こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

洗礼者聖ヨハネの誕生(ルカ1:57-66,80)口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた

2012-06-24 | Weblog
当メルマガをご購読いただき、ありがとうございます。

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/120624.mp3

http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/120624.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
12/06/24(No.597)
‥‥‥†‥‥‥‥
洗礼者聖ヨハネの誕生
(ルカ1:57-66,80)
口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた
‥‥‥†‥‥‥‥

黙想会に参加してきました。一度だけ浜串に連れてきたことのあるパウロ会の司祭で同級生の澤田神父さまが黙想の説教師を務めてくれました。マタイ福音書からおもに話しをしてくれて、マタイ福音記者が見ているように見るそのヒントをたくさんいただきました。

今週金曜日、わたしは生活習慣病検診に行ってきます。ちょうど1年前、同じ検診を受けた時はお腹周りとかコレステロール値が標準を超えていたからだと思いますが長崎の保健士から半年間保健指導を受けて厳しい食事コントロールと規則的な運動を命じられました。

あの頃はマラソン大会に向かう時期でもありましたので、80キロの体重が73キロまで落ちて、ズボンも両手が入るくらいサイズが小さくなっていました。またちょっと戻って、体重は76キロくらいなので、今年の検診もひやひやしながら受けることになります。できれば保健士のかたとは会わないで済ませたいものです。

今年は6月24日が日曜日と重なりました。洗礼者ヨハネの誕生を、教会は大切にしているので、日曜日ですが、この祝日を優先させました。洗礼者ヨハネは、イエスに先立って人々の心を神に向かわせ、救い主への準備をさせます。喜びの出来事の中で、わたしはザカリアに注目して今週の学びを得たいと思いました。

朗読された箇所には、周囲の人が驚く中で、名前をヨハネと付ける強い意思を表し、ザカリアに大きな変化が現れます。それまで話すことができなくなっていた彼が、「すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた」(1・64)のです。

ですがこの様子は、少し慎重に観察しなければなりません。「口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた」とあるのですが、ルカ福音記者が言おうとしていることをできるだけ汲み取って考えることが大事です。日本語訳聖書では、「口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた」とあるわけですが、もとの言葉に近いように訳すなら、ザカリアは「口が開かれ、舌が自由にされ、神を賛美し始めた」と書き表すのがより近い表現なのです。

もとの言葉により近い日本語に訳すと何が見えてくるのでしょうか。比べてみると分かります。「ザカリアの口が開いた」様子と、「ザカリアの口が開かれた」様子では、何かが違うはずです。「口が開いた」とは、例えばある時間になったので自然に口が開いたとか、言いたいことがまとまったのでついに話し始めることにしたとか、自分から口を開いて語り始める様子を表しています。

ところが、「口が開かれた」となると事情は違ってきます。それは、自分で口を閉じていたのではなく、だれかに話しができなくさせられていて、それが話せるようにさせてもらったという意味になります。つまり、ザカリアは神の使いのお告げを信じることができなかったので神から話しができないようにさせられていたのですが、今や神にゆるされて話しができるようになった、口が開かれたということです。

同じように、「舌がほどける」という様子と「舌が自由にされる」という様子も、比べて違いを感じる必要があります。「舌がほどける」とは、何か肉体的な障害のために舌が回らなかったのが今やっと障害がなくなったという感じですが、「舌が自由にされる」とは、だれかから舌が使えないように不自由にされていたのがゆるしが与えられて自由にされたという感じです。

つまり、本来の言葉により近いように日本語に訳すと、ルカが伝えようとしていた本来の様子が手に取るように分かってくるのです。ルカは本来、神がザカリアの口を閉ざし、舌を不自由にしていたのだけれども、今ゆるしを与えて彼の口を開き、舌を自由にし、話すことができるようにしてくださったと伝えているのです。わたしたちが現在読んでいる日本語訳では、よくよく注意しなければ、そのことが読み取れないのです。

ところで、神に口が開かれ、神に舌が自由にされたザカリアは、神を賛美し始めたとあるのですが、人間はだれでも、神にいったん口を閉ざされ、神に口を開いてもらうと、神を賛美し始めるのでしょうか。

わたしはそうは思いません。人によっては、神に不平不満を述べることもあるだろうと思います。自分の口を神が閉ざすのは道理に適っていない。口が開かれたときに神は正しくないと、ザカリアが不満を漏らすことも十分あり得たはずです。

なぜザカリアは、神を賛美し始めたのでしょうか。ザカリアは、すべての出来事が神の手の中にあることをはっきり知ったから、神を賛美し始めたのだと思います。神の前に非の打ち所のない生活をしていたけれども、長い間自分たちに子どもが与えられなかったこと。子どもが授かると知らされて信じることができなかったときに話せなくさせられたこと。これらはわたしに責任はないではないか。そんなことを少し思っていたのかもしれません。

けれどもザカリアは、口を開かれたときにすべてを理解しました。出来事は神の手の中にあり、一つひとつの出来事を神に感謝し、神を賛美すべきであると。出来事に不満を持つ権利はどこにもないことを。そこで、ザカリアは神を賛美し始めたのです。

ザカリアに起こったことはすべての人へのしるしです。わたしたちは何か出来事が起こったとき、ある場合は不満を持つことになります。自分に都合の悪いこと、避けたいことが起こると、どうしても受け入れられないからです。けれども出来事は神によって起こされていると考えたらどうでしょうか。神が一つひとつの出来事を起こしておられる。そこには神の思いがあり、神の思いに気付いたとき、わたしたちはあらゆる出来事を神に感謝できるようになるのではないでしょうか。

洗礼者ヨハネの誕生は、すべてが神の手の中で起こっていることを考えさせる出来事です。もっとわたしたちが、出来事が神の手の中で起こっていると考えられるようになるよう願いましょう。そうすると、文句の一つも言いたかったことにも、感謝できるようになると思います。すべてに感謝、すべてを賛美できる人になれるよう、ミサの中で恵みを願いましょう。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
年間第13主日
(マルコ5:21-43)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼黙想会に参加してきた。長崎市立山にあるイエズス会の黙想の家が会場だった。文字通り山の上だったので、夕食の時の長崎の夜景は別世界だった。そんな場所でテレビもなく、小さな机とベッドだけの部屋に寝起きしながら、ひたすら聖書のみことばに耳を傾けた。
▼同級生の司祭が説教師を務めていたのだが、同級生のわたしがいたので、さぞやりづらかっただろう。先輩であれ後輩であれ、学年が違えばまた気持ちも違うだろうが、同級生だけはやはり意識したのではないだろうか。
▼彼の指導のもとに、おもにマタイ福音書を読み続けた。わたしたちにとって電気と水は大切で、その中でも電気は止めても水は止めないほど、水は大切なわけだが、パレスチナでその水に当たるのが「ぶどう酒」なのだと聞いたとき、「ぶどう園と農夫のたとえ」とか、「ぶどう園の労働者のたとえ」とか、もっと真に迫って読み進めることができた。
▼また、黙想指導を依頼されるときのことを考えた。彼が示してくれた態度は、自分が黙想指導をするときのお手本として受け止めたい。技巧に走らず、大切な点をしっかり掘り下げる。それが黙想指導者の本来あるべき姿だと、言葉ではなく態度で教えてくれた。
▼テレビもラジオもない生活だったが、物足りなさは感じなかった。さすがにネットを繋げないのは忍びなかったのでちらほらネットをつないでメールチェックはしたが、畑に隠された宝を見つけて大喜びする商人のように、黙想の家で豊かな生活を味わうことができた。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第204回目。黙想会感謝のミサ。オルガンのシスターの他は司祭だけでのミサ。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/120624.jpg

ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/
===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

年間第11主日(マルコ4:26-34)蒔かれた種には雨と太陽が必要

2012-06-17 | Weblog
当メルマガをご購読いただき、ありがとうございます。

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/120617.mp3

http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/120617.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
12/06/17(No.596)
‥‥‥†‥‥‥‥
年間第11主
日(マルコ4:26-34)
蒔かれた種には雨と太陽が必要
‥‥‥†‥‥‥‥

祈祷書の祈り、皆さんは祈祷書を開いて唱えているでしょうか。祈祷書に載っている祈りの中には、見ないで唱えている祈りもあるのではないでしょうか。わたしも、見ないで唱える祈りがあります。

たとえば、マリアさまに対する祈り「元后あわれみ深き御母」「聖母のご保護を求むる祈り」「聖マリアに身を献ぐる祈り」とか、聖体に対する祈りでは「聖体に対する聖トマの祈り」「聖体を訪い奉る時の祈り」などです。わたしは幼児洗礼なので、小学生の頃に覚えさせられ、唱えていた祈りは、やはり記憶しています。

しかしどのようにして覚えたのかと言われたら、「分からない」としか答えようがありません。きょうの福音朗読の言葉を借りれば、「夜昼、寝起きしているうちに、芽を出して成長した」そういうことなのだと思います。特別覚えるための工夫をしませんでしたが、日々の祈りの中で、自然に覚えたのです。

現在はどうでしょう。子どもたちに、聖母マリアへのお祈りで、覚えている祈りがありますかと聞いたら、「ない」と答えるかもしれません。覚えていないからどうこうということではありませんが、子どもの時代に種蒔きされた信仰が、芽を出し、茎、穂、そして穂には豊かな実ができる、そんな段階を迎えられるだろうかと心配します。

種蒔きは、どの子どもたちにも行われているのだと思います。保育所での幼い頃の体験がそうですし、小学生時代にロザリオの祈りを唱えて、それに合わせて聖母マリアに対する祈りを唱えてきました。聖マリアの連祷も、当時はすらすら唱えていたはずです。そうした種蒔きが、実を結ぶまでに至るか、蒔かれた種のままでいるかは、その後の過ごし方に何か違いがあるのではないでしょうか。

2つ、考えてみました。1つは、雨です。梅雨の時期に入り、金曜土曜日などはよく降るなぁと思うくらいに雨が降りました。わたしの実家は牛を飼っているため、雨が降ると牛のえさとなる牧草の刈り入れをすることができません。雨は困るなぁと思ったりしたものですが、きっと雨を待ち望んでいる人もいることでしょう。

この梅雨の季節に、わたしは地中の生き物はどうなっているのだろうかと思うことがあります。とくにセミです。この長雨を、セミの幼虫はどう思って過ごしているのでしょうか。セミはご存じの通り何年も地中にいて、1週間とか、2週間しか地上にいません。そのタイミングを、この雨の中、じっと待ち続けているのでしょうか。雨がしみこむ地中で、もう少ししたら地上だと、考えているのでしょうか。

この雨は、畑に蒔いた種に芽を出すチャンスを与えてくれると思います。ほんの少しの雨ではなくて、たっぷりと降った雨が、種に大きな変化を与えます。子どもに例えると、信仰の種蒔きをされて、たくさんの雨が降り注がれた時に、大きな変化を成し遂げるのです。

信仰の蒔かれた種に降り注ぐ雨とは何でしょうか。教会に集まって、また家庭の中で、繰り返し繰り返し唱えることだと思います。祈りの反復が子どもたちの中に雨となって降り注ぎ、しみこみ、やがて種の中に隠されている神秘を芽生えさせるのです。繰り返しによって十分に祈りに親しんだ子どもたちは、いつかその祈りの必要性を思い出し、自分から祈り始めるようになるのではないでしょうか。

種が実を結ぶもう1つの要素は、芽を出したあとに注がれる陽の光だと思います。十分な雨のあと、十分な陽の光が注がれて、種から芽を出した植物は立派に成長していきます。子どもたちに蒔かれた信仰の種が芽吹いたなら、十分に陽の光を当てなければなりません。

信仰の芽吹きに注がれる陽の光とは何でしょうか。わたしは、唱えている祈りの解き明かしだと思います。祈りの一つひとつの言葉が、意味のあるものとなるように照らしを与えてあげることで、子どもたちはあとで祈りをかみしめ、ただ唱えるだけでなく、願いを込めて唱えることができるようになるのです。

振り返ると、だれかがわたしに降り注ぐ雨をくださり、言葉の意味を十分に理解するための陽の光を注いでくださったので、祈りを覚え、祈りを理解して唱えることができるようになったのだと思います。けれども、それがだれなのか、はっきりとは分かりません。

両親なのか、祖父母なのか、または本家のおじさんおばさんだったのか。それらのすべてかもしれませんが、やはり突き詰めると、わたしに雨を降り注ぎ、陽の光を当ててくださったのは、父なる神なのだと思います。わたしのそばにいる人々を動かして、わたしに蒔かれた種が芽を出し、立派に実るように導いたのは、父なる神なのです。

そこで今週の学びを得ることにしましょう。父なる神の計らいで、だれかがわたしに手を貸してくださり、蒔かれた種が芽を出し、実を結んだように、わたしたちも種蒔かれた人に雨を降らせ、陽の光を当てるお手伝いをしましょう。

芽を出させ、実を実らせるのは神さまがきっと成し遂げてくださいます。わたしたちは神の働きを信じて、人々に蒔かれた信仰の種が大きな変化を始めるお手伝いをしましょう。蒔かれた種の多くが、種のまま留まるなら、神の国の成長はいつまでも望めません。神の国が夜昼寝起きするうちに成長することを、社会に対して証しすることができるよう、ミサの中でその知恵を願いましょう。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
洗礼者聖ヨハネの誕生
(ルカ1:57-66,80)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼ざあざあと音を立てて雨が降っている。いよいよ梅雨だ。部屋の中で、湿気がこもりそうな場所をよく除湿しないと、梅雨あけたときにカビカビになってしまう。と頭では考えるが、いろんなものがこの時期を越えると使えなくなってしまう。管理が悪いのがすべてだが、もったいない話だ。
▼先週と今週にかけて、長崎教区の司祭たちは黙想会に参加している。今年ははっきりと、前半の黙想会と後半の黙想会という期間を設定し、ある程度参加者が分散して、黙想会も集中できるように、また小教区での対応も、ある程度他の司祭がカバーできるように、そのようなねらいで実施されている。
▼わたしは後半の部を申し込んだ。理由は説教師。今年の後半の部の説教を担当しているのは同級生の司祭である。同級生と言っても、修道会の司祭で会の中ではもう責任のある立場に立っている。翻訳者としても日本の教会レベルで貢献しているし、単なる同級生ではなく、尊敬する同級生だ。
▼後半の部には、同級生がほかにも参加するのだろうと思っていた。ところが蓋を開けると、自分しか申し込んでいなかった。後半の部が、会場を長崎市立山の黙想の家に設定しているのも起因しているのかもしれないが、後半の部の全参加者は12人である。
▼おそらく前半の部には70人以上参加しているのだろう。これでは、分散させるという目的も、より集中して黙想してもらうということも、絵に描いた餅のような気がするが、少なくとも後半の部の参加者は、両方の益が得られることになるだろう。
▼黙想会が楽しみである。いろいろ理由がある。説教が楽しみだという理由が最上位だが、ほかにも楽しみにしていることがある。ここに並べるほどの理由ではないけれども。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第203回目。アジサイが、雨を喜んで受けている。この土の下に、セミはいる?
http://hanashi-no-mori.news-site.net/120617.jpg

ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/
===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

特別寄稿・ツイッターを利用してみての考察

2012-06-11 | Weblog
ツイッターをしばらく使ってみた

・ツイッターのどこが面白いのか、わからない(本音です)
・ツイッターのどこが便利なのか、わからない(本音です)
・そんな中で始まったツイッターを何にたとえるか→→巡礼者の記帳
巡礼者は旅先で「今ここにいます」と記入する。しかし、だれが読むかも分からない。ツイッターも、書き込みしてもだれが読むか分からない。巡礼者は記帳する時に、「もしだれも読んでくれなかったらどうしよう・・・」と心配したりしない。
巡礼者は単純に記入することに意味を見いだせる。そこから、ツイッターの記入も、巡礼の記帳のように、書いてみたいことを素直に書くのがよいと思う。それは、誰かが見てくれるかもしれないし、時間の経過の中で埋もれてしまうかもしれないが、それでも構わない、という気持ちで書くし、埋もれても後悔しないことを書いておけばよいと思う。
巡礼者のノートに何を書いたことがあるか、思い出してみるとよい。

・ツイッターをどう活かすか(1)
「情報発信のためにツイッター」というイメージがあるが、それだけでもない。「情報収集のための使い方」もありだと思う。ツイッター上ではさまざまな個人・団体が情報を発信しており、それらを収集するだけでも、ツイッターは便宜をもたらしてくれる。自分にとって読み続けるのがつらくないようなタイムラインになるようにいろいろ試してみて。
(例1)ニュースを集める。個人的にフォローしているニュースサイトは、NHK科学文化部。いろんなニュースが飛び込んでくる。ニュース関連のツイートは、いくつもフォローする必要はない。ほとんどニュースは重なっていて、読みづらくなるだけ。
(例2)自分の生活に深く関わる情報を集める。長崎大司教区の公式ツイッターサイト。ちなみに、現在長崎大司教区の公式ツイッターサイトは、65の個人と団体がフォロー(参考資料あり)している。
(例3)個人の趣味に関係するツイッターサイトを集める。音楽の趣味が合う人、読書の趣味が合う人。スポーツの結果だけを(しかも特定のチームの)淡々とツイートしているサイトもあるので、それをフォローすれば、結果速報を手元で確認できる。
(例4)自分自身を育てるようなツイートを拾うこともできる。現在、「モーリス・ズンデル」(フォロワー数641)というサイトをフォローしている。同じように、「マザー・テレサ」というサイトもある。マザー・テレサのツイッターサイトは、ものすごいフォロワー(62,983)を抱えている。
(例5)やはり、同じ立場の人を探す。聖母の○○の○○神父さんがすばらしい。あれだけよいツイートを流すと、よいツイートを探している人の目に留まるし、フォローしてくれる人も集まってくる。

・ツイッターは単独よりも、さまざまなツールを組み合わせると効果的
ツイッター単独でつぶやいている人は、おそらくほとんどいない。連携アプリを活用している。かゆいところに手の届く連携アプリがたくさんある。

アプリ連携(あなたのTwitterアカウントにアクセスできる連携アプリがあります。)

Twit for Windows CHEEBOW
Desktop client for windows.simple & easy.
read, write, and direct messages アクセス

User Local Account User Local,Inc.
解析ツール、まちツイなどを提供する株式会社ユーザーローカルのサービスです。
read and write アクセス

twinavi CGM Marketing, Inc.
twinavi Twitter公式ナビゲーター[ついなび]
read and write アクセス

bitly bitly長いURLを省略して表示してくれる
Save, share, and bundle your links
read and write アクセス

Twitpic Twitpic Incツイートに関連する写真を添付
Share photos on Twitter with Twitpic
read and write アクセス

あらったー!(alertter) Daisuke Kawano / dk19810313
あらったーはrepliesやretweetをメールで通知してくれるアプリです。アラートalertとTwitterの合成語。
read, write, and direct messages アクセス

Twitter for iAppli Twitter, Inc. 位置情報を使います
An application tweeting from iAppli.
read, write, and direct messages アクセス

Keitai WebさんによるTwitter, Inc.
Tweeting from Japanese mobile phones.
read, write, and direct messages アクセス


・ツイッターをどう活かすか(2)
(1)ツイッターを利用している人の中には、ブログを立ち上げている人もいる。今のところ、ツイッターとブログの効果的な関係は築けていない。
現在のブログは、説教に、日々の雑感を織り交ぜたコラムと、手近な写真を添えたものを毎週更新している。参考までに、「こうじ神父今週の説教」(http://blog.goo.ne.jp/knkouji)は土曜日の午後1時ころに説教を掲載するが、土日訪問者数は、日曜日が閲覧数:239PV、訪問者数:135IPで、前日の土曜日が閲覧数:244PV、訪問者数:149IPとなっている。
ただ、それがそのままツイッターのフォロワー数に結びついている気配はない。現在のフォロワーは36であり、ブログの訪問者数と釣り合わない。
しかし、ブログを立ち上げたことで、ツイッターに顔を出してくれた人はいる。ブログにコメントを入れるのは抵抗があるが、ブログを見ていることをお知らせするためにツイッターのダイレクトメッセージを使うなどの方法で連絡を取ってきてくれた人はいる。
現状では、ブログとツイッターの相乗効果はどうやって得られるのか、わたしも教えて欲しいところ。
(2)ホームページとツイッターの関係。これもブログに同じ。ブログか、ホームページがツイッターを開設したことで盛り上がるのが、将来の希望。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

キリストの聖体(マルコ14:12-16,22-26)ひかれて小麦となり、イエスのものとなる

2012-06-10 | Weblog
当メルマガをご購読いただき、ありがとうございます。

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/120610.mp3

http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/120610.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
12/06/10(No.595)
‥‥‥†‥‥‥‥
キリストの聖体
(マルコ14:12-16,22-26)
ひかれて小麦となり、イエスのものとなる
‥‥‥†‥‥‥‥

先輩の古川武信神父様がお亡くなりになりました。72歳でした。晩年は、14年間透析を続ける生活でした。最後は脳梗塞を併発して、8ヶ月十字架にはりつけにされた司祭生活でした。

透析を受け始めると、ふつうは14年も長生きしないそうです。そんな中で、先輩が示そうとしていたのは、「透析患者の司祭であっても、司祭の務めを全うできる」そういう証しでした。そして実際、司祭・修道者の召し出しを多く輩出し、療養生活に入るまでは小教区の主任司祭として働き、多くの人に愛された司祭でした。

腎臓を患うまでは、思う存分ご自分の務めを果たしておられたと思いますが、腎臓病になってからはそうもいかなかったでしょう。けれども、イエスのご計画は別のところにあったかも知れません。

金曜日に浦上教会で行われた葬儀ミサの説教の中で、古川神父さまの同級生の神父さまが、「彼はイエスに、『人類の救いのためにわたしと一緒に十字架を担ってくれ』とお願いされたのだ。彼だったから、引き受けることができたのだ」と話しておられました。そうだろうと思います。

透析を続ける生活という大きな十字架で、完全に先輩の計画は打ち砕かれただろうと思います。長い巡礼旅行は諦めなければなりませんし、コップ一杯の水をがぶ飲みすることも死に直結するのでできません。

自分の思い描いた人生が完全に打ち砕かれると、大抵の人は失望してしまいます。けれども神父さまは、そこからさらにイエスにより忠実な弟子になったのだと思います。自分の思い描いた人生を生きようとすれば、もしかしたらイエスに左と言われても、いやわたしは右に行くと言うことができるかもしれません。

けれども、完全に打ち砕かれ、それを受け入れた人にとって、イエスから左と言われた時に、迷わず左について行くのです。もしかしたらついて行くしか残されていないのかもしれませんが、それをためらわずに従えるのは、イエスの弟子として、より完成された姿ではないでしょうか。

今週、キリストの聖体の祭日を迎えています。イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱え、「取りなさい。これはわたしの体である。」(マルコ14・22)と、また杯を取り、感謝の祈りを唱えて、「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」(14・24)と言われました。イエスはご自分のすべてを食べ物として与えてくださいました。

食べ物はどのような性質があるのでしょうか。完全に、自らを与え尽くすという性質があります。パンとぶどう酒の形のもと、何も残さずに与え尽くすというのがその根本的な部分です。

先に亡くなった先輩司祭のことを話しましたが、司祭職に自分のすべてを与え尽くす姿は、イエスが聖体の秘跡にとどまってご自分を完全に与え尽くされたのと同じ姿だと思います。九割九分九厘与え尽くすというのではありません。何も残さず、たとえ一厘でも、一毛でも、自分のために取っておかない姿です。

それはかつての殉教者の姿にも似ています。アンチオキアの司教、聖イグナチオは、次のような言葉を残して殉教したとされています。「わたしは神の穀物であり、キリストの清いパンとして認められるために、獣の牙で粉にひかれるのです。むしろ、獣をあおって、その獣がわたしの墓になるようにしてください。獣が、わたしの体の一片でも残しませんように。」(「毎日の読書」第8巻135頁、カトリック中央協議会発行)

イエスがわたしたちの食べ物となられたというのは、ご自分のために体の一片も残さず与え尽くすためでした。その与え尽くす愛が、ご聖体の中にとどまっておられます。わたしたちはこのご聖体を、どのくらいの感謝をもって受け取っているでしょうか。感謝しても感謝し尽くせないのではないでしょうか。

与え尽くす愛であるご聖体をいただいたわたしたちは、イエスによって変えてもらう必要があります。それぞれ、任せられている務めがあります。中学生高校生は学ぶ務めがあります。大人には大人としての務めがあります。その務めに、7割くらい力を注いで流れに乗っていくこともできるかもしれません。実際にそうしてきた人もいるかも知れません

ですが、わたしたちがアーメンと答えていただくものは、清い小麦からできた聖なるパンです。7割ご自身を与えたイエスがとどまっているのではないのです。そうであるなら、今の生活でもし与えることを惜しんでいるなら、イエスに変えてもらいましょう。

与え尽くす愛を、ご聖体としていただくわたしたちは、与え尽くす愛に生きる人に変えてもらうように招かれています。イエスは、打ち砕かれてイエスのものとなった一人の司祭を高めてくださいました。小麦のようにひかれてイエスのものとなった殉教者を高めてくださいました。

わたしたちも、イエスの手の中の道具として、より使い勝手の良いものとなるために、できることを考えましょう。九割九分九厘協力するけれども、あと一厘自分のものに残しておこうとする気持ちは、そんなに重要なものなのか、もう一度考えてみましょう。

与え尽くす愛のしるしを、今日ミサの中でいただき、大胆にイエスの招きに答える力を願うことにいたしましょう。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
年間第11主日
(マルコ4:26-34)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼見逃すと次は105年後という「金星が太陽の前を通過する」天体ショーをこの目で見た。確かに太陽の中に、ホクロのような点が見えた。日食グラス(実際は下敷きのようなもので、定規の目盛りが入っているので定規として使用できる)をどうぞと譲ってくれた人がいたので、その人の好意に甘えて、空を覗いてみた。
▼天体ショーなど、と思っていたのだが、実際に空を見上げて、太陽の中の黒点を見た時は、「おお、見える!」と柄にもなくワクワクした。テレビのアニメコマーシャルで、「周囲の変化にまったく関心がなくなると、認知症のサインです」というのがあったが、どうやらまだ認知症は発症していないらしい。
▼写真が手に入った。どうやって撮影するのか分からないが、太陽はオレンジ色、金星は黒点で撮影されていた。こんなに立派に写るものなのだなぁととても感心した。写真に収めたことからすると、写真を譲ってくれた人も、天体ショーを見逃したくないと思った人なのだろう。105年後なんて、今生きている人の1%も存在していないのだから、99%の人の中でワクワクする人がいても不思議ではない。
▼土曜日に、「やもめの献金」という福音朗読がミサに選ばれていて、「生活費の全部を入れた」という点をイエスは高く評価していた。そこで「自分の務めを、生活(費)の全部を入れて果たしているだろうか?九分九厘ではなく、一厘も残さずすべて全力投球しているだろうか」というような話しをした。自分への戒めでもある。
▼要領のいい人は、9割で全力投球しているように感じさせることができるだろう。もしかしたら、7割でも、全力で果たしているように見せることができるかもしれない。けれども、神の前には7割である。神は、生活費のすべてを入れたやもめを高く評価した。わたしはこれまでの20年、7割しか使ってこなかったと思う。これからの20年は、わたしが望もうと望むまいと、神からすべてを投入するように、要求されるに違いない。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第202回目。次は105年後の2117年だとか。世紀の天体ショー。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/120610.jpg

ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/
===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三位一体の主日(マタイ28:16-20)与え尽くす生き方で三位の神を身近に感じる

2012-06-03 | Weblog
当メルマガをご購読いただき、ありがとうございます。

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/120603.mp3

http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/120603.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
12/06/03(No.594)
‥‥‥†‥‥‥‥
三位一体の主日
(マタイ28:16-20)
与え尽くす生き方で三位の神を身近に感じる
‥‥‥†‥‥‥‥

わたしたちは、何かを知るとき、2通りの形があると思います。1つは、知ったものを、自分のものにする場合です。わたしは福岡の大神学院に行って、はじめて硬式テニスを知り、たくさんの時間を練習に費やして、硬式テニスができるようになりました。プロ級の腕前ではありませんが、左利きであることもあって、まぁそこそこの腕前になりました。

もう1つの知り方は、知ることができたけれども、自分のものにしていない場合です。わたしは教会でオルガンが弾けたらどんなにいいだろうと思って、何度も練習し始めました。けれどもそのたびに挫折して、習得することができませんでした。10回挑戦して、10回挫折しました。

途中では手取り足取り教えてくれた人もいたし、練習のための本を80冊以上買いましたが、それも今は本棚の中で眠っています。何かが弾けるようになったこともあったのですが、一曲弾けるようになったからといっても、それは完全に丸暗記して弾けるようになったのであって、鍵盤を覚えたわけではありませんでした。

何かを知って、自分のものになった場合は、かなりの確率でずっと知識として保ち続けますが、自分のものにならないものは、どれだけ知っていても、常にその対象を知り続けようと努力しなければ、いつかは知っているつもりになってしまいます。

結婚している夫婦を例に挙げましょう。結婚する人は、お互いを知り合い、他のだれよりも相手をよく知る間柄になります。けれども、ある時点で相手を十分知っているからもう知らなくてもよいと考えるようになると、次第に知らないことが出て来て、知っているつもりになってしまい、お互いに溝ができることになります。

今週お祝いしている三位一体の神さまについても、わたしたちはまったく知ることができないわけではなく、ある程度知ることができます。けれども、それはあくまでも自分のものにはならない知識として、知ることができるということです。どこまで知っても、自分の持ち物にはならないのです。

まず、三位一体の神さまについて、わたしたちはどれくらい知ることができるのでしょうか。本質として唯一である神の内に、父と子と聖霊がおられること。これはわたしたち皆が、学ぶことのできる知識です。そして、救いの歴史の中で、神である御子が父なる神によって遣わされて人となり、神の愛を示し、神と人類とを一致させてくださったこと。御父と御子が神である聖霊を遣わし、一人ひとりの人間を神の命に入れてくださること。ここまではわたしたちも知ることができます。参考として、「カトリック教会のカテキズム要約」を紹介しておきます。

ところが、三位一体の神についての知識は、残念ながらと言いましょうか、自分のものにはならない知識です。いったんその神秘の内容を知ったとしても、それ以後も常に学び続け、知り続けようとしなければ、いつかは知っているつもりが知らない人になってしまう危険があります。

そこで三位一体の神についてわたしたちに必要なことは、常に知っている内容を新しくしていくということです。そのためには、三位一体の神の交わりにいつも招かれて、神との親しさを保ち続ける必要があります。

神との親しさを保ち続けるためには、どのようにしたらよいのでしょうか。それには、父と子と聖霊がどのように完全な一体性を保っておられるかを知ることが近道です。そのいちばんの特徴は父と子と聖霊は、お互いを完全に与え合うことで一つになっておられるということです。御父は、御子にすべてを与え、御子はそのすべてを御父にお返しになります。その完全に与え合う愛が、聖霊です。

もしわたしたちが、自分を与えるべき相手に、できる限り、完全に近い形で与えるように努力するなら、わたしたちは日々、三位一体の神に似た生活を実行していることになります。自分を完全に与えられなくても、これ以上ないほど与えようと努力するなら、わたしたちは父と子と聖霊に倣う生き方をしているのです。

ところで、自分を与え尽くす生き方を、毎日続けるとしても、与え尽くす力を自分の持ち物にすることはできません。今日与え尽くすことを放棄すれば、その時点で与え尽くさない人になってしまうからです。この、与え尽くす姿は、毎日、毎瞬間続けることで維持できるものです。続けることだけが、与え尽くすという姿を維持するただ一つの道です。

そして、与え尽くす姿を毎日、毎瞬間続けて、維持していく時、わたしたちは三位一体の神が与え尽くす神であることをよく学び、学んだことを常に新しく保つことができます。こうしてわたしたちは、三位一体の姿を、いつも新しい状態で身近に感じることができるのです。

父と子と聖霊の三位の神が唯一であることを、わたしたちがいつも親しく感じることができるように、自分を与えるべき相手に、いつも全力で与え合うことにしましょう。夫と妻の間で、親と子どもの間で、兄弟姉妹の間で。与え尽くす生き方を全うして、三位一体の神の一体性にいつも近くいることができるよう、ミサの中で恵みを願いましょう。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
キリストの聖体
(マルコ14:12-16,22-26)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼いつだったか、「説教を考える時、聖堂に行かないのですか?」と聞かれたことがある。わたしは思っていることを素直に答えた。「机で、うーんと唸って考えないと、出てこないねぇ。」質問した人をとてもガッカリさせる返事をしてしまったが、実際聖堂に行って黙想して、説教を準備していないのでそうとしか答えようがなかった。
▼もちろん聖堂で祈ることでヒントが湧くことは山ほどある。ご聖体のイエスが照らしを与えてくれることは数え切れない。ただわたしが返事をしたのは、「毎週、説教を準備するのは聖堂で、ですか?」という質問に対しては、「聖堂ではないなぁ。ほとんど机のパソコンの前でだなぁ。」としか答えようがないということである。
▼机の上はいつも散らかっていて、机の面はどこにも見えないけれども、わたしはここで、パソコンをにらみながら、イエスと向き合っている。ほとんどの音を遮断して、イエスが何かを語ってくれないか、何かヒントをくださらないか、じっと腕を組んで待っている。それは聖堂で同じことをしてもよいのかもしれないが、現実は違うことをしている。
▼けれども、もしかしたら、変えてみれば変わるのかもしれない。つまり、自分のスタイルはこれだと決めているけれども、自分で勝手に決めているだけで、変えられるのかも知れない。もっと言うと、もうこれ以上働けないと思うほど働いているつもりだが、ぜんぜん働き方が足りないかもしれない。与え尽くすと説教で言ったが、与え尽くしていないかもしれない。
▼たいてい、イエスのために何かを成し遂げた人は、徹底的にへりくだることを求められる。それがあって初めて、イエスの道具になれる。ペトロ、パウロがその典型だろう。もし、もしもわたしがイエスの小道具として必要であれば、必ず砕かれて、へりくだり、すべてを失って、それから始まるのだと思う。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第201回目。4教会合同遠足。いい顔していますね。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/120603.jpg

ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/
===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする