにも同じように呼びかけます。すべてがうまくいっているときの呼びかけなら喜んで引き受けますが、しばしばその声は、気落ちしているとき、あきらめかけているときなのです。こんなことして、何になるのだろうか。そう思っているときに、イエスは「網を降ろし、漁をしなさい」と呼びかけるのです。

家庭の中で、絶対にゆるせないということが起こった。そんなときイエスは「あなたの隣人を、あなたの配偶者をゆるしてあげなさい」と声をかけます。子どもたちはもう自分の言うことに耳を貸してくれない。いくら言っても無駄だと思えるその時に、「あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ」(ルカ4・8)と呼びかけます。何度変わりましょうと声をかけても変わらなかったのだから、今さらと思っているところに、イエスはもう一度取り組んでみなさいと言うのです。

人間は見込みのないことをしたがりませんが、イエスは決してあきらめません。どこでどういう形で私たちに声をかけるか分かりません。教会に人が立ち帰ってくるのもその一つです。その人が過去も、プライドも、すべてを振り切って教会にもう一度足を向けてくださったのですから、私たちは喜んで迎えましょう。

教会にかつてのように人が集まってくる。きっとそこには、一人ひとりにすべてをやり直して教会につながりたいと思わせるような、イエスとのはっきりした出会いがあったに違いありません。よく来てくれたね。それだけでいいではないですか。

そんなことしても無駄だとあきらめるのではなく、一人でも多くの人が「網を降ろし、漁をしなさい」という、あの単純だけれども奥の深い呼びかけを理解することができるように、続けてミサの中で祈ってまいりましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼一週間で5人、説教集「取って食べなさい」つながりで出会った。北海道の人が2人、長崎県佐世保市の人が1人、長崎県南松浦郡新上五島町の人が1人、長崎市内の人が1人。まったく面識のない人も、よく知っている人もいるが、インターネットがなければまずこんな恵みは味わえなかっただろう。
▼インターネットがなければ、と言ったが、実際は「時間と場所の垣根を越えて会話したい」という人間の奥底にある願いが、このような形になったのだと思う。人間は対話しなければ生きてはいけない。対話しなくなったひとは、すべての窓を板で打ち付けて棺桶に入っているのと同じである。
▼自分は会議することや人を集めてエイエイオーとするのがどうしても苦手で落ち込むことがある。集まって知恵を出し合うタイミングを失い、助けてもらえるときに助けを求めず、そうして自分で自分を苦しくしている。イエスはこんな時こそ、「会議をしてみなさい。助けを求めてみなさい」と呼びかけているのだろう。
▼「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」とは、対話に出て行きなさいということかも知れない。そうであれば、神こそ世界と対話するために「光あれ」と呼びかけ、人間と対話するために独り子を遣わし、先頭切って漁をしておられる方である。インターネットは人間の発明に違いないが、考え方によっては人間の内なる声が「世界中の人と対話しなさい」と呼びかけた結果なのかも知れない。

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こうじ神父絵手紙
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第64回目。めずらしい人と26聖人殉教ミサを通して出会う予定です。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
年間第6主日
(ルカ6:17,20-26)
‥‥‥†‥‥‥‥
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