こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第17主日(ヨハネ6:1-15)主よあなたが解決してくださると信じます

2009-07-26 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
09/07/26(No.427)
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年間第17主日
(ヨハネ6:1-15)
主よあなたが解決してくださると信じます
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今週は、「五千人に食べ物を与える」という奇跡の物語で、四つの福音書が(マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネ)ともに出来事を残しているわけですが、他の三つの福音書(「共観福音書」と呼びます)の書き方とはっきり違いを見せています。共観福音書では、パンの奇跡が行われた場所は「人里離れた場所」とされていますが、ヨハネは出来事が山でおこなわれたとしています。

この「山」という表現ですが、稲佐山だったのか、岩屋山だったのかという細かい話は問題ではなくて、かつて山で行われた出来事と、今回の出来事を重ねて考えてみなさいと言いたくて、「山」という場所を用いているようです。

では、「かつて山で行われた偉大な出来事」とは何でしょう。イスラエル人が真っ先に考えるのは「十戒の出来事」でしょう。神はモーセを通じてイスラエルの民に十戒を授けました。民はこれを守り、それによって神が民を守り、救うというものです。

ですから、イエスが五千人に食べ物を与えるという奇跡を「山」でおこなったという書き方をヨハネがしているのは、かつての山での出来事を思い出しなさい。神が十戒を与えて民を守り、救うしるしを与えたように、今イエスも、あなたたちを守り、救うしるしとしてパンを与えているのですよと言いたいのです。

ヨハネが描くパンの奇跡、共観福音書に見られないもう一つの特徴は、この出来事を「しるし」として示している点です。出来事の結末に目を向けて欲しいのですが、「イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。」(6・15)とあります。

群衆は明らかに「しるし」を見誤ってしまったのです。パンを食べさせてくれたのは、かつて十戒を授けてくれた神にわたしたちの目を向かわせようとしているのだと気づくべきです。イエスもまた、神の子としてわたしたちの救いのためにこの偉大な出来事をなさったのだと気づいて、神をたたえるべきだったのです。

ところが、群衆が取った行動は、イエスをこの世の王に仕立てようとする態度でした。この世の王は、人々を支配する存在です。救いを与えるのではなく、支配のもとに人々を置くに過ぎません。支配ではなく、神に守られ、愛されている喜びを持ちながら生きるために、奇跡をしるしとして用いたのです。しるしとしての何かが必要だったのですから、パンの奇跡でなくても、他の奇跡でもよかったかも知れません。

さて、このようなヨハネの理解を踏まえて、パンの奇跡の出来事をふり返ってみましょう。イエスは、フィリポに尋ねます。「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか。」(6・5)イエスはひとまずそばにいた弟子に尋ねています。弟子に何かを気づかせるためにほかなりません。

自分たちが山に来ているということや、パンを買って用意するには絶望的な状況であること、それなのにイエスが自分に「どこでパンを買えばよいだろうか」と、解決策があることを前提に尋ねていることなど、たくさんのことに気づいてほしいと願っていたのだと思います。

フィリポは置かれている状況が絶望的であることには気づいたようです。「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう。」(6・7)シモン・ペトロの兄弟アンデレも、何かはあるけれども、何かがあるだけで何の役にも立たないだろうと決めてかかっています。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」(6・10)

この状況は、きっとわたしたちの状況を指しているのだと思います。わたしたちも、イエスからなぞかけをされたときに、ある部分については把握できているのですが、大事な部分に気づくことができないのです。状況は絶望的で、わずかに何かがあるけれどもそれは何の役にも立たない。そうとしか考えることができないでいるのです。

そこへ、イエスは見落としている大切なことを指摘します。絶望的な状況だけれども、わたしがそばにいるのを忘れてはいないか。何の役にも立たないくらいしか手持ちがないけれども、その役に立たないほどわずかのものを活かすことのできるわたしがいるではないか。そのことをイエスは、当時の弟子たちにも、わたしたちにも言いたいのではないでしょうか。

