こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第4主日(マタイ5:1-12a)真福八端を通してイエスを現存させる

2011-01-30 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
11/01/30(No.516)
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年間第4主日
(マタイ5:1-12a)
真福八端を通してイエスを現存させる
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先週の木曜日と金曜日、マリア文庫の責任者という立場で、視覚障害者の施設に携わる責任者の情報サービスに関する全国研修会に参加してきました。

簡単に説明しますと、視覚障害者のためにボランティアで活動しているマリア文庫が、全国の視覚障害者団体の中でどのような位置づけにあるのか。全国の視覚障害者団体としてはどのような方向に進むことを目指していて、マリア文庫はその目標に向かってできていることは何か、これから必要なことは何か。

また、今後増えてくる視力に不自由を感じる方々、糖尿病で視力を失った人もこの中には含まれますが、こういった方々に、より多くのサービスを提供する可能性の高い取り組み(「サピエ」と言います)についての説明、そういったことでした。

研修は以上の内容ですが、せっかく大阪まで行ったので、お笑いを見てこようと思いまして、難波グランド花月に行ってお笑いのステージを見てきました。

面白かったですね~。若手芸人もいましたが、ベテランの芸人、たとえば「今いくよくるよ」さんとか、「オール阪神巨人」さんとか、大御所の舞台も見ることができました。これも、ミサがなくてさびしいのを辛抱してくださった皆さんのおかげだと思っています。ありがとうございました。

さて、今週の福音朗読箇所は、山上の説教と呼ばれる個所で、26聖人殉教者をたたえる記念ミサでも朗読される大切な箇所です。5章3節から10節までで、幸いな姿を8つ取り上げることから、「真福八端(しんぷくはったん)」とも呼ばれています。この8つの幸いと呼ばれる姿を、まずイエス・キリストの中に見出すことにしましょう。

「心の貧しい人」これは、神に心を豊かにしてもらうことを願う人の姿です。イエスは、「『わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある』」(ヨハネ4・32)と言われました。ここから、御父が御子イエスを満たしてくださることが伺えます。「悲しむ人々」これはラザロが亡くなって、イエスがラザロのために涙を流したこと(ヨハネ11・35)を思い出すことができます。

「柔和な人」イエスは、「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。」(マタイ11・29)と仰いました。「義に飢え渇く人」イエスは「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。」(マタイ6・33)と仰いました。

「憐れみ深い人」たくさん例がありますが、今回は「大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた」(マルコ6・34)を挙げておきましょう。「心の清い人」については、姦通の現場で捕まった人を、イエスが「「わたしもあなたを罪に定めない」(ヨハネ8・11)と言ってゆるしてくださる場面が思い出されます。

「平和を実現する人」イエスは平和をもたらす人でした。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える」(ヨハネ14・27)と仰っています。「義のために迫害される人」裁判の席に連れて行かれ、兵士の平手打ちを浴びた時、イエスはその兵士に「何か悪いことをわたしが言ったのなら、その悪いところを証明しなさい。正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか。」(ヨハネ18・23)と答えました。

こうしてみると、イエスには「真福八端」の教えのすべてが、この地上での生活の中で実現されていました。ですから突き詰めて考えると、イエスが幸いであると教えてくださった生き方は、まずイエスご自身の中にある、ということです。

けれども、真福八端の生き方をイエスの中に見つけ出しただけでは、わたしたちには何ももたらしてくれません。そこで、わたしたちとの結びつきを考えてみましょう。わたしは、それをひとことで言うならば、イエスの生き方を見習うこと。それが、真福八端の生き方だとまとめたいと思います。

イエスの生きざまを聖書の中に探せば探すほど、わたしたちはそれが真福八端の生き方を探すことになることが分かるでしょう。この生き方は他の人には特別な生き方に見えるかもしれません。けれども、イエスの生き方の中には全く普通のこととして現れています。

イエスの生き方を見習うことと、真福八端の生き方を実践することとは、表裏一体の関係にあると思います。つまり、わたしたちが自分の心を神に満たしてもらいたいと願い求めるなら、それはイエスの生き方を見習うことになる、ということです。真福八端の1つだけでなく、いくつかについて真剣に求めていくなら、わたしたちの生き方はイエスの生き方にさらに近づいて行くのです。

もっと大胆に言いましょう。わたしたちが真福八端の生き方をどれか1つでも実践しているなら、特にその生き方を徹底して貫くなら、この生き方を先頭に立って生きられたイエスが、今ここに、この時代に生きていると、言えるのではないでしょうか。

イエスをこの時代に証しすることは何にもまして大切な使徒職活動ですが、真福八端の生き方を貫くことは、今の時代に有効な証しの姿です。


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‥次の説教は‥‥
年間第5主日
(マタイ5:13-16)
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ちょっとひとやすみ
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▼司祭団マラソンに12年ぶりに出場してきた。準備もなしに、走りに行った。11キロを走る今回の目標は3つ、「途中で決して歩かない」「必ずゴールする」「チャンスがあれば何人か追い抜く」。3つとも、実行できた。けれども、タイムはみじめなもので、1時間7分20秒という惨憺たる結果だった。
▼司祭になって最初の6年間は走りに行っていたので、指示された11キロコースは十分にイメージできた。折り返しのコースの中で、序盤でやって来る小さな峠を越える部分がポイントになる。
▼折り返すのだから、終盤の山場にもなる。ここまで走り続けていなければならない。そうなると、まったく練習していない身分では序盤から勢いよく走るわけにはいかない。そこで折り返すまではじっと我慢して走ることを考えた。
▼作戦はうまくはまり、折り返してからみるみる足が軽くなって、しっかり地面をとらえて走ることができた。この時点でようやく、「練習していれば、前半からもう少しペースを上げることができたのに」と悔やみながらの後半戦となった。それでも、一度も足を止めずに走るために、気を抜かずに走った。
▼前半で1人、走っては歩き、走っては歩きしている後輩をとらえ、追い越した。「抜き去った」とはお世辞にも言えない走りだったが、やはり追い越すと気分はいい。折り返して次のターゲットをと思ったが、折り返してすぐに1人抜いた後は、なかなか標的が見つからず、一人旅で苦労した。
▼終盤、あと1キロというところで、ターゲットを補足。この時点ではゴールまであと少しという気持ちが追い風になり、並ぶ間もなく追い越した。そうしてゴールしたのだが、ほとんどの参加者がお互いの健闘をたたえ合っていたのが、とてもショックだった。「やっと帰って来た」みたいな目で見られていたのだ。これは耐えられない。
▼温泉につかった後に信徒の皆さんの準備してくれた食事会でごちそうになった。成績発表があり、当然わたしは最後の方で名前を呼ばれた。「一言ありますか」と聞かれたので、「1時間を切ることができず、ショックです。来年は、1時間前後の人はわたしのお尻を拝むことになるでしょう。覚悟してください」と、大見栄を切って来た。わたしは必ず実行する。来年は、1キロ5分の計算で、55分のゴールを設定タイムにしたい。

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新企画今週の1枚
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第123回目。スタート直前。この後ほぼ全員に抜き去られてからレースが始まる。
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年間第3主日(マタイ4:12-23)小さくされた者にイエスは目を向ける

2011-01-23 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
11/01/23(No.515)
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年間第3主日
(マタイ4:12-23)
小さくされた者にイエスは目を向ける
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説教の前に、車の運転のことでお詫びをしておきたいです。1月21日金曜日、朝7時半ころ、後浜串のカーブを下ってきて、上って来るわたしとすれ違った軽トラックの人、ごめんなさい。よそ見をしていて、正面衝突しそうになって、死ぬほど驚いたと思います。申し訳ありません。ついでに言うと、同じ日の夜6時に、鯛ノ浦からの裏道でわたしが運転中ぼんやりしていて、衝突しそうになったツーシーターのスポーツカーの人も、ごめんなさい。

水曜日から木曜日にかけて、熊本の帯山教会にいる神父さまを訪ねに行きました。わたしが初めて赴任した浦上教会の、当時の主任神父さまが、今は帯山教会に派遣されています。今年、司祭叙階50周年、金祝を迎えているので、あちこちでお祝いを受けているでしょうが、この神父さまのもとで助任司祭として働いた後輩たちで、お祝いしてあげようということになり、駆けつけたのでした。

この神父さまは現在の帯山教会に7年、その前には天草の崎津・大江・本渡の3つの教会で7年勤めて来た方です。司祭生活50年のうち14年を、福岡教区にささげています。福岡に行く前は、浦上教会主任、その間司教総代理も務めた神父さまです。ちょっと言えば、そんなに偉い神父さまが、どうして長崎教区で晩年働かずに、福岡教区に送り込まれたのだろうと今になって考えるのです。

現在長崎教区は、他の教区に派遣している司祭が9人、東京と福岡の神学校に合計5人、留学している人が2人と、たくさんの司祭を送っています。今はこんなにたくさん派遣されていますが、その先頭に立って出向いてくださったのは、14年前に派遣されていった、帯山教会の神父さまだったわけです。

この大先輩の神父さまが他の教区に派遣されていったのは、長崎教区からの1つのしるしだったと考えています。それは、もし兄弟である他の教区が司祭不足で本当に困っているとき、長崎教区は協力を惜しみません。必要であれば、どんなにベテランの司祭でも、教区の重責を担った司祭でも、兄弟である教区のために派遣します。そういうしるしだったのではないかと思っています。

実際、この大先輩の司祭が派遣されていってから、わたしから見て先輩司祭も後輩司祭も続々と派遣されていくようになりました。そして、派遣された先の教区で、また小教区で、喜び迎えられて働いています。

さて、福音朗読は、イエスがガリラヤで伝道を始める場面が選ばれました。今週の朗読箇所は、ガリラヤでの伝道だけを読む短い形と、四人の漁師を弟子にする場面以降も読む長い形とがありますが、短い形の朗読に絞ってお話したいと思います。

イエスは、ガリラヤで伝道を開始しました。ガリラヤがどういう場所かというと、ユダヤの国の中で、外国勢力に占領された北部の土地で、宗教的にも正統ユダヤ教から見れば異教にけがされた不浄の地と思われていました。

ですからしばしばガリラヤは人々からさげすまれていたということになります。そのガリラヤから、イエスの活動は始まります。これは、神の目が、どこに向いているかを物語っています。神の目は、華やかな場所、例えばエルサレムに住む人々ではなく、小さくされ、人々の目が向かない場所、軽蔑され、忘れ去られた場所に住む人々に向けられているということです。

イエスは、ガリラヤを最初の伝道の場所に選びました。四人の漁師を弟子にしてから、ガリラヤはエルサレムとは違うから、君たちが宣教しなさいと派遣することも可能だったかもしれません。けれどもイエスは、みずから、ガリラヤに遣わされて行ったのです。小さくされた民にとっての「大きな光」「射し込む光」として現れ、伝道なさったのです。

神の目は、どんなに小さくされた場所も忘れずに見ておられる。むしろ小さくされた場所に、大きな慈しみのまなざしが注がれている。イエスのガリラヤ伝道はそのことを教えているわけです。

わたしたちの宣教の働きも、ここにヒントがあるのかもしれません。大きな場所、効率のよい場所ばかりを活動の場にするのではなく、見放され、忘れられ、見捨てられているような場所、小さくされた人々に目を注ぐ。そんな宣教の形を基本として考える。それが、イエスと同じ方向を向いた宣教の形なのだと思います

