こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

四旬節第2主日(ルカ9:28b-36)人間の働きの中に神の隠れた計画を見る

2010-02-28 | Weblog
当メルマガをご購読いただき、ありがとうございます。

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/100228.mp3

http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/100228.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
10/02/28(No.462)
‥‥‥†‥‥‥‥
四旬節第2主日
(ルカ9:28b-36)
人間の働きの中に神の隠れた計画を見る
‥‥‥†‥‥‥‥

最近のケータイは、とんでもなく進化しています。ケータイに、テレビの機能が付いているのですから、時代も変わったなぁと思います。ケータイと言えば、この前ケータイを買い直したというお父さんに会いました。海でケータイを落としたそうです。そのお父さんに、「海ならまだましだよ」と言って、わたしの恥ずかしい話を打ち明けました。

以前わたしは、トイレの中にケータイを落としたことがあるのです。よっこらしょと座った時にですね、長袖シャツの胸ポケットから、スルッとケータイが滑り落ちたんです。あっと思って手を出したのですが、残念ながら中にポチャンと落ちてしまいました。お店に交換に行った時に、どこで落としたのですかと聞かれて、洗面台で落としましたと嘘を言いました。言えませんよね。

さてケータイの話の終わりに、皆さんの中にはメールを使っておられる人もいらっしゃることでしょう。もし、メールを使っておられて、5000文字まで受け取ることができるのでしたら、ぜひ中田神父の説教を毎週受け取って、文字を読みながらじっくり説教を味わっていただきたいと思います。

後ろに、メモ用紙を置いていますので、読んでみたいなぁと思う人は、ぜひケータイのアドレスを書き込んで中田神父に預けてください。メモを渡してもらえれば、来週の分から、さっそくケータイに中田神父の説教をお届けします。

皆さんの励みになるかどうか分かりませんが、あの賄いさんも、ケータイで中田神父の説教を受け取って先週から読み始めているんですよ。あの賄いさんも、といったのはいろんな意味があるのですが、ここでは割愛しましょう。

では福音の分かち合いに入りましょう。ペトロ、ヨハネ、およびヤコブが、イエスの変容の出来事に立ち会うことになりました。「イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」(9・29)とあります。目に見える形で、弟子たちはイエスの栄光に触れたのです。

実は、今日の出来事、イエスの姿が変わる出来事は、ある重い出来事にはさまれた形で置かれています。今日の朗読箇所の前後は、イエスが弟子たちに、ご自分の死と復活を予告する場面になっています。

イエスがご自分の死と復活について語る時、弟子たちが「イエスの死」について恐れを感じ、悲しみに沈むということは十分に考えられることです。それは、弟子たちが「イエスの復活」について理解し、喜びに満ちあふれることを想像するよりも易しいことです。

つまり、3人の弟子たちは悲しみを引きずったまま、イエスとともに山に登り、光り輝く姿を目撃した可能性が高いわけです。もしそうだとしたら、弟子たちがイエスの栄光ある姿にしがみつこうとするのも無理はありません。

「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」(9・33)

ペトロは、モーセとエリヤ、それにイエスをとどめておくことで、イエスが苦しみを受けて死ななければならないという悲しみから逃れることができると思ったのかも知れません。また、人々にもイエスは本来はこんなに栄光に輝くお方で、わたしたちがこの方を信じたことも間違っていないのだと知らせるまたとない機会だと思ったのでしょう。

ペトロには、この考えはとても良い考えに思えたかも知れません。けれども、父なる神は、御子イエスを通して、別の答えを示します。「ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。すると、『これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け』と言う声が雲の中から聞こえた。」(9・34-35)

この声は、何を意味しているのでしょうか。いろんなことが考えられるでしょうが、わたしは、「これに聞け」という呼び掛けが、ここでは強調されているのだと思います。

「聞け」「聞きなさい」。わたしたちが、人からこう言われた時、どんなことを考えるでしょうか。「人の話を聞け」「よく聞け」。おそらく、「聞け」と言っている中に、「聞いて理解し、従いなさい」ということが含まれているのではないでしょうか。

「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」という声がしたのですから、父なる神は、弟子たちが御子イエスに聞き従うことを求めているということになります。ペトロは、どちらかというと、自分の考えをイエスに受け入れてもらおうとしています。ペトロが、イエスに「聞け」と言っているのです。

これは取るべき態度と正反対です。弟子たちが、イエスに聞き従う必要があるのです。イエスが弟子を前にしてご自分に従うように求めた場面は2つの場面に限られます。復活後に、ペトロに「わたしに従いなさい」と言った場面と、死と復活を予告する時の「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言った場面です。

ということは、弟子たちがイエスに聞き従う道は、「十字架を背負って、イエスに従う」この道しかないのです。イエスが予告された死と復活は、避けて通ることができない。たとえ栄光に輝く姿を目の当たりにしたとしても、弟子たちは最後まで、イエスに聞き従う必要があるのです。

わたしたちも学びを得ましょう。父なる神は、御子イエスを示しながら、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と呼び掛けました。この呼び掛けは弟子たちに限らず、わたしたちにも向けられています。

「どこからどう考えても、これが筋道として正しいのではないか」「客観的に見て、わたしが要求されている選択肢は間違いで、わたしの意見のほうが正しいのではないか」わたしたちが、相手に対して「聞け」と言いたくなる場面はいくらでもあります。けれども、首をかしげたくなることの中に、実は見えない神の計画が秘められているのです。

神の見えない計画、崇高で奥深い計画が、だれが見ても納得できる人間の働きの中に示されるなら、誰でも喜んで聞き従うでしょう。聞き従わない人は誰もいません。そうでないことがあまりにも多いのが世の中です。

神の見えない計画は、たいていの場合隠れているのです。それも、なぜこんなことを求めるのだろうかという人間の活動の中に隠れています。ここに、わたしたちが「十字架を背負って、イエスに従う」理由があるわけです。

十字架を背負わないでイエスに従う道はどこにもありません。イエスが示した道の中で、聞き従う信仰生活を完成させる。そのための恵みを、ミサの中で願いましょう。

‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼気分が乗らない。「先輩。それはないでしょう」と頭が思ってしまうと、それを打ち消すのは不可能に近い。こういうのを、「人間の働きの中に神の隠れた計画を見る」と言うのだろうか。本当に言うのか?まぁ、言うのだろう。
▼「これこれの状況なので、Aさんが兼務している1と2の任務のうち、2をわたしが引き受けます」「では、Aさんにはその旨伝えましょう。」これで話がまとまったのだと思った。翌々日、電話が掛かってきて、「Aさんは、1を降りて、2を引き続きしたいと言っているよ。だから、あなたと両方で、2の務めを果たしても問題ないよね」
▼問題があるからAさんには1を残して、2はわたしに回してほしいと言っているのに、Aさんにまんまと丸め込まれて上のような電話である。相手は先輩というだけなので、「何も分かってないなぁ。こういう事情を考慮すれば、はいそうですかとおめおめ戻って来ることできないはずでしょ」と一喝してもよかったのだが、まあ先輩だから、ていねいに説明した。
▼すると、「そんな事情だったのかぁ。じゃあ、もう一度説得してみるよ。」そんな事情だったのかって、そんな事情も分からないのかいと言いたい。でもこの、さじを投げたくなるような現実の中に、きっと神の見えない計画が隠されているのだろう。結果として、Aさんは1の任務を引き受けることになるだろう。
▼それは、粘り強い交渉の結果と言えなくもないが、神が粘り強く交渉することをわたしにお望みだったのだと考えられなくもない。まぁそう考えれば、神さまの考える一手は奥が深いなぁと思う。すべてのことについて、神は奥の深い一手を打つのだと信じたい。

‥‥‥†‥‥‥
新企画今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第69回目。かわいいなぁ。気持ちだけはこんな感じでいたいです。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/100228.jpg

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
四旬節第3主日
(ルカ13:1-9)
‥‥‥†‥‥‥‥
===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

四旬節第1主日(ルカ4:1-13)聖霊の守りはわたしたちを離れない

2010-02-21 | Weblog
当メルマガをご購読いただき、ありがとうございます。

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/100221.mp3

http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/100221.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
10/02/21(No.461)
‥‥‥†‥‥‥‥
四旬節第1主日(ルカ4:1-13)聖霊の守りはわたしたちを離れない
‥‥‥†‥‥‥‥

四旬節に入りました。イエスの御受難と御死去、御復活をより深く黙想するために、この四旬節を大切に過ごしていきたいと思います。四旬節第1主日は、イエスが荒れ野で誘惑を受ける場面が朗読されます。四旬節の入り方は、毎年同じですから、意識して、覚えておくとよいと思います。今年の四旬節で、1つ覚えるとしたら、今週指摘した「四旬節第1主日は、イエスの荒れ野での誘惑が朗読される」ということです。

1つ学んだので、今年の四旬節第1主日はもうこれで説教終わってもいいかなぁと思ったりもしますが、学んだことをより確実に定着させるために、この誘惑を受ける場面で、見落としそうな点を指摘して、いっしょに考えることにしましょう。それは、朗読の始まりの部分です。「イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。」(4・1-2)

「イエスは聖霊に満ちて」とあります。誘惑を受ける四十日間、イエスは聖霊に満ちた状態にあったことが伺えます。危険な誘惑を受ける時に、危険な状態で誘惑を受ければ、人間はひとたまりもありません。イエスもまた、人として誘惑にさらされましたが、聖霊に満ちて、いわば聖霊に守られて、神への信頼を守り通したのです。

ここで荒れ野での誘惑が「四十日間」だったことも、合わせて考えておきましょう。聞いた覚えたあるかも知れません。四十という数字は、聖書の中では意味を持っている数字です。つまり、イスラエルの民がエジプトを出て、砂漠を四十年間さまよったことが、暗示されているのです。四十年、砂漠をさまよっている間、イスラエルの民は神への信頼を取り戻す試練を受けたのでした。

当時の人々にとっては、40年というのはその人の一生涯の長さに当たる時間だったことでしょう。生涯を掛けて、神への信頼を取り戻す試練を受け、その試練をくぐって、神に信頼する民に生まれ変わる。イスラエルの民は、荒れ野でその経験を積んだのでした。

わたしたち現代人の寿命は、40年をはるかに超えて、80年でもまだ足りないくらいに伸びています。それでも、象徴としての意味合いは、失われていないと思います。わたしたちは、それぞれの人生をかけて、神への信頼を取り戻す試練を受け、試練に耐え抜いた人、試練を経て清められた人だけが、神の招きにあずかるわけです。

もう一度、イエスの荒れ野での誘惑を思い出しましょう。イエスは、誘惑を受ける四十日の間、聖霊に満たされて誘惑の試練と向き合っていました。聖霊の守りが、神への信頼を保たせてくれたのでした。この形はそのまま、わたしたちの誘惑との戦いにも当てはまるのではないでしょうか。

そこで今週の糧を、イエスの荒れ野での誘惑から得たいと思います。イエスは、さまざまな誘惑を受けました。イエスが聖霊に満たされない状態で、誘惑にさらされていたとしたら、誘惑する者がイエスを圧倒する場面もあったかもしれません。けれども、聖霊に満たされて試練の四十日間を過ごしたので、イエスは誘惑をことごとくはねのけることができたのでした。

わたしたちも同じことが言えると思います。イエスが受けた四十日間の試練は、いわばわたしたちの人生のすべての時間です。この人生全体の中で、わたしたちはさまざまな試練、誘惑にあうわけです。こうした場面に、わたしたちが神への信頼を保ち続けるためには、やはり聖霊に満たされていなければ不可能なのだと思います。

もっと言うと、誘惑を強く感じ、打ちのめされそうになったなら、その時に思い出して欲しいのです。わたしたちは、危険な状態のまま、誘惑にさらされたりするのだろうか。いやむしろ、どんな誘惑の時にでも、聖霊に満たされてわたしたちは誘惑をはね返す状態に置かれているのではないか。わたしはそう思ったのです。

それでも、誘惑に負けてしまった、誘惑に飲み込まれてしまった、そう感じる時があるかも知れません。ただそれは、聖霊の守りがなかったのではなくて、聖霊に満たされていたのですが、聖霊の守りを信頼できなかったことに問題があるのだと思います。

イエスは、ご自分が体験した四十日間の誘惑を通して、わたしたちもまた聖霊に満たされてある時誘惑に投げ込まれるのだと教えようとしているのだと思います。あとは、イエスが身をもって教えようとしていることを信頼できるかどうかです。危険なままに、神が自分の命を与え、子供としてくださったわたしたちを誘惑に投げ込むだろうか。そんなはずはない。ぜひ信頼を寄せて、この生涯にわたる誘惑の多い人生を歩き抜く。そんな決意を新たにしたいと思います。

最後に、今年は洗礼を受ける準備をしている大人の方がいらっしゃいます。本人たちと相談した結果、聖木曜日の日中に洗礼式を行うことにしていますが、まだまだ先の長い人生を、イエスに信頼を寄せて生きようと決心して洗礼への準備を進めている人がいることも、合わせて心に留めておきましょう。

わたしたちは、だれもが、聖霊に満たされて人生を歩み、試練、誘惑に際しても決して神の守りは離れないのです。イエスが、そのことを身をもって証明してくださいました。わたしたちも、もう一度自分を振り返る機会にしましょう。誘惑に際して、神が自分を見捨てたのだと希望を失わないようにしましょう。

最後まで、聖霊の守りがある。わたしたちの生涯を掛けて、人々に証しすることにいたしましょう。


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼十分承知のことだと思うが、インターネットには「通信速度」によって恩恵の度合いが違ってくる。私は1992年司祭になると同時にパソコン通信を始めたと思うが、その頃のモデムは2400bpsとか、今となっては繋がっているのが奇跡というような通信速度だった。文字をやり取りすることが最大の目的で、画像をやり取りするなど、想像もできなかった。
▼それから10年ほどであっという間に速度は向上した。写真をメールに添付してやり取りできるようになったのだ。通信回線も、一般電話回線から、ISDN、ADSL、ついには光ケーブルまで普通の通信回線として利用できるようになった。とは言っても島暮らしの私には、光ケーブル回線は今でも「夢のまた夢」である。
▼現在の暮らしは、2年前にISDN回線がようやくADSL回線に切り替わり、もはや、ISDN回線の生活には戻れないと思っている。ところが、実家に帰ると、いまだにインターネット回線がISDNのままになっている。「こんなに遅くて、不便を感じないか?」と、実質の家長である次男に聞いても、「これで不都合は全くない」のだそうだ。
▼ちなみに、実家は申し込めば高速ADSL回線も届く地域である。「設備更新の費用だったら、自分も負担するから、切り替えないか」としきりに持ちかけるが、「必要ない」の一点張りである。私は里帰りするたびに、動画も観ることができず、録音説教も途切れ途切れになる環境に辛抱を強いられている。
▼弟は「何も不便を感じない」と言う。私は「不便きわまりない」と言う。そこで一歩引いて考えてみる。不便だと感じる分野は、いついかなる時にも必要な分野だろうか?録音説教、動画。考えようによっては、この分野から撤退しても、活動できるのではないだろうか。録音説教も動画も、すばらしい手段ではあるけれども、メルマガとしては、文字があればひとまずは成立するのではないだろうか。
▼高島に移動すると、携帯電話が通信を確立するくらいの速度で最小限の事を済ませている。遅いなぁと思うけれども、現状でも耐えられる。満足はしないけれども、耐えられる生活。これくらいの生活が、人間にとっては幸せなのではないだろうか。
▼こんなことを書いていて、ようやく聖パウロの言葉を思い出した。「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。」(フィリピ4・11-12)

‥‥‥†‥‥‥
新企画今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第68回目。結婚式の写真。ある7人兄弟姉妹のうち3人まで、私が挙式しました。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/100221.jpg

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
四旬節第2主日
(ルカ9:28b-36)
‥‥‥†‥‥‥‥
===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

年間第6主日(ルカ6:17,20-26)この世の価値ではかれない真実がある

2010-02-14 | Weblog
当メルマガをご購読いただき、ありがとうございます。

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/100214.mp3
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/100214.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
10/02/14(No.460)
‥‥‥†‥‥‥‥
年間第6主日
(ルカ6:17,20-26)
この世の価値ではかれない真実がある
‥‥‥†‥‥‥‥

今週の福音朗読箇所は、皆さんもよく耳にして覚えている「幸いと不幸」についての教えです。マタイ福音書も幸いについての8つの教えを、イエスが山で語ったと記録しています。今年は、ルカ福音書を中心に日曜日は回っていきますので、ルカ福音書に沿って、考えてみましょう。

まず、根本的なことですが、イエスが語る幸いは、神の国で通用する幸いのことを言います。「人にばれなければ何をしてもいい」とか、「人に迷惑が掛からなければ何をしても自由だ」とか、この世の価値に基づいた幸いは前置きされていません。この点は間違いの無いようにしたいと思います。

その上で、与えられた福音朗読に目を向けてみましょう。イエスは神の国でも通用する幸いとして、「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。」(6・20)またこれに続くことを語りました。このイエスの語る幸いは、もしかしたらこの世では通用しないかも知れないけれども、神の国では通用する。そんな理解の仕方で向き合ってみる必要があります。

「貧しい人々は、幸いである。」これはこの世の価値ではかると、まったく通用しない考え方だと思います。「人が羨むような生き方」という意味では、「貧しい人々の生活」にはまったく魅力がありません。けれども、この生き方が、神の国では魅力的な生き方につながっていく。この点をわたしたちが知った時、イエスの言う「貧しい人々は、幸いである。」この言葉の意味が分かるのです。

「貧しさ」から解放されるには、2通りの考え方があると思います。仕事を見つけ、給料をもらって、住む場所を用意し、食べたい物を食べ、したいことをする。これも、貧しさから解放される1つの方法でしょう。

ところが、この方法には欠点があります。仕事を失った途端に、貧しさから抜け出せなくなってしまうのです。給料をもらうことも、住む場所を見つけることも、食べたい物を食べ、したいことをするのも、かなわなくなります。いつ今の生活を奪われるか分からないという不安がいつもつきまといます。

貧しさから解放されるもう1つの道があります。仕事を失い、給料を失っても、わたしのよりどころは神である。その信念を決して失わないという道です。収入があるか無いかで、よりどころが変わるのは、神以外の何かを最後のよりどころにしているからです。

収入があってもなくても、神が自分のよりどころである。人間的なものをはぎ取られてしまった時にこそ、神をよりどころにしている人は幸いです。ここに、イエスが言う「貧しい人々は、幸いである。」この本来の意味があるわけです。

同じことは、他の呼び掛けにも当てはまります。「今飢えている人々は、幸いである。あなたがたは満たされる。」(6・21)もし、食べ物が最後のよりどころだったとしたら、飢えに苦しむ人々は決して幸いにはなれません。それなのに、イエスは「幸いである」と言っています。

飢えに苦しむ時も、最後のよりどころは神であるという変わらない信念が、その人を幸せにするのです。食べ物の飢えだけではありません。ある人は親の愛情を受けられずに育ち、両親への愛に飢えています。愛に飢えている子供が、両親の愛を最後まで受けられなかったらどうなるのでしょうか。両親の愛に変わるものを、必死に求めるのではないでしょうか。

神の愛ではなく、この世の何かで代わりに満たそうとするなら、ある人は満たされずに生涯苦しむかも知れません。神の愛だけが、変わらない愛の泉です。ある人々は、神の愛に気づき、満たされます。

結局、この世の価値ではかると、とても幸せにたどり着けそうにない人々のことが、イエスによって幸いであると言われています。ではなぜ幸いなのか、ほかに考えられることは、イエスが取り上げた人々は、人間による解決に頼らずに、神による解放と救いを信じて待った人々だということでしょう。

神による解放と救いを待つことのできる人々、その人々こそが「幸い」なのです。貧しくならなければ幸いになれないとか、飢えに苦しまなければ幸いになれないと言っているわけではありません。

「今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。」(6・21)重い病を得て、泣いている人々がいるかも知れません。この世の価値ではかれば、とても幸せな人々とは呼べないでしょう。けれども、病を得たことで初めて、神による解放と救いを信じて待つことも考えられます。

この世に解決を求めずに、神に解放と救いを求めることを知ったとしたら、その人は笑うことができるのではないでしょうか。決して笑うような状況にない人が、神に解放を願った時、笑うことができるようになります。

最後に、今日の福音朗読からわたしたちも糧を探しましょう。イエスは、この世の価値ではかるなら、とても幸せになれそうにない人々を、幸いだと呼びました。この世の価値ではかれない人々は、神の国の価値で解放と救いを求めるまたとないチャンスが近くまで来ているのです。それはわたしかも知れません。

あなたの生活は、すべてがこの世の価値ではかりつくされた生活でしょうか。生活の中に、この世の価値ではかれない部分を抱えている人、その人はきっと、イエスの招きを自分のものとしていくチャンスが近づいています。

この世の価値を絶対と思わず、イエスが示す価値に目を開くことができるよう、ミサの中で照らしを願い求めましょう。


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼バレンタインデーが来た。すでにチョコをちょこっともらい、かじりながらこの原稿を書いている。自慢するわけではないが、司祭になりたての頃、赴任した教会で助任司祭として勤めた5年間は、段ボールを用意しないと入りきれないほどのチョコレートをもらっていた。1年目は嬉しかったが、2年目以降は「お返しが大変だぁ」と思いながらもらっていた。
▼今は、本当に気持ちのある人しかチョコレートを渡してくれない。義理で渡している人は誰もいないと思う。そういう意味では、今もらうチョコ、今食べているチョコがいちばん有り難い。このチョコは、わたしがお返しすることなど当てにしないで、送ってくれているチョコだ。そんなチョコで、またも幸せ太りするのはこれは罪かも知れない。
▼「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない」(マタイ6・3)とある。わたしには、そういう施しをしている自覚がある。毎週日曜日、ミサの様子を録音してCDに収め、あるボランティア団体に届けている。
▼彼らが受け取って、それを渡している人が誰なのか、わたしはまったく知らない。受け取っている人も、わたしのことを見たことがない。わたしと、その人々は、会ったことがないが、ずっと会っている。見えない施しである。この島にいる人は、わたしのこの活動をだれも知らない。
▼ほかにも、幸いなことにだれにも何も知られていない働きを抱えている。ちょっと白状すると、書く仕事だ。それらはある時大きな負担になることがあるが、今続けることができているのだから、断る理由はない。知らない人が読んでくれて、たまに思いがけない場所で「○○を書いておられる神父さまですね」と声をかけられる。有り難い話だ。
▼ほとんど知られなくても構わない。世の中の人が、すべての仕事が陽の光を浴びるわけでもないのだし、自分も同じで構わない。たくさん、陽の光を浴びない仕事をして、陽の光を浴びる役回りの人に明け渡せばいいことだ。そうやって、道のない所に道を作るのも楽しいものである。
▼ただ、たまに1人では荷が重いなぁと思うことがある。単純作業なのに、協力者が得られず、自分1人で悪戦苦闘している。効率悪いなぁと思う。この点、今の分量を続けていくためには協力者が必要になってくると思う。うまいこと、協力者が見つかるといいのだが。
▼とは言っても、思った時に声をかけて手伝ってもらえるような、余裕のある人はそんなにいないだろう。島には、余裕のある人がたくさんいるが、余命はたくさんないようなので、お願いできそうにないし。これは悪い冗談だが、協力者の必要は強く感じている。

‥‥‥†‥‥‥
新企画今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第67回目。いろいろヘンなものを買い集めているなぁ。という図です。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/100214.jpg

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
四旬節第1主日
(ルカ4:1-13)
‥‥‥†‥‥‥‥
===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

年間第5主日(ルカ5:1-11)変えられないものを変えるイエスの言葉

2010-02-07 | Weblog
当メルマガをご購読いただき、ありがとうございます。

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/100207.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
10/02/07(No.459)
‥‥‥†‥‥‥‥
年間第5主日(ルカ5:1-11)変えられないものを変えるイエスの言葉
‥‥‥†‥‥‥‥

先週月曜日から水曜日、司祭の研修会に参加してきました。人権問題を考える研修会で、まず司祭は、人権に配慮した働きが求められるということをこんこんと聞かされました。簡単に言えば、信者に対して「教会法のこんな教えも知らないのか」とか「聖書も知らないくせに口を出すな」みたいな指導の仕方はいけませんという勉強会です。

また、そんなに表立って問題にはなっていませんが、司祭のセクハラとか、パワハラとか、そういうこととも無関係ではないので、自分自身をよく振り返って、懸命に行動してくださいときつく諭されました。人権侵害をしていないかをチェックする質問票で○×を記していったら、わたしはほとんどの項目で、人権侵害をしているほうに当てはまっていまして、恥ずかしいことだなぁと反省しています。

今週の福音朗読に入りましょう。イエスが漁師を弟子にする場面が読まれました。この中でシモン・ペトロが、声をかけられた漁師たちの代表として、イエスと対話しています。今回取り上げたい箇所は、「わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」(5・5)この箇所です。

まずは、ペトロの言い分をじっくり考えてみましょう。「わたしたちは、夜通し苦労しました」と言っています。自分たちの専門分野で、あらゆる知恵を絞って努力をしたわけです。これ以上ないというくらい、努力をしました。それでも、何もとれませんでした。結果を受け入れて、次に期待するのが普通の判断です。

ところがイエスは、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」(5・4)と指示します。大自然が作り出した結果をひっくり返すほどでなければ、網を降ろしても意味がないはずです。それを承知で、イエスはペトロに声をかけたのでしょう。

ペトロも、イエスの指示を受け入れます。イエスの言葉は、大自然が突きつけた結果をひっくり返すだけの力を持っているかも知れない。ペトロにはそう思えたのでしょう。こう言っています。「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」。イエスの言葉を信じて網を降ろすと、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになりました。

ここでペトロが考えたことを確認しましょう。大自然の厳しさを知っているペトロは、最善の努力をしても、魚がとれない日もあることを受け入れています。ですが、イエスが声をかけ、網を降ろすように指示した時、大自然の結果をも超える何かが体験できるのではないかと思い、イエスの言葉に従いました。

この出来事で、ペトロをはじめ、一緒にいた仲間たちはイエスに従うことにします。それも、すべてを捨ててイエスに従いました。この先、弟子たちはほうぼうの町や村に遣わされていきます。また、イエスの復活後は、死をも恐れずに福音を告げ知らせます。ペトロたちの知識や経験では、絶対に成功しない働きが、イエスの言葉を信じた彼らによって、多くの実を結んだのです。

今日、午後から26聖人の殉教記念ミサが西坂公園で行われます。26人の殉教者たちも、人間的に見れば目を背けたくなるような残酷な刑に服し、成功を収めたとはとても言えませんでした。けれども、彼らの中で働いたイエスの霊が、大きな実を結んだのです。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(ヨハネ12・24)

人間のあらゆる努力をつぎ込んでも、とても成功できるとは思えない。もし、この結果がひっくり返るとしたら、イエスの力としか考えられません。弟子たち、また命をかけて証しした殉教者たちは、このイエスの言葉の力を信じたのです。

ここまで、わたしたちが見てきたことは2つあります。人間のあらゆる努力を払っても、結果が期待できない時、そこにイエスの力がもっとも働きます。イエスは、大自然の厳しさをもひっくり返す言葉の力を持っています。また、宣教してもあまり信者が増えないのに、イエスの霊は宣教する人の中で特別に働き、「宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。」(一コリント1・21)

そこで、わたしたちも学びを得て、生活に当てはめたいと思います。ペトロが経験したように、イエスの言葉には、常識や、大自然の法則を超える大きな力が働きます。ですから、わたしたちは大胆に、「イエスの言葉だけが、常識を越える力を持っている」と信じましょう。

具体的に、考えます。「わたしについて来なさい」(マタイ4・19)とイエスは呼び掛けます。わたしはついていけませんと思う時があるかも知れません。これ以上忍耐したり、これ以上愛情をもって接してあげたりできません。そんないっぱいいっぱいの状態かも知れません。

けれども、イエスの言葉はわたしたちの常識を覆します。もう忍耐できないと思ったこと、もうこれ以上愛情を示せないと思ったことを、「わたしについて来なさい」というイエスの言葉が、乗り越えさせてくれます。

「あなたがたに平和があるように」(ヨハネ20・19)とイエスは呼び掛けます。人間がいくら努力しても平和はやって来ないように思えます。でもその中で、イエスの言葉が大きく働き、不可能と思える平和をもたらすのです。

今週、わたしたちもイエスの言葉の力に信頼して歩みましょう。目の前に、がっくり肩を落としてしまうような現実があるかも知れません。イエスの言葉だけが、そのつらい現実を乗り越える力となってくれます。乗り越える力、現実をひっくり返し、希望をもたらす力は、イエスから来る。今週の福音から吸収して、生活に活かすことにしましょう。


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼司祭研修会。先輩方は底抜けに面白い。1日目の夕食の時、ある先輩がこう言った。「世界の主要な国が集まって開く会議を知ってるか」周りの後輩司祭たちは答えた。「サミットかなぁ」「ほかには?」「うーん、G7とか」「それそれ。G7とかがあるよなー。うちの小教区の評議会はいつも『爺20(twenty)』ぞ」
▼これにはたまらず、素で笑い転げてしまった。ただ、笑わされて終わりでは後輩たちも面白くないので、ある司祭がこう切り返す。「婆、が評議会にいる時は、どうなるんですか」。これも強烈な反撃だ。すると先輩は「婆がいても爺20なの。細かいこと言うな」。研修会はセクハラ、パワハラ、人権問題の研修だったが、先輩に「いちいちうるさい」と言われ、パワーに圧倒されてその話題は終わった。「爺20(twenty)」は不適切な用語かも知れない。
▼話はこれに終わらない。「長崎こども・女性・障害者支援センター」の所長の講義を受け、「うつ病は脳内のセロトニンやノルアドレナリンが減少している状態。携帯電話が極度のバッテリー切れを起こしている状態。だから、用心して活動するのではなく、生きる最低限のこと以外何もしないで、充電することが必要です」とアドバイスしてくれた。
▼それを聞いた後の夕食。また別の先輩が、「あー、難しか講義ば聞いて、バッテリー切ればい」とこぼした。その先輩は続けてこうも言った。「バッテリー切れの時は、何もするなと言うとったよなぁ。そんなら、明日の分団会も、全体会も、休まんばやろー」。おー、そう来たか。
▼わたしたちはバッテリーが切れても、快復しない病的なバッテリー切れではない。だから、朝起きれば、ちゃんと活動に入ることができる。先輩の道理は通用しないと思うが、面白い発想だと諸先輩方にあらためて敬服したのである。ただ、うつ病になると、気分転換も良くないらしくて、本当につらいのだなぁとはっきり分かった。

‥‥‥†‥‥‥
新企画今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第66回目。26聖人殉教記念ミサを、後で掲載します。お待ちください。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
年間第6主日
(ルカ6:17,20-26)
‥‥‥†‥‥‥‥
===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする