こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

復活節第3主日(ルカ24:35-48)聖書をひもとく人は、復活の証人となる

2009-04-26 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
09/04/26(No.414)
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復活節第3主日
(ルカ24:35-48)
聖書をひもとく人は、復活の証人となる
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復活節第3主日は、長崎教区では1つの特別な意味を持つ日曜日です。毎年同じことが繰り返されているのですが、御復活の2週間後というのは、司祭の異動の日なんです。昨年もこの話に触れたと思いますが、わたしもこの復活節第3主日から馬込小教区での生活が始まりました。

もう少し異動の話をすると、今年は浦上教会、滑石教会という2つの大きな教会の主任司祭、助任司祭がすっかり変わりましたし、カトリックセンターで働く本部事務局長も交代となりました。大きな転勤だったと思います。これからどんな新しい風がわたしたちの教区に入ってくるのか、大いに期待したいと思います。

今日、福音朗読の中で私の目に留まった箇所は、最後の部分です。「そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。」(24・45-48)

この箇所を取り上げたのは、イエスがご自身の復活を弟子たちに説明するのに、(聖書に)「次のように書いてある」と仰った点が、興味を引いたからです。イエスは復活の出来事を弟子たちに悟らせるために、聖書を引用したのです。

別に気になる点などないと思われるかもしれません。けれども、復活したイエスは目の前にいるのに、出来事を悟らせるのに聖書に頼って説明しているのです。手と足を見せるとか、焼いた魚一切れを弟子たちの前で食べることで、目の前の弟子たちは十分理解できるのではないでしょうか。

この疑問を解決するには少し説明が必要だと思います。朗読された福音書はルカ福音書です。ルカ福音書の朗読に耳を傾けた人々は、ユダヤ教の教えを知らない異邦人でした。ルカ福音書の読者には、旧約聖書の予備知識は少なく、どんな小さなことでも聖書の知識から説明が必要でした。

ですから、ルカがイエスの復活を読み聞かせるとすれば、読者である異邦の民に分かるように説明をしなければなりません。そこでルカは、弟子たちに説明しているにもかかわらず、聖書の説明を土台にして復活の出来事を悟らせようとしているイエスの姿を描いたのでした。

もう少し加えるなら、イエスの最初の弟子たちと時代も場所も離れ、文化や歴史の土台も根本から違っているわたしたちにもイエスの復活を悟らせるために、ルカは聖書に書かれていることを根拠にして、出来事を解き明かすイエスを描くのです。この2000年代に生きているわたしたちのためでもあるのです。

このことから伝わってくるのは、イエスの復活は直接その時代に見た人たちだけが理解できるというものではなく、聖書を丹念に読み返すなら、聖霊に照らされて、あらゆる国、あらゆる時代の人々が理解できるものなんだよということです。イエスの復活は、わたしたちも聖書を丹念に開くなら、当時の人々と同じように悟ることができる神秘なのだということです。

この点に気づいたことは、わたしにとって大きな励ましとなりました。どこかでわたしたちは、イエスの復活を当時の人々のように大胆に証言するのはちょっと難しいのではないかとひるんでいるのだと思います。ひるんでいるだけではなく、「わたしたちはその場にいなかったのだから、当時ほど宣教が成功しなくても仕方がないよ」と思っているのではないでしょうか。

その、ちょっとしたあきらめと後ろ向きな態度に、ルカは釘を刺そうとしているのではないでしょうか。イエスの復活を今の時代に伝えるのは難しくて当然だとあなたは思っているのか。聖書に書いてあるではないか。聖書を丹念に読めば、今の時代でも十分に理解できる出来事ではないか。そんな励ましを与える朗読だなぁと思いました。

今週の福音朗読に耳を傾けた今、わたしたちには、受けた信仰をしっかりと生きて、告げ知らせる使命があることをあらためて確認したいと思います。イエスは復活の出来事を目撃した人にも、聖書を解き明かして復活の出来事を説明しました。わたしたちも、みことばの力に信頼して、勇気を持ってイエスの復活を告げ知らせる者になりたいと思います。


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ちょっとひとやすみ
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▼ブログの話。ブログ本来の使い方ではないと思うが、ブログで説教のメルマガを掲載し続けている。もちろんホームページに掲載しているのでそれでいいじゃないかといわれればそれまでだが、どこかでだれかの目に留まるといいなという期待は、やはりあちこちに掲載するのが目に留まりやすいかなと思っている。
▼これまで3つのブログを使い続けてきたが(厳密には4つだが、4つ目はあとで個人的に製本するためだけの目的で掲載しているので除外)3つのブログのうち1つは、同じ原稿を掲載しても同じように音声のリンクが張られたり、リンク先の画像が表示されたりしていないことに気づき、あれこれ試したがうまくいかず、廃止してしまった。
▼廃止して、2つに絞ればそれでも構わないのだが、欲が出てしまい、また1つ追加して掲載し始めている。いちばん早く始めたのがgooブログ(http://blog.goo.ne.jp/knkouji)。ブログにも掲載しようと考えてから、メルマガ配信の原稿を最小限の手順でブログ形式にできたので気に入った。当然、その後は「同じ原稿をそのまま貼り付けて大丈夫」という条件のブログを探すことになる。
▼そこで2番目に利用し始めたブログはjugemだったのだが、そのまま転用した時に不具合が発生するようになり、廃止した。3番目はなぜかBIGLOBE(http://54096608.at.webry.info/)ブログで、これはgooブログと同じ原稿が転用できている。廃止したブログの変わりに、新たにteacupのブログ(http://blue.ap.teacup.com/knkouji/)を利用することにした。今のところ問題ないが、どうなることやら。
▼あちこちに出没するのはいいのだが、だんだん管理とかが行き届かなくなる。かつては掲示板をあちこちに立てて、そのうちIDとパスワードが分からなくなり、管理できなくなったこともある。放っておけないものが管理不能になり、現在郵送で新しいパスワードを作成してもらっているものもある。ついでの話だが、ネット銀行のパスワードがあやふやになり、3度目に合致した時は冷や汗をかいた。
▼ホームページ、掲示板、ブログ。こんなに溢れるようになるとは。この10年、すさまじい変化を遂げたものだと思う。このスピードで変化し続けるならば、独学で知識を得るだけに終わっているわたしがついていけなくなるのも、おそらく時間の問題だろう。

