こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

キリストの聖体(ルカ9:11b-17)キリストの聖体を、出かけて行って配るために

2016-05-29 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
16/05/29(No.830)
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キリストの聖体
(ルカ9:11b-17)
キリストの聖体を、出かけて行って配るために
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キリストの聖体の祭日です。イエス・キリストがわたしたちを養う食べ物になってくださいました。そしてこの不思議なわざに、弟子たちの手足で届けていくという弟子たちの協力を求められました。人間の考えを越えた神の働き方について学ぶことにしましょう。

教区司祭の黙想会に参加してきました。今回の黙想会期間中に萩原神父さまと来月5日の打ち合わせをしてきましたので、その話を分かち合いたいと思います。

萩原神父さまとは、おもに典礼のための打ち合わせをしてきました。ここ数週間は白の祭服を着用する祭日が続いていますが、6月5日は年間第10主日で、祭服は緑に戻ります。「神父さまのお祝いをするミサなので、祭服は白でもよいと思いますが、どうしましょうか」とお尋ねしたら、「典礼に従い、祭服は緑にしましょう」という返事でした。

萩原神父さまとわたしとは、30年前からの長い付き合いです。わたしが大神学院の神学科に進み、スータンを着始めたころに郷里の鯛之浦教会に萩原神父さまがやってきました。わたしと、2年先輩の葛嶋神父さまの助祭叙階、司祭叙階は萩原神父さまが主任司祭の時だったのです。

また、わたしが助祭の時に萩原神父さまも叙階25周年の銀祝を鯛之浦教会で迎えました。あれから25年経ち、わたしが田平教会に赴任したことによって、司祭として送り出していただいたわたしが萩原神父さまの金祝をお祝いする側に回るという不思議な縁に恵まれたのでした。

ちょっと話はそれますが、萩原神父さまは人間的には2つの面を持っていました。その一つは「何とかなるさ」という面です。わたしが助祭だった時、小学生の侍者を連れて長崎市内と外海の教会を案内して回ってほしいとお願いされました。「プログラムはお任せします。行ってらっしゃい」とだけ告げてすべてを任せてくださったのです。任せてもらい、無事に務めを果たしたことで成長させてもらったと思っています。

もう一つは、短気な部分です。「瞬間湯沸かし器」でした。大神学院が夏休みに入り、帰省して司祭館にお土産を持って挨拶に行きますと、司祭館から大声が聞こえるのです。評議会で語気を強めている雰囲気でした。わたしは司祭館のチャイムを鳴らすのをためらい、お土産とあいさつは翌朝のミサの時に後回しにしたのでした。「短気は