こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

待降節第1主日(マルコ13:33-37)ふだんの出来事に、待降節のヒントがあります

2008-11-30 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
08/11/30(No.387)
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待降節第1主日
(マルコ13:33-37)
ふだんの出来事に、待降節のヒントがあります
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ペトロ岐部と187殉教者の列福式すばらしい式典となりました。中田神父は実行委員会広報部の仕事で裏方に回っておりましたが、あれだけの大きな式典を成功できたのは、長崎の人々に対してカトリック教会としての大きな働きかけになったと思います。もちろんさまざまなことで不都合やトラブルも起こったとは思いますが、全体としてはよくやったなぁと感心しております。皆さんの中にも、スタッフとして協力してくださった人がいらっしゃいます。ありがとうございました。

列福式の翌日に、私は参列者の1人と会う約束をしていました。まったく目が見えないという障害を持った人です。この人と最初に会ったのは13年前です。出会ったきっかけは、カトリックの点字図書館が縁でした。

盲人が書物を読み、情報を得るために本や雑誌を貸し出しているカトリックの点字図書館が東京にあります。その図書館に、私は20年くらい前から年に1度だけですが寄付をしていました。そのカトリック図書館が従来の点字の機械から、パソコンでテキストの文章を用意して、それをパソコンにつないだ点字プリンターで印刷するという新しい方法に切り替えるために、中古のパソコンを必要としていたのです。

13年前、全国版のカトリック新聞に中古パソコンを譲ってほしいというカトリック点字図書館の広告が載りました。当時私はすでにパソコンを持っていましたが、自分が買い換えれば譲ることができるなぁという単純な理由で、「譲ってもいいですよ」と申し出たのです。

パソコンを宅急便でカトリック点字図書館に送ったところ、図書館から電話が来ました。「このたびは貴重なパソコンを送って下さり、ありがとうございました。長崎に行く機会がありますので、浦上教会にお礼を言いに伺います」ということでした。その時浦上教会でお会いしたのが、1人は後にカトリック点字図書館の館長になる人でこの列福式で待ち合わせしてお会いした人、もう1人が、彼の次の代に館長になる人でした。

あとで聞いた話ですが、中古のパソコンを譲ってほしいと全国版のカトリック新聞に募集を掛けたとき、譲ってくれると言ってくれた司祭は、私しかいなかったそうです。そのことをずっと忘れずにいてくださって、今回の列福式参加のついでに、ぜひ会って帰りたいと連絡をくださったのでした。私は、そんなに大切に思ってくれていたとは知らず、私のほうこそ感謝の気持ちでいっぱいになりました。

77歳のこの人と昔のことや現在の様子などたくさん聞かせてもらいました。1時間たっぷり話を聞かせてもらった中で、私の心を強く打った話がありました。それは、「わたしたち盲人は、家を一歩出れば、毎日がちょっとした冒険なんです」という言葉でした。私はその言葉だけで、たくさんのことが思い当たりました。本人が話してくれたことも、やはり想像通りのものでした。

盲人の方々は、昨日と同じ場所に行こうとして、同じ道を使って同じ場所に行ったとしても、昨日は道の途中に置いてなかった物が置いてあって、それに躓いて転んだりするそうです。あるいは、初めての場所に旅行や用事で出かけて、階段から真っ逆さまに転落したり、溝に落ちてしまったり、下水の工事をしていたために蓋の開いた下水の穴の中に落ちたりと、盲人でない人には考えられないようなことで大けがをしたりするのだそうです。それでも、話してくれた人は、「毎日が冒険ですよ」と明るく言ってのけたのです。

その人は毎日が楽しくてしかたがないといった顔つきで、13年ぶりに会った私に話そうと思っていることをいっぺんに話しました。確かに、手を貸してもらう必要はあるけれども、長崎の列福式にも自分で来たし、カトリック点字図書館の館長を数年間務め、カトリック点字図書館が社会福祉法人になれるために東京都と交渉の窓口に立ち、ついに社会福祉法人に移るところまで責任を果たしたのでした。

皆さん、彼にとっては家を一歩出ればそこは毎日が冒険なのだそうです。東京に住んで、電車に乗ったリバスに乗ったり、買い物に出れば財布を開いたり閉じたり、公共の施設に行けばトイレを探す必要もあるでしょう。それらすべてが、私たちには何でもないことであっても、盲人にとってはすべてが冒険なのでしょう。本当に驚きました。

彼の言う冒険という言葉は、私の心に突き刺さりました。冒険は、十分な準備があって初めて成り立つものです。太平洋をヨットで横断するのも冒険でしょう。エベレストに最高齢で登るのも冒険でしょう。それらはどれも、十分な準備、もしかしたら十二分な準備をして初めて、可能になるのではないでしょうか。

もし、冒険というものがそういうものなら、私がお会いした全盲の人は、毎日の冒険に備えて、いつも十分な準備をしているに違いないと思ったのです。彼は、電車に乗ろうとしてホームに立ったとき、うっかり線路に落ちる人もいるのだと言っていました。ということは、彼ら盲人は、どんなにことにも用意して心構えができているということではないでしょうか。

教会の暦は今週から待降節です。救い主の降誕を準備しながら待つというのが今週の呼びかけです。私は今週の福音朗読が、ここまで説教で紹介した目の見えない人の暮らしにごく自然に当てはまっているような気がしたのです。

「気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである」(13・33)。目の不自由なこの人は、いつなんどき、危険に巻き込まれるか分からないので、常に十分な注意を払っています。実際に、カトリックセンターで面会した時も、椅子に座る前にどのような形の椅子か、足には車が付いていて滑りやすい椅子か、確かめてから座っていました。私たちなら何気なく座るところですが、そんな小さなことでも気を付ける必要があるのです。

1時間接している間に、目が不自由な人たちが、そのハンディのために生活の中でたくさんのことに気を付けていることがよく分かりました。学ぶべき点がたくさんありました。私たちはふだんの生活でぼんやり暮らしていることがあまりにも多すぎると感じました。生活の面でぼんやりしているために、それが信仰の面にも悪い影響をしているかも知れない。いやもうすでに悪い影響が出ていると考えたほうがよいとさえ思いました。

ふだんの何気ない祈り、特に司祭にとっては毎日毎日ささげているミサ、もっと十分な注意、十分な配慮をして新しい教会暦の1年を過ごしたいと思いました。または教会の祈りも、急いで唱えることがあまりにも多いので、もっと味わいながら唱えようと思います。特別に新しいことをするのではなく、今すでにあることに、もっと十分な注意を払うことを、1人の人との出会いで考えました。「気を付けて、目を覚ましていなさい」という待降節の最初の呼びかけとして、肝に銘じたいと思います。


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ちょっとひとやすみ
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▼そのH氏のこと。彼はカトリック点字図書館の館長に、信徒として初めて就任した人である。それまでは司祭が館長を務めていた。司祭も不足していたこともあるが、それ以上に信徒で切り盛りして独り立ちしていくために、信徒の館長が選ばれたのではないかと思う。彼は初代の館長として、カトリック点字図書館がカトリック中央協議会におんぶされた状態でいるのをとても心配し、社会福祉法人に生まれ変わることを悲願としていた。
▼「社福になれば、人件費の7割が東京都から出るんです」。へぇ、そんなに出るんだ。素直に驚いた。確かにそうなれば、おんぶされた状態ではなくなる。ただ、行政機関は新たな負担は絶対に引き受けたくない。事実、カトリック点字図書館の社会福祉法人申請は困難を極めたそうである。東京都にはすでに社会福祉法人として活動している点字図書館が3つ存在し、4つめの社会福祉法人の必要性を都は感じていなかった。
▼「新たに設立するだけの必要性とか、根拠を示してください」東京都はそう言って、暗に拒否をしたそうである。そこで困り果てた挙げ句、「考える図書館」構想を打ち立てて、東京都にカトリック点字図書館がユニークな図書館であり、都にとっても有意義であると主張した。「考える図書館」の中身は忘れてしまったが、都はその主張に新鮮さを感じたらしく、すぐに前向きな姿勢に変わったという。カトリック中央協議会にとっても喜ばしいことだった。
▼こうして、カトリック点字図書館は「社会福祉法人 ぶどうの木」に生まれ変わった。「考える図書館」として、メッセージを発信する、物言う図書館がスタートした。H氏も大役を果たし、軟着陸を終えたところでT氏に館長職を引き継ぎ、現在は元のあん摩の仕事で生計を立てている。それにしても、バイタリティ溢れる人だった。77歳になったとき、あんなに活動的に生きていられるだろうか。本当に頭が下がった。

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今週のショット
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第59回目。教区報の切り抜きですが、列福式のシーンいろいろ。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
待降節第2主日
(マルコ1:1-8)
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王であるキリスト(マタイ25:31-46)すべてが、イエス・キリストに仕えるチャンスです

2008-11-23 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
08/11/23(No.386)
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王であるキリスト
(マタイ25:31-46)
すべてが、イエス・キリストに仕えるチャンスです
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今週で教会の1年の暦(典礼暦)は終わります。福音朗読は1年の終わりである日曜日と、人間の人生の総決算や人類全体の終末について考えさせます。あらゆる振り返りを呼びかけていると言っても良いでしょう。

そこで、私たちはカトリック信者としての振り返りをしてみたいと思います。カトリック信者にふさわしい振り返り方は、「イエス・キリストとの関わりで振り返る」ことです。そのことを頭に置いて、まずは与えられた福音の箇所を考えてみましょう。

「わたしの父に祝福された人たち」(25・33)。今週の朗読の中でこう呼びかけられている人々は、「お前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい」(25・34)と言ってもらいました。大変幸せなことですが、この幸せにあずかっている人々は、用意されているものを受け継ぐことになった確かな理由を示してもらったのに(25・35-36)、説明を聞いても理解できていません。

同様に、「呪われた者ども」という厳しい指摘を受けている人々も、なぜこのような恐ろしい状況になったのか、その理由がはっきり示されているにもかかわらず(25・43)、自分たちが置かれている絶望的な状況が飲み込めなかったのです。

両方の人々の受ける報いに永遠の開きが出てしまいました。正しい人たちには永遠の命、呪われた人たちには永遠の罰の宣告です。けれども、どんなに長生きしても100年(マタイ福音が書かれた時代はもっと平均寿命は短かったでしょう)、人間が経験しうるこの人生において、「永遠の開き」というほどの差は本当に生じるものなのでしょうか。

結論から言うと、それだけの差が場合によっては生じるということになります。それは、「イエス・キリストとの関わりに置いてどれくらい中身のある人生を生きたか」で決まってくるのです。イエス・キリストにより近い場所で人生を送った人と、決定的に遠く離れた場所で生きた人では、その開きは「永遠」と言ってもよいくらいの開きが生じるということです。

今週の福音からそのことを学ぶために、一つの物差しを示したいと思います。それは、「どれくらいイエス・キリストにお仕えして生きたか」という「物差し」です。どこにいても、またはどんな状況に置かれていても、あなたがイエス・キリストにお仕えして生きているならより近い場所で生きた人です。反対に、どんなにチャンスに恵まれていても、イエス・キリストに仕える心がけを持たずに生きた人は、イエス・キリストから遠く離れて生きていたことになります。

永遠の命にあずかるとされた「父に祝福された人たち」は、この地上で生きている間、どんな小さなことにもイエス・キリストへの奉仕を読み取り、イエス・キリストに仕えるつもりで奉仕しました。「飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた」とはそういうことです。

実際には、目の前にいる弱い立場の人々に奉仕をしていたわけですが、その人は心の中でイエス・キリストを隣人の中に見て、いつもイエス・キリストに奉仕していたと言えるでしょう。ただそれが、「右の手のすることを左の手に知らせてはならない」(マタイ6・3)それほどに謙虚であったために、恐れ多い言葉に目を丸くしているのかもしれません。

反対に、厳しい叱責を受けた人々は、ある場面にはイエス・キリストへの奉仕を考えていたのかもしれませんが、多くの場面を見過ごし、イエス・キリストへの奉仕のチャンスをみすみす逃していたのでしょう。「最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである」(25・45)。ほとんどの場面を見過ごし、あるいは無視したのでしょうから、この人々はほとんどイエス・キリストに仕えなかったことになります。

イエス・キリストに仕えるなら、私たちたちとイエス・キリストとの関係は「王であるキリスト」と「僕であるわたし」という関係になります。「僕(しもべ)」という呼び方に抵抗があるかも知れませんが、その意味するところは「仕える者」です。王であるキリストに生涯仕えた人の人生は、王のそば近くにあった人生です。私たちは明日、そのようにして人生をまっとうした人々の列福式にあずかるのです。

いよいよ明日は、188殉教者の列福式です。彼らには、「慈悲の組」という組織があり、彼ら自身小さい者の一人であったにもかかわらず、「最も小さい者の一人」への奉仕を欠かさなかったのです。血の一滴までも、王であるキリストにささげて人生をまっとうした彼らが、神に祝福され、神の国を受け継ぐのは当然なことです。


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ちょっとひとやすみ
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▼24日は列福式。当然、列福式関連のネタでこのコーナーをまとめるべき所だが、まず最初に書きたいことは、「わたしの勉強部屋のテレビが壊れた」こと。現在修理に出していて、いつ戻ってくるのか、修理が可能なのかも分からない状態。ということで、列福関連のニュースがどのように報道されているのか、目の前でチェックができない。いちいち寝室に行って確認している。テレビを流しっぱなしにして、列福式報道がなされた時に耳を傾けるということはまずできない状況にある。
▼もちろんメリットもある。すべての出来事にはメリットデメリットがあるもの。今勉強部屋ではいっさいの雑音が入ってこない。電話は鳴るけれども、電話の応対はほとんどが列福式関連で、応対すればするほど問題は解決、少なくとも解決に向けて前進するから歓迎である。ときどきこうして「強制的な静寂」の中に自分を置くのもよい。どんな音を自分が欲しているか、どんな環境に自分を置きたがっているかがよくわかる。
▼列福式で実行委員会本部に首を突っ込んだすべての人々に、心からご苦労様と申し上げたい。私は広報部に属しているので、広報部で汗を流し、言いたいことをこらえて関係部署と交渉・問題の調整に当たってくれた部員のS氏・F氏には、よくここまで投げ出さずに仕事をこなしてくれた。今回の列福式で表に出る人はねぎらいの言葉を受けるだろうが、広報部は私がねぎらわなければだれも声をかけてはくれないだろう。本当にありがとう。
▼広報部以外にも、それぞれの部署は精鋭揃いだったので、本当によくやってくれている。敬意を表したい。一つひとつの部署を上げてたたえたい所だが、典礼部に感謝したいと思う。私は大神学生時代、典礼の教授から習ったことで一つだけ忘れない教えがある。それは「予定通り行かないのが典礼というものです」。名言だと思う。最後まで頭を抱えて現場を取り仕切り、この式典を成功させてくれたのは、突き詰めると典礼部のメンバーである。本当にご苦労さま。わがまま言い放題の外部の声にも耳を傾け、うまく式典をまとめ上げてくれた手腕に拍手。
▼この列福式はきっと参列した人、日本のカトリック教会、日本社会に何かをもたらすと思う。今後は式典が何をもたらしてくれたかを見極めたいと思う。福者たちを通して神さまが与えてくれるものが、日本の教会を力強く前進させてくれることを信じて、今回の「ちょっとひとやすみ」としたい。当日、くれぐれも風邪を引かないように。

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今週の凝縮画像
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第58回目。公表されている図面なので。列福式の座席配置図。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
待降節第1主日
(マルコ13:33-37)
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年間第33主日(マタイ25:14-30)主から託されたものは隠すべきではありません

2008-11-16 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
08/11/16(No.385)
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年間第33主日
(マタイ25:14-30)
主から託されたものは隠すべきではありません
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今週の朗読で主人が僕たちに預けたタラントンは、5タラントン預かった人と2タラントン預かった人には貴重なものでしたが、1タラントン預かった人にはそうではなかったようです。先の2人は預かったタラントンを早速商売に活用しましたが、1タラントン預かった人は、「出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた」(25・18)のです。「やっかいなものを預かってしまったなぁ」といった感じだったのでしょうか。

主人が僕たちに預けたものは直接にはお金だったかもしれませんが、先の2人は「主人とのつながりすべて」がいろいろな活用の見込めるものだったのではないでしょうか。商売をしてもうけたとありますが、「自分の後ろには主人の後押しがある」ということも、商売上大いに役立ったはずです。取引の相手を信用させるために、「この商売は自分の主人から託された資金で始めている」と切り出しただけでも十分相手を納得させることができたでしょう。そうして信頼を勝ち得て、商売はとんとん拍子にいったのかもしれません。

1タラントン預かった僕はどうだったのでしょうか。彼が土の中に埋めた物は直接には「お金」でしたが、主人の僕であるといった「主人とのつながり」も、この僕にとっては迷惑であり、土の中に埋めておきたいものだったのかもしれません。そういう思いが主人への報告の中ににじみ出ています。「恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。ご覧ください。これがあなたのお金です」(25・25)。最後の僕は預かった金を主人に突き返すだけではなく、主人との絆さえも、「のし」を付けて返しますと言っているわけです。

主人が怒ってしまうのも無理はありません。「わたしはあなたに預かったものを迷惑と思っていましたし、あなたとの絆を遠ざけて今日まで暮らしてきました」と面と向かって言われて、気持ちの良いはずがありません。主人は命じます。「さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ」(25・28)。主人が与えたものを最大限活用できる人に与え直したいと考えるのは、主人にとって当然のことでしょう。

実は私たちも、気付いていないかも知れませんが、自分にまつわる絆にどのように関わっていくか、すでに経験してきています。いちばん分かりやすい例は、自分自身の血筋、血統についてです。私たちは父親母親の血筋を引いているわけですが、ある時期はこの血統に抵抗を感じ、自分は親との絆にぶら下がって生きたり、親の七光りで生きたくはないと反発するのではないでしょうか。自分の中にある血統を煩わしいものとして受け止めて、自分一人で生きていけるとか、先祖の血筋という色眼鏡で見られるのを嫌った時期もあったのではないかと思います。

中田神父はその点について、中田家という血筋をかなり重荷と感じる時がありました。自分は中田家の血筋という見方で見られることを嫌がり、自分の家系にある才能や歴史が自分にないことを悲観し、どうして中田家に生まれたのだろうかとさえ思いました。

けれども、才能や伝統はどこかで花開くものです。私が今勤めさせてもらっている教区の広報の仕事で言えば、大先輩の中田武次郎神父様は、長崎教区100年の歴史という記録写真集の編集長だったことを知りました。しかも、私が広報部長になってみてはじめて、大先輩の足跡を知ったのです。先輩の中田神父様がカメラや8ミリをよく回していたということは聞いたことがありましたが、意外な所でその才能を分けてもらっていたんだと知り、自分の家系について知りたいと思いました。家系について知れば知るほど、どれだけ自分の家系に流れているよい面を使わせてもらって今の自分があるのかが分かってきました。

皆さんにも、似たようなことはきっとあると思います。自分の中に流れているものを重荷と捉えてしまい、うまく折り合いを付けられない時期があります。けれども、そんな時期を経験した上で考えると、今ある自分の背景に、きっと感謝できるようになると思うのです。自分自身と、自分を取り巻く環境に、感謝できるようになった時、その人は才能を十分に発揮できるようになるのではないでしょうか。

こうした、私たちがすでに経験してきたことと重ね合わせると、今週のたとえに込められた思いは十分理解できます。主人と僕の間にある絆を、重荷と感じるのかかけがえのないものと感じるのか。その受け止め方で結果は大きく変わっていくわけです。5タラントン預かった人と2タラントン預かった人は、主人とのつながりをありがたいこととして受け止めました。これ以上ない後ろ盾だと感じました。1タラントン預かった僕は、主人との絆、主人との関係を恐れたのです。そこに、今日のたとえを理解する鍵があると思います。

実生活に加えて、私たちの信仰生活の中にたとえの教訓を読み取りましょう。今日の主人と僕のたとえを私たちの信仰生活に当てはめると主人とは父である神で、僕は私たちのことです。信仰を持って生きる中で、父である神との関わりや絆を、できるだけ隠しておきたい、遠ざけたいと思っているのではないでしょうか。そうであるなら、私たちに与えられている神との絆、神とのよりよい関係は取り上げられ、神との絆を大切にして生きる人々に与え直されてしまいます。

神から預けられた恵みを、土の中に埋めて隠してしまう態度は、具体的にはどのような態度を意味しているのでしょうか。誰にも見せない、というのですから、恵みを自分だけのものと考えている態度です。それは言い換えると、預けられた恵みを誰かと分け合おうとしない態度です。

神が預けた恵みは、誰かと分け合ったり、だれかのために活用する時に大きな力を発揮するのに、自分の中に閉じこめ、誰にも分け合わないなら、神さまはもっと役立てることのできる人に向かっていくかも知れません。結婚生活にある人が、恵みを家族と分け合うこと。家族のために祈ったり、家族の恵みを願ってミサを依頼したりして、使うことのできる恵みを分け合う時、何倍にも恵みが豊かになります。

司祭や修道者が、出会う人や、遣わされた教会で受けた恵みを分け合う時、恵みは何倍にも豊かになります。そのことに心を向けないなら、どんな信仰の生き方に召されていても、土の中に恵みを埋めているようなものです。

神からの恵みを取り上げられるのは私たちによほどの原因があったのだと考えるべきです。知らぬ間に、神さまあなたの恵みは迷惑ですという態度を示していたとしたら大変なことです。万に一つも、そのようなことのないように、自分の生活を見直したいものです。

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ちょっとひとやすみ
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▼「予知能力」と言っては大げさだが、「何となく感じる」とか「胸騒ぎがする」とか、そういったことを自分は「ある」と思っている。過ぎた週、とても天気が良く、週に一度のお休みを取るにはまたとないその日、私は午前中立ったり座ったり落ち着かなかった。理由は、釣りに行きたくてたまらなかったからである。
▼ところが、あれだけ海が「おいで~」と誘っていたにもかかわらず、結局は行かなかった。その日の午後、佐世保市のある家族から電話が掛かり、所有している漁船で高島に行き、先祖の墓地を確かめてきたところだが、帰りに自分に会っていきたいと電話が掛かってきた。その瞬間思ったことは、「釣りに行ってなくてよかったなぁ」ということだった。
▼高島の墓地を確かめた家族は、15トンはあろうかという漁船を馬込漁港に入れ、遅めの昼食をご馳走してもらい、楽しく談笑し、お土産に一夜干しまでいただいた。馬込教会では家族そろって祈りを捧げ、キリシタンの子孫は確実に生きている、殉教者の信仰は現代に受け継がれていることをこの目で見ることができた。
▼そういうことで、「まもなく起こるかも知れない出来事」を心の中に示してもらうことは起こりうると思っているし、私にはどうやらそういう部分が与えられているようだという思いも持っている。もちろん、それを私利私欲のために使おうとは思わないし、使えるほど強力でもない。もしこの能力が欲望のために使えるのなら、とっくに私は佐世保競輪に行くかWINS佐世保に行ってお金儲けをしているに違いない。

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今週のエッセー
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第57回目。蚊について、こんなに想像たくましく考えを展開できるのですね~。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/81116.jpg
詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
王であるキリスト
(マタイ25:31-46)
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ラテラン教会の献堂(ヨハネ2:13-32)すべての「神殿」で真の礼拝をささげましょう

2008-11-09 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
08/11/09(No.384)
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ラテラン教会の献堂
(ヨハネ2:13-32)
すべての「神殿」で真の礼拝をささげましょう
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人間だれにでも多少はあるのかも知れませんが、あまりやりたくないこと、得意でないことは後回しにするという弱さががあります。私もその1人です。いろんなことを後回しにして、自分で自分の首を絞めている時があります。

日曜日の説教は、意外に思われるかも知れませんが、わりと早く考え始めているんです。水曜日あたりから考え始めることがしばしばですが、いよいよまとめようとして原稿を書くのはやはり土曜日です。それも、土曜日の夜遅くとかになってしまいます。

仮に金曜日に、書き始めるきっかけを少しつかんでも、「大丈夫。あとで書けるさ」と自分を甘やかしてしまいます。そんなふうですから、予定外の仕事、例えばカトリックセンターでの本部の仕事で呼び出されたりすると、残された時間が少なくなって頭を抱えることになるわけです。きつい目に遭うたびに、「今度は少し早く書き始めなきゃ」と思うのですが、ちっともその決意は実行されません。

締め切りを抱えている仕事は締め切りを守るのが相手に対する礼儀ですが、いつも守らないで遅れて提出している仕事が2つあります。そのうちの1つは、全国の教会学校やカトリックの学校の子どもたち・保護者たちのための雑誌「こじか」の記事です。月末の25日が原稿提出の締め切りなのですが、たいてい5日ほどずれ込んで、30日とかに提出しています。

どうして締め切りを守れないのか。いろいろ言い訳をすることはできるでしょうが、結局は頭の中にある「自分に甘い態度」を取り除く以外に締め切りを守る方法はないようです。今日の福音でイエスは神殿で商売をしている者たちにこう言います。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない」(2・16)。

鬼気迫る迫力ですが、私も他人事ではなく、自分のこととして考えなければなりません。「このような物はここから運び出せ」。私の頭の中には、いろいろな言い訳がたくさん入っています。

月末まで用事が立て込んでいた、今日午前中はあまり書く気がしなかった、午後は眠たかった、夜はついついテレビを見ていた等々。けれどもイエスは、「それがどうした。そんなもの、運び出してしまいなさい」と厳しく迫るのです。

イエスに「運び出してしまいなさい」と言われそうな物を所持したまま、私たちは暮らしていないでしょうか。自分を堕落させそうな物をいつまでも捨てずに置いたままにしている。はっきり縁を切った方がよいのに、離れようと思えばいつでも離れられると自分を偽り続けて、人や物、環境などを近くに置いている。このように、運び出せずにいつまでもあいまいにしている事柄が、少なからずあるのではないでしょうか。

今週もこうして、日曜日の礼拝に私たちは集まっています。健康の理由で来ることのできない人は別として、この礼拝に集まるためにも、つい言い訳にしたくなるようなことを心を鬼にして追い出し、礼拝に来ている人もいるかも知れません。もちろん、礼拝に集まっている私たちも、ここに集まっているから大丈夫とは言い切れません。礼拝を妨げようとするいろんな誘惑が私たちの心に入り込み、心を乱すこともあり得ます。

いろんな可能性を考えると、イエスの言葉は例外なくすべての人に向けられています。あなたが完成させようとしていること、神さまのために始めた計画、隣人愛のわざ、どんな小さな事柄にも、後回しにさせようとしたり、計画をあきらめさせようとしたりする「見えない敵が潜んでいるのです。イエスはいつの間にか鈍くなってしまう私たちの目を覚まそうとして、「このような物はここから運び出せ」と呼びかけを続けるのです。

今週の朗読にある通り、イエスがこのような厳しい態度に出た場所は「神殿」においてでした。イエスの時代のエルサレム神殿では、動物をささげものとして神殿に供える習慣が維持されていました。イエスの誕生のときにも、つがいの鳩をささげましたから、多くのユダヤ人にとって動物のささげものは日常的なことだったわけです。

敬虔なユダヤ人は、どんなに遠くにいても毎年エルサレムでの礼拝を欠かしませんでした。けれども動物を遠方から連れてくるのは困難だったので、神殿では盛んにいけにえの動物が売られていたのでしょう。「いけにえの動物は要りませんか。お安くしておきますよ」。そんな商売人の声が響いていたのかもしれません。

こうした状況をイエスは見過ごすことができませんでした。そこでイエスは、まったく新しい礼拝を打ち立てることにしたのです。それは、動物による礼拝ではなく、イエスを通して、イエスによって父なる神を礼拝するというものです。イエスみずからがいけにえになってくださることで、真の礼拝を確立しようとしたのです。

神殿で動物を追い払うイエスに、ユダヤ人たちは「こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」(2・18)と詰め寄ります。イエスは「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」(2・19)と答えました。

イエスが言う「三日」は、イエスの死と復活を暗示しています。ささげものによって成り立っていた当時の神殿での礼拝を、イエスご自身の死と復活によって、つまり「三日で」、イエスを通してなされる新しい礼拝に建て直してくださいました。もはやこのときから、動物のささげものによる礼拝は、真の礼拝ではなくなります。

イエスが望む真の礼拝は、建物としての神殿だけに限りません。私たちもまた、聖霊が宿る神殿であると言われます(1コリント6・19)。私たち自身が神殿であれば、私の心の中に、生活の中に、イエスが忌み嫌う物を持ち込むべきではありません。イエスは、わたしたちに見せかけの礼拝ではなく、真の礼拝を求めておられます。イエスに「このような物はここから運び出せ」と言われそうな物はきっぱり追い出して、生活そのものを神への礼拝としておささげしましょう。


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ちょっとひとやすみ
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▼自分が考えている意見が絶対ではない。それは机の上では十分わかっていることなのだが、いざ実際の場面になるとそれを受け入れるのは非常に難しい。他人の話を聞き、強調点を見つけたり妥協点を見いだしたりして前進していくよりも、自分の意見を押し通して周りを押さえつける。自分の意見を通すための労力、果てしないエネルギーの消費は何とも思わないのに、他人の意見を聞く労力はどんなにわずかでも払いたくないのである。
▼列福式の準備のためには、いろんな人が関わるので、いろんな場所でぶつかり合う。一方の意見を尊重すれば他方の意見はないがしろにされ、どちらの意見も譲れないのでまとまらない。実行委員会の広報部に所属していて、広報部の意見をまともに却下されてしまうと、広報部の意見が絶対正しいという気持ちになってきて、相手に耳を貸せなくなってしまう。
▼11月になっても、まだ確定できずにいる部分もある。どこかで折り合いを付けること、どこかで譲ること、どこかに妥協点を見いだすこと。「これだけは譲れません」と言って殉教者は信仰のために殉教していったのだけれども、現代のキリスト者は「これだけは譲れません」という部分をそれでもなお譲って、殉教しているのかも知れない。
▼生活に当てはめて、「これだけは譲れません」と言えるものはなんだろうか。仮にその「譲れないもの」を譲歩するように言われた時、私はどんな態度に出るだろうか。社会的な死か、あるいは「死んだふり」か。それとも部外者になるか、中枢に潜り込んで大事件を起こすか。いろいろご想像にお任せするが、内部はいたって「人間的」です。
▼話変わるが、「カトリック中央協議会」というホームページで、11月24日(月)の「ペトロ岐部と187殉教者列福式」の模様を、インターネットで中継する。「一般視聴」と、「優先視聴」があり、優先視聴は申込をした上でカトリックの施設や団体に配分される。メルマガの読者も、ぜひ視聴して見守ってください。

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今週のワンショット
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第56回目。四男の弟が結婚しました。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
年間第33主日
(マタイ25:14-30)
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===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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死者の日(ヨハネ6:37-40)主が訪れる人の顔は輝く

2008-11-02 | Weblog
当メルマガをご購読いただき、ありがとうございます。

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/81102.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
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こうじ神父
「今週の説教」
08/11/02(No.383)
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死者の日
(ヨハネ6:37-40)
主が訪れる人の顔は輝く
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11月、死者の月に入りました。ちなみに11月1日は「諸聖人の祭日」、11月2日は「死者の日」となっていて、今月の最初の2日間を連続で死者のために祈るように促しています。私たちもこのミサの中で、亡くなった方々のために祈ることにいたしましょう。

まず、私も今年は5月31日に父を神さまのもとに送りましたので、すこし父の思い出から話させてください。五島での葬儀ミサの司式は神さまの計らいで私が司式をして行うことができました。多くの場合「心労がたまったままでは大変だろう」ということで、ミサ中の説教だけをするのですが、今回は司式をさせていただきました。

ミサの間は動揺したりしなかったのですが、告別式に移り、最後の結びの祈りを唱えた時に、こみ上げるものがあり、声が震え、涙を流しました。「いつくしみ深い神である父よ、あなたが遣わされたひとり子キリストを信じ、永遠のいのちの希望のうちに人生の旅路を終えたフランシスコ中田輝明をあなたの手にゆだねます(以下省略)」。この言葉を唱えながらこみ上げてきて詰まってしまいました。

死者の日と重なった今日の福音朗読でイエスは言いました。「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない」(6・37)。この世から離れていき、また自分たち家族から離れてゆく父をいよいよ神さまに委ねなければならなくなった。もはや、私たちの手は届かない。そんなことが頭の中を駆けめぐり、辛いなぁと感じたのだと思います。

けれども、涙の中で告別式の結びの祈りを唱えた後は、弔電の時も、献花の時も、晴れやかな気持ちになっていました。「たった今、神さまにすべてをお委ねしたのだからもう心配はしない。イエスは、『わたしのもとに来る人を、決して追い出さない』のだから」。依然として涙は止まりませんでしたが、心は安らかでした。十分な説明はできませんが、親しい家族を亡くして神さまのもとに送り届ける経験を積むと、「わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない」という言葉が信頼できるようです。

父は決して無用な延命を望みませんでした。「神さまが望むなら、死んだほうが楽だと思うほど苦しくても生きようと思っているし、神さまが戻ってきなさいと言うなら、いつでも行く」ときっぱり明言していたのです。父は、永遠の命を与え、復活させてくださるという神の御心を固く信じていたのだと思いました。

さて今日のミサは、私たちの教会で亡くなったすべての方々のために祈るミサです。特に、今年天に召されていった方々のために祈りたいと思います。私は今年、ある光景を見て思う所がありました。大明寺教会の朝のミサを終えて帰ってくる時、おそらく木曜日のミサだったのだと思いますが、馬込教会の共同墓地に朝日が差して、太陽が墓石に反射していたんです。

はじめは、ううぅー、まぶしいと思ったのですが、そのすぐ後に「亡くなった人々に、光が差して、輝いているようにも見えるなぁ」。そんなことを考えたのです。

典礼聖歌の中に、次のような聖歌があります。「主を仰ぎ見て光を受けよう。主が訪れる人の顔は輝く」(典礼聖歌128番)。私は、共同墓地の墓石が太陽を浴びて反射しているのを見た時、墓に眠る人々、復活を待っているすべての人が、神さまの光を受けて、輝いているのではないかなぁと思ったのです。

人間はだれも、神さまの目から逃れて生きることはできません。どんなに馬込教会を遠ざかっていても、神さまの前から遠ざかって生きることはできないのです。神さまはいつも一人ひとりのそばにおられるからです。

けれども、生きている人間は全部が全部、神さまがそばにいてくれることを喜んでいるわけではありません。面倒だと思ったり、うっとうしいと思ったり、神さまがそばにいることを嫌がっていることがあるのです。嫌がられて神さまも悲しい思いをしているだろうと思いますが、人間は自分の都合で勝手なことを思ってしまうのです。

ところが、死者は、自分の勝手ができない存在だと思います。神さまがご自分のそばにお呼びになって、旅立った人々ですから、自分勝手に神さまから遠ざかることができない存在です。

もし神さまから遠ざかっている人がいるとすれば、それは生きているうちに完全に神さまと縁を切って、神さまのお世話になりたくないと言い張った人です。その人は、神さまのもとから永遠に遠ざけられた人で、もはや決して近くに行くことはできません。

ここでは、永遠に遠ざかっている人のことは考えません。神さまに呼ばれてそば近くにいる人、神さまに呼ばれたけれども償いが残っていて待たされている人。このような人々のことを考えます。この、神さまのもとにあるすべての死者は、今主を仰ぎ見て、光を受け、顔は輝いているのではないかなぁと思いました。

ここから私はカトリック信者としての人生の生き方は2つなのだと思いました。1つは、「主を仰ぎ見て、光を受けよう」と考える生き方です。もう1つは、「主に背を向け、暗闇の中を歩もう」という生き方です。この人生を終えた後、神の前では2つのうちどちらかの状態でしか存在できないのですから、今生きているうちにも「主を仰ぎ見て、光を受けよう」という考えて生きていくべきだと思います。

私は、太陽に照らされた墓地での経験から、すでに亡くなった人々は「主を仰ぎ見て、光を受けよう」と神さまをたたえていると感じました。一人ひとり、当てはめてみましょう。イエスは「わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させる」(6・39)そのためにいのちまでささげたのですから、私たちが生きている間神に背を向けてよいでしょうか。むしろ、神の望みに答える生き方を確実に選ぶことができるように、恵みを願いましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼どこでどういう出会いがあるか、神さましか分からない不思議を感じる。もしかしたらずっと前に訪問予定を伺っていたのかも知れないが、京都教区の信徒が2人、長崎巡礼を機会に馬込教会まで足を延ばしてくれた。朝8時50分の船に乗って、9時半頃に司祭館のチャイムを押して声をかけてきた。
▼実は8時40分に掛かってきた電話で、訪ねてくることは分かっていたはずなのに、私は司祭館で締め切りを3日も過ぎた「こじか」という原稿の仕上げをしている最中で、頭をかきむしり、「うー、この忙しい時に誰?」と思ってドアホンに出たのだった。電話であらかじめ訪問を知らせてきていた人に、心の中では謝っていた。
▼この方々、現在の自分たちの教会事情を少し教えてくれた。1週おきに司祭がミサを捧げてくれるそうだが、日曜日であっても毎週ミサに参加できるわけではないらしい。教区の中心教会では当然毎週日曜日ミサがささげられているが、地方になるとそうでもないというのは残念だなぁと思った。
▼ところが、2人は私のことを知っていたらしく、メルマガを毎週読み、説教だけは毎週日曜日目を通すことができるからありがたいと言ってくださった。むしろありがたいのはこちらのほうで、どれくらいメルマガがお役に立っているか、毎週葛藤している自分にとって大きな慰めとなった。
▼説教集も3冊買ってもらった。mp3形式のデータCDも、絵葉書も買ってもらった。その上に、寄付までいただいた。ミサの中で、神さまが与えてくださった出会いに、感謝したい。

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今週のワンショット
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第55回目。馬込教会の共同墓地で、死者の月に合わせて追悼ミサをささげました。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
ラテラン教会の献堂
(ヨハネ2:13-32)
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===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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