こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第13主日(マルコ5:21-43)イエスは必ずご自身との真の出会いに導く

2024-06-28 | Weblog
当ブログをお読みくださり、ありがとうございます。

■■YouTubeチャンネル登録はこちら■■
https://www.youtube.com/channel/UCYRgrlA29PNjJmB0gngYQqA

↓↓聖週間の説教一覧はこちらから↓↓
ご覧ください。
http://ss104313.stars.ne.jp/

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://ss104313.stars.ne.jp/voice/240630.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
2024/6/30(No.1303)
‥‥‥†‥‥‥‥
年間第13主日(マルコ5:21-43)
イエスは必ずご自身との真の出会いに導く
‥‥‥†‥‥‥‥

私は日曜日のミサ後、信者さんからスータンの裾を掴まれたことがあります。その日の福音朗読が今週の「ヤイロの娘とイエスの服に触れる女」でして、二つがおり混ざった奇跡物語でした。スータンを掴んだ高齢の女性は、私を通してイエスに触れ、救いの体験を味わいたいと思ったのでしょう。当時の説教を少し練り直してお届けします。

二つの物語のうち、十二年間出血の止まらない女性は、「この方の服にでも触れればいやしていただける」(5・28)と考えてイエスに近づき、服に触れると確かに出血は止まりました。この女性にとっての目的は十分果たされたのですが、イエスはその女性を探しています。女性にとっての目的は果たされていても、イエスがその人に積ませたい体験は、まだ終わっていないからです。

女性が勇気を出して名乗ると、イエスから声をかけてもらいます。イエスと出会い、イエスを信じる人になること。それが女性に積ませたい体験でした。イエスとの出会いが信仰に変わり、「救われた」と実感して生きていく。奇跡の先で、この体験を女性は積んだのです。

会堂長ヤイロは、きっとその光景を目に焼き付けたでしょう。すでにイエスを信じ始めていましたが、試練を受けます。会堂長の家から人が来て、人間的な希望を断ち切られてしまうのです。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう」(5・35)。

娘が回復することがイエスに近づいた目的ですから、ヤイロはイエスに期待することは何もありません。そんなヤイロにイエスは「恐れることはない。ただ信じなさい」(5・36)と言います。イエスにとって、ヤイロに積ませたい体験はまだ終わっていないからです。

「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」(5・39)人々はイエスをあざ笑います。これも会堂長ヤイロにとって試練です。この先もイエスを信じ続けることができるだろうか。迷いやためらいが生じても不思議ではありません。

そんな中でもイエスは娘を生き返らせ、父親に返してくださいました。ここでヤイロは自分が最初に持っていた目的にたどり着いたのですから、物語は終わりでしょうか。それだけでは終わりません。会堂長ヤイロは、娘の回復という目的のその向こうに、たどり着きます。イエスとの出会いが信仰に変わり、「救われた」と実感してこれから生きていく。その体験をヤイロは積んだのです。

イエスはすべての人に、同じ体験を積ませようと考えておられます。イエスの服に触れ、いやされるだけの出会いではなく、自分の娘を返してもらうだけの出会いでもなく、イエスとの出会いが信仰に変わり、「救われた」と実感してこれから生きていく。この体験をすべての人に与えようとされるのです。

私の父は肺がんで亡くなりました。71歳でした。担当した医師はカトリック信者でした。家族は「余命半年でしょう」と告知を受け、その通り半年で旅立っていきました。闘病中、どのような精神状態だったか知るよしもありませんが、主治医に父は「自分は神様を信じているから何も怖くない」と伝えたそうです。実際にはそれだけではなかったと思いますが、根底にある覚悟は揺らぐことはなかったのでしょう。

私なら「半年です」と医者に言われても受け入れられず、食ってかかるでしょう。しかし父は、自分のことだけ考えていたのではなく、司祭である息子のためにも、最後の教えを残そうとしていたのだと思います。「神様に出会ったのだから、恐れずに自分を委ねて旅立つ。」私は父親の最後の半年で、イエスと出会わせてもらった。そう思っています。

長崎港の沖合にある伊王島の馬込教会から月に一度、有川の病院を訪ねました。刻々と状態が変化する中、私はついに一度も「父を取り上げないでください」とは祈りませんでした。「信仰の道から逸れないように、最期まで歩ませてください」その思いだけでした。

5月31日、父の命日が来ると、祭服を着ながら、イエスの服に触れているのだと考えています。服に触れるだけではありません。実際には救い主イエスに出会わせてもらっているのです。この境地に導いてくれた父には今でも感謝しています。

イエスはすべての人に、「ご自身と出会って救われた」この体験を積ませようとしています。詰まるところそれが、人々に証しすることの出来る唯一の体験です。これまでの人生振り返って、人に証しできる救いの体験、信仰の体験に思い当たるでしょうか。

イエスが、すべての人にこの体験を積ませようとしているのであれば、それは必ず見つかるし、必ず体験するのです。私たちは、人に証しするだけの救いの体験を積んで、宣教する人に必ずなれるのです。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
年間第14主日(マルコ6:1-6)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼洗剤に特別のこだわりはないので、洗剤が切れたら目に付いた物を買う。去年までは液体洗剤を買っていたが、今年になってから「ジェルボール」タイプの洗剤を使い始めた。簡単ではあるが、分量の調節はできないので、そこが難点。
▼全く違う洗剤を見つけた。シートタイプの洗剤。「シート」と聞くと、レシートをポケットに入れたまま洗濯して紙くずが服のあちこちに付き、ひどい目に遭ったことがあるので心配だが、「水に溶ける」と書いてあるので信用してみる。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第910回目。果たして使用感は?汚れ落ちは?いろいろ気になる。

ホームページもご覧ください。
http://ss104313.stars.ne.jp/


† 神に感謝 †
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

年間第12主日(マルコ4:35-41)イエスは大事な場面で「向こう岸に渡ろう」と促す

2024-06-21 | Weblog
当ブログをお読みくださり、ありがとうございます。

■■YouTubeチャンネル登録はこちら■■
https://www.youtube.com/channel/UCYRgrlA29PNjJmB0gngYQqA

↓↓聖週間の説教一覧はこちらから↓↓
ご覧ください。
http://ss104313.stars.ne.jp/

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://ss104313.stars.ne.jp/voice/240623.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
2024/6/23(No.1302)
‥‥‥†‥‥‥‥
年間第12主日(マルコ4:35-41)
イエスは大事な場面で「向こう岸に渡ろう」と促す
‥‥‥†‥‥‥‥

イエスは弟子たちに「向こう岸に渡ろう」と言います。中田神父は「向こう岸に渡ろう」とだけ言っていることに注目しました。たとえば福江港から「向こう岸に渡ろう」とだけ言われたら、皆さんは戸惑うのではないでしょうか?一般的に考えれば、それは「久賀島に渡ろう」とか、「奈留島に渡ろう」とか、目的地があるはずです。しかしイエスは「向こう岸に渡ろう」とだけ告げています。

もちろん、向こう岸には「ゲラサ人の地方」があり、宣教するという目的もちゃんとあるのでしょうが、ここでは向こう岸に着いてからのことよりも、向こう岸に渡る中で経験することを強調していると考えられます。そのような見方で、今週の学びを得ることにしましょう。

幼い頃の話をさせてもらいます。私の父は、私が小学生の頃は遠洋漁業の巻き網船に乗る漁師でした。鯛ノ浦港を母港に持つ船団で、一度だけですが船を見せてもらうために連れて行ってもらったことがあります。「フェリーひさか」ほどの大きさの船がずらりと停泊していました。小学生にとっては圧倒される光景でした。

父親が、「船に乗ってみるか」と誘ってくれたのですが、岸壁から船に渡していたのは幅30センチくらいの板一枚でした。父が先に渡って、船から私に「こちらに来い」と言うのです。とてもではありませんが、狭い板の上を渡って行けそうにありませんでした。

見かねた父が私の所に戻ってきて、私を抱きかかえて船に乗せてくれました。そのとき板がゆさゆさ揺れたのは今でも覚えています。あの時狭い板を渡ったことは、のちに大いに役に立ちました。父が亡くなった後に赴任した浜串小教区で新船の祝福をしたとき、同じ幅の板を渡りましたが、幼いときの経験が無ければきっと渡れなかったでしょう。

福音に戻りましょう。イエスが弟子たちに「向こう岸に渡ろう」と呼びかけたとき、渡るまでの間に何が起こるか、イエスは十分理解していたと思います。突風が吹き、舟が水浸しになります。何も手を打たなければ、海の藻屑となって消えてしまうでしょう。イエスは艫の方で枕をして眠っています。御父への深い信頼を見せようとしたのでしょう。

弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」(4・38)と叫びました。イエスが見せた御父への深い信頼は、弟子たちには伝わってなかったのです。しかし、イエス様と弟子たちが乗ったこの舟は、「向こう岸」に渡ることになります。

「向こう岸に渡る」とは、単に「ゲラサ人の住む地方に着いた」という意味だったのでしょうか。そうではありません。「イエスと一緒に乗った舟は必ず目的地へたどり着く」その経験を積むことを意味していました。イエスと一緒の舟に乗り、向こう岸に渡るとき、自分を見失うほどの恐れを感じる中でも、必ず目的地にたどり着かせてくれるのです。

小学生の時、狭い板を見て、これではどれだけ父親が渡ってきなさいと言っても渡れないと感じました。父親への深い信頼が無かったからです。当時の父親の年齢を超えて、今なら分かります。深い信頼が、渡れないと思った向こう岸へと人を渡らせてくれるのです。

人への信頼がそうであるなら、父なる神とイエス・キリストへの深い信頼はなおさらです。神への深い信頼は、人を憎しみから愛のあるところに渡らせてくださいます。争いから和解へと渡らせてくださいます。絶望から希望へ、悲しみから喜びへ、暗闇から光へと渡らせてくださるのです。

イエスの「向こう岸に渡ろう」という呼びかけを聞いて、私たち長崎教区民は、具体的に何を思い浮かべたら良いでしょうか。いろいろあると思いますが、たとえばそれは、「小教区再編」の動きだと思います。人間の考えだけでは「わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と叫びたくなります。

けれども乗りかかったこの舟は、イエスと一緒に乗る舟です。必ず、目的地へたどり着くのです。司祭・信徒・修道者が一同に集まって、「向こう岸に渡ろう」と呼びかけるイエスに深い信頼を寄せましょう。その時初めて、次の段階に移って宣教・司牧が続いていくのです。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
年間第13主日(マルコ5:21-43)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼梅雨の合間の晴れ。晴れているけれど、なかなかすることが思い付かない。そうだ。バイクを動かそう。今週玉之浦教会に向かう途中、自分の前に一台の車がいて、長い間その車に付き合わされた。
▼どこに行くのかな~と思っていたら、井持浦教会を少し過ぎたあたりで、狭い、急な上り坂を登っていった。よく見ると、先には教会墓地のようだった。今から走って、教会墓地をお参りしてこよう。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第909回目。田平修道院の墓にまた一人納められた。田平時代は6人見送った。

ホームページもご覧ください。
http://ss104313.stars.ne.jp/


† 神に感謝 †
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

年間第11主日(マルコ4:26-34)実を付けさせてくださる神に全幅の信頼を置く

2024-06-15 | Weblog
当ブログをお読みくださり、ありがとうございます。

■■YouTubeチャンネル登録はこちら■■
https://www.youtube.com/channel/UCYRgrlA29PNjJmB0gngYQqA

↓↓聖週間の説教一覧はこちらから↓↓
ご覧ください。
http://ss104313.stars.ne.jp/

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://ss104313.stars.ne.jp/voice/240616.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
2024/6/16(No.1301)
‥‥‥†‥‥‥‥
年間第11主日(マルコ4:26-34)
実を付けさせてくださる神に全幅の信頼を置く
‥‥‥†‥‥‥‥

すでに福江教会にはお知らせしていますが、今週は助任司祭が黙想会出席のため留守をします。さらに主任司祭が地区長として顧問会に出席するので助祭だけが島に残る曜日があります。「曜日がある」と濁したのは、正確に話すと防犯上の問題が生じるかも知れないので曖昧にしています(ほかにも司祭を守る目的もあります)。

助祭はミサが出来ませんので、何も手を打たなければ平日のお世話を休まなければなりません。幸いに助祭には浜脇小教区・井持浦小教区で「みことばの祭儀と聖体拝領」を何度か経験させています。それで福江小教区でも、今回思い切って「みことばの祭儀と聖体拝領」をさせることにしました。福江教会にこんなに早くその日がやって来るとは思ってもみませんでした。助祭様は福江に来たことで相当鍛えられています。

福音朗読は、「成長する種」のたとえから始まる箇所です。種を蒔いたら、その種は知らないうちに成長し、ひとりでに実を結ぶとあります。蒔かれた種には、見えないけれども神の働きが続いていて、人が寝起きしているうちにいつの間にか成長して、実を結ぶというのです。

もちろん人が手を入れて、お世話しているのですが、お世話しているその人も、例えば水やりをしたことがどのように芽を出すことに繋がるのか、実を結ぶことに繋がるのか、分かっていないのです。種蒔きから始まって、人がお世話したことがどのように実を結ぶことに関わっているのかをご存知なのは神だけなのです。

本人がどうしてそうなるのかを知らないというのは実に不思議なことです。着実に芽を出し、実を付けているのです。お世話している人の力なのではないでしょうか。「あなたが芽を出させ、実を付けさせているのだよ」と自信を持たせたらどうでしょうか。ただ、お世話する人はそれを受け入れないでしょう。ぼんやりとではあっても、芽を出させ、実を結ばせているのは神なのだと理解しているからです。

これは、「誰に信頼を置くべきなのか」ということを教える大切なたとえなのだと思います。私たちは多くの場合、自分の手の中で物事を考えがちです。子育てをしているとき、「これだけのお世話をしたのに、どうして期待したところまで成長してくれないのだろうか」と思い悩むことがないでしょうか。

中田神父は、司祭召命について似たようなことを考えます。これだけのお世話をしたのに、どうして道を続けられなかったのだろうか、残念に思うことがあります。直接司祭召命に関わっている小神学院の担当者、大神学院の担当者たちはもっと責任を感じていることでしょう。

しかし今日のイエスのたとえは、神の国は人間の手の中でいくら考えてもその通りにはならないよ、と教えているのです。人がいくら何をしてもどうにもならないのではなく、神の国の成長を信じて、お世話をする。そうすると、人間の考えのその先で、神様が思い描いた実りが待っているということです。

あらためて、神の働きに信頼を置いて、自分にできるお世話を続けていく覚悟が求められています。他の箇所のたとえでは、ぶどう園の収穫を受け取るために、僕を送り、さらに多くの僕を送り、それでもダメで最後に自分の一人息子を送って収穫を受け取ろうとしました。中田神父は司祭召命、修道者召命のために、最後に残っているものさえも与えて収穫に手を貸しただろうか、もう一度考える必要があります。

成長させ、実を付けさせてくださる神に、全幅の信頼を置きましょう。私たちの手の中で思い描いている結果に縛られることなく、その先で神が結果を用意してくださると信頼しましょう。神に全幅の信頼を置く生き方こそが、蒔かれた種から結果を引き出す道なのですから。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
年間第12主日(マルコ4:35-41)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼釣りの動画を久しぶりにアップした。すぐに350回視聴された。ミサの動画は70回くらいが関の山。以前は200カウントくらいあったのに、めっきり減ってしまった。
▼そこでショート動画で行動に出た。"Why Japanese people enjoy my fishing movie very much, but our holy mass does not. Why? Tell me our Mary!

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第908回目。シマノのリール。価格帯40~50番目。サハラしか持っていない。

ホームページもご覧ください。
http://ss104313.stars.ne.jp/


† 神に感謝 †
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

年間第10主日(マルコ3:20-35)イエスは敵対する人を縛って、私たちを自由にする

2024-06-07 | Weblog
当ブログをお読みくださり、ありがとうございます。

■■YouTubeチャンネル登録はこちら■■
https://www.youtube.com/channel/UCYRgrlA29PNjJmB0gngYQqA

↓↓聖週間の説教一覧はこちらから↓↓
ご覧ください。
http://ss104313.stars.ne.jp/

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://ss104313.stars.ne.jp/voice/240609.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
2024/6/9(No.1300)
‥‥‥†‥‥‥‥
年間第10主日(マルコ3:20-35)
イエスは敵対する人を縛って、私たちを自由にする
‥‥‥†‥‥‥‥

痛恨のミスをしました。過ぎた金曜日は「イエスのみこころ」の祭日で、福江教会と浜脇教会両方が献げられた祝日でした。お知らせをして、一人でも多くこの日のミサに参加してもらうように、祈ってもらうように呼びかけるべきでした。主任司祭として恥ずかしいです。

ここからは毎度のことです。説教って、難しいです。どうしても分からない朗読箇所にぶつかると、「これをどう理解すれば良いのだろう」と悩んでしまいます。今週もそういう箇所がありました。3章27節です。「また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。」なぜイエス様が、このような荒っぽい例えを使うのでしょうか。

理解に苦しんでいたのは「強い人」にたとえられているのが誰かということでした。二つ考えてみました。一つは、悪霊(サタン)です。サタンはこの世では勢力があります。ですからこの世の勢力であるサタンに支配されている人々を解放するためには、サタンを縛り上げて取り返す必要があります。

もう一つ考えたのは、律法学者たちに代表される当時の宗教指導者たちです。宗教指導者たちも民衆を抑圧し、民衆を身動きのできない家財道具のようにしてしまっていました。そこでイエスは宗教指導者が手も足も出せないようにしてから、民衆を解放してくださいました。

二つ考えてみましたが、ひょっとしたら第三の「強い人」がこの世にはいるのかもしれません。誰かが、言葉や態度で他者を圧迫し、身動きが取れないようにしているとしたら、その人はサタンであり、神に敵対する勢力です。

そのような人をイエスはお許しになりません。動けないようになっている人をイエスは必ず見つけ出し、圧迫している人を縛り上げ、助け出してくださいます。「いやいや。私は誰も圧迫していない。私は神様の敵対勢力ではない。」自分ではそう思っていますが、私たちにも、第三の「強い人」の側に立つ危険はあると思っています。

家族に対して。周りの家族がいくら言い聞かせようとしても、全く耳を貸さない。反対に声を荒げて押さえつける。すると家族は「言っても無駄だ」と諦めてしまいます。家族はその人に何も言わなくなってしまいます。その原因を作ったあなたは、第三の「強い人」「神に敵対する人」になってしまっているのです。

イエス様は、この世の「強い人」「神に敵対する人」をお許しになりません。必ず縛り上げて、圧迫されている人を解放してくださいます。たとえを通して示されたことは、私たちの希望の拠り所です。

私たちはいろんな形で押さえつけようとする人に諦めてしまったり絶望したりしますが、イエスは決して圧迫する人を放置せず、縛り上げてくださる。圧迫されている人を解放してくださる。常にこの希望を保って生きていきたいものです。どんなに圧迫されていても、イエスを信じているなら、希望を取り上げられることはないのです。

イエスを信じ、イエスに希望を置くことで、「私たちはイエスから兄弟姉妹としていただいたのです」と誇りを持って言える信徒でありましょう。たとえ見た目は弱くても、イエスの力は弱さの中にこそ働きます。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
年間第11主日(マルコ4:26-34)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼メルマガ記念の1300号。しかし心は痛恨のミスで沈んでいる。穴があったら入りたい気分だ。もちろんそれだけではないわけだが、どうして考えが及ばなかったかと悔やまれる。
▼田平修道院でお世話になったシスターが天国に旅立った。「ふくれまんじゅう」を何度もご馳走してくれた。天国には最上の小麦と小豆があると思うので、天国でもたくさんの人に「ふくれまんじゅう」を振る舞ってくれることだろう。
▼いよいよ、梅雨がそこまで来ている。アウトドアの楽しみができないことが増えてきそうだ。そんな時は梅雨が上がってからのことを想像しながら過ごす。たとえば釣り糸の結び方をもう一度おさらいしておく。フロロカーボンのリーダーと本線のPEとの結束を練習する。非常に滑りやすい糸なので、結び目が解けて涙することのないよう、念入りに練習。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第907回目。久賀島当番のときの楽しみが一つ出来た。ここに立派な漁港がある

ホームページもご覧ください。
http://ss104313.stars.ne.jp/


† 神に感謝 †
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

キリストの聖体(マルコ14:12-16,22-26)私たちの準備を用いて世界に一つだけのものを

2024-06-01 | Weblog
当ブログをお読みくださり、ありがとうございます。

■■YouTubeチャンネル登録はこちら■■
https://www.youtube.com/channel/UCYRgrlA29PNjJmB0gngYQqA

↓↓聖週間の説教一覧はこちらから↓↓
ご覧ください。
http://ss104313.stars.ne.jp/

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://ss104313.stars.ne.jp/voice/240602.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
2024/6/2(No.1299)
‥‥‥†‥‥‥‥
キリストの聖体(マルコ14:12-16,22-26)
私たちの準備を用いて世界に一つだけのものを
‥‥‥†‥‥‥‥

主の昇天から続く祝祭日も、今日のキリストの聖体、金曜日のイエスのみ心をもって終わります。いつものことですが、主の昇天・聖霊降臨・三位一体・キリストの聖体・イエスのみ心、この連続する祝祭日はよく覚えておきましょう。

キリストの聖体の祭日に用意された福音朗読は、最後の晩餐の場面です。イエス様は、弟子たちの準備を最大限用いて聖体の秘跡を制定する主の晩さんをおこないました。
イエス様は、世界に一つだけの食事の席を用意してくださいました。パンを用いてご自分の身体を与え、ぶどう酒を用いてご自分の血を与えてくださいます。私たちを養う食べ物、永遠に生きる食べ物となってくださいました。

イエス様の指示を受けて都に行った弟子たちは、席が整って用意のできた二階の広間に、過越の食事を用意しました。食卓のパンとぶどう酒は、おそらく弟子たちが用意したのでしょう。弟子たちが準備したものを、イエス様は確かに用いられたのです。

こう言って良いのではないでしょうか。イエス様は、私たち人間の準備を用いて世界に一つだけの食卓を用意してくださった。では私たちの時代にあって、この準備はどんなものでしょうか。単に祭壇上に整えられたパンとぶどう酒だけが、私たちの準備でしょうか。

それ以上のものだと、中田神父は考えました。祭壇上に供えられたパンとぶどう酒を支えているのは、本日お集まりの皆さんであり、皆さんの祈りと献金のおかげでしょう。今日ここに集まることのできなかった方々の祈りと犠牲も、祭壇上のパンとぶどう酒を支えています。

また、聖体の秘跡をこの祭壇上で続けていく司祭も、パンとぶどう酒がイエス様の御体と御血になるために長い時間をかけて用意されたものと言えます。さらに、司祭を助けてくれている助祭も、キリストの聖体を届けてくれるために長い間準備して用意されました。すると、ここに集められたすべてのものが、イエス様に受け入れられて、世界に一つだけの食事の席となっているわけです。

おとといの午後、教会前で草取りをしている方を見つけました。「ご苦労さまです」と声をかけました。すぐその後に石垣に張り付いた蔦(つた)を取り除いている方にも会いました。感謝の気持ちでお辞儀をして行きました。こうした方々の奉仕も、キリストの聖体の祭日を成り立たせている隠れた準備だと思っています。ありがとうございます。

教会に集い、聖体祭儀を祝うすべての準備が、イエス様に用いられて今日キリストの聖体の祭日となりました。さらに、目には見えませんが、私たちの心も、パンとぶどう酒とともにささげられ、イエス様に用いられ、キリストの聖体に変えられていきます。

感謝の気持ち、赦しを願う気持ち、平和を願い求める気持ち。私たちの心もパンとぶどう酒とともにささげられ、イエス様はそれを受け取って御聖体に変えて与え返してくださいます。悲しみが悲しみで戻って来るのではなく、悲しみも喜びも、愛の形見・御聖体として戻って来るのです。

私たちも、キリストの聖体の祭日に、受け取ったものを愛でお返しする人に変わりましょう。私たち自身が、愛の形見・キリストの聖体を受けた証しに、イエス様のなさり方を世に示していきましょう。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
年間第10主日(マルコ3:20-35)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼日焼けをする季節になった。郵便局までの往復三分でも、紫外線を浴びた、そう感じる。この前は油断して長袖と手袋の間を日焼けでやけどしてしまった。なぜそうなったか?手袋と長袖シャツのあいだの隙間。ご想像にお任せする。
▼田平教会時代、「ふくれまんじゅう」でたいへんお世話になった高齢のシスターがお亡くなりになった。シスターが作ったふくれまんじゅうを食べて、心もお腹も膨れた。教会の信徒からも慕われ、ミサに来た人と行き帰りに語らっているのをよく見かけた。永遠の安息を心からお祈り申し上げます。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第906回目。バンドの留め輪がちぎれ、マジックテープ自作。火傷が痛々しい。

ホームページもご覧ください。
http://ss104313.stars.ne.jp/


† 神に感謝 †
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする