こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

聖家族(ルカ2:41-52)神の計画に留まることは人間にふさわしい

2012-12-30 | Weblog
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‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
12/12/30(No.627)
‥‥‥†‥‥‥‥
聖家族
(ルカ2:41-52)
神の計画に留まることは人間にふさわしい
‥‥‥†‥‥‥‥

2012年最後の日曜日を迎えました。わたしにとっては、小教区の神の家族が、どのように繋がっているのかがまた少し理解できた1年でした。まったく、歩みののろいカメのようですが、来年もこの小教区の神の家族を神さまと結び合わせるために働きたいと思っております。

主の降誕を祝ってからの典礼の流れ、わたしはちょっと首をかしげることがあります。御降誕のあと聖家族、神の母聖マリア、主の公現、主の洗礼と続いていきますが、聖家族を祝う順番は、もう少し後に、具体的には御公現のあとに回したらどうかなぁと思うのです。

今日の朗読を含め、聖家族に選ばれている福音朗読は3箇所あります、1つはエジプトに避難するマタイ福音書の場面、もう1つは両親が幼子を神殿に奉献するルカ福音書の場面、最後にこの神殿奉献に続く物語である神殿での少年イエスの物語です。

どれを選んだとしても、占星術の学者たちから礼拝を受ける出来事を記念する御公現のあとに、聖家族を持ってきたほうが、流れとしてスムーズではないかなぁと思うのです。典礼の専門家ではないので、それ以上強く言うことはできませんが。

さて、今年の聖家族に選ばれているのは、神殿での12歳の少年イエスにまつわる物語です。イエスは神殿に留まり、境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられました。ここにすでに、イエスは神がおられるこの神殿で、中心にいるのにふさわしい方なのだということが暗示されているかもしれません。

けれども、両親は少年イエスが自分たちからはぐれたのだと思い、引き返しながらイエスを捜し求めます。イエスは、神殿の真ん中に留まっていること、つまり父である神のいる場所を中心と考えていますが、両親は自分たちのもとに留まっていることが中心に留まることだと考えていたのかもしれません。だから両親は少年イエスがいるべき場所から外れてしまったと考え、捜し求めたのです。

心配でたまらず、「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」(2・48)と心を痛める母マリアに、イエスは不思議な答えを返しました。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」

ここでは2つのことを取り上げたいと思います。「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」(2・49)とイエスは言っておられます。「わたしが自分の父の家にいる」と言ったのはどういうことでしょう。

これは、すでに話した通り、ヨセフとマリアの両親の中にいることが中心に留まることと考えておられるか、父である神の中にいることが中心に留まることと考えておられるかに注目すれば、少年イエスが言っておられることの意味を汲み取ることができでしょう。少年イエスは徐々にご自分の使命を自覚し、父である神の中にいることが、自分の生活の中心なのだということを意識していたのだろうと思います。

ただ両親には、イエスの言葉の意味が分かりませんでした。それにイエスが一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになったので、そのことを追求しなかったかもしれません。この答えは、マリアが「これらのことをすべて心に納めていた」とあるように、ゆっくり時間をかけて意味が明らかになっていきます。

もう1つは、問いかけの部分です。「知らなかったのですか」という問いかけは、「知らなかったのですね」という意味ではないようです。むしろ、「知らないはずはないでしょうに」という意味があるそうです。実はここが最も大切な部分かもしれません。

「知らないはずがないでしょう」「ご存知のはずです」という意味を持たせて少年イエスは両親に「知らなかったのですか」と問いかけているのですが、本当に知っていたのでしょうか。知っていたとも言えますし、知らなかったとも言えるような気がします。

「知らなかった」と言えるのは、マリアはその後、この出来事を心に納めて思い巡らすことになります。出来事の意味を理解するまで、ずっと思い返すのですから、理解できていなかったかもしれません。

けれども、ヨセフもマリアも、自分たちが神のご計画の中で活かされていること、神の計画を中心に据えて生きる必要があることを、十分理解し、実行していました。その意味では、イエスが考えておられた「わたしが自分の父の家にいる」という態度を、ヨセフもマリアも生活の中で実行していたのです。ですから、知らず知らずのうちに、イエスが両親に知らせようとしていたことを理解していたとも言えます。

神に信頼して、神の計画から逸れることなく、神の計画を生活の中心に置いて生きる。それをごく自然に行動できる。だからヨセフとマリア、御子イエスは聖家族なのだと思います。すべてを理解しているから聖家族なのではありません。理解できないこともありましたが、それを心に納め、そこに隠されて今は見えない神の計画を信じることができた。この姿勢を生涯貫いたので、「聖家族」なのです。

わたしたちも、聖家族から生き方の模範をいただきましょう。「なぜこんなことをしてくれたのですか」そんな事件を家族のだれかが起こすかも知れません。「なぜこんなことがわたしたち家族に起こるのですか」そう言いたくなる出来事に遭遇するかもしれません。そんな時でも、神のお考えがきっとあるはずだから、神を信じる信仰から逸れない。神のご計画を中心に据えて生きる。この気持ちを保ちたいと思います。

父である神のご計画の中に、家族の生活を整えていけるように、聖家族の取り次ぎをミサの中で願うことにいたしましょう。

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‥次の説教は‥‥
神の母聖マリア
(ルカ2:16-21)
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ちょっとひとやすみ
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▼皆さんは、1日に3本、栄養ドリンクを飲むことはあるだろうか?わたしはある、と言っておこう。栄養ドリンクオタクなのではない。病人訪問の日に、家庭訪問しながらご聖体を授けて回るのだが、「マラソンの練習大変ですね。どうですか。これを1本飲みませんか」と、「鷲のマークの大正製薬」あの栄養ドリンクを渡されるのである。
▼朝9時。Aさんのお宅にお邪魔し、聖体を授けて少し様子を聞いていると、「大正製薬」を飲めと言う。これでこの日1本目。10時。「マラソンの練習大変ですね。どうですか。これを1本飲みませんか」これでこの日2本目。
▼午後4時。巡回教会の病人訪問に向かい、ご聖体を授け、様子を聞く。するとここでも「マラソンの練習大変ですね。どうですか。これを1本飲みませんか」都合3本、1日で「大正製薬」を飲むことになる。ある場合は「あんたがた○○○○」に変わることもある。
▼今のところ、3本飲んだからと言って体の変調はないが、1日あたりの摂取目安はある。たぶん2本だと思う。そうなると、どれかを断らなければならない。「今日は要らない」と言うためには、何か理由が必要である。向こうは「せっかく用意したのに」と思っているだろう。
▼そんなこんなで、気の弱いわたしは日に3本、栄養ドリンクを飲むことがある。人によっては眠れなくなるとか、続けざまに飲むと鼻血を出すとか、さまざまな症状が出るらしい。もしもわたしが鼻にティッシュを詰めて歩いていたら、栄養ドリンクを4本飲んだのだろうと思って欲しい。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第234回目。もし可能なら、お告げのマリア上五島支部の年末静修の様子

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主の降誕(日中)(ヨハネ1:1-18)神のことばはこの世界を住まいとされた

2012-12-25 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
12/12/25(No.626)
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主の降誕(日中)
(ヨハネ1:1-18)
神のことばはこの世界を住まいとされた
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あらためて、御降誕おめでとうございます。主の降誕日中の典礼は、ヨハネ福音書を福音朗読に選びます。神の子、父の独り子は、ひとことで言うならば光であるということです。毎年同じテーマなのですが、この点について今年も考えてみたいと思います。

2つ、指摘したいと思います。1つは、わたしたちが喜び祝っている神の子イエスは、暗闇の中で輝いている光です。神の子イエスはまことの光で、世に来てすべての人を照らします。暗闇は、物理的な暗さと、心の暗闇、両方を含んでいます。

神の子イエスが現れたことで、暗闇が光で照らされました。光は、それがかすかなものであっても、わたしたちにその存在を感じさせます。暗い夜道を歩く時、遠くにある外灯であっても、歩くために大いに助けになります。世に来られたイエスは、たとえその存在が遠くに感じられる時でも、わたしたちの歩む道に大きな助けとなるのです。

今の生活で、真っ暗闇の体験はあまり多くはないかも知れません。けれども、手探りでスイッチを見つけ、明かりを灯すことはあるでしょう。それはわたしたちに考えるヒントを与えてくれます。わたしたちの生活は、物理的な暗さだけが暗闇ではないはずです。人間関係や、達成しなければならない目標やノルマに押しつぶされそうになった時、心の中は暗闇になるかもしれません。

そんな時、わたしたちは暗闇を照らす光、暗闇を明るく照らす明かりのスイッチを探すのです。場合によってはそれは、手探りで探さなければならないかもしれません。けれども、暗闇をすっかり明るくしてくれる光である御子イエスにわたしたちがたどり着いた時、すべての暗闇は消え去るのです。御子の存在が、暗闇を照らす光となってくれるのです。

もう1つは、神の御子は「肉となって、わたしたちの間に宿られた」(1・14)ということです。これは、まずはイエスの中に神がおられるということを意味しています。そして同時に、わたしたちの中にもいてくださるのです。御子の誕生の神秘によって、イエスご自身と、この世界が、神がいてくださる場所となりました。

イエスがわたしたちの間におられることをもう少し掘り下げましょう。わたしたちは生まれ育った環境をそれぞれ持っています。わたしの実家は、幼い頃台所は土間でした。風呂も五右衛門風呂で、薪を使って風呂を沸かしていました。

いろんな生活があり、精神的物質的豊かさもさまざまです。その、十人いれば十人とも違う暮らしの中に、神のことばであるイエス・キリストは宿ってくださったのです。宿ってくださり、置かれた場所に不平一つ漏らさず、そこに留まり続けてくださるのです。

わたしたちはこれまですでに、「あなたがいてくれて嬉しい」という体験を味わっているはずです。身近な人であったり、精神的に支えてくれる人であったりです。イエスは、わたしたちの間に宿られて、「あなたがいてくれて嬉しい」という存在になってくださるのです。

御子イエスは今日、わたしたちの暗闇すべてを照らすためにおいでになりました。同時に、この世界を住まいとしてくださいました。わたしたちが暮らしている今を、同じ場所に住んで、同じ喜びや悲しみを分け合ってくださいます。この幼子に、今日感謝をささげて帰りましょう。わたしたちに近くいてくださる神に、信頼の祈りをこのミサでおささげいたしましょう。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
聖家族
(ルカ2:41-52)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼したくないことをしてもらうのがこんなに難しいとは思わなかった。依頼先に連絡を取った。最初からしたくなさそうだったが、できない理由を探したり創作したりして、最終的に「できない」と断られた。失敗するかもしれないけどやってみようという姿勢が見られず、ガッカリきた。
▼もちろん、今回自分が果たせば済むことを人に頼んで断られたのだから、最終的には自分が動けば済むことなのだが、まぁわたしにも機械的にこなせない「説教の準備」というものがあって、手が離せないから頼んでみたのだが、今回で完全に、「おれに頼むなよ」ということだとよく分かった。
▼この「ちょっとひとやすみ」を書いている時点で、依頼して断られて戻ってきたことを果たせる残り時間はあと3時間か、4時間である。本当はこの時間を説教に当てたいのだが、そのための時間をあきらめざるを得なくなった。用件そのものは5分で終わるが、5分のために30分かけて用件を済ませるための場所に行かなければならない。その時間がもったいないのである。
▼いや、待て待て。ご年配の方々を見よ。バスの到着までゆうに30分はあるのに、早くからバス停に座っている。絶対に定刻にしか船は出発しないのに、30分も前から待っている。そんな人のことを思えば、移動の行き帰りに1時間かかってもたいしたことではないのかも知れない。そう思うことにした。
▼他に方法もなく、自分で30分かけて出向き、5分の用事を済ませてきた。実際にはついでを思い付いたので行った先で30分くらい滞在した。帰り着くまで合計1時間30分。帰ってきてから2時間後、「頼まれていた用事を引き受けてもいい」と連絡が来た。今ごろ言ってきても遅いわ。失った1時間半はもう戻ってこない。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第233回目。巡回教会小学生とのクリスマス会。テンションについていけず(泣)

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主の降誕(夜半)(ルカ2:1-14)あなたの手の中に幼子を抱いて帰ろう

2012-12-24 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
12/12/24(No.625)
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主の降誕(夜半)
(ルカ2:1-14)
あなたの手の中に幼子を抱いて帰ろう
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主の降誕、おめでとうございます。今年は、先週の木曜日に夜半のミサの説教が降ってきました。この日は夕方のミサがあり、保育園の園児たちもミサに参加します。園児たちもクリスマス会を終えて、救い主が生まれたベツレヘムでの出来事を考えるのにちょうど良い時でした。

わたしは園児のみんなに呼びかけました。「救い主が生まれた時、その場所でいちばんあたたかいものは何だったでしょうか。」質問が難しかったようですが、わたしはこう答えました。「馬小屋で、いちばんあたたかかったのは、御子イエスさまではないでしょうか。」

今まさに出産しようとしているマリアのために、宿屋も見つかりませんでした。ヨセフは、自分が犠牲になっても、マリアにだけはお産のために部屋を確保したいと努力したことでしょう。それでも願いは叶いませんでした。この時からすでに、あたたかい場所がなかったのです。

どのようにして見つけたのか、ヨセフとマリアは家畜小屋に入り、男の子を出産します。ただそこには、あると助かるような物は無かったのです。その場をあたたかくする暖炉も、お湯も無かったことでしょう。

その、あたたかくするものが何も無い場所に、救い主はお生まれになりました。生まれたての赤ちゃん、そこにあるすべての物の中で、いちばんあたたかい命だったことでしょう。準備の整っていないことを申し訳なく思っているヨセフとマリアにとっても、幼子は希望の光であり、心をあたたかくする存在だったのです。

今年のクリスマス、救い主の誕生を、「あたたかさをもたらすために救い主は生まれた」とまとめたいと思います。人々は皇帝に人口登録を命じられ、有無を言わさず命令の中に置かれていました。家畜の小屋しか場所を見つけることができず、社会の冷たさの中に置かれて、それでも救い主は、ぬくもりを届けるために、この世界にお生まれになったのです。すべての人が、幼子からぬくもりを感じるためにです。

わたしたちは、この夜半のミサを終えると喜びを胸に抱いて帰ります。その喜びは、イエスが届けてくれたものです。イエスが届けてくれたぬくもり、父なる神がお与えくださった最高の贈り物です。一人ひとり、生まれたばかりの赤ちゃんを手に抱いている姿を思い描いてください。布にくるまれ、布を通してでも十分伝わる幼子のぬくもりを想像してください。その幼子特有のぬくもりを、わたしたちは持ち帰るのです。

幼子を抱いている時、周りの人は何と声をかけるでしょうか。きっと、わたしにも赤ちゃんを抱かせてくださいと言うでしょう。わたしたちも、今日お生まれになった幼子を腕に抱いて帰り、出会う多くの人に幼子を抱かせてあげましょう。今日お生まれになった救い主の喜びを、出会う人に伝えることにしましょう。

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‥次の説教は‥‥
主の降誕(日中)
(ヨハネ1:1-18)
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ちょっとひとやすみ
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▼クリスマス夜半のミサの説教は、先週の木曜日に突然降ってきた。この「突然降ってくる」イメージはとても大切で、その時のイメージはしばしば良いアイディアとなって後押ししてくれる。
▼木曜日は、わたしにとっては気分転換の日でもある。平日に、浜串教会ではなく巡回先の福見教会でミサをするからだ。ふだん顔を付き合わせていない人たちが集まり、子供たちも巡回先の子供たちと触れ合える。さらに保育園の子供たちも集まる日なので、とても癒される。
▼木曜日の夕方の福見教会でのミサ、わたしは園児を前にして正直にこう言った。「クリスマス前なのに、クリスマス会とかで何回もお話をしているうちに、説教のネタがもうなくなりつつあるのよ。困っちゃってね。」園児たちはわたしの気持ちを理解したか知らないが、同情はしてくれた。
▼本当に慌ただしくこの時期は毎日が過ぎていく。どうやったらクリスマスをゆったりと過ごせるのだろうかと不思議になる。クリスマスから正月にかけて、10日間くらいで5本の説教の準備である。ゆっくり過ごせるはずがない。
▼そろそろ、マラソン大会の仕上がりも心配になってきた。練習して、筋肉痛になって次の日は好天なのに練習をサボる。すると翌々日は雨になり、「雨だから練習休もう」と自分に言い訳する。この繰り返しで、ここのところ週3回走ればよいほうである。今回は目標を下げざるを得ないか。

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今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第232回目。小教区クリスマス会。みことばの祭儀、入堂の場面

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待降節第4主日(ルカ1:39-45)「主がおっしゃったこと」を理解する2人

2012-12-23 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
12/12/23(No.624)
‥‥‥†‥‥‥‥
待降節第4主日
(ルカ1:39-45)
「主がおっしゃったこと」を理解する2人
‥‥‥†‥‥‥‥

水曜日に、4度目くらいの司祭団マラソントレーニングの再開をしました。11月初めに再開したのですが挫折し、3度目も挫折し、今回でたぶん4度目くらいです。もしかしたら5回目かもしれませんが、皆さんどうでもいい話だと思うのでここはあまり引っ張らないことにします。

トレーニングを再開したわけですが、来年1月29日(火)まで残り時間も少ないので、少し負荷をかけようと思いました。後浜串に向かう登り始め、土石流対策を施しているところにカーブミラーがあります。教会前バス停からそのカーブミラーまでを往復しようと考えました。

片道425メートル、往復で850メートルです。2往復すると1700メートル、区切りがいいのは6往復で5100メートルです。ざっと5キロと考えると、最終目標としてはこの6往復5キロを、25分でカバーしたいわけです。

ところが、いざ走ってみると、すでに4往復で30分かかっています。4往復と言ったら3.4キロです。1キロ9分かかっているじゃありませんか。とんでもなく遅いので、今年のマラソン大会直後に公言していた「3位を目指します」は、何だかどこかのマニフェストみたいに「たいそうなことを言っていたが、何一つ実現できなかったじゃないか」そんな陰口をたたかれそうな雲行きです。ペースを上げるように努力します。

さて、今週の福音朗読は、マリアがエリサベトを訪問する場面です。わたしは、エリサベトが最後に言った「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」(1・45)を黙想したいと思います。

エリザベトの言葉は、直接にはマリアのことをたたえた言葉です。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方」は、明らかにマリアのことだからです。ただエリサベトも、自分が言った言葉の意味を理解している女性です。なぜならエリサベトもまた、「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた」女性だからです。

マリアとエリサベトの間には、「理解できる人だけがたどり着ける世界」があるのだと思います。何を言いたいか、皆さんもお分かりだと思います。たどり着いた人だけが分かること、体験した人だけが分かる感覚のようなものがあるのです。

例を挙げましょう。わたしの釣りの師匠は、魚をかけるタイミングをこう言いました。「『コツッ』と手元に感じた時は遅いんです。『コ』と『ツ』の間でかけないと、魚はかからんのですよ。」本当にそうだなぁと思います。魚のほうも命がけですから、のんびりしている人にまで釣り上げられていたら滅びてしまいます。わずかな相手の動きを感じ取れる人だけが、狙っている魚にありつけるわけです。

正月も近くなって、あちこちで餅をついて丸めている頃でしょう。1分間で5個丸めることのできる人はいるでしょうか。1分で1個も丸めることのできないわたしには、5個丸めることのできる人の話はとてもついていけません。今わたしは司祭団マラソン大会の走り込みをしている段階ですが、現状は1キロを6分とか7分で走るレベルの話で、1キロ3分で走る人の会話にはついていけないのです。

そのように、マリアとエリサベトがたどり着いている信仰の世界、お互いを「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた人」と認め合う人同士の会話は、文字通りに信じて生きてきた生活の裏付けがなければ、成り立たない会話なのです。

そこで、マリアとエリサベトが、これまでにどのような形で「主がおっしゃったことは必ず実現する」と信じたのか、拾ってみたいと思います。

エリサベトは、「不妊の女」と周囲の人から言われていました。エリサベトがたとえ社交的で、面倒見が良い人であっても、彼女は「面倒見の良い女」とは呼んでもらえなかったのです。一つのことだけを取り上げて、みんなが同じ見方で彼女を見ていたのです。

そのエリサベトに、神はいつくしみの目を注いでくださいました。彼女はこれを、神はずっとわたしたち夫婦を愛しておられたと信じたのだと思います。神がいつくしみの目を注いでいることを彼女が忘れなかったから、子供を授かったとき神に感謝できたのです。天地創造のとき、主は命じられました。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。」(創1・28)主がおっしゃったことは必ず実現すると、信じたのです。

マリアは、ダビデの家系に属するヨセフの婚約者でした。ダビデの家系に属する人の許嫁ですから、ダビデの子孫に関する言い伝えを固く信じていたことでしょう。それは、「ダビデの子孫から、救い主が生まれる」ということです。

どのようにしてその預言が成就するのか、それはいつなのか、何も確かなことは無かったのに、マリアは「主がおっしゃったこと」として少しも疑わずに信じたのです。そして救い主の預言は、少しも疑わなかったマリアを通して実現しました。

マリアとエリサベト。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた2人が、神をたたえ合っています。こんなにすばらしい光景が、他にあるでしょうか。もしわたしたちに、このような体験ができるとしたらどんなにステキなことでしょう。

実はわたしたちにも、マリアとエリサベトは道を示しているのだと思います。「主がおっしゃったことは必ず実現する」救い主がもうすぐおいでになります。救い主はこの世界においでになります。期待している人もいるけれども、救い主のことを気にもしていない人もいる。そんな現実の世界に、神の子はお生まれになるのです。

