こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

四旬節第4主日(ルカ15:1-3,11-32)書かれていない兄の「その後」

2019-03-30 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
19/03/31 (No.994)
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四旬節第4主日
(ルカ15:1-3,11-32)
書かれていない兄の「その後」
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四旬節第4主日はよく知られている「放蕩息子のたとえ」です。弟には本来あるべき状態から離れたときに、本来の状態に戻ってくるようにと呼びかけられています。兄には、本来の場所にいる有り難さを今まで以上に自覚するようにと呼びかけられています。今年は、兄に呼びかけられていることに重点を置いて考えてみたいと思います。

いよいよ月曜日から小教区の黙想会が始まります。説教師は大阪大司教区の酒井補佐司教様です。「司教様をどうやって呼ぶことができたのですか?」と聞く人がいましたが、司教様の方から声がかかったのです。私の力ではありません。

酒井司教様が長崎でオプス・デイの経営する学校の先生をしていたときは、よく硬式テニスで火花を散らしていました。たくさんのテニスの思い出があったので、黙想会期間中も昼休みに田平公園でいかがですか?とお誘いしましたら、「残念!私はテニスから離れて、ラケットもシューズも手放しているのです」との返事でした。もちろん黙想会が第一の目的ですが、懐かしい記憶をよみがえらせる楽しみが一つ減りました。

さて、「放蕩息子のたとえ」については、細かい説明は必要ないでしょう。もちろん細かい部分に目を向けることで、より鮮明になる効果はあります。

たとえば、兄は父に「あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。」(15・30)と不満をぶつけると、父は兄に「お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」(15・32)と兄の心の目を開かせようとしています。このやりとりを気づいているのと気づかないでは物語を味わうのに大きな差が出てくるでしょう。

細かな点が与えてくれる気づきを踏まえた上で、大きな視点で私は次の疑問を解決したいと思いました。この物語は「放蕩息子」が登場しますが、物語の最後には登場しなくなります。父親と、息子のうち忠実であり続けた兄とのやりとりに取って代わるのです。

しかも父が兄の方に「祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」と声をかけたあと、兄がどのような態度を取ったのか、書かれていないのです。弟は、心の底から態度をあらため、父の家に迎え入れられました。では兄は、その後いったいどうなったのでしょうか。

私は、兄がどんな行動に出たのか、知りたいのです。私も自分の家庭で第一子長男で生まれました。同じ立場に立たされたとしたら、どのような態度に出るだろうかと考えます。ひょっとしたら今度は兄が、家を飛び出してしまうかも知れません。父親に対する自らの忠実さが理解されなかったと思い込み、本来あるべき状態を逸れてしまう可能性もあります。

ただ私は、物語の兄が、父親の話を聞いてよく考え直し、自分にできることをして父親を喜ばせようとするのではないか。そう考えてみました。兄に呼びかけられているのは、「本来の場所にいる有り難さを今まで以上に自覚する」ということです。この呼びかけに沿って、兄にさらにできることは何でしょうか。

こんなことは可能かも知れません。もともと父の家の息子二人は、雇い人のように働くことは求められていないはずです。我が家で起きた感動的な体験を、多くの人に語り聞かせる。そのために人を招き、会食をして、死んでいた弟が父の思いに気づき、生き返ったのだと語り合うことも可能でしょう。兄が望むなら、外に出て弟の立ち返りと父の偉大さを語る旅に出るということも可能です。

このあたりは物語には書かれていません。私はこの「書かれていない物語」は、ルカ福音書が読まれる国、読まれる時代によって自由に描かれてよい部分として余裕を残してくれたのではないか。そう思ったのです。私たちが生きているこの国のこの時代で、父の偉大さと弟の立ち返りを語って聞かせるために兄が思いきって活動するさまを、大胆に描いてよいのではないでしょうか。

最近、反省することがあります。どこの教会でも司祭たちは「信者が教会に来なくなった」と嘆いています。私はこれは、父親の諭しを聞き入れる前の兄の言葉に聞こえるのです。「このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。」(15・29)

たしかにそうですが、司祭がミサのために教会に行くのに、いったいどれくらいの労力がいるでしょうか。田平教会であれば司祭館から15歩かも知れません。そこからすると、すべての信者さんが「ここをたち、父のところに行って言おう。」(15・18)そんな思いなのではないでしょうか。司祭はまだ遠くにいるうちから駆け寄るべきなのに、その正反対の態度で接しているのではないか。そんな反省を持ったのです。

司祭に、父親の諭しを聞き入れる前の兄の態度が残っているのなら、今の時代にふさわしい「書かずに残してある兄の物語」を実行する必要があると思いました。中田神父ができる「父の偉大さを語り、弟の立ち返りを喜ぶ」態度は何だろうか。よく考えたいと思いました。

黙想会は、立ち帰りの時です。私たちが父の家にこれまで以上に近づき、父の愛に留まって日々を暮らすヒントを黙想会の中で願いましょう。説教師の補佐司教様も大きな犠牲を払っておいでくださいますので、補佐司教様のためにも合わせてお祈りください。

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‥次の説教は‥‥
四旬節第5主日
(ヨハネ8:1-11)
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ちょっとひとやすみ
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▼田平小教区は教会報を出している。月末に発刊しているので3月は30日に編集して30日と31日のミサで各地区の連絡員さんが配布する。当然(だと思っているが)主任司祭は毎月原稿を提出するので、月末のタイミングを意識していなければならない。
▼ところが今月3月に限っては編集会議のその日まで原稿のことを思い出しては忘れの繰り返しだった。結局、編集会議が午後に開かれるという30日の午前中に慌てて提出した次第。考えは少し前からあったものの、慌てたことに違いはない。
▼司祭になって最初の赴任地で、「薬にも毒にもならないことは書くな」と主任司祭から言われたことがある。これはいつも肝に銘じていた。しかし、ここ田平にいたって最初の主任司祭にお詫びをしなければならないかもしれない。とうとう、「薬にも毒にもならない記事」を書き始めているのではないか。そう思うことがある。
▼薬にと思って、あるいは毒を吐いて、記事を書くと、それなりに厳しい反応が返ってくる。それは覚悟の上、と思っていたが、「薬を薬と思ってくれなければ、毒を毒と思って警戒してくれなければ、書いても同じか。」どこかでそう思っている自分もいる。
▼何というか、少し燃料が燃えなくなってきたのだろうか。洗礼者ヨハネのような「燃えて輝くともしび」であるはずの使命を見失いつつあるのか。務めをこなすだけで、思考を停止させているのか、とにかく自分が自分でなくなるような感じか。
▼自分と向き合い、自分に声を掛ける必要を感じている。

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今週の1枚
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第601回目。司祭館の価値を上げる。これも主任司祭、また教会役員の務め。

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四旬節第3主日(ルカ13:1-9)園丁の取り組みに力を合わせる

2019-03-23 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
19/03/24 (No.993)
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四旬節第3主日
(ルカ13:1-9)
園丁の取り組みに力を合わせる
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今週の福音朗読の中で、後半の6節から9節に目を向けたいと思います。「実のならないいちじくの木のたとえ」と呼ばれている箇所です。「実のならないいちじくの木」が私たちであれば、「園丁」はイエス・キリストかも知れません。

ぶどう園の所有者を父なる神と考えるなら、いちじくの木は結果を出す時期が来ていて、いつ切り倒されてもおかしくない。それを、イエスがあわれみを注いで、父なる神の忍耐を引き出そうとしています。

ひょっとすると、「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」とルカ3章6節にあるように、私たちはすぐにでも結果を求められているのかも知れません。

実のならないいちじくの木は、園丁の必死の努力に応えなければなりません。園丁の取り組みに、人間で言えば向き直って、力を合わせなければ、実を結ぶのは無理なのです。これが人間とイエス・キリストに当てはめられているとするなら、人間はイエス・キリストの必死の努力に向き直り、力を合わせる。これしか方法がないということになります。

日々の出来事がどのように前に進むのか、信仰心を持っている人には三つの考えが可能です。一つは、どのようなことも神が決めた通りになるのだから、人間が何をどうしようと変わらないという考え、一つは、神はただ黙って眺めているだけだから、何事も人間が決めて動かさなければなら名という考え、そして最後に何事も神と人間が共に働くことで進んでいくから、神の呼びかけに寛大に応じる必要があるという考えです。