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新企画今週の1枚
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第21回目。日本カトリック神学院福岡キャンパスモザイク画。26聖人。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
復活節第4主日
(ヨハネ10:11-18)
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===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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神のいつくしみの主日(ヨハネ20:19-31)週の初めの日、神のいつくしみを感じて

2009-04-19 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
09/04/19(No.413)
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神のいつくしみの主日
(ヨハネ20:19-31)
週の初めの日、神のいつくしみを感じて
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復活節第2主日は「神のいつくしみの主日」です。今年、「神のいつくしみ」をわたしたちが考え味わうために、「週の初めの日」に復活した主との出会いが繰り返されていることに注目したいと思います。

「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。」(20・19)トマスがいない間に復活の主は現れました。週の初めの日の夕方でした。

ここにはトマスがいませんでしたが、次の「週の初めの日」、トマスも一緒にいた時にイエスが再び現れました。「さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。」(20・26)この八日の後というのは、最初の出現と同じ「週の初めの日」を指しています。

イエスは「週の初めの日」をわざわざ選んで弟子たちに出現したとヨハネが書き残した狙いをまず考える必要があります。ヨハネ福音書が書き残された90年代、すでに迫害は現実のものとなり、「ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」(20・19)という様子は、使徒たちにだけ起こった過去の出来事ではなく、今いる信者たちにも同じように当てはまっていたと思われます。

そのことから想像できることは、使徒たちが恐れて家に閉じこもっている時イエスが現れて「あなたがたに平和があるように」(20・21)と呼びかけたのは、単に使徒たちにだけ当てはまるのではなく、同じように迫害に直面していたヨハネの共同体も、復活したイエスが自分たちの共同体を力強く励ましてくださると受け取ったということです。

ヨハネの共同体が形づくられた頃には、安息日の翌日、つまり週の初めの日に、イエスを信じる者たちが集まっていたはずです。自分たちも週の初めの日に集まっている。迫害を恐れて、家に鍵をかけて集まっているかも知れないけれども、置かれている状況はかつての使徒たちと同じだから、わたしたちも復活の主に「あなたがたに平和があるように」と言ってもらえるのだ。そう言い聞かせていたに違いありません。

まずここに、神のいつくしみを見て取ることができます。イエスに選ばれた使徒たちは、失意のうちに家に集まっていました。その使徒たちをイエスはいつくしみで包んで下さいます。八日後の週の初めの日には、その場にいなかったトマスも含め、復活の主が大きないつくしみを示して下さいました。

その出来事を、ヨハネ共同体は自分のこととして受け止め、期待していたのです。自分たちも恐れてはいるけれども、週の初めの日に集まっている。わたしたちの集まる八日後にも、イエスはおいでになり、「あなたがたに平和があるように」と言ってくださるのだ。そんな期待に包まれて、迫害にさらされていたヨハネ共同体は神のいつくしみに触れたのだと思います。

ヨハネ共同体の体験は、2000年後のわたしたちにも受け継がれています。生活の中で挫折を味わい、信じていたことが裏切られ、これまでにない非難や無理解の中にさらされる。さまざまな辛い体験をして週の初めの日にここに集まっていると言えるかも知れません。だれも慰めることができない。だれも問題を解決できない。そんな人間不信の中で、心の戸に鍵をかけてここに集まっていると言ってもよいでしょう。そこへ、イエスが現れて、「あなたがたに平和があるように」と声をかけ、わたしたち一人一人にご自分のいつくしみを示してくださるのです。

ヨハネ福音記者は、「週の初めの日」に重ね合わせてイエスがいつくしみを示すという形にまとめています。週の初めの日に集まって賛美をささげているわたしたちに、かつてと同じように神のいつくしみが注がれることを期待することは、決して間違っていないと思います。

一つの疑問にも答えて、今週の説教を結びたいと思います。本当にわたしたちは、神のいつくしみを期待できるのだろうか、という点です。

この疑問に答えを見つけるヒントは、弟子たちが恐れに捕らえられて家の中にいたのを思い出せば十分だと思います。弟子たちは決して勇敢だとは言えない、普通の人々でした。

イエスと生活を共にしていた時に、「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ10・28)と言われて、ユダヤ人を恐れる必要はないと聞かされていたはずなのです。それでも、弟子たちは恐れに縛られていたのです。

それでも、イエスは弟子たちの恐れを吹き飛ばすほどの圧倒的な存在感で、弟子たちを喜ぶ人に変えたのです。「弟子たちは、主を見て喜んだ。」(20・20)それはトマスも同じことでした。「決して信じない」とまで言った彼が、「わたしの主、わたしの神よ」(20・28)と言ったのです。

恐れに縛られている人を自由にするのは並大抵のことではありません。恐ろしさのあまり腰が抜けた人を非難させるとか、行動に駆り立てることがどんなに困難か、十分想像できるでしょう。恐れている使徒たちをすら、イエスは喜ぶ人に変えたのです。これが、神のいつくしみの力だと思います。

復活の主は今も、恐れ、おびえて信仰を守っているわたしたちを喜ぶ人に変えます。自分が信仰を守ることでも精一杯なのに、信仰を子に伝えるとか、ましてや知らない人々に告げ知らせるなんて、夢のまた夢だとおびえている時に、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われるのです。

さらに、手とわき腹とを見せて、「あなたが伝えるべきものはこれです」と、指し示すのです。恐れで縮み上がっているかも知れないけれど、わたしがあなたの心を解き放ちます。喜びで満たします。だから、神のいつくしみがあなたの心に伝わった頃、あなたも次の人々に神のいつくしみを伝えてください。そう言っておられるのではないでしょうか。

復活の主が週の初めの日に繰り返し現れたこと、そして手とわき腹を見せてくださったこと。この2つはわたしたちに神のいつくしみを示すまたとない機会となりました。あなたが週の初めの日に来てくれるなら、必ずいつくしみに触れることができるようにして上げます。あなたにどんな過ちや裏切りがあっても、わたしはすでにこの傷によって受け止めたのだから心配しないでいい。そう言って、わたしたちを喜びで満たしてくださるのです。

週の初めの日が、2000年前から繰り返されています。神のいつくしみもまた、その時から決して無くなっていないことを今日のこの礼拝の中で確認しましょう。神のいつくしみを心に受けて、生活の場に持ち帰り、生活そのものを神のいつくしみが現れる場としていけるように、恵みを願いましょう。


