こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

諸聖人(マタイ5:1-12a)イエスがそばに立ち、「あなたは幸いだ」と呼ばれる人に

2020-10-30 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2020/11/1(No.1088)
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諸聖人(マタイ5:1-12a)
イエスがそばに立ち、「あなたは幸いだ」と呼ばれる人に
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【期間限定】YouTubeで説教を視聴できます。チャンネル登録歓迎します。
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特定の日が、日曜日と重なることはとても珍しいことです。今年、11月1日が日曜日と重なり、「諸聖人の祭日」として日曜日を祝っています。珍しいので前回諸聖人の祭日が日曜日と重なったのはいつか調べてみたら、5年前の2015年でした。せっかく日曜日に巡ってきたので、神のもとに迎えられ、すべての人のためにとりなす聖人たちに心を向けましょう。

聖人方が集う「天の国」はどのようなところでしょう?二つの聖書の引用から、描いてみたいと思います。一つはヨハネ福音書の第14章1節から4節です。次のように言われています。

「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」

「住む所がたくさんある」これは私にとっては大変魅力的な言葉です。聖人たちも殉教者がおられるし、生涯を聖なる生き方で貫いた方もおられます。その「一生涯、聖なる生き方」という中にもさまざまな生き方があります。

聖なる学問を究める人もいれば、祈りを極める人もいます。隣人愛を極める人、家庭の父として母として聖なる一生を送る人もいます。諸聖人の祭日に選ばれた福音朗読箇所も、さまざまな生き方で聖なる一生を過ごす人たちが、「幸いである」と呼ばれています。天の国には住む所がたくさんあり、あらゆる生き方で聖なる道を究めた人たちが招かれるのです。

もう一つ、紹介したい聖書の箇所があります。ルカ福音書第16章の「金持ちとラザロ」のたとえ話です。毎日ぜいたくに遊び暮らしていた金持ちと、できものだらけだったラザロとが亡くなると、ラザロは宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれ、金持ちは陰府でさいなまれています。

金持ちがアブラハムに、「父アブラハムよ、わたしを憐れんでください」(16・24)と大声で叫びました。しかしアブラハムの返事は、金持ちにいっさいの希望を諦めさせるものでした。「子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。」(16・25)

ここで一つのことに気づきました。アブラハムは金持ちに「子よ、思い出してみるがよい」と言っています。「思い出せ」と言うのですから、「知らなかったでは済まない」ということです。通常何かを間違えた時、「本当に知らなかった」というのはあり得ます。アブラハムはその「うっかり」がここには存在しないことをはっきり示します。「思い出してみるがよい。思い出せるよね?」弁解も、言い逃れもできないのです。

私たちもきっと、「子よ、思い出してみるがよい」と言われるのでしょう。私は生きている間に、宴席でアブラハムのすぐそばにいさせてもらえるだけの何かをして、旅立たなければなりません。今週の福音朗読にある生き方をした人々は、神が隣にいてくださり、「幸いである」と声をかけてもらえる人々です。たとえそれが、地上では「悪いものをもらっていた」(ルカ16・25参照)と言われるような生き方であっても、神の前に価値ある生き方であれば、神がそばで「幸いである」と言ってくださるのです。

一つ、今週の朗読箇所から取り上げてみましょう。「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る」(5・8)とあります。私はある場面に、この幸いな状態がぴったり重なる、と感じたことがありました。それは日曜日のミサ、聖書の朗読の時です。

ある朗読者が朗読のために祭壇に上がってきました。その人の目には、「みんなのために、読んでやるか」みたいな気負いは何も感じられませんでした。またそれとは反対の、「上手に読まなければ」とか「引っかかったらどうしようか」といった「自分をよく見せたい」という雑念も感じられませんでした。純粋に、「与えられた朗読箇所を読む」その単純な思いが、その人の目から十分伝わりました。

もしかしたら、その人は心の清さ以外に、持ち合わせは何もないかもしれません。この世の物差しで言えば、「物持ち、金持ち人生」ではないかも知れません。

しかし私は、その人の中に、イエスがそばに居てくれて、「あなたは幸いだ」と言っているのが見えた気がしたのです。聖書朗読をしている間に、隣にイエス・キリストがいて、「あなたは幸いだ」と言ってくれているのが感じられたのです。

諸聖人と認められる方々は、「幸いである」と神から認められた人々です。神から「幸いである」と呼ばれることを、「幸いなこと」と理解した人々です。私たちはまず、神から幸いであると呼ばれることを「幸い」と理解している人々なのでしょうか。