わたし個人を考えてみても、八方ふさがりの中でなげやりな気持ちになることが繰り返し起こります。今日は26日で今月もあと残りわずかになっています。先週の金曜日締め切りという、とある原稿がありましたが、20日過ぎまでわたしの中で何を探してもどう思い返してもネタが見つからない状況でした。

そうなれば誰かと出会って、その出会いの中で何か発見でもあればよいのですが、この伊王島では誰かと出会うといってもたかが知れています。そう思っていましたら、1人の婦人の方から声を掛けてもらいまして、その時話したわずか2・3分の会話でパッとひらめき、締め切り間際に原稿を提出することができたのです。

状況はもう絶望的でした。何かがあると言っても、何の役にも立たないほどしかありませんでした。その時、わたしはイエスがそばにいてくれることを全く考えに入れてなかったのです。まさに、イエスはもう絶対ダメ、どうにもならないという場面で、ご自分がそばにいることを力強く示してくださったのだと思います。

食べ物がなくて困っている人を全員食べさせるためにイエスさまがおられるわけではありません。全く希望のないところに、希望を与えるしるしとして、イエスはおられます。全員食べさせるのは、国の仕事、国連の仕事です。そうではなく、こんなものがあっても役に立たない、こんな人材不足では何もできないと嘆いているところに希望を与えるために、イエスはしるしとしておられるということです。

わたしたちは、イエスが示す奇跡をきちんとしるしとして読んでいるでしょうか。わたしが抱えていた絶望的な気分は、イエスがそばにいることを忘れていたことで生じていたのではないでしょうか。イエスは今も、わたしたちに「この絶望的な状況を、どうしたら打開できるだろうか」となぞかけをしているのではないかと思っています。

それに対して「もちろん、あなたがそばにいてくだされば、きっと解決できます」と答える準備をしておきましょう。その答えを、イエスは今か今かと待っておられるのではないでしょうか。


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ちょっとひとやすみ
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▼先週の日曜日、消防の制服を着た3人の若者が司祭館のチャイムを鳴らした。馬込教会の若手だったので、見慣れたメンバーだったが、「今年はペーロン大会に出場をお願いします」と頼みに来たのでビックリしてしまった。3年振りかなぁ。
▼早速翌日からの練習に参加してみると、声をかけられた人は3年前とあんまり変わらなかった。「代わり映えしないなぁ」と思ったのと、「おー、まだ元気にやれるんだなぁ」と感心したのと、両方だった。
▼練習は楽しい。船の中にいるのは、教会に普通に来る連中もいれば、たまにしか来ない連中もいる。何を根に持っているのか、まったく来ない連中も一緒に乗っている。呉越同舟だ。それでも、かけ声を合わせ、必死に船を前に進めようとするうちに、「みんな、必死に自分を前に進めようとしているんだよなぁ」と尊敬の気持ちが湧いてくる。
▼ペーロン大会でどんな結果になるかは分からない。でも、今年も1つのことを達成した満足感は残ると思う。残念なのは、ペーロンが唯一の絆という人もいるので、その人たちとは来年までぷっつり連絡が切れること。これを機会に、教会での絆が出来上がれば、と思ってはいるけれども、思っているほど簡単ではない。その人の歴史を知りたいと思う。
▼夏休みで、当然のことながら小学生が朝6時半のミサと7時からのラジオ体操に参加してくれている。関心だ。褒美と言っては何だが、大分の「吊り橋」を見学に連れて行ってあげようと思っている。途中で、どこかの教会に立ち寄り、ミニ黙想会。これで夏の黙想会終わり。乱暴だなぁ。

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新企画今週の1枚
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第34回目。長崎で写真コンテストが開催される。「教会の部」最優秀は100万円!