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ちょっとひとやすみ
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▼東京での会議に出席した。出発便の飛行機に乗った時間帯、天気が良く、雲もそんなに広がってなかったおかげで、興味深い景色を眺めることができた。それは、瀬戸内海と四国上空を飛行中の時だった。まるで、地図帳を広げてみているような気分だった。今であればグーグルアースを開けば、同じような景色を見ることができるだろうが、空から見た島々のシルエットは感動すら覚えた。
▼会議にはカトリック新聞のいつもの諮問委員が顔を揃えた。3月いっぱいで編集長の任務を終えた神父さまは、責任者の立場を降りてもこれからのカトリック新聞の行く末が気になっているようで、あー、基本的には真面目な人なんだなぁと再認識した。編集長時代はちょっとビックリするような発言をしたりしていたので本心を計りかねていたのだが、やはり真剣に新聞の未来を考えている人だったようである。
▼会議が終わってから、前編集長の慰労会を行った。会場に行く途中、クレーンが道路に倒れてきた現場を通り、やはり怖いなぁと実感できた。取材陣も相変わらず現場に張り付いていた。慰労会では主役そっちのけでビールを飲み、宿泊先の日本カトリック会館に戻った時にはどうやって眠ったのか知らないくらいの状態だった。朝、目が覚めると、馬込教会司祭館のベッドから起きたつもりになっていて、同じ洗面台に向かおうとしたり、ミサに出ようとしたりしていたのがおもしろかった。
▼早めに宿泊先を出て、横浜在住の人に会いに出かけた。本来であればまだ病院に入院しているはずだったが、ずいぶん早く退院を許され、鎌倉、湘南と案内してもらった。土地勘がないので間違っていたら申し訳ないが、面会した人が籍を置いている教会、利用している最寄りの駅、住まいがどれも近かったのには驚いた。便利そうだ。その後観想修道会のチャペルを訪問し、クッキーをプレゼントにもらった。湘南では生シラスをご馳走になったり、案内してくれた人がここで洗礼を受けたのだというとある施設内の聖堂にもおじゃまして祈りをささげてきた。
▼食事は横浜中華街。酢豚がおいしい店を案内してもらった。あの店は写真に収めたので次は自分で訪ねていけると思う。また、店には入らなかったが、サソリが入った焼きそばを出している店が目に留まり、焼きそばのポスターを写真に収めてきた。姿のまま入っていた。だれか食べる人がいるの?
▼この日は別に、空港でも待ち合わせをしている人がいて、あまり時間が取れなかったがコーヒーをいただきながら楽しいひとときを過ごすことができた。東京には足跡も残っていないわけだが、会って楽しく過ごせる人たちがいる。生活できるか?と聞かれたら首をひねるが、活気に溢れた魅力的な都市であることは間違いない。来週はネットで利用しているブログの話。

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新企画今週の1枚
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第20回目。サソリはやめておきます。横浜中華街に行って写した関帝廟です。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
復活節第3主日
(ルカ24:35-48)
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復活の主日(ヨハネ20:1-9)墓に行った人が先に、復活のサインに気づいた

2009-04-12 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
09/04/12(No.412)
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復活の主日
(ヨハネ20:1-9)
墓に行った人が先に、復活のサインに気づいた
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昨晩の復活徹夜祭で喜びを分かち合い、今日もわたしたちはあらためて復活の喜びに沸いています。大明寺教会では今年小学校に入ったばかりのお子さんが、このミサで初聖体をいただきます。イエスさまをいただく喜びも合わせて、朗読された福音からの学びを得ることにしましょう。

今年の学びとして、登場人物が復活の出来事に触れる共通のきっかけがないかを考えてみました。マグダラのマリア、シモン・ペトロ、イエスが愛しておられたもう1人の弟子、この3人が、イエスの復活に触れた共通のきっかけがあるのではないでしょうか。

わたしはそれは、空の墓に足を運んだことだと思います。「マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。」(20・1)「もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。」(20・4-5)「続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。」(20・6)それぞれ、空の墓に足を運び、違いはありますが、何かを見たわけです。

この、空の墓に足を運ぶという行動が、登場人物をイエスの復活に導いていったのだと考えました。もう少し言うと、「行動を起こすこと」そこに、復活したイエスと出会う鍵があるのではないかということです。

マグダラのマリアは、墓に納められているはずのイエスを探しに墓に行きました。マグダラのマリアは、イエスがお亡くなりになった後、遺体を埋葬するための手伝いをして、埋葬された真新しい墓の場所も記憶していたのかも知れません。最後まで手伝った彼女が、最初に行動を起こしたと考えても不思議ではありません。

次に、マグダラのマリアの報告を聞いたシモン・ペトロとイエスの愛しておられたもう1人の弟子が行動を起こします。ペトロには、3度イエスを知らないと言った負い目があったはずです。

お亡くなりになった後はどうなったのか、気が気でなかったことでしょう。それでも、まだ出かけていく勇気はなかった。そこへ、マグダラのマリアの報告があって、ようやく重い腰を上げたのです。これでやっと申し訳が立つといった気持ちだったでしょうか。

イエスが愛しておられたもう1人の弟子は、おそらくヨハネだと思われます。そしてヨハネは、イエスの十字架上での最後の場面に立ち会っています。「見なさい。あなたの母です。」(19・27)と呼びかけられています。ヨハネがマグダラのマリアと一緒に最初に墓に行ってもよさそうなものですが、何か思う所があったのでしょう。

それでも第一報を受けてからは、一目散に墓へ駆けていきました。彼は墓の場所を記憶していたはずですから、ペトロより足が速くてたどり着いたというだけではなかったのかも知れません。

いずれにしても、3人は行動を起こしました。行動した時、イエスの復活のサインに気づいたのです。まだ復活したイエスを目撃していませんが、「これはつまり、復活なさったのだ」と理解したのです。次のようにあります。「それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。」(20・8)

行動を起こした人々に、イエスの復活が先に知らされる。これは意味深いと思います。このことについてもう1つ例をあげることができるでしょう。イエスが亡くなられた後、弟子たちはユダヤ人を恐れて家の中に閉じこもっていましたが、別の2人の弟子がエルサレムからエマオに向かっている途中、復活したイエスに出会いました。