この三つのうち、イエス・キリストは私たちにどれを選んで欲しいのでしょうか。きっと、最後の答え、神と人間が共に働いて物事は進むから、呼びかけに誠実に協力して欲しいと願っているのだと思います。

この数年で、私たちは大きな経験を積みました。一つは献堂百周年です。もしこの計画が、「神が決めた通りになるのだから、人間が何をどうしようと変わらない」と考えていたなら、無事に百周年を迎えることはできなかったでしょう。神と人間が共に働いて、大きな働きを教会の歴史に残したのです。

もしこの百周年が、「神は黙って眺めているだけだ」と考えて人間の思いだけで前に進めようとしていたなら、ああでもないこうでもないと話は前に進まなかったでしょう。「神が喜んでくださる方向を探しながら、進んでいきましょう。」この「共に働く心」があってこそ、立派に事を成し遂げたのです。

今年の11月には、いよいよ2度目の教皇来日が実現します。人間の思惑ばかりが見え隠れする来日ではなく、私たちと、神が共に働いて成し遂げる訪問となるように、心から願っています。その時初めて、木は実を実らせ、多くの人がその実りを味わうことができるのです。

四旬節、回心の季節に、私たちはどのように物事を進めようとしているのか、それぞれ考えたいと思います。たとえば黙想会に参加することで、主任司祭は、今年一年田平教会でどのような実りをもたらしたいのか考えます。そのために、神と人とが共に働く形をどのように整えたら良いのか、考える必要があります。

修道会は、修道会が抱えている事業や教会奉仕の中で、どのような実りをもたらしたいのか考えます。そのために、神と人とが共に働く形をどのように整えたら良いのか、考える必要があります。

家庭にあって、それぞれの家族が、どのような実りをもたらしたいのか考えます。そのために、神と人とが共に働く形をどのように整えたら良いのか、考える必要があります。

こうしてそれぞれの場で、私たちは神と共に働く方法を探し求めるのです。決して、道をそれたり、怠惰になったりしてはいけない。「私が計画を進める。私の考える通りに動いてもらう。」あまりに思いが強すぎれば、それは神と共に働く姿から逸れてしまいます。

「私たちがどうしようと、神が決めた通りにしかならないから、何を協力しても同じ。」そんな考えで怠惰に時を過ごすことも注意しなければなりません。必要なことは、神と共に働くこと、力を合わせることです。

神と力を合わせて働くことは、誰も例外ではありません。立ち直りや、回復の途上にある人も、神と力を合わせて努力するとき、実を結びます。どんなに困難な状況からでも、どんなに時間がかかろうとも、私たちと働いてくださるイエス・キリストは共に働いてくださり、父なる神に実りを報告させようとするのです。イエス・キリストの深い憐れみに信頼して、神の国の実りのために共に力を尽くしましょう。


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‥次の説教は‥‥
四旬節第4主日
(ルカ15:1-3,11-32)
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ちょっとひとやすみ
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▼教会の典礼上の規定では、四旬節中は主日に葬儀・結婚式をミサを伴う形で行うことができない。そうなると「ミサを伴わない儀式」ということになる。やはり当人たちには「ミサをしてもらいたい」という気持ちがあるので、こちらとしても心苦しい。
▼21日(木)に高齢のご婦人が亡くなった。通夜と葬儀の日程を組む。連絡が21日の夜だったので、「日曜日を葬儀に指定するかもしれない」と思っていたが、ご遺族から「日曜日になるとミサの葬式はできないんでしょ?」と尋ねられた。規定を説明したことをよく承知していて、先に聞いてきたのだった。
▼「そうなんだよ。金曜日に通夜、土曜日に葬儀ミサがいいね。」私もミサをささげて送り出したかった。そして実際にそのようになったのでほっとしている。ただこのようなケースはこれからも考えられる。一つ一つのケースに説明をするのかと思うと、もっと緩和してもらえないかと思うこともある。
▼もちろん、結婚式を四旬節中に、というのは本人たちによく説明しておくべきだ。だが葬式は、個人の死は、誰にも止められない。そう考えると葬儀ミサだけでも、規定を緩和してもらえないだろうか。
▼葬儀をして送り出した故人は、司祭の親戚がいて、大変お世話になった歴代主任司祭もいる。私はただ、3年間お世話しただけなので、関係の司祭が来てくれるなら、謝礼もそっくりお渡しするのでお願いしたいくらいだ。
▼土曜日はただでさえ忙しいので、葬儀が入った土曜日はこんなものだと、今回のことで頭と身体が同時に理解するだろう。頭では理解できても、身体がうまく受け入れるかどうか。身体と頭は繊細だ。頭が付いていかないこともあれば、身体が受け付けないときもある。

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今週の1枚
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第600回目。風呂場の改修中。あの方がおいでになる前には間に合うだろう。

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四旬節第2主日(ルカ9:28b-36)「受難」が「変容」して「復活」となる

2019-03-15 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
19/03/17 (No.992)
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四旬節第2主日
(ルカ9:28b-36)
「受難」が「変容」して「復活」となる
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四旬節第2主日、「イエスの姿が変わる」場面が福音朗読に選ばれました。「イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。」(9・29)この描写から皆さんは、復活の栄光を垣間見せてくれた、そのように理解していると思います。今年はそこに、もう一つ付け加えたいです。

誕生日が巡ってきて、53歳になりました。あちこちで誕生会を開いてもらいました。特に長崎で視覚障害者のために音訳ボランティア活動をしている「声の奉仕会マリア文庫」では、あいさつを次のようにまとめました。「53歳になりました。上等なカステラに『五三焼き』というのがあります。私も今年は五三焼き、つまり上質で上等な仕事を積み重ねたいと思います」。

きっと皆さんにも53歳だったときがあったと思います。経験もあるし、人の助けも得られるようになる時期だと思います。私もその時期を田平教会で迎えました。ぜひこの一年、量よりも質を求めて仕事をしていきたいと思います。

さて福音朗読です。イエスの復活は輝かしい今日の場面にふさわしいですが、復活の栄光のその前にあるものを見ないで語ることはできません。イエスの復活の栄光は、イエスの死によってもたらされるものです。この視点を、今年は皆さんに一つ付け加えたいと思います。

イエスの死は、どのようにして復活につながっていくのでしょうか。言われるまでもなく、イエスご自身が「死と復活」を予告し、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」(9・22)と言われたのです。

しかし人間の頭でイエスの予言を理解することは不可能です。イエスのことばを人間の力で理解できるのであれば、誰がイエスを死に追いやるでしょうか。イエスご自身が死んで復活し、ご自分のことばを証明してくれたので、ようやく力不足の人間も理解が及んだのです。

それでも、理解しようという努力は絶えず必要です。そこで一つのたとえを考えてみました。自然の状態では存在しないけれども、私たちがその恩恵を大いに受けているものです。それは製鉄所から生み出される「鉄」です。

誰でも想像は付くことですが、「鉄」は「鉄鉱石」を掘り出してきて精製し、最終的に「鉄」になります。鉄鉱石を溶かし、真っ赤になったものを形を整えて冷やし、私たちはそれを鉄製品として利用しているわけです。

初めは石の中に混じった鉄の塊が、真っ赤に燃やされ、混じり物を取り除かれ、丈夫な鉄になります。最初と最後だけ考えてみてください。誰が「鉄鉱石」を見て、「鉄」を想像できるでしょうか。けれども先祖たちは、「鉄鉱石」を「鉄」に変えたのです。

もしかしたら司祭職も同じようなものかも知れません。今年は桐教会出身の宮原助祭が、21日に司祭に叙階されます。鉄鉱石が叙階の秘跡によって溶かされて、司祭という鉄になるわけです。今年の宮原助祭は宮原司教様の甥っ子だそうですから、「栴檀は双葉より芳し」の諺の通りなのかも知れませんが、私などは誰も司祭になることを想像できなかったわけです。「鉄鉱石」どころか、「家造りの捨てた石」だったのです。想像できるはずがありません。

ただ、「変容」という段階を経たならば、すべてのことは変わり得ます。「石」が溶かされて液体になり、完全に形を失ったあとに「鉄」になります。神学生・助祭も、「自分を捨て、自分の十字架を背負って」イエスに従うなら、叙階の恵みによって溶かされ、完全に形を失って司祭という「鉄」に変えられるわけです。

もちろん「鉄」も、できあがったときから完全ではありません。「鉄は熱いうちに打て」と言います。叙階したばかりの司祭を「新司祭」と言います。新司祭のうちに鍛えて、粘りのある鉄に仕上げるなら、25年、30年と、良い仕事をしてくれることでしょう。

いずれにしても、「変容」することで過去と未来はつながるのです。イエスはご自分で死という「過去」を変容させ、復活という「未来」に結びつけてくださった、こんなふうに考えてよいのではないでしょうか。

イエスのお姿が変わる場面は、イエスの死を変容させ、復活に結びつけてくださいました。私たちもイエスを信じ、復活の希望を持つキリスト者です。人間の力で人の死を復活に結びつけるのは困難ですが、イエスは私たちの死を変容させ、復活の希望へと結びつけてくださいます。

もしかしたら、溶鉱炉に溶ける鉄のように、火で試されるかも知れません。罪もすべて燃やし尽くされ、どんな悪も触れることのできない灼熱の火で試され、ようやく復活するのかも知れません。

けれども、私たちが復活を信じることには十分意味があります。イエスが私たちに復活への希望を与えてくれたからです。ペトロは地上に仮小屋を建てましょうと提案しましたが、私はこう思います。復活への希望に留まる仮小屋を、私の心に建てましょう。すべてが火で精錬され、燃え尽きてもとどまることのできる復活の希望を待ち望む仮小屋さえ残るなら、何も必要ありません。

信仰にとどまるための仮小屋だけ保つなら、私たちは人生の試練を通ってすっかり変容され、復活への希望に生きる者に生まれ変わることができます。

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‥次の説教は‥‥
四旬節第3主日
(ルカ13:1-9)
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ちょっとひとやすみ
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▼司祭の恵みを頂いたとき、真っ赤に焼けた鉄のようだったと思う。まだ熱量があり、どのような形にも変わることができた。数年の助任生活でハンマーでたたいてさらに鍛えられ、立派になった。人前に出しても恥ずかしくない状態に仕上げてもらい、それから主任となって派遣されていった。
▼しかし今はどうだろう。鋼の表面には錆が目立ち、腐食が進み、脆くなっている。粘りもなく、力が加われば折れてしまう。そんな状態だろうか。腐食の進んだ鉄はもはや「鉄くず」。残念ながら解体処理しかないだろう。
▼いっそのこと、もう一度溶鉱炉に投げ込まれたらと思う。身をこがず思いをするかも知れないが、溶かされてもう一度形を与えられるなら、残りの20年か25年かを良い形で奉仕できるのではないだろうか。幸いに私たちには家族がいないから、溶鉱炉で溶かされてゼロからの出発でも何も問題は起こらないのだから。
▼最近毎日のようにルームランナーに乗ったおかげか、一年前のズボンに両手がすっぽり入るようになった。朝ミサに二度寝して慌てて駆け込むにしても、ズボンにベルトを通さずに行くと大変なことになる。ズボンがぶかぶかなので、ミサ中に内股に歩いてズボンが落ちないようにしなければならない。
▼身体が絞れて、ズボンが落ちるのも、肉体をいったん溶鉱炉に投げ込んで形を与え直してもらうようなものだ。数年ぶりに77キロ台に突入した。これまでどれだけ重い身体を引きずって歩いていたのだろう。こうなったらもう少し目標を高く据えて、75キロ台を目指してみたい。

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今週の1枚
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第599回目。毎日体重計に乗っている。一度だけ、77.7キロになった。

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四旬節第1主日(ルカ4:1-13)悪魔はイエスに傷一つ付けることができない

2019-03-09 | Weblog
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「今週の説教」
19/03/10 (No.991)
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四旬節第1主日
(ルカ4:1-13)
悪魔はイエスに傷一つ付けることができない
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「荒れ野の中を“霊”によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。」(4・1-2)四旬節第一主日はイエスが荒れ野で誘惑を受ける場面です。今まで私は、「悪魔は一切の誘惑が成功しなかった」と決めつけて考えてきたのですが、もしかしたら、悪魔はイエス様を誘惑することに成功したのかも知れない、と考えてみたのです。

先週おおっぴらに話していたように、長崎県営野球場にカープとライオンズのオープン戦を見に行きました。大変見応えのある試合でした。ドラフト一位の選手がホームラン打ってくれて、最高の試合でした。戻ってからサンデースポーツ2020を見てびっくり。私がテレビに映っていました。あとで先輩後輩司祭に冷やかされそうです。

国語辞典を買いました。3千円でした。ただの国語辞典ではありません。「あか」という項目に、「広島カープのチームカラー」という説明が付いています。「てつじん」の項目に「衣笠祥雄のこと」、「ミスター」の項目の説明に「ミスター赤ヘル山本浩二のこと」と書いてありました。最高の国語辞典です。

さて福音朗読の荒れ野での誘惑ですが、悪魔の働きかけがまったく効果がなければ、誘惑のことばにさえ反応する必要がなかったはずです。この世の中の一般的な取り調べでは、一切話さない人より、質問に答える人のほうが取り調べは進むと言いますから、悪魔が何を言おうと完全に無視すればいいのに、ひょっとしたら悪魔の誘惑はすべて成功しているのではないでしょうか。

しかし悪魔はそう思っていないようです。「悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。」(4・13)さんざんあの手この手で策を弄したのでしょう。けれどもイエスの対応はすべて、悪魔の誘惑を打ち砕くものだったのです。悪魔は誘惑できても、かすり傷一つ付けることができないと思い知らされてイエスを離れます。

イエスはなぜ、このような体験を積まれたのでしょうか。ルカ福音記者がこの物語を福音書に採用した意図は何でしょうか。イエスご自身が、悪魔の誘惑でまったく害を受けないことを証明するのは意味のないことです。イエスにまったく害が及ばないのは当然だからです。

むしろこの物語は、私たちのために福音書に採用されたのです。悪魔は誘惑しようと私たちに触れることがあるかも知れない。けれども本来は、悪魔は人間に何の害も及ぼせない。そのことを教えたいのではないでしょうか。

しかし現実には、人間は悪魔の誘惑にそそのかされ、罪を重ねるのです。誘惑するものに簡単にそそのかされ、取って食べるなと命じられた木の実から取って食べた。創世記の出来事は私たちの弱さを象徴的に描いています。

そこでイエスは、人間は本来、悪魔の誘惑からいかなる害も受けることはないのだと教えるために、四十日の試練に立ち向かわれたのです。人間の努力では四十日の試練を耐え抜くことは不可能ですが、父なる神に信頼して過ごす姿を見せて、悪魔の誘惑があっても害を受けないためには、唯一このような生き方しかありませんと、教えてくださっているのです。

最近「どうして道を踏み外したのか?」と思うことがありまして、今週の福音朗読は深く考えさせられています。悪魔の誘惑は、人間のあらゆる努力をあざ笑うほど狡猾です。あらゆる努力とは、祈りをするとか、清い生活を心がけるとか、日々聖書を読む生活とか、そうした優れた努力ですら、悪魔は灰燼に帰してしまうほど恐ろしく狡猾なのです。

それでも、イエスが示した四十日は悪魔の誘惑に勝ることを証明します。ただ父なる神に信頼を寄せて過ごす。これこそが、私たちが誘惑するものに打ち勝ち、前に進み続ける力なのです。

道を踏み外して気づく人、道を踏み外しかけて気づく人、道を踏み外す前に気づく人。いろいろいますが、だれもが父なる神に信頼を寄せるイエスの姿に倣う以外に身を守ることはできない。今週の福音朗読で私はそう確信しました。

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‥次の説教は‥‥
四旬節第2主日
(ルカ9:28b-36)
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ちょっとひとやすみ
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▼陸の地図は普通に「地図」と呼ぶが、海の地図は「海図」と呼ぶ。海図もいろいろあって、海底の地形を詳細に示したものから、プレジャーボートに「少なくともここは岩があって危ないよ」くらいの地図もある。釣りに必要なのは詳細な海底の地形だ。
▼長崎県北部に当たる海図は、転勤をしらされたときにすぐに入手した。これで釣りするぞ!と思ってワクワクした。実際その地図を頼りに何度が海に出て、地形が正しいか、地形が教える魚に出会えるのか確かめた。ただ私の腕が悪くて、あまり活用できなかった。
▼その「長崎県北部版」をあらためて見ると、さらに狭い範囲に四角の囲みが見つかった。193番という数字も見える。これはつまり、「このエリアに関する詳細な地図がありますよ」という案内だ。早速海図ネットショップを当たり、2700円の品物だが送料1300円くらい払って(たけぇ!)手に入れ、眺めている。
▼まるで、「平戸瀬戸は俺の海だ」みたいに気持ちが大きくなって眺めている。これまでの「長崎県北版」よりも詳細な地形図になっている。これを見ると、この前まで釣りをしていた場所がどのような地形か、確かに手に取るように分かる。
▼では、なぜこの海図をもっと早く手に入れなかったのか。理由は二つある。一つは、長崎県北部版を手に入れたとき、確かに平戸瀬戸エリアの海図を示す囲みは合ったと思うが、私の見立てが甘かった。つまり、「自分は平戸瀬戸のようなちっちゃなエリアにこだわらずに平戸全域で釣りをするのだ」こんなふうに考えていた。
▼もう一つは、赴任して早速平戸瀬戸に行ったその最初、速い潮の流れに手こずり、「これはもう釣りにならない。私の腕では太刀打ちできない」と観念したのだった。だから平戸瀬戸の海図があっても仕方ないではないか。そんな気持ちだった。
▼今は違う。もう一度挑戦する気持ちがわいてきた。お客様が来るので。天気次第だが、アラカブをお客様と釣って、味噌汁を味わいたい。その夢の実現のために、平戸瀬戸の攻略法を探ろうと思う。

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今週の1枚
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第598回目。三省堂はいい仕事してくれた!これなら全ページ目を通しそう。

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年間第8主日(ルカ6:39-45)心からあふれ出ることを語るために

2019-03-02 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
19/03/03 (No.990)
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年間第8主日
(ルカ6:39-45)
心からあふれ出ることを語るために
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「人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」(6・45)神を見る目が開かれるなら、本来の良さが顔を出し、私たちの口からあふれ出ることばは「良い実」となって現れます。四旬節を前にして、神を見る目が開かれるために、私たちにとって何が視界を遮る「丸太」となっているか、考えてみましょう。

堅信式を終えた中学生と一緒に、けいこの時間二週にわたってイスラエル巡礼をしたときの写真を見ました。今けいこを受けている中学生には聖地巡礼の写真を見せていなかったのだなとあらためて思いました。

中学生はとても興味深くイエスが活動したガリラヤ、最後に命をささげるエルサレムなどを見つめていました。私はかいつまんで説明をするわけですが、実際には「この場所でイエス様のこのような出来事があったと思われる」という説明しかできないはずなのに、「この場所でイエス様はこのようなことをなさった」と、あたかもイエスの働きをこの目で見たかのように説明していたのには我ながら驚きました。

本来はイスラエル巡礼を体験した人でさえ、イエスがここでこんなことをなさった、ここでこのように語られたと断言することは不可能なのですが、聖地巡礼は私たちを「心からあふれ出ることを語る」そういう人に変える力があると思います。

イエスが四人の漁師に声をかけて弟子にする。その情景はガリラヤ湖だからこそ思い浮かんでくるのです。美しい湖、豊かな湖は日本にいくらでもあるでしょう。けれども、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(マタイ4・19)この言葉が浮かぶのはガリラヤ湖だからこそなのです。

そういう意味で、聖地巡礼は私たちの目を開かせてくれる体験だと思います。中学生にも、イエスのことば、イエスがなさったわざをより深く味わうために、ぜひイスラエルに行ってごらんと言いました。実際には、イエスが会堂で読んだイザヤ書も、イエスが乗り込んだ船も何も見つかりませんが、イエスが歩いた土地、イエスの救いのわざが繰り広げられた地は、何かを教えてくれると思います。

振り返って、このイスラエル巡礼を今週の福音の言葉で置き換えるなら、「自分の目から丸太を取り除く」旅だと思いました。今まではっきり見えてなかったことが見えるようになって、キリスト者として生きる、キリスト者でない人に道案内ができる。そのような経験をさせてくれる機会でした。私たちはどこかの時点で、「自分の目から丸太を取り除く」体験が必要なのです。

ある人は聖書朗読をするために、「自分の目から丸太を取り除く」体験を積みます。朗読する聖書で繰り広げられている何分の一でもよいから自分の目と耳で体験していれば、朗読している内容に深みを与えることができます。聖書朗読を依頼される人全員が聖地巡礼を体験すれば素晴らしいですが、せめて巡礼した人の話に耳を傾けるなら、朗読の中身が「心からあふれ出ることを語る」ものに変わります。

ある人は心を込めて聖歌が歌えるように、「自分の目から丸太を取り除く」体験を積みます。「ガリラヤの風かおる丘で」と歌っている人が、ガリラヤの風に吹かれたことがない、ガリラヤの風が吹く丘に立った自分を想像できないのでは、一体どれだけ説得力があるでしょうか。ガリラヤ湖の写真を見せてもらうだけでも、私たちの目から丸太を取り除くことができて、「心からあふれ出ることを」歌う聖歌に変わるわけです。

「ミサに行く」ことだけでも、いつか私たちは「自分の目から丸太を取り除く」体験が必要になります。二年前にイスラエル巡礼に参加した時期はクリスマス後の「降誕節」でした。「主の公現」のミサをガリラヤ湖畔の「ペトロの首位権の教会」そばにある野外祭壇でささげました。繰り上げミサでした。

翌日の日曜日は、ヨルダン川のベタニアという場所を訪ねました。ヨルダン川河畔は木が生えていましたがほかは見渡す限り砂漠です。そこに教会がぽつんと建っていて、どこから集まるのか、司祭・修道者・信徒がわんさか集まって、「主の公現の祝日のミサ」をおこなおうとしていたのです。一日かけて集まり、ミサに参加します。

その様子を見て、私は「自分の目から丸太を取り除く」体験を積みました。ただ一つのことのために、人々が集まっていたのです。この人たちは暇だから集まることができたのではなく、このミサに自分が生かされていると知っているから、集まることができるのです。今でしたら、「心からあふれ出ることを語る」それができると感じます。

聖書を朗読し、聖歌を歌い、共同祈願を唱え、ミサの受け答えをする。毎日の生活で祈りをささげ、神のことばに土台を置いて日々生きる。どれも「心からあふれ出ることを」実行するのでなければなりません。そのためにも、何が視界を遮る「丸太」となっているか考え、「自分の目から丸太を取り除く」体験を積みましょう。

黙想会であったり、クルシリヨであったり、聖地巡礼であったり、赦しの秘跡であったり、いろいろあると思います。だれもが「自分の目から丸太を取り除く」必要のある人間なのです。

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‥次の説教は‥‥
四旬節第1主日
(ルカ4:1-13)
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ちょっとひとやすみ
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▼メガネがいまいち合わなくなってきたのでメガネを新調しに行ったが、新調する前のメガネのほうがしっくりいくというのはガックリというもの。その場では店員とよく相談して選び、作ってもらったのに。
▼これから、四旬節は黙想会のシーズン。あちこちの黙想会に手伝いに行くことも。長崎教区は教区全体として四旬節を過ごしているということか。喜ばしいことだ。この黙想会を通して、今週の福音が求める「自分の目から丸太を取り除く」季節につなげたい。
▼暖かい冬だった。雪を見たのは一度だけだったのではないか。ある先輩司祭が「暖冬の年は猛暑になる」と言われた。どのような影響でそうなるのか分からないが、経験があるのだろう。夏が好きでなくなってきたので、今年は何を楽しみに過ごそうか。
▼8月12日振替休日に、広島の恩人を頼って広島巨人戦のチケットを入手できないかお願いしていた。最近のニュースでも取り上げられたとおり、マツダスタジアムのチケット入手は困難を極めている。残念ながら、恩人が八方手を尽くしたにもかかわらず、チケットは入手できなかった。
▼ところが阪神広島戦を今年は予定に入れている。阪神主催のゲームだ。このチケットを入手するために、「不本意ではあるが」ファンクラブに入った。入会金2700円を払ってでも、チケット売買サイトで入手するよりも割安なのだ。
▼田平教会に「阪神ファンクラブ入会案内」が届いた。想像できるだろうか?この真っ赤なファンの家に、虎ブル発生。会員冊子など、読みもせずに机に積み上がっている。いったい誰が、この情景を想像できただろうか。

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今週の1枚
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第597回目。私は阪神ファンではない。阪神ファンの引退司祭に贈呈しようか。

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† 神に感謝 †
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