こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第3主日(ルカ1:1-4,4:14-21)聖書の言葉はイエスによって実現する

2013-01-27 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
13/01/27(No.632)
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年間第3主日
(ルカ1:1-4,4:14-21)
聖書の言葉はイエスによって実現する
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先週の教会学校で、堅信を受けた中学生にお願い事があって、勉強を始める前に切り出したんです。「来年から中学生は1・2年生だけだと3人になるから、中学3年生になってからも聖書の朗読を続けてくれないか。」すると、堅信を受けた中学生たちから即座に「嫌です。しません」と断られました。

わたしは断られても頼むしかないので、「そう言わずに引き受けてくれ。君たちの頑張りがあると、再来年以降も中学3年生が聖書を読むすばらしい伝統が出来上がるんだよ」と言いますと、もっと激しく抵抗されまして、「絶対嫌です。福見では小学生が聖書朗読しているじゃないですか。来年から日曜日の侍者をする小学生にさせればいいじゃないですか。」とまくし立てられました。

確かに木曜日夕方のミサで、福見教会の小学生は聖書の朗読をしています。それはそうだけれども、堅信の秘跡を受けて、来年は中学の最高学年になるみんなに、わたしは聖書朗読をして欲しいと思っているわけです。目の前で「絶対嫌です」と言っているのを無理強いすることもできず、「来週また話そう」と言って、ひとまずその話は取り下げて勉強を始めました。

なぜわたしの言っていることが通じないのでしょうか。受験生になる来年、聖書朗読を通して典礼のお手伝いをすれば、必ずイエスさまからの報いがあって、受験の時に恵みが働いてくれるのです。それを知らせたくて喉まで出かかっているのですが、言わないでおこうと思います。

全部説明してあげるのは、堅信の秘跡を受けた中学2年生に対して失礼です。あそそこまで神父さまがお願いしているのはなぜだろうと、自分で考えて答えを探せると思っています。しかし絶対引き受けないというのはいかにももったいないことです。

わたしは中学3年生の時、もう一人の先輩神学生とほぼ1日交代で毎日のミサの聖書朗読をしました。高校受験には、文章の理解力、記憶力、知らない言葉を推理する力が必要ですし、面接試験の時に初めて会う先生に堂々と自分の考えを伝える力も必要です。わたしはそれらすべてをミサの聖書朗読で培いました。でも、それは言わないでおきましょう。

今週の福音朗読は、イエスが会堂でイザヤ書を手渡されて、目に留まった箇所をお読みになり、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(4・21)と話し始められたという場面になっています。

念のために断っておきますと、来週は今週の場面の続きで、これほど恵みに満ちたことをイエスが話したにもかかわらず、会堂に集まっていた人々から追い出され、山の上の崖から突き落とされそうになるという出来事が控えています。ですからここはぬか喜びできない場面です。

わたしが今週考えたいのは、「聖書の言葉は、どのようにして実現するのか」ということです。イザヤの預言は、イエスの時代から何百年も前に語られた言葉です。何百年も前の出来事が、イエスによって語られた時に、「今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と言われているのです。

3つの条件が必要になります。1つは、預言の言葉を語る人が必要です。ここではイエスがイザヤの預言の言葉を語ります。2つめは、預言の言葉を聞く人が必要です。ひとまずは、会堂内にいるすべての人が、預言の言葉を聞いています。3つめは、預言の言葉を実現するイエスがそこにおられるということです。この3つが揃わないと、どれだけ時間が経過しても、どれだけ預言の言葉を語る人が増えても、預言は実現しません。

ですから預言が実現するその中心には、必ずイエスがおられることが必要です。何百年前に預言者に託された言葉も、イエスがお生まれになり、イエスを通して預言は実現することになりました。救いに関わるすべての預言は、イエスを通して実現していきます。

福音書のさまざまな箇所で、「預言者を通して言われていたことが実現するためであった」という引用があります。それはイエスの言葉、振る舞いと結びついています。イエスがこのように言われたのは、「預言者を通して言われていたことが実現するためであった」イエスがこのように振る舞ったのは「預言者を通して言われていたことが実現するためであった」というような表現です。預言の実現には、必ずイエスがそこにおられることが鍵になってきます。

そこでもう一度堅信を受けた中学生がミサの聖書朗読を引き受けてほしいなぁという話に立ち帰ると、この願いが神に受け入れられて実現するためにも、3つの条件が必要なのではないかと思うようになりました。

預言の言葉はこうです。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ16・15)この預言の言葉を語るのは中田神父です。この言葉を聞くのは今日ミサに集まっているすべての人です。そしてここにイエスがおられます。3つの条件すべて整っています。条件はすべて揃っていますから、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」はずです。あとは信頼をもって、粘り強く堅信の秘跡を受けた中学生に考えてもらいたいと思います。

中学3年生という期間は生涯で1度しかありません。わたしも十分それは理解しています。明後日火曜日、わたしは司祭マラソン大会に行ってきますが、これまでの努力の結果を発揮できるのはこの日しかありません。たとえ何百日、この日のために努力しても、大会当日に風邪を引いて不参加となれば、いくら「練習では調子が良かった」とか「出場していれば好成績が残せたはずだ」と言っても通用しないのです。

1度しかないチャンスを、「福音を宣べ伝えなさい」という預言の実現のために力を貸してくれたらどんなに嬉しいでしょう。そうわたしは思っています。わたしだけでなく、ここにいるすべての人が、もっと言うとこの説教をブログやメルマガで読んでくれているおよそ500人くらいの読者が、同じ期待を持っていると思います。

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‥次の説教は‥‥
年間第4主日
(ルカ4:21-30)
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ちょっとひとやすみ
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▼穴があったら入りたい。クリスマスにプレゼントを頂き、「そのうちに」と思って延び延びになっていたものを最近楽しみ始めている。それは紅茶。詳しくは知らないけれども、わたしの経験によると、この手の紅茶は一缶1500円はするので、合計で4500円かもしれない。
▼しかも箱を空けてみると、缶に貼られたラベルに「Merry Christmas!」と書かれているではないか。プレゼントしてくださった方、本当に、申し訳ありませんでした。ご本人に直接連絡することは可能だが、直接話す勇気も無く、「全能の神と、兄弟の皆さんに告白します」という形でお詫び申し上げます。
▼香りがいい!飲む前に、しばらく香りをかぐ。わたしはそんなに鼻は利かないが、いい香りがする。それは、紅茶をはぐくんでくれた大地の香りだろうか。ようやく紅茶を入れるポットが届いたので、紅茶を山盛り入れてお湯を注ぐ。ポットはハリオ製。本当は何でもよかったのだが、たまたまこれを手に入れた。マリア文庫のメンバーが、「これはいい品物です」と言っていたから、良い品物なのだろう。
▼一口含んで、しばらくしてから飲み込む。頭が冴える!コーヒーもいいけど、紅茶はまた違った楽しい飲み物だ。この紅茶で、原稿がすらすらと書けそうな気がしてきた。そういう気がしているうちに、さっさと原稿を書いてしまおう。今のところため込んだ原稿がないのが、残念と言えば残念だ。

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今週の1枚
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第239回目。いただいた紅茶。真ん中の缶には、確かに「Merry Christmas!」とある。

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年間第2主日(ヨハネ2:1-11)イエスこそが、神と人とを結ぶぶどう酒

2013-01-19 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
13/01/20(No.631)
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年間第2主日
(ヨハネ2:1-11)
イエスこそが、神と人とを結ぶぶどう酒
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上五島地区の兄弟司祭が脳出血で倒れて約半年、昨年10月に見舞ってから3ヶ月ぶりに長崎のリハビリテーション病院に見舞いに行きました。この病院は機能回復のリハビリを専門に施す病院です。

まず感じたのは、3ヶ月前とは見違えるような回復を見せていたということです。わたしの記憶では、3ヶ月前には自分で車いすから立ち上がったりはできなかったと思うのですが、洗面台の鏡を前にして、車いすに座った状態から、すっと立ち上がってみせました。わたしも思わず「おお!立ち上がれるようになったか」と声が出ました。

見た目もすっかり変わりました。半年前に倒れた時は体重が160キロあって、ヘリコプターで運ぶのに往生したそうですが、本人の話では120キロを切ったと言っていました。こんなこと言ってよいか分かりませんが、「ようやく人間になったなぁ」と心の中で思いました。

前回見舞った時は明らかに言語障害が見られて、言葉が出て来なかったり、話しているつもりでも舌が回っていなかったりしていたのですが、この前会った時は、与えられた文章を声に出して読む訓練をしていまして、読み間違いはあったにせよ、格段に回復していると感じました。

全体として、希望の持てる回復ぶりだなぁと思いました。もちろん、もとの教会に復帰するのか、または違った形で司祭として生きていくのか、一司祭に過ぎないわたしには何とも言えませんが、一般的な「機能回復」という意味では、本当によく頑張っているなという印象でした。

年間の主日に入りました。主の降誕のあとの年間主日は、頭に灰をかぶる「灰の水曜日」から始まる四旬節までの短い年間主日です。今年は四旬節までに4回年間主日が回ってきます。

降誕節直後の年間第2主日に、福音朗読は「カナでの婚礼」を選びました。カナの婚礼での出来事は、ぶどう酒がなくなり、宴会が台無しになろうとしていた時に、マリアがその様子をさりげなくイエスに伝え、いったんは母マリアの願いを退けているように見えますが、水をぶどう酒に変えるという最初の、驚くべきしるしをおこなうという物語です。

今回わたしは、救い主イエスの降誕と、イエスの御受難を念頭に置いて、この物語を考えてみたいと思います。まず婚礼の席でぶどう酒がどのような役割、意味合いを持っているかを考えてみましょう。

結婚した夫婦を祝うために集まった婚礼の客は、家族や親戚のような身内は血縁関係がありますが、その他はいわば他人です。その他人が、婚礼の席に留まっているのは、ぶどう酒のおかげと言ってよいでしょう。ぶどう酒に代表される食事やお酒を振る舞ってもらい、食事をして喜び合っているから、その場にいるわけです。もし食事が出ないのなら、長居をする理由もなくなってしまいます。そうした、多くの人が婚礼の場に留まるための大切な飲み物として、ぶどう酒は必要なものでした。

ところが、そのぶどう酒がなくなってしまいます。招待した側は、思いのほか客がたくさん入ってしまい、必要なぶどう酒の量を読み誤ったのかもしれません。このままだと、婚礼の席に、ぶどう酒があるから留まっているような人々は、その場にいる理由がなくなり、帰ってしまうことでしょう。

マリアはそのことを敏感に察知して、イエスに「ぶどう酒がなくなりました」(2・3)と言ったのだと思われます。客が帰ってしまわないためには、客を婚礼に結びつけるものがどうしても必要です。「ぶどう酒がなくなりました」イエスにはこれだけで伝わる、そう考えたのでしょう。

ところが、イエスはいったんは母マリアの願いを退けたかのような反応をします。イエスは客を婚礼に結びつけるためには力を貸してくれなかったのですが、婚礼に来たすべての人を、父なる神に結びつけるために、マリアの願いに応えてくださったのです。

イエスは婚礼の召し使いたちを使って、水をぶどう酒に変える奇跡を行いました。けれども、この奇跡を表面だけで受け取るべきではありません。この奇跡は、単に客を婚礼に結びつけるための奇跡ではないのです。

そうではなく、今にも大混乱に陥ろうとしている客や招いた人々を、神は心配して救ってくださる。そのことを教えるためのしるしだったのです。婚宴の席だけではなく、人が途方に暮れそうになるあらゆる場面で、イエスは神と人々を仲介するぶどう酒となってくださり、必ず救ってくださる。そのことを教えるためのしるしだったのです。

今週の説教で前置きしたことにも話をつないでおきましょう。今の年間主日は、降誕節のあと四旬節に入るまでの4週間だと言いました。イエスは、今日のカナでの婚礼のしるしで示されているように、ぶどう酒となるためにお生まれになったお方です。

ぶどう酒が、婚礼の席で結婚する当事者と客を結ぶものであったように、お生まれになったイエスは、神と人とを結び付けるぶどう酒となるために、お生まれになったのです。

それだけではありません。この短い年間主日を過ぎると、四旬節です。イエスの受難に向かっていく季節です。受難とご死去に結び付けて考えるなら、イエスは神と人とを、ご自分の血を流して結び付けるためにお生まれになったのです。ご自分の血を流して、ご自分の血をぶどう酒とされて、神と人とを結び合わせるために、お生まれになったのです。

あらためて、イエスが水をぶどう酒に変える場面を思い起こしましょう。80リットルから120リットル入る水がめ六つを、かめの縁まで満たし、すべてぶどう酒に変えたのです。それは、全世界の人を救うために流される、十字架上のイエスの血の量と言ってもよいのではないでしょうか。

かめの縁まで満たした水がぶどう酒になり、婚礼の席に集まった人が窮地を救われました。あの出来事は神の救いのみわざのしるしに過ぎません。全世界の人、わたしたちも含めてすべての人が救われるために、イエスは神の国のぶどう酒となってくださったのです。ミサの中で感謝をささげましょう。そして機会を捉えて、「イエスはわたしたちと神さまを結び合わせるぶどう酒です」と、告げ知らせることにしましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第3主日
(ルカ1:1-4,4:14-21)
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ちょっとひとやすみ
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▼家電のことでちょっと困っている。地デジ化される前は、案外手軽に録画したビデオなどをパソコンに取り込み、映像を再利用して楽しむことができた。ところが地デジ化以降、録画した映像をDVDにコピーしても、パソコンでは再生できないという事態が生じている。皆さんはそういう経験が無いだろうか。
▼さらに。わたしがメインに使用しているテレビは、三菱のREALというシリーズで、HDDとブルーレイ一体型になっている。この1台で録画・再生ができるので、重宝している。しかし、このテレビには「出力端子」が付いていない。あくまでも想像だが、録画した映像が簡単に出力端子で取り出せるとなれば、不正ダビングにつながるということだろう。
▼もちろん不正ダビングはいけないのだが、ビデオデッキにダビングするということはあるだろうと思う。そもそもなぜ出力端子をもってそのまま「不正ダビング」と決めつけるのか。
▼そのせいで、テレビ・HDD・ブルーレイ一体型のわたしの機器から外に持ち出せず、眠っている貴重な映像がいくつもある。きっと、眠ったまま、いつかは削除される運命をたどるのだろう。何か方法はなかったか・・・と思っていたら、AVセレクターのことを思い出した。画像写真は先週紹介している。
▼すでに撮りだめたものについてはいかんともしがたいが、AVセレクターがあれば、映像を一体型テレビに流すか、ほかの機器に流すかを選ぶことができる。もしかしたら、パソコンで楽しめるDVDを作ることもできるかもしれない。そう思って、発見するのに費やした時間を自分に納得させることにしようと決めた。
▼おまけの話。パソコンをタイマーでシャットダウンできる無料ソフトを発見。試してみたら、ちゃんとシャットダウンさせていた。使えそう。

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今週の1枚
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第238回目。1月14日に福音化推進部フェスタが開かれ、福祉団体が活動を紹介。
マリア文庫もこの中で自分たちの活動を紹介。いちばん左の方にお願いした。

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主の洗礼(ルカ3:15-16,21-22)イエスが並ぶ列にわたしたちも並ぶ

2013-01-13 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
13/01/13(No.630)
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主の洗礼
(ルカ3:15-16,21-22)
イエスが並ぶ列にわたしたちも並ぶ
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司祭団のマラソン大会も目の前に迫ってきました。毎日欠かさず走っているわけではありませんが、健康ってありがたいなぁとつくづく感じます。完全な健康体というわけではありません。コレステロール値は高いし、血圧も高めです。けれども、今年のマラソン大会に向けてコツコツ練習を積み重ねていけること。それだけでも有り難いなと思うのです。

こんなことを言うのには訳があります。聞いた所では、今年目標にしていたライバルが、どうやら肉離れを起こして戦線離脱するらしい、という情報を聞いたのです。目標にしていると言っても、去年のタイムで1分の差がありましたので、相当高い目標だったのですが、目標としていた相手が早々といなくなってしまいました。

また、同級生とか、少し上の先輩方を見渡すと、ある同級生は膝を壊していて参加もままならないと聞いていますし、タイム的にもっともライバルになりそうな少し上の先輩も、ここ最近は病気をおしてレースに参加しているそうです。他にも血圧の薬を飲んでいる先輩とか、ましてや脳出血でマラソンどころではない後輩もいます。そうした身近な司祭たちと比べれば、わたしは練習ができて、レースに参加できるのですから、健康に感謝です。本当にそう思います。

「記録は狙えないけど、今年も健康で走れたね。」そういうレベルのマラソン大会ですが、もしよかったら、冷やかしに1月29日(火)、五島市の福江教会にお集まりください。今年は、福江教会スタート、折り返して福江教会ゴールとなるはずです。当日10時スタートです。

さて今週は「主の洗礼」を祝っています。イエスが洗礼を受けたという記述については、史実かどうかが疑われていました。イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けたということは2つの疑問があるからです。

1つは、洗礼を授ける者は洗礼を受ける者よりも上の立場にあると考えられますが、それだと洗礼者ヨハネはイエスよりも上の立場にあることになります。もう1つは、洗礼者ヨハネが授けていたのは「悔い改めの洗礼」でした。イエスがこの洗礼を受けたとなれば、イエスには悔い改めるべき事が何かしらあったのかという問題が生じます。

ルカは、この2つの疑問に正面から立ち向かって、イエスはそれでも洗礼者ヨハネから洗礼を受けたのだと、言いたいのだと思います。触れないでおけば、議論にならなかった部分をあえて取り上げているのですから、ルカにはそれなりの覚悟があったと考えるべきでしょう。

2つの疑問に、説明はつくでしょうか。まず1つめは、洗礼を授ける者が、洗礼を受ける者よりも上の立場なのではないかという点です。わたしは経験上、恵みを授ける者が、恵みを受ける者よりも低い立場なのに、奉仕の務めを果たしているのを見ています。叙階式、新司祭が誕生する喜びの日に、新司祭は多くの人から「わたしの上に祝福をお願いします」と願われます。わたしも新司祭の時にそうやって頼まれました。

わたしの目の前にひざまずく人々の中に、わたしが福岡の大神学院時代に8年間教え、指導してくださった教授がいました。うやうやしく、新司祭の前にひざまずく大先輩の司祭、教え導いてくださった司祭がひざまずくのを見た時に、胸が熱くなるのを覚えました。わたしを通して働く父なる神の前に、教授であった司祭もひざまずいておられたのです。

すると、洗礼者ヨハネの前にイエスがひざまずくのは、洗礼者ヨハネを通して働くイエスの父である神に、ひざまずいているのではないでしょうか。そうであっても、もちろん洗礼者ヨハネを無視しているわけではありません。洗礼者ヨハネを通して、父なる神が働いていることを、イエスはよく理解しておられます。ですから、イエスが洗礼者ヨハネの前にひざまずいて、洗礼を願うことは十分可能です。

もう1つ、イエスは悔い改めの必要があったのか、という点です。結論から言うと、イエスには悔い改める点は何もなかったし、その必要もありませんでした。けれども、民衆が皆洗礼を受けているその列に並ぶことは、イエスにとって十分意味があるとお考えになったのです。

わたしたちはどうしても行列に並ぶ必要があると考えれば、1時間でも2時間でも行列すると思います。わたしは大学生の時にディズニーランドでその体験をしました。乗ってみたいと思ったアトラクションの列に近づくと、係の人が「最後尾・2時間待ち」という看板を持っていたのです。「別のアトラクションに回ろう」と言う友だちもいましたが、2時間待ちの列に並び、忘れられない体験をしました。

「民衆が皆洗礼を受けていた」その場面は、まさに洗礼者ヨハネの前に立つために行列をして並んでいたということではないでしょうか。それほど、悔い改めの洗礼の列に並ぶことは意味があったのです。

洗礼者ヨハネのもとに集まった人たちは、どうすれば、神さまとの関わりを正しい姿にできるか、悩んでいた人たちでした。彼らは悔い改めの洗礼こそが、神さまとの関わりを正しいものにすると考え、望みをかけて列に並んだのです。

イエスも民衆の列に並びました。ただイエスのお考えは、民衆の考えを超えていました。イエスご自身が、前にいる民衆も後に続く民衆も、神との正しい関わりに導くために、列に並ばれたのです。たとえどんなに長い列でも、そこに並ぶすべての人を神との正しい関わりに導くために、イエスが並ぶ必要があったのです。そして、民衆に悔い改めの洗礼を授ける洗礼者ヨハネをも、イエスが授ける聖霊による洗礼に導くために、列に並んでいたのです。

わたしたちも、イエスとともに当時の民衆の列に並びましょう。イエスが並ぶ列にわたしたちがともに並ぶ時、その列は清められ、導かれていきます。わたしたちが何かの方針を立てる時、何か一致した行動を取る時、その列にイエスも並んでくださることを願い求めましょう。イエスが並ぶ列には、父なる神が「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(3・22)という声をわたしたちは聞くことができます。

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‥次の説教は‥‥
年間第2主日
(ヨハネ2:1-11)
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ちょっとひとやすみ
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▼健康(美容)とお金の話。健康や美容にお金を費やしている人を、かつては鼻で笑っていたが、それは間違いだったような気がしてきた。もちろん当時そのことに気付くのは難しかったと思う。健康であることを謳歌(おうか)していたので、健康や美容のためにお金を払うなど、もったいないと思っていたからだ。
▼ところが、今は少し違う。理由は2つある。1つは、かつては十分な運動で、健康を維持できていた。たとえば休暇の日に朝から晩までテニスをして、体がヘトヘトになるまで動かし、それで体内部の悪いものを排除できていたと思う。だが今はそうはいかない。
▼天気が良くておまけに用事も入っていない、これはテニス日和だと思っても、現状では4人集まらないとテニスのお誘いはない。いつだったか、「人数が揃わないので今日のテニスは中止です」という連絡が入り、その日ふて寝していたことがあった。
▼もう1つは、運動をしなかったらお金を使ってしまうということだ。テニスが中止になれば、自分一人でみっちり走り込んで、汗を流せばよいと思うかもしれない。だがなかなか、マラソン大会の前にでもならないと、走り込みは難しい。暑い盛りや、急に寒くなった時など、すぐ「今日はやめておこう」と自分に言い訳をしてしまう。そして、物を食べたり無駄な買い物をしたり、お酒を飲んだりしてお金を使う。
▼だから、わたしは運動を、お金を使っていることと同じだと思うようにした。運動ができる休暇の日、あるいは平日や週末でも、いろんなことでお金を使うことがある。お金を払ってスポーツジムに通っている。そう思って運動の時間を過ごすということだ。
▼「この運動は、お金に換算するといくらいくらになる。」そう言い聞かせて、運動を続けようと思う。46歳の太めの体を動かすためには、高尚な動機ではどうも納得させづらいのである。お金に換算するのがいちばん手っ取り早い。とてもドロドロした考え方だが、今日の運動が5千円消費したのと同じだと思えば、わたしには重大な意味がある。

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今週の1枚
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第237回目。家中探し回ってようやくAVセレクターを見つけた。中身の話は来週。

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主の公現(マタイ2:1-12)幼子イエスを近くに感じて生きていく

2013-01-06 | Weblog
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13/01/06(No.629)
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主の公現(マタイ2:1-12)幼子イエスを近くに感じて生きていく
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正月休みで実家に帰っていました。三男と、末っ子の妹夫婦も帰ってきていました。久しぶりに賑やかな正月でした。

帰省中も、変わらず走り込みをしました。蛤地区にある有川総合運動公園に、野球場をぐるっと囲むようにジョギングコースがありまして、1周700メートルのジョギングコースをひたむきに1時間走り続けました。この日は帽子を忘れまして、何もかぶらずに走り出しました。

走っている間、何人か人と会いましたが、三輪車に乗っている2人の女の子と途中ですれ違いました。この女の子たちが、奇妙なことを言い出したのです。「見て見て。カッパがいるよ。」そこにわたししかいなかたので、わたしは「失礼な子供だなぁ」と思いつつも、認めたくなかったので無視して周回を続けました。

この三輪車の女の子の前をもう一度通りましたら、あっけらかんとして「こんにちは(笑)」と声をかけてくるのです。「このやろう」と思っていたので、不機嫌そうに「こんにちは」と返して通過しました。その、通過した直後です。「ほら、やっぱりカッパだ。」だれがカッパですか。もう蛤の運動公園周辺は絶対に走りたくないです。

カッパの話は少々言ったくらいでは気が晴れませんが、大人げないのでもうやめます。今週は主の公現の祝日、占星術の学者たちがひれ伏して幼子イエスを拝む場面です。あらためて、この占星術の学者たちの言葉「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」(2・2)から、今週の学びを得たいと思います。

「ユダヤ人の王」という呼び名は、素直に受け取ると「ユダヤの国の王」「ユダヤの人々の王」という意味かなと考えます。「イギリス女王」とか、「ブータン国王」と言う時は、上記の意味になるからです。

ところが、「ユダヤ人の王」という表現が、新約聖書のどこに現れるかを考えると、地域や国民を限定する王という意味ではないようだということが分かります。「ユダヤ人の王」は、「イギリス人の王」「ブータン国の王」とははっきり区別されるのです。

具体的な数字で見てみましょう。「ユダヤ人の王」という表現は新約聖書の中に17箇所現れますが、そのうち16箇所はイエスの受難の場面で使われています。唯一の例外は、今週の朗読箇所です。残る16箇所、イエスの受難の場面で「ユダヤ人の王」と呼ばれるのは「人類のために十字架上でいのちをささげる王」という意味です。

すると、マタイは、特別な意味を持たせて占星術の学者に「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。」と言わせているのではないでしょうか。この推理が当たっているのであれば、今週の朗読箇所で出てきた「ユダヤ人の王」も、もはや例外とは言えなくなります。

朗読に戻りましょう。占星術の学者たちがヘロデ王に「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」とあいさつした時、「これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった」(2・3)とあります。

ヘロデが不安を抱いたのは、生まれたというその幼子が、「十字架の上で命をささげる王」であるから、不安をかき立てたのでしょうか。そうではないと思います。ヘロデは人のために命をささげる高尚な王など、まったく興味がないのではないでしょうか。ヘロデが警戒し、神経をとがらせるのは、「自分の王位を脅かす存在であるかどうか」のはずです。王位を脅かすと感じたので、ヘロデは不安を抱いたのです。

そうなると、ヘロデは占星術の学者たちの言葉を理解しなかったことになります。後に十字架の上で命をささげる王として生まれた幼子を、ヘロデは自分の王位を脅かす存在と取り違えたのです。

ヘロデは、ユダヤの国で権力を握っていましたから、どんな人にも近づくことができる人物でした。ヘロデが幼子イエスに近づきたいと心から望めば、イエスに近づくことはできたでしょう。けれどもヘロデは、幼子イエスの存在を自分から遠ざけ、その命を狙おうとさえしていました。

一方占星術の学者たちは、外国人でありながら、もっとも近くに寄ることができました。イエスのそばに行きたい。イエスにご挨拶したい。その真摯な気持ちが、星の導きによって形になったのです。

ヘロデと占星術の学者たちとの違いがここに明らかになります。ヘロデは、イエスを遠ざけようとする人の代表です。占星術の学者たちは、イエスに心から近づきたいと願う人々の代表です。どちらの姿を、わたしたちが受け入れるのか。それが今週問われています。

もちろん、わたしたちはイエスに近づきたいと思い、イエスの前に姿勢を低くすることが期待されています。幼子に贈り物を用意し、礼拝をささげた占星術の学者が幼子イエスにいちばん近づくことができました。わたしたちにも贈り物があって、礼拝する気持ちがあれば、必ずイエスのいちばん近くに行くことができるはずです。

もう一度、イエスとわたしたちの間の距離を確かめましょう。わたしはイエスを近くに感じたいと思っているでしょうか。イエスを嫌い、遠ざけたいと思っているでしょうか。わたしの思っていることが、そのままわたしに態度を取らせます。ぜひイエスをつねに身近に感じ、身近に感じることを喜びとすることができるように、ミサの中で恵みを願いましょう。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
主の洗礼
(ルカ3:15-16,21-22)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
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▼久しぶりに実家でゆっくりしていた。妹夫婦も帰省していて、甥の○○君も、乳児から幼児に成長していた。泣き顔が面白くて、「泣く状況」を作って泣いてもらった。映像にも収めたので、一年楽しめそうだ。
▼母親へのお土産に、、デジタルフォトフレームを買った。甥の写真をスライドショーにできる。お世話は妹がしてくれた。妹は幸いに、パソコン音痴ではない。なかには
そういう人がいてくれないと困る。
▼ポケットルーターを里帰り出発前に買ってきてくれと頼んでいた。2000円くらいだったが、「買ったよ」と連絡を受けたので安心していたが、帰省の日に「長崎空港に降り立って気づいたけど、ルーターを忘れちゃいました。」えー!でも、忘れっぽいところは兄弟姉妹なんだなぁと思い、何だかホッとした。
▼休暇中に説教案を練るのは至難の業だ。残念ながら静かな環境はない。日中はずっとテレビがつけっぱなしだし、部屋を変わっても障子一枚で区切られているだけ。これでじっくり考えろというのがどだい無理である。
▼だからできなかったとは言い訳したくない。そんなことを言っていたら、続けてはいけない。何とか劣悪な環境でも、光を見つけ、その光で現在の環境を照らす。そうして、福音の光を届けなければならない。
▼三男の弟も正月休みを取って帰省していた。箱根駅伝の復路、大平台のヘアピンカーブで、「大平台のヘアピンカーブだ」と声を弾ませたのを見た時、弟のものすごい記憶力に驚いた。特殊な事情で、電話帳をまるまる一冊記憶できる人がいると言うが、弟もそういう事情なのだろう。
▼ことしの初嘘。「マラソン頑張ってますね」と言うので、「箱根駅伝の8区を今年は走るので、年明けから忙しいです」と言った。往路は5区までしかないので、嘘だとはっきり分かるだろうと思っていましたが、「見逃しましたかねー。走ってなかったようですが」と言って来た。まぁどうでもいいのだが、後で考えると往復10区間で競う駅伝なので、8区というのは存在するのである。嘘は言うべきではない。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第236回目。カッパが出現した(と言われた)ジョギングコース。矢印は出現場所。

ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/
===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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神の母聖マリア(ルカ2:16-21)見聞きしたことは天使の話したとおりだった

2013-01-01 | Weblog
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(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/130101.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。)
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こうじ神父
「今週の説教」
13/01/01(No.628)
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神の母聖マリア
(ルカ2:16-21)
見聞きしたことは天使の話したとおりだった
‥‥‥†‥‥‥‥

新年明けましておめでとうございます。今年はいつもよりも寒さの厳しい新年となりました。何年か前にどさっと雪が降った年をのぞけば、わりと五島のこの時期は以前よりも暖かくなったかもしれないなぁと思います。今年は信仰年、信仰を見つめ直し、信仰を深める取り組みをみなさんと一緒に進めたいと思います。

小さな取り組みをここ1年数ヶ月続けてきました。日曜日のミサの前に録音CDを使って聖書の朗読を行い、新約聖書まるまる1冊を読み終えようという試みを行っていましたが、とうとう来週ですべて読み終えることになりました。

20分収録したCDの枚数が78枚でしたので、足かけ1年半かかかってしまいました。辛抱強く取り組みに参加してくださった方、ご協力に感謝します。もちろん、多くの人の参加を求めるには、いちばん良い方法だったとは言えないかもしれません。人数は少なくなりましたが、78回の朗読聖書に耳を傾けて新約聖書を読み終えた皆さん、おめでとうございます。次は信仰年に関わる取り組みを考えてみたいと思います。

新年を迎えての福音朗読は、羊飼いたちが、生まれたばかりの幼子、救い主を探し当てた場面から始まります。今日の朗読から2つ、取り上げたいと思います。1つは、「見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだった」と羊飼いが確認し、神をあがめ、賛美しながら帰って行ったということ、もう1つは、「羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた」ということです。

「見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだった」天使が羊飼いに話した言葉を確かめましょう。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」(2・10-12)

たしかに、自分がその目で見、確かめた出来事は、すべて天使の話したとおりだったでしょう。話したとおりですが、なぜ羊飼いたちは、「布にくるまって飼い葉桶の仲に寝ている乳飲み子」を見るだけで、神をあがめ、賛美することができたのでしょうか。

実はわたしたちは、大事なことを見落としていると思います。救い主が生まれる。そんなに偉大なお方がおられる場所に、ふつうに考えると一般庶民が近づけるはずはないのです。仮に国王の下で王子が生まれて、その上もしも王子が布にくるまれて飼い葉桶の中に寝ていたとしても、そこまで一般人が近づくのは到底無理です。

ところが、羊飼いという、言ってみれば一般人よりも一段低く見られていたかもしれない人たちが、救い主を目の当たりにすることができました。とてもお目にかかることはできないだろう。そんなことさえ考えてしまう相手に、自分たちがお会いできたのです。

すると、「すべて天使の話したとおりだった」とは、羊飼いのために、救い主をお遣わしになっただけでなく、近寄ってその目で見て、感謝と賛美をささげることができた。そこまでを含んでいるということです。

もしお目にかかれなくても、救い主がお生まれになったことは信じることができたでしょう。喜ぶこともできたでしょう。けれども、近寄って、その目で確かめて喜ぶことができた。羊飼いには、畏れ多くて期待できないことまで叶えてもらったので、天使の話したことは全部本当だったと確信できたのです。

もう1つの点にも目を向けましょう。「羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた」とあります。どんな思いで、人々に知らせたのでしょう。
わたしは、羊飼いが、知らせることを自分たちの使命だと感じて知らせたのだと考えます。興味を持ったから、話のついでに、人々に知らせたのではありません。これは、知らせなければならない。そう感じて行動したのではないでしょうか。

天使の語ったことが、出来事になったとは言え、それを他人事としてしまっては何にもなりません。自分たちのために、神のことばが出来事になったのだと納得しなければ、意味を失ってしまうのです。

もちろん、すべての人が同じような反応をするとは限りません。羊飼いたちが出来事を知らせた人々は皆、羊飼いたちの話を不思議に思ったとあります。救い主が生まれたことを知って、ある人は自分のことのように喜ぶでしょう。ある人は興味を示さないかもしれません。ある人は、敵意さえ持つかも知れません。知らせた人にも敵意を感じ、危害を加えようとするかもしれません。それでも、羊飼いは「知らせなければならない尊い出来事を見た」そう思って行動に出ました。

わたしたちも、信仰年の中で迎えた神の母聖マリアの祭日、正月元日を、「大切な、知らせるべき出来事を目にして信仰の門をくぐった」そう考えることにしましょう。信仰の門を神の母聖マリアを祝いながらくぐったわたしたちは、この一年行く先行く先で「大きな喜び」を知らせたいと思います。

「あなたには、大きな喜びがありますか。わたしには、大きな喜びがあります。」そう話しかける勇気を神の母に願いましょう。神のもとで執り成しをしておられる母マリアが、告げ知らせようとするわたしたちをこの一年見守ってくださるよう、このミサの中で願いましょう。

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‥次の説教は‥‥
主の公現
(マタイ2:1-12)
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ちょっとひとやすみ
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▼新年明けましておめでとうございます。今年は「巳年」、「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」(マタイ10・16)を心に留めて過ごしたいと思います。大晦日には過ぎた一年が自分にとってどんな成長をもたらしてくれたか、どんな失敗を犯したか、おいしい飲み物を味わいながら考えました。正式なものではないですが、遺言も書きました。
▼もはや、「老化」「認知症」は始まっているとしか言いようがない。異常行動だと自分が感じた昨年末の行動を報告する。ミサ中、叙唱の前に「主はみなさんとともに」「また司祭とともに」「心を込めて神を仰ぎ」「賛美と感謝をささげましょう」と交互に唱える部分がある。「また司祭とともに」という返事が聞こえたとき、瞬間的に両手を開き、「全能の神、父と子と聖霊の祝福がみなさんの上にありますように」という派遣祝福の言葉を危うく言いかけそうになった。
▼危機的な異常行動もあった。ミサの聖体拝領を終わらせて、残ったご聖体が入ったままの「チボリウム」を手にしていて、何を考えたのか祭服を着替える香部屋にチボリウムを抱えたまま移動した。香部屋に入って、「何をしに、ここに来たのだろう?」とゾッとして、それから祭壇に戻ってチボリウムを聖櫃におさめた。
▼日常でもゾッとすることがあった。食事のあとに、お茶を飲みたいなぁと感じ、いつもの茶葉を使ってお茶を飲もうと考えた。ところが、わたしはお茶っ葉を「コップ」に入れ、空の急須を掴んで湯沸かしポットのところへ向かったのである。
▼空の急須を眺め、怒りがこみ上げてきた。「物に当たる」ということがあるが、わたしは自分自身を、何かに投げつけて粉々に砕きたい気持ちになった。当然そんなことができるはずもなく(そんな意気地も無く)、怒りのやり場もないまま、お茶の粉がたくさん混じったお茶を飲んだ。今年はこれらの不運・不幸を振り払って、良い年であってほしい。

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今週の1枚
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第235回目。もうすぐ、この袋の中のお金はわたしの手を離れていく。これこそ経済。

ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/
===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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