こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

王であるキリスト(ルカ23:35-43)十字架上のイエスに王の姿を見つけました

2007-11-25 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
07/11/25(No.327)
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王であるキリスト
(ルカ23:35-43)
十字架上のイエスに王の姿を見つけました
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今週は「王であるキリスト」の祭日、典礼暦では一年の最後の日曜日です。「王」ということについて考えてみましょう。みなさんは「王」という言葉に、どんなイメージを重ねるのでしょうか。

「王」は何かしらの権威を持っている存在です。イエスを十字架に付けることに加担した総督ピラトは、みずからの権限をこう主張しています。「お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか」(ヨハネ19・10)。ユダヤには「ヘロデ王」がいて、「総督ピラト」は厳密には王ではありませんが、王のような振る舞いをしています。

ところでイエスはどのような権威をもってご自分が王であることを世に示したのでしょうか。イエスはこの世の支配者が好むような権力を振るう王ではありませんでした。むしろ、はりつけにされた十字架の上で、王であるイエスの姿が発揮されています。

犯罪人の一人が「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(23・42)と言ったとき、イエスは「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(23・43)と言いました。イエスは、犯罪人の一人を、ほんのわずかの時間で楽園と結び付けてくださったのです。こんな恵み深いわざをなしとげる権威を持っているイエスは、確かに王なのではないでしょうか。

地上の王は、私たち人間を自分の王国に住まわせることはできても、神の国に住まわせる力は持っていません。一方イエスは、人類を、神の国に結び付け、住まわせてくださいます。例えばそれは、審判の場面に登場する王の姿です。

「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ」(マタイ25:34-36)。

私たちがイエスを王として受け入れるなら、王であるイエスは私たちが神の国で住まう席を用意してくださいます。ヨハネ福音書に次のように記されています。「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」

りっぱな王は、国民の配慮を怠りません。王であるイエスは、私たちをご自分の民として受け入れてくださり、私たちが神の国の住人となれるように、天と地を結びつけ、国を受け継ぐことができるようにしてくださり、場所を用意してくださるのです。それも、決して奪われることのない、永遠に続く住まいを用意してくださいます。

ところでイエスは、ご自分の王権をこの世の王のように見せびらかすのでしょうか。王権をことさら誇示し、強さを見せつけたりするのでしょうか。実際はその反対の態度をこの地上では貫きました。権威がはぎ取られた場面で、むしろイエスはご自分が王であることを証明します。すべてがはぎ取られた場所、つまり十字架上に、イエスの真の王としての姿が示されていました。

十字架は、神と人類を結び合わせ、人類全体を一致へと向かわせる神秘の道具です。そこには華やかさも輝きもありませんが、神の国を完成させる王であるキリストがおられます。この世の繁栄を選ぶことなく、命がけで人類を神の国の国民とするために十字架に留まってくださったのです。

十字架上のイエスをずっと説き続けた司教さまが福岡教区にいました。平田三郎司教さまです。今年の夏に亡くなりましたが、この司教さまは生前どこに行っても「十字架の縦の線と横の線」という説教を繰り返していました。

今振り返ってみれば、「神と人類との一致のしるし」「人類すべての一致のしるし」という意味深い話をしておられたのかなと思います。十字架は人類を神の国の国民とする道具であり、人類すべてを神の国の同じ国民とする道具であると、亡くなった老司教は説教の中で語りかけていたのかも知れません。

私たちは、王の民であるならば、王の望みに忠実であるべきです。その1つは、王であるキリストのもとに留まり、離れないことです。罪を犯す人は王に背を向け、国に留まることができなくなってしまいます。もう1つは、王であるキリストを言葉や行いでより多くの人に知らせるということです。全人類が王であるキリストに導かれ、一つの国民となれるように、私たちはできることをしなければなりません。

典礼の暦が来週から新しい年に変わります。この一年、私たちが神の国の住人として何ができたか、振り返ることにしましょう。そして新しい教会の一年に、今年できなかったことに取り組むことができるように、恵みを願いましょう。


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ちょっとひとやすみ
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▼「オアシス運動」と言えば、「おはようございます」「ありがとうございます」「失礼します」「すみません」。頭文字を並べて使用することはよくある。キリスト教では"AMDG"(Ad majorem Dei gloriam、より大いなる神の栄光のために)などがあるが、それよりもひんぱんに使われているのは"INRI"であろう。
▼"INRI"は少し解説が必要だが、"Iesus Nazarenus Rex Iudeorum"(ユダヤ人の王、ナザレのイエスの略。ラテン語では"J"が"I"に置き換えられることが頻繁に起こる)という意味になる。もちろん、この言葉はイエスが十字架にはりつけにされたときの罪状書きである。
▼この文字は2つのものに頻繁に使われている。1つは当然のことだが十字架に使われる。もう一つは驚かれるかも知れないがカトリックの墓地の墓碑によく用いられている。少なくとも長崎ではよく見かける。この、"INRI"についてこの前わが目を疑う事件に出くわした。
▼納骨を依頼されていた家庭の墓碑に、本来"INRI"と刻印されているはずの文字が、なんと"INORI"と刻印されていたのである。いったいどこの墓石会社だったのか知らないが、真似をしたまではよかったがまったく違う言葉「祈り」にすり替わってしまっていた。
▼初めはその刻印を見ていなかったのでよかったのだが、途中で"INORI"に気付いてからは、あまりの衝撃に言葉を失い、自分が唱えるべき祈りを唱えることができなくなってしまった。生きていると、何が起こるか分からないものだ。祈りが唱えられなくなるような衝撃は今後二度と起こらないのかと思っていたが、長生きしてもっとたくさんネタを集めたいと、今日は思った。

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今週のセンテンス
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第7回目。時に生徒が先生よりも優れていることがあります。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
待降節第1主日
(マタイ24:37-44)
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===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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年間第33主日(ルカ21:5-19)滅びないものを証しする必要があります

2007-11-18 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
07/11/18(No.326)
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年間第33主日
(ルカ21:5-19)
滅びないものを証しする必要があります
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今週の朗読は見事な石と奉納物で飾られている神殿に感心する人々の話から始まっています。見事な神殿を目の前にして、この建物は永遠に続くのではないかと考えたのでしょう。実際は紀元70年、ローマ軍の侵攻によって跡形もなく壊されてしまいました。

また、「大きな地震」「疫病」「いろいろの恐ろしい現象」、さらに「偽預言者の出現」「戦争や暴動」などは人間社会を根底から揺るがす出来事です。「迫害する者の出現」や「家族からの裏切り」も積み上げてきた人生を壊される辛い場面です。これほど多くの事象が続けば、この世界は混乱のうちに滅び、終わってしまうのではないかと思わせることでしょう。

けれども、混乱をもたらすものがどれほど頻発しても、「壊れないもの」「消えてなくならないもの」「無駄にならないもの」があるとイエスは言います。この世界に何も固く立っていられるものはないのだと思える中で、キリスト者はその滅びない何かを証ししなければならないと言うのです。

キリスト者が証しするその「滅びない何か」とは何でしょうか。2つ、示してみたいと思います。1つは、中田神父が常々思っていること、もう1つは、朗読された福音の中から拾ってみたいと思います。

あらためて言うまでもありませんが、この世の物は滅びると思います。貯金していたものも、先祖代々受け継いできたものも、いつかはなくなってしまいます。それはこの世の物だからです。そんなこの世にあって滅びないものは、「永遠の世界」「神の国」とつながったものだけが、滅びることなく永遠に残るのではないでしょうか。

例えばそれは、信仰心です。「わたしは神であるあなたを信じてきました」「わたしはあなたを愛していました」この信仰心は、私がこの世で生きている間も、またこの世を去って神のもとに呼ばれてからも、消えてなくならないのです。

この世で大切にしていたもの、この世でとても役に立っていたものがいろいろあったとしても、それらはどれも、神のもとまで持って行くことができないのです。反対に、神への信仰心は、この世を旅立つときに手放すことなく持って行くことができます。唯一、持って行くことができるものと言ってもよいでしょう。

この信仰心を、私たちは世に対して証しする必要があります。「この世の物はいつか終わりが来ます。そんな中で、私はいつまでもなくならない宝を見つけました。それは信仰です」。言葉はこの通りでなくても、何かそのような意味合いの証しを、世に対して示していくべきだと思います。

もう1つは福音から拾ってみましょう。キリスト者が証しする「滅びない何か」とは何でしょうか。今日の朗読箇所の最後にそのヒントがありました。「忍耐によって」私たちは永遠に滅びないものを証しすることができるのではないでしょうか。ここで言う「忍耐」は、「辛抱強く神を待ち望む」ことと、「この世に耐え忍ぶ」ことの両方の意味があると思います。ありとあらゆる災難が降りかかってもうおしまいだ、もうダメだと思えるようなときでも、キリスト者は周りがあっと驚くような忍耐で決して滅びない何かを世に示していくのです。

さらに、忍耐は希望と深く関わっています。希望するものがあるから、人は忍耐することができます。「どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである」(21・15)「あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない」(21・18)。これらの言葉を希望しているから、迫害の中にあったキリスト者は忍耐することができました。

今日の朗読箇所からすると、キリスト者が忍耐によって世に証しするのは「希望」ということになります。神は希望する者を必ず救ってくださると信じて日々を生きる。どんな災難もこの生き方だけは壊すことができません。忍耐によって神への希望を証しするキリスト者が増えるなら、この世界には滅びないものがあることを人々に示すことができます。聖パウロがローマの信徒への手紙の中で言っている通り、「希望は私たちを欺くことがない」(ローマ5・5)のです。

私たちは、この世にあって滅びない何かを証しするキリスト信者になっているでしょうか。滅びていくものの中に反対に埋もれてしまっていないでしょうか。滅びないものを知っていることで、私たちは地の塩、世の光となることができます。


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ちょっとひとやすみ
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▼中学、高校、大学と10年間も英語を勉強すれば、しかも「苦手科目」でなかったとすれば、いくら何でも英語の基礎はできているはずである。そのことを最初に経験したのはフィリピンでの研修だった。わずか10日間の日程だったが、いよいよになれば英語は口をついて出てくるものだと実感した研修だった。
▼10日間のうち、1週間は日本からの研修生同士で共同生活、あいだで3日間ホームステイという日程だった。ホームステイ期間中、ホストファミリーは日本語を知らないので、完璧に英語付けの生活となった。どうやって過ごしたのか、思い出せなくなってきているが、ホームステイから帰って研修生と残りの日程を過ごし始めて効果が現れた。
▼研修スタッフのIさんが、用事で私たちの班の部屋をノックした。昼寝をしていた時間だったが、起きた私の口から出たのは"Yes. Who is it?"(はーい、どなた?)だった。私はまったく意識していなかったのだが、Iさんが、「おっかしいー。神父さん、今英語で返事したよ」と指摘したのだ。それで分かったのだが、私は「はーい、どなた?」と言わずに、"Yes. Who is it?"と言ったようなのである。
▼過ぎた週は嵐のような1週間で、大事なものを失った週だった。ションボリしていたが、それでも通夜・葬儀ミサが中町教会を会場にして1度、葬儀社の建物を会場にして1度、1週間の中に2度入っていたのでできるだけ移動の船の中で頭を整理しようと努力した。
▼ぼんやり出来事を振り返っているときにフッと脳裏に浮かんだ言葉があった。"Too much. Too fast."実際には正確な引用ではなかったが、かなり前によく勉強していた通信講座のテキストにあった一節が思い浮かんだのだった。テキストに当たってみたところ、正確には次の1文だった。"Too much had happened, too fast."
▼何ともやりきれないが、この言葉が日本語を介さずにダイレクトに理解できた瞬間だった。悲しい場面で、自分も同じ悲しさを覚えて、母国語を介さずに1つのセンテンスが理解できた瞬間だった。

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今週のセンテンス
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第6回目。"Too much had happened, too fast."を含む部分。直読直解できました。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
王であるキリスト
(ルカ23:35-43)
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年間第32主日(ルカ20:27-38)復活への希望は信仰の物差しでしかはかれません

2007-11-11 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
07/11/11(No.325)
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年間第32主日(ルカ20:27-38)復活への希望は信仰の物差しでしかはかれません
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「復活」の姿を描くことは大変難しいと思います。「めとることも嫁ぐこともない」(20・35)「もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである」(20・36)こうしたイエスの言葉から私がつかんだことは、「決して滅びない者となる」ということかなあと考えました。

サドカイ派の人々は、ややこしい問題を持ち込んでイエスに詰め寄ってきました。「七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。次男、三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。最後にその女も死にました。すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです」(20・29-33)。

サドカイ派の人々の考えによると、男性が妻をめとり、跡継ぎを残すのは、「滅びないための知恵」と言えるかも知れません。子供を残さないで死ぬことは、「家系が絶えること」「その家系が存在しなくなること」となり、「滅びる」というとらえ方になっていたのでしょう。この考えは当時多くの人々が同じように考えていたと思われます。

さてこのややこしい問題は解決できるでしょうかと尋ねているわけですが、サドカイ派の人々の本心は、解決できるかどうかは興味が無くて、イエスを困らせることだけが目的だったのかも知れません。

サドカイ派の人々の質問は、どこか「滅びへの恐れ」が感じられます。これに対し、イエスはご自身復活し、信じる者を復活の命に招く方です。この復活を信じるということは、「わたしは、イエスに招かれて滅びない命にあずかるのだ」と信じることではないでしょうか。イエスの招きを信じるということは、人を恐れから解放する力を持っています。

「滅びない命」。私たちにはそれがどんな姿なのか分かりませんが、次のことは想像できます。それは、肉体の死も、火葬して墓に納骨されることも、滅びに向かっているのではなく、「滅びない命への希望」に召されているということです。希望に召されていると考えるとき、墓に眠る人々は復活のその時を希望を持って眠っていることになります。

私たちはあるとき、胸を引き裂かれるような思いで家族と離れなければならない場合があります。心の準備を与えられないまま、あっという間にこの世を去っていく方がいます。最後が近づいていることは知らされていたけれども、お別れを言えずに去っていく方もいます。人々に忘れられ、誰にさよならを言うこともなく孤独のうちに去っていく方もいます。突然の死は、残された家族を混乱におとしいれかねません。

どうしてと思うようなお別れをしなければならない時、人間が頼りにしていたものは無力です。あと少しくらいの時間はあるだろうとか、今回までは持ちこたえられるだろうとか、当てにしていたものがほとんど当てにならないことを私たちは嫌というほど経験しています。

それでも、すべての人を復活の希望に招くイエスに信頼を寄せるなら、自分たちのもとを去っていく家族について、悲しみだけではなく平安と慰めを得ることができるでしょう。なぜなら、私たちのもとを去っていくこの人は、滅びに委ねられたのではなくて、「滅びない命」に招かれたからです。

私たちは、2つの物差しを持っているのだと思います。1つはこの世の物差しで、時間の長さや多いか少ないかなどをはかるものです。この世の物差しは、長く生きたかたくさんの業績を残したかをはかることはできますが、それだけが人の一生をはかるものではないと思います。

もう1つの物差しがあります。それは信仰の物差しです。人の一生を、信仰の目で見て判断する物差しです。この人は神を愛していた人か、神に信頼を置いていた人か、それは時間の長さや多い少ないでははかれない部分です。

この信仰の物差しで人の一生をはかるとき、復活を信じていた人だったと判断できる人は幸せだと思います。なぜなら、復活を信じる人は、たとえこの世で辛い別れをしても、希望を奪われることがないのです。それは、神さまのもとへ旅立っていく本人、その人を神さまに送り出す家族、両方にあてはまります。

私たちの物差しに狂いはないでしょうか。この世の物差しに多少狂いがあっても致命的な害は受けませんが、信仰の物差しに狂いがあってはいけないと思います。私たちは、滅びない命への希望を持っている。復活への希望がある。だから神を愛し、隣人を自分のように愛していくのだ。この信仰の物差しにしっかり留まって、日々を生きていくことにいたしましょう。


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ちょっとひとやすみ
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▼絶対最後まで使い切れない「手帳」だが、11月はマメに書き込んでいる。たとえば、「11月9日(金)、250ccカタナのエンジンがかからなくなる。気合い入れて坂道の上まで運び、押し掛けをするも維持できず。しかたなくお世話になったことのあるバイクショップに連絡を取り、入院させることに」。まずはレントゲンを撮って、症状を見てもらうことから(笑)。
▼マメにメモを取っていると、見えなかったこと、見過ごしたことが見えてくる。10日間書き込みを続けているだけでも実感できるのだから、継続して、つまり1年間書き続ければ、いろいろ見落としていたことが見えるようになるのではないか。そう思うとメモ魔になるのも悪くはないかも。
▼手帳の効用は誰にも負けないくらい分かっているつもり。でも、「手帳は面倒」としか思えなかったので続けられなかった。ただ、今回に限っては、おもしろさが分かりつつあるので、続くかも知れない。ついでの話だが、続くためには楽しみが必要だ。デザインだったり、手帳の仕組みだったり。その意味で、選びに選んだ今回の手帳は正解かも知れない。
▼尊敬する枢機卿がお亡くなりになった。77歳。一般の報道でも流れたので多くの人が聞いたことのある方だと思う。ほとんど知らない人だったが、今年黙想会の指導をしてもらって、人柄であるとか、バチカン内部の様子とか、私たちにはいっさい知られていない部分をたくさん教えてもらった。この枢機卿が最後に巡礼したのが五島列島であったことも親しみを覚えた。

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今週のセンテンス
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第5回目。教育は子供の想像力をダメにしている?

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‥次の説教は‥‥
年間第33主日
(ルカ21:5-9)
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年間第31主日(ルカ19:1-10)イエスの呼びかけにすぐ応えられますか

2007-11-04 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
07/11/04(No.324)
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年間第31主日
(ルカ19:1-10)
イエスの呼びかけにすぐ応えられますか
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今週の福音朗読を読みながら私の心に響いたのは、「ザアカイ、急いで降りて来なさい」(19・5)というイエスの呼びかけです。イエスは、「ザアカイ、あなたの家に泊まりたい」とだけ言ったのではなく、「降りて来る」ことを求めました。

ザアカイは背が低くて、イエスがどんな人かを見ようとして木に登ったのでした。もしイエスに「急いで降りて来なさい」と言われなかったら、ザアカイはイエスがどんな人かを見ようとしていた目的は果たされたのですから、そのまますれ違って出会いはなかったかも知れません。まずはイエスが声をかけてくださったので、イエスとザアカイとは出会うことができました。

もう一つ、この出会いに必要なことがあります。それは、ザアカイのほうも「急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた」(19・6)ということです。ザアカイにも、「声がかかったら、すぐに応えよう」という気持ちがあったということです。木の上にザアカイはいたのですから、ザアカイが動き出さなければ出会うことは不可能でした。

さて今日私たちの教会は、小教区の亡くなったすべての人のために追悼のミサを捧げる日曜日です。この日にザアカイの物語が朗読されたことはすばらしいなぁと思っています。なぜかと言うと、木に登って動くことのできないザアカイと、今墓に眠っている人々とは、置かれている立場が似ていると思ったからです。

ザアカイはイエスの声一つですぐに木から降りてきました。墓に眠る人々も、今はまったく動くことができませんが、イエスの声一つで、復活の日には呼び覚まされる希望を持っているからです。実際イエスはラザロが墓に眠っていたときに「ラザロ、出て来なさい」(ヨハネ11・43)と大声で叫び、ラザロを呼び覚ましたことがありました。ラザロは「手と足を布で巻かれたまま出て来た」(ヨハネ11・44)、つまり急いで墓から出てきたのです。

私は、墓で眠っている人はイエスの一声を今静かに待っている人たちなのだと思っています。墓に治められて眠っていますが、イエスの声がかかれば、ザアカイがすぐに木から降りたように、いつでもイエスの声に応えて出会う準備をしている人たちです。復活の日を待って、ちゃんと準備している人たちです。

イエスの声があれば、すぐに行動できる人は幸せだと思います。今日の福音朗読に登場したザアカイは、木から降りてくるように言われてすぐに降りて来ました。墓に眠っていたラザロは、「ラザロ、出て来なさい」と言われて巻かれていた布もそのままにして墓から出て来ました。そして私たちの先祖、先に墓に眠っている人々も、イエスの一声さえあれば、復活してイエスと出会う準備ができているのです。

ここまで話を聞いて、今地上で生きている私たちには何が求められているのでしょうか。準備が求められているのだと思います。イエスに何かしら声をかけられたとき、時を置かずすぐに応える準備が必要だと思います。「持ち帰って検討します」というような悠長な態度ではいけません。声をかけられたとき、すぐに返事ができるようにしておかなければならないと思います。

では、イエスは私たちにどのような声をかけるのでしょうか。人によってさまざまだと思いますが、例えば、「聞く耳のある者は聞きなさい」(ルカ8・8)であったり、「わたしに従いなさい」(マタイ9・9)であったりします。イエスに声がかかったとき、すぐに聞いて実行する人であろうと心がけているでしょうか。またイエスに従っていく決意をふだんから持ち合わせているでしょうか。私たちは今日、このことが問われていると思います。

ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えました。ここで墓に眠っている人々は、復活の時のイエスの号令を今か今かと待っています。遅れることなく呼びかけに応える準備ができている人々です。私も同じように、生活の中で準備しているでしょうか。

私たちはこの世界で生きているときに、周りの人からのいろんな求めに応える必要があります。ある人は頼まれたことにすぐに応えてくれます。この世の求めにすぐに応じる知恵を持っているのに、なぜイエスの声にはすぐに応えられないのでしょうか。いつでも応えようという準備を、日頃から怠ってはいけないと思います。

イエスの呼びかけに、あなたはすぐに応えることができますか。2千年前のザアカイも、今墓に眠る私たちの先祖たちも、準備ができているか、私たちに問いかけているのではないでしょうか。


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ちょっとひとやすみ
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▼買っても買ってもほとんど使わないものを今年も買った。年間のスケジュール帳。見開き1ヶ月のカレンダー風の書き込みが始めに設けられていて、そのあと見開き1週間の縦組みの日程表が用意されている。大変便利そうである。
▼こうじ神父は過去これに類するスケジュール帳を何年か買い求めているが、どれも4月か、よく頑張って6月くらいで使うのをやめている。今年などはスケジュール帳がどこに行ったのかすらも分からず、葉書大のカレンダーをパソコンで印刷してここ2ヶ月ほどは過ごしている。何のために買ったのか、それすら分からない状態。
▼けれども、世の中には「買うことが、買う目的」というものは案外あるものだ。例えば年賀状。書かない年もあるが、毎年必ず買う。年賀状ソフト。去年のものでもきっと問題なく作成できるが、毎年バージョンアップするたびに買い求める。必要かなー、と思いつつも毎年買う物って、案外あると思う。
▼そういう中で、来年は決して買うまいと思うものがある。英語の学習教材。単語集も速読の本も、長文読解も、文法書も、もう要らないでしょ、というくらいに買ってきたのに何か目新しいものが出れば買い続けてきた。開いたこともないものもあるくらいだから、買う必要は絶対にないはずである。だから、せめて来年だけは、買わないことに決めた。もしも書店でこうじ神父が語学教材のコーナーに立っているのを見つけたら、それだけで注意して結構。
▼このメルマガに目を通す頃にはすでに終わっている行事だが、福岡の大神学院で「召命の集い」が行われる。今の主催者は何を意図しているか確かめていないが、私にとってはこのイベントは「司祭・修道者を希望する子どもたちを育成する絶好の機会」と思っている。願わくは今でもそうであってほしいが。
▼この集いに馬込教会の子供たちを3人連れて行く予定である。この子たちが、こうじ神父が巣立った母校を通して、司祭召命に関心を持ってくれればと願っている。連中はおそらく福岡に遊びに行くと思ってワクワクしているに違いないが。神学院が気に入ったら、いっそのことそのまま置いて帰ろうか。

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今週のセンテンス
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第4回目。英語は1文ごとの長さが長すぎないか?どうやって頭に収めるのだろうか。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
年間第32主日
(ルカ20:27-38)
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