こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第31主日(ルカ19:1-10)イエスを迎え入れたザアカイの一日は千日の恵み

2022-10-29 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2022/10/30(No.1205)
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年間第31主日(ルカ19:1-10)
イエスを迎え入れたザアカイの一日は千日の恵み
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かつてローマで司祭に叙階され、福岡教区司教として聖務をまっとうして天に旅立った松永司教様は、叙階記念カードに次の言葉をラテン語で記したそうです。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」(19・5)司教様は自分にもイエスの声がかかったことを、背が低かったザアカイになぞらえたのだと思われます。

今週の福音朗読は冒頭紹介した「徴税人ザアカイ」の物語です。イエスは物語の最後に「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」(19・10)と言っていることからも、社会で罪人扱いされ、疎外感を感じている人を常に探しておられます。そんな折、徴税人ザアカイも「イエスがどんな人か見ようとした」(19・3)のでした。ここで「見る」と翻訳されている単語は、「捜す」という意味にもなる単語だそうです。失われたものを捜して救おうとされるイエスと、興味本位ではあっても捜したザアカイとは、必ず出会うことになっていたのです。

今日、一人のおばあさんとの出会いを追悼させてください。伊王島の馬込教会で5年間賄いをしてくれた人で、「坂田さん」という人です。私が田平に赴任した頃に高齢のため福祉施設に入り、その後養護老人ホーム「聖マルコ園」に入所していましたが、28日に肺炎のため日浦病院で亡くなりました。90歳でした。

坂田さんとの出会いは、私が馬込小教区に赴任した時、司祭館でお手伝いしてくれる人が居なくて、しかたなく最初は一人で自炊生活をしていたのですが、大明寺巡回教会、高島巡回教会も掛け持ちしながらの生活がだんだん難しくなり、信徒会長の池下さんに「誰か捜して」とお願いしたのです。

その頃坂田さんは社会福祉協議会の紹介で仕事を得ていたのですが、池下さんが無理を言って司祭館賄いに引き抜いてくれました。坂田さんは働き口を探し、社会福祉協議会で見つけたばかりでしたが信徒会長の説得があって司祭館で奉仕することになります。中田神父も働く人を探していて、信徒会長から「この人は信頼できます」と紹介された人を捜し当てました。今思うと必ず出会うことになっていたのだと思います。

私は退屈しのぎに、一年365日のうち364日、坂田さんをからかうのが日課でした。ある日は食事中にテレビを見ていて、料理を出すのと洗い物で台所にいる坂田さんを呼び、「見て見て。深堀さんがテレビに映ってるよ。懐かしいねぇ!」と嘘を言います。すると真面目な坂田さんは「知ってる人ですか?」と聞いてくるので「いや、知らん。」とオチを付けられ、「なぁんだぁ」となります。

あるとき宅配の荷物が届きました。若い頃郵便局で働いていた坂田さんは中身が見たくてたまりません。何を注文したか私は分かっていましたが、いっこうに開けないので気になって気になって「何が入ってるんですか?どうして開けないんですか?」と急かすのです。そこで私が箱の上に手をかざして、「ふむふむ。なるほど。分かった。これはデジタルカメラが入っているな」と言って、「開けてごらん」と促して坂田さんが箱を開けると、当然のごとくデジカメが出てくるわけです。それをまるで透視の術でもしたかのように、目を丸くして驚いてくれました。

こうして毎日からかうものですから、次第に警戒するようになり、後期高齢者になっても日々頭を忙しく回転させ、「今のは本当だろうか、嘘じゃなかろうか」と目を皿のようにして、耳を象の耳のようにして、私が見せる物、話すことに神経を集中させるようになりました。私としては、頭の体操になって良かったのではないかと思っております。

唯一、からかわない日がありました。それは4月1日、エイプリルフールでした。この日は朝ミサのあと朝ご飯を作るときから、「神父様、今日はエイプリルフールです。絶対に騙されませんからね」と勢い込んで言うものですから、私はこの日だけは騙したりからかったりしなかったのでした。ただ、転勤の辞令をいただいた年の4月1日には、「異動することになったんだ」とどうしても言わなければならず、「神父様、嘘だと言ってください」と言われたときは辛かったです。

晩年は、一人暮らしがままならなくなり、福祉施設を経て出津の聖マルコ園にお世話になりました。施設に入れば、私のように天井まで上げてオチを付けて落とす人もいないだろうと思い、「坂田さん。今日は田平からマルコ園の下の港までボートで来たよ」と言って「えー!こんな雨風の中、ボートを漕いで来たのですか?」「うそだよ」「なぁんだぁ」実は亡くなる一週間前にも偶然見舞いに行って、そんな笑い話をしたところでしたので、亡くなったことがとても信じられませんでした。

結婚して早くにご主人に先立たれ、それでも子供さんを立派に育て、信仰心を何より大事に生きられた人でした。司祭館で奉仕した5年間、人生で最も教会に近い生活ができました。若い主任司祭との親子漫才のような日々は大変だったかも知れませんが、教会の出来事をいちばんそば近くで見守り、思う存分祈りと奉仕ができたこと、90年の人生の中で宝物の一つになったのではないでしょうか。

旧約聖書・詩編の84編11節に次のような一節があります。「あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる恵みです。」徴税人ザアカイも、ユダヤ人の端くれであれば、詩編くらいは会堂に行ったときに唱えていたでしょう。ですからこの一節は知っていたかも知れない。

ザアカイがイエスを家に迎えて過ごした一夜は、千日にもまさる恵みに感じられました。ですから、「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」(19・8)と言えたのではないでしょうか。いま坂田さんも、司祭館での日々を懐かしく思いつつ、天国で「一日が千日のような恵みの時」を過ごしているだろうと思います。

私たちにも、一日が千日に感じられるような日々があったでしょうか。もしそんな一日が一度でもあったなら、神のもとでの一日はそれ以上です。いただいた恵みに、今日あなたはどのように応えようとしていますか。お賽銭でたとえるなら10円分ですか、100円分ですか?ミサの中で思い巡らしましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第32主日(ルカ20:27-38)
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ちょっとひとやすみ
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▼今日は坂田さんのオンパレード。最後に面会した10月21日のこと。コロナ対策と称して面会人はマルコ園の外のテントに待機し、面会希望の人が園内の一室に招かれ、顔は窓越しに見て、声は電話で聞くという対応だった。まぁ、おしゃべりするだけならこれでも良かったが、握手はできない。
▼あまりの懐かしさに「あー神父様に会えてこれで思い残すことはない。死んでもいい」としきりに言うので、「死ぬ前に神父様にミサ100回分遺産分けをするって書いておくれ」と言ったら、都合の悪いことは聞き取れないらしく、「病気のせいで頭も耳も悪くなってしまってすみませ~ん」と逃げられた。

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今週の1枚
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第812回目。司祭館上の県道脇のコスモス。坂田さん、天国から見えてますか?

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年間第30主日(ルカ18:9-14)私の祈りは私の生き方

2022-10-22 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2022/10/23(No.1204)
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年間第30主日(ルカ18:9-14)
私の祈りは私の生き方
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イギリスの首相が在任45日で辞任することになりました。45日で職を辞した経験はありませんが、ある意味、勇気の要る決断だったと思います。司祭館でそれに関連して、イギリスの首相は定期的に国王に国内情勢を報告する務めがあると話していると、王位継承について話が広がりました。

「チャールズ国王の後継者はウィリアム王子だと思うけれども、どうしてウィリアム王子とヘンリー王子ではあんなに髪の毛に差があるのだろう」という話になり、私がたとえを出して説明しました。「以前、鯛ノ浦に帰って家族に会ったとき、私の弟にも会ったでしょ。私と弟の髪の毛のようなものだよ」とたとえましたら、「およー」と納得され、私はあまりにもすんなり納得したので正直腹が立ちました。

たとえ話は、内容を的確に理解するものであれば「このたとえでなければならない」という縛りはないと思います。まさに今週の福音朗読箇所のたとえがそれに当てはまるでしょう。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。」(18・10)二人の組み合わせは、ほかの組み合わせでも当然良かったわけです。深く掘り下げなければならないのは、18章9節「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々」むしろこちらのほうです。

イエスがなぜ、「うぬぼれている人」を相手になさるのか。その辺の事情がよく理解できませんでした。そこで、たまに参考にする「翻訳のズレ」の問題に当たることにしました。私がこういうときに使うのは、ギリシャ語聖書に、英語の直訳を当てて説明している本です。そこには18章9節のギリシャ語本文を次のように英訳しています。

(And) He also spoke this parable to some of those having relied on themselves, that they are righteous, and despising the rest:

まぁ皆さん英語ペラペラなので説明しなくても良いと思いますが、「うぬぼれて」という部分が”relied on themselves”という表現になっています。ここで私は納得がいきました。”rely on myself”つまり「自分により頼む人」を教え諭すために、イエスはたとえを話されたのです。

たとえ話に登場するファリサイ派の人は、完全に自分に頼った祈りを唱えています。「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」(18・11-12)

これに対し、徴税人は自分に頼ることができないと絶望しているので、完全に神により頼んで祈っています。「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」(18・13)当然、自分により頼む人の祈りよりも、神により頼む人の祈りが「義」とされるのではないでしょうか。

別に難しい話をしなくても、神はたくさんの祈りを毎日毎瞬間聞かされているわけですから、自分自身により頼む人の祈りなど右から左に抜けて気にも留めていないのかも知れません。自分自身により頼んでいるなら、神様も必要ないと言えるかも知れません。

そこで振り返って、私たちの祈りはどうでしょうか。私は、誰により頼んで祈っているのでしょうか。特に何かを背負っている人、上に立つ人や、家族を背負っている人は、自分自身に頼って祈るべきでしょうか。もっと言うと、自分自身に頼って生きるべきでしょうか。

ついこの前の話です。晩のロザリオに一緒に参加して、珍しく真面目にロザリオを唱えていましたら、ルカ福音書「七十二人を派遣する」この箇所が思い浮かんで、10章7節「その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。」という引用とその解釈が、セットで天から降ってきたのです。

まったく新しい解釈・気づきが与えられました。ありがたいなぁと思い、すぐにスマホでメモを取りました。自分自身により頼んでロザリオを唱えていたらこうはいかないでしょう。あの時に限って言えば、「私を憐れんでください」と祈っていたのだと思います。

「祈る」とは、「生きる」ことなのかも知れません。自分自身により頼んで生きていても、かつて謳歌していた若さは失われ、体力も衰え、出会った人の名前すら忘れてしまう始末です。こんな頼りない自分に頼って生きていくには、人生はあまりにも長すぎます。

むしろ、神に頼って生きるなら、長い人生の中で何を失っても恐れる必要はありません。祈りはそのことを体験する大切なひとときなのです。今からでも遅くはありません。私が、私自身により頼む祈りしかできないのなら、すべて横に置いて出直しましょう。今まで見下していたあの人この人が、ひょっとしたら神により頼んで祈る姿を、私に教えてくれるかも知れません。

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‥次の説教は‥‥
年間第31主日(ルカ19:1-10)
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ちょっとひとやすみ
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▼バイクに乗っている。ヤマハのドラッグスター250。バイクに乗るから当然ヘルメットを持っている。ヘルメットも長く使っているので、首回りを保護する部分が擦れて人工皮革の一部が剥がれ、小さなゴミとなって洋服に付着したり、部屋の中で散らかったりして迷惑がかかってきている。
▼そろそろ、ヘルメットの替え時か。広島カープの監督が、人気・実力とも申し分ない人物に交代することとなった。指導の経験が無いそうだが、コーチが監督を育ててくれるだろう。新しい監督を応援するためにも、ヘルメットを「アライ(Arai)」に買い換えよう。

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今週の1枚
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第811回目。ロザリオの月。元気な声が響く。この光景を絶やしてはいけない。

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年間第29主日(ルカ18:1-8)司式者の唱える祈りに深くあずかれるように

2022-10-15 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2022/10/16(No.1203)
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年間第29主日(ルカ18:1-8)
司式者の唱える祈りに深くあずかれるように
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いよいよ、新しいミサ式次第を使い始めるまで残り一ヶ月ちょっととなりました。司祭館に、長崎教区が発行した新しいミサの式次第が届きました。以前使っていた日曜日の「聖書と典礼」の大きさ(B6版)でした。こうなると通常の祈祷書のほうをB6版に変えてもらいたいくらいです。

皆さんはこの前始まった連続テレビ小説「舞いあがれ」ご覧になっているでしょうか。高畑淳子さんが五島の素朴なおばあちゃんを熱演していますが、その中で「およ~」と相づちを打つ場面があります。生粋の五島生まれの中田神父の理解では、「およ~」とは「そう。その通り」という相づちだと思っていますが、テレビでは「そう。その通り」に当てはまらない場面でも「およ~」と言っているので首をかしげています。

「おはようございます」「およ~」「こんにちは」「およ~」「こんばんは」「およ~」根っからの五島人でもそこまで「およ~」とは言いません。それと、主人公と仲良くしてくれている小学生も、「およ~」と言っていますが、今の時代に「およ~」と言う子供はどこを探しても居ないと思います。あのドラマは昭和の古き良き時代を反映しているようです。

さてようやく届いた「新しいミサ式次第」の中の「叙唱前句」について少し触れたいと思います。ちょうど本日の聖書と典礼七頁に取り上げられています。具体的には「主は皆さんとともに」「またあなたとともに」「心をこめて」「神を仰ぎ」「賛美と感謝をささげましょう」「それはとうとい大切な務めです」この部分になります。

この叙唱前句の目的は、解説してくださった神父様の説明を引用すると「賛美と感謝の祈りを唱える人と、参加している信者が互いに心を合わせ、信者が司式者の唱える祈りに深くあずかるようにすることです」となっています。

その中で特に、「信者が司式者の唱える祈りに深くあずかるようにすることです」この部分に中田神父は深く心を打たれました。信者が司式者の唱える祈りに深くあずかるためには、当然、司式者がそれ相応の唱え方、祈り方をしなければならない。私はそう理解しました。

信者が司式者の祈りに深くあずかれるのは、司式者の祈りが信者の心に響くときでしょう。司式者の祈りが信者にとってまさに願って欲しい祈り、神様に届けて欲しい祈りに聞こえたとき、司式者の祈りに深くあずかれるわけです。一つの答えを与えられた思いがしましたし、身の引き締まる思いがしました。

ミサの祈りの言葉ではありませんが、一人の司祭の言葉が深く心に響いた話を紹介したいと思います。初めてお仕えした川添神父様の、滑石教会にいた時代の体験です。ある日神父様が、市内の路線バスに乗ろうとバス停に向かいました。するとそこに、中学校の生徒と思われる学生がいました。金髪の部分染めを入れて、いかにも「俺に近づくな」みたいな雰囲気を漂わせていました。

また同じ曜日の同じ時間に神父様がバス停に行きました。するとあの金髪の少年とまた会いました。そこで川添神父様は親切心でこう言ったそうです。「おい。気付いているか知らんけど、髪の毛にペンキの付いとるぞ。」この少年は何と、次に会ったときは髪を元に戻していたそうです。よほど、神父様の言葉が心に刺さったのでしょう。

もし同じ場面で、「君は格好いいと思っているかも知れないが、君の髪型は格好悪いぞ」とまともに言っていたなら、その少年は態度を変えなかったかも知れません。言葉は時に、人の心に深く染みこんだり、人の心を閉ざしたりするものです。この体験を川添神父様から教えてもらったとき、日常でも心に響く言葉を届けることのできる川添神父様は、すごい人なぁと思ったのでした。

ルカ福音書の22章、過越の食事の冒頭で、イエスが珍しく個人的な感情を漏らします。「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。」(22・15)この祭壇で繰り広げられていることは、イエスが切に願っていたことです。それが司式者の祈りで信者に伝わるように、これから心がけたいと思います。

少し、今週朗読された福音にも触れておきましょう。一人のやもめが、傲慢極まりない裁判官のもとにやって来て訴えます。「相手を裁いて、わたしを守ってください」(18・3)。この女性の言葉はボディーブローのようにじわじわ効いてきます。ボクシングでボディーブローは、効き始めると地獄のような苦しみを覚えるそうです。耐えられなくなった不正な裁判官が、本来の務めを果たします。

どんなに傲慢な人でも、不正な人でも、良い部分はあるわけです。やもめの訴えは不正さ裁判官からさえも正しい振る舞いを引き出す訴えでした。不正な裁判官から良心のかけらを呼び覚ます、心に響く言葉を持っていたやもめとは、イエスのことだったのかも知れません。

司祭も、毎週の説教で言葉を絞り出しています。赴任した教会によっては教会新聞にも毎月言葉を絞り出します。その務めの中で中田神父も鍛えられ、七年のうちの何回かは、「信者が司式者の唱える祈りに深くあずかる」その助けになったかも知れません。そうした体験が一度もなかったとしたら、この七年間の中田神父の説教や「瀬戸山の風」の原稿は時間の浪費、印刷資源の無駄遣いだったかも知れません。

たとえ力不足の司祭だったとしても、イエスはこのミサの中で司祭一人ひとりを使って、昼も夜も叫び求める人の声に耳を傾け、父なる神に届けてくださるのです。皆さんが祈りの中で願い求めていることは、イエスが目の前の司祭を通して必ず父なる神に届けてくださいます。信頼して、新しいミサ式次第が使われ始める待降節第1主日以降も、心を合わせてミサに参加することにしましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第30主日(ルカ18:9-14)
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ちょっとひとやすみ
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▼後輩の司祭叙階25周年を祝ってあげることになるとは思いも寄らなかった。小神学校からずっと一緒にいたが、お祝いを受ける神父様の小神学生時代の記憶は「よく食べるなぁ」という記憶だった。
▼もしかしたら当時から、平戸地区がお米を届けていたのかも知れない。何せ校長神父様は「浜崎渡神父様」、つまり田平教会出身の神父様だったから、田平や紐差のお米が届いていた可能性は十分にある。神学校のお米が田平のお米だったのであれば、当該の神父様には「故郷の味」だったわけで、懐かしさもあってたくさん食べていたのかも知れない。

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今週の1枚
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第810回目。うまくいけば、司祭叙階25周年を迎えた神父様の様子を。

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年間第28主日(ルカ17:11-19)あなたの生活があなたを救う信仰であれ

2022-10-08 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2022/10/9(No.1202)
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年間第28主日(ルカ17:11-19)
あなたの生活があなたを救う信仰であれ
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「自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。」(17・15)イエスは確実に十人全員をいやしたのですが、サマリア人で、「外国人」扱いされている一人だけが、「ほかの九人」とは違う何かに気付いてイエスのもとに戻ってきました。ほかの九人が気付けなかったものとは何だったのでしょうか。

懐かしい思い出があります。高校の化学(かがく・ばけがく)の授業で「化学式」について先生が説明しているときでした。水(H2O)とか、そういうのを黒板に書いているときに、何かの化学式を展開しながら、「この化学式に当てはまるものが近くにある。君たちには見えるか?」と先生が尋ねるのです。

40年くらい前の話なので、実際に黒板に書かれた化学式は思い出せません。先生がこう続けました。「ヒントをあげよう。外の景色を見てごらん。」言われて生徒が皆、外の景色を眺めたとき、私はあることに気付いて景色を見るのをやめました。

すると先生がすぐに反応します。「中田、なぜ外の景色を見るのをやめたのだ?君には何かが見えたから景色を見るのをやめたのか?」そこで私はこう言いました。「先生が仰りたいのはガラスのことですね。」

ネットで調べると、ガラスの70%を占める主成分は「ケイ酸」で、「ケイ素・酸素・水素」の化合物です。そういう化学式が書かれてあったのかも知れません。化学式はまったく私の頭に入りませんでしたが、たまたま私は、先生が求めている答えを見つけ出したのでした。

いくらか、今日の奇跡物語の参考になったでしょうか。物語に登場している十人は、間違いなく「重い皮膚病」という「病(やまい)」から快復したのですが、イエスが気付いてほしいものは別にあったのです。奇跡の向こうにあるもの、人間のお世話では与えてもらえないものを与えられた。そこに気付いたのは十人のうちの一人、ユダヤ人から嫌われていたサマリア人だったのです。

イエスはこのサマリア人と同じく、「神を賛美するために戻って来た者」(17・18)に、「あなたの信仰があなたを救った」と声をかけます。私たち人間は、この世にあってさまざまなものを与えられて生きています。そのほとんどが、与えられても消えて無くなってしまうこの世限りのものです。

しかし、実は消えて無くならないものも与えられています。人間は体と魂を持っていますが、魂は神が与えたものです。ほかにも、自由意志も神が与えたものです。人間には、この世が与えることのできるものと、神しか与えることのできないものと、両方が必要なのです。

大声で神を賛美しながら戻ってきたサマリア人は、この病からの快復が、神から与えられたものであることに気付いたのです。物語の中でイエスがなさったことと言えば、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」(17・14)と言われた、それだけでした。

イエスはこの世のものは何も与えなかったのです。しかし十人全員がいやされた。彼らは二通りの反応をしたのです。九人は「喉元過ぎれば熱さ忘れる」で、いやされた原因が何かを忘れて、有頂天になって家族の元に戻り、元の生活を始めました。ところが一人は、見えるいやしの向こうにあるものに気付き、自分が今あるのはイエスのおかげであると理解し、戻って感謝したのです。

「あなたの信仰があなたを救った。」(17・19)私は違う言い方もできると思います。「あなたの生活があなたを救った。」多くの人が見えるもの、感じられるものだけに価値を置いて生きていますが、十分の一の人は、見えるものの向こうにある見えないものに価値を置いています。

金曜日に病人訪問に回っていて、稲刈りを待つ田んぼが目に留まりました。収穫する人は、きっと喜びに沸くと思いますが、その時「お米ありがとう」と感謝するのでしょうか。私だったら「神様ありがとう」と感謝するでしょう。

収穫の実りを見て、多くの人は「お米ありがとう」と言うかも知れません。しかし私たちキリスト者は、その中の一人であったサマリア人のように「神様ありがとう」と感謝したいものです。

日々の生活の中で、イエスに感謝と賛美をささげる生活を選ぶ人はごく一握りかも知れません。それでもあえて「わたしが今あるのはイエス様のおかげ」と言い切れる「十人のうちの一人」になりたいのです。なぜなら、「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」と言ってもらえたのは、あえて狭い道を選んだサマリア人だったからです。

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‥次の説教は‥‥
年間第29主日(ルカ18:1-8)
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ちょっとひとやすみ
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▼何かの的に当てるために、距離が近ければ的を直接狙うことができる。しかし距離が遠ければ、的を直接狙えばほとんど当たらなくなる。重力があるからだ。重力と言わなくても、風が邪魔したりいろんな要素が入るからだ。
▼ひょっとしたら、これまでの30年間、直接的を狙い続けてきたかも知れない。「なぜ的に当たらないのだろう」と考えることがあったが、狙い方が悪かったか。少し的の上を狙って(少し高めの目標設定にして)、本当に狙っている的に当てる考えがこれからは必要かも知れない。

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今週の1枚
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第809回目。ロザリオの月。右は愛用の品、左は植物の本物の実から作った品。

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年間第27主日(ルカ17:5-10)あなたにもいつか本物の信仰が必要になる

2022-10-01 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2022/10/2(No.1201)
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年間第27主日(ルカ17:5-10)
あなたにもいつか本物の信仰が必要になる
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三年前の説教を土台にしています。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。」(17・6)からし種にたとえられた信仰を掘り下げてみましょう。私たちにも、あっと驚く行動を起こさせる「からし種一粒ほどの信仰」があるでしょうか。私たち皆が「からし種一粒ほどの信仰」を見つけて帰ることが、今週の課題だと言えます。

古い話ですが、私の父が生きている頃、刺身を食べるのに、唐辛子の種を箸でこさぎ、醤油に落として食べていました。小学生だった私に「食べてみるか」と勧められて刺身を食べると、あまりの辛さに魚を口から出すほどでした。父がそれを見て笑っていた、そんな記憶があります。

それから何年かして父は船で指を機械に巻かれ、障害が残ったので船を降りて牛を飼い始めました。牛は藁を食べると当然フンをします。そのフンを乾かし、袋詰めにして販売していました。袋詰めは、中学生の頃から私も手伝いました。ただすべてのフンを処理したわけではなく、一部は場所を決めて捨てていたのです。

その、フンを捨てる場所のそばに、唐辛子が植えられていました。山を開墾して作った牛の放牧場のそばは畑だったので、唐辛子も植えられていたのでしょう。残り物のフンを捨てるそばにあった唐辛子は、いつの間にかピーマンのように育っていました。ある時興味半分で、私はそのピーマンの大きさの唐辛子をちぎって、食べてみたのです。

唐辛子が、ピーマンになれるはずがありません。食べたら火の出るような辛さでした。誰も見たことのない大きな唐辛子。唐辛子がピーマンのように育つことに、素直に驚いたのです。あっと驚く成長、誰も見たことのない巨大な実が、父の亡くなった今でも牛小屋のそばで見かけます。

さて福音朗読、使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」(17・5)と願いました。私たちは腕を磨いたり技術を向上させたりという経験を皆持っていますが、使徒たちが考えていた「信仰を増してもらう」ということも、何か経験の積み上げやより大きな信仰を足してもらうような感覚だったかも知れません。

しかしイエスは、真の信仰は小さなからし種に示されると言います。家庭で使う練りからしの中に、ほんの少し種が残してあるチューブがあるのを皆さんご存知でしょう。聖書のからし種もあの粒をイメージしてよいと思います。あの小さな種に、イエスの考える信仰は示されるというのです。

私たちはどうかすると、大きい力があれば大きいことが成し遂げられると思いがちです。けれども他方で、小さな力が大きな事を成し遂げることも知っています。車のタイヤをパンクさせるのはタイヤを半分に切ったからではなくて釘一本が開ける小さな穴です。仰向けになっている人の動きを制するのに大げさな道具は必要ありません。指一本でおでこを抑えるだけで、どんな大男でも押さえつけることができるのです。「からし種一粒ほどの信仰」とはそういうことでしょう。

私はたまにピーマンやパプリカを見ると、「これはひょっとしたら唐辛子なのではないか?」と思うことがあります。実際にはあり得ないことです。あり得ないことですが、私は学生時代にそのあり得ないことを見たわけです。

「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば」イエスが言われるこの「もし、あれば」と言っているのは、「あなたたちの信仰が本物であれば」とか、「あなたたちの信仰が本当に神から与えられたものであれば」そういう意味ではないでしょうか。

もし私たちの持ち合わせている信仰が本物であれば、神から与えられたものであれば、闇の中でも光を見つけ出し、絶望の中でも希望を見つけ出します。暗闇の中で光を見つけ出す信仰は、真っ暗な夜空に見える星のようにごくわずかの光です。しかしそれは、手探りで生きている人生にあっても失うことのない確かな道しるべです。

また絶望の中で見つけ出す信仰は、あらゆるものを打ち壊すショベルカーのような信仰ではありません。折れかけた水草を支え続け、今にも消えそうな灯心を消さない、微かなのだけれども確実なよりどころなのです。小さな持ち物だけれども、闇に光を見いだし、絶望の中で希望を拾う。それこそが「からし種一粒ほどの信仰」なのでしょう。

みなさんそれぞれ、信じていたものをたたき壊され、何も信じられなくなる時を味わったことがあるでしょう。この世のものが何も信じられないのは確かですが、それでも人が死の淵から生きて戻ってくるのは、神がこの世で与えてくださる「からし種一粒ほどの信仰」なのです。「信仰は二の次で、まずはこの世の生活だ」そんな思い違いから抜け出せた時、私たちは本物の信仰に出会うのだと思います。

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‥次の説教は‥‥
年間第28主日(ルカ17:11-19)
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ちょっとひとやすみ
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▼新しいものに伴い、関連グッズが出る。これは良くある話。このたびの「西九州新幹線」もまたしかり。その中に、ビールメーカーが出したものを発見。9月23日に手に入れたという人もいると思うが、私のように「別にその日でなくても」と思っている人は並んでまで手に入れようとは思わない。
▼帰省の機会があり、前日の長崎入りの夜に飲むものをスーパーで探そうと適当に店に入ったら、なんと新幹線かもめのデザインの入った缶ビールが目に留まった。限定販売と聞いていたが、意外とあちこち流通していたのかもしれない。飲んでみたが、まったく味は変わらなかった。

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今週の1枚
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第808回目。新幹線のように、あっという間においしく飲み干してしまった。

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† 神に感謝 †
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