典礼当番で、聖書朗読のため、答唱詩編のため、祭壇に上がってくる人は本当に限られていますが、もし自分が祭壇に上がることがあったら、「この人は神から『幸いである』と呼ばれている人だ」と認められたいものです。

そのためにはおそらく、自分を見せようとするどんな飾りも必要ありません。イエスが紹介した「幸い」を生きてきた。この一点だけを身にまとって、いつの日か祭壇に上がりましょう。毎日祭壇に上がる司祭は、なおさらその覚悟が求められています。

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‥次の説教は‥‥
年間第32主日(マタイ25:1-13)
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ちょっとひとやすみ
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▼人間ドックを受診した。年に一度の検診もそう内容としては変わらないと思ったが、それよりも詳しい所見を聞いたので、やはり受けた甲斐はあったと思う。この病院では12年前、父が余命を告げられてまもなく受けて以来である。
▼どうにも解消できないのが「脂肪肝」。所見を述べた先生が、スキャンした画像の各部を見せながら、例として次のように述べた。「これが心臓です。12年前の画像と比較しましょう。心臓の形が、12年前と違っています。これは、脂肪によって心臓が押し上げられていることが考えられます。」
▼心臓が押し上げられるほど脂肪が邪魔している・・・これにはへこんだ。先生は続ける。「赤い文字で示されている数値も、要するに肥満が原因です。今より体重を1キロでも2キロでも減らしてください。そうすれば、どの数値も見事に通常の範囲に収まるでしょう。」
▼この勧めには救われた。実はここ一ヶ月の有酸素運動で、この10年79キロを切ったことが無かったのが現在78.0まで改善しているのだ。まだ求められる標準体重にははるかに及ばないが、ひとまず75キロにはなりたいと思っている。そして実現可能な目標だと考えている。
▼最近、代謝が良くなったのか、食べて太る日が減ってきた。食べたらそのまま体重になっていたのが、最近は食べても変わらないくらいに。ただ喜んでばかりはいられず、ひょっとしたら病気かも知れないし、用心は欠かさない。
▼WiiFitというゲーム機のお世話になっている。有酸素運動や、バランス運動、ヨガ、筋トレ、結構楽しめる。その中ではまっているのはゴルフとフープ。ゴルフはボードの上に乗って構え、コントローラーをクラブに見立てて振るだけ。
▼ゴルフしたことないから本当にできるかは分からないけど、100ヤードのアプローチショットはピタリ寄せることができている。カロリー消費の一助にしていて、右利き、左利き、どちらも同じレベル。実際のウォーキングと組み合わせて、これからも脂肪を燃やしていきたい。

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今週の1枚
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第695回目。ゲームではよく回転するのに、実際には一回転もできない有様。

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今週の「笑える」
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「ごんごりょうだんだわ!」それもまた「言語道断」
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† 神に感謝 †
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年間第30主日(マタイ22:34-40)神に愛され、隣人に愛されて重要な掟を知る

2020-10-24 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2020/10/25(No.1087)
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年間第30主日(マタイ22:34-40)
神に愛され、隣人に愛されて重要な掟を知る
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律法の専門家は、イエスを試そうとして尋ねました。 「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」(22・36)。自分自身への真剣な問いかけとして考えてみましょう。「わたしにとって、最も重要なことは何でしょうか」。どんな答えが出てくるでしょうか。

考えるヒントとして、これまでになくしたものを振り返ってみましょう。何か大きな損失を被った。または、大きな喪失感を味わった。そのことであなたは、もう立ち直れない、もう未来はないと思って生きてきたでしょうか。

実際には多くの人が、一から出発し直して、今は新たな気持ちで日々を歩んでいるのではないでしょうか。大きな喪失感を味わった時期があったかも知れませんが、そうした時期を乗り越えて、今を生きているのだと思います。

かつて私も、大きな損失を被ったことがありました。人によって何が大打撃かは違いがあると思いますが、たくさん残していたパソコンのデータをある時一瞬で失いました。説教の原稿、教会学校の教案、黙想会の原稿、恩人や友人に宛てて書いた手紙、出会った多くの人との記念写真。それらすべてを失い、がっかりし、怒りさえこみ上げてきました。

大きな損失を被りましたが、だからといって人生を投げ出すことはしませんでした。資料や記録や思い出は、失ってしまうことは残念ですが、それらが自分のすべてではありません。これからも新しい出会いがあるでしょうし、これまで以上に資料や記録を残すこともあり得るからです。

また、私は父を亡くしました。男性の平均寿命79歳にさえ届かない71歳でした。どうして?なぜ?現実がなかなか受け入れられませんでした。よく言われるように、ぽっかりと大きな穴が開いたような感じがしました。

愛している人を失うことは大きな損失です。でも、それでも私は前を向いて歩いています。「人生はこれで終わってしまった」さすがにそこまでの失望感を味わったわけではありませんでした。

重大な喪失感を味わって、ようやく「最も重要なこと」が見えるようになりました。私にとって最も重要なことは、これまでに失ったものの中には存在せず、違うところにあった。もっと言うと、私を立ち直らせてくれた神の中に、「最も重要なこと」があったということです。

神の中に「最も重要なこと」があったと言いましたが、別の言葉で言うと、大きな喪失感の中でも神が与えてくれた力、「前を向いて歩いていける」という力こそが、「最も重要なこと」だったのかも知れません。

なぜ、前を向いて歩き続ける力が、「最も重要なこと」と言えるのでしょうか。それは、神が与えてくれた「前を向いて歩き続ける力」が、神が私を愛し続けておられるしるしだからだと思います。

これ以上ないという喪失感を味わっても、神は私を見捨てず、愛し続けてくださった。そうであれば、最も重要な第一の掟は、神を愛し返すことです。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」(22・37)これが第一の掟であることに議論の余地はありません。

同じような考え方に立つと、「隣人を自分のように愛しなさい」(22・39)という掟も理解できます。もう一度前を向いて歩き続ける力を与えてくれた神の次に私にとって重要なのは隣人なのです。隣人の中には、ずっと私を見捨てず、見守ってくれた隣人が、だれにでも一人はいるものです。

例を挙げたいと思います。私個人の司祭としての活動ですが、2002年の誕生日から、日曜日の説教をメールで配信するサービス(メルマガ名「こうじ神父今週の説教」)を続けています。登録してくれた人に、毎週説教を送り続けるという活動です。

現在第1087号なのですが、相手が見えない活動はときおり不安になるものです。メールで送った説教をだれも読んでもらえず、だれからも振り向かれずに廃刊しなければならないという危険もありました。幸いにメルマガは今月まで18年6ヶ月、毎週配信できています。

なぜ、相手も見えない人に説教を送り続けることができたのでしょうか。力の源がありました。それは、欠かさず読んでくれている人がいたことです。「いつも楽しみにしています」そんなメールをもらったのです。「こんな人もいるんだなぁ」と力を頂きました。

個人的に始めた説教の配信活動を、始まりから決して見捨てず、自分のことのように思ってくれる人がいた。この経験から、第二の掟は自然に理解できるようになります。「隣人を自分のように愛しなさい」(22・39)。体験を通してイエスが、「あなたは今日まで、だれかに支えられ、歩いてくることができた。だからあなたも、隣人を自分のように愛しなさい」と呼びかけているのだと思います。「『あなたを見捨てない』そんな人になってあげなさい」と、イエスは私に期待しているのです。

自分にとって最も重要なものに気付いた時、最も重要な掟の意味が見えてきます。神をこの上なく愛することと、隣人を自分のように愛すること。この二つの掟は、「どの掟が最も重要でしょうか」と真剣に問うすべての人に十分理解できる掟なのです。

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‥次の説教は‥‥
諸聖人(マタイ5:1-12a)
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ちょっとひとやすみ
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▼「直リンクは禁止である。」しばらく悩んでいたことが納得できた。他のサーバーの画像をさまざまなブログで表示させる、しかも直接表示させるのは「禁止」だった。この数ヶ月、ひょっとしたら数年、それを理解していなかった。
▼それもそのはず、数ヶ月前までは、他社のサーバーの画像を無理して表示してくれていた。だから「これで良いのだ」と思っていたわけだ。それが表示されなくなって数ヶ月、悩んでいたのだがこれで重い腰を上げ、「ではどうすれば表示してくれるのか」を考えることになった。
▼答えは簡単なことで、自分のブログの中に画像をアップして、埋め込めばよいことだ。ただここには面倒なことがあって、ひとりでも多くの人にブログを見てもらおうと、片っ端からブログを借りまくっている。おそらくそれぞれに、該当する画像をアップしてあげなければならない。それはそれで面倒なことだ。
▼それぞれのブログに流儀もあるようで、それを理解できないブログは今後も写真が直接は閲覧できないかと思う。ご容赦願いたい。リンクのしかたが簡単なものは、対応しているつもりである。
▼今日、手話で子供達に「主の祈り」を教えた。教えるに当たり、「声が聞こえない人、声が出せない人たちもいるよね。そんな人たちと一緒にお祈りするには、何を知ってたらいいかな?」と聞いた。
▼分からないという顔だったので、ヒントを出してあげた。「ウルトラマンはその答えを知っているよ。ウルトラマンは空に飛んでいく時、何と言って飛ぶかな?」子供達はぽかんとしていた。答えは「シュワ!」