彼らはおそらく、師匠であるイエスを失って、エルサレムに留まっている理由が無くなったと思ってエマオに移動していたのだと思います。行動としてはマイナスの行動ですが、行動を起こした弟子にまず現れ、後に家で鍵をかけて閉じこもっていた弟子たちにも現れたのでした。イエスに選ばれた使徒たちに、最初に現れてもよかったはずですが、何らかの行動を起こした別の弟子に、最初に現れたのです。

ここまで来ると、わたしたちが考えるべきことは明らかです。行動を起こすことで、わたしたちも復活したイエスに出会う可能性があるのです。特別なことは必要ありません。身近に起こっていることの中で、行動を起こすのです。

立派な行動を1つ紹介しましょう。今日初聖体を受けるお子さんは、少し前から自分1人で席に座るようになりました。いつもおうちの人とくっついて座っていましたが、初聖体を受ける立派な準備として、ミサの時間自分1人でもいられるよというのを示してくれました。また、ミサ中の司祭の招きにも、声を出して答えることができるようになってきました。行動を起こしてくれたのです。行動する人には、イエスさまはだれよりも先に出会ってくださるのです。

また、今日馬込教会では役員改選のための投票用紙を提出することになっています。強制的にかき集めたりしませんが、自発的に投票箱に入れて、これはと思う人を選びます。今回の投票は、立派な行動だと思います。行動を起こす時、わたしたち1人1人に、わたしたちの教会に、復活したイエスがおいで下さるのです。

ちょっと、行動を起こしてみましょう。初めからダメだ、できないと閉じこもるのではなく、とにかく何か、始めてみましょう。そこへ、復活したイエスがおいで下さり、必要な助け、照らしを与えて下さいます。わたしたちができる人である必要はありません。復活したイエスが、これから行動を起こす人を導いて下さいます。


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ちょっとひとやすみ
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▼主の復活おめでとうございます。不可能と思われることが実現する時は、何かしら不可能を可能にする力が働くものです。力が働くと言ったほうがよいのか、力を与えてくれるきっかけがあると言ったほうがよいのか、人それぞれですが、何かが働いて、不可能と思われることが可能になるのでしょう。
▼この1週間、積極的に先へ先へと説教案を準備し、(この原稿を書いている時点で水曜日の午前中ですが)1つのパンフレットとして仕上げようという段階まで来ました。通常通りの日々の中で、何かに動かされるかのごとく書きまくりました。今年の聖週間は記憶に残ることでしょう。
▼少し、長崎教区は新しい動きが始まるかも知れません。教区の人事異動が公にされて、浦上教会、滑石教会と、大きな教会の主任、助任ともに異動となりました。だれも居残りはいません。また、司教総代理、本部事務局長、事務局次長(というのかな)も異動となりました。軸となる部分の人事を入れ替えたわけですから、何かが動き始めるだろうと予想できるわけです。大司教さまも、やるときはやるなぁ(という意思表示だったのかな)。
▼だれでも人事異動があれば、顔ぶれを見渡すものです。どんな教区を目指そうとしているのかなぁ、どこに、教区を向けようとしているのかなぁ。わたしたちの知り得ない思いもあるのでしょうが、再出発となることは間違いありません。日本カトリック神学院のスタートも含め、日本の教会のために、日本のために、神さまが新しい人と体制を祝福してくださることを願います。
▼復活祭に、洗礼を受けた皆さん。本当におめでとうございます。直接会うことのできない方がほとんどでしょうが、これからの歩みに大きな祝福の一歩が記されたことを長崎の遠い場所からお祝いさせてください。合わせて、神の家族、神の子とされた方々のために、ささやかですがお祈りさせていただきます。

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新企画今週の1枚
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第19回目。チャンスがあったら、手に入ったイースターエッグをアップします。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
神のいつくしみの主日
(ヨハネ20:19-31)
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復活徹夜祭(マルコ16:1-7)復活した主は、先にガリラヤで待っておられる

2009-04-11 | Weblog
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こうじ神父
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09/04/11(No.411)
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復活徹夜祭
(マルコ16:1-7)
復活した主は、先にガリラヤで待っておられる
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主の復活、おめでとうございます。今年の福音朗読の中で、最後の箇所を取り上げて喜びの知らせとしたいと思います。「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」(16・7)

主の使いである白い長い衣を着た若者は、はっきり2つのことを知らせてくれました。1つは「あの方は復活なさって、ここにはおられない」(16・6)ということ、もう1つは、「先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる」(16・7)ということです。

「復活して、ここにはおられない」と言います。復活とは、墓に決して縛られない状態を意味していると思われます。墓の中に入った時に、「ここにはおられない」と言われたからです。わたしたちの知識では計り知れないことが起こっているわけです。

わたしたちは、身近な人を失った時、時期を見て納骨します。お骨は、決して墓から無くなったりしません。場所に縛られているのです。自分でその場を離れることはないのです。そこからすると、イエスは墓の縛りから全く自由になっておられるということが分かります。復活とは、埋葬された場所を出て、墓の縛りから自由になった状態なのです。

神の使いの最初の言葉は、別の問題にも答えてくれます。その1つは、だれかが墓から、イエスの遺体を持ち去った、という考えを反駁します。もしだれかが、イエスの遺体を持ち去り、「あの方はここにはおられない」と言ったとしても、その遺体は別のどこかにあるはずです。そのような言い逃れでは、別の場所で相変わらずイエスは縛られていることになります。

もう1つの問題は、イエスは心の中で生き生きとよみがえったのだという考え方に反論します。心の中でよみがえったのだというなら、わたしの父も、今私の心の中で生き生きとその姿を思い出すことができます。

けれどもそのような言い方では、今どんな姿でいるのかに答えることはできません。わたしの心の中の父は、今日の父の姿ではないからです。イエスは、思い出としてよみがえったのではなく、今日も、明日も生きておられるのです。

さてそこで、主の使いのもう1つのメッセージが鍵になります。「先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる」ということです。なぜガリラヤで会うことを復活したイエスは望んでおられるのでしょうか。

そこで、主の使いが言っているガリラヤとはいったいどんな意味があるのかを思い出したいのです。ガリラヤとはまず、大きな地域全体を言う言葉です。大明寺とか船津とか馬込とかの限られた土地を指すのではなく、言ってみれば伊王島全体をさすのです。

次に、ガリラヤの中にはいくつか出来事が思い出される土地があります。ガリラヤの町ナザレは、マリアが救い主誕生のお告げを受けた場所です。御子イエスがユダヤのベツレヘムで生まれてから、生活の場所にしたのもナザレでした。

別の出来事では、ガリラヤのカナで婚礼があって、水をぶどう酒に変える奇跡を行いました。あるいは、ガリラヤのカファルナウムに王の役人がいて、その息子が病気であったのをいやしてくださいました。ほかにも、「ガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。」(マタイ4・23)という出来事もありました。

何と言っても、ガリラヤ湖では漁師を弟子にして、最初の弟子を選んだ場所としてガリラヤは記憶されています。このように、イエスがおもに宣教活動をした場所、それがガリラヤという言葉で表される意味なのです。

そう考えると、復活したイエスが「ガリラヤに先に行く」のは、弟子たちをこれからの宣教に駆り出す大きな力になります。もちろん本格的な宣教は聖霊降臨の後でしょうが、ガリラヤに行けば、今日も明日も、生きてイエスに会える。出発点であるガリラヤに行けば、生きてイエスに会える。それが主の使いの言いたかったことではないでしょうか。

主の使いに促されて、弟子たちはガリラヤに向かったことでしょう。弟子たちが食事をしている時に、イエスは現れています(マルコ16・14)。これまでと同じように、今の弟子たちに声をかけ、これからすべきことについて指示を与えています。これは、復活して今生きておられるのでなければできないわざです。たしかに、イエスは復活して、今おられるのです。

弟子たちは、今生きておられるイエスと出会いました。わたしたちはどうでしょうか。わたしたちは、見える姿ではイエスと出会わないかも知れません。けれども、イエスが今のわたしに声をかけ、これから必要なことに指示を与えてくれるとしたらどうでしょうか。それこそ、イエスは復活して、今生きているという証しではないでしょうか。

今年、聖パウロ年を実りあるものにするために、わたしは「聖パウロの手紙を学ぶ会」を企画しました。これは、わたしの思い付きとばかりは言えないと思います。イエスがわたしたちに今足りないものを指摘して、これからどうすればよいかを指示してくださったのです。

わたしの思い付きで、ここまでの成功は得られなかったはずです。つまり、復活したイエスは、今生きて、わたしたちに話し掛けておられるのです。これからどうすればよいかについても、指示を与えてくれるのです。

一人一人、自分の生活を振り返ってみてください。わたしに、今足りないものを指摘してくれる声が聞こえてはいないでしょうか。そして、どうしなければならないかまで、わたしたちには見えているのではないでしょうか。それこそ、復活して今生きておられるイエスが、あなたの前にいて進むべき道を示しておられるのだと思います。

わたしたちにとっても、ガリラヤと言える場所があるかも知れません。イエスと出会い、イエスに導かれ、イエスと親しく過ごした場所です。その場所を思い出しましょう。そこに足を向けるなら、今もわたしたちはイエスに生きて会えるのではないでしょうか。

「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる。」復活した主は、先回りしてわたしたちを待っておられます。生きておられる主の声を聞くことができるように、「イエスさま、わたしの心をあなたに向けさせてください」と祈ることにいたしましょう。


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ちょっとひとやすみ
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▼何かに取り憑かれたかのように説教を準備している。取り憑かれているからましな説教が書けるというわけではないが、今年に限っては恐ろしく速いペースで書いている。わたしを突き動かしている事情が2つある。1つは、巡回教会への配慮。
▼巡回教会はどうしても聖週間の典礼の恩恵を十分に受けることができない。以前いた小教区では、無理して聖金曜日は巡回教会でおこなっていた。ところが、その小教区での最後の年になると巡回教会で聖金曜日の典礼をしてもあまり集まらないと、不満が出たりした。
▼こちらの小教区では、初めから聖木曜日・聖金曜日は本教会である馬込教会となっている。聖金曜日に大明寺教会には行かないし、ましてや高島教会には復活徹夜祭すら行くことができない。不公平を被っている。高島教会の信者が何人か復活徹夜祭に伊王島に来ているのを見た時、わたしの胸はつぶれる思いだった。
▼そこで今年は決心した。復活の主日のミサに行く時、2つある巡回教会に聖木曜日からの説教をあわせて届けたい。もっと言えば、今年以降はそうしたい。そんな思いから、早く書き上げて冊子にまとめようとしているのである。
▼もう1つは、プレゼント用だ。日本全国、聖週間の典礼に通して参加できる人ばかりではないと思う。参加してほしいのは山々だが、日本は忙しい国なので、しかも責任ある人はおいそれと休むわけにはいかない。そんな人に、手っ取り早く活用してもらうために、早めに制作しようと思っているのである。
▼こんなことして、どれだけのメリットがあるの?と思われるかも知れない。無駄かも知れない。でも、無駄でもよいではないか。少々の無駄がなければ、わたしは当たりを引くことはできないと信じている。当たりくじを引くのに、当たりを1枚だけ引くことは不可能に近い。だから、無駄かも知れないけど、だれか得する人がいるなら、それでいいと思ってる。

‥‥‥†‥‥‥
新企画今週の1枚
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第18回目。こうじ神父にとってのガリラヤは、ここかも知れません。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
復活の主日
(ヨハネ20:1-9)
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聖金曜日(ヨハネ18:1-19:42)すべてを奪われたイエスによって人は救われた

2009-04-10 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
09/04/10(No.410)
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聖金曜日
(ヨハネ18:1-19:42)
すべてを奪われたイエスによって人は救われた
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本日聖金曜日の説教は、儀式書の規定にも「受難の朗読後、必要に応じて簡単な説教を行う」とあります。手短に述べたいと思います。

聖金曜日の儀式の始まりは、赤い祭服を着用した司祭が祭壇に一礼して床に伏すところから始まります。わたしは同じ動作を司祭叙階式の時に行いました。わたしはこの床に伏す動作の間に、ごく自然な流れで司祭叙階の時のことを思い出すわけです。

司祭叙階の時、わたしは床に伏して何を考えていたかと思い返してみると、何を考えていたかよりも、たしかに床に伏したこと、はっきり神さまの前にひれ伏したことのほうが印象深くなっています。人間が、大勢の目撃者の前で、床にひれ伏したこと、だれをもはばからず、人間がひれ伏す相手がここにおられるということを証ししたことが、意味深いことなのかも知れません。

このようなことを、今年の聖金曜日の始まりに考えて典礼に入りました。イエスは、十字架にはりつけにされ、ある意味ですべての人の前ですべてを奪い取られて無となりました。全人類よりも重い存在である神の独り子が、無にされたことを、わたしたちは見過ごしてはいけないと思います。

なぜ、全人類よりも重い存在である方が無となられたのか。それは、全人類を救うために他なりません。すべての人よりも低くへりくだったので、御父は御子のゆえに人類を救ってくださったのです。

わたしたちは昨日の聖木曜日の典礼の中で、イエスが身をかがめたことですばらしい模範を示し、神のわざが実を結んだことを学びました。今日も、イエスはこれ以上ないへりくだりを示しました。このへりくだった姿に、神のわざが実を結んだのです。

わたしたちの目には、すべてを奪われた、みじめな姿しか映っていないかも知れません。けれどもイエスは、このようにしてだれにも真似のできない忍耐を示し、最後まで柔和謙遜な生涯を全うしたのです。ここに、神のわざが実を結びます。

わたしたちは、イエスが命をかけて見せてくださった模範を受け取る必要があります。すべてを奪われたイエスに、全人類の救いという神の偉大なわざが実を結びました。わたしたちも、失うものは何もないというほどにへりくだった時に、わたしの上に神のわざが実を結ぶのです。

すべてを失ったイエスと自分を比べて、わたしはまだ何かを捨てきれずにいるのではないでしょうか。何かにしがみついているのではないでしょうか。イエスの他に、失うことを恐れるものはないのだと心に決める時、わたしは神の立派な器になると思います。イエスの歩みを、今日写し取って帰ることにしましょう。


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ちょっとひとやすみ
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▼だんだんカリカリしてくる。一週間で木・金・土・日の説教を書く必要があるのだから、だんだん切迫してくるのも分からなくもない。ただいらだちを隠さないものだからぶつける物や相手があれば所構わずぶつけてしまう。うーん、反省しきり。
▼カリカリしているが、頭の中ではずっとゴールした後の爽快感を思い描いている。復活祭を終え、一息ついてまた教区報の割り付けを完成させれば、諮問委員会という仕事ではあるが飛行機で遠出ができる。決して東京に行きたいわけではない。沖縄でも奄美大島でもいいのだが、飛行機でひとっ飛びした場所に気分転換に行けるのだ。
▼これからは頭の切り替えが肝心。たとえ途中でどんな用件が舞い込んできても、「きっと復活徹夜祭の説教のアイディアに貢献する何かを神さまが与えてくれるために、間に挟んでくれた用件なのだ」と思うこと。決して「ちぇっ!この忙しい時に。いったい何考えてるんだろう」なーんて言わないの。
▼賄いさん体調不良。体型は無印良品だけど。点滴を打って2時間安静。本人は快復したと言っているが、わたしは信じない。もしかしたらわたしがストレスを加えているかも知れない。おー、これは大変。それにしても、昨日日曜日に体の変調を来したと言っているが、昨日はたぶん10分も会話していない。
▼午前中はミサをたてつづけにささげてすれ違いだし、午後は年忌の行事が入って話してないし、夕方はお休みを出して司祭館には自分で用事があって来ただけでわたしは用事がない限り何かを言いつけたりはしない。いったい何が原因で、昨日体調に異変を来したのだろうか。もしやこれまでの積み重ね?おー怖い。
▼今年の復活祭、直接には洗礼の喜びを小教区で迎えないけれども、わたしと関わりのある人が他県で洗礼を受ける。1年以上、メルマガを読み続けてくれているし、その人とは1月に馬込教会で直接会っている。わたしが案内したのではないが、ぜひ喜びを分かち合いたい。応援しているよ~。お祈りしているよ~。

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新企画今週の1枚
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第17回目。聖金曜日の十字架の道行き。予定なので、どんな写真か分かりません

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
復活徹夜祭
(マルコ16:1-7)
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聖木曜日(ヨハネ13:1-15)謙遜なイエスの上に神のわざが実を結ぶ

2009-04-09 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
09/04/09(No.409)
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聖木曜日
(ヨハネ13:1-15)
謙遜なイエスの上に神のわざが実を結ぶ
‥‥‥†‥‥‥‥

聖木曜日、主の晩さんを記念する日を迎えました。イエスさまが最後の晩さんの席で、御自分の体と血を、パンとぶどう酒の形のもとにわたしたちに与えてくださる聖体の秘跡が制定された夜です。

また、この聖体の秘跡は、「わたしの記念としてこのように行いなさい。」(ルカ22・19)と仰って弟子たちに引き継ぐことを命じてもいますから、必然的に司祭職の制定の日でもあります。この大きな恵みの夜に、学びの糧を得ることにいたしましょう。

今年、聖木曜日の典礼の中で考えたいことは、イエスが最後の晩さんの途中で、席を立ち、弟子たちの足を洗ってくださったことです。このイエスの振る舞いが示すいちばん目立った特徴は、「謙遜さ」だと思います。イエスの謙遜さが、弟子たちの足を洗う場面を成り立たせています。

足を洗うためにかがむ様子から、わたしは一つの学びを得ました。神さまのわざは、謙遜さを表す出来事の中に実を結ぶのかも知れない、ということです。その何よりの例は、イエスの御誕生の場面です。

神の独り子は、ほとんどだれにも知られることなく、家畜小屋で母マリアからお生まれになりました。この世の権力者の跡継ぎが生まれたのであれば、この世の人々は大騒ぎするのかも知れませんが、イエスは人知れずお生まれになりました。

イエスの誕生はすべてを知り尽くすことはできないような神秘だと思いますが、わたしたちが知りうる範囲の様子からすると、謙遜さが実を結んだ出来事でした。貧しさを受け入れ、この世の名声から遠く離れた場所でお生まれになった。それは、謙遜さの中に神のわざが実を結ぶという最高の例だと思います。

弟子たちの足を洗う今日の場面も、同じように謙遜な態度の中に神のわざが実を結んでいる好例ではないでしょうか。イエスが身をかがめなければ、今日の出来事は起こりえませんでした。ペトロは、「わたしの足など、決して洗わないでください」(ヨハネ13・8)と言ったのです。弟子の足もとに、師であるイエスが身をかがめることは、考えられないことだったからです。

ところが、この場面は弟子たちに多くのことを教えるすばらしい出来事となりました。つまり、謙遜さが現れている場面に、神のわざはみごとに実を結ぶということを弟子たちは学んだのではないでしょうか。

のちにペトロを含む多くの弟子たちは、殉教を遂げたり、立派に生涯を全うしていきます。殉教者たちは、いのちをもって謙遜さに神のわざが実を結ぶのだということを証ししていきました。イエスが身をかがめる姿、また弟子たちが殉教していった姿は、わたしたちに謙遜の大切さを教えてくれているのではないでしょうか。

そこで、わたしたちの生活の中で、謙遜さの中に神のわざが実を結ぶということをどうやったら体験できるのか、考えてみることにしましょう。2つの点で体験を積むチャンスがあると思います。

1つは、一人一人の具体的な生活の中での体験です。わたしたちは、ほかの人よりも多くゆるしてあげなければならない時があったり、ほかの人よりも多く与えなければならなかったり、あるいは忍耐しなければならなかったりすることがあります。どうしてわたしだけこんな思いをしなければならないのだろう、正直そう思うことがあるでしょう。

そんな一人一人にやってくる身近な体験は、神さまのわざが実を結ぶまたとない機会だと思います。ゆるし、与え、忍耐する時、いつも共にいてくださっているイエス・キリストも、ゆるすための愛を、与えるための力さを、忍耐するための寛大さを、あなたに注いでくださっているのではないでしょうか。

イエス・キリストがわたしたちに必要なものを注いでくださっているからこそ、今日までこれらのことができたのであるし、これからも可能なのだと思うのです。もし、イエス・キリストが共にいて、必要な恵みを注いでくださっていること、だから今のわたしがあると思えるなら、あなたの謙遜さの中に神のわざが大きな実を結んでいるのです。

もう1つは、秘跡に近づく中で、神のわざを体験できるのではないでしょうか。わたしたちは洗礼を受けて神の子、神の家族に加えられました。洗礼のために準備の勉強などをして洗礼を受けた人は特にそうですが、洗礼を受けたあの日、特別に謙虚な気持ちで迎えたのではないでしょうか。

また堅信の秘跡や婚姻の秘跡、あるいは中田神父は叙階の秘跡を受けたあの日、長い準備を振り返りつつ、謙虚な気持ちで恵みに浴したことを思い出します。つまり秘跡を受ける時、すべての人は自分の謙虚な態度の上に、神の偉大なわざが実を結んできたのです。

秘跡を受ける瞬間は、わたしたちの謙虚な態度の上に神のわざが現れる確実な場なのです。あの、身をかがめる中で表れた神の不思議なわざ、すべての人を謙虚な気持ちに造りかえる偉大な力を、わたしたちはイエスが弟子の足を洗う場面で見いだすことができます。

その同じ神の不思議なわざは、謙遜さを失わないならば、2000年を経た今、わたしたちの日常生活にも、秘跡にあずかる中でも、繰り返し確かめることができるのです。

謙遜さに、神のわざが実を結ぶ様子を、今日の洗足式を通して確かめましょう。どんな人にも、どれほどの罪人に対しても、神の偉大なわざが今も実を結ぶのだということを、全員確かめることができるよう、恵みを願いましょう。


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
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▼聖木曜日、忘れられない出来事がある。司祭になったその年、1992年の聖木曜日のことだ。この日の典礼の中で、聖体が中央祭壇から小聖堂の脇祭壇に移され、その祭壇を背にわたしは聖体についての説教をしていた。聖体礼拝での一幕である。
▼聖木曜日から復活の主日までの重要な説教を、当時浦上教会にいた4人の司祭で割り振りして、わたしは聖木曜日の聖体礼拝の部分での説教をすることが決まったのだった。聖体礼拝での説教をすることが決まったその場で、主任司祭はわたしにこんなことを告げた。
▼「君は新司祭だ。新司祭の説教はフレッシュだし、みんな聞きたがっているはずだから、最低でも20分は説教しなさい。」わたしはその言葉を真に受け、四苦八苦して聖体に関する説教を作り、1時間かかった聖木曜日の典礼のあとで、聖体礼拝の部で20分の説教をしたのだった。
▼さて司祭館に戻り、「聖木曜日の典礼お疲れさま」と、みなでコーヒーでも飲んでいると、主任司祭が血相を変えて入ってきて、「だれが20分も説教しろと言ったか。おかげで典礼が1時間半もかかってしまったじゃないか。」カミナリが落ちた。主任司祭は本当に怒った様子で、プイと食堂を出て行った。
▼「・・・。」言葉を失って下を向いていると、先輩の助任司祭がこう言った。「典礼の割り振りのあとで、主任司祭に何か言われたか?」「新司祭の説教はみんな聞きたがるから、最低でも20分は説教するようにって」「お前、本気でそう思ったの?冗談だと思うよー」「えー?冗談だったんですか・・・そんなぁ。」
▼あとで思えば、冗談だったのかも知れないというフシはある。着任して一週間も経たない頃、「むむ・・・このおかずは痛んでる。新司祭は食べないほうがいい」そう言うのでおとなしく食べないでいたら、めったに手に入らない珍味だったりしてあとで悔しい思いをしたのだった。それでも、典礼の最中にわたしの説教を遮ったりしなかった主任司祭は、やはり忍耐と謙遜の限りを尽くしてその場にいてくれたということなのだろう。おかげで、わたしは一世一代の説教を披露でき、神のわざが実を結んだのである。

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新企画今週の1枚
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第16回目。女の子の赤ちゃんの洗礼式をしました。母親は浦上時代高校生でした

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
聖金曜日
(ヨハネ18:1-19:42)
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受難の主日(マルコ15:1-39)主がお入り用なのです

2009-04-05 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
09/04/05(No.408)
‥‥‥†‥‥‥‥
受難の主日
(マルコ15:1-39)
主がお入り用なのです
‥‥‥†‥‥‥‥

今日、聖なる一週間が始まる日曜日を迎えました。ミサ全体を通して、イエスが子ろばに乗ってエルサレムに入り、十字架にはりつけにされてお亡くなりになる、その一連の流れが表現されました。

ミサの始めに、枝の行列を行いました。イエスはエルサレムに近づいた時、ろばの子に乗ってエルサレムに入ることをお望みになります。わたしはそのやり取りを通して、今日のミサの典礼全体のテーマみたいなものが何となくつかめました。

そのテーマは、イエスから送り出される二人の弟子にあとで言うようにと伝えた命令で明らかになりました。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」(11・2-3)

そしてこのやり取りは、イエスが予告なさった通りに実現します。「すると、そこに居合わせたある人々が、『その子ろばをほどいてどうするのか』と言った。二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。」(11・5-6)わたしはこのやり取りの中の、「主がお入り用なのです」という言葉がとても印象に残りました。

「主がお入り用なのです」。直接には、イエスがエルサレムに入るために、子ろばを必要としておられたということを意味しています。そのことに間違いはないのですが、弟子たちはのちに、違うことも自分たちが口にした言葉から連想したのではないかと思ったのです。

つまり、「主がお入り用なのです」と感じておられたのは、人類の救いのために、「必要」と考えておられるすべてのものを意識して、あのように言ったのではないか、ということです。

たしかにその場で、子ろばが必要だったかも知れません。ですがエルサレムに入ってしまうと、子ろばは元のつながれていた場所に戻されるでしょう。むしろ、エルサレムに入城されるイエスこそが、「主がお入り用なのです」と言ったまさにそのものだったのではないでしょうか。

福音朗読にありましたように、イエスは、「ホサナ。主の名によって来られる方に、/祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、/祝福があるように。いと高きところにホサナ。」(11・9-10)と歓迎されたはずなのに、その同じ人々から「十字架につけろ」とののしられ、十字架の上でいのちをおささげになりました。

なぜこんな目に遭わなければならなかったのだろうか。そう考えることには意味があります。イエスのエルサレムでの出来事、それこそが「主がお入り用なのです」と望んでおられたことだからです。

イエスが十字架の上でいのちをささげたことで、わたしたちはみな救いに入る扉が開かれました。イエスが、御父のお望みに従っていのちをささげなければ、わたしたちは自分の力で神の救いにあずかることはできなかったはずです。わたしたちは繰り返し、パウロの回心の黙想の中で考えました。

パウロが非の打ち所のない生活をしていた時に、イエスは彼に救いの手を差し伸べました。あなたが救われる道は、わたしを中心に据えて生きる以外にありません。イエスはそんな思いを込めてパウロを呼び出したのでした。わたしたちが今日の典礼の中で体験したイエスの十字架上での出来事も、この方法以外に人間が救われる道はなかったのだと考えさせているのです。

そこでわたしたちも、今日二人の弟子が子ろばを引いてくる時に言った言葉を思い出し、自分に当てはめてみましょう。「主がお入り用なのです」。それは、わたしにどんな協力を求めて投げかけられた言葉なのでしょうか。

わたしがすぐに思い出したのは、馬込教会では役員改選のために投票用紙が配られているはずです。この用紙に、一定の人数分だけ印を付けて来週の日曜日に選挙することになっています。投票する時に、真剣に新しい役員に必要な人を選んでください。そうして選ばれた人々は、わたしは神さまがこれからの馬込教会のために必要としてくださっている人々なのだと思います。

選挙が終わると、一定の人数の人々が選び出されます。「この選ばれた人々をどうするのか。」そんな疑問をわたしにぶつけてくる人がいるかも知れません。もしかしたら選ばれた人々自身が、「わたしをどうしようというのか」と、わたしに言うかも知れません。

わたしはその時、こう答えましょう。「主があなたがたをお入り用なのです。」これから、馬込教会の家族を支えてあげる人々として、何かの活動や、教会での礼拝や、福音宣教への協力に率先してお手伝いしてくださる人々として、主があなたがたを必要としているのだと思うのです。そう思って、選ばれた人々はこれからの任務に手を貸していただきたいと思います。

今日、エルサレムに入城する時に使った子ろばは、「主がお入り用なのです」と乞われて連れてこられたのでした。わたしたち一人一人の働きも、実は「主がお入り用なのです」と思っているのではないでしょうか。二人の弟子たちがそれとは知らずに口にした「主がお入り用なのです」という言葉を自分に当てはめながら、聖なる一週間に入っていくことにしましょう。


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ちょっとひとやすみ
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▼福岡聖スルピス大神学院と東京カトリック神学院が1つに合同することとなり、4月からは「日本カトリック神学院」として出発することとなった。これからは2つの神学院は日本カトリック神学院の「福岡キャンパス」と「東京キャンパス」という形になって運営が継続されることになる。
▼話はずいぶんさかのぼるが、10年ほど前だったか、「西日本宣教司祭大会」というのが福岡で開催されたことがあった。上智大学の先生が基調講演をしたり、ついこの前亡くなった韓国のキム枢機卿が「韓国のキリスト教について」という演題で講演をしてくださったり、10年前にあった出来事にしてはわたしの中で今でも鮮明に当時のことを思い出すことができる。
▼じつはこの時期、わたしの親戚筋の神父さまが亡くなって、どちらに顔を出すかで悩んだのだが、弔電を打って自分は福岡に行くことを選んだ。今になって思えば、あの時の判断が教区の広報委員会の仕事が自分には合っていたのかも知れないと思うようになった始まりだったかも知れない。
▼西日本宣教司祭大会の最終日、どんな研修会でもよく行われる質疑応答の時間に、当時長崎教区で務めていた同級生の神父がこんな質問をして会場の参加者みなを驚かせた。「わたしたちはいまだに長崎教区とか福岡教区とか、小さな教区の枠に閉じこもっています。それは、西日本と東日本とでも同じことです。
▼その根本的な原因は、大神学院にあるのではないでしょうか。東京と福岡の大神学院が1つになれば、もっと大きな枠で日本全体の宣教を考える必要にも目が向くようになると思います。」つまり神学校の合併を提案したわけである。わたし含め、質問に答えた福岡の大神学院の教授も、あまりにも大胆な発言にあっけにとられていた。わたしなど、もっと言葉を選ばずに言うなら、「あいつ何考えてるんだ?」と思ったものである。
▼それから10年。あの発言が引き金になったかどうかは分からないが、みごとに2つの大神学院が統合された。必要な教授陣確保が困難で・・・という側面もないとは言えないが、東日本と西日本の壁みたいなものが、長崎教区と長崎以外の教区との壁みたいなものが、これから育つ神学生、これからの司祭によって取り払われていくかも知れない。その頃には、われわれも時代遅れの司祭ということになっているのだろうが。

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新企画今週の1枚
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第15回目。福岡聖スルピス大神学院の様子。しばらくこの写真を使い続けます。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
聖木曜日
(ヨハネ13:1-15)
‥‥‥†‥‥‥‥
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