わたしたちは、固く信じましょう。救い主が、すべての人のためにお生まれになることを。救い主が、すべての人の心の闇を照らす光であることを。救い主は、弱い人、貧しい人の心をよくご存じであることを。「主がおっしゃったことは必ず実現する」と、1人でも多くの人が声をそろえてたたえる時、そこに幸いが訪れます。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
主の降誕(夜半)
(ルカ2:1-14)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼NHK-BSの受け売りなのだが、アップルの創業者スティーブ・ジョブズ氏が7年前にカリフォルニア州シリコンバレー内にあるスタンフォード大学の卒業式のスピーチを依頼され、あの"Stay Hungry. Stay Foolish."という言葉を残したスピーチの話。彼は意外にも自身の3つのつらい体験を話して、スピーチを身近なものにしていた。
▼1つは、彼が養子に出されたこと。次は、大学を6ヶ月で中退したこと。最後は、創業者でありながら、アップルを10年後に追い出されたこと。そして彼は、信念をもって取り組んだことは、たとえ1つ1つは点であっても、あとで1本の線につながる。だから信念を持て。そういうことを語った。
▼ジョブズ氏は点が線につながることを「直感」「運命」「人生」「カルマ」と語ったが、わたしはそれは「聖霊の働き」だと思う。関連のなさそうな、一見バラバラに思える出来事を結び合わせるのは人間にはできない。人間にはできないのだから、それは神の働き、聖霊の成せるわざだと思うのだ。
▼しかしなかなか、信念をもって自分が取り組んでいることを貫き通すのは難しい。信念をもって貫いてみたら、「あなたは会社に損失をもたらしている。会社を出て行ってくれ」と追い出されたのである。もちろんあとでは彼は呼び戻され、アップル再建を見事に成し遂げるのだが、大抵の人は追放された時点で失望し、夢をあきらめてしまうだろう。
▼ではわたしたちは、聖霊がいつか「点」と「点」を結び合わせて「線」にしてくださると信じて、目の前のことを取り組んでいるだろうか。それほどの信念をもって、情熱を注いで日々を過ごしているだろうか。自分のしていることに、本当に意味と価値を見いだせているだろうか。だれが何と言おうが、自分だけはその働きを信じているだろうか。
▼そこまで考えると、岩をも砕くような情熱を注いでいるとは言えないのかもしれない。あちこちに残された「点」が、「起点」になるほどしっかり刻まれていなければ、「点」をたどって「線」にすることはできないだろう。
▼すると、それぞれの「起点」となる場所で(それがどこなのか、初めから分かっている人などいないのだが)精一杯のことをしなければならない。「あとで疲れるからほどほどに」と言っていては、その働きは「起点」にはなってくれない。

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今週の1枚
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第231回目。小教区のクリスマス会。仮装しているのはわたし。

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待降節第3主日(ルカ3:10-18)ヨハネは民衆を救い主に確実に導く

2012-12-16 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
12/12/16(No.623)
‥‥‥†‥‥‥‥
待降節第3主日
(ルカ3:10-18)
ヨハネは民衆を救い主に確実に導く
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待降節第3主日も、洗礼者ヨハネを通して救い主を待つ準備を進めたいと思います。悔い改めを宣べる洗礼者ヨハネに、群衆、徴税人、兵士たちがそれぞれ「わたしたちはどうすればよいのですか」と問いかけました。

彼らが洗礼者ヨハネに期待したのは、もしかしたら実行不可能なお題目を授けてもらうことだったかもしれません。世間知らずの洗礼者ヨハネが実行不可能なお題目を授けてくれた。ありがたいけれども実行は不可能だ。そのほうが、人々にとって都合が良かったかもしれません。

ところが洗礼者ヨハネが示した勧めは、それぞれの人が暮らしているその場で実行可能な戒めでした。人々にとっては、高尚ではあるけれども、実行不可能なお題目のほうが良かったのです。実行不可能であれば、洗礼者ヨハネの勧めを無視することができたからです。けれども、彼らが受けた勧めは、足もとで、生活を変えることなくそのまま実行可能だったのです。

「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」「規定以上のものは取り立てるな」「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」

人々は、拍子抜けしたかもしれません。そして同時に、自分たちにとって実行可能な勧めから逃げられなくなったことにも気付いたはずです。

当時人々を教え導く役割にいたのは宗教指導者たち、律法学者やファリサイ派の人たちでした。ヨハネは、彼ら宗教指導者のように人々に荷を負わせるけれども、自分は指一本触れようとしない人ではありませんでした。人々は、正面から、自分に必要な悔い改めと向き合わなければならなくなりました。

このヨハネの姿勢は、イエスにつながっていきます。イエスもまた、人々に勧めを与える際に、決して実行不可能なことを言いませんでした。たとえそれが、「持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。(中略)それから、わたしに従いなさい。」(ルカ18・22)という掟であっても、実行可能だったから金持ちの議員に勧めたのでした。

当時の宗教指導者と違って、具体的、現実的な勧めを与える洗礼者ヨハネをメシアではないかと、民衆は心の中で考えるようになります。ところがヨハネは、その考えをことごとく退けます。

「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」(3・16-17)

あとから来られる方が、「メシア・救い主」です。たとえヨハネが、当時最も優れた預言者であったとしても、民衆が本当に救いを求めるお方は、自分のあとに来られる方です。ヨハネはそのことをはっきり理解していました。

ただし、ヨハネはイエスの御生涯の最期まで見届けていませんので、「わたしよりも優れた方」が、どのように優れているのかを示すことはできなかったかもしれません。

わたしたちは違います。わたしたちはイエスの御誕生、ご死去、御復活について、聖書から十分に学ぶことができます。その点を踏まえて、洗礼者ヨハネの証しとイエスの証しを比べてみましょう。

ヨハネの姿勢が、あとから来られるイエスにも引き継がれていることはすでに話しました。ヨハネもイエスも、自分の置かれた場所で、実行可能な勧めを与える方でした。違いは、ヨハネは神に立ち帰る道を示しましたが、イエスは神に立ち帰る道を、「わたしに従いなさい」という招きで示したということです。

ちなみに、福音書の中で「わたしに従う」という箇所を探すと、18箇所当てはまる箇所が見つかります。これだけでも、ヨハネとは違って、あとから来られる方、救い主イエス・キリストは「わたしに従いなさい」という呼びかけで神に立ち帰る道を示すことが分かります。そしてわたしたちは、このお方を今心待ちにして、待降節を過ごしているのです。

ヨハネは、神に立ち帰る道を具体的に示してくれました。このヨハネの招きに従う人々を、もうすぐおいでになる方、イエス・キリストは、もっと強く引き寄せます。「わたしに従いなさい」と呼びかけて、歩く道を照らしてくださるのです。

幼子を迎える準備を急ぎましょう。わたしたちに、神に立ち帰る道を「わたしに従いなさい」という声で呼びかけてくださる救い主を、心待ちにしましょう。今全世界の教会は、教皇さまの呼びかけで信仰年を過ごしています。今年のクリスマスが、信仰を見つめ直し、確信を持ってイエスに従うきっかけとなるよう、恵みを願いましょう。

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‥次の説教は‥‥
待降節第4主日
(ルカ1:39-45)
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‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
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▼ネット上で運用しているサイトがおもに3つある。ホームページ「話の森」「i-mode話の森」、ブログ「こうじ神父今週の説教」、掲示板「こうじ神父今週の説教」。このうち、掲示板はあまり更新作業や書き込みのチェックをしていないが、ブログとホームページはわりあい手をかけている。
▼そのおかげか、ブログもホームページも毎日だれかが閲覧に来てくれている。ありがたいことだ。ブログは、だれかの目に留まりやすいようにと、3つのまったく同じブログと、記録保管のための1つのブログを更新している。
▼その中でgooという会社のブログは、アクセス数を見ることができて、この記録によると、圧倒的に土曜日の閲覧数が多く(230アクセスくらい)、次に土曜日(140アクセスくらい)、ほかの平日が100アクセスくらいである。これでも結構な数ではある。
▼意外だったのは、ホームページへのアクセス数だ。ことによると、ホームページを見ている人は誰もいないのではないか、誰もいないのであれば記録として残すつもりで更新作業をすれば良いではないかと自分を納得させていたが、最近アクセス解析のサービスにホームページ「話の森」を解析してもらうようになり、実体が分かるようになった。
▼それによると、ホームページも心優しい方が閲覧してくれているようで、毎日15アクセスくらいは記録されている。これはこれで喜べる数字だと思った。もっと娯楽性の高いホームページとか、情報満載のホームページであれば四桁くらいのアクセスはあるのかも知れないが、説教をちびちびと植林したホームページが15アクセスというのは感心だと思う。

▼責任を感じる部分もある。ホームページはがらっとデザインを変えるのは至難の業である。また、もともとのデザインの見栄えがないので、その点でも見劣りするのは否めない。そうしたさまざまの理由により、もっと役に立てそうだが使いこなせていないのが実情だ。
▼ホームページの更新は、ホームページビルダーを利用している。現在のバージョンは17、いちおう最新版だが、たいして機能を使っていないので、宝の持ち腐れのようになっている。はじめの頃こそデザイン一新とかをよくしていたが、今となってはどうすればデザイン一新ができるのか分からなくなっている。ぜひだれかに手を入れてもらいたい。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第230回目。12月16日、クリスマス街頭募金。うまく撮影できるといいのですが。

ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/
===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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待降節第2主日(ルカ3:1-6)神の言葉が降る生活を目指す

2012-12-09 | Weblog
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(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
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(音声ファイルは、MP3形式です。)
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こうじ神父
「今週の説教」
12/12/09(No.622)
‥‥‥†‥‥‥‥
待降節第2主日
(ルカ3:1-6)
神の言葉が降る生活を目指す
‥‥‥†‥‥‥‥

今週取り上げたいのは「しるしを見て、何を考えるか」ということですが、まずはとりとめのない話からです。ここ何週か、侍者の男の子がミサの前に髪の毛を濡らして整える場面に出くわしています。どうやら寝癖が気になるようで、水を付けては鏡を見て「大丈夫かなぁ」といったしぐさをしているのです。

わたしはそれを見て、「いいなぁ。寝癖ができて」と心の中で思いました。羨ましいですよねー。寝癖も、髪の毛があるからこそそうなるのであって、なければ、望むこともできません。

ところが数日前に、朝わたしが起きて鏡の前に立ったら、髪の毛が寝癖で跳ねているではありませんか。嬉しかったですね-。嬉しさのあまりそのままミサに出ようかと思ったくらいです。

ただ、わたしが寝癖を直さずにミサに出れば、子供と同じ見方はされませんから、そこは思い直して整えました。今度男の子が寝癖を直していても、「いいなぁ」とは思わないだろうと思います。

さて待降節の第2主日と第3主日は、洗礼者ヨハネを登場させて救い主への準備を促す朗読が選ばれます。今週選ばれた朗読箇所も、簡潔な表現ですが、洗礼者ヨハネが教えを宣べる場面です。この朗読箇所はわたしたちに対するしるしです。わたしたちはしるしを見て、何を考え、どう行動するかを決めなければなりません。

今、「今週の朗読はしるし」と言いましたが、洗礼者ヨハネの活動だけを見ていると、しるし全体を拾うことができず、見落とすことになります。朗読全体から、しるしの意味しているものを考えてみましょう。

「神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。」(3・2)洗礼者ヨハネに、神の言葉が降ったことは、「しるし」ではありますが「しるしの一部」です。どのような背景の中で、洗礼者ヨハネに神の言葉が降ったのでしょうか。

そのことが、直前に述べられています。直前の箇所には、その当時の権力者たちの名前がずらりと並んでいます。ローマ皇帝、ユダヤ総督、ガリラヤ領主、また近隣地域の領主、大祭司など、言ってみれば当時のユダヤ社会を支配している人々が紹介され、その中で荒れ野にいる洗礼者ヨハネに神の言葉が降ったというのです。

何を意味しているのでしょうか。権力者、地上の支配者が何人もいたにもかかわらず、神の言葉が降ったのは彼らではなく、荒れ野にいる洗礼者ヨハネに降ったということです。なぜでしょうか。それは、神のご計画があったからです。

洗礼者ヨハネに降った神の言葉をもう一度思い出しましょう。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。」(3・4-6)

この神の言葉を理解し、協力できる人は、この世の権力者ではなく、洗礼者ヨハネのような人です。力で人々を支配する者に、主の道を整えること、主の道をまっすぐにすることはできない。だから、神の言葉は権力者には降らず、洗礼者ヨハネに降ったのです。

神は、ご自分の計画を実行するために、適任者を選ぶのだと思います。ご自分の計画を確実に進めるために、場所と時間と人を慎重に選びます。神さまだって、計画が水の泡になるのは嫌いだからです。

イザヤの預言に、少し言葉を補いましょう。「谷を埋める」とは、「社会の底辺にある人々に希望の光を届ける」ことでしょう。「山と丘は低くされる」とは、名誉や金銭でおごり高ぶっている人に謙虚な心を取り戻させることでしょう。神の望む生き方をすべての人が生きるように、悔い改めの洗礼へと人々を招く。そのために神が選んだのは、権力者ではなくて洗礼者ヨハネでした。

さて最後に、今週の学びを得ましょう。わたしは、「しるしを見て、何を考えるか」ということを最初に投げかけました。今週神が示そうとするしるしを見て、わたしたちは何かの態度を取らなければなりません。

その答えは、「神の言葉はだれに降ったか」を思い出すことです。神の言葉は、権力を好む人にではなく、悔い改めて神の望む生き方に自分を合わせようと準備している人に降るのでした。ですから、わたしたちに求められているのは、神の言葉が自分に降るような生活を選ぶことです。

神の言葉が降るような生活。それは、やがて来られる救い主にすっかり向きを変える生き方です。イエス・キリストなしには物事が始まらない、そういう生き方です。朝、目が覚めた時にイエス・キリストなしに今日一日が始まらないと考えるなら、わずかでもいいから祈りをして一日を始めるはずです。

食事をしようというときに、イエス・キリストなしにこの食事は始まらないと考えるなら、食事の前に祈るはずです。こうして、イエス・キリストなしに物事は始まらないと考える人に、神の言葉が降るのです。

神の言葉は、洗礼者ヨハネに降りました。わたしたちもまた、神の言葉が降るような生活を心がけるなら、社会に対してしるしとなることができます。そしてわたしたちを見て、だれかが主の道を知り、その道を歩き出すのです。

皆さんは、「主の道を備えよ」という聖歌をご存じでしょう。できればこの聖歌を覚えて持ち帰り、日々心の中で歌い続けましょう。わたしにも、周りの多くの人にも、神の言葉が降り、神の子を喜び迎えることができるように、ミサの中で照らしを願いましょう。

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‥次の説教は‥‥
待降節第3主日
(ルカ3:10-18)
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ちょっとひとやすみ
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▼福見教会のミサをまた、また、またも寝坊してしまった(泣)11月26日(月)に寝坊したのは先週書いたが、12月3日(月)聖フランシスコ・ザビエルの祝日に、この聖人に献げられた教会のミサに寝坊した。はっきり言ってこの2回目で皆さん呆れていただろう。
▼そういうミスを犯していながら、この前の金曜日12月7日にも寝坊してしまった。ケータイを目覚ましにしているのだが、ケータイではもう起きることができないと思い知らされた。司祭館の玄関のチャイムが鳴ってようやく寝坊したのだと気付いたが、その瞬間もケータイは枕元で鳴り続けていたのである。
▼しかも金曜日は、前晩の木曜日に福見教会の司祭館に泊まり、教会から5mしか離れていない司祭館で寝坊してしまうという失態。さらに悪いことに、教会の敷地内には釣り鐘があり、その鐘もけたたましく鳴ったにもかかわらず、寝坊したのである。あーあ。
▼おそらく、釣り鐘も鳴ったのだろう。しかしこの前に関する限り、釣り鐘が鳴ったことすら覚えがない。5mしか離れていない場所でガンガン鳴り響いているはずである。2週間で3回寝坊したから、もう見放されているだろう。自分の責任だから仕方ない。
▼いろいろ原因はある。床に就いた時間があまりにも遅くて、起きることができなかったとか、5時15分にちゃんと起きたけど2度寝してしまったとか、ヘトヘトに疲れていて体が重かったとか。まぁいろいろだが、結果がすべてだ。このままだと、「あたりまえ体操」の「クビ」バージョンになってしまう。そうなる前に、目覚まし時計でも買うか。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
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第229回目。福見保育園のクリスマス会。子供たちはやはり可愛い。

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待降節第1主日(ルカ21:25-28,34-36)待ち望む人に救い主は必ず来られる

2012-12-02 | Weblog
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(音声ファイルは、MP3形式です。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
12/12/02(No.621)
‥‥‥†‥‥‥‥
待降節第1主日
(ルカ21:25-28,34-36)
待ち望む人に救い主は必ず来られる
‥‥‥†‥‥‥‥

車を運転していて、信号機が赤になった時、運転なさるみなさんはどう感じるでしょうか。「ちょうどのときに赤になって、なんて運が悪いんだろう。早く変わらないかなぁ」と思うでしょうか。

わたしは、どちらかというと、「赤になった。ということは、もうすぐ青になる」と考えます。つまり、望んでいることと反対のことが起こった時、「望んでいる状況になるのはもうすぐだ」と考えるのです。

ずっと前からこのように考えていたわけではありません。以前は、信号が目の前で赤に変わった時に、「なんてついてないんだろう」と本気で思っていました。ところが、2つの事情で考えが変わったのです。

1つは交通事故です。交差点の信号が黄色から赤に変わり、わたしが停止線で車を止めた瞬間、「ガチャン」という音がしました。対向車線の車と、交差する道路から出て来た二輪車が、出会い頭にぶつかったのです。

もし対向車線の車が停車し、わたしが無理をして交差点に入っていたら、交差する道路を走っていた二輪車は、当然わたしと接触し、事故を起こしていたでしょう。他人事ではない事故でした。わたしは事故の当事者たちを横目に見ながら、その場を去りました。

もう1つは、考え方一つで見え方は違うということをある時教えてもらったからです。その当時、わたしはとても攻撃的で、だれかが傷つくまで意見することがしばしばありました。いろんなことに、攻撃的でした。

ところが、そうした場面に当時の自分と違った考え方でとらえる目を持ってる人と出会いまして、その人の考えに耳を傾けているうちに、あー、違う見方もありなんだなぁと考えられるようになったのです。今は、考え方一つでずいぶん見え方は違うのだということが分かりました。

教会の季節は、待降節に入りました。待降節は、救い主イエス・キリストの降誕を待ち望む季節です。待降節の始まりにあたり、この季節をどのように過ごせばよいのか、考えてみたいと思います。

最初にちょっと触れたことに関連しますが、待降節は「待つ季節」です。これをどうとらえるか、という問題が当然起こります。積極的に待つのか、「待たされている」という消極的な見方をするのかです。「待たされている」と感じるなら、どうしてこんなに長い待ち時間があるのかとイライラし、この待降節を早く終わりたいとしか考えないでしょう。

むしろわたしたちは、待降節のあいだ積極的に救い主を待つべきです。与えられた福音朗読に、次のような言葉があります。「このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。」(21・28)

救い主が来るその時が近づいています。待降節は、救い主の降誕が近いことを知らせている季節なのです。そうであるなら、今は救い主をお迎えする準備を着実に進めるべきです。待つ季節なんて面倒くさい、ではなく、待つことで確実に救い主をお迎えすることができるのです。もっと言うと、待つ人でなければ救い主をふさわしくお迎えすることはできないのです。

もし手元に聖書と典礼、あるいは新約聖書があるなら、本日の福音朗読箇所を開いてみてください。物語の中に、「人々」と「あなたがた」という言葉があることに気がつくと思います。

ここでの「人々」と「あなたがた」は、使い分けられています。「人々」は、人の子が来ることにより恐れ、おびえ、不安に駆られます。「人々」で示されるグループは救い主イエス・キリストの到来の時にその場にいても、前もって準備のなかったグループです。

これに対して、「あなたがた」というのはイエス・キリストの到来を、「解放の時」「喜びの日」として迎えることができます。「解放の時が近い」と感じ、「いつも目を覚まして祈り」、その時を準備して待っていたからです。

わたしたちに、待降節の期間求められている態度がどちらであるかは明らかです。わたしたちも、目を覚まして祈り、イエスの降誕を迎える準備をしなければなりません。教会によっては、クリスマスのための聖歌の練習を積む教会もあります。

貯金箱を作って、御子イエスさまにおささげする献金を用意する習慣のある教会もあります。貯金箱には、準備した人の犠牲の心、生活に困っている国内外の多くの人が少しでもイエスの誕生を安心して迎えられるようにとの思いやりの心が表現されています。

こうして、待つことで救い主が来ると強く感じられるようになることが、待降節の大事な意味合いだと思います。伝統的な習慣が特にない教会でも、一人ひとりが、心の準備をして降誕の日を待ちましょう。何かを犠牲する心、忍耐や柔和の心、愛する心を高めながら、わたしたちにとっての最高のプレゼントである主イエス・キリストを待つことにしましょう。

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‥次の説教は‥‥
待降節第2主日
(ルカ3:1-6)
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ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼11月25日午後2時、88歳の先輩教区司祭が亡くなった。3ヶ月の闘病生活、直前まで老人ホームにいて、ミサをささげて入所者の信仰生活に奉仕しての旅立ちだった。寝たきりになることもなく、無気力になることもなく、本当に立派な司祭生活だったと思う。
▼日曜日午後に知らせが入ったので、月曜日の巡回教会のミサではミサに参加している信徒と修道者にお知らせを入れて、その日の説教ではわたしにとっての先輩の思い出話をしてあげよう。そんなことを思い描いていた。その晩は少し床に就くのが遅かったかも知れない。
▼見知らぬ医者がわたしに選択を迫った。「いずれにしてもおたくは亡くなりますが、手術をしますか、それとも痛みだけを取って残りの時間を過ごしますか」と言う。「そんなこと急に言われても、決められるか!」と怒ったが、すぐに「待てよ。これは夢だ」飛び起きて目覚まし時計を見ると5時45分になっているではないか。
▼巡回教会まで15分。完全に遅刻である。肩身の狭い思いで香部屋に行き、ミサを始めるにあたり、先輩司祭が亡くなり、通夜と葬儀がこれこれの時間に決まったとお知らせしてミサに入った。福音朗読は、「やもめの献金」だった。
▼そこでわたしは、「わたしの知る限り、亡くなった先輩司祭は、ミサの30分前に香部屋に来て待っておられた。それに比べわたしは、5時45分に布団を飛び起きて、顔も洗わずミサをしている。先輩はミサをささげるためにいわば生活費のすべてをささげて備えていた。あまりに違いすぎて恥ずかしいが、見倣いたい」
▼火曜日、浦上教会で葬儀ミサがささげられた。説教師はわたしが福岡の大神学院時代の神学院院長で、哲学神学の教授だった司祭である。どんな説教をするのだろうかと固唾を呑んで見守っていたら、わざわざ「やもめの献金」を朗読に選び、「先輩司祭は、自らをすべて、司祭職のためにささげた。有り余る中からではなく、持っている物をすべて、生活のすべてをおささげした。まさに、今日選んだ朗読に登場するやもめの生き方だった。」と説教したのである。
▼わたしは、「それ見たことか」と内心思った。「やもめの献金」を選んで説教すると、だれが想像しただろうか。けれどもわたしは、同じテーマで説教をしたのである。レベルは天と地ほどの開きがあるが、本当に嬉しかった。もちろん、調子に乗ってはいけないが。

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今週の1枚
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第228回目。来週の教会クリスマス会のプログラム。出し物、練習しなきゃ。

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