こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第3主日(マタイ4:12-23)「今、すぐに」求められているのはイエスに従うこと

2008-01-27 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
08/01/27(No.339)
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年間第3主日
(マタイ4:12-23)
「今、すぐに」求められているのはイエスに従うこと
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先週はおもしろいことが起こりました。日曜日のお知らせで、「来週愛知県の明治村に見学に行くので、馬込教会の水曜日のミサはお休みです」と言いましたが、過ぎた水曜日のミサに、半分くらいの人がお休みしていました。あの時、「来週の水曜日」と言ったんですね。「今週の水曜日」の話をしたわけではないのに、半分くらいの人はその週の水曜日のことだと思ったのでしょうか、お休みしていました。

なかには司祭館の賄いに、「あんた今週は神父さまが出かけるけん、ゆっくりさるっとやろ」とねぎらいの声をかけた人もいたそうですね。あいにく明治村はまだ行ってないんです。あと3日後なんです。これからは、今週一週間のことに限ってお知らせするか、念には念を入れてポスターのように張り出してお知らせをしなければいけないなあと思った次第です。

ついでの話ですが、明日中田神父はフランシスコ病院で半日の人間ドックにかかろうと思っています。今すぐに何かかがあるというわけではありませんが、まったく健康診断も何も受けに行かないので、これを機会に定期的に自分の健康を知るようにしたいと思っています。そのため朝からミサはありません。朝からミサをして、御体と御血の拝領をしてしまっては、検査に差し支えるからです。明日のミサは、夕方の5時半です。

今週の福音朗読のうち、4人の漁師が弟子に選ばれる様子に注目してみました。2組の兄弟がイエスの呼びかけに答えていますが、共通点があります。「すぐに従った」ということと、「イエスに従った」ということです。

物語に出てくる漁師たちは、「すぐに」従いました。「わたしについて来なさい」(4・19)という呼びかけは、普通であれば持ち帰って慎重に検討してもおかしくない内容です。本当に網を捨てるに値する人なのか、私たちの判断が間違っていれば一生を台無しにすることになります。

または、すぐにしなければならないことは別にあるのではないか、考えてみることもできたでしょう。私たちは目の前のことばかりを考えて生きているわけではありません。今日しなければならないこともあるけれども、今週のうちに仕上げなければならないこともあるでしょう。

あるいは、今月いっぱいにしなければならないことや、生きている間に一度は通らなければならないこともあるかも知れません。それら全体を見渡して、「わたしについて来なさい」という呼びかけが、本当に最優先と言えるだろうか。考えることもできたでしょう。

考えればいろいろなことが出てきますが、実際には彼らは「すぐに」「網を捨てて」(4・20)従いました。「舟と父親とを残して」(4・22)従いました。優先すべきことがあったかも知れません。それらの優先順位を変えてまでも、すぐに従うことにしたのです。

私も、ここに出てくる漁師たちの態度で考えさせられることがあります。中田神父は、ここ2、3年ずっと変わらない締め切りをいくつも抱えています。真っ先に思い付くのは日曜日の説教です。これは司祭になってから15年このかたずっと、原稿用紙に6枚分くらいは原稿を書いて準備しています。

また、マリア文庫と言って、目の見えない人のための宗教講話にも毎月15分ものの原稿を用意します。それから、「こじか」という教会学校用の読み物にも毎月毎月記事を提出しています。もちろん、教区報の「よきおとずれ」も毎月の仕事です。

締め切りの付いた仕事に追われっぱなしですが、それでは私の最優先の仕事は何かと聞かれれば、答えは別にあります。小教区の皆さんの必要に応えること。それが、ここまで並べてきたどの仕事よりも、私にとっての最優先の仕事です。

例えば、土曜日に明日の説教をどうしようかと頭を悩ませていたとします。そんな時に長崎本土のどこかの教会から、「病人の容態がいつもより悪くなってきているので、いつか長崎に来た時に病者の秘跡を授けてほしい」と頼まれたとしましょう。私は、船の都合が付けば、書きかけの説教はそのままにして、すぐに病者の秘跡を授けに行きます。

理由は2つあります。1つは、たとえ説教が書きかけであっても、自分の小教区信徒の訪問が最優先と考えているからです。ここでもし、「あー、土曜日は忙しかけん、月曜日にしてくれんね」と言ったとして、それでもしも秘跡を授けることが間に合わなくなったとしたら、取り返しがつかないからです。

もう1つの理由は、病人訪問を後回しにしてもその仕事がなくなるわけではありません。どちらにしても忙しいのだから、今行ってくるのも2日後に行くのも変わりがないと思うからです。どんなに予定が詰まっていても、小教区の信徒の願いを最優先に考える。できる限りそのようにしています。私にとって、「すぐに従うべき相手」は、教区でも全国の人々でもなく、目の前の皆さんだということです。

次に、4人の漁師たちは「イエスに従った」のでした。ほかの誰かが「わたしについて来なさい」と言ったのではありません。ほかの誰かであったら、話は別だったかも知れません。イエスの呼びかけだったから、問答無用で従ったのではないでしょうか。ここにも、私たちが考えるべきことがあると思います。

つまりこういうことです。「すぐに従うべき相手」は誰か。それはイエス・キリストであるということです。イエスが何かを命じたら、私はどんなに急いでいることがあってもそれらを横に置いて、イエスに従うべきなのです。

もしも今まさに取り組んでいる課題があるとしても、優先順位を入れ替えてでも、イエスに従うことを最優先してほしいと、物語に登場した4人の漁師たちは態度で私たちに教えているのではないでしょうか。

今週私たちが学ぶべき糧をもう一度示して説教の結びとしたいと思います。私たちが今すぐに従うべき相手は誰でしょうか。私たちがすぐに従うべき相手は、イエス・キリストです。ときには優先順位を入れ替えてでも、イエスの呼びかけに従わなければなりません。それは命に関わる場面ではなおさらです。イエスの呼びかけを最優先にすることが、結果的には命を救うことだからです。

私は、暮らしの中で何を優先すべきかを正しく判断して生きているでしょうか。ついつい、目の前のことを最優先と思っていないでしょうか。その判断は、イエスの呼びかけを最優先にした判断になっているでしょうか。誤りのないように、判断を遅らせることなく、イエスに従う毎日でありたいと思います。


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ちょっとひとやすみ
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▼先週、ゾッとする思いをした。金銭が絡んでいるので、厄年の災難だと言えなくもない。始まりはオークションの落札だった。と、ここまで書いたらもっと深刻な話が飛び込んできたので、もうこの話は書けない。深刻な話のことで頭いっぱいなので、その深刻な話から逃れるために、やっぱりオークションの話を書くことにした。
▼ン万円の商品をオークションで落札することに決めた。オークションと言っても、指定された金額で入札すればそのまま落札というタイプの商品だった。今思うと、徹底的に調べれば、ほかにもっと安い値段で同じものが手に入り、トラブルにも巻き込まれなかったのかも知れない。それはあとになって分かった話。
▼その商品は、通常の落札後の手続きと同じで、売り手が落札した自分にメールを送り、商品の代金を振り込むことと、送り先を指定してくれという指示をしてくる。いつものように入金し、送り先を知らせ、4日後の日曜日にはもう玄関先に届いていた。喜び勇んで商品を開けてみると、何だか付属品は揃っているが、肝心の本体が見あたらない。おや?と思ってもう一度確認。やはりない。
▼その上、本体を包んでいたと思われるビニール袋が、初めから開封され、空の状態で入っていた。「やばい。これは詐欺だ」。そう思ったが、考え直し、会社に連絡を取ることにした。すると会社は日曜日は休日。電話は鳴るが、誰も応答しない。会社ごと逃げたのかと思って血の気が引いた。
▼FAXを用意し、本体が入ってなかったことと、このままでは大変困るということを伝えて、翌日の返事を待った。翌日、結局こちらが催促の電話をかけたのだが、FAXはすでに読んでおり、メーカーと交渉しているという。それにしても、最初に客に電話をするのが筋ではないのか。ここで怒ったら損をすると思い、冷静に会社の対応を聞き出すことにした。
▼幸い、会社は自らに落ち度があることを謝罪し、至急同じ物を配送し、問題のあった商品と取り替えるという。23日に商品が届くので、その際配達員に落丁品を渡してほしいということで解決した。この会社はこちらに負担をかけないように対応してくれたので本当に助かった。だが似たような状況で、被害に遭う人が世の中にはたくさんいるのだろうと思うと、自分じゃなくて良かったでは済まされない。

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今週のセンテンス
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第16回目。「巻き込みたくはない」「わたしはすでに巻き込まれています」って感じ?

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
年間第4主日
(マタイ5:1-12a)
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年間第2主日(ヨハネ1:29-34)だからこの方こそ神の子であると証しした

2008-01-20 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
08/01/20(No.338)
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年間第2主日
(ヨハネ1:29-34)
だからこの方こそ神の子であると証しした
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人間の世界では、自分のことを証明するためには、「見える証拠を持っている」か「自分で結果を出す」か、いずれかが必要です。自分は頭がいいと言うのであれば、例えば学校の卒業証明書を持っているか、その場で知恵や知識を話すか、どちらかがなければ信用できません。自分は頭がいいと言うだけでは、証明にはなりません。

自分は力持ちだと言う人は、力自慢大会の表彰状か、目の前で何か重たいものを持ち上げるなどしなければ証明することはできません。中田神父が大きな魚を釣ったと言いたければ、証拠の魚を持ってくるか、食べてしまって見せることができないのであれば、調理をした賄いさんの証言が当然必要です。

まとめると、人間の世界で自分のことを証明するためには、外から証明できる物を持っているか、内側から証明できるか、どちらかがなければならないということです。ここまでの話を今日の福音を味わうための準備としたいと思います。

さてイエスは、今日洗礼者ヨハネによって、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ」(1・29)と人々に示されました。「世の罪を取り除くお方」「神の子羊」という紹介は、人間の世の中ですから、証明される必要があります。そして、証明するためには「外から証明できる物を持っているか、内側から証明できるか」どちらかが必要だと言いました。イエスは、そのどちらかを持っておられるのでしょうか。あるいは、それ以上のお方なのでしょうか。

まず、「外から証明できる物を持っておられるか」ということについて考えてみましょう。ヨハネはこう証言しています。「水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである」(1・33-34)。

聖霊によって洗礼を授け、世の罪を取り除く神の子羊であるかどうか、今この場でヨハネはまだ見てもいないし確かめてもいません。けれども、外から証明できる物をヨハネは見たというのです。「“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である」(1・33)。ですから、ヨハネの証言によって、イエスが「世の罪を取り除く神の子羊」であることは外からの証明によって確かめられました。

ところで、イエスは内側からご自分のことを証明する何かを持っているのでしょうか。今日の朗読では明らかになっていませんが、私たちはイエスが内側からご自分が何者であるかを証明するものを豊かに持っておられることを知っています。

今週はヨハネ福音書が朗読されていますので、その中から例を挙げると、病気で死にかかっている役人の息子をいやしてあげたり(4章)、ベトザタの池で38年間寝たきりだった病人をいやしてあげたり(5章)、五千人に食べ物を与えたり湖の上を歩いたり(6章)、数え上げればきりがありません。

ヨハネがイエスについて証明した外からの証し、私たちが知識として知っている内側からの証し、これら両方についてイエスがどなたであるか証明してくれるのですが、この事実は何を言っているのでしょうか。つまりそれは、イエスが「世の罪を取り除く神の子羊」であることが外側からも内側からも証明されていて、揺るがないということを意味していると思います。

今日、私が「外から証明できる物を持っているか、内側から証明できるか」考えたのはなぜだと思いますか。イエスのことを証明するために話をしているとお思いでしょうか。イエスについて私が証明するまでもありません。そうではなく、ヨハネの態度に、ここまで考えてきたことが活かされていると思ったからです。

ヨハネが、自分自身預言者だと自覚しているのであれば、外からの証明であるか内側からの証明か、いずれかで証明しなければなりません。ヨハネは、自分が預言者であることを証明するために、イエスに“霊”が降ったこと、イエスが「世の罪を取り除く神の子羊」であることを人々に知らせました。ヨハネは、イエスの証をすることで、人によらず、自分自身の内側から、預言者であることを証明したのです。

ヨハネの態度に触れたのは、ほかでもありませんが、今週の私たちの糧を得るためです。私たちも、自分がキリスト信者であることを何らかの形で証明しなければならないのです。キリスト信者であることを証明するいちばんの近道は、イエス・キリストを証しすることです。それは難しいことばかりではありません。身近なところにも、内側から自分自身を証明する物がきっとあります。

例えば、私たちが欠かさず続けているはずのものが、証をしてくれます。日曜日にミサに来ること、食事の後先に祈りを唱えること、朝夕の祈りなど、どこに行ってもいつも同じように心がけるなら、どこにいても誰に対しても、証になります。

また、隣人を自分のように愛する人も、内側から自分自身を証明するものです。その人は、イエスが命じた愛の掟を生きているのですから、その人の中のイエス・キリストを証しするのです。ある人は結婚し、家族を洗礼に導いて、キリスト信者であることを証しします。

ある人は欲望や名誉にそそのかされることなく、正しいことを選び取ることで証しします。私たちは、今の時代にあって洗礼者ヨハネと同じようにイエス・キリストを証しすることで、洗礼者ヨハネのような働きをすることができるのです。

洗礼者ヨハネは、朗読された福音の結びの部分で次のように言っています。「だから、この方こそ神の子であると証ししたのである」(1・34)。私たちも、自分自身がキリスト信者であることを証しするために、「この方こそ神の子であると証しします」という生き方を目指しましょう。いろんな場面に、私たちの証のチャンスが広がっていると思います


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ちょっとひとやすみ
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▼伊王島には2つの教会が建てられている。1つは小教区の本教会である馬込教会、もう1つは大明寺教会である。歴史は大明寺教会のほうが古く、明治13年に建てられ、長崎港内の各地へ宣教に出かける拠点となっていたそうである。この建物は外は民家のような造りだが、中は見事なコウモリ屋根の教会だという。
▼さて2つの教会はその後どうなったか。大明寺教会が建てられている島「伊王島」と馬込教会が建っている「沖ノ島」とでは季節で風の影響が正反対になる。夏は沖ノ島が被害を受け、冬は伊王島のほうが被害を受ける。昭和2年と5年に大きな台風が襲ったが、馬込教会は甚大な被害を受け、大明寺教会は被害を免れた。
▼馬込教会は直後に教会を建て直すことになる。大明寺教会はその後も明治時代の教会を維持し続けたが、老朽化も進み、維持が困難となり、昭和48年に建て直すことになった。その際、旧聖堂は解体され、愛知県犬山市の明治村に移築されることとなった。平成7年に明治村5丁目で復原再建され、現在に至っている。
▼さてなぜここまで大明寺教会の話を引っ張ったか。小教区の主任司祭でありながら、旧大明寺教会を見たことがないというのでは情けないと思い、思い切って見学することにしたのである。誰にも言わず、といきたかったが、内緒にしておけない性格なのでここに書き込みして出発しようと思っている。年内の予定をしているが、見学が終われば報告を入れたい。

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今週のセンテンス
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第15回目。言わば英語が自国語でない人々によって英語は発展した。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
年間第3主日
(マタイ4:12-23)
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主の洗礼(マタイ3:13-17)水の中から引き上げられて、愛する子となります

2008-01-13 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
08/01/13(No.337)
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主の洗礼
(マタイ3:13-17)
水の中から引き上げられて、愛する子となります
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五島・鯛ノ浦に休みをもらって帰ってきました。水曜日に帰って、土曜日に戻ってきたのですが、「ゆっくりしていけばよかとにー。伊王島の人のまっとっとですねー」と言われてしまいました。冗談だったのか知りませんが、土曜日に帰らないということは、日曜日も休めばいいのにってことだったのでしょうか。そんなことできるはずがありません。

それと、一つだけ嘘になることを言って帰ってきたのでゆるしてください。どういうことかと言うと、「ゆっくりしていけばよかとに」と声かけてくれたばあちゃんたちに、「ばあちゃん元気かねぇ」と声をかけたら「元気じゃなかー。しょっちゅう病院に行きよっとよ」と言うので、「杖もついとらんやかね。伊王島のばあちゃんたちは杖ばつきよるばい」って、伊王島の人が誰も彼も杖をついているような言い方をしてしまいました。おゆるしください。

寒くなるに違いないと思って、エスキモーのようにジャンパーの上にジャンパーを着込んで五島での釣りに備えて行ったんです。ところが思いのほか暖かくて、持って行った着物はほとんど無駄になってしまいました。その上釣り道具もいちおうイメージして持って行ったら、これまた役立たずで、持って行って損しました。

何せ錘(おもり)が40号で、ウキも40号を使ってのウキ流しだったんです。これでは持って行った25号の仕掛けはまったく役に立たないはずです。場所を変わってアラカブ・クサブ釣りになったときも、40号の錘でした。最初から手ぶらで行けば良かったと後悔しました。ちなみにクサブを60匹以上釣ったんですかね。クロを5匹、アラカブ4匹、ウマヅラカワハギ2匹、イサキ2匹、あと名前を知らない魚を5匹といった釣果でした。もしインターネットを利用できる人がいたら、掲示板(http://8214.teacup.com/koujimaga/bbs)に釣果を掲載しています。よかったらご覧下さい。

帰ってきて早々、バリバリ働かされています。土曜日は帰ってきてすぐに結婚する人の勉強会、納骨、通夜をしてから説教の準備でした。今日もお葬式が入っていますし、あとでは子どもたちの教会学校が待っています。なかなか、すぐにスイッチを入れ替えるのは大変です。

さて、今日は主の洗礼の祝日です。1つの試みとして、馬小屋のセットをバックにして、ミラクルメーカーというDVDから主の洗礼の場面をお借りして映像で流してみました。あとで片付けてもらいたいと思いますが、おそらくこんな様子でイエスは洗礼を受けたのだと思います。かなりよくできていますので、ミサの後にぜひ一度立ち寄ってご覧下さい。

主の洗礼の祝日に、1つの課題を見つけ出して、生活に取り込んでみたいと思います。それは、「水に沈められ、水から引き上げられる」という体験です。実際にこういう体験を積むことは難しいですが、同じ意味合いのことを生活の中で実践し、あるいは受け入れて生活していってほしいということです。

ではこの、「水に沈められ、水から引き上げられる」という言葉で理解してほしい内容を考えてみましょう。「水に沈められる」とか「水から引き上げられる」という体験は、誰も経験のないことだと思います。あなたが別の人から水に沈められたら、それは警察沙汰になるような事件になってしまう危険があります。つまり、「水に沈められる」ということは、そのまま、人間の死に直結するような出来事なのです。

このような経験を積んでほしいと中田神父は言いたいのです。そして、イエスの洗礼の場面も、同じことを私たちに呼びかけているのだと思います。人間にとって死を意味するような、そういう場面にあえて自分を置いてみてくださいということです。

決して、命を危険にさらしてみなさいという意味ではありません。そうではなく、自分の思っていることとは正反対のことを命じられたり、したくないこと、見たくもないような人に時間や労力を取られる、考えただけでも死ぬ思いだというような、そんな場面を避けないで、むしろ正面から向き合って生きていってほしいということです。

人は誰も、そんな厳しい場面に喜んで自分を置いたりはしません。おそらくそういう場面に身を置くときは、人から強いられていたり、望んでいないのにしかたなくそうさせられていたりということがほとんどだと思います。それで十分だと思います。いやいやそうしていても構わないから、逃げ出したいくらいの嫌な思いにも、避けて通らずに向き合っていただきたいのです。

こうして、あなたが「水に沈められる」ような辛い思いを経験しているなら、もしかしたら、神があなたを「水の中に沈めておられる」のかも知れません。人が神から「水に沈められる」のはなぜでしょうか。それは、「水に沈められる」その先にある「水から引き上げる」ためなのです。

神はしばらくのあいだ人を水の中に沈めたとしても、必ず水の中から引き上げてくださいます。神がその御子イエスを水の中に沈め、水の中から引き上げてくださったように、私たち人間にも、いったん水の中に沈められたとしても、必ず引き上げてくださるのです。神は、私たちを水の中から引き上げてくださる力あるお方なのです。

では、「水に沈められ、水から引き上げられる」ことの意味とか、目的は何でしょうか。イエスが水から上がられた直後に天から声が聞こえました。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(3・17)。水に沈められることを逃げない人は、神が必ず水から引き上げてくださり、ご自分の愛する子として受け入れてくださる。父である神は、このように私たちにも呼びかけているのではないでしょうか。

私たちは神に愛される人間であるべきです。神は、御子イエスが水の中に沈められ、水から引き上げられたときに「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と声をかけてくださったのです。水の中に沈められること、私たちが考えたように、死ぬほど避けたいことに正面から向き合うとき、神がその困難から私たちを救い出してくださり、愛する子であると声をかけてくださるのです。私たちが正面から問題と取り組むことで、私たちは神に愛される人間になるのではないでしょうか。

問題に正面から向き合っても、すべてが解決できるとは限りません。解決できないかも知れません。それでも、神は必ず私たちを引き上げてくださいます。私たちが問題に正面から向き合ったことを取り上げてくださり、愛する子として受け入れてくださいます。

どうしても向き合わなければならない問題があるとき、それは私たちが神から水の中に沈められているのだと受け止めましょう。神が水の中に沈めるのは、引き上げてくださるため、引き上げて、「愛する子」として受け入れてくださるためです。ぜひ生活の中に取り入れて、神から「愛する子」として受け入れてもらう絶好のチャンスを逃さないようにしたいものです。


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ちょっとひとやすみ
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▼釣りのうんちくを紹介。釣りをしている人はのんびり、ぼーっとしていると思われがちだが、実際はその正反対で、非常に繊細で敏感なやりとりを繰り広げている。ぼーっとしているだけの人は、釣りに来ているのではなくて、釣りの場所に来ているだけなのである。結局はエサを取られるのが関の山で、釣ることなどできない。
▼ウキを使った仕掛けでマダイを狙っているとする。120gの錘がぶら下がっている長さ1mほどのウキが、100m先までプカプカ浮いて海の上を漂う。魚がエサを口にすると、ウキが僅かに沈む。それはたとえて言えばパン食い競争でパンに食いつこうとする子どものようなものである。
▼子どもが今パンに口が触れただけなのか、それとも本格的に食いちぎって逃げようとしているのか、遠くから見極めなければならない。まだ魚がエサに対して触れただけなら、待たなければならないし、食いちぎって逃げようとしているのであれば針がかりさせなければエサだけ取られてしまう。
▼合わせを入れて針がかりさせることができるためには、繊細さ、機敏さが必要だ。海底の魚(底もの)を釣るときにも、たいてい相手は険しい岩礁帯に身を潜めている。海底すれすれをエサで誘うが、海底は起伏が激しく、ちょっと気を緩めると仕掛けが岩に引っかかり、釣りをする前に仕掛けをとられてしまう。5mから0mに一気に変化する起伏に合わせて、仕掛けを上下させることができなければ、満足できる釣果は期待できない。
▼今回、私は船頭から驚きの目で見られていた。これだけの険しい海底で釣りをして1度も仕掛けを失わずに釣り続けたからだ。しかも仕掛けを入れるたびに空振りすることなく釣り続けたので、驚いたのだろう。ウキ流し釣りの時にも、7回流して5回クロを釣ったので、すこぶる感心してくれた。この様子だと、今年の夏も喜んで釣れていってくれるに違いない。

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今週のセンテンス
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第14回目。ささいなことでも役を台無しにすることがあり、役を演じきるのは大変だ。

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‥次の説教は‥‥
年間第2主日
(ヨハネ1:29-34)
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主の公現(マタイ2:1-12)幼子にひれ伏す学者たちは態度で教えます

2008-01-06 | Weblog
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(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
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こうじ神父
「今週のお説教」
08/01/06(No.336)
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主の公現
(マタイ2:1-12)
幼子にひれ伏す学者たちは態度で教えます
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先に、今週の予定をお伝えしておきます。月曜日は、昼から旅番組の取材を受けます。宇梶剛士(うかじたかし)さんという方が旅をしてまわっているという設定だそうです。宇梶さんがどんな人か知りませんが、私もテレビに出そうなので、ちょっと緊張しています。それから、月曜日の夜は評議委員会ですので、集まりを忘れないようにしてください。

小教区の皆さんに直接影響ないですが、火曜日は、年始めの本部会議がカトリックセンターで開かれる予定です。水曜日から、休暇を取って五島に帰省する予定にしています。それで、申し訳ありませんが、病人訪問は月曜日の午前中に組みたいと思っています。どうしても都合の悪い訪問先の方は、ミサの後にお知らせください。休暇は土曜日まで予定しています。土曜日昼には帰ってきます。

休暇の予定を、ふるさとの教会の主任神父さまと、修道院の院長と、実家に知らせました。メモが残るようにFAXを入れておいたのですが、折り返しすぐに実家の母親から電話が来ました。電話の内容を聞いて私は思わず「はー?」と思いました。何を言ってきたと思います?「魚釣りの準備をして帰ってきなさい」という電話だったんです。

準備してきなさいという理由を聞いてさらにビックリしました。父親が、友だちの信者の船を借りて待っているというのです。電話の応対をしながら、すぐ私は目の前の海を見ました。五島の海が今馬込の海と同じ状態だとしても、釣りに出ようと思ったら、寒さ対策も厳重にしなければならないだろうし、釣りのポイントも手探りで探さなければなりません。五島でも趣味を楽しむことができるように計らってくれた親切は分かりますが、命あっての物種だよなぁと思いました。

さて今日は主の公現の祭日です。星占いの学者がようやく馬小屋にたどり着きました。星に導かれて見つけた幼子イエスをひれ伏して拝み、黄金・乳香・没薬のささげものを贈り物として献げたのです。私は今週の説教につながるように、伏線を張って今日を迎えました。お分かりでしょうか。

1つは、クリスマス夜半のミサの前におこなった聖劇です。どんな内容だったか思い出せますか?博士が登場し、「わたしは平民ではないから絶対に地面に降りない」と言い張っていました。それが、貧しい場所にお生まれになった幼子を見つけ、使用人に「ここで地面に降りてひざまずいてこそ、まことの博士です」と促されて幼子を礼拝したのでした。この聖劇は、クリスマス夜半のミサの心の準備と同時に、今日の日のためでもあったのです。

もう1つは、結果的には幻となってしまいましたが、「よきおとずれ1月号」の「ほしかげ」というコーナーに、クリスマスのことを考えさせるために映画「マリア」のことを書いたのです。ここでも、学者について触れて、「真に礼拝すべき相手を知っている人こそが、真の学者である」とまとめたのです。

これも、今日の公現の祭日の心の準備をさせるために用意していたのですが、中島万利神父さまが昨年末に亡くなって、編集会議の中で「ほしかげ」を誌面から外して、訃報記事を優先させようということになってしまい、私がずっと書き続けている「ほしかげ」は、新年1月号から残念ながら外されてしまったのです。長崎教区の1万8千世帯の信者さんは「ほしかげ」が載っていない事情は知らないわけですが、せめて皆さんは、身を切られる思いで新年1月号の「ほしかげ」を外したんだということは分かってほしいと思います。

今年、ご公現の祭日に、やはり星占いの学者の取った態度から糧を得たいと思います。学者たちの態度で際立っているのは、「ひれ伏して幼子を拝んだ」(2・11)という部分です。学者が、幼子に対してひれ伏したのです。

中田神父は、この姿から、自分自身が経験した1つのことを思い出しました。その経験というのは、司祭叙階式の時のことです。司祭に叙階される人は、叙階式中にすべての人の見ている中、祭壇の前でひれ伏します。それは、司祭が聖金曜日の典礼の時、初めに祭壇の前にひれ伏す、あの時と同じ動作です。

この、祭壇の前でひれ伏す動作には、「神に心も体もすべておささげする」という意味があるのだと教えられました。私は頭の中では言葉の意味は分かっていたつもりですが、「心も体もすべておささげする」ことが生涯にわたって続く、私がこの人生を終えるまで、心も体もささげるという意味だということは、十分分かっていなかったかも知れません。

司祭として10年15年と経過してみると、いろいろ不平不満も出てくるし、それを口に出したり態度に出したりしているからです。すべておささげしたはずなのに、これくらい言っても見逃してもらえる、これくらい反抗しても目をつむってもらえると思い違いしているような気がするのです。

福音に登場する学者たちは、ひれ伏して幼子を拝みました。それは心も体もすべてを幼子の前に明け渡す姿です。知恵も知識も国中に知れ渡っていたに違いない学者たちが、幼子の前で、「わたしたちはあなたの前に無に等しい者です」という意思表示をしたわけです。

そして、その決意に嘘偽りがないことを表すために、黄金・乳香・没薬を贈り物として献げました。これらの贈り物は、自分たちがいつまでもその場に居続けることができないので、自分たちの身代わりに、生涯あなたの前にひれ伏しますという決意のしるしとして贈ったものではないでしょうか。

私は、幻となった2008年1月号「よきおとずれ」の「ほしかげ」で書いた通り、「真に礼拝すべき相手を知っている人こそが、真の学者である」と思います。東の国から来た星占いの学者たちは、幼子イエスを拝んだことで自分たちが真の学者であることを証明しました。彼らを見て、私自身のことを考えてみたのです。

私は、徐々に経験を積む中で、不平不満が増えてきました。それを態度に表すこともありました。これは、真の学者の態度ではないと思います。真の学者は、いっさい余計なことを言わず態度に表さず、生涯、イエスにひれ伏す者のはずです。

今年、東方からやって来た星占いの学者たちは、生涯、イエスにひれ伏す態度を貫きなさい、そうすることで真の学者となりなさいと、教えてくれたのだと思います。


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼5日の土曜日に、会いたくない車に会いたくない場所で、会いたくない状況の中で出会った。それは清掃車で、町内でも特に狭い路上だった。こちらは250ccのバイク(KATANA)、清掃車と二輪車だから、当然こちらが道を譲らなければならない。ある程度余裕のある道であればいざ知らず、極端に狭い道路だったからたまらない。
▼その道は自分から見るとやや上り坂だった。清掃車と離合するスペースを作るためには、バイクを押しながら、しかも端に寄せなければならない。ところが、バイクの左は崖になっていて、降りて左端に寄せる余裕はない。そこでバイクにまたがったまま、足で地面を蹴って左端に寄った。幸い、左側の崖から転落することだけは免れた。
▼お互いにクラクションを軽く鳴らし、「どもども」みたいな感じでその場を別れたが、帰ってきてみると、なぜか太ももがぱんぱんに張っている。知らずに踏ん張ったらしく、緊張から解放されて初めて痛みが襲ってきたらしい。認めたくないことだが、歳はどうしても隠せない。
▼前回清掃車とはち合わせしたときのことを思い出した。その時はきつい下り坂で、足を着き損ねてバイクを右に倒してしまい、そのままバイクショップに入院したのだった。「また清掃車(怒)。どうしてここで会うかなぁ・・・。」そう思ったが今回は運がよかった。こうじ神父にとって、清掃車は「目の前を横切る黒いネコ」のような存在だ。

‥‥‥†‥‥‥
今週のセンテンス
‥‥‥†‥‥‥
第13回目。会話はその瞬間瞬間に発生する「創作芸術」みたいなものです。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
主の洗礼
(マタイ3:13-17)
‥‥‥†‥‥‥‥
===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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神の母聖マリア(ルカ2:16-21)みことばから離れない一年としましょう

2008-01-01 | Weblog
当メルマガをご購読いただき、ありがとうございます。

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/80101.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週のお説教」
08/01/01(No.335)
‥‥‥†‥‥‥‥
神の母聖マリア
(ルカ2:16-21)
みことばから離れない一年としましょう
‥‥‥†‥‥‥‥

皆さん新年明けましておめでとうございます。年賀状の挨拶をくださった方もいらっしゃるかも知れません。小教区の皆さまには、この場を借りて年賀状のお礼に代えさせていただきます。今年もよろしくお願いいたします。

昨日説教を書きながら、天気のことがものすごく心配でした。風がちっとも収まらず、おそらく海上も荒れているんだろうなぁと思いながら準備をしました。荒れる一年になるのかしらと思いながら、いやいや見える天気だけに惑わされてはいけない、もっと大切なものを見つけ出して、説教の中に盛り込まなければと思いながら一年の最初の説教を考えておりました。

教会は、一年の始まりのミサに「神の母聖マリアの祭日」を祝うようにと定めました。合わせて日本の教会にとっては今日の1月1日のミサは守るべき大祝日でもあります。神の母であるマリアから私たちが何かを学び取り、一年の歩みの道しるべとするようにと求めていると思います。朗読された福音から、糧を得ることにいたしましょう。

福音は、羊飼いたちが天使に告げられた救い主誕生の出来事を確かめに来て、そのあと出来事を人々に知らせた様子が描かれています。そしてマリアは「これらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」(2・19)というものです。

今日の福音から、羊飼いと母マリアの両方に、学ぶべきお手本があると思いました。羊飼いが教えてくれることは、救い主の誕生は、人の心を引きつけ、確かめさせる力があり、出来事を確かめた人は、出来事に促されて人々に知らせようとするということです。もう少しまとめると、この世に現れたみことばは、確かめに来るように導き、人々に告げ知らせに行くように促すということです。

この羊飼いの様子から、私たちも同じ態度を学ぶことにしましょう。新しい一年も、日曜日ごとに教会に集い、福音朗読に耳を傾け、みことばの意味を確かめ、それを次の日曜日まで生活の中で告げ知らせます。こうして私たちは一年を通して、羊飼いと同じ働きを受け継いでいくのです。

さて、羊飼いはもともと移動して生活する人々ですから、みことばが示す出来事を確認してそれを人々に告げ知らせに行くのには適している人々だと思います。けれどもすべての人が、羊飼いのように移動して回る生活をしているわけではありません。みことばの意味を確かめ、それを告げ知らせるのに適している人々もいるでしょうが、あちこちで告げ知らせて回るのが困難な人々もいると思います。

マリアは、羊飼いとは違った形でみことばに応えようとしています。イエスの母となり、幼子を腕に抱きかかえているのですから、羊飼いのように確かめた出来事を人々に知らせに行くことはできません。羊飼いのような方法ではなく、「出来事をすべて心に納めて、思い巡らす」という方法で、みことばに奉仕しました。

マリアの態度は、みことばの呼びかけに応えようとするもう一つの大切な方法です。そしてマリアの態度は、羊飼いのように移動して生活する人でなくても、どのような暮らしに置かれている人でも、立派に見倣うことのできる姿です。

ではこの、「出来事をすべて心に納めて、思い巡らす」とは、具体的にどのようなことを意味しているのでしょうか。1つは、みことばにいつも寄り添う生き方だと思います。例えばマリアは、天使のお告げの時に「その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる」(1・32)と告げられました。生まれた子がどのように偉大な人になるのか、そばにいてずっと見守ることは、マリアにとってのみことばに寄り添う生き方です。

同じように私たちも、みことばに寄り添う生き方が期待されています。日曜日ごとに与えられている福音朗読をよく読み返し、何か心にとまったみことばを、一週間かけてふくらませてほしいのです。今週の福音朗読であれば、羊飼いたちが「神をあがめ、賛美しながら帰って行った」(2・20)とありますから、自分たちも神をあがめ、賛美しながら生活の中に派遣されていこうというようにあてはめることです。こうして、私たちもみことばに寄り添う生き方ができます。

2つめのマリアの模範は、「思い巡らす」ということです。これは、出来事を心に納めるだけでなく、示された事柄の意味が分かるまで、長い時間をかけて味わうということです。

先週の説教で私は、聖家族がエジプトに避難したのには深いわけがあると話しました。早くからそのことに気付いていたのではないことも、正直に打ち明けました。長い時間をかけて、神は出来事の意味を説き明かすことがあります。

エジプトへの避難が、のちにエジプトから戻ってくることに深くつながり、それはまたかつての出エジプトの出来事を十分意識してのことだと分かったのは、まともに聖書を学び始めて15年経ってからでした。

「この箇所はこんな意味だ。それ以上は考える必要はない」と考えて思い巡らすことをやめていたら、私は永遠にエジプトへの避難を深く味わうことはできなかったでしょう。同じようなことは、皆さんにとっても起こりうることだと思います。疑問に思ったことをずっと温め続けていると、いつか答えに導かれる日が来るのです。

「出来事をすべて心に納めて、思い巡らす」マリアの態度は、体の健康を損なっている人、心に病を得ている人、何かのハンデを背負っている人、どんな人でも見倣うことのできる生き方です。この一年、マリアが示したみことばのそば近くにいる態度を手本に歩いていきましょう。マリアも、私たちのそばにいて、私たちがくじけそうになるとき、声をかけてくださると思います。

マリアは神のみことばであるイエスを抱きかかえた母です。みことばのいちばんそばにいてくださる方です。この一年、私たちがみことばを思い巡らす生活を続けるとき、神の母聖マリアは、みことばに親しむ私たちのそば近くにいて支え、助けてくださいます。


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
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▼カレンダーを貼り替えた。1つは、教区報「よきおとずれ」の年間発行計画が記されている年間カレンダー、もう一つは取引のある銀行からもらった年間カレンダーで、世界遺産候補に挙がっている教会など4つをイラストであしらったものだ。どちらもこれから1年の生活に欠かせないものだし、また1年が始まるのだなという気持ちにもなる。
▼紅白歌合戦を観ながら、説教を書いた。ほとんどは音声をゼロにしていたが、「友達の詩(うた)」だけは音量を10に上げて聞いた。1回聞いただけでは内容をつかめそうになかったのであとで繰り返し聞いてみたいと思うが、心に響く歌を聞かせてもらった。
▼「ゆく年くる年」でカトリック中町教会が中継されていた。今年は外が大荒れの天気だっただけに、この時間に、この天気にもかかわらず、こうして祈っている姿が全国に流れたのはよかったなと思った。伊王島の馬込教会でもしも真夜中のミサをしたらNHKはやって来るのだろうか。来ないだろうなぁ。
▼今年の抱負、何にしようか。「どこまで行けるか、どこまでできるか、やってみる」くらいにしておこうかな。ちなみに2007年の目標は「その日の仕事は、12時までに済ませる」だった。かなり実行できたと思う。歳のせいか、12時になったら仕事が済んでなくても布団に入っていた。今年の抱負は現実に逆行している気がする。

‥‥‥†‥‥‥
今週のセンテンス
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お休みします

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‥次の説教は‥‥
主の公現
(マタイ2:1-12)
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===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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