こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

三位一体の主日(マタイ28:16-20)司祭修道者信徒がみ摂理に信頼して生きる

2015-05-31 | Weblog
当ブログをお読みくださり、ありがとうございます。

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/150531.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
15/05/31(No.771)
‥‥‥†‥‥‥‥
三位一体の主日
(マタイ28:16-20)
司祭修道者信徒がみ摂理に信頼して生きる
‥‥‥†‥‥‥‥

今週は三位一体の主日です。父と子と聖霊の三位は一体であり、同じ思い、同じ働き、同じ栄光に満ちておられます。父と子と聖霊の働きが唯一なので、どの時代の人も、どの国の人も、三位一体の神を信じることができるのです。わたしたちは、三位一体の神を信じていることを、どのように証しすることができるでしょうか。

月曜日から金曜日まで長崎にいました。月曜日は、西日本の司祭たちが90人集まって教区対抗ソフトボール大会でした。わたしは長崎教区チームに出たのですが、福岡教区と対戦した第一試合、福岡教区の同級生ピッチャーの球をまったく捉えることができず、3打席連続ピッチャーフライ。次の試合からは一切使ってもらえませんでした。

大会は非常に熱の入った好プレーの連続でした。面白いプレーもありました。高松教区・広島教区連合チームが、長崎教区チームと対戦していた時のことです。わたしは第一試合で大ブレーキだったのでベンチに入れず、教区報の写真を撮っていたのですが、高松教区・広島教区連合チームが、長崎教区チームのピッチャーの足元を狙えということで、バントを仕掛けてきました。

ルール上、スローピッチの試合でバントは禁止なのですが、他に長崎教区チームに付け入る隙がないと判断したのでしょう。しかも1イニングに3人バントを仕掛けてきたのです。狙いは的中、2人まではバントで出塁できました。

味をしめたか、3人目の打者である高松教区司教さまもバントして走り出したのですが、足が絡まって半分も行かないうちにドラム缶のように転がってしまいました。ちなみに、足元を狙われた長崎教区のピッチャーとは、今年浜串小教区の黙想会に招いた先輩です。

火曜日から金曜日は、教区司祭の黙想会でした。イエズス会の大木神父さまが黙想指導をしてくださいました。エリート校である栄光学園とか広島学院で教鞭をとり、その後ネパールで教育者として、さらに障害者の育ての親として長く献身した方です。ネパールで働くようになったころには、栄光学園や広島学院での教え子たちが社会のあらゆる面で活躍していて、大木神父さまを全面的に支えてくれたそうです。

たとえば、ネパールの学校教育に20年間使用した校舎が老朽化して使えなくなり、1千万円の費用を工面しなければならなくなりました。大木神父さまは1日で工面して帰って来ると告げて首都カトマンズに向かいます。みんなはそんなことできるはずがないと思っていましたが、カトマンズに駐在する日本大使はなんと栄光学園の教え子だったのです。すぐ日本政府の支援を取り付けてお金の目処がついたそうです。生涯のすべてが、神さまの摂理を感じる体験だったと言っていました。

わたしは今年の黙想会の中で、神さまの摂理を深く信じる司祭として生きるようにという教えを学んで帰りました。どんな場面でも、神さまの摂理の中にある。それを信じて生きる司祭でなければならないということです。摂理に信頼して行動するなら、きっと神さまが先に立って道を開いてくださる。この信念に揺らぎのない司祭であれと、89歳の大木神父さまは教えていたのだと思いました。

今週与えられた福音朗読は、弟子たちに対し、宣教してすべての民をわたしの弟子に招くようにと命じています。これは、弟子たちが信じたことを証しし、同じ信仰に招くということです。一人ひとりが信じるものを信じればよいというのではなく、明確に、父と子と聖霊を信じるように証を立てる必要があります。

どのようにして、証を立てればよいのでしょうか。証を立てるのは三者です。司祭、修道者、信徒です。三位一体の神が唯一であるように、そのように司祭、修道者、信徒の三者が唯一の証を立てるならば、わたしたちの証はより説得力を持つはずです。

どのように証を立てるのでしょうか。司祭、修道者、信徒はそれぞれ置かれている場所が違っていて、同じ行動を起こすことは困難です。それでいて、三者が唯一の証を立てることは可能でしょうか。

どのような道であれば、三者が唯一の証を立てることができるでしょうか。黙想会で学んできたことをここで活かしたいと思います。神さまのみ摂理に全面的に信頼して生きること、これならば三者は唯一の証を立てることが可能です。司祭も、修道者も、信徒も、神さまの計らいはわたしたちを導くのに十分であると確信し、少しも疑いなく生きることです。

神さまは、どんな場面をも御手の中に治めておられる。だからわたしたちは心配せず、置かれた場所で精いっぱい生きよう。この基本姿勢を崩さないなら、キリストを知らないまま生きている人々もわたしたちの生き方を見て「どこに、あなたたちの生き方の基本があるのですか。なぜ司祭も修道者も信徒も、同じ生き方を貫くことができるのですか。その生き方はわたしにも可能でしょうか」このように考える人が現れるに違いありません。

御父御子聖霊の三位一体の神は、わたしたちが唯一の証を立てて、父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、だれもが生き方の基本に取り入れることができる唯一の道に人々を招くよう常に助けをくださいます。「世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(28・20)と仰ったイエスに信頼を寄せましょう。わたしたち三者が、唯一の生き方を証しすることで、三位一体の神がおられることを人々に示すことができるように、力と勇気を願いましょう。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
キリストの聖体
(マルコ14:12-16,22-26)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼"Contemplatio Amorem"と言っていた気がする。ラテン語でありながら、正確にはどのように言われたか自信がない。いずれにしても、「神の愛を観想すること」と理解できる。神の愛がどれほどであったかを観想すれば、わたしたちの取るべき態度はおのずと明らかになるということだ。
▼司祭、修道者、信徒はそれぞれの生活の場があり、それぞれ違っている。だが、神の愛を観想し、神の愛にどのように答えていけばよいかを考えれば、それぞれの場で求められている生活が必ず見つかるはずだ。
▼神は、人間に憐れみをかけ、一滴の涙を流せばそれで人類のすべての罪を赦すことができたはずである。その神が御子を世に与えてくださった。これほどの愛に、司祭、修道者、信徒は、それぞれの場所で愛を返すように求められている。
▼司祭であるわたしは、福音と向き合い、福音が語るように促している声を言葉にし、それを語り続ける。できるだけ分かりやすく、語りかける声を忠実に届けようと思っている。
▼6月28日には、たまたま修道者に向かって講話をするチャンスがある。そこで修道者はどのように神の愛に答えていくかの参考になるような例をあげてみたいと思う。信徒には、来年の黙想会で話すことにしよう。
▼黙想会の説教師が紹介してくれたDVDを手に入れた。フランスのルルドで聖母マリアの出現に立ち会った聖ベルナデッタを扱った映画である。子供たちにぜひ見せてあげようと思い購入したが、150分以上の大作である。5回に分けよう。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第378回目。黙想指導してくださった大木師に心から感謝。

ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/

【文庫本の問い合わせについて】
文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
3冊セットの提供が可能になりました。ABC年セットで
2000円です。ご希望の方は住所と名前を添えて連絡ください。
===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

聖霊降臨の主日(ヨハネ15:26-27;16:12-15)聖霊の炎で造り替えられる

2015-05-24 | Weblog
当ブログをお読みくださり、ありがとうございます。

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/150524.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
15/05/24(No.770)
‥‥‥†‥‥‥‥
聖霊降臨の主日
(ヨハネ15:26-27;16:12-15)
聖霊の炎で造り替えられる
‥‥‥†‥‥‥‥

めったに味わえないイセエビとアワビを先週いただきまして、木曜日の福見のミサで、保育園児と小学生を前に、イセエビをいただいたことをわたしなりに披露しました。

浜串の司祭館のチャイムが鳴ったので誰かなぁと思って二階から下りて行ったら、イセエビが玄関に横たわり、苦しそうにしていた。よく見ると足が何本かちぎれている。

これはきっと車にひかれてしまったに違いない。そのままにしていたら死んでしまうので、わたしがイセエビの耳元で「食べてもいいですか」と聞いたら、「うん」と言った。そういう話を披露しました。

保育園児はポカンと口を開けて聞いていましたが、小学生は全員わたしに反論があるといった顔でした。その中で学年がいちばん下の子供が、「イセエビがチャイムを押すはずがない。イセエビが『うん』と言うはずがない」と、最後までわたしの主張に異を唱えていたそうです。

木曜日は、全員そろってわたしのもとで要理のお勉強ですが、上級生がわたしを教え諭すかのように「神父さま、イセエビはチャイムを押したりしませんよ。押せるはずがないでしょ」と釘を刺されました。「わたしが下りて行ったときにイセエビがいたのだから、イセエビが押したに違いない」「イセエビはそんなことしません」子供たちはわたしの嘘を見破れるほど立派になったのだなぁと感心しました。

一方で子供だましのような嘘を言い、一方で福音の学びを語る主任司祭の舌は、どうなっているのでしょうか。ですが子供にも分かるような嘘を言うのはわたしに限ったことではないでしょう。どんな人にも、聖霊降臨の恵みに触れて、変わっていく必要があるわけです。その聖霊降臨は、わたしたちをどのように変えてくださるのでしょうか。

本日聖霊降臨の主日の第一朗読では「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」(使2・1-4)とあります。

「炎」は、熱を伴うものです。聖霊が使徒たちに降ると、彼らに熱意が注ぎ込まれたのでした。また、聖霊は舌の形で現れたということですから、この「炎のような舌」は弟子たちの舌を「熱意をもってイエスの復活を宣べ伝える舌」に造り替えたということでしょう。

ところで復活後の弟子たちについて、弟子たちの人間的な部分、イエスの復活に遭遇してもなお簡単には変わらない部分が書き記されています。ヨハネ福音書によると、「シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。シモン・ペトロが、『わたしは漁に行く』と言うと、彼らは、『わたしたちも一緒に行こう』と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった」(21・2-3)とありまして、復活したイエスに出会った後も、自分たちの食べ物の心配がまず頭にあったのです。

この後イエスが岸辺に立ち、何も魚が取れなかった弟子たちに「子たちよ、何か食べる物があるか」(21・5)と言いました。ここでも復活したイエスは弟子たちの心配を取り去ってくださるのですが、「イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目」(21・14)だったのです。弟子たちでさえも、聖霊による照らしがなければなかなか変われないことが暗示されていると思います。

聖霊降臨を身近に感じるために、例えを見つけました。炎を入れて造り替えられるものと言ったら何でしょうか。わたしが思い付いたのは、刃物・包丁です。たとえば出刃包丁は、火で精錬されて強く切れ味の鋭い包丁に生まれ変わります。わたしは左利きで、自分に合った包丁を持っていなかったのですが、チャンスを与えられて左利きの包丁を作ってもらい、愛用しています。すばらしいこの包丁は、火で精錬されて、単なる鉄の塊から、切れ味鋭い刃物に生まれ変わったのです。

聖霊降臨は、わたしたちに同じ体験をさせてくれるのだと思います。炎のような舌が一人一人の上にとどまります。特に、堅信の秘跡を通して、聖霊がとどまり、わたしたちの舌を火で精錬して、復活したキリストを宣べ伝える者、キリストの兵士としてくださるのです。火で精錬された包丁が、手入れを怠らないならばいつまでも鋭い切れ味を保つように、聖霊という炎で精錬されたわたしたちの舌は、わたしたちが悪意で間違った使い方をしない限り、いつまでもキリストを伝える舌であり続けるのです。

福音朗読の中で聖霊は、「真理の霊」「真理をことごとく悟らせる霊」として示されています。洗礼を受けたわたしたちには、すでに真理があふれるほどに注がれているのですが、わたしたちは神がお与えになる真理に疎く、たとえその真理にたどり着いても語る言葉を持ち合わせていません。そこでイエスは真理をことごとく悟らせる聖霊を遣わし、わたしたちを造り替えてくださいます。

問題は、わたしたちが心を開くかどうかです。聖霊という火によって精錬されることを喜んで受け入れましょう。わたしたちの舌が、キリストを宣べ伝える舌となることを喜びましょう。福音朗読の前に歌った「聖霊の続唱」を、心の中で歌い続け、わたしたちの舌が、いつもみことばを語れる状態に保たれるよう、今日のミサの中で願いましょう。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
三位一体の主日
(マタイ28:16-20)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼聖母月、公言していたロザリオに集まる人々へのお魚のプレゼントがなかなか一筋縄ではいかない。台風が邪魔をしてくるし、釣りに行くチャンスが巡って来た日に小潮で魚の活性が上がらなかったり、最終週は司祭の黙想会で大司教館に缶詰めである。
▼こういう場合、すぐに白旗を上げるのが手っ取り早い。「白旗」と言えば、母の日に、母親にお魚を釣ってお刺身を食べさせてはあげたのだが、その様子をうかがわせる写真を撮影するのをすっかり忘れてしまった。そのせいで関連する写真をメルマガ第768号に一枚も用意できなかった。すぐに白旗を上げて謝っておきたい。大変申し訳ない。
▼今回の「ロザリオ参加者全員にささやかなお魚のプレゼント計画」も、ほぼ絶望的である。黙想会から帰ってきて31日に釣り大会があるが、この日だけで鯛を40匹釣り上げられるはずがない。
▼まぁ、話としてはわたしにとっても魚を楽しみにしている信徒にとっても盛り上がっただろうから、それで勘弁してほしい。聖母月に限らずチャンスがあれば小教区の信徒に喜んでもらえるようにしようと思う。月曜日の休みなどは特にそうだ。休暇の月曜日に釣りをすれば、自分のリフレッシュとお魚を喜んでくれる信徒と、両方にメリットがある。
▼そう言えば小学生時代の同級生が前日に電話で確認をしてから訪ねてきた。「こちらに赴任して釣りをしているそうだが、ぜひ自分も連れて行ってくれ」ということだった。ということで同級生を連れて3時間ボート釣りを案内した。1時間は船頭であるわたしの腕が悪く、釣れる場所に案内できなかった。
▼不本意ながら、小物が簡単に釣れる沿岸に連れて行き、カサゴ釣りを1時間した。案の定カサゴがポンポン釣れたが、わたしとしては鯛を釣らせてあげたかったので、消化不良のまま帰らせるとわたしが納得できない。
▼そこで残り1時間は、釣れるか釣れないか分からないけれども、自分がここと思う場所で、自分が用意した釣り道具で、釣りを付き合ってくれと頼んで残り1時間鯛ラバでの釣りを決行した。
▼30分は何の反応もなかった。わたしもかなり焦っていたが、直後にイトヨリの当たりが自分に来た。鯛は釣れなかったが、こんな釣り方で釣れるんだよという「しるし」にはなったかなと言って、わたしの心の中では釣りは終了していた。
▼その10分後だった。同級生のリールが音を立てた。「ジーーーー」と道糸が出ていく。このチャンスを逃したら最後だ。自分の仕掛けは回収してボートに置き、同級生のやり取りのサポートに徹する。少しドラグを緩めに設定していたのでなかなかリールが巻けない。もう少しドラグを締め、後は同級生の竿さばきの能力を信じて見守ることにした。
▼ユラユラと上がって来たのは2kg弱のマダイだった。同級生が喜んだのはもちろんだが、わたしは責任を果たせてホッとしたし、同時にあらためてここは秘密の場所にしておかなければと思った。こうして鯛ラバ釣りの面白さをまた一人味わって帰った。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第377回目。小学校以来の同級生はわたし以上にりっぱなお腹になっていた。

ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/

【文庫本の問い合わせについて】
文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
3冊セットの提供が可能になりました。ABC年セットで
2000円です。ご希望の方は住所と名前を添えて連絡ください。
===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

主の昇天(マルコ16:15-20)主は今も共にいて、働いてくださる

2015-05-17 | Weblog
当ブログをお読みくださり、ありがとうございます。

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/150517.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
15/05/17(No.769)
‥‥‥†‥‥‥‥
主の昇天
(マルコ16:15-20)
主は今も共にいて、働いてくださる
‥‥‥†‥‥‥‥

主の昇天の祭日を迎えました。選ばれた朗読個所から、弟子たちの派遣に注目してみたいと思います。弟子たちはイエスから派遣され、派遣された先で、復活した主の現存を感じ、またそれを次の派遣先で伝えることになります。

先月の終わりだったでしょうか、木曜日の朝ミサをしていたときに「ん?この人は浦上教会の信者さんのようだが」と思う人を見かけました。でも浦上の信者さんが浜串の朝ミサにいるはずないよねーと思いつつも、気になったのでミサから帰るその人に声をかけてみました。「もしかして、杉山工務店の杉山さんですか?」

「覚えてくれていましたね。」「やっぱりそうだ。いやー似ているなぁと思って。旅行ですか?」「姉に会いに来ました。」「今も働いているのですか?」「いや、がんを患ったので仕事は辞めました。でも信仰のおかげで病を克服しました。」「大変でしたね。わたしは今でも高尾地区の集会で披露してくれた歌を覚えてますよ。曲がりくねった道。」

浜串でばったり会ったこの人は、当時高尾地区の集会のたびに一風変わった歌を披露してみんなを喜ばせていたのです。正確に覚えているわけではありませんが、次のような歌でした。「昔あるところに、背の高い小人がいた。背の高い小人は、曲がりくねったまっすぐな道を、上へ上へと下って行った。」続きがありますが、ここまでしか覚えていません。

奇妙な歌でしたが、いつも杉山さんがこの歌を披露して、だれもがこの歌に引き込まれていきました。当時は「ユーモアにあふれた歌」それくらいしか思っていませんでしたが、思い出すと味わい深い歌だと思っています。

主の昇天について朗読個所が教えることはわずかです。「主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。」(16・19)おそらく、福音記者はイエスがどのように天に上げられたかにはそれほど興味がないのでしょう。

昇天の詳しい様子よりも弟子たちを派遣し、弟子たちの語る福音を信じる者に伴うしるしを詳しく語っています。それは、イエスが天に上げられても、弟子たちとの結びつきは何も変わらないから安心しなさいと言いたいのだと思います。

「信じる者に伴うしるし」ですが、一つ一つの例よりも、これらはイエスが共にいなければ決して起きない出来事だということが大切です。復活した主は、弟子たちと共に働くのです。

しかし一つ問題があります。弟子たちは復活した主を見たときに全面的な信頼を寄せていたわけではありませんでした。今週の朗読個所の直前、マルコ16章の14節には「その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。」とあるからです。

イエスは天に昇られ、弟子たちを派遣し使命を果たさせますが、弟子たちが復活したイエスを全面的に信じていたから派遣したわけではないのです。派遣された弟子たちは宣教活動をしながら、まだまだ不十分であった復活したイエスへの信仰を固めていったのです。

イエスが天に昇られ、目で見る姿では弟子たちの前からいなくなりましたが、弟子たちはイエスが共に働くことを、全世界で、すべての造られたものに感じ取ります。福音を伝え続ける中で、弟子たちは復活したイエスとの絆をますます強めていく。イエスは、弟子たちを育てるにあたって、このような方法を好まれたのだと思います。

弟子たちの体験は、次の世代に受け継がれていきます。イエスが共にいなければ起こり得ない出来事を、次の世代も体験し、伝え続けていきます。それはわたしたちも同じことだと思います。わたしたちにとって、イエスがいなければ起こり得ない出来事は秘跡です。秘跡の恵みにあずかりながら、次の世代にも体験を語り継ぐ者となる必要があります。

イエスは天に昇られました。天に昇っても、イエスがわたしたちと共に働いてくださることを証しするのはわたしたちです。わたしたちが、イエスが共に働いてくださることを、イエスを知らない多くの人に、わたしたちの次の世代に、確信を持って知らせることができるように、今日のミサの中で恵みを願いましょう。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
聖霊降臨の主日
(ヨハネ15:26-27;16:12-15)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼「曲がりくねったまっすぐな道。」そんな道あるはずがないと思うかもしれない。けれどもよく考えてみると、人生は自分で決めた道をまっすぐに歩いているつもりでいて、なんと曲がりくねっていることだろう。これこそ自分に与えられた天職だと悟ってまっすぐに突き進む仕事であっても、その仕事によってたどる道のりはなんと曲がりくねっていることだろう。
▼わたしは司祭職を、これこそ自分に与えられた職務だと受け止めているが、現実の司祭職の道のりはなんと曲がりくねっていることだろう。司祭職に限らず、奉献生活にある方々も、いっさいを奉献して生活してあとは平穏無事かと言うと、その道はどれほど曲がりくねっている。「曲がりくねったまっすぐな道」ことば遊びのように聞こえるが、真実を言い当てていると思った。
▼イエス・キリストのご生涯は、御父への従順を貫く生涯だったが、その道のりもまた曲がりくねった道だった。人類の救いのために生まれた場所は宿屋ではなく家畜小屋。羊飼いと東の国の博士たちに礼拝を受けたが地上の王に命を狙われ、エジプトに避難。神の国を人々に知らせたのに、イエスをねたむ人々にことごとく反対され、十字架にはりつけに。イエスご自身はまっすぐに御父の望みを果たして生涯を全うしたが、その道のりは紆余曲折に満ちていた。
▼もう一つのセリフ「上へ上へと下って行った」これも奇妙な歌詞。けれども、何かを言い当てている気がする。イエスが天に挙げられるのはへりくだって、死に至るまで従順だったからでもある。その様子をパウロは、フィリピの信徒への手紙の中で次のように表現した。
▼「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」(フィリピ2・6-9)
▼神はキリストを上へ上へと高く上げたが、高く上げられたキリストは下へ下へと下っていくご生涯だった。「上へ上へと下って行った」まさにこの道をたどられたのではないか。素朴な信仰の中で育った工務店のお父さんが歌った「曲がりくねったまっすぐな道」の歌は、不思議な形でイエスのご生涯を、わたしたち人間の人生を言い当てているように思った。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第376回目。予定では、浜串教会聖母行列の様子。

ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/

【文庫本の問い合わせについて】
文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
3冊セットの提供が可能になりました。ABC年セットで
2000円です。ご希望の方は住所と名前を添えて連絡ください。
===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

復活節第6主日(ヨハネ15:9-17)最も価値ある見方で人を見る、接する

2015-05-10 | Weblog
当ブログをお読みくださり、ありがとうございます。

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/150510.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
15/05/10(No.768)
‥‥‥†‥‥‥‥
復活節第6主日
(ヨハネ15:9-17)
最も価値ある見方で人を見る、接する
‥‥‥†‥‥‥‥

今年の復活節第6主日は、「互いに愛し合いなさい」というイエスの最高の掟が示されました。わたしたちがイエスの掟を喜んで受け入れ、実行するきっかけを得ることにしましょう。説教案は3年前のものを参考にしています。

聖母月、夕方のロザリオの信心が始まりました。5月初め、趣味の釣りで鯛を4枚釣り上げたので、浜串教会のロザリオに参加した人たちに配りました。ほかにイトヨリ、ホウボウなども釣れていました。

争いにならないように「5月中に50枚くらい鯛を釣る予定ですので、慌てなくて結構です。今日当たらなかった人も、また次のチャンスがあります」と大見えを切りました。約束を果たせなかったらごめんなさい。

今日母の日なので、実家に立ち寄ってついでに晩御飯を一緒にしようかと思っています。カーネーションを買っていくのは恥ずかしいので、できれば魚を釣って、わたしがさばいて、お刺身をご馳走してあげようと思っています。そういうわけで、本日ミサ後に釣りに行くのをお許しください。

選ばれた福音朗読の中で、イエスの次の語りかけに注目しました。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」(15・12)

イエスは掟を弟子たちに示しました。「掟」ということばは、日本語では「社会の定め、決まり」という意味ですが、聖書の世界での「掟」は、神が人間に与える指示、イエスが弟子たちに与える指示という意味があります。人間の掟を破っても、人間として生きることはできますが、神の掟、イエスの掟を破れば、人間は神との絆、イエスとの関わりを失ってしまい、霊的に死んでしまうのです。

すると、イエスが弟子たちに「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」と仰ったのは、たいへん重いことなのだと分かります。互いに愛し合う生き方をしなければ、わたしたちは神との絆、イエスとの絆を失ってしまうのです。

人を、愛する相手として見ること。わたしは、この見方が他のどんな見方よりも人を価値あるものとして見る生き方だと思います。わたしたちはこの世界の人々をいろんな見方で見ています。見知らぬ人、知り合い、友人、親戚、兄弟、家族などです。

その人をどう見るかで、わたしたちは接し方も変えています。見知らぬ人には、それほど親身になることはありませんが、兄弟や家族には、最後まで心配したり面倒を見たりするのです。その中で、愛する人への接し方がいちばん相手を大切にします。イエスは、互いが互いを、愛する人として接する。これを掟として残しました。

それは、人を、最も価値ある見方で見なさいという招きでもあるのです。いちばん相手を大切にする見方、いちばん相手を価値ある者と見る見方を、わたしたちに求めているのです。

実際、イエスがそのようにわたしたちを見てくださいました。ある時ファリサイ派の人が、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。」(ルカ7・39)という場面がありました。イエスはこの時も、女性をいつものように価値ある人として見てくださいました。

また神殿でファリサイ派の人が祈った時も、「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。」(18・1)と言いましたが、イエスは徴税人を価値ある者としてくださいました。イエスの模範に、わたしたちは謙虚に従う必要があります。

わたしたちの生活を振り返ってみましょう。誰か自分よりも劣る人を心の中に置いて、わたしはあの人よりはましだと、自分を慰めてはいないでしょうか。イエスは違う生き方を求めています。あなたが自分より劣ると思っているその人を愛してあげなさい。自分よりも劣る人としてではなく、価値ある人として接しなさい。そう呼びかけるのです。

イエスの呼びかけは守れる人だけ守ってくださいという呼びかけではありません。払える人だけ払ってくださいという指示ではありません。すべての人が、神との絆を失わないために、神の愛にとどまって生きるために、イエスが求めている指示なのです。

わたしは、毎日の生活の中で接しているいろんな人をどのように見ているのでしょうか。いちばん価値のある見方、つまりその人を愛するという態度で接してみましょう。すると、今までは見落としていた目の前の人の価値、良い所が発見できるでしょう。そして互いに愛し合う生き方を選ぶなら、わたしたちはイエスと心を通わせる友となれるのです。

今週は、世界広報の日でもあります。イエスが自ら模範を示し、掟として与えた互いに愛し合う生き方、相手を価値ある人として接する生き方を生活の中で証しして、この世界にイエス・キリストを告げ知らせる者となれますように。そのための力をミサの中で願いましょう。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
主の昇天
(マルコ16:15-20)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼5月6日に2人連れで浜串教会司祭館に客が訪ねてきた。2人とも、5月2日から3日間かけて国宝大浦天主堂から今村教会に巡礼を敢行したメンバーである。無事に巡礼を終えたということで、わたしを訪ねに来てくれた。
▼なぜわたしを訪ねに来たかと言うと、わたしはこの巡礼メンバーに途中の地図を印刷し、巡礼中もメールで道案内をしてサポートしていたからである。地図は大いに役立ったらしい。それを聞いたときは嬉しかったが、詳しく聞くと珍道中だったことが分かった。
▼わたしが手渡した地図は、A4印刷の20枚ほどの地図で、おおよそ1時間で歩く範囲を1枚に収めるように印刷していた。詳しく説明が必要な場面はそれよりも縮尺を大きくして、仮に道を間違っても別の道から本来のルートに復帰できるように考えられていた。
▼ところが2日目、それでも大きく道をそれてしまい、その日の巡礼は困難を極めたらしい。2日目の大まかな流れは、諫早を出発して海沿いの道を歩き、平良町の多良駅まで歩き、多良駅から17時15分発のJRで佐賀駅に移動するというものだった。
▼どこで道を間違えたのか不思議に思っていたら、想定外の場所で道を間違えたらしい。わたしは「諫早市街を出て海沿いの道を道なりに歩く」と地図に書き込み、それを頼りに歩くことができると思っていたが、巡礼者たちは、「諫早市街を出る」時点で道を間違えたのだそうである。
▼それは想定していなかった。諫早駅付近に国道207号線が交わる十字路があって、207号線に沿って歩けば海沿いの道に出ることができる。だがこの交差点で道を間違えると、長崎市に逆戻りするか、大村市に北上してしまう。
▼ここで巡礼者たちは大村市に北上する道に侵入し、30分ほど歩いたところで地図上の道路から逸れていると気付き、近くを通る人に道を聞くと、この道は207号線ではないと言われた。そこで慌てて引き返し、本来の道に戻ったそうである。本線に戻るまで1時間のロスをしてしまった。
▼1時間のロスは、この日の行程では致命的なロスになる。なぜなら、最後に17時15分のJRに乗車する必要があったからだ。1時間以上待てば次の電車がいないわけではないが、この日は合羽を着ても雨が体に入り込む強い雨降りの日で、濡れたまま1時間も待てば体調を崩す危険もあった。
▼何とか本来の道に復帰したが、時間を取り戻すべく無理をしたらしく、それで足を酷使し、歩くのが難しくなったと言う。わたしは途中途中ショートメールで様子を確認していたが、いよいよ歩くのが難しくなったというメールを見たとき、「多良駅の隣の肥前大浦に17時に着けば、佐賀行きの電車に何とか間に合います」そう伝えたが、彼らは辛抱して歩き、ギリギリ17時5分に多良駅に到着したそうである。
▼「2日目の出発地点で間違えたとは恥ずかしくてとても言えないよねと、2人で司祭館に来る前は話していたんです。」だが話してくれたおかげで、巡礼報告は愉快なお土産話になった。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第375回目。母の日。カーネーションのほかに魚を持ち込み、家族と食事。

ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/

【文庫本の問い合わせについて】
文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
3冊セットの提供が可能になりました。ABC年セットで
2000円です。ご希望の方は住所と名前を添えて連絡ください。
===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

復活節第5主日(ヨハネ15:1-8)ぶどうの木につながるなら、無限の恵みにあずかれる

2015-05-03 | Weblog
当ブログをお読みくださり、ありがとうございます。

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/150503.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
15/05/03(No.767)
‥‥‥†‥‥‥‥
復活節第5主日
(ヨハネ15:1-8)
ぶどうの木につながるなら、無限の恵みにあずかれる
‥‥‥†‥‥‥‥

今年の復活節第5主日には、「イエスはまことのぶどうの木」このたとえが語られました。ぶどうの木につながっている生活には、どんな素晴らしさがあるのかを学ぶことにしましょう。

先週子どもたちのミサのときに「母の日・父の日」について、それと「子どもの日」についての質問を投げかけてみました。「5月には母の日、6月には父の日が来ますね。お父さんお母さんのために何をしてあげますか?」

すると思い思いの答えが返ってきました。「お手伝いをする」「ご飯を作ってあげる」「プレゼントをする」これらは、中田神父にとって合格点の答えですが、根本的なものが欠けていると思ってもう少し追及しました。「みんなが言っているお手伝いやご飯作りやプレゼントは、何のためにしてあげるわけ?」ここで子どもたちは行き詰ります。

そこで助け船を出してあげました。「それらはお父さんお母さんに感謝を表すためですね。感謝の気持ちを、お手伝いにして伝えたりご飯を作って伝えたり、プレゼントで伝えるわけよ。では、『子どもの日』にはお父さんお母さんはみんなに何をしてあげるのでしょうか?」この質問には全く思い付くものがなかったようで、皆押し黙ってしまいました。

「子どもの日は、お父さんお母さんがみんなに感謝をする日ですか?『太郎君、ありがとう』って、お父さんが言う?どうも違うよね~」こういう促しでは何も思い付かないようなので、わたしの答えを暗示しました。「子どもの日は、お父さんお母さんたちが子どもにとっていちばん良いと思うことをしてあげる日だと思うよ。」

今日はここからが問題です。では「子どものためにいちばんよいと思うこと」とは何なのでしょうか。張り切ってご馳走してあげることでしょうか。奮発してお小遣いをあげることでしょうか。欲しがっているものを買い与えることでしょうか。もしそれらの答えだったら、わたしがここまで時間を使って問いかけるでしょうか?

わたしは、子どもと一緒に祈るひと時を作ることだと思っています。年に一度もでもいいから、親子全員で、離れていても時間と都合を合わせて、朝夕祈ったことがあるでしょうか。年に一度でも、親子全員で、子どもの日にミサにあずかったことがあるでしょうか。わたしは、子供に神の恵みが特別にあるようにと祈ってあげることが、子どもにとっていちばん良いことだと思っています。「神父さんの考えは分かりました。でもわたしたちの考えは違います」そうおっしゃるのでしたら、それ以上は言いませんが。

さて福音に戻りますが、イエスはまず大前提として「わたしにつながっていなさい」(15・4)と招きます。恵みを受け、実を結ぶためにはイエスにつながっていなければ始まらないのです。その上で「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」(15・5)と導いていきます。ここではもう、豊かに実を結ぶことは約束されているかのように言われています。

なぜ、イエスはご自分につながっていれば豊かに実を付けること間違いなしと約束できるのでしょうか。それは、御父と御子イエスの関係が説明してくれると思います。

イエスは、無限の力と無限の恵みを持っておられる御父の独り子です。御父の無限の恵みを受け取ることができるのは御子唯一人です。ですからわたしたちがイエスにつながっており、イエスもまたわたしたちにつながっているとすれば、イエスによってわたしたちは御父の無限の恵みを受けることができるのです。

わたしたちは限りある存在、不完全な存在です。ですから御父の無限の恵みを最大限受け取ることはできないので、わたしたちが恵みの受け取り手であるなら豊かに実を付けることはできなかったかもしれません。けれども、イエスにつながっているなら、イエスがわたしたちのための恵みを御父から受け取ってくださるので、豊かに実を付けることが可能になります。

このことを目に見える形にしてくださったのが秘跡だと思います。神の無限の恵みが、わたしたちがイエスにつながっていることで注がれ、秘跡の効果として現れます。たとえば叙階の秘跡をうけた者は、罪を赦し、聖体祭儀を挙行し、結婚を望む男女を祝福し、司教にあっては自分の協力者である司祭を生みだすことができます。これらは、神の無限の恵みがなければ不可能ですが、神の無限の恵みは、わたしたちがイエスにつながっていることで初めて受けることができるようになるのです。

務めを果たすのに不十分な存在である人間が罪を赦し、聖体祭儀を挙行し、司祭をこの世に生み出す。このような無限の恵みは、イエスにつながっていればこそ可能なのです。
神は、人間が豊かに実を結ぶ方法を用意してくださいました。それはイエス・キリストにつながっていることです。イエスにつながり、イエスもわたしたちにつながっている時、初めてわたしたちは神の無限の恵みにあずかることができるのです。

5月5日子どもの日です。神とつながっている時に無限の恵みに触れることができることを、両親の言葉で子どもに伝えてください。子どもたちに、神の無限の恵みにあずかる道は神とつながっていることだよと、自分の言葉で伝えてください。そして家族皆が、神に感謝することを学ぶ場として、家族で祈るよう取り組んでください。

子どものためにいちばん大切なことは何か、子どもの日によく考えるようにしてください。のちに子どもたちが、自分の親は自分たちのためにいちばん大切なことを子どもの日にしてくれたと感謝する日が来ることを、心から願っています。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
復活節第6主日
(ヨハネ15:9-17)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼4月29日、連休の初日に鯛釣りに行った。「鯛釣り」というからには鯛を釣りに行ったわけだが、ここ何度かの釣行は大スランプに陥っていた。その流れで29日も出かけたから、最初から当てにはしていなかった。
▼自分が実績を積んてきたエリアが3つあって、Aはおもに鯛の実績のあるエリア、Bはキジハタの実績のあるエリア、Cは五目釣りみたいなエリアである。何度か連続で落胆して帰ってきているにもかかわらず、29日はエリアAに直行した。
▼朝6時くらいが満潮。現場到着が朝9時。当てもなく釣り始めた。1時間くらいしてからだったと思うが、前あたりがあったので「おや?」と思った次の瞬間、久しく経験のなかった重さがロッドに伝わった。
▼「これは!」大物だということはわかったが、まだ鯛かどうかの確信はなかった。ドラグを緩めにセットしていたので、激しく糸が出る。糸が止まったので巻き取ろうとすると、違和感を感じた獲物がさらに逃げようと暴れる。不本意ではあるが、リールのドラグを少し強めに締める。
▼ようやく巻き取れるようになったが、2m巻くと5m逃げる。仕方なくあと少しリールのドラグを締め、巻き取るスピードを速める。この頃には自分がかけた魚が鯛であると確信していた。あとは慎重に間合いを詰め、素早くタモ網で取り込むだけだ。
▼キター!バネ秤を持ってなかったが、おそらく3kgを超える鯛だろう。およそ1年振りの大物だ。もちろん上には上がいるわけだが、自分にとっては記録して記憶に残せるクラスの獲物だ。明らかにタモ網の直径よりも大きい。久しぶりに手が震えた。
▼ただ大きすぎるのも問題で、クーラーボックスに入らない。釣り針を外し、早くいけすに入れてあげたい。慌てている時に限ってそうだが、なかなか釣り針が外れない。そうこうしているうちにあり得ないことが起こった。釣り上げた鯛が暴れてジャンプし、海に落ちたのである。
▼「まずい!」逃げられてはギャラリーに威張ることができなくなる。「取り逃がした」と言っても信じてはくれない。幸い、すぐに海中には潜らず、プカプカ浮いていたので、もう一度タモ網で取り込み、何とか針を外していけすに入れた。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第374回目。3.6kgの鯛。大鯛(一般に5kg)とはいかなかったが、納得の釣果。

ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/

【文庫本の問い合わせについて】
文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
3冊セットの提供が可能になりました。ABC年セットで
2000円です。ご希望の方は住所と名前を添えて連絡ください。
===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする