こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

待降節第1主日(マタイ24:37-44)小さな好機も逃さず用意に充てる

2016-11-27 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
16/11/27(No.857)
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待降節第1主日
(マタイ24:37-44)
小さな好機も逃さず用意に充てる
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A年の待降節が巡ってきました。マタイ福音書を手に、これからの新しい典礼暦年を過ごしていきたいと思います。マタイは本来救われるはずのユダヤ人に対して呼びかけようと福音書を書き記しました。洗礼を受けたわたしたちが本来救われるはずの新しい民だとすれば、似たような思いでマタイ福音書の呼びかけに耳を傾けることができるはずです。

皆さんの手元に、文庫本の説教集「取って食べなさいA年」は届いたでしょうか。ありがたいと思ってくれるのはうれしいですが、説教集は読むものであって、家庭祭壇に大切に飾って置いていたらダメです。常に読んで、学びの足しにしてください。

ちなみに、わたしの説教集は3冊セットで、B年とC年がほかにあります。ただしこの残りの2冊は、引っ越しの荷物を隅から隅まで探してかき集めて、ようやく30セット見つかっただけで、あとはおしまいです。今のところ、皆さんにお配りする分はありません。この残り少ない説教集は、成人式を迎えるかたにプレゼントで配ろうと思っています。

あらためて説教集を確かめると、朗読されている福音書の箇所も、それぞれの日曜日の日付も、ほぼ同じのようです。これからどうしても説教が思いつかないときは、文庫本の説教集を一字一句間違えずに読み上げようと思っています。

気の早い話ですが、来年の待降節、再来年の待降節の朗読箇所と日曜日の日付を調べてみました。季節感は多少違いますが、朗読はぴったり合っています。ひょっとしてこれは、あと3年は寝て暮らせるということかなぁと一人ほくそ笑んでいます。

ちょっと違う話ですが、瀬戸山の風7月号の自分の原稿を読み返す機会があって、読み返して愕然としました。「今月と来月の2回に分けて、これこれの話をしてみたいと思います」と書いてあるのです。しかし実際は、8月号で全く別の内容を書いていたのです。これは間違いなく認知症です。「光の園」か、前任地の「福見の園」あたりに、順番待ちを申し込もうと思っています。

「あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」(24・44)待降節は、主がおいでになるのを待つ季節です。わたしたちは主を迎えなければならないのですが、その心構えをどこに求めたらよいでしょうか。

考える一つの材料として、わたしたちが主と必ず会うことになるその時を想像することにしましょう。わたしたちが主と必ず会う時は二度やってきます。一度目はこの人生を終えた時、もう一度はイエスが栄光を帯びて再び来られる再臨の時です。

二度目の再臨の時は、わたしたちには想像もつかないわけですが、一度目、この人生を終えた時に主と必ず会う、その場面は想像することができます。わたしも50歳ですから、明日何が起こるかわからない。そうなると、「あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである」という呼びかけは、他人事ではなくなるわけです。

では何を用意しておくかということですが、わたしは、ルカ福音書の「不正な管理人」のたとえを思い出します。「そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。」(ルカ16・4)何かの形で、わたしのことを弁護してくれる人、わたしに有利な証言をしてくれる人を見つけておけば、この人生を全うして最初に主である神と出会うとき安心だと思います。

世間的な言い方ですが、誰かに恩を売っておけば、その人のおかげでわたしは救われるかもしれません。そういうわけで、説教集もタダで配りましたし、今月の「瀬戸山の風」に書きましたが、目の不自由な方のためにわたしの記事を録音して渡すことにしました。あるいはさまざまな原稿依頼も、ほとんど断らずに書く。そうしておくと、わたしは誰かの証言のおかげで、天国の隅に置いてもらえるかもしれません。

皆さんは、それぞれの最初の出会い、神と向き合う第一の時までに、何を用意するでしょうか。わたしと同じで誰かに恩を売って、彼らに証言してもらおうと願うなら、子供たち孫たちに恩を売っておくのが手っ取り早いと思います。「生きている間に、わたしにこんな思い出を残してくれたなぁ。」そういう形で神に証言してもらう出来事を用意するのは、わたしは賢い人生の過ごし方だと思います。

失礼を承知で申し上げますが、ここにおられる三分の二の方々は、わたしよりも歳がいっています。ということはつまり、「用意をしておかなければ、明日何が起こるかわからない」のです。具体的に何を記憶として受け継がせてあげるのでしょうか。

まずはお一人お一人が受けたことを思い出してください。クリスマスの期間中、皆さんは馬小屋に手を引かれて行き、親子で共に幼子イエスに祈ったはずです。「あー、そう言えば馬小屋でいっしょに祈ったなぁ。」それは確実に、あなたが神の前に立たされる時に有利な証言となるでしょう。

またかつては、クリスマスも復活祭も、夜のミサに行けば朝は行かなくても良いなどと、そんな都合のいい解釈はしなかったと思います。クリスマスの夜半のミサに行った人も、もう一度翌朝の早朝か日中のミサに行って、幼子イエス様にご挨拶に行ったはずです。それを忠実に、わが子に、自分の孫に、伝えるのです。子や孫たちがあなたを思い出すとき、「そう言えば馬小屋に連れて行ってくれたなぁ」と思い出す。それがあなたに有利な証言となり、人の子の到来の時、顔を上げて迎えることができるのではないでしょうか。

「人の子は思いがけない時に来る」のです。わたしたちは悠長にしている暇はないのです。あなたが用意できたはずの時間を無駄にすれば、もはやそのチャンスは二度と巡ってこないかもしれません。目を覚まして、いま用意しましょう。人の子の到来を喜び迎えることができるように、どんな小さな機会も逃さず、用意の時に結び付けていきましょう。

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‥次の説教は‥‥
待降節第2主日
(マタイ3:1-12)
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ちょっとひとやすみ
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▼田平教会から500mのところに県立北松農業高校がある。ここから教会敷地に置いてもらえたらという提案でベンチをいただいた。四角いベンチだということだったのでコタツをイメージしていたのだが、中心に向かって向き合うようなベンチではなく、全員外に向かって座るので、会話を楽しむには少し工夫が必要かもしれない。
▼各家庭に配布した文庫本の説教集は、読んだかどうかは知らないが好評のようである。なぜだか田平教会出身の先輩神父様からも「一冊送ってください」と言われた。11年前に印刷したものだから、たぶん送っていると思うが、忘れているのだろうか。
▼今年はいろんなことがギリギリになって決まったりするものでとても苦労している。C年からA年への典礼暦年の移行で早めに必要な「教会暦と聖書朗読」という冊子も先週月曜日に手に入った。たまたま長崎に行く必要があったので直接持ち帰る手続きを取った。郵送を待っていたら、しびれを切らして電話で催促していたかもしれない。
▼田平教会は巡礼者がたくさん訪れてくれる。韓国からの巡礼団も多く、巡礼ミサも月に15回、もっと多いこともある。彼らはご丁寧に献金を取りまとめておいてくれるのだが、教区はそれに目を付け、「教区内の聖堂を維持する基金のために協力願いたい」と言われ、献金から送金するシステムになっている。
▼たしかに、巡礼団がささげた献金を教区すべての教会の維持に充てることは名案だと思う。説明会があり、その説明に同意もした。しかしこの前の期間の献金に対し、協力金の額は半分を超えていた。承服しかねず、かなり強い口調で文句を言った。
▼送金することに反対はしないが、誰でも「半分以上くれ」と言われたら面白くないものだ。折半だと言うならまだしも、半分以上送金せよという。わたしはマジックの太いほうで次のように書いてFAXした。「半分以上取るのは『協力金』ではなく、『上納金』だ。」
▼すぐ返事が来た。教区への送金はせいぜい半分くらいで折り合いをつけてほしいという意味で書いた返事だったが、そうは伝わらなかったらしい。今後は田平教会に韓国巡礼団のミサは来ないかもしれない。ちょっと舌足らずだったか。

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今週の1枚
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第464回目。2週間前の、生月「黒瀬の辻殉教祭ミサ」の様子。天気に恵まれた。

ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/

【文庫本の問い合わせについて】
文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
3冊セットの提供が可能になりました。ABC年セットで
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王であるキリスト(ルカ23:35-43)イエスはわたしたちの王であると証してきたか

2016-11-20 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
16/11/20(No.856)
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王であるキリスト
(ルカ23:35-43)
イエスはわたしたちの王であると証してきたか
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王であるキリストの祭日を迎えました。典礼暦年に沿って歩んできた信仰の歩みを振り返りましょう。イエスがわたしたちの王であると認めてこの一年生きてきたでしょうか。イエスがわたしたちの王であると、この一年の歩みの中で宣言してきたでしょうか。

教会の典礼暦は、今週の「王であるキリスト」が年間の最後の週です。来週からは待降節第一主日、新しい典礼暦年が始まります。教会の典礼暦はA年B年C年三年周期になっています。今年はC年でした。次の待降節からA年が始まります。

このA年B年C年の違いは、ミサの典礼での朗読の違いです。A年はおもにマタイ福音書を使います。同じようにB年はマルコ福音書、C年はルカ福音書が選ばれます。今年はC年でしたから、ルカ福音書で典礼を進めていたわけです。来週からはA年に移行しまして、マタイ福音書をおもに典礼で使うことになります。

そこで、少し早いですが、皆さんにクリスマスプレゼントを差し上げたいと思います。以前文庫本で印刷した説教集です。ある小教区で司祭館を新築する機会に恵まれ、その引き出物として文庫本の説教集を用意しました。浜串教会からの引っ越し荷物の中に、なぜかA年の説教集が大量に出土しまして、これはどうしたものかと思案していたのです。

よく考えると次の田平教会では8ヶ月もすればA年が始まります。そうかここで配ればちょっとしたプレゼントになるなぁと思ったのです。赴任してすぐに配ることもできましたが、恩着せがましくこの時期に配ることにしました。日曜日に都合が悪くてミサに参加できなかったり、病気で寝込んだり、入院していたり、そういう時の補いとして、あてはまる主日の説教を読んで、日曜日の補いとしてください。ちなみに説教集に出てくる具体的な話は、伊王島・馬込教会での出来事です。

さて福音に戻りましょう。イエスの十字架上の最後の場面です。ここにイエスをあざける三通りの人々が登場します。まず議員たちです。民衆がイエスの周りを取り囲み、恐らくその外で、議員たちがあざけっています。彼らは自分たちこそ義人であると自負し、犯罪人として処刑されていくイエスの最期を見守る気もなさそうです。イエスを知るようになってから、ついに最期まで、彼らはイエスに無関心でした。

次に兵士たちです。彼らは「イエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら」侮辱しました。兵士たちは罪の中にある弱い人間でしたが、イエスに近寄る知恵は持っていたのです。しかしイエスが本当は誰なのか知ろうとしなかったし、知ることもできませんでした。

最後に同じように十字架にかけられた犯罪人の一人です。彼は死に値する犯罪人でした。自分が近づくことのできる人は犯罪人仲間しか考えつかなかったでしょう。彼は間近で、イエスのことば、しぐさを見ることができましたが、イエスに心を開くことはできませんでした。

ルカはこの三通りの人々を、遠くに離れている人々、近寄ってくる人々、いちばん近くで目撃する人々という順番で登場させます。ルカはこの三通りの人々が、イエスを知ろうと思い、イエスに心を開くことがなければ、距離的にどれほど近づいたとしても、イエスを信じることはできないと、視覚に訴えながら表そうとしているのです。

しかし十字架にかけられていた「もう一人の方」は、イエスが王であり、これから御国に帰られるのだと悟ったのです。この犯罪人はほかの三通りの人々と違う何かに気づいたから心を開くことができたのでしょう。何に気づいたのでしょうか。

わたしは、「十字架から降りないイエス」を見て、大切なことを理解したのだと思います。実は議員たちも、兵士たちも、犯罪人もイエスが十字架から降りていないのは見ているはずなのです。しかしこの人たちにはイエスが「降りることができないでいる」と映っていたのですが、もう一人の犯罪人は、「この方は降りることができないのではない。あえて降りないのだ」と気づいたのです。

イエスは最後まで、罪人をあわれみ、みずから罪人の中に飛び込み、救いを告げる方でした。弱い人、泣いている人、見捨てられた人の友でした。この十字架上の場面でも、その態度は変わらなかった。犯した罪のために言い渡された刑罰として十字架にはりつけにされている二人の犯罪人に、イエスは十字架をあえて降りないことで近づき、友となられたのです。「もう一人の方」と書き記されたその犯罪人は、自分を友として受け入れようとされるイエスに、最期の場面で心を開いたのです。

「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(23・42)ひょっとしたら、わたしはこのお方に愛を示してもらったのではないか。そう感じて、犯罪人は「わたしを思い出して」とイエスに語りかけたのです。犯罪人の読み通り、イエスはこの人をも愛し、これ以上ない希望の言葉をかけてくださったのです。

「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(23・43)イエスは十字架から降りないことで、罪あるすべての人の王となられました。わたしたちもこのイエスによって救われました。

わたしたちはこの一年、ときには罪の中にありました。そのたびに罪を悔やみ、告白し、十字架上のイエスを見上げて「わたしを思い出してください」と言ってきたでしょうか。だれかを教会に案内した時、わたしたちは十字架をあえて降りなかったあのお方に救われたと信じていますと、証を立てたでしょうか。直接語る機会がなくても、いつでも同じ信仰を証できる用意をもってこの一年過ごしてきたでしょうか。

新しい典礼暦年を間近に控えて、ますます救い主イエス・キリストを待ち望む人になりましょう。「わたしたちの価値は、どれだけイエス・キリストに結ばれているかにかかっています」と堂々と言い表せる人になれるよう、王であるキリストに今日のミサの中で力を願いましょう。

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‥次の説教は‥‥
待降節第1主日
(マタイ24:37-44)
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ちょっとひとやすみ
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▼久しぶり(と言っても2か月ぶり)に上五島に帰り、実家でも2泊して母親を喜ばせることができた。主な目的は「浜串教会献堂五十周年記念行事」だ。ついでに釣りにも行ったが、ある人からは「釣りが主目的で間違いないですね」と言われたが。
▼浜串教会での記念ミサが午前10時30分から予定されていた。少し早めに浜串に入り、現在の主任司祭に手伝いをお願いされたら応えようと思っていた。いくつか確認したいことを聞かれ、わかる範囲のことを答えた。
▼それでも少し時間があったので、聖堂に入り、懐かしい人を探す。司祭館の隣の敷地で「かんころ」をよく作っていたご婦人がいて、懐かしいなぁと思い近寄って、「やあやあ」と声をかけようとしたら向こうから先に言われた。「あらぁ。どの神父様じゃったかなぁ。」
▼「どの神父様」はないだろう。半年前まで浜串にいたじゃないか。がっかりしながらわたしは喉まで出かかっていた懐かしさいっぱいのあいさつを飲み込み、こう返した。「どの神父様はあんまりばい。茹でかんころを司祭館の隣でよく干してたでしょう。」
▼「かんころが出来上がったら、田平教会に2本送ってくれんね。わたしを忘れていたことはそれで勘弁してやるけん。」わたしが司祭館に戻ろうとその場を離れた時、周囲のご婦人たちが「あんた中田神父さんを本当に忘れとったとね?」と声をかけていた。忘れていたとしたら、お年頃なのかもしれない。
▼これは書いたかもしれないが、1ヶ月ほど前、田平で釣りに誘われて釣りに行った。その時「タイラバ」という仕掛けを10個くらい失って呆然とし、「ひょっとしたら俺は釣りが下手なのか?」と思ったことがあったが、今回の五島滞在中は昔取った杵柄、簡単に魚が釣れた。「あー、下手じゃなかった。」ひと安心だった。

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今週の1枚
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第463回目。今風のかんころ。これで読者の皆さんも食べたつもりになれた?

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年間第33主日(ルカ21:5-19)終末へのわたしたちの準備は今の生き方そのもの

2016-11-13 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
16/11/13(No.855)
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年間第33主日
(ルカ21:5-19)
終末へのわたしたちの準備は今の生き方そのもの
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「だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。」(21・14)イエスは弟子たちがだれかの前に引き出される時を見据えて、弁明の準備ではなくイエスへの信頼こそが弟子たちを守ると教えます。わたしたちもイエスの呼びかけを自分のものとしましょう。

亡くなったわたしの父は数々の武勇伝を持っていますが、その中でもわたしが感心した話は、エホバの証人が自宅にやってきたときの話です。わたしが休暇で戻った時に、「こんなことがあった」といって話してくれました。

エホバの証人の人たちは父の家にやって来て、教えられたとおりの手順で父に話しかけてきました。父が家にいたということは、雨の日か、牛に与える草を切る道具の手入れをしていたのでしょう。エホバの証人の人たちは、父を農家のおじさんに過ぎないと思っていたかもしれません。

しばらく話を聞いていましたが、しつこいので最後に「失せろ」と一喝しました。するとエホバの証人たちはひとたまりもなく退散したそうです。父が「失せろ」と言ったのだと話す様子は、場面を想像するだけでも傑作でした。この話を聞きながら、わたしは父親をあらためて尊敬したのです。

エホバの証人が活動していることはいろいろなうわさで耳にしていたかもしれません。その人たちはどういうことをしていて、どういう風に接すればよいのか、前もってわたしに聞くこともできたでしょう。けれどもいざその場面に立たされてみて、父は人間のどんな言葉や知恵にも頼らず、イエスが授けてくださる言葉に信頼を置いたのです。

聖書の次の言葉を思い出しました。「あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。」(マタイ7・23)さすがに「失せろ」という聖書の言葉はありませんが、イエスはわたしの父に、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、授けてくれたのだと思っています。

だれでもそうかもしれませんが、弁の立つ人を前にすると、つい自分も言い負かそうとしがちです。言い負かそうとするとき、どうしても自分の言葉を探してきて、対抗しようとするわけです。

イエスはそうであってはいけないと言います。相手に思い直させ、恥じ入らせる言葉はイエスが授けてくださる。特にわたしたちの信仰を惑わせ、信仰に根差した生活を脅かす人を退けてくださるのは、わたしがひねり出した言葉ではなくて、イエスが授けてくださる言葉、知恵なのです。

今週の福音は、神殿の崩壊の予告と、終末の徴について考えさせています。社会を惑わしたり、わたしたちが信じている信仰を脅かす出来事はいつか必ず起こるわけですが、どんな不安な出来事であっても、わたしたちはイエスに信頼してしっかり立つ必要があります。

イエスが、終末を予感させる徴について触れるのはなぜでしょうか。たとえば親が、臨終を前にして子供たちを集め、「わたしはもう時間がない。これから言うことをよく聞きなさい」と呼びかける場面を例に考えてみましょう。いよいよ旅立とうとする父あるいは母は、子供たちを不安がらせ、脅えさせるためにそう言うのでしょうか。

そうではないと思います。今はどうしてもお別れをしなければならないので忍耐が必要ですが、その忍耐は、旅立っていく両親が子供たちに永遠の命への希望を持たせる道となるのです。別れを述べる父母の前で崩れ落ちることなく、希望のうちに立っていられるとしたら、その拠り所はイエス・キリストに違いありません。この世のどんなものにすがっても、父母との別れに気を落とさず、立っていられることなどできないからです。

イエスもそうです。しばらくするとイエスを信じる弟子たちを置いて、受難と復活を通して御父のもとに帰らなければなりません。今週朗読しているのはルカ21章ですが、22章になるとイエスを殺す計画が持ち上がり、過ぎ越しの食事を弟子たちと共にし、物語は最後の場面へと進んでいくのです。

イエスが終末について語るのは脅えを抱かせるためではありません。さまざまな徴の中でもイエスに信頼して立っている人は、最後には復活のいのちを得る。試練の中にも惑わされることなくイエスを信じて生きることが確かな道となるのです。

それでも準備をしておけば安心なのではないかと思うかもしれません。子供たちが父母を見送るとき、葬送の挨拶を前もって準備するでしょうか。きっと、直後に考えるのであって、限られた時間の中でも何かしら言葉を与えられるのではないでしょうか。

イエスは「だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい」と言います。わたしたちはイエスに拠り所を置いて立っている者ですから、イエスがおっしゃる通りにしましょう。むしろわたしたちが毎日イエスを拠り所として生きることが、立派な準備なのです。すべての出来事を、イエスに信頼を置いて生きる中で位置づけする。終末を迎えるにあたってこれ以上の準備はないのだと思います。

わたしは、世界がひっくり返るような出来事を見るとき、惑わされずに立っていられるでしょうか。すべての出来事を、イエスに信頼を置いて生きる中で位置づけしてきた人生であれば、その日その時を揺らぐことなく迎えることができるでしょう。わたしたちは終末の日を頭の隅に置きながら、イエス・キリストを判断の物差しにして今を生きる必要があります。

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‥次の説教は‥‥
王であるキリスト
(ルカ23:35-43)
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ちょっとひとやすみ
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▼先週の続き。散髪屋からスキップして帰ったのは午後2時半。前日からほとんど寝ていない。夜8時の結婚講座まで何もないし、今のうちに昼寝をしようと、布団に潜った。
▼布団に入るのが早いか、すぐに玄関のチャイムが鳴る。「なんてタイミングだ」と思いながら玄関に向かう。不機嫌な顔をしないようにと思って玄関に立つと、以前福岡の大名町教会での結婚式のため書類のお手伝いをした家のご家族がやって来て、お世話になりました、これは気持ちですと言って日本酒1本とお魚を運んできた。
▼喜んで受け取りましょう。そう言って受け取り、「お母さん、お孫さんが楽しみだね」とねぎらって見送った。受け取った品物を食堂に運んだあと、また布団に潜るとすぐにチャイム。「いったい誰だ?」今度は不機嫌な顔だったかもしれない。「宅急便です」とドアの向こうから呼んでいる。「はい。」印鑑を押して、また布団に戻る。
▼布団に入ろうとした。またチャイム。「いい加減にせいや~。」佐川急便だった。どうでもいいから早く寝かせてほしい。そう思ってまた布団に手をかけると、今度はお隣の案内所から内線電話。「申し訳ありません。某教会の評議会議長がおいでになってまして、できれば面会を希望しているのですが・・・」
▼泣きたい気分だった。そこそこの服に着替えて面会に出向くと、その人は困った顔をしている。評議会議長として信徒と主任司祭の板挟みになり、苦しくて違う教会の神父様にすがりにきたのでだろうか。話を聞いた。
▼1時間、悩み事相談を傾聴。次の1時間、田平小教区で主任司祭と信徒はどんな関係かの質問攻め。もう帰りたい。そう思っていた時、「上五島、特に鯛之浦にはずいぶん思い出があります」と話し始めた。鯛之浦を知っているといっても、通り一遍の話だろうと思っていたが、全く違う方向に話が進んだ。
▼「わたしにはむかし婚約者がいました。Uという姓でした。」「ちょっと待て。鯛之浦にU姓でカトリック信者はそうはいないよ。」「鯛之浦のことをご存じなのですか?」「ご存じも何も、鯛之浦教会出身だから」「えー!」「同級生のU・Hは、カトリック信者の女の子3人の中で3番目に可愛かったね」「わたしの婚約者だった人は、そのU・Hさんのいちばん上のお姉さんです!」
▼「何と言った?えー!奇遇だね~」そういう話から中田神父の仮眠時間は完全に取り上げられた。わたしも傾聴だけでは終われず、先週分と今週分の話をセットで夜8時の結婚講座のカップルに話し、ジェットコースターのような一日が終わった。

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今週の1枚
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第462回目。元気な声で「七つと五つと三つの子。おててを合わせて神さまに」

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年間第32主日(ルカ20:27-38)滅びるいのちに生きる者でなく

2016-11-06 | Weblog
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こうじ神父
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16/11/06(No.854)
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年間第32主日
(ルカ20:27-38)
滅びるいのちに生きる者でなく
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年間第32主日C年の福音朗読は、復活を否定するサドカイ派の人々との問答です。わたしたちキリスト者にとって復活の信仰はなくてはならないものですが、当時のユダヤ人にとっては、復活を信じる決定的な出来事を持ち合わせていませんでした。復活したイエスをよりどころとするわたしたちとは違っていたわけです。

先週木曜日、文化の日に福岡の大神学院で行われた神学院祭に子どもたちを8人連れて行きました。広島教区の新しい司教様、白浜司教様が参加者のため、召命の実りのために神学院のグランドで野外ミサを司式してくださいました。司教様は説教の中で自分が神学校に入るきっかけとなった出来事をお話しくださいましたが、その時の説教は心を揺さぶられる説教でした。

白浜司教様は中学2年から長崎の小神学校に編入しました。上五島新魚目町の小学校を卒業した時、神学校に行かないかと進めてくれる人は誰もいなかったそうです。中学校は地元の中学校に進み、バレー部で部活動をしていましたが、同級生の中に一人、部活動を断った友達がいたそうです。

中学校に入ったら部活動で汗を流すのが当たり前と考えていた白浜少年は、なぜ彼が部活に入らないのか知りたくて、部活が休みだったある日、彼の家に遊びに行きました。すると彼は、学校から帰るとすぐに家が飼っていた山羊を連れ帰り、薪で風呂を沸かし、炊飯器でご飯を炊いて共働きの両親の帰りを待っていました。しかもその作業を一日も欠かさず、毎日続けていたのです。

ところが同級生は、高熱にうなされる病気になってしまいました。上五島では治療できる病院がないため、本土に移されましたが、懸命な看病も報われず、13歳でこの世を去ってしまいました。白浜少年はいのちのはかなさに衝撃を受け、同級生の分も生きるため、そして後悔しない生き方をするため、中学2年生から神学校に編入したそうです。

白浜司教様は説教中何度も声が詰まってしまいました。その様子にわたしは思わずもらい泣きをしました。わたしは白浜司教様の中学1年生の時の同級生のことを思うのです。彼はどうなるのだろうか。もし本日朗読された福音書のサドカイ派の人々が考えるように復活などないと言うのなら、彼が黙々と果たした両親を助ける奉仕は誰が報いてくれるのでしょうか。

わたしは、13歳で亡くなった同級生も含め、善人も悪人もいっしょくたになってどこかに置かれているとはとても思えません。神が十分に報いてくださり、復活して、喜びの宴でいつまでも神とともに住む。そういう姿を信じたいです。白浜司教様は、自分が道をそれないために、あの同級生は天国からいつもわたしを見守っていてくださると信じていると言いました。きっとそうなのだと思います。

もちろん、当時のユダヤ人の疑問にはきちんと答えなければなりません。サドカイ派の人々が持ち出した難問は、復活後の人間の姿を、今の姿を物差しにして考えたために誤解していたのです。

この世にあって人が自分の名を残していくためには子孫が与えられなければなりません。そのため、子孫を残さずに家系を絶やすことは決して認められなかった。そこで今回のような問題が起こってしまいました。

「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。」(20・34-36)家系を土台にした人間関係ではなくなり、神とわたしの関係が何より大切にされる状態に移されるのです。

このことを決定的に明らかになさったのはイエス・キリストです。復活についての問題は、人類に先だって最初に復活されたイエス・キリストの示しを待つほかはなく、イエス・キリストに耳を傾ける以外に答えを見つけることはできないのです。アブラハム、イサク、ヤコブやモーセも、復活されたイエス・キリストが生かしてくださるのです。

わたしたちの復活の信仰を人に自信を持って語るために、わたしたちにはよりどころがあるでしょうか。司祭・修道者は復活の信仰を人に語るよりどころになると思います。

司祭・修道者はこの世に名を残しません。それでいいのか?と問われるなら、「次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない」と答えることができます。今この世にあってすでに、復活にあずかる者として生きている人なのです。司祭・修道者は復活を信じて生きる人のよりどころだと思います。

もしわたしたちの復活が夢物語だとしたら、名を残さない司祭・修道者はこの世でいちばんみじめな生き方です。しかし事実は違います。復活はイエスが約束してくださったのでわたしたちの希望のみなもとです。この世に死んで、神のいのちに生きるキリスト者の生き方は、必ず報われる生き方です。わたしたちはもっと力強く、証する必要があると思います。

復活を信じるわたしたちは、本当の意味で生きている生き方を選びました。滅びるいのちに生きるのではなく、復活して永遠に神の喜びにあずかる生き方に生まれ変わりませんか。今週わたしたちが持ち帰り、伝えるべき言葉です。

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‥次の説教は‥‥
年間第33主日
(ルカ21:5-19)
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ちょっとひとやすみ
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▼先週の説教本文中に引用したラテン語の文章、単語を一つ間違えていた。<<hodie>>が<<hoide>>とタイプミスしていた。日常タイプミスはありがちで、その都度目を光らせているつもりだが、今回は説教中に気づいた。<<hodie>>ならば意味が通るが、<<hoide>>という綴りでは通じない。
▼試しにもう一度、該当する単語をキーボードで叩いてみた。そういうことかと分かったが、やはり間違いのほうのタイプをしていた。これはどうやら癖のようで、右手でタイプするキーのほうが左手でタイプするキーよりもやや早く打っている。そのためiがdよりも早く入力されたらしい。言い訳にはならないが。
▼最近まれにみるさんざんな日に遭遇した。教会信徒に誘われ、船で釣りに出かけた。通常「ほい来た」と二つ返事で出かけるが、翌日平戸地区の司祭会議があり、書記でありながら先月の議事録を準備してなかった。「大丈夫かなぁ」と思いながら出かけた。
▼魚は釣れた。一匹だけだが、収穫はむしろ釣るポイントをあちこち見せてもらったことだ。ただし、平戸瀬戸の流れの速さを甘く見るなよとばかりに、1個1000円はする釣りの道具を海底にひっかけ、10個失った。
▼船頭をしてくれたHさんが、「神父様、高い授業料でしたけど、魚がいることは分かったから、次挽回しましょう。」と慰められ、「どうです気分転換に、この魚を刺身にして司祭館で晩餐会でも」と提案してきた。もはや議事録のことは頭の隅にもなかった。
▼釣った魚と焼酎で、大騒ぎしてHさんは奥さんの迎えの車で帰った。勉強部屋に戻ると、書き残しのままの議事録。「この酔っ払った状態ではパソコンには向かえない・・・」ほんのちょっとと思って布団に。はっと気づいたら夜中の2時。しまった・・・
▼議事録を持たずに会議に出席するわけにもいかず、それから3時間、朝の5時まで議事録と格闘。朝ミサをしたあとフラフラになって会議に出席し、帰りには出かける時点で決めていた通り、田平教会のご婦人が開いている散髪屋に立ち寄った。
▼「おーい。いつもの通りに切って。ひょっとしたら居眠りするかもしれないけど。」すると散髪屋のKおばちゃんが目を丸くしてこう言う。「あらー神父様。神父様にうってつけの話を仕入れましたよ。」何だろうと思って話を聞くと、これこそ天の恵み。
▼「午前中に、Oさんが散髪に来たんです。Oさんの話では、『わしも八十歳になるし、腰も痛い。そろそろ持っている船を処分しようと思っている。しかし処分するのに20万円の費用がかかる。もらってくれる人がいれば、ただであげてもいいのだが、どうしたものか』と言ってました。」「本当の話なの?だったらその処分の話ちょっと待ってよ。応分の謝礼を払うから譲ってほしい。」「今から電話してみましょうか?」「頼む~」
▼そこで電話をかけると、Oさんは明日にでも業者を呼んで船を引き渡すつもりだったらしい。散髪屋で言うのもなんだが、間一髪だった。散髪した帰り、心はスキップして帰ったのは言うまでもない。人生山あり谷あり。自分の落ち度でひどい一日のはずが、わたしに味方してくれる人を通して天の恵みを授けてもらった。来週に続く。

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今週の1枚
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第461回目。カマキリ。サッシの網戸に足をかけて、動けない様子だった。

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† 神に感謝 †
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