こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

聖家族(ルカ2:22-40)神の言葉にしっかり立って生きる

2014-12-28 | Weblog
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http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/141228.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
14/12/28(No.745)
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聖家族
(ルカ2:22-40)
神の言葉にしっかり立って生きる
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聖家族の祝日を迎えました。マリアとヨセフが神殿に幼子イエスを献げるためにやって来ると、シメオンが幼子を抱きます。このシメオンに焦点を当てて、糧を得たいと思います。

御降誕のミサが終わって一息という感じです。ただ木曜日にはまた神の母聖マリアの守るべき大祝日が回ってきますので、まだ気を緩めることはできません。あとひと踏ん張りといったところです。

徒歩巡礼に向けて練習のために歩き出しました。毎日歩くところまではいっておりませんが、今は中ノ浦教会まで、片道1時間ちょっと、往復2時間ちょっとの道のりを歩いています。坂道なので、良い姿勢で歩くことにも役立っています。時々見晴らしの良いところで海が見えて、「海のほうがいいなぁ」と心が揺れますが、それでも頑張っています。

福音朗読は、幼子イエスが神殿で献げられる場面が選ばれています。神殿にはシメオンという預言者がとどまっていました。彼は「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない」(2・26)とのお告げを聖霊から受けていました。

おそらく年老いていただろうシメオンが生きていたのは、聖霊によるお告げに支えられてのことでした。「生きている」という姿を「立っている」と置き換えると、シメオンは聖霊によるお告げにしっかり立っていたのでした。

そこへヨセフとマリアが幼子イエスを神殿奉献のために連れてきます。シメオンは心の中で、何度も何度も繰り返して自分が会うことになっているメシアを思い描いていたのでしょう。初めて幼子イエスを見ただけで、自分の願いがかなえられたことが分かりました。

シメオンは幼子を抱き、喜びの声を上げます。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」(2・29-32)

これまでシメオンは、聖霊によるお告げにしっかり立って生きていたのですが、今幼子イエスを抱いて、新しい生き方に変わりました。救い主を信じて、神の救いを確信して生きる人に変わったのです。今まではやって来るはずの約束に固く立っていましたが、今はその約束の実現の上にしっかり立って生きる人に変わったのです。

シメオンの姿は、わたしたちにもあるべき生き方を示していると思います。わたしたちは誰でも、何かの上にしっかり立って生きているわけですが、そのしっかり立つ場所はイエス・キリストであるべきだということです。

健康に注意して、健康の上に生活を成り立たせている人もいるでしょう。仕事上の成功や、名声の上に生活を成り立たせている人もいるでしょう。けれどもそれらを土台にして生きていると、いつかその土台が不安定になり、根こそぎ奪われることもあるのです。わたしたちがしっかり立って生きるべきは、不安定にならない土台、決して奪い取られることのない土台でなければなりません。それは神の言葉ではないでしょうか。

神の言葉は今や人となってわたしたちの間に住まわれました。救い主がいつかおいでになるという未来の約束は終わり、今や目の前に神の言葉が、神の約束が与えられています。この人となった神の言葉こそ、わたしたちがしっかり立って生きる土台です。わたしたちが神の言葉にしっかり土台を置いて生きるなら、人となった神の言葉を通して、わたしたちも「たくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれて」生きることができます。

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‥次の説教は‥‥
神の母聖マリア
(ルカ2:16-21)
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ちょっとひとやすみ
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▼今年最後のネタが釣りだと聞いたら、お前はこの一年何をして過ごしたのかと悪い考えを起こすかもしれない。まぁいいではないか。想像にお任せする。困難を乗り越えて家族になった話もあるし、赤ちゃんをどれくらい欲しがっているか分かりますかと涙ながらに話すのを聞きもした。
▼だが書いて問題ない話と、書いたことでネット上に拡散し、問題の種をまく話とがある。だから、書いてもスキャンダルにならない話に落ち着く。ついこの前出会った青年の話など、人生48年でこれ以上ない出会いで、ユニークだが書けない。
▼さし障りのない釣りの話だが、2003年10月8日に2万円で購入したトレッキング用のGPSがとうとう使い物にならなくなった。何千回押したか分からないメニューボタンがどんな押しかたをしても反応しない。電源すら切ることができない。しかたなく電池を外し、入れ直して電源を入れると立ち上がるが、やはりメニューの操作ができない。
▼おまけに内部で接触不良を起こしているのか、押してもいない操作が勝手に進み、「現在地をNo.95として登録しますか?」という画面が現れ、しかたなくOKボタンを押すと登録するつもりもない海上の一地点が登録される。本来は20地点くらいしか登録していないはずなのに、今は100地点以上が勝手に登録されてしまっている。
▼それで背に腹は代えられず、ネット上でトレッキング用のGPSを11年ぶりに買うことにした。「魚群探知機を買えばよいではないか」と突っ込まれそうだが、魚群探知機は周囲に島も見えないような沖合に出てから威力を発揮する。沿岸500mとか、離れても1kmくらいしかボートを出さないわたしの漁場では宝の持ち腐れになってしまう。
▼11年前に2万円だったから、上限を3万円に設定して検索する。するとeTrex20(英語)とかeTrex10J(日本語)とかがヒットする。性能はeTrex20のほうが上。以前買ったのも英語版だったし、かまわず英語版のeTrex20に絞り、「このショップが説明も詳しく値段も申し分ない」と思い、2万3千円の商品の購入ボタンを押した。
▼購入完了直前まで気付かなかったが、なんと今回購入したショップも、11年前に購入したショップも、まったく同じショップになった。不思議な巡り合わせを感じた。11年前から変わらないお店の姿勢。満足な買い物になったと思っている。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第352回目。平戸からお土産持参した若夫婦の奥さんがクリスマス洗礼。めでたい

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主の降誕(日中)(ヨハネ1:1-18)イエス・キリスト、恵みと真理に満ちておられる方

2014-12-25 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
14/12/25(No.744)
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主の降誕(日中)(ヨハネ1:1-18)イエス・キリスト、恵みと真理に満ちておられる方
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あらためて主の降誕おめでとうございます。明けてクリスマス日中のミサを祝う今日の福音朗読は、ヨハネ福音書が選ばれています。「イエス・キリスト、恵みと真理に満ちておられる方」とまとめたいと思います。

今年、クリスマス夜半ミサをささげ終わって、「プレゼント」について考えてみました。皆さんの家庭でもクリスマスプレゼントの習慣があるかもしれません。わたしは今年ケーキも買わず、これといった品物も準備しませんでしたが、クリスマスプレゼントは実は神さまが用意してくれるものなのだと心から思える経験をしました。

それは、神さまが遣わして下さった人、わたしからは探そうと思っても出会えない人との出会いです。その人とは、クリスマスでなければ出会うこともなかったかも知れません。わたしはその人と短い間でしたが心を通わせる会話ができました。神さまは素敵なプレゼントを用意してくださるなぁ、素敵な演出だなぁと感謝しました。

もちろん、イエス・キリストの誕生こそが、クリスマスの最上のプレゼントです。朗読された福音にあるように、わたしたちに与えられた救い主は「恵みと真理とに満ちていた」(1・14)のです。

「恵みと真理」実社会ではほとんど聞かれない言葉かも知れません。学校で恵みについてだれも教えてくれませんし、社会が真理と受け止めるものは「数が多ければ何でもできる。数こそ真理だ」こんな風潮です。

恵みを語ってくれる人がいない社会で、また数によって真理が押し付けられる社会にあって、救い主誕生の出来事はゆるぎない「恵みと真理」とに満ちているのです。

社会が恵みと真理から遠ざかっている中で、わたしたちは夜半のミサに続いて、今朝も恵みと真理である救い主に近づこうとしてここに集いました。恵みと真理は目の前にありますが、わたしたちが恵みと真理にあずかるだけでなく、恵みと真理が何かを見失っている人々にイエス・キリストを示してあげる必要があると思います。

たとえば、わたしたちは毎日目が覚めることを当たり前のように思っていますが、日本に同世代の人が百万人いるとして、この人たちが明日必ず目が覚めるという保証はどこにもないのです。朝、目が覚めた。それは神によって生かされているということです。

そのこと一つ取っても、わたしたちは神に感謝する理由があります。そしてわたしたちは感謝する相手を知っています。「あなたは今日を生きていることを恵みと思いませんか。そのことを感謝する相手を知っていますか。」これだけでも十分に、イエス・キリストを告げ知らせるきっかけにできます。イエス・キリストの中に、恵みと真理とが満ちています。わたしたちの言葉は拙くても、恐れずに告げ知らせましょう。わたしたちが恵みと真理はイエス・キリストにあると告げるなら、もっと多くの人がクリスマスを本当の意味で喜び合うことができます。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
聖家族
(ルカ2:22-40)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
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▼あらためて主の降誕おめでとうございます。この日をベッドの上で迎えている一人のお父さんのことを思い、祈りながら「ちょっとひとやすみ」を書いている。12月の初めだったか、浜串で海岸の清掃にあたった日、船で作業をしていた船長さんがロープを巻き上げる機械に巻き込まれ、大けがをした。
▼わたしはその日、老人ホームで予定されていたクリスマス会の出し物の練習のために巡回教会の信徒の家にいたが、話を聞いた範囲では命にかかわるけがをしたようだった。左腕はもはや使えないほど砕け、手術して切断したそうである。手術は全身に渡り、3度も繰り返されたそうだ。
▼クリスマス直前の23日、けがをしたお父さんの奥さんが浜串に戻ってくれて、様子を少し話してくれた。こちらから根掘り葉掘り聞くわけにはいかないので聞かせてもらった範囲の話だが、右腕にスプーンを持たせて、おかゆを食べることができるところまで回復したそうである。本当によかった。
▼この浜串集落には、けがをしたお父さんを慕う人が多い。それだけに心配している人もまた多い。豪快な人というイメージだが、今は何を思うだろうか。わたしは主任司祭として、クリスマスにミサに出席できないことを悔やんでいるだろうと推察する。朝昼晩お酒をおいしくいただく人である一方、浜串でミサがささげられる日は毎日ミサに出席する人でもあった。
▼お生まれになった救い主は、この世界で苦しみあえぐ人の立場に立つ人としておいでになった。決して権力者や、指導者の立場に立ったのではなかった。そういう意味で、おいでになった救い主はけがをしたお父さんのことを思いやってくださる方だし、今も何かの方法で慰めと励ましを与えてくれているに違いない。


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今週の1枚
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第351回目。2012年「お楽しみ演芸」の一コマ。左がけがしたお父さん。

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主の降誕(夜半)(ルカ2:1-14)天の大軍が加わり、神を賛美した

2014-12-24 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
14/12/24(No.743)
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主の降誕(夜半)
(ルカ2:1-14)
天の大群が加わり、神を賛美した
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主の降誕おめでとうございます。今日は全世界の教会と、主の降誕を祝ってミサをささげています。ふだんわたしたちが全世界の教会とのつながりを意識することは少ないかもしれませんが、今日は全国津々浦々、全世界の地の果てまで、救い主の誕生を喜び合うのです。

まず、マリアが救い主イエスを産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた馬小屋に目を注ぎましょう。どんな家族にとってもそうですが、新生児が夫婦に与えられると、その家庭の中心に置かれるものです。場所的な意味合いというよりも、生活が、幼子中心に回っていくようになるわけです。

このだれもが理解できる自然な姿は、わたしたちに救い主を迎える最後の準備を促します。わたしたちも、救い主・幼子イエスを迎える場所を、わたしたちの生活の中心に用意しなければならないのです。

ここでも、場所的な意味合いというよりも、生活と関わっています。今日わたしが喜んで受け入れた救い主は、生活の中心に置かれようとしているでしょうか。日曜日の過ごし方を考えるときに、お迎えした救い主を中心に置いて、過ごし方を考えようとしているでしょうか。それとも最初から、生活の中心に救い主は置かれてなくて、宿屋の外、家畜小屋にしか救い主は置かれないのでしょうか。

そうではなく、喜んで生活の中心に、救い主イエス・キリストを迎え入れましょう。救い主が必要としていることを優先に生活を組み立て、喜んで幼子イエスのために自分の都合を横に置きましょう。その最初の取り組みは、新生児が安らかに留まることができるための心の温かさと心の静けさを取り戻し、わたしたちがしばしば好む社会の騒がしさから一歩身を引くことだと思います。

さらに、今日の福音朗読の最後には「突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った」(2・13)というくだりがあります。天の大軍は数十万、数百万だったでしょうか。しかしわたしたちキリスト者は、カトリック教会だけでこの地上に12億人とも言われています。すべてのキリスト者を合わせれば、天使の大軍に勝るとも劣らない数なのではないでしょうか。

そのわたしたちが、全世界地の果てまで「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」(2・11)と賛美の声を上げるなら、わたしたちの信仰の証しは世界を包むと思います。病気や老齢、戦争や迫害などで教会から遠く離れている人もいます。これらの人々にも、今宵御降誕の喜びが身近に感じられるよう、ミサの中で願い求めましょう。

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‥次の説教は‥‥
主の降誕(日中)
(ヨハネ1:1-18)
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‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
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▼主の降誕おめでとうございます。今年のクリスマス、だれにこの喜びを届けますか。身近な人、愛する人ですか。遠くにいる人、敵にですか。わたしは、「教会から遠ざけられている人」のところに御降誕の喜びを届けたいと思っています。
▼今この時に、教会に行ってクリスマスを祝いたいと心から願っていても、クリスマスミサに参加できない人がいます。わたしが思い付くのは病院などに入院している人です。もちろん、他の形で(施設に入所していて、そこから外出できないなど)ミサに参加できない人もいるでしょう。
▼この、「行きたいけれども行けない人々」に、何とかしてクリスマスの喜びを届けたいと思うのです。きっと、心は教会に何不自由なくいってミサに参加できる人と同じくらい、もしかしたらそれ以上に、御降誕を待ち望んでいる人たちだと思います。
▼そんな人に、どのように御降誕の雰囲気を届けたらよいのだろうか。わたしができる最初のことは、ミサをささげている様子を録音したCDをその人に聞いてもらうこと。まずはそこからだと思う。残念ながら同じ時間に届けることはできないけれども、できるだけ速やかに、届けてあげようと思う。
▼話変わって、この時期でも日焼けを気にする人は女性くらいかもしれない。だが海の上では状況は違ってくる。先日ボートで13時から15時まで2時間海上にいたが、帰ってきていざ事務作業をしようとしたら猛烈な眠気に襲われた。なぜ眠いのか分からなかったが、とても作業できる状態ではなかったので仮眠をとった。
▼仮眠から起き上がって考えた。これは日焼けをしたせいだ。そう思ってみると何となく顔がほてっている、顔面が疲れている。そんな感じだった。これからは一年中日焼け止めをする必要があるかもしれない。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第350回目。今年最後のキジハタ。クリスマスケーキは食べずに鍋で過ごします。

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待降節第4主日(ルカ1:26-38)神の計画に一歩身を引いてみる

2014-12-21 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
14/12/21(No.742)
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待降節第4主日
(ルカ1:26-38)
神の計画に一歩身を引いてみる
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待降節第4主日、天使のお告げでマリアにイエスの誕生が予告される場面が福音朗読に選ばれました。マリアは人間の知恵では完全に把握できない出来事を受け入れようとします。人間が知恵を巡らせても把握できないとき、どのようにして出来事を受け止めるのか、マリアは教えてくださいます。

12月19日、エコー検査のために奈良尾診療所に出向きました。障子紙を張り替えるときの糊みたいなものをお腹に塗って、機械を当てて診察するのですが、肝臓を脂肪がぐるぐる巻きにしていて、写真を見せられてもどこが肝臓なのか分かりませんでした。

「脂肪肝です。内臓脂肪でいっぱいです。」わたしには脂の脂肪ではなくて、心臓が止まるほうの死亡に聞こえました。もはやわたしの内臓は死亡しているのだ、そんな死亡宣告を聞いた感じがしました。

「中田さん。このままでは肝硬変になって、取り返しがつかなくなります。」先生の話では、脂肪肝は健康体に戻る可能性があるけれども、肝硬変を発症したら決して戻らないという話でした。かわいい女医さんなのに、恐ろしいことを言うなぁと思って聞いていました。

あきらめる前に、一歩引いて考えてみることにしました。考えようによっては、手遅れとは言われなかったのですから、後戻りできる、健康を取り戻す可能性は残っているということです。だったら、つべこべ言わずに内臓脂肪を落とす努力を始めればよいわけです。

そこで、ありきたりなことですが、時間を見つけて歩く。これ以上に確実な方法はありません。もはや言い逃れできなくなったので、カレンダーに印をつけながら、できるだけ歩くようにしたいと思います。

今週はイエスの誕生が予告される場面が福音朗読に選ばれました。天使ガブリエルが、特別なメッセージを携えてマリアのもとに遣わされます。天使ガブリエルは、神から託されたメッセージをそのまま届けますが、マリアは出来事の大きさに戸惑います。自分が身ごもって男の子を産み、その子はいと高き方の子、ダビデの王座につき、永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがないと言うのです。

マリアは、天使のお告げが何のことか分かりません。天使は、続けて説明してくれるかもしれないので、「どうして、そのようなことがありえましょうか」(1・34)と問いかけます。天使は、マリアの理解を超えるこの出来事は、聖霊の働き、いと高き方の力に包まれて起こることだと説明しました。

ここで、マリアが人間的な理解力に頼って判断しようとしていたら、判断を誤っていたかもしれません。出来事は人間の理解を超えることだったからです。人間が正しく判断できる事柄は、人間の理解が及ぶ出来事に限られます。それ以上のことを正しく判断するのは、人間には不可能なのです。

そこで、マリアは一歩引いて考えました。自分は主のはしため、主の召し使いではないか。主人が自分をよいように計らってくださるはずではないか。それなら、自分の考えの及ばないことまで考えておられる主に信頼して委ねよう。

考えの及ばないことを示された時、一歩引いて考えるとよい判断にたどり着くことがあります。騙されようとしている人は、自分だけで判断しようとして却って騙されるのです。もし一歩身を引いて、近親者や第三者にひとこと相談すれば、大金を騙し取られる人ももっと少なくなるでしょう。そのように、一歩引いて考えるときに、目の前だけでなく、もう少し広く見渡せるようになったり、もう少し遠くを見通せるようになったりするわけです。

マリアは一歩引いて考えました。一歩引いたとき、主なる神が出来事の中心にいて、導いていることを知りました。出来事がどのように進んでいくのかは分からなくても、主なる神が中心にいて働かれるのだから信頼して受け入れよう。そう決断したのです。一歩引いて、見えなかったことが見えるようになり、恐れに囚われていた心が解放されました。

人間が知恵を巡らせても把握できない場面で、どのようにして出来事を受け止めるのか、マリアは教えてくださいます。それは一歩身を引いて考え、観察することです。思い通りにならないこと、いくら言っても理解してもらえないことなど、わたしたちの生活にはなぜと言いたくなることがいろいろあるでしょう。

それら難しい出来事に、マリアはお手本を示してくださいます。あなたの立っている場所から、一歩引いてみなさい。そうすることで、見えなかったものが見えるはず。マリアは人類に与えられる救い主の母となる場面で、率先してお手本を示してくださったのです。「いや待てよ」とか「ちょっと待てよ」と立ち止まったり一歩引いたりすることは、本当に必要なことを見極めるために必要な時があるのです。マリアがそれを教えてくださいました。

マリアが一歩引いて考えてくださったことで、神が人を救う計画がいよいよ実現しようとしています。神が歴史の中心に置かれて、歴史が動こうとしています。わたしたちも、神の計画の前に一歩身を引くことを学びましょう。人間が一歩引くことで神が出来事の中心になり、出来事は最高の結果をもたらし、わたしたちは喜びに満たされます。

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‥次の説教は‥‥
主の降誕(夜半)
(ルカ2:1-14)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
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▼主任司祭が預かっている会計の中に、「長崎県信用漁業協同組合連合会」というところで金銭を管理しているお金がある。いわゆる「~銀行」とか「ゆうちょ」ではない、組合が運営しているものだ。通称「信漁連」と言う。
▼浜串にはこの「信漁連」の支所があって、ATMが置かれている。そこまではよいのだが、このATMは入出金が千円単位になっている。それなのに、三つの教会から主任司祭に持ち込まれる関連する金銭は十円単位で持ち込まれてくる。月に一度とか、二か月に一度入金に行きたいのだが、何百何十円をATMが受け付けてくれない。
▼仕方なく、窓口入金ができる奈良尾支所まで車で25分かけて出向くことになる。面倒だなぁと思い続けてもう5年が経過した。その間一度も目の前の支所には行かなかった。歩いて十数歩の場所に行かず、車で25分の場所に行くことにかなり疑問を感じながらも、この連鎖から抜けることができなかった。
▼ある時、預かったお金が千円単位でうまくまとまった。そこで生まれて初めて、目の前の支所のATMを利用しに行くことができた。支所に勤めている人とも頻繁に顔を合わせていたのに、一度もATMを利用しなかったわたしのことを変人と思ったに違いない。
▼いざ目の前のATMを利用してみて、「あー、考えてみたらここでもまぁいいか」と思えるようになった。年度末はどうしても窓口で清算する必要があると思うが、それ以外は数百円の収支を次の月に回せば、それで済むなぁと思ったのである。
▼毎月何万円も収支が違えば問題だが、数百円の入金だけ来月に回すだけなら、説明は容易である。5年も費やしてしまったが、一歩引いてようやく学習した。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
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第349回目。敬老者のクリスマス会で三味線の弾き手と一緒に「奈良尾音頭」。

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待降節第3主日(ヨハネ1:6-8,19-28)あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる

2014-12-14 | Weblog
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14/12/14(No.741)
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待降節第3主日
(ヨハネ1:6-8,19-28)
あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる
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待降節第3主日、今年B年の福音朗読は洗礼者ヨハネに与えられた役割「使命」について紹介されています。わたしたちも、洗礼者ヨハネのように神から「使命」を託されていると思います。洗礼者ヨハネの使命に学びながら、わたしたちの果たすべき使命について思い巡らし、使命を果たす方法を考えてみましょう。

国政選挙当日を迎えました。大切な一票を無駄にしないように、誠実に投票して来てください。わたしはすでに期日前投票を済ませておりますが、クリスマス会を邪魔されたことと、多額の費用を使って何のための選挙なのかという疑問はとうとう拭えませんでした。

さてヨハネ福音記者は、洗礼者ヨハネのことを「彼は光ではなく、光について証しをするために来た」(1・8)と紹介します。決して自分が光であると言ったりせず、光について証しをすることに徹しています。これは、洗礼者ヨハネが、自分に託された使命をはっきりと自覚しているしるしだと思います。

自分の使命を十分に理解している人は、自分に託されていることを完全に果たすことに力を注ぎ、そこに集中するものです。たとえば野球では監督が場面によって打者に送りバントを命じることがあります。かつてバント職人と言われた川相昌弘選手は、ギネス記録となる通算533本の送りバントを決めました。

彼がバントをすれば、相手投手がどんなに難しい球を投げても、簡単にボールを転がしました。簡単ではなかったはずですが、観ている人にはいとも簡単にこなしているように見えたのです。自分に託された仕事を完璧に果たすために、常に集中していたからこそできる業です。使命に徹し、使命に生きる人の姿です。

洗礼者ヨハネは、「光であるイエス」について証しをすることに徹しました。まだイエスの働きはベールに包まれていましたが、自分は「荒れ野で叫ぶ声」(1・23)となり、「主の道をまっすぐに」(同)して舞台から去り、イエスに場を譲ったのでした。その時点ではイエスよりも洗礼者ヨハネのほうが評判を得ていましたが、彼が自分の使命を取り違えることは決してなかったのです。

洗礼者ヨハネはなぜ、自分の使命を正しく理解できたのでしょうか。実は洗礼者ヨハネの証しは今週選ばれた朗読個所と、そのあとに続く二つの証しがセットになっていて、三日連続の証しが行われています。今日の朗読では、「わたしは荒れ野で叫ぶ声である」(1・23)が中心になっています。

二日目は、自分のほうへイエスが来られるのを見て「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ」(1・29)と証しします。三日目は、「水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである」(1・33-34)とあって、三日間の証しのどこかに、自分の使命を正しく理解した鍵があるはずです。

わたしは「わたしをお遣わしになった方が・・・であるとわたしに言われた」この部分が鍵だと考えました。「これこれの様子を見たら」と、洗礼者ヨハネは自分に対する声を聞いたのです。声を聞いたことで、自分の使命は「荒れ野で叫ぶ声」であり、声の持ち主は自分ではなく、これから出会う方であると理解したのです。使命を与える方の声がはっきりと聞こえたので、使命を取り違えることもありませんでした。

わたしたちはどうでしょうか。わたしたちにも、神は使命をお与えになっていると思いますが、その声は聞き違えたり、間違えたりしないほどはっきりしているのでしょうか。

わたしは、一人ひとりが自分に都合のいいように聞こうとしない限り、使命をお与えになる神の呼びかけははっきり伝わると思っています。そのことを考えさせるのは、洗礼者ヨハネが彼のもとに集まったファリサイ派に属する人々に言った言葉です。「あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。」(1・26)

これは文字どおりには、ヨハネのもとに遣わされたファリサイ派に属する人々の間に、あなた方の知らない方がおられるという意味ですが、わたしは踏み込んで、「わたしたち一人ひとりの心の中に、あなたがたの知らない方がおられる」と考えてみました。

つまり、わたしたちに使命を授ける方は、わたしたちの中にとどまってくださって、その使命を間違いなく実行できるように導いてくださると考えたのです。ですから、わたしたち一人一人に与えられる使命は、都合のいいように聞こうとしない限りはっきりと響いていて、常にその使命に生きる生き方から逸れないように、イエスが共にいて導いてくださると思うのです。

与えられた使命は、それぞれ違いがあるでしょう。生活全体をささげておこなう使命もあるでしょうし、家庭の中で、職場の中で果たしてほしい使命もあるでしょう。ぜひその使命をこの待降節に心の中で確認し、反芻してください。やがてお迎えする救い主の成長と共に、自分の使命を確実にまっとうして神の国の完成のために働くことができますように、このミサの中で取り次ぎを願いましょう。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
待降節第4主日
(ルカ1:26-38)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼とうとう選挙の日を迎えた。わたしはすでに期日前投票を済ませているが、選挙が決まった時からこの選挙に疑問を持っていた。しかし選挙が取りやめになるはずもなく、最低限投票所に行くという責任を果たしに行ってきた。
▼だからおそらく選挙速報も、どの政党がどれくらい得票するのかも見ないと思う。翌朝の新聞は見ないわけにはいかないが、ツイッターで一度書きこんだように、議員定数の大幅削減のような大胆な改革もしない政府や国会議員にはもう期待していない。
▼選挙の話はこれで終わり。国の行く末どこ吹く風、この前2kgの鯛を釣ったが、1kg前後の鯛とは明らかに引きが違った。実際に取り込み終わるまで、久しぶりの緊張を強いられた。「ライン切れるなよ」とか、「針外れるなよ」とか「針曲がるなよ」とか。
▼たまたまこの2kgの鯛を釣る直前に針を交換していたのは幸運だった。その直前に1kgのキジハタを釣り上げたのだが、その魚の口から針をはずしてみると、2本針仕掛けの針のうち、口元にかかっていた針は曲がって伸びていた。この針に気付かずにそのまま仕掛けを投入していたら、2kgの鯛は釣り逃がしていたことだろう。
▼今年は初めて、12月に入ってからも釣りをしている。寒がりのわたしは例年だと12月に入ればアウトドアの趣味はすべて休業なのだが、1kg2kgの魚がかかる期待があるものだから、海水で指先は濡れ、しびれるくらいに冷たくなるが、それでも海に出たいと思ってしまう。分かっちゃいるけどやめられない。
▼周りのお父さんたちの話を聞けば、これからは正月用の魚を手に入れる時期に入るので、値段も高騰し需要は伸びるそうだ。わたしは漁協に卸したりはしないのだけれども、今年、そして年明けてからも魚が釣れたら小教区の信徒に無料で行商して回る予定だ。
▼ついでの話だが、大きめの魚をさばいたあと指先がガサガサになって、iPhoneの指紋認証が使えず苦笑い。何回か試すも「指紋認証が使えません。パスコードを入力してください」と断られた。使い慣れていたものが使えないのはやはり不便なので、もう少ししてから再度指紋を登録し直そうと思っている。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第348回目。鯛とキジハタをさばいたあとの指先。ガサガサになってしまった。

ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/

【文庫本の問い合わせについて】
文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
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2000円です。ご希望の方は住所と名前を添えて連絡ください。
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待降節第2主日(マルコ1:1-8)主の道を整える生き方を現代に

2014-12-07 | Weblog
当ブログをお読みくださり、ありがとうございます。

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/141207.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
14/12/07(No.740)
‥‥‥†‥‥‥‥
待降節第2主日
(マルコ1:1-8)
主の道を整える生き方を現代に
‥‥‥†‥‥‥‥

待降節第2主日は、洗礼者ヨハネが登場する場面が福音朗読に選ばれます。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」という叫びに、わたしたちはどのように応じたらよいのかを今週考えることにしましょう。わたしたちが相応しく洗礼者ヨハネの叫びに答えるなら、現代に洗礼者ヨハネの叫び声を生きたものにすることができます。

ここ数週間で、記憶に残る興味深い人と出会いました。先月お会いしたのは一組の若いカップルで、先祖に中田藤吉・中田藤太郎神父さまを持っている人でした。わたしも中田姓ですから当然この2人の中田神父さまは先祖がつながっていまして、初めてお会いした若い青年なのに、先祖の話で話し込んですっかり打ち解けてしまいました。現在平戸で病院勤務ということなので、将来また会うこともあるでしょう。

もう一人は、曽根の巡回地から来た人でした。この方も全く知らない人ですが、親同士が兄弟で福見に住んでいる人を訪ねてみたがその時は会えず、せっかく福見教会の近くに来たから主任神父さまに挨拶してから帰ろうと浜串の司祭館を訪ねてくれたのでした。

その人は話をしているうちに声が詰まり、福見に訪ねて行った人のことを、もっと早くから親しくしておくべきだった、このまま疎遠になりはしないかと心を痛めている様子でした。訪ねに行くまでにこんなに時間がかかってしまったと、初対面のわたしの前でさめざめと泣くのでした。わたしは昼ごはんの真っ最中だったので、涙ながらに話すその人の話をおかずにご飯を食べたのでした。

この二通りの出会い、何がわたしの心に響いたかというと、信仰にまっすぐ生きているという点です。先祖をたどって五島までやって来て、共通の先祖がいるわたしに信仰に生きた先祖の話を目を輝かせてしている。福見のおじさんが生きている時に世話になって、今おじさんに恩返しができない分、何十年も会っていないいとこの人に会って、おじさんの分まで恩返しがしたいと涙ながらに話している。この人たちには一本筋が通っていると思ったのです。

筋が通っている人の話、信念を曲げずに貫いている人の話は心を打つものです。なぜでしょうか。その人の中に、まっすぐに通った道があるからです。カトリック信者にとってそれは主の道です。主が通られる道筋がその人の中にまっすぐにひかれている。こういう人の話はいつも人の心を打つのではないでしょうか。

わたしは、最近出会ったこの二通りの人たちは、すでに洗礼者ヨハネの叫びに耳を傾け、その呼びかけに答えて生き始めている人々だと思いました。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」(1・3)主のために道を整え、自分の生き方に主を迎えることを最上の喜びとし、その他のことを横に置ける人々です。

今回出会った人々が、その生き方を貫いてくれたらと願っています。先祖の信仰を目を輝かせて語る生き方。親の信仰を誇りに思い、いとこと思い出話を語り合いたいと涙ながらに切望する生き方。それで十分です。どちらも、語ろうと思えば自分の成し遂げたことを語れるでしょう。それをあえて横に置いて、信仰にまつわる話を最優先に語る。こういう人は、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」この洗礼者ヨハネの叫びを現代によみがえらせている人だと思うのです。

主をお迎えする道をまっすぐに通すため、他のものを横に置ける人は誰でも、現代に洗礼者ヨハネの叫びをよみがえらせる人です。この生き方は、現代に対する挑戦でもあります。現代は、「物質的繁栄」「経済最優先」という道をまっすぐに通すために、他のものを横に置く生き方が幅を利かせています。誰かの受け売りみたいですが、「この道しかない」と言っています。

では経済最優先で信仰を横に置いて、わたしたちは救い主を本当にお迎えできるのでしょうか。信仰の話は、時として声を詰まらせるほどの深みがありますが、経済の話で声を詰まらせることが果たしてあるでしょうか。救い主をお迎えする準備をしなさいと叫ぶ洗礼者ヨハネの声を、荒れ野に閉じ込めてしまってよいでしょうか。むしろ、経済最優先と叫んでいる社会の中心で、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と響かせるべきではないでしょうか。

わたしの生き方には、信仰のまっすぐな道がひかれているでしょうか。経済最優先で、信仰の道は石だらけの歩きたくない道となっているのでしょうか。救い主をお迎えし、救い主に確実にお会いするためには、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」という声に耳を傾ける必要があります。

これからの約三週間、救い主を迎えようとしている人なのだと周りの人にも感じさせる生き方を工夫しましょう。主を迎えることが何より大事なのだなと周りの人に感じさせることができれば、あなたもまた洗礼者ヨハネの叫びを現代によみがえらせている人なのです。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
待降節第3主日
(ヨハネ1:6-8,19-28)
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ちょっとひとやすみ
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▼「この道しかない」と声高に言っている人たちに。あなたたちのおかげでわたしたちのクリスマス会が取りやめになった。700億円も国民の税金を散財して、予算5万円かそこらのささやかな楽しみを潰した。本当に腹が立つ。
▼「経済観」という言葉が適切かは分からないが、わたしの経済観ははっきりしている。「領収証(領収書)はもらえないことがあっても、請求書が無くなることはない。」ついこの前も2004年の請求書を盾に、注文した商品を発送してもらえなかった。
▼2004年と言えば、ちょうど転勤のごたごたの最中だったはず。転勤の荷物にまぎれて請求書を無くしたのかもしれないが、今回縁があって同じ会社に注文を入れたら丁寧に「2004年の未払い分を払ってくれたら今回の注文を発送します」ときた。
▼それで「うっかりしていたのだと思いますので、再度請求書を送ってください」と連絡したが、なかなか届かない。「請求書の再送をお願いしますという連絡は届きましたか?」と催促して、しばらくして「これから送ります」と言ってきた。
▼しかし、2日待っても届かない。4日経過したが来ない。5日目に届いた。そこでその日のうちに送金したのだが、送金後2日たってから「入金の確認が取れません。このままですと新規の注文はキャンセルさせていただきます」と言う。なぜ午前中に送金した通知がその日のうちに届かないのか。
▼「送金の確認は取れましたか?念のため明細書のコピーを添付します」ここまで念押ししてようやく「入金確認が取れましたので新規の注文の発送手続きに入らせていただきます。」めんどくせー。だが、「請求は決してなくならない」というわたしの体験はここでさらに固まった。
▼「言っておくが、最後の一レプトンを返すまで、決してそこから出ることはできない。」(ルカ12・59)神さまもわたしたちに貸しがあり、請求すべきものについては必ず請求書を人間に提示する。その請求を支払わなければ、わたしたちはきっと天の国に迎えられないだろう。この世でも、天の国でも、請求された内容は必ず払わなければならない。

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今週の1枚
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第347回目。うまくいけば、保育園クリスマス会の様子を。

ホームページもご覧ください。
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文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
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2000円です。ご希望の方は住所と名前を添えて連絡ください。
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