小さくされた場所、そこに住む人々に目を向けるというのは、とても能率の悪い方法のように思うかもしれません。それでも、イエスが最初にそのような方法を選んだことは、忘れてはいけないと思います。

わたしたちが取り組もうとしている一つ一つのことが、いちばん効果的になるにはどうすればよいかと、社会が考えるような方法を重視しているとしたら、ちょっと立ち止まって考えてみましょう。

イエスはいちばん効果のある方法とか、そのようなことを考えただろうか。神さまが最初に目を向けた場所を見ずに、わたしたちがイエスにもっともよく従っていると考えるなら、考え違いをしているかもしれません。

イエスがガリラヤから伝道を開始したという事実を、この1年のわたしたちの活動に、取り入れることにしましょう。効率と、効果ばかりを狙っていないか、よく考えて、イエスの望む方法に少しでも近い方法で小教区の活動を進めていくことができるように、ミサの中で願うことにしましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第4主日
(マタイ5:1-12a)
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ちょっとひとやすみ
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▼最近壁掛け時計の場所を変えた。事務机から真正面に見える壁に、転勤してからすぐに壁掛け時計を設置したのだが、座って眺めても立ち上がって眺めても、ちょうど室内蛍光灯が反射して文字盤が見えない。そこで、場所を90度変えて、事務机正面右に時計を移動。ここは、まったく蛍光灯の反射がなく、くっきり見える。
▼これは都合いいと思い、喜んでいたが、1週間、2週間と過ごしていくうちに、考えられないような不便さが発生した。時計を見ようと、無意識に目をやるのが、いつも事務机正面の場所なのだ。
▼本当に都合のよい場所、便利な場所は、無意識に眺める場所であるはずだ。急いでいるとき、考え事がまとまらないとき、何時だろうと思って時計を眺める。目をやると、そこに時計がない。そこで、「あぁ、そうか。時計は正面から真横に移動したのだった」と考えて時間を確認する。
▼思いだしたときには、真横を見て時間を確認するわけだが、無意識に時計を確認しようとして、どうしても正面の壁を見てしまう。「ここにはもう時計はないの」そう言い聞かせているのに、からだは受け入れてくれない。
▼やはり、真横の時計では、用を足してくれないのだろうか。いやそんなはずはない、と思いながらも、正面の壁に戻そうか、もう1ヶ月近く思案している。1ヶ月も迷っているのなら、迷わず正面に戻した方がよいのでは?

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新企画今週の1枚
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第122回目。親子のような元主任司祭と元助任司祭。
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年間第2主日(ヨハネ1:29-34)この方こそ神の子であると証しする

2011-01-16 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
11/01/16(No.514)
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年間第2主日
(ヨハネ1:29-34)
この方こそ神の子であると証しする
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ビッグニュースが入りました。教皇ヨハネ・パウロ二世が列福されることになりました。教皇ベネディクト十六世は、1月14日(金)、教皇庁列聖省長官のアンジェロ・アマート枢機卿との謁見の中で、尊者・神のしもべヨハネ・パウロ二世(カロル・ヴォイティワ 1920年5月18日-2005年4月2日)の執り成しによる奇跡を認める教令を認可しました。

同日、教皇庁広報部のフェデリコ・ロンバルディ報道官は、尊者・神のしもべヨハネ・パウロ二世(カロル・ヴォイティワ)の列福式が復活節第二主日(神のいつくしみの主日)の2011年5月1日(日)に教皇ベネディクト十六世の司式で行われることを発表しました。この日認可された教令では、ヨハネ・パウロ二世を含めて、3名の福者、5名の殉教者、5名の尊者を宣言することが認められました。

ヨハネ・パウロ二世の列聖調査は教皇ベネディクト十六世によって2005年5月13日に開始が発表され、同年6月28日から正式に開始しました。2009年12月19日、ベネディクト十六世はヨハネ・パウロ二世を尊者とすることを宣言しました。

教皇庁列聖省が聖人の列に加えられることを最終的な目的として、その調査を宣言すると、その人は「神のしもべ」と呼ばれ、次の段階でその人物の生涯が英雄的、福音的な生き方であったことが公認されることにより「尊者」と宣言されます。さらに「尊者」は、その執り成しによる最低一つの奇跡が認められることにより、「福者」と宣言されます。

この日の列聖省の発表によると、ヨハネ・パウロ二世の列福手続きの際、審査された奇跡は、カトリックの母なる小さき姉妹会(Institut des Petites Soeurs des Maternites Catholiques)のマリー・シモン・ピエール・ノルマン修道女(Marie Simon Pierre Normand)のパーキンソン病の治癒です。(以上、カトリック中央協議会のホームページからの引用)

1月10日、成人の日に、長崎市小江原にあるお告げのマリア修道会本部で、誓願式が行われまして、わたしもミサに参加して誓願を立てる人と一緒にミサの中でお祈りしてきました。

わたしは常々思うのですが、身分はどうであれ、司祭よりも修道者の方が数段偉い人たちだと考えています。長崎教区を例にしますと、司祭に叙階された人は、だいたい数年のうちには主任司祭になりまして、どこかの教会に赴任してその小教区のすべてに責任を持つ人になります。「主任神父さま」と言われるようにもなります。しかも30歳になる頃にはそう呼ばれるのです。

ところで、修道者の方々は、終生誓願という一生涯にわたる誓いを20歳代後半か、30歳代で立てるのですが、だからと言って30歳代で小教区の代表者になれるわけでもありませんし、「シスターさま」と呼ばれることもありません。修道院では院長になることは、責任をまかせられた身分ですが、シスターたちがすべて院長になるかというとそんなことはありません。

司祭は、ミサをささげる権限と、ゆるしの秘跡をおこなう権限が与えられます。修道者はこれといった権限が与えられていません。修道者が司祭の働きを支えるために働いてくださることはあっても、修道者の働きを支えるために司祭が働くなどということは聞いたことがありません。修道者の多くは、縁の下の力持ちで、本当に、神さまだけが知っている働きに自分をささげる人々です。

ほかにも見える違いがあります。誓願を立てる人は、清貧・貞潔・従順の3つの誓願を立てます。司祭は、教区司教に「貞潔と従順」を約束します。3つの誓願までは求められていません。今並べただけでも、「必ずしも表に立つ人になるわけではない」「ミサをささげることも、ゆるしの秘跡をおこなうこともない」それでも「3つの誓願を立てて一生をささげる」これが修道者の姿ですから、わたしは司祭よりも数段偉いのではないかなぁと思っているのです。

さて、福音朗読に選ばれたのは洗礼者ヨハネの証しについて書かれた箇所です。彼が3つの誓願を立てていたかはわかりませんが、彼の暮らしぶりは「清貧・貞潔・従順」の3つの誓願を立てている修道者の生活を思わせるものです。

さらに言うと、洗礼者ヨハネは本来は表に立つ役割ではなくて、自分の後に来られる方に人々の心を準備させ、道を譲るために働いていました。表に立たないで、すべてを神にささげた洗礼者ヨハネの生き方も、修道者の生き方に通じると思います。

この洗礼者ヨハネは、自分が見たことを証言し、その方について大いに言い広めます。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」(1・32-34)

特に、洗礼者ヨハネの次の言葉に、誓願を立てる修道者の姿と重なる部分を感じます。「わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」司祭も修道者も、みずからが従う相手であるイエスに、何かを見たので、従おうと決めた人々です。

「何かを見た」と言う人は、もはやほかのものにこだわらない人に生まれ変わります。それは服装についても、あてはまると思います。司祭は普段着を着ることも多いわけですが、長崎教区の場合修道者は修道服をずっと着ています。わたしが普段着で青方に行って、エレナとかオサダにいても気づかない人も多いでしょうが、修道者に気付かない人は誰もいません。

修道者の方々は修道服を全く気にすることなく生活の中で着こなして、身なりで証しをしています。すごいことだと思います。修道者は偉いと、いろんな例を挙げました。けれども、ただ偉い人と言われるだけでは未完成です。誰かが、あのような生き方をしたいと考えるようになること。この動きがあって完成するのだと思います。

ちなみに、司祭を目指す神学生がいきなり増え始めたのは、教皇ヨハネ・パウロ2世が来日してからでした。圧倒的な存在感で、司祭職への憧れを種まきしてくれました。当時の教皇さまの動作1つ1つが、心を躍らせました。おそらく世界中で、同じような現象があったかもしれません。

「何かを見た」その確信を持っているなら、わたしたちも洗礼者ヨハネのように、教皇ヨハネ・パウロ2世のように、誰かの心にイエス・キリストを届けることができるのではないでしょうか。

司祭も、修道女も、それぞれ、自分の持っている確信をどのように伝えるか、考えることにしましょう。ぜひ、浜串小教区出身の司祭・修道者を神さまから頂けるように、年間主日の初めに当たり、願いましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第3主日
(マタイ4:12-23)
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ちょっとひとやすみ
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▼今回の説教案は、とりとめのない話になってしまった。今週は、「キリスト教一致祈祷週間」となっているが、こんなにばらばらな話をしていては、一致できるものもできなくなりそうだ。準備が悪かったと、つくづく反省している。
▼さて、お告げのマリアの誓願式のことを先週書いたが、「終生誓願」の「終生」が、「修正」になっていた。それこそ、終生誓願を立てた修道女から指摘を受けて初めて分かった。パソコンに漢字を任せっきりにしていると、こんなことになる。
▼その誓願式だが、何回か顔を出していると、出席する動機もいろいろ違いが出てくる。わたしは明らかに、「関係者がいれば出席、いなければ欠席」これで出欠を決めている。今回は親戚がいたので出席だが、出身教会か、赴任している教会か、どちらかに関わりがなければ、欠席していたかもしれない。
▼さらに腹黒いわたしは、こんなことも考えた。祝賀会で、「出身教会の主任神父さまは○○神父さまです。召命のきっかけをいただいた神父さまは○○神父さまです。」こんな紹介が祝賀会の途中に入るのだが、「誓願を立てた○○シスターには、親戚に○○神父さまがいらっしゃいます」なんて紹介が入ったりするのかなぁと、淡い期待を持っていた。
▼実際には、そういう紹介は微塵もなくて、ちょっと凹んでしまった。欲の皮が突っ張っているから、そういうことになる。自分の中にある偽預言者・偽善者の一面を見た思いだった。それからすると、何度も紹介を受けていたI神父さまは、紹介を受けることを予測して、わざと出席を辞退したのだろうか。そうだとしたら、わたしとは雲泥の差である。

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新企画今週の1枚
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第121回目。月間アヴェ・マリアのテープ。このテープが視覚障害者に届きます。
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主の洗礼(マタイ3:13-17)イエスの洗礼は共に歩むための模範

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こうじ神父
「今週の説教」
11/01/09(No.513)
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主の洗礼
(マタイ3:13-17)
イエスの洗礼は共に歩むための模範
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昔話になりますが、中学3年生の時、中学生なりに命がけで先輩にゆるしを乞うたことがあります。中学3年生の時とはもちろん神学校時代のことですが、当時は神学校もかなり上下関係が厳しくて、先輩の言うことは絶対でした。

食事を例に紹介しましょう。6人がけのテーブルに、縦割りの班分けをして席が決められていまして、高校3年生から中学1年生までだいたい均等にそれぞれのテーブルに座ります。その中で高校3年生の命令は絶対でして、「おい、ご飯つげ」と言われれば、中学1年生が「はい」と言ってつぐことになっていました。

部活動で夕食に遅れようものなら、高校3年生に遅れた理由を直立不動で話し、先輩がゆるしてくれるまで食事の席に着くことはできませんでした。当時はそれが通っていたわけで、わたしたちも「遅れて来た方が悪い」と思っていたわけです。

そんなある日の夕食、この日はわかめのスープが食事に付いていました。食事が始まると、中学1年の子がわかめスープを飲もうとしません。あー、嫌いなんだなとすぐにわかったのですが、高校3年生の先輩はそれをゆるしてくれませんでした。

「おい、何でわかめのスープに口をつけないんだ」切れ目の、ヤンキーの髪形をした高校3年生でした。ちょうどここの前任者のような顔立ちでしたね。中学1年生は縮みあがり、しまいにはしくしく泣き出して、わたしたちも「参ったなぁ」と成り行きを見ていました。

「お前がスープを飲んでしまうまで、晩飯は終わらないからな。」夕食の後、小一時間自由時間があって、制服を着たままサッカーをしたり卓球をしたり、ギターを弾いたりして楽しむのですが、先輩がゆるさなければ食事は終われません。こいつはどうしても食べてくれそうにないし、どうしたらいいかなぁ、と考えました。

そこでわたしはある行動に出ました。わかめのスープが全部なくなれば、先輩も無茶は言わないだろう。そう思ったわたしは黙々と、わかめのスープをお代わりし始めました。とにかくたいらげなければと、飲み続けたのです。

テーブルにはほかにも先輩後輩いたのですが、わたしの行動を理解して、協力してくれる人は誰もいませんでした。みんな蛇に睨まれたように、身動きできなかったのです。5杯、10杯、最終的には13杯お代わりしたでしょうか、最上級生がこう言いました。「中田。わいはよっぽどわかめがすきなぁ。」てっきりわかってくれたと思ったのですが、わたしの命がけの行動は、最後まで伝わりませんでした。

最終的に、高校3年生が中学1年生に食べさせることを諦めたので、その日は食堂を出ることができました。あのときわたしは命がけでした。この後輩は、食べることができないから、自分が身代わりになるのでゆるしてほしい。わたしたちが協力して謝るから、ゆるしてほしい。あのとき後輩を、他人とは思えなかったのです。

さて、今日の典礼はイエスの洗礼を祝っています。イエスが洗礼を受けようとするとき、洗礼者ヨハネはそれを思いとどまらせようとしました。けれどもイエスの思いはヨハネの考えを上回るものでした。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」(3・15)ここでイエスは、「正しいことをすべて行うのは、わたしにふさわしいことです」とは言いませんでした。「我々にふさわしいことです」と言ったのです。

イエスが、「我々にふさわしい」と言ったのは、どういう意味だったのでしょうか。イエスと、洗礼者ヨハネ2人だけのことを言ったのでしょうか。その可能性もありますが、もっと広く考えると、「神の前にいるわたしたちすべて」ということではないでしょうか。

つまりイエスは、「正しいことをすべて行うのは、神の前にいるわたしたちすべてにふさわしいことです」と言葉に出して、わたしたちすべてが歩むべき道を示されたのです。イエスは、洗礼を受ける必要はありませんでしたが、「我々にふさわしいこと」をすべて実践するために、進んで洗礼を受けてくださったのです。

そうすると、イエスがこれから歩もうとしておられる1つ1つのことが、もっと身近になってきます。イエスは、「我々にふさわしい道」を、歩んでいくのです。だれも歩むことのできない道ではなく、わたしたちが歩んでいけるように、わたしたちと共に歩んでくださいます。

イエスの洗礼の場面で見えてくることは、わたしたちにふさわしい生き方を、先に歩んでくださる姿です。洗礼は、罪を悔いあらためて神に立ち返るためのものでした。人間は、一人では罪をすべて悔い改めることができません。そこで神の独り子が人となって、一緒に洗礼を受けてくださいました。

社会の中で弱い立場にある人、女性や子供たち、配偶者を失った人、重い病気の人、罪人と名指しされた人々。彼らは自分たちだけでは神に立ち直ることはできませんでした。そこでイエスが一緒にその重荷を担ってくださって、歩みを共にしてくださいました。

ある時は、担いきれない病気や悲しみを、奇跡を起こして救い、決して見捨てないことを態度で表しました。もちろんすべてをわたしたちがまねできるわけではありませんが、一人で担いきれない重荷を抱えてしまっている人を、わたしたちも見捨ててはいけない、一人きりにしてはいけないということです。

今年、小教区で独自の聖書を読むチャンスを作りたいと思っています。わたしは、やはり聖書は読み通す、通読しなければ、なかなか聖書に親しくなるのは難しいと思っています。2ページとか3ページ読んで、次の人にバトンタッチする、そういう読み方もあるでしょうが、新約聖書なら新約聖書をを1冊確実に読んでみる、こちらの方をお勧めしたいと思います。そのための手段を、考えてみたいと思います。

この聖書を読み通すという取り組みも、なかなか一人では達成できないわけです。聖書をしばしば開く司祭でも、ずっと読み通すのはなかなか難しい。そこで、考えている取り組みは、みんなで集まって、聖書を読み通すことを目指します。

だれかがくじけそうになる時、一緒に歩いてくれる人が必要です。聖書を読み通すためにも、一緒に歩いてくれる人がいれば、気持ちの弱い人でも続けることができると思います。イエスがわたしたちと共に歩む姿が、ここでも響いています。

共に担ってくださるために、イエスは洗礼をお受けになりました。この時、天からの声が聞こえました。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(3・17)。一緒に歩もうとするイエスの姿は、父である神の御心に適う姿でした。

わたしたちがだれかと一緒に歩もうと努力するなら、わたしたちも父である神の御心に適う者と呼んでもらえるでしょう。一緒に歩いてあげようと思う人が、おそらくだれにでもいるでしょう。ぜひその人を思い浮かべて、共に歩む姿を先に示してくださるイエスについて行く。その気持ちをミサの中でおささげいたしましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第2主日
(ヨハネ1:29-34)
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ちょっとひとやすみ
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▼どうやら風邪をひいたらしい。鼻が詰まってきた。目も充血している気がする。3日間郷里に帰省していた時に、気が緩んだのだろうか。弟がたばこを吸うのが気になっていて、のどが痛いのはたばこのせいだろうと思っていたのだが、そうではなかったのかもしれない。
▼長く足が遠のいていた人に会って来た。今回すぐ近くになったのに、なかなか足が向かず、失礼していたが、2時間ほど話してきた。とても喜んでくれた。こんなことなら早く行けばよかったのにと思うが、やっぱり敷居が高かったのだろう。
▼いくつか取り組んでみようと思っていたこともあったが、結局どれも実行できず、ごろ寝していた。1つだけ、会員の皆さんへの朝礼をアップしたっけ。これはあの環境の中でよく作ることができたなと感心している。絶対に途切れてはいけない業務の1つだったから、アップできてホッとしている。
▼風邪の原因に思い当たった。汗をかいたのを、そのまま放置していたのだった。暖房を入れた部屋にいたので大丈夫と高をくくっていたが、汗が冷えてしまって、風邪をひいてしまったかもしれない。これが原因であれば、まったく自分のせいである。家にいたせいにして申し訳ない。
▼1月の最初の喜びは、誓願式ということになりそう。親戚のシスターが、いよいよ終生誓願を宣立する。浦上教会時代は、中学生で歯を矯正しているところだったっけ。プレゼントを用意しなきゃ。喜んでくれるかどうかわからないけど、心に決めているものを包んであげよう。これからの長い道のりを、プレゼントした物と一緒に歩いてくれたら、これ以上の喜びはないなぁ。

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新企画今週の1枚
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第120回目。お世話になっている床屋。入って、御主人をしばらく呼びました。
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主の公現(マタイ2:1-12)「別の道を歩む」という証

2011-01-02 | Weblog
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(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
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こうじ神父
「今週の説教」
11/01/02(No.512)
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主の公現
(マタイ2:1-12)
「別の道を歩む」という証
‥‥‥†‥‥‥‥

主の公現の祭日を迎えました。占星術の学者たちが、幼子を訪ね当て、ひれ伏して拝み、黄金・乳香・没薬を贈り物としてささげます。今になって振り返るのですが、わたしが赴任してきた小教区では、ご誕生の12月24日から三人の博士を馬小屋から離れた場所にまず置いて、それを毎日少しずつ近づけていました。三人の博士が、星を頼りに旅をしているというわけです。

こちらの小教区でも、よかったら来年は三人の博士をそのような形で活用したらいかがでしょうか。御公現に三人の博士を登場させて、次の週には片付けてしまうのでは、何とももったいないではありませんか。ご降誕の時から三人の博士を置いて、それを少しずつ近づけていけば、とても楽しい降誕節を過ごすことができると思います。

始めてこの試みをした太田尾教会では、三人の博士を取り出して遠くに置いたとき、ある人が、御像がこんなに遠い場所に間違って置かれていると思い込み、自分で馬小屋に持って行き、さらにわたしに「神父さま、三人の博士の御像が変な場所に置いてあったので、馬小屋に戻しておきました」と報告に来ました。わたしから怒られたことは皆さんご想像の通りです。

それから、わたしの勉強不足で、2つの言葉を混同して使っていたのかも知れません。2つの言葉とは、「乳飲み子」と「幼子」です。一般的な意味で、「乳飲み子」は「生後1年ころまでの小児。乳で育てられ、歩きだすまでの時期の子供」であり、「幼子」は「幼い子供。ふつう、満一歳から小学校入学ぐらいまでの子供」ということのようです。

この使い方が当時のイエスさまの時代にも当てはまるとしたら、厳密に区別して使う必要がありそうです。それと同時に、聖書の中に「乳飲み子」と「幼子」が区別して書かれていると考えれば、羊飼いが探し当てた時と、占星術の学者たちが拝んだ時とは、ずいぶんイエスさまの面影というか雰囲気が変わっていたかもしれないと思ったのです。

参考までに、馬小屋のそばに、とある教会に置かれている御像のミニチュアを置いてみました。このイエスさまが、「幼子」と呼ぶくらいの年齢かもしれません。この御像、1体8400円ですが、もし欲しい人がいたら注文をお受けします。

この御像の特徴は、幼子のイエスさまが船の錨に手をかけていることです。おそらく、航海の安全を願って作られた、特別な御像だと思います。いいなぁと感じた方、個人でも会社でも、要望があればお知らせください。

さて本題に入りたいと思います。占星術の学者たち、彼らは次のような行動を取りました。まず、(1)輝く星に気づいてユダヤの国に入り、(2)ヘロデ王に挨拶し、幼子のことを尋ね、(3)もう一度星に導かれて、幼子をひれ伏して礼拝し、贈り物をささげました。

ついで、(4)ヘロデ王に挨拶して自分たちの国に帰ろうとしましたが、(5)「『ヘロデのところへ帰るな』と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。」とあります(2・12)。わたしが今回注目したのは、「別の道を通って自分たちの国へ帰って行った」この部分です。

もちろん、ここで言われているのは、ただ単にヘロデに挨拶しないで自分の国に帰ることを言っているわけですが、もう少し掘り下げて考えることができるかもしれません。占星術の学者にとって、ヘロデのところに立ち寄ってから自分たちの国へ帰るのは、当たり前のことだったのでしょう。しかし、夢のお告げで危険を察知したとき、彼らは当たり前と考えていた手順を放棄したのです。

わたしはこの様子を、次のように考えました。占星術の学者たちは、別の道を知った、ということです。ヘロデとは違う新しい王、平和をもたらし、人々の心を光で照らし、救う方が生まれ、学者たちはその幼子の前にひれ伏して拝みました。すると、彼らは通常の道ではなく、別の道を通って帰るべきだと感じたのです。

どんなに評判の悪いヘロデ王でも、帰りに立ち寄っていくのが通常の道でしたが、まことの王に出会ったからには、もはや通常の道よりも、別の道を通って国に帰ることが、彼らにとって価値のある選択だと感じたということです。

実はここに、わたしたちへの呼びかけがあると思います。わたしたちも、この人生、別の道を通って、永遠のふるさと、神の国を目指さなければならないのです。この世の生き方に、もし通常の生き方というものがあるとしましょう。その生き方が、救い主を信じることなく、救い主への信仰を土台において生きるものでないとすれば、わたしたちはその道を選ばず、別の道を選ぶ必要があります。

別の道と言いましたが、わたしはその道は、1つだと思っています。すなわち、神が、わたしたちに与えてくださった御子、救い主イエス・キリストを信じ、イエスへの信仰を土台において生きる道です。

もちろん、わたしはカトリックの司祭としてこう言っているわけですが、別の言い方をすると、過ぎ去っていくこの世を信じ、この世を土台において生きる道ではなく、別の道を通っていかなければ、人生の最終目的地にはたどり着けない、ということです。

では実際には、わたしたちはどのような生き方を選んでいるのでしょうか。わたしの人生は、過ぎ去っていく「この世」が、土台になってはいないでしょうか。土台はとても大切で、大雨が降ってもびくともしない土台に、わたしたちは家を立てる必要があります。それは、わたしたちを救ってくれるお方を土台としたときに初めて可能となります。

救い主への信仰を土台とした人生の道は、「この世」の人々からすると別の道に見えるかもしれません。けれどもこの道は、占星術の学者たちを最終的に救った道でした。わたしたちも、最後に救ってくれる道を選ぶ勇気を持ちましょう。

たとえ、理解されないことがあっても、神が示すこの「別の道」を一心に歩むなら、やがて人々にもこの道の価値が分かり、「あなたの歩むその道を、わたしにも教えてほしい」と願う日が来るでしょう。わたしたちは言葉はつたなくても、歩む道で、占星術の学者と同じ証を人々の前に示すことができます。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
主の洗礼
(マタイ3:13-17)
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ちょっとひとやすみ
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▼今この原稿を、2010年12月31日、巡回教会の福見教会司祭館で書いている。そうなった事情をここで書いてみたい。12月30日は木曜日で、朝は浜串教会のミサ、夕方は福見教会のミサをささげている。そして、金曜日が福見教会で朝ミサなので、木曜日は福見教会司祭館で泊まることにしている。
▼30日の午後、迷った挙句にノートパソコンを抱え、福見教会に移動した。これが結果的に幸いした。福見教会で夕方5時半にミサを終え、夜になり、天気が急変する。角砂糖くらいの粒の雹が降り、エアコンの暖房では部屋が暖まらなくなった。それでもここには石油ストーブやファンヒーターを使おうにも灯油を備えていない。仕方なく布団を被り、早めに寝ることにした。
▼朝起きると、景色が一変していた。一面の雪景色。めったにない積雪。朝起きて気がついたが、軒下の雪は、何度も落ちて積み重なり、腰の高さにまで達していた。司祭館から教会に移動するときも、「ギュッ、ギュッ」と雪の音がする。ミサ後に、信徒が声をかけた。「神父さん、これでは浜串には帰れないよ。普通のタイヤでは、スリップして転落だよ。」そうかもしれない、と思った。
▼朝食は、修道院にお願いして来客の部屋で食べさせてもらった。昼前には移動できるのだろうと思っていたが、昼も動けなかった。それで甘えて、昼食も修道院でお世話になることに。その間も天候が回復する兆しはなく、福見教会司祭館に留め置かれて、ずっと説教を書いていた次第である。ノートパソコンと、b-mobile3G(通信機器)を持っていってなかったら、どうなっていただろうか。持って行かない日もあることを思うと、神様の導きがあったとしか言いようがない。
▼この日、31日は朝からずっと福見教会司祭館にとどまり、夕方5時に高井旅教会のミサをささげて、タクシーを雇って高井旅教会から福見教会経由(オルガン奉仕のシスターを送るため)、そして浜串教会に帰った。おそらく1月1日も、同じようにしてタクシーで帰らなければならないかもしれない。あ、でもシスターたちが浜串に来るから、なんとかなるか。でもならないかも。

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新企画今週の1枚
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第119回目。真っ白に雪が積もりました。福見教会と、海を望む司祭館窓から。
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神の母聖マリア(ルカ2:16-21)マリアはわたしたちに救い主を指し示す

2011-01-01 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
11/01/01(No.511)
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神の母聖マリア
(ルカ2:16-21)
マリアはわたしたちに救い主を指し示す
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みなさん、新年明けましておめでとうございます。日本の教会にとって、1月1日はほかの国とは違った重みがあります。この大切な日に、教会は神の母聖マリアをお祝いいたします。日本人にとっての1年の始まりを、聖マリアを祝うことで迎えることに、意味を見つけたいと思います。

「一年の計は元旦にあり」と言われます。そこでお勧めしたいことが、「カトリック信者として、この一年をどのように過ごすか考える」ということです。わたしは、神の母聖マリアに、この一年をどのように歩むか、模範を仰いだらよいと思います。

今日の朗読箇所から、模範を見つけたいのですが、2つ、示したいと思います。1つは、間違いなくここです。「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。」(2・19)マリアは出来事をよく観察し、その意味を慎重に思い巡らす人でした。慌てて判断を誤るというのでもなく、判断を遅らせて大事に至るのでもなく、慎重に判断することのできる人でした。

わたしたちはなかなか、慎重に物事を見極めて判断することができません。感情的にすぐに反応してしまったり、後回しにして損失を被ったりします。さらに、そういう目に遭っても、なかなか反省が身につきません。

そこで、慎重な判断が求められるときに、気持ちの上で次のように考えたらどうでしょうか。「今、大事な判断が求められている。マリアさまと一緒に考えることにしよう。」こういう思いで、出来事を思い巡らすならば、どんなに落ち着かない人でも、慌てる人でも、慎重な判断が身に付いていくのではないでしょうか。

「この出来事をどう受け止めたらよいのか。マリアさまと一緒に考えてみよう。」このちょっとした取り組みで、わたしの判断は格段に慎重なものになるのではないでしょうか。即断即決する人でも、そこに至る前の段階で、慎重に考える時間があるはずです。マリアさまと一緒に考えをまとめることをお勧めします。

もう1つ、マリアから仰ぎたい模範を見つけましょう。これは、わたしが今日の福音朗読を読みながら考えたことです。羊飼いたちが、幼子を訪ね当てた場面に表れています。「そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。」(2・16)

羊飼いたちは、飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子だけを見つけたのではありません。「マリアとヨセフ、また乳飲み子を」と書いてあります。当たり前のことですが、天使が「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。」(2・11)と言った時、羊飼いはその救い主のことを、幼子に直接尋ねるわけにはいかないのです。

当然、マリア、またはヨセフに尋ねたはずです。わたしは、この名前の書き方、母の名前を先に出し、そのあとにヨセフの名前を出しているのは、やはり先に、母マリアを羊飼いたちは見つけたのではないかと思うのです。

そして母となったマリアに、「お生まれになった救い主はどちらにおられますか」と、尋ねたのだと思います。母マリアは、ヨセフと一緒にいて、生まれたばかりの乳飲み子を指し示したのではないでしょうか。

今、さらっと言いましたが、マリアが、救い主を指し示すということには意味があるわけです。マリアは、神の子ではありませんが、真っ先に、神の子救い主はこちらですと、指し示すことのできる方なのではないでしょうか。

つまりマリアは、わたしたちが道に迷ったり、救い主に心が向かっている感じがなくて力を落とすときに、「あなたを救う方はこの方です。あなたはこの方に、何かを願うべきです」と、はっきり指し示してくれる方だということです。

わたしたちが、日々、イエスに向かって歩みを進めなければならないことは百も承知です。ただ、それを自分の力だけでできるかというと、そんなに強いわけではありません。そんなときに、「あなたは、この道で、この方法で、イエスにまっすぐに向かうべきです。」そんな導きをすべての人にくださるのが、マリアさまなのではないでしょうか。

そう考えて1年を見渡すと、5月と10月に、わたしたちはマリアにロザリオの祈りをささげる月が回って来ることに思い当たるでしょう。あるいは、8月15日には聖母被昇天の祭日が回ってきます。そう考えると、1年の節目節目に、わたしたちは聖母マリアに支えをいただいて1年を過ごしているのではないでしょうか。

神の母聖マリアは、神の子を宿し、人類の救いに協力したほめたたえられるべき方です。この方は、神の母でありながら、わたしたちから遠い存在ではありませ年。むしろ、身分も何もない羊飼いに救い主を指し示したことでもわかるように、わたしたちにより近いお方なのです。

この一年を、実り豊かなものにしましょう。そのために、常に救い主を指し示してくださる神の母聖マリアに、取り次ぎを願いましょう。道を間違えそうになる時、道を見失いそうになる時、神の母聖マリアが、「救い主に向かう道はこちらです」と指し示してくださいます。今日のミサで、マリアの取り次ぎを信頼していますと、マリアに呼びかけることにいたしましょう。

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‥次の説教は‥‥
主の公現
(マタイ2:1-12)
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ちょっとひとやすみ
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▼新年明けましておめでとうございます。今年も、思ったことを思ったとおりに書きますが、よろしくお願いいたします。過ぎた1年、思ったとおりに書いてみたら、ずいぶん迷惑をかけた人もいましたので、その点はもっと慎重にも慎重を期して文字にしたいと思います。やはり、文字は後世に残りますので。
▼家電エコポイントで国内消費がぐっと押し上げられた。専門家ではないのでたぶんそうなのだろうとしか言えないが、自分も御時世の流れに乗って、省エネ家電(液晶テレビ)を買い換えた。買い換えの特典までは活用しなかったが、エコポイントの申請もしたし、エコポイントで取得できる商品にも交換してもらった。ちなみにEdyのポイントに交換。
▼何だか面倒臭い手続きがあるのだろうかと思っていたが、インターネットが利用できる人であれば、ホームページから申請書にちょちょいと入力したものを印刷すると、あとは保証書とか、領収書を張り付けて郵送するだけ。これくらいなら、ものぐさなわたしでも何とかできる。おかげで、ちょっとしたものをコンビニで買う時に、「シャリーン」というEdy独特の音を聞くことができるようになりそうだ。
▼正月の三日間は、予定通りというか、届いた年賀状をまとめて返事する予定。どうしていつもこうなのだろうと思うが、わたしの能力ではこの状況をどうにも変えられない。政治家のように、そばで秘書の人がいろいろ準備をしてくれればありがたいのだが。だが給料も払えないので、絵に描いた餅だ。
▼今年は、五島に赴任している都合上、どうしても司祭団マラソンには参加しなければなるまい。練習といった練習は積んでいないが、恥をかきに、福江(五島市)に行く予定。おそらく25日くらいが当日と思うが、過去の栄光(新司祭の時から4年間は、連続2位だった)は捨てて、まったくの裸一貫で走るぞ。走れば、次の目標ができるというものだ。

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新企画今週の1枚
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第118回目。年賀状こんなものを作ってみました。
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