こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

復活の主日(日中)(ヨハネ20:1-9)父がすべてを御自分の手にゆだねられた(5)

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‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
2024/3/31(No.1290)
‥‥‥†‥‥‥‥
復活の主日(日中)(ヨハネ20:1-9)
父がすべてを御自分の手にゆだねられた(5)
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あらためて主の復活、おめでとうございます。聖週間の典礼もこれで完了となりますが、何年、いや何十年打ち合わせを積み重ねても、打ち合わせ通りに行かなかったり、打ち合わせ以外のことが起こったりします。聖週間の典礼に慣れはない。そういうことなのでしょう。

復活の主日・日中の朗読は、徹夜祭の朗読より少ない材料でイエスの復活にたどり着く必要があります。徹夜祭では「あの方は復活なさって、ここにはおられない」(マルコ16・6)と知らせる若者が登場します。しかし日中の朗読には、復活したことを知らせる人は現れません。

さらに、徹夜祭の朗読では親切に告げるべき内容まで教えてもらっています。「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」(同16・7)

しかし日中の朗読では都合の悪いことにマグダラのマリアが感じたままを告げています。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」(ヨハネ20・2)徹夜祭の朗読と比べると、圧倒的に乏しい材料です。

それなのに、ペトロと、イエスが愛しておられたもう一人の弟子は、墓へ走って行きました。乏しい材料だったから、二人は墓へ行くことになったのかもしれません。私はここにも、御父がすべてを御子に委ねられたことが生きていると感じました。

つまりこうです。マグダラのマリアが報告したのは内容の乏しい情報でした。イエスはそれを最大限活用されたのです。乏しい情報しか伝えられない人であっても、その人は御父から御子に委ねられた人であり、イエスの手にかかれば乏しい情報で二人の弟子を動かすのです。

ペトロと、もう一人の弟子も、墓に向かったときは「イエスは必ず死者の中から復活されることになっている」(同20・9)という聖書の言葉を、まだ理解していませんでした。理解していたなら、墓に行かずとも「あの方は復活なさったのだ」とその場で喜んだことでしょう。理解していなかった二人も、イエスの手にかかれば走って墓に向かう人、行動する人に変えてもらうのです。

イエスは今や、復活してすべての人の希望となりました。御父は御子イエスにすべてを委ねられました。私たちも御子イエスに委ねられた人です。イエスに委ねられているということは、イエスの手にかかれば、不十分な状態にあってもすばらしい体験を味わわせてもらえます。

今や私たちにとって、イエスが復活して栄光を受けた、この一つだけで十分です。復活したイエスは、まだ自分の信仰に自信の持てない人でも、すばらしい結果に結びつける力を帯びてともにいてくださるのです。「はっきり言う。カトリックの信仰が十字架を重くしている」そう食ってかかる人もいるかもしれません。その人にも復活したイエスはともにいて、最後まで十字架を担う力を与えてくださいます。

復活したイエスにすべてが委ねられているので、私たちはどんな状態にあっても良いものに変えてもらえます。ですから復活したイエスは、御父が人類に与えることのできる答えであり、すべてなのです。

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‥次の説教は‥‥
神のいつくしみの主日(ヨハネ20:19-31)
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‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
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▼今年度、少なくとも前半は主任司祭・助任司祭・助祭の体制でスタートする。助祭を迎えるわけだが、いろいろ制約がある。司祭の立場からの言い前だが、ミサ・ゆるしの秘跡・病者の塗油などができない。
▼その制約を踏まえて、三つの小教区の司牧をすることになる。福江教会・井持浦教会・浜脇教会のミサ配分表を試しに作ってみたが、綱渡りのようなタイトなスケジュールになった。これをいつまでも続けることはかなり困難だと感じる。助祭様が司祭に叙階される日が、今から待たれるところだ。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第897回目。先輩司祭の通夜会場。イエスを信じる者はイエスと共に復活する。

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† 神に感謝 †
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復活徹夜祭(マルコ16:1-7)父がすべてを御自分の手にゆだねられた(4)

2024-03-30 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2024/3/30(No.1289)
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復活徹夜祭(マルコ16:1-7)
父がすべてを御自分の手にゆだねられた(4)
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皆さん主の復活おめでとうございます。今年の聖週間、遠ざかっていたことが復活しました。聖木曜日の洗足式です。長くお休みしていたので、ここにお集まりの皆さんの中に、足を洗ってもらった人は数えるほどしかいなくなっているかもしれません。

これは一つのしるしです。「長くお休みしていた」にも関わらず、復活することができるのです。それは儀式に限りません。私たち自身も、長くお休みしていた人がこの中に混じっているかもしれません。イエスの復活によって、その人も復活するのです。三年お休みした人がいるかもしれません。八年お休みした人がいるかもしれません。それでも、イエスが復活したおかげで復活の恵みにあずかるのです。

イエスの復活こそ、私たちが復活できるただ一つの理由です。実は私自身も、すっかりお休みしていた「体を動かす習慣」を復活させることができました。六方の浜まで歩くのが今は習慣になっていますが、それは復活したイエスが、いつも一緒に歩いてくださって「あなたはまだやるべき事がある」と励ましてくださったからできたのです。

イエスはどんな人を、復活の勝利によって復活させることができるでしょうか。教会から離れていることに負い目を感じている正直な人だけを復活させることができるのでしょうか。イエスの復活の勝利は、すべての人を、新しい人に復活させることができると私は信じています。

与えられた朗読の登場人物は、いくつかの人々の種類を表していると思います。イエスに油を塗りに行くために墓に向かう婦人たちは、イエスの復活を理解していなかった人々です。ご遺体に敬意を表すことしか考えていませんでした。しかし彼女たちは、弟子たちに復活の事実を知らせる証言者に生まれ変わらせていただきました。復活したのです。

弟子たちは、イエスが前もって復活について教えていたのに信じることができなかった人々です。イエスから一時的に遠ざかって、負い目を感じていた人です。イエスの復活を理解していない人から、理解していても信じられず遠ざかっていた人まで、イエスはすっかり新しい人にしてくださるのです。復活させてくださるのです。

聖木曜日に示した一つのことがここにも活きています。「父がすべてを御自分の手にゆだねられた」(ヨハネ13・3)。イエスにすべてがゆだねられていたので、復活の勝利の時にすべての人を御自分のもとに引き寄せ、新しい人に変えてくださる、復活させてくださるのです。イエスは復活して、私を含むすべての人を引き寄せてくださったのです。

イエスは先に復活なさって私たちを招いてくださっています。何を畏れるのでしょう。何をためらうのでしょう。「私が今あるのは、復活したイエスのおかげです」「私が今ここに集められたのは、復活したイエスのおかげです」と、声に出しましょう。イエスはいつも先に、私たちが出会うはずの場所に来て、待っておられます。

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‥次の説教は‥‥
復活の主日(日中)(ヨハネ20:1-9)
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ちょっとひとやすみ
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▼何か、これまでの信徒が味わったことが無い体験を得させるためには、主任司祭が頭を使わなければならない。いろんな教会で新しい体験を積んでもらえるよう工夫したわけだが、その中でも田平教会での取り組みは忘れられないものがいくつもある。
▼復活徹夜祭の取り組みも、その一つだった。暗闇の中でローソクを祝福する「光の祭儀」を、会衆がいくらかでも見ることができるようにと、スクリーンに映し出すことを考えた。これはきっと、私がどこへ赴任しようと、続けられていく。ここ福江教会でもその提案をして、すんなりとではなかったが了承されて今年から実施する。田平教会での取り組みは、今でも私のアイディアの基本線である。

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今週の1枚
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第896回目。可能なら「光の祭儀」打ち合わせの様子。伝える工夫、成功を願う

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† 神に感謝 †
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聖金曜日(ヨハネ18:1-19:42)父がすべてを御自分の手にゆだねられた(3)

2024-03-29 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2024/3/29(No.1288)
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聖金曜日(ヨハネ18:1-19:42)
父がすべてを御自分の手にゆだねられた(3)
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「だれを捜しているのか」(18・4)イエスがご自身をなげうって救いを成し遂げられるいよいよの場面で、最初に語られたのがこの言葉です。一隊の兵士と、祭司長やファリサイ派が遣わした下役たち、そしてイスカリオテのユダもそこにいました。

彼らは「ナザレのイエスだ」(18・5)と答えます。彼らは、だれを捜しているのか、本当に分かっていたのでしょうか。「どこのだれか」は分かっていたでしょう。ただ、イエスの呼びかけにちゃんと答えてはいないのです。

イエスは「救い主」なのですから、「救い主を捜している」と言うべきでしょう。「だれを捜しているのか」と問われて「救い主を捜している」とちゃんと答えるのであれば、そもそもイエスに手を掛けたりはしないでしょう。

ではここに集まった皆さんはどのように答えるのでしょうか。「だれを捜しているのか」昨晩のミサで考えたように、イエスは御父から御自分の手にすべてを委ねられた救い主です。「御父からすべてを委ねられたあなたを捜しています。それなのに、あなたが十字架にはりつけになる罪を担わせたのは私です。」そうとしか答えることができません。

人を憎んだり、悪く思ったり、腹を立てたり、嘘を言ったりごまかしたりした。それらを担って、イエスは十字架にはりつけになりました。そうでありながら私たちはどこまで十字架のイエスに近づくことができるのでしょうか。イエスはその答えを示してくださいました。

「兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た。」(19・34)イエスは私たちすべてのために、裂け目を用意してくださいました。裂けたところから、私たちはイエスの最も奥深くに導かれます。イエスの御心は、私たちのために開かれています。胸に手を当てても、イエスのみ心に触れる資格はありませんが、イエス自らが、「わたしはあなたを救うためにこの傷を受けた。わたしに近づきなさい」と言ってくださいます。

最後の晩餐で、御自分を聖体として与えてくださるイエスは、十字架上では流されたその血の一滴までも与えてくださいました。与え尽くしたのは、御自分を無にして私たちが留まる場所を用意するためかもしれません。

私たちはこれから、イエスの復活のその時を待ちます。私たちにすべてを与え尽くし、私たちのすべてを受け取った方は、栄光をお受けになります。イエスは「受け取ってください」と言えるものを持たない私を受け取って、救ってくださいました。ただひたすら感謝して、今日の典礼を進めていくことにしましょう。

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‥次の説教は‥‥
復活徹夜祭(マルコ16:1-7)
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ちょっとひとやすみ
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▼聖金曜日の午後2時半から、十字架の道行が予定されている。前任地で走だったように、今年の四旬節から「等身大の木の十字架」を使って十字架の道行ができると思っていた。しかし準備が間に合わず、受難の主日と聖金曜日のみ木の十字架を担ぐことになった。
▼この原稿は3月16日に書いているので実際にはどのような結果になったかは分からない。良い結果になっていることを願っている。
▼こちらでは、「侍者旅行」が実施されている。3/16から3/17にかけて、一人助任司祭が同行している。ただ気になるのが、スケジュール通り進んでいるのか、予定に狂いが生じているのか、報告が無い。「報告せよ」とLINEしたら返事が来た。しかも、交代で浜脇教会前晩のミサに行くのだが、私に預けるはずのものを忘れて侍者旅行に行った。

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今週の1枚
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第895回目。聖金曜日はもちろん大斎小斎の断食。大斎の義務もあと2年ある。

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† 神に感謝 †
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聖木曜日(ヨハネ13:1-15)父がすべてを御自分の手にゆだねられた(2)

2024-03-28 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2024/3/28(No.1287)
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聖木曜日(ヨハネ13:1-15)
父がすべてを御自分の手にゆだねられた(2)
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「イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。」(13・3-4)受難の主日に予告した、御父とイエスの間では失われる物は何も無いことへの答えです。

御父が、すべてを御子イエスの手に委ねました。御父が、造られたものすべて、人類のすべてを委ねられたので、命を奪おうとする人々が何をしようと、何も奪われることはないのです。その、すべてを委ねられたイエスは、最後の晩餐の席で、今度は弟子たちにすべてを委ねようとするのです。

聖木曜日は、司祭職の制定と、聖体の秘跡を定められたことを記念する日です。司祭職の務めは、イエスが弟子たちの足を洗う場面に象徴的に示されています。それは、人の上に立つことではなく、互いに仕え合うということです。「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」(13・15)

司祭はミサをささげます。イエス様が命のパンとなって、人々に配られ、人々が養われる。その奉仕をするのが司祭です。決して、「配ってやっている」という役割ではありません。ゆるしの秘跡では罪をゆるします。「あなたの罪はゆるされましたよ」と、イエスの働きを届けるのが務めです。その徹底した奉仕の姿が、弟子の足を洗う姿です。

今日の典礼に、私たちは一人ひとり、父なる神から呼ばれて御子イエスに委ねられました。喜んできた人も、そうでない人も、呼び集められて、すべてを委ねられたのです。どなたか、洗足式にお願いされた人がいるでしょう。そのほかにも、洗足式に加わりたい方はこの説教のあとどうぞ前に来てください。

「わたしの足など、決して洗わないでください」(13・8)とペトロは言ったのです。決して洗わないでくださいと思う人でもけっこうです。イエスのお手本に倣って、司祭があなたにお仕えします。

今日の典礼は、イエスが、儀式の形を取って弟子たちにすべてを与え尽くす日です。明日の受難の典礼は、イエスが全身を使って弟子たちにすべてを与え尽くす日です。いずれにしても、御子イエスは御父からすべてを委ねられ、そのすべてを弟子たちに託そうとします。

敵が、外からどんな攻撃をしても、何も奪われることはありません。何も失う物はありません。ですから私たちも、奉仕の模範を示してくださるイエスにすべてを委ねましょう。イエスにすべてを委ねるなら、私たちは何も奪われる心配が無いのですから。

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‥次の説教は‥‥
聖金曜日(ヨハネ18:1-19:42)
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ちょっとひとやすみ
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▼最後の晩餐の席でイエスはパンを裂いて弟子たちに渡し、「みな、これを取って食べなさい」と言われた。伊王島馬込教会でたまたま司祭館建設の時期に赴任していたので落成記念にと思い説教集を文庫本にした。説教集のタイトルを考える必要があったが、たぶんすんなりと「取って食べなさい」というタイトルにしたのだと思う。
▼その文庫本説教集も、とうとう在庫は無くなった。司祭館落成後に追加で印刷した「A年説教集」が、部屋を見回した範囲で五冊残っている。それだけである。ある意味「取って食べてもらい、何も残っていない」ということだ。受け取ってくださった方が消化し、糧としてくださり、信仰生活が豊かになっていればと今も願っている。消化不良を起こしたり、下痢をしたり、ましてや「体内にまだ残ったまま」など、ご迷惑をかけていないかも心配である。

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今週の1枚
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第894回目。助任司祭が一人異動となる。後任は新しい助祭だ。力を合わせる。

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受難の主日(マルコ15:1-39)御父がすべてを御子に委ねられた(1)

2024-03-23 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2024/3/24(No.1286)
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受難の主日(マルコ15:1-39)
御父がすべてを御子に委ねられた(1)
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「だれが何を取るかをくじ引きで決め(た)」(15・24)兵士たちは争ってイエスの衣服の取り合いをしています。イエスそのものには目もくれず、衣服に群がっています。中田神父はマグダラのマリアが、イエスのご遺体を引き取りたいと言ったのを思い出しました。

「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」(ヨハネ20・25)兵士はイエスその方には興味がありませんが、マグダラのマリアはイエスのほかには興味がありませんでした。

今年の聖週間は、「御父がすべてを御子に委ねられた。」このことを一週間黙想したいと思っています。御父がすべてを御子に委ねられた。その中に、私たちも含まれています。私たちは御子に委ねられた人間であり、聖なる一週間、私たちも自分自身を御子に委ねるのです。

イエスはすべてを奪われました。兵士から衣服を奪われ、群衆のののしりや祭司長律法学者たちの侮辱。人としての尊厳も働きの実りも否定されました。棄てられて、権威も地に落ちて、何もかも奪われた姿で、その最期を御父に委ねます。

しかし、御父と御子の間では何も失われず、すべてが保たれていました。その場にいる人々、この典礼にあずかる私たちさえも、何も失われていないとなぜ言えるのか理解できていません。その答えは聖木曜日の朗読の中にあります。聖木曜日、夜7時に予定されている典礼に皆さんが参加して、聖木曜日のミサを完成させてくれる。その時に答えが与えられるでしょう。

衣服は奪われ、人としての尊厳も働きの結果も否定され、御子を受け取ろうとする御父には何が残されたのでしょうか。残されたのは、私たちを十字架の一つとして担って救ってくださった御子そのものです。衣服を着ているかどうかではなく、その御生涯のすべてで人々の悲しみや苦しみを担った御子イエスが、御父の受け取り分、御父にとってのすべてなのです。

御父が受け取ろうとする御子の姿をもう一度眺めましょう。十字架に付けられています。人々の嘲笑の的になっています。「わたしに従いなさい」とイエスは招いています。「主よあなたに従いますが、私が身につけている物、今まで築いてきたものまで剥ぎ取らないでください」そう言いながら従おうとするのでしょうか。

聖木曜日・聖金曜日・復活徹夜祭に参加すれば、きっと「これは身につけたままにしてください」「これは剥ぎ取らないでください」そんな気持ちも横に置けるようになるでしょう。「イエス・キリストが私に残されていればそれで十分です」ときっぱり言えるキリスト者になれるよう、聖なる三日間を可能な限り参加することにしましょう。

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‥次の説教は‥‥
聖木曜日(ヨハネ13:1-15)
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ちょっとひとやすみ
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▼聖木曜日からの聖なる三日間のことを、学期最後の教会学校ミサで話した。小学生なので、聖なる三日間が大事だよと言ってもあまりピンと来ない。それでも、両親とよく相談して聖なる三日間に続けて来てほしいとお願いした。
▼大人の黙想会でも、聖なる三日間、それと聖金曜日の十字架の道行(福江教会は午後2時半)に参加してほしいとお願いした。こちらはチクチクと、針を刺すような言い方をした。「イエス様は誰のために十字架にかかったのですかね?私以外の誰かですか?私のためにもですよね。それでいて、参加すればできるのに参加しない、傍観者でいるというのは、十字架の道行を完成させることになるでしょうか?」果たしてどのくらい響いただろうか?

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第893回目。可能であれば、中田神父が「木の十字架」を担いでいる様子を紹介

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四旬節第5主日(ヨハネ12:20-33)父よ、わたしをこの時から救ってください

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こうじ神父
「今週の説教」
2024/3/17(No.1285)
‥‥‥†‥‥‥‥
四旬節第5主日(ヨハネ12:20-33)
父よ、わたしをこの時から救ってください
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3月17日、中田神父の叙階記念日を迎えました。島本要大司教様に叙階の秘跡を授けていただきました。これから32年目に入ります。特別な思いはありませんが、だんだん頑固になってきている気がしますので、頑なな心を砕いてもらいながら務めたいと思います。

イエスはご自身の苦しみをほとんど表に出しませんが、今週の朗読箇所12章27節はそれを言葉にしています「父よ、わたしをこの時から救ってください」。苦しみを打ち明けている箇所をあと一つ思い出しました。マルコ14章35節でイエスは地面にひれ伏し、「できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るように」と祈っています。(次の箇所も参考として。ルカ22章44節)

苦しさの極みにありながら、御父の望みに従います。「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」(12・27-28)避けて通れるものならそうしたい。けれども、一粒の麦として、死んで多くの実を結ぶことが、御名の栄光を表す道なのです。

「地に落ちて死ななければ一粒のままである。」(12・24)私はこの部分に特に目が留まりました。「地に落ちる」という表現は日本語では評判や権威が失墜することです。この箇所はそこまでの意味は含まれていないでしょうが、「地に落ちて」死ななければ一粒のままであると考えるなら、私たちにもっと強く訴えかけてくるのではないでしょうか。

この感覚を保って、読み続けます。「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」(12・25)自分の思い描く最期にこだわるなら、それは「地に落ちて死ぬ」ということではありません。もしかしたら捨てられて、そばにいてほしい人もいないまま最期を迎えるかもしれない。そんな「地に落ちて死ぬ」ところまで受け入れるとき、この世の命を神に保ってもらい、永遠の命に至ることができるのです。

それは、今の中田神父には全く受け入れられない最期です。3月12日で58歳になって、司祭生活も確実に折り返したので、もしも余命を宣告されても受けとめるでしょう。しかし、苦楽を共にした人や、実家の家族や、そばにいてほしい人がいなくて旅立つのは耐えられません。「地に落ちて」の死は耐えられないのです。

すると、さらに続く箇所も踏み込んで考えることができます。「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。」(12・26)イエスに全面的にお仕えしたいと考えていました。それなのに、「地に落ちて」死ぬところまでは従えません。「どんなことでも従います」と決心していたのに、すぐに手のひらを返してしまいます。

イエスは「地に落ちて」死ななければならないのに、私は「地に落ちて」は死ねないというのでしょうか。来週の受難の一週間に向けて、本当に私はイエスのいるところに留まりたいのか、自分が留まりたいところにだけ留まろうとしているのではないか。思い巡らしましょう。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
受難の主日(マルコ15:1-39)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
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▼58歳になった。そして叙階記念日(3月17日)となった。1992年叙階で、32年目に入る。もうこれからは「いくらでも時間はある」とは言えない。本当に成す(やり遂げる)べきことのために時間を使わなければ、きっと後悔する。
▼私以上に時間が短いかもしれない人がいる。私はその人のために何ができるのか。「残り時間が少ない」というよりは「残り時間が残酷に削られていく人」がいる。その人は私にとって大切な人。教えたり教えられたり、長い時間を共有してきた人。その人のためにできることは何か?

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今週の1枚
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第892回目。「5」と「8」の誕生日キャンドル。85歳のその日は来るだろうか?

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四旬節第4主日(ヨハネ3:14-21)真理を行う者は光の方に来る

2024-03-09 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2024/3/10(No.1284)
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四旬節第4主日(ヨハネ3:14-21)
真理を行う者は光の方に来る
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黙想会お疲れさまでした。主任司祭の説教は目新しくないので、きっと忍耐して聞いたことでしょう。それだけでも四旬節の償いを積んだと思います。私たちは償いがあって、すばらしい復活を迎えられます。

今年の司祭マラソン大会に向けたトレーニングは、生活改善に大いに寄与しました。大会一週間後に長崎市の聖フランシスコ病院で人間ドックを受けましたが、これまでですと「減量なさってください。いくつもの数値が黄色信号です。もう少し減量なされば、すべて正常な範囲内に収まるでしょう。一にも二にも、減量です。」担当の先生から毎年同じことを聞かされて、嫌な思いをしていたのです。

今年は、大会までの二ヶ月間早歩きをしました。今流行の「速歩」です。これが功を奏して、検査の数値がほとんどすべて正常値に収まりました。毎年小言を聞かされていたドクターからも、「すばらしいです。続けて努力なさってください」と褒められまして、どや顔でした。

トレーニング中祈ることも続けました。冬の北西の風は、出かけるときは向かい風で、帰り道は追い風です。準備体操をして、気に掛けている先輩や信徒の方を思い浮かべながら風に向かって歩きます。

帰り道は、風に乗ってというのでしょうか。とても気持ちよく歩くことができます。風が背中を押し、富士薬品五島営業所まで来るとまず聖マリア病院屋上のマリア様が見えます。それから福江教会の鐘楼の屋根が見えます。戻るべき場所に戻っている、近づいていると感じます。

「悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。」(3・20)まるでそれは、向かい風に向かって歩いているようなものです。真理から、イエス・キリストから離れようとすることは、文字通り闇雲に進んでいるのです。

反対にイエス・キリストの方に来ることは追い風の中で歩いているようです。「真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」(3・21)この場合、光であるイエス・キリストの方に来るための追い風は、「聖霊」です。聖霊は私たちをより早く、より軽やかに光であるお方のもとに導きます。

「真理を行う者は光の方に来る。」イエスが「正しい行いだ」と言ってくださる行いを、人は自分の努力や能力で実行できるものでしょうか。私はできないと思います。真理を行い、光の方に来るためには、いつも追い風が、聖霊の助けが必要なのです。

たとえば、「日曜日だ。教会に行こう。」真理を行おうとしますが、行かない理由を見つけることもできます。「今日は眠いから行かない。」真理を行い、光の方に来るために、追い風が、聖霊の助けが必要です。「朝晩の祈りを続けて唱えよう。」真理を行おうとしているのに、向かい風を受けて挫折します。「家族の時間が合わないから、朝晩の祈りをするのは難しい。」

日々感じる風は、追い風よりも向かい風が多いでしょう。家族の中で、自分はこれだけ頑張っているのに、どうして家族みんなが光の方に近づこうとしないのだろうか。どうして自分だけなのだろうか。そもそも私は後で洗礼を受け、家族は生まれつきのカトリック信者なのに、どうしてこうも後ろ向きなのだろうか。逆風と向かい風の中で、挫折してしまいそうになるかも知れません。

中田神父も責任を感じています。主任司祭でありながら、そっと背中を押してあげる聖霊の体験を届けきれていない。「それだったら私にもできる。」追い風を感じさせるような、促しがうまくできていない。そのために、真理を追い求め、光の方に来る人が増えない。多く任されている今の私は、多くの責任を問われています。

ここにいる皆さんが黙想会に参加した人でしょう。光の方に来るための「追い風」「聖霊の力」を感じる二日間となっていたら幸いです。手応えとしては、聖霊の風を背中に受けて、光の方に近づいてくれる人に出会えた実感はあります。すぐには芽を出さなくても、来年・再来年と時間を追うごとにその輪が広がってほしいと願います。

どんな人にも、背中を押して真理を行わせてくれる聖霊の力が必要です。聖霊の働きが追い風となった時、真理を行い、光の方に来ることができるからです。「春一番」のように、聖霊は私たちを軽やかに光の方に近づけてくださいます。聖霊の照らしを願いましょう。

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‥次の説教は‥‥
四旬節第5主日(ヨハネ12:20-33)
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ちょっとひとやすみ
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▼今年は3月31日が復活祭。つまり4月14日が異動日。それから逆算すると2月中に「照会」があって、3月には「本辞令」が出たのだろう。長崎教区は相変わらず書面での辞令にこだわっていたが、去年から様変わりした。
▼去年は自分が該当していたわけだが、辞令を司祭に公表するのにもインターネットが使われた。教区のホームページに発表があり、時代が変わったのを感じたのだった。大司教様が変わっても人事異動の苦労は変わらないと思うが、小手先のことではなく何かが大きく動き出しているのかなと感じている。

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今週の1枚
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第891回目。黙想会の各講話のはじめに「聖書書名数え歌」を歌って始めた。

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† 神に感謝 †
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四旬節第3主日(ヨハネ2:13-25)私たちの礼拝からも、イエス以外のものを運び出そう

2024-03-02 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2024/3/3(No.1283)
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四旬節第3主日(ヨハネ2:13-25)
私たちの礼拝からも、イエス以外のものを運び出そう
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マチアス川上忠秋神父様が亡くなりました。ここ浜脇小教区にも赴任されています。私の思い出は、現在浦上教会の主任を務めておられる山村神父様、中田神父、あと何人かでミサを一緒にささげたことがありました。今でも覚えていますが、「また復活の希望をもって『ねぶりについた』わたしたちの兄弟と」と唱えていました。たぶんずっとそうだったのではないでしょうか。

今週、想像を膨らませて考えてみました。いけにえの鳩は、あとでどうなるのでしょうか。羊と牛は、たぶん祭司をはじめ神殿で働く人々が分けて食べると思いますが、鳩は食べないかもしれません。すると鳩がたくさんいけにえに供えられても祭司は迷惑でしょう。ひょっとしたら裏で鳩は鳩売りの人々に戻されて、またその鳩を平気で礼拝に来た人に売る。鳩売りは、同じ鳩で何度も金を得ていたかもしれません。

「スカッとジャパン」という番組があるそうです。スカッとするようです。イエス様の行動も、父なる神にとってスカッとする場面だっただろうなぁと考えました。

「羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし」(2・15)鳩を売る者たちに「このような物はここから運び出せ」(2・16)と言われる。当時、ユダヤ人の礼拝は、動物を捧げること、これしかありませんでしたから、イエスの取った行動は人々に「これまでの礼拝」と「これからの礼拝」が完全に変わることを知らせたのでした。

しかしいけにえを捧げることが当時の唯一の礼拝であったのですから、動物を追い出されたら礼拝ができなくなるのではないでしょうか。ここで私たちは考える必要があります。本当に、いけにえはすべて排除されたのでしょうか。

すべての動物が排除されましたが、イエスはそこに留まっておられます。そうです。これからは、イエスが唯一最大のいけにえとなられるのです。人々の罪のゆるしのため、人類のあがないのための完全ないけにえとなられるのです。

「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」(2・19)いけにえの動物と、それをささげる従来の神殿。いくらでも壊してみよと言っているように聞こえます。従来の礼拝の仕組みをどれだけ壊そうとも、イエスがこれから完全ないけにえとなる。仮にイエスを壊そうとも、三日目に復活して、このいけにえは決して失われない。今回のエルサレム神殿での強い態度は、イエスの強い決意だったのです。

もう一度、「このような物はここから運び出せ」と仰るイエスの警告に耳を傾けましょう。イエスのことばは今、私たちにも向けられています。私たちは心の中から、さまざまなものを運び出さなければなりません。

ミサの礼拝中は、イエスだけが心の神殿にあるささげものでなければなりません。それなのに、家族や兄弟、周りの人に反感を持ったまま、礼拝に参加していないでしょうか。ミサが終わってからのことを心に抱えたままの礼拝になっていないでしょうか。

「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」ささげものを台無しにする考えや計算高い礼拝はミサには必要ありません。あなたの心を、感謝も賛美も、嘆きもすべて、唯一のいけにえである私たちの主イエス・キリストによっておささげいたしましょう。

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‥次の説教は‥‥
四旬節第4主日(ヨハネ3:14-21)
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ちょっとひとやすみ
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▼馬込教会時代に、川上神父様をお呼びして黙想指導をしていただいたことがあった。馬込教会を懐かしんでのお話がほとんどだった。余程、馬込小教区時代が懐かしかったのだろう。中田神父にも思い入れのある教会がある。自分はそこまでの年齢ではないので懐かしさはあまり感じないが、たくさん思い出を作らせていただいた。
▼川上神父様と直接の面識は無いが、「君が鳴らさなければベルはベルではない」という本を出しておられて、この本には非常に感銘を受けた。亡くなっていく司祭の名前が本部事務局から届くとき、「あの人も亡くなったか」と振り返りながら生前の記憶を振り返る年齢になってきた。どうか神様のもとで、ゆっくり休んでください。

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今週の1枚
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第890回目。寒風吹く中、食べ物を探しに出かける。自力ではなく他力本願。

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† 神に感謝 †
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