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今週の1枚
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第694回目。「フルーツイワナガ」のフルーツパフェ。おいしくてつい完食。

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今週の「笑える」
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「枝を磨く」と言っているけどおそらく「技を磨く」。
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† 神に感謝 †
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年間第29主日(マタイ22:15-21)すべてのことに神の肖像と銘がある

2020-10-17 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2020/10/18(No.1086)
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年間第29主日(マタイ22:15-21)
すべてのことに神の肖像と銘がある
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「イエスは、『これは、だれの肖像と銘か』と言われた。」(22・20)刻まれている肖像と銘に従って、責任を果たす。今週はこのようにまとめられると思います。では私たちに刻まれている肖像と銘は、どのようなものでしょうか。考えてみましょう。

司祭・助祭叙階式が行われ、稲田新司祭と鼈甲屋新助祭が与えられました。稲田新司祭は、助祭として奉仕していた福江教会に、引き続き助任司祭として赴任することになりました。鼈甲屋助祭は、大神学院の課程を修了するまで、ひとまず福岡に戻ることになります。

翌日、「司祭の日」のミサが行われ、新司祭・銀祝・金祝・ダイヤモンド祝を迎えた司祭方のお祝いがミサの終わりに設けられました。下川神父様はお元気にしておられ、山内豊神父様が体調にまったく不安がなければこの場で一緒に祝ってあげたかったなぁと思いました。

それぞれ、短い感謝の言葉を述べたのですが、新司祭の挨拶には度肝を抜かれました。「昨日、叙階の秘跡を受け、司祭とさせていただきました。昨日のことのように思い出します」と涼しい顔でした。「『ゆとり世代』は挨拶も余裕があるな」と感心しました。どんな働きをするのか、これから楽しみです。

今週の福音朗読、「これは、だれの肖像と銘か。」このイエスの問いかけはいまだに私の中で消化し切れていません。生涯問い続ける必要があるかも知れません。納税の問題で罠を仕掛けようとデナリオン銀貨を持ち出し、言葉じりを捉えようとした人々の悪知恵。その手にあるデナリオン銀貨は、よくできた貨幣だったのでしょう。ローマ皇帝の肖像であると一目で分かったようです。

貨幣の鋳造の技術にせよ、イエスを罠に陥れようとする悪知恵にせよ、技術や知恵は、人間の素晴らしさを表しますが、しかしその技術と知恵を授けたのは人間ではありません。使い方の差はあっても、すべての技術、すべての知恵は、もともとは神から人間が授かったものです。

「これは、だれの肖像と銘か」この言葉には、見える肖像と銘の向こうに、神がおられるではないか。すべてのものの向こうに神の働きを見て、神のものは神に返しなさいと言っているように感じるのです。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」これは区別して言っているのではなく、生活のすべてに世の中で返すものがあり、神に返すものがあると思い出させているのです。

叙階式ミサの次の日に設けられた「司祭の日」のミサ、司祭生活60年とか50年の方々の姿にはいろんな重みが感じられました。彼ら大先輩方も、この世のものはこの世に返し、神のものは神に返す、その長い人生を送ってきたのだと思います。

司祭だけに求められるものもあったことでしょう。この世のものを返すのに命まで削る必要はありませんが、神のものを返すためには、ときには命を削ってでも務めを果たすことがあったでしょう。それらを内に秘めて、祭壇に上がって、新司祭や銀祝の司祭と並んでいる。すごいことだなと思いました。

「これは、だれの肖像と銘か。」生涯にわたって自分に問いかける必要を感じたのは、25年を過ぎた頃からかも知れません。何かの務めを果たす時、かつてはその務めが10年後、20年後にどのようになるのか、考えもしませんでした。ただ懸命に務めを果たすだけでした。

それが、25年を過ぎると今までにない考えが頭をよぎります。一つの務めを果たした時、それは10年後、20年後の蓄えになる。そのような考えが浮かんできたのです。たとえば、11月からは聖書愛読運動で、予定ではコリントの信徒への手紙一と二を読むつもりでいますので、そのための資料の準備をしています。

かつてであれば、聖書愛読のために準備したことが次にどう繋がるかなど、考えもしなかったでしょう。けれども今は、「ここで努力したことは、将来努力しないで使えるようになる」と、独り考えてしまうのです。努力することに偽りはありませんが、神に返すべき努力の、その何割かを自分のために還元しようと考えてしまうのです。

ですから何度でも、自分に問い直すのです。きっと生涯、問い続ける必要があるのです。「これは、だれの肖像と銘か。」洗礼を受けて神のものとされた。私はどこまで、神のものを神に返しているだろうか。堅信を受けて大人の信者となり、かつては「キリストの兵士」とさえ言われてきた。私はどこまで自分を神に帰しているのだろうか。

ましてや司祭・奉献生活者は、イエスに身も心もおささげした者です。司祭生活が25年を過ぎたあたりから、「ここで恩を売っておこう」「こういう形で名前を残しておこう」「今苦労しておけば、次のときには何の苦労もせずに恩を売れるではないか」考えることはまるで「神のものをこの世のものとすり替える働き」になっています。

新型コロナウィルスの影響で、多くの計画が中止になりました。それによって与えられた時間は、果たして神のために使ったのでしょうか。ここでひとやすみしようと、この世のために使ったのではないでしょうか。大いに反省させられるところです。

余談ですが、来週26日、私は長崎市の聖フランシスコ病院で人間ドックを受けることにしています。身も心も神のものですから、よりよく教会の働きができるように、十分検査をしてみようと思っています。そしてこの機会に、「これは、だれの肖像と銘か」このイエスの言葉を繰り返し言い聞かせ、自分に問うてみたいと思います。

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‥次の説教は‥‥
年間第30主日(マタイ22:34-40)
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ちょっとひとやすみ
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▼2019年5月に放送された「NHKこころの時代」が再放送されていた。9月27日再放送だったと思う。前田万葉枢機卿様がインタビューを受けていた。中学生、小学生高学年と一緒に観た。子供達の反応は、食い入るように、とはいかなかったが、田平教会にもいたことのある神父様が教皇様の相談を受けるような「枢機卿」になったということには興味を持ったようだ。
▼以前に、長崎教区司祭のインタビューも同じ番組で取り上げたことがある。置かれた立場も違うし、求められていることも違うので単純に比較はできないが、どちらもカメラを前に、使命を立派に果たしていたと思う。
▼運命は本当に不思議なものだ。「運命」と言ったが、神の導き、「摂理」と言ったほうが良いかも知れない。これまでに何度も感じてきたが、これからも、不思議な出会い、不思議な助けの手、いろんな「摂理」に驚かされることだろう。
▼「この努力をしておけば、あとで楽に同じ取り組みができる」こんな計算高い働き方をしてはいけないと、今回強く思った。後のことを考えながらの働きは、結局誰のためになるのか。誰のためにもならないのではないか。
▼「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ6・34)明日のことまで考えるのではなく、取り組んでいることが今、どのように役に立ちそうか、そのことだけに集中しよう。

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今週の1枚
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第693回目。天気が悪くなると外を歩けない。WiiFitで楽しく運動。

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今週の「笑える」
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「佐世保までシーガイアで、それから松浦鉄道」「うーん、違うと思う」
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年間第28主日(マタイ22:1-14)司祭の究極の礼服はイエス・キリスト

2020-10-09 | Weblog
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司祭の究極の礼服はイエス・キリスト
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本日(11日)午後3時から、司祭・助祭叙階式が浦上教会で行われます。この叙階式で、稲田新司祭と、鼈甲屋新助祭が誕生します。彼らがこれから果たしていく教会奉仕の上に、神様の豊かな祝福がありますように、このミサの中で願いたいと思います。

先週、お子さんの洗礼式をこの田平教会でおこない、撮影もしたのですが、「言い間違えた」とはっきり分かる箇所がありました。「堅信式を行いましょう」と言っている部分があったのです。私はまったく気づきませんでしたが、映像はバッチリ、その瞬間を捉えていました。

28年前を思い出しました。叙階式を終えて浦上教会信徒会館での祝賀会の席で、当時の島本大司教様が祝辞を述べてくださり、最後に新司祭の任地を発表しました。二人目までは小教区の助任司祭として働いてもらいますと発表されたのですが、最後に私の任地を、「小教区の主任司祭として働いていただきます」と仰ったのです。後に親戚の方が録画したビデオテープをいただいて、ビックリしたのでした。

その教会に、私はもう一度舞い戻ることがあるでしょうか。いちばん大きな教会なのでないような気がしますが、もし実現したら、島本大司教様は預言しておられたことになります。

福音朗読に戻りましょう。王子の婚宴を催した王は、招待しておいた客が二度も僕の案内を断り、しかも二度目には乱暴まで働いたのでガッカリしています。それで見かけた人は誰でも婚宴に招きました。意外なことに、通りで突然招かれた人々は皆、王子の婚宴であり、王が催したことをわきまえていたので、礼服を着て婚宴の席に着きました。

しかしそこに、礼服を着けていない人が一人現れます。礼服は、婚宴に招かれたことを感謝する気持ちの表れです。招かれるはずがなかったのに招かれた。名誉なことと感じたから、礼服を身につけます。それなのに、この人は王に招かれたことを感謝する気持ちを持っていませんでした。来るには来ましたが、義理立てて来たようなものでした。

さて私たちは、ここからどんな教訓を得られるでしょうか。たとえで暗示されている王は、父なる神、王子は御子イエス・キリストです。では王が催した王子の婚宴は、どこにあるのでしょうか。それは日曜日ごとに集まるこの教会、主の祭壇に用意されるのです。「神の小羊の食卓に招かれた者は幸い」と言うでしょう。

まずは、この「神の小羊の食卓」に、礼服を着て集まる必要があります。先週話した、一張羅の意味でも構いませんが、もう少し踏み込んで考えると、「この食卓に招かれたことを光栄に思う、名誉に思う」そのしるしを身につけてくる必要があります。それはたとえば、断食であったり、隣人愛であったり、感謝を表す献金などです。

断食は、「神の小羊の食卓」に着くためになくてはなりません。酔っていたり、どこかで食べてきたから食事は要らないという態度を取ったりすれば、礼服を着ていない人と何ら変わりません。また隣人愛は、人に奉仕する愛のわざですから、招待客の枠を越えて人を招く神の広い心に彩りを添えます。そして私たちが持ち寄る献金は、神の小羊の食卓をいつまでも続けさせてくれます。私たちの献金で、次のパンとぶどう酒も用意され、神の小羊の食卓に招かれる人がさらに増えるのです。

11日(日)午後3時から司祭・助祭の叙階式ミサが行われます。今は自分自身のことも重ねて考えることができます。会衆はミサに参加する時、断食や隣人愛や献金を持ち寄ればそれで十分ですが、司祭に叙階される人、助祭に叙階される人はそれだけでは足りないでしょう。

ではどんなものをささげて、神の小羊の食卓に近づくのでしょうか。一言で言えば、ささげものは自分自身です。イエス・キリストにいつも「はい」と答え、イエスに反するものには「いいえ」と常に答える。「私はこう思う」ではなく、これからは「イエスが私の全て」となります。

浦上の助任司祭の時、予定外のことがいつも降りかかって、自分がしている目の前のことを横に置かなければなりませんでした。緊急の病人が出て、机に向かっていたのに中断させられます。一日くたくたになって寝床についたのに、大学病院に救急搬送された人の家族から呼び出され、夜中に病者の塗油を授けます。いつも、弱く貧しい姿で現れるイエスが「私のもとに来なさい」と呼んで、「はい」と答えるのでした。

もしかしたら今度叙階の秘跡を受ける方々はよくできた人物で、「それらのことは皆、小さい頃から準備ができております」と答えるかも知れません。しかし司祭や助祭に叙階される人は、叙階されてからもっと多くのものをささげるように求められるのです。実際にささげることになる前に、考えておいてもよいでしょう。

司祭・助祭に叙階される方は、いわば「イエスに買い取られた人」です。イエスが代価を払って、叙階の秘跡を受ける人の全てを買い取ったのです。どんな代価を払ったのでしょうか。「十字架にはりつけにされて死なれた」という代価です。十字架上の死という代価を払って買い取られたことを、叙階の秘跡を受けてからは忘れてはならないのです。

いつか怠け心を起こしたり、この世のもので時間を埋めようとしたり、ミサをささげながら心は満たされない。そんな場面がやって来るかも知れません。しかし、司祭はイエスが御自分の死という代価を払って買い取られた者なのです。投げ出しそうになる時、私のために支払われた代価の重さを、繰り返し確かめる必要があります。これが祭壇に上がる司祭に求められる究極の「礼服」です。

私が、叙階式ミサの前に必ず行われる受階者への訓示をする機会が巡ってきたら、そう伝えたいと思っています。どうか皆さんも、新司祭にいつか会うことがあれば、この人はイエスの死によって買い取られた人なのだと考えてください。

もし、どうしても諫めなければならない時には、「あなたはだれのいのちで買い取られたのか忘れたか?」と諫めてください。司祭・助祭叙階式に臨む方々のために、続けてお祈りいただきたいと思います。

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‥次の説教は‥‥
年間第29主日(マタイ22:15-21)
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ちょっとひとやすみ
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▼過ぎた週の初め、葬儀が入り、月曜日に葬儀ミサをささげた。「田川ミツエ」という一般信徒。少し前から危険な状態だったので、「来るべき時が来たか」そう思って心を込めて葬儀ミサを執り行った。
▼そして金曜日、シスターが亡くなった。「田川ミツエ」と言う。一週間に二人、「タガワミツエ」を送った。この原稿を書いている時点でシスターの通夜も終わってないのでどんな葬儀を執り行うか神のみぞ知る。
▼ここからは洗礼台帳と照合して感じたこと。「タガワミツエ」は、二人とも結婚していない。だから洗礼台帳に当たる時「旧姓」を調べる必要も無かった。また田平教会の台帳でときどき見られる「養子縁組」もなく、ダイレクトに探せる「はず」だった。
▼一人目の「田川ミツエ」は問題なく見つかった。パソコンで検索できる態勢を2年かけて準備したので、カタカナ検索すればすぐにヒットする「はず」である。しかしシスター「田川ミツエ」がカタカナ検索「タガワミツエ」でヒットしない。なぜだ?
▼あることを思いだした。私が赴任してすぐに、修道会本部から田平修道院に籍を置くシスターの台帳整理のための問い合わせがあり、可能な限り答えたことがあった。当時の書類を調べた。するとシスター「田川ミツエ」は確かに田平教会で洗礼を受け、台帳番号も正確に記録されている。
▼そこで手作業で紙の台帳に当たってやっと分かった。紙の台帳には「田川ミツ」と記録されているではないか。しばしば起こることで、「ソノ」という女性名を「オソノ」と呼んでいたために葬儀では「オソノ」で葬儀に取りかかったが洗礼の台帳で慌てるというようなケースである。
▼ちなみに、ほぼ同年代で「ミツエ」は田平教会に三人いた。だから、シスター田川の両親は、88年前に「三・ミツエ」を避けて、「ミツ」という名前を付けたのかも知れない。


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今週の1枚
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第692回目。横瀬浦の祭壇。司祭は、「イエス」という礼服を着て祭壇に上がる。
<img src=http://ss104313.stars.ne.jp/201011.jpg>
http://ss104313.stars.ne.jp/201011.jpg
ホームページもご覧ください。
http://ss104313.stars.ne.jp/
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今週の「笑える」
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「さいよりのバス停」「んんん?『最寄りのバス停』?」
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† 神に感謝 †
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年間第27主日(マタイ21:33-43)お膳立てをしてくださった神と収穫を分け合う

2020-10-03 | Weblog
当ブログをお読みくださり、ありがとうございます。

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://ss104313.stars.ne.jp/voice/201004.mp3
(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
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こうじ神父
「今週の説教」
2020/10/4(No.1084)
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年間第27主日(マタイ21:33-43)
お膳立てをしてくださった神と収穫を分け合う
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【期間限定】YouTubeで説教を視聴できます。チャンネル登録歓迎します。
https://youtu.be/S38boBKl7OA
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日曜日9時の、説教の後に洗礼式を予定しているミサを前提に話します。今週の福音朗読箇所から洗礼式に臨む両親に語りかける部分を探すのは難しいかも知れません。ただ、イエスがたとえ話を語っている相手、祭司長や民の長老たちは、たとえ話が自分たちへの当てつけであると知りつつも、正しい答えを返しました。

「その悪人どもをひどい目に遭わせるでしょう。そしてぶどう園はほかの農夫たちに貸すでしょう。」ここに、洗礼を受けるお子さんと、保護者や代父、関係者は耳を傾けることができると思います。

「ぶどう園」をはじめに貸した相手は、「悪人」でした。当時の宗教指導者たちに当てつけて言われていると知っていましたが、宗教指導者たちは最初の農夫たちが「悪人」であることを認めなければなりませんでした。

彼らも、主人である父なる神が期待している収穫を収めず、弱い人たちをしいたげ、自分たちが主人の喜びにあずからないだけでなく、主人と喜ぼうとする人たちまで妨げていたのでした。収穫があるはずの「ぶどう園」に居座って、「ぶどう園」からあの手この手で奪い取る人たちになってしまいました。

何度も、宗教指導者たちには振る舞いを改め、神の喜びに連なるチャンスが与えられましたが、ことごとく無駄にしてしまいました。イエスがおいでになった時、最大のチャンスでしたが、態度を変えませんでした。

一方で、「新たに貸した相手」は、季節ごとに収穫を収めることになる人たちです。収穫を受け取りに来る僕を見て、自分たちが今あるのはこの僕たちを送り込んだ主人のおかげだと素直に認める人たちです。ぶどう園の主人に信頼を寄せているので、送り込んだ僕のことも信頼しました。

この人たちはのちに教会を形づくることになる人たちでした。たとえそれが、罪人であっても、です。自分を甘く見てしまう弱さ。誰かに迷惑をかけても自分は生き残りたいという利己心。そうした罪の部分を素直に認め、私を今も生かしてくださる主人に収穫を渡すことのできる人たちです。

洗礼式を迎えるお子さんと、保護者に当てはめてみましょう。お子さんが健やかに成長していく。いろんな節目をどのように迎えますか?世の人々は、あの手この手で両親にお祝いのアイディアを持ちかけ、その実少しずつではあってもお金を目当てに近寄ってくるのです。子供が小さい時は小さなお金を、成長するに従ってどんどん大きな額を引き出させようとする。いつまでもきりがありません。

しかし別の祝い方もあります。節目になるたびに、父なる神の前に出て、ここまで育った子供の成長を、収穫としてお渡しすることです。洗礼式、堅信式、結婚式。その他にも、子供の成長という収穫の実りを、僕である司祭の手を通して、お渡しする生き方です。そうすることで、子供と両親は節目のたびに神の喜びとなり、神と喜びを分け合うのです。

私たちは幼い頃、両親に手を引かれて教会に来ました。教会はそんなに楽しいところではなかったけれども、「教会に行く時の服」というのをときどき買ってもらえました。子供は新しい服を買ってもらって嬉しいばかりですが、両親が教えたかったのは、教会に来て行ってから初めて普段着になる。最初は神様のために着てからだよ、ということでした。

どんな人も、教会に集まって父なる神の前に跪いていました。外では道路に大の字になってバスを困らせたりするあるおじさんが教会に来ていてビックリしたことがありました。弱い人も、罪人も、教会に来て収穫を受け取る僕に自分自身を渡して、また生活に戻っていったのです。

なかには、収穫を独り占めしようとする人たちもいるでしょう。両親が育てたのだから、子供を両親の思うままにしてしまおう。そんな人もいるかも知れません。実際にはそうしたくても、子供は反抗して思い通りにはならないでしょう。現実はそうであっても、思い描いた通りに子供を歩かせたいと本気で思っている両親もいるでしょう。

それでも私たちは、節目のたびに神様の前に身を置きましょう。命を授かりました。言葉を話せるようになりました。自分で道を選べるようになりました。命を生み出せる大人になりました。いろんな収穫を、僕である司祭を通して、主である父なる神にお渡ししましょう。私たちがこの生活のリズムを固く守るなら、親子共々、尊敬される息子の列に、イエスの友としてイエスと共に並ぶことができます。

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‥次の説教は‥‥
年間第28主日(マタイ22:1-14)
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ちょっとひとやすみ
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▼「ファインダーで覗いただけでは、人間の目が捉えている風景を捉えることはできない」のだそうだ。たまたま観ていたテレビの番組で、冬の厳しい時期に日本アルプスに登り、長年その景色を映像に収めてきた写真家の言葉だ。
▼私のような素人がどうこう言えないレベルだが、「どうして肉眼では見えているのに、カメラで収めると見えていた景色にならないのだろうか」と思うことはしばしばある。中秋の名月のこの時期にウォーキングを楽しんでいたら、月の左下に明るい星を一つ見つけた。
▼これは写真に撮っておこうと思い、撮った写真をあとで見たら、明るい星のはずなのにあまりきれいに写っていない。ガッカリしたと同時に「どうして人間には見えているのに、カメラでは同じように切り取れないのか?」と思ったものだ。
▼今週紹介している一枚の画像もそうだろう。季節外れの桜が、教会敷地の木に咲いていた。「ぜひ取り上げよう」そう思って、iPhoneと一眼レフ(EOS Kiss)で撮影してみた。何も問題なく撮影できているはずだが、なぜか写真を見ても桜の花びらを確認できない。肉眼では「あそこ」と指差されればすぐに分かるのに、である。
▼「人間の目で見て、感動した通りに切り取る。」素人はうまく撮れないが、プロはその極意を身につけている。田平にも腕のいい写真家がおられる。いつか、写真の手ほどきをしてもらいたいものだ。

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今週の1枚
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第691回目。桜が咲いた。勿論季節外れ。ひんやりする風に当たりながら撮影。

http://ss104313.stars.ne.jp/201004.jpg
ホームページもご覧ください。
http://ss104313.stars.ne.jp/
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今週の「笑える」
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「今すれば、5年後10年後にウンレイの差が付くから」「でもしたくないなぁ」
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† 神に感謝 †
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