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
年間第18主日
(ヨハネ6:24-35)
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年間第16主日(マルコ6:30-34)イエスは適切にふさわしい休みを与える

2009-07-19 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
09/07/19(No.426)
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年間第16主日
(マルコ6:30-34)
イエスは適切にふさわしい休みを与える
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「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい。」(6・31)わたしは、このイエスの言葉が、弟子たちに対する深い思いやりとして映りました。何らかの形で人を雇っている立場にある人々にとって、示唆に富んだ態度だなぁと思ったのです。

イエスが弟子たちに「休みなさい」と言っている今週の朗読箇所は、間違いなく何度も私の目に留まったはずです。聖書をぼちぼち読み続けている中でも、また福音書の学びの中でも、そして少なくとも、この箇所を日曜日の福音朗読で、読んでいたわけですが、主任司祭として人を雇ったり、協力者を自分で募る立場になるまで、弟子たちに配慮するイエスの姿はわたしの目の前を通り過ぎてしまっていたなぁと気づいたのです。

一歩目の気づきは確かにありましたが、今もって、わたしは雇っている人々にとって優れた雇い主ではないと思います。また、協力者を募って協力してもらっていますが、協力者に対して優れた上司ではないと痛感します。その原因は、人が人のために働いているということを、まだ十分に理解していないからです。

わたしも、2人の主任司祭のもとで教会の務めを学びました。協力者にどのように接するかも見て学びました。当時は20代後半からようやく30代に入るという本当に若い時期でしたので、人が人のもとで働いていることについてそれほど理解があったとは言えないと思います。

その一方で、ある部分では雇われている身でもあります。主任司祭ではあっても、任地を決めるのは常に大司教さまです。大司教さまの任命を受けて、任命された場所で務めを果たしていきます。その意味では、雇われている人の気持ちも前よりは考えるようになりましたし、大司教さまがどんな気持ちで任地を決めて、わたしたちを働かせているのかなぁということも考えるようになりました。

そこであらためて、イエスが弟子たちにかけた言葉を思い返すのです。「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい。」わたしは、イエスのような配慮を、雇っている人に持っているのだろうか。協力を仰いでいる人に、イエスのような温かい思いやりを掛けているのだろうか。むしろ配慮にも、思いやりにも、足りない面があるのではないかと思うことばかりです。

イエスが弟子たちに言われた「休みなさい」という勧めには、どんな思いが込められていたのでしょうか。イエスは、この場合の「休む」ということを、どのように捉えておられたのでしょうか。まず考えたのは、「次に働くために、十分に準備する」ということです。

イエスは弟子たちを休ませましたが、それは弟子たちが休みの中でしっかり充電して、次の働きのために備えさせるためです。弟子たちが休みのあとに期待されていることははっきりしています。「新たな場所への派遣」です。次の任務に向かう時に、十分に務めを果たすことができるように、今休ませるです。

この点を、自分がイエスに成り代わってできているだろうかと考えました。雇っている人は、これからも教会のために雇ってもらいたいと希望して今雇われているだろうか。それとも、他によい条件がなくて、教会の仕事をつなぎでしているでしょうか。できれば、教会のために働きたいという気持ちになってもらえるよう、育ててあげる必要があります。

また、休みは本来の仕事を見つめ直す大切な時間にもなります。休みのための時間を「レクレーション」と言ったりしますが、この言葉のもとの意味は、「再び・造り上げる」ということです。本来の仕事への姿勢を取り戻すために、休むのです。休みは与えない、働けるだけ働かせる。そんな厳しい雇い主になっていないだろうか。すごく考えさせられました。

子どもたち、また学生たちは、夏休みに入りました。夏休みも、今日のイエスの呼びかけを当てはめて考えることができます。「この夏休み、しばらく休みなさい。」自動的にやってきた休みと取るのではなく、イエスが、休みなさいと言っているのだと考えるわけです。そのことで、休みは次の学期への準備を意識させてくれるし、本来の姿にどのような姿勢で臨むべきかを考えさせてくれるものになるはずです。

思えば、わたしの主任神父さまになってくれた2人の神父さまは、次によく働くために休みを取るということを上手に実行していたと思います。それは先輩主任神父さま自身のためだけではなくて、わたしたち後輩にも、何かの手本を残そうとして実践しておられたのではないかなと感じました。

イエスは弟子たちにはしっかりした休みを取らせつつ、押し寄せてくる群衆には「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた」(6・34)となっています。責任者が、態度で弟子たちを教え育てています。しっかり休んだら、わたしがしていることをあなたがたもしなさい。導きが必要な人々がまだまだたくさんいるから、いろいろと教えてあげなさい。そんなふうに、イエスはご自分の働きぶりで教えてくださっています。

わたしたちは皆、イエスから「休みなさい」と声をかけてもらう必要があると思います。イエスがわたしたちにくださる休みの中で、わたしたちは次に備える時間を持ちます。イエスが用意した場所で休むなら、その休みは本来の姿にどのように向き合うべきかを考える良い機会になるはずです。

もっと、雇われている人の気持ちを考えて、「休みなさい」と声を掛けてあげられる人でありたいと思いました。そして、休みから帰ってきたら、また気持ちを込めて働く人へと育ててあげる必要もあると感じました。イエスの一つの呼びかけにヒントを得て、求められている姿に自分を向けていきたいと強く願った福音朗読となりました。


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ちょっとひとやすみ
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▼ことしもミッション系の大学の授業を1コマこなしてきた。命についての授業で、ひとことで言うなら、「命を、与えられたものとして考えてみましょう。そこから命の大切さが見えてきます」ということになる。「与えられた」とやんわり言ったが、はっきり言うと「神から与えられた」ということである。
▼わたしたちは与えられたものを大切に扱うことを知っている。贈り物を贈り主がガッカリするような扱い方をしたりはしない。図書館から借りてきた本を、もとの状態よりも劣る状態にして返したりはしない。そうした経験から、「わたしの子供をわたしの好きなようにして何が悪いのですか」とは言わない。目の前にいる子供は、両親の持ち物ではなく、神から、両親に与えられ、託された命なのである。
▼「生きているだけですばらしいんだよ」と人は言う。なぜそうなのか。「与えられた命だから」だと言いたい。与え主が、考えに考え抜いて、与えてくれた一度限りの人生・命なので、価値があり、尊いのだと。そのことを考える機会に恵まれなければ、「生きているだけですばらしいだろうか。生きているだけでは意味がないのではないか」ということになってしまう。
▼今日、N教会とI教会の子供たちが1日黙想会のために伊王島に来てくれた。歳のせいか、かわいいなぁと目を細めてしまった。生きているだけですばらしいと説明抜きで言える命がそこには輝いていた。子供のミサなのに、調子に乗って(興奮してしまってかも知れない)15分以上も説教してしまい、「長すぎる」と酷評を受けてしまった。だってかわいかったんだも~ん。
▼命を大切に。目の前にいる小さな命を見て、命を大切にとあらためて考える必要などどこにもない。少なくともわたしはそう思うが、そうでない環境もあるらしい。親が子の命に手を掛け、子が親の命を奪う。命の大切さを問い直さなければ、命の大切さに気づくことができない時代に入ったのかも知れない。いや、入ったのである。

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新企画今週の1枚
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第33回目。この子どもたちが1日黙想会を伊王島で過ごしました。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
年間第17主日
(ヨハネ6:1-15)
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年間第15主日(マルコ6:7-13)イエスは二人一組での宣教を考えておられた

2009-07-12 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
09/07/12(No.425)
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年間第15主日(マルコ6:7-13)イエスは二人一組での宣教を考えておられた
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「(イエスは)十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。」(6・7)今週の福音朗読の最初の部分です。イエスが弟子たちを二人一組にして派遣する様子をあれこれ思い巡らしてみました。わたしなりに考えたことを、皆さんと今週分かち合いたいと思います。

まず、二人一組にして送り出すことにした理由を考えてみました。一人で出かけて行きなさいと命ずることもできたはずです。テレビの旅番組でも、その土地土地を一人でぶらり旅する番組は成り立ちます。自分一人の力で必要なことに対処しながら、いろんなことを吸収することも可能でしょう。

けれどもイエスは、あくまで二人一組での宣教を考えていたようです。きっと、一人で出かけるよりもはるかに良い面があると考えていたのでしょう。わたしなりにそれを考えると、二人で力を合わせることは、効果的に、効率よく働くことに貢献するのだと思います。

二人いますから、そこには話し合いが当然生まれるでしょう。どのような方針で活動していこうか。二人の役割分担はどのようにしようか。日常の細々したことはどのように分担するか。こうしたことを最初に話し合うかも知れません。

また、二人一緒にいるのですから、二人とも同じ事をしなくてもよいわけです。つまり、二人とも街角に出て話し掛けをしなくても、一方が街角で話し、他方は人が集まりやすい他の場所を探しに行くということも考えられます。あるいは、街角で一方が話し掛けるのを他方がみんなと一緒に聞いてみて、もっと工夫できることや、良かった点を見つけてもらうということもできます。

二人でいれば、二人ともいつも元気はつらつというわけにもいかないでしょう。一方が疲れて意欲を失いかけたりするときに、他方が励ますこともできますし、もし一方が倒れてしまったときにも、他方が助けてあげることもできます。どちらかが弱っているときには、二人一組で出掛けていることは大きな慰めになることでしょう。

福岡の大神学院時代のことを思い出しました。2年間、二人部屋で勉強しました。福岡の大神学院には8年間お世話になりましたが、最初の2年間は大部屋で共同生活していました。3年目と4年目が、二人部屋の生活でした。3年目は同級生、4年目別の同級生と暮らしました。

うまく説明できるか分かりませんが、一つの部屋を二人で分けています。朝起きるときから、夜寝るときまで、授業の教室に行くときや、祈りのために聖堂に入るとき、食事のために食堂に行くとき以外は、一緒に暮らしているわけです。

わたしが相部屋だった二人は、それぞれ福岡教区と大分教区で司祭になっています。今ふり返ると、わたしはルームメイトとして、どんな風に受け止められていたのだろうかととても気になります。わたしが勉強しているとき、反対に勉強していないとき、わたしが休憩したり、ゴロゴロ横になっていたり、勉強以外の過ごし方をしているとき、相方の人はどう思っていただろうか。考えてみると今の今まで全くふり返ったことがありませんでした。

相手にとって、やる気を起こさせる存在になっていただろうか。大きなストレスを与える存在だったのではないだろうか。今考えてみるとそんなことも気にしないで当時過ごしていたとしたら、相手にとって相当わがまま勝手で人のことも気にしない奴だと思われていたかもしれません。申し訳なかったなぁという気がしてきました。

わたし自身ふり返ってそのようなことを感じましたが、イエスが一組にしたコンビというのは、どんな組み合わせだったのでしょうか。わたしだったら、どういう組み合わせにするだろうか。まずはそのことを考えてみました。

わたしだったら、当然「気の合う人を二人一組にする」ことを考えるでしょう。そのほうが、互いの力を引き出す刺激になるだろうと思うからです。けれども、もう少し考えると、別の方法もあることが分かります。つまり、「正反対の者同士を組み合わせる」という方法もあります。

お互い水と油、一生懸命努力するタイプと、努力しているのを表に出したがらないタイプがいます。汗をかいて努力するのが格好悪いと思っている人と、汗水流して努力することが尊いと思っている人が一緒になると、おそらく最初はうまくいかないだろうと思うのです。

または、せっかちな人とのんびりした人を組み合わせても、予想外のことが起こることでしょう。さらに正反対は、性格や気質だけではありません。若手と年長者を組み合わせると、若手に刺激されて年長者が力を出します。年長者の知恵を若手が学びます。そのような正反対も、弟子の組み合わせにはあったかも知れません。

けれども、イエスから派遣された弟子たちの目的は皆同じです。「出掛けていって悔い改めのための宣教をすること」この一点です。正反対の二人を組にして派遣した班があったとしたら、最初は意見が合わずに対立しても、きっと折り合いをつけて、気の合う組み合わせの班よりももっと努力をしてくれるかも知れません。

イエスは、ご自分の考えのもとに、二人一組のいろんな組み合わせを考えられたのだろうなぁと思います。6通りの組み合わせが出来上がったわけですが、その6組はイエスに対して直接間接のいろんな収穫をもたらしてくれたのではないでしょうか。十二人の弟子の中には、二組の兄弟も含まれていました。兄弟で二人一組だったのか、それとも別の人と組み合わせたのかなど、誰と誰をコンビに指名したのか、とても興味深いなぁと思いました。

最後に、わたしたちのことを考えてみましょう。わたしたちもある意味で、この社会に対して神から派遣された人間です。ある時代に、ある地域で、ある一定の条件の下に生きています。一人で生きていると思っている人もいるかも知れませんが、いろんな組み合わせのもとにわたしたちは置かれているのではないでしょうか。

夫婦として、二人一組の生き方を与えられた人もいるかも知れません。あるいはずっと関わる家族の中で、組み合わせを与えられた人もいるかも知れません。また、一生涯同じ生き方をする人たちは、その生き方の中での組み合わせに置かれていると言えます。いくらどのように考えても、自分は一人きりだと感じる人であっても、その人は、イエス・キリストと二人一組で、社会の中に遣わされているのです。

自分が置かれている二人一組の組み合わせの中で、わたしはどんな役割を果たしているでしょうか。あるいは、どんなことで力になれずにいるでしょうか。相方がいることを、どれくらい意識しているでしょうか。相方がどう思っているか、ときどき考えることはあるでしょうか。

福音朗読のちょっとした部分を拾っての分かち合いでしたが、わたしたちがあらためて考え直すような材料が見つかったなら幸いです。ぜひ、神さまの練りに練られた二人一組の生き方を、十分に思い巡らして、新たな気持ちでこれからの生活に入ることにいたしましょう。


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ちょっとひとやすみ
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▼馬込小教区は3つの教会から成っている。伊王島に馬込教会と大明寺教会、船で渡って高島に高島教会。高島には、夏期間(復活後から11月第1日曜日まで)は土曜日の午後、島に渡って夕方に「主日前晩のミサ」を捧げて帰ってくる。冬期間は、日曜日の大明寺・馬込教会のミサを捧げたあとに船に乗って午前10時にミサとなる。
▼現在夏期間で、土曜日に前晩てのミサとなる。説教もこの時点までに出来上がっていなければならないが、なかなか簡単ではない。土曜日午前中も伊王島でまだまとまらないまま、試行錯誤のまま船に乗り、高島でミサまでの2時間に最終的に形を整えることになる。ほとんどの場合高島で原稿は完成し、高島のミサが最初の説教となる。
▼原稿はUSBメモリーに納めて、持ち帰り、夜には配信作業に移る。ところがときおり問題が発生する。高島に渡った時点で、USBメモリーを持ち込んでいなければ持ち帰ることができない。原稿は高島でプリントするから紙の原稿は残るけれども、こういう日は伊王島に戻ってからもう一度原稿を打ち直すことになる。
▼今週まさに、USBを忘れてしまい、原稿を打ち直さなければ・・・と思っていた。どうにかできないものか。打ち直しはものすごく疲れる。一体どういう方法が・・・と考えていたら、たまたま高島に未使用のCD-Rがあり、今週の原稿たった1つのためにCD-Rを制作し、持ち帰った。背に腹は代えられない。
▼高島教会ではインターネットが接続されていない。だからファイルを伊王島に転送することもできない。不便と言えば不便だが、不便な環境も快適と感じることもある。高島に来てまで現代文明の洪水に飲み込まれる必要は感じない。いよいよになれば、データを持ち帰る何かの方法は見つかるものだ。最悪でも、紙の原稿を持ち帰ることができる。


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新企画今週の1枚
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第32回目。この方々にも聖体を届けることができるようになりました。

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‥次の説教は‥‥
年間第16主日
(マルコ6:30-34)
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年間第14主日(マルコ6:1-6)イエスの全能の力を妨げない生き方をする

2009-07-05 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
09/07/05(No.424)
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年間第14主日
(マルコ6:1-6)
イエスの全能の力を妨げない生き方をする
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7月3日、使徒聖トマスの霊名の祝日を迎えまして、今日日曜日に、わたしの霊名の祝いのため、信徒一同でミサの依頼をしていただきました。感謝申し上げます。ここに置かせてもらえる喜びを感じながら、精一杯奉仕したいと思っています。

今日の説教は、福音の学びから入って、司祭年を意識しながら話してみたいと思います。まず、今日の朗読箇所のどこに注目してみたかということから話に入りましょう。今年、わたしが注目したのは、出来事の最終場面に当たる場所です。6章5節「そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった」という部分です。

わたしたちは、神について次のように学んだはずです。「神にできないことはありますか」「神にできないことは何一つありません。これを、神の『全能』と言います。」皆さん間違いなく知っている教えです。

確かに「神の全能」について習いましたが、今日のイエスさまはその「全能の神」という姿に当てはまっていないのではないでしょうか。「そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。」わたしたちが理解している神の姿を現していないような気がします。

では、奇跡がおできにならなかったことと、神の全能の力とは、矛盾するのでしょうか。この点を今週の朗読箇所から今年は考えてみたいと思っています。結論から言うと、奇跡がおできにならなかったという事例があっても、神の全能の力は衰えたり曇ったりするものではないということです。

2つの方向から考えてみたいと思います。まず、神の子イエス・キリストの全能の力は、地上でもまったく変わりがないことを確認しましょう。同じマルコ福音書の第9章には、「汚れた霊に取りつかれた子をいやす」奇跡が取り上げられていて、父親がイエスに「霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」(9・22)と話し掛けました。

それに対してイエスは、「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」(9・23)とはっきり伝えます。そしてその父親もすぐに叫んで、「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」(9・24)と答える場面がありました。イエスはここではっきりと、「信じる者には何でもできる」ときっぱり答えているのです。

一方で、事態が避けられない場面もわたしたちは思い出すことができます。イエスの受難とご死去が近づいている中で、ペトロの離反を予告した時、ペトロが、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」(14・29)と言います。それにもかかわらずイエスは「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」(14・30)と明言するのでした。

「ペトロは力を込めて言い張った」ようです。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」(14・31)実際は、出来事はイエスの予告通りに進んでいきました。

この場面で、イエスがペトロを無理矢理裏切らないように金縛りに遭わせるとか、そういうことができただろうかと考えると、おそらくそういうことを望めばできたのだろうと思います。けれども、神は人間の意志を踏みつけてまで、何かをなさったりはしないわけです。おできになるかどうか、神の全能を問うならば、ペトロに絶対裏切らせないように、ペトロの意志を押さえつけてしまうことも可能だったでしょう。けれども、神はたとえ全能であっても、人間の意志を踏みつけたりはしないのです。

同じことは、イスカリオテのユダに対しても当てはまります。ユダは、祭司長たちのところへ行き、イエスを引き渡す手引きをしました。「あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか」(26・15)。

もしイエスが無理矢理イスカリオテのユダの計画を押さえつけようとするなら、それも可能だったかも知れません。けれども、神は人間の意志を踏みつけてまで何かをなさろうとはしないのです。たとえそれが、悪意のある計画であっても、人間が自分の意志で選んだことを、踏み越えて押さえつけたりはしないのです。

ここまで、2つの事例を取り上げました。イエスは、ご自分が全能の神であることをよくご存知です。「信じる者には何でもできる」と仰っています。一方で、人間の意志を尊重して、踏みつけることはしません。この両方の姿を頭に置いてもう一度今週の朗読を考えると、起こっている出来事が理解できるようになるでしょう。イエスは奇跡を行う全能の力を持ておられますが、人々が不信仰に留まるなら、その思いを踏みつけてまで奇跡を行うことはしないのです。

人々が奇跡を信じなくても、無理矢理奇跡を起こしてやるんだと、そういう態度は取らないのです。これが、「ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった」という部分です。

全能の力を神がお持ちであっても、人間の意志が神の働きを拒み、受け入れないなら、全能の力は示されないということになります。これは、人間の責任を問う大切な問題です。神には不可能がないのに、人間が神の全能の力を妨げるつまづきとなり得るということなのです。

そこで中田神父は振り返って考えるのです。イエスは、わたしの上にも全能の力を発揮することがおできになるわけですが、わたしがイエスの邪魔になって、例えば奇跡をおできにならないことが起こっているのではないか。「わたしはあなたを裏切ります」と意思表示したために、イエスのなさりたいことの妨げになる場面があったのではないか。そう思う時、わたしの責任は重大であると感じたのです。

たとえ、事が小さい場合でも、同じようなケースは起こりうるのではないでしょうか。イエスがわたしを通して、だれかに手を差し伸べようとしている。だれかの叫びを拾ってあげようと考えている。それなのに、「わたしはあなたに協力しません」と意思表示をしたために、イエスのわざがおできにならないままになっている。しばしばそのような形で、神の全能の力に、わたしが躓きの石となっているのではないだろうか。司祭年を過ごす中で、まず最初に振り返りたい部分だなぁと思いました。

もちろん、わたしの反省として申し上げたことは、皆さんも、お一人お一人自分に当てはめて考えていただきたいのです。「そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった」。このような結果が生じてしまうのは、わたしたちに原因がある可能性があります。

今イエスが、わたしたちの中で神の偉大なわざを行おうとしているかも知れない。それなのに、おできにならないとしたら、責任は重大なのではないでしょうか。今の時代に、もっとイエスの働きが十分に発揮されるために、わたしたちはイエスに大きな信頼を寄せて生きていく必要があるのだと思います。


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ちょっとひとやすみ
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▼説教を書くためには、自分なりの突破口が見えて、そこから何かを紡ぎ出す作業が必要となる。今週はそうなるまでにとんでもなく時間が掛かってしまった。自分自身の時間の使い方をここ数日振り返って、「きっかけなんて、とても思い付かないよなぁ」と言われても仕方のない過ごし方をしたのだが、それでもイエスはわたしを使ってくださるのだなぁとあらためて感じた。
▼どんなに言い訳しても、机の前に座っていた時間が少なかったわけだから、原稿が書けないのは当然である。ところが、今週の原稿は、やはり過ごしてきた時間の中でしか書けなかったのではないかと思えたりもする。ポイントポイントで「何か、説教につながらないか」と考えてはいた。それが、まったくつながりそうもない場面、つながらない場所で、「あ、書けそうな気がする」と感じたのである。
▼今週は、実は過去9年分の説教を印刷して手元に置いていた。いよいよ何も思い付かない時は、過去の説教のどれかにしがみつかなければならないだろうと思っていたからである。それは正直に認める。ところが、はっきりと「あ、何か掴めたかも」という実感があり、今回の説教につながった。
▼もちろん、ベストの説教ではないだろうと思う。それは自分も認めるが、過去の説教の練り直しではなく、自分の中で今年引っかかった「こだわり」にこだわり続けた結果、形になったという意味では神さまに感謝したいと思う。
▼土曜日の夕方、高島に船で渡って高島教会で日曜日の前晩のミサをした。残念ながらここでは原稿は手元になかったが、この前晩のミサで話してみて、「うん、これはわたしの中から確かに生まれ出た説教だ」と感じた。だれかの受け売りではなく、わたし自身の中からたしかに紡ぎ出された説教だった。
▼仕上がりがまずくても、自分自身の中から出たものには愛着があるものである。イエスはわたしにも奇跡を起こしてくださる。もし起こらないとすれば、それはわたしが妨げの石になっているからだ。「主よ、あなたがわたしを使って語り掛けてくださることを信じます。」幸いに、今回はそのようになった。

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新企画今週の1枚
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第31回目。霊名のお祝いの1枚が見つかればいいなぁ。あることを期待して。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
年間第15主日
(マルコ6:7-13)
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===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
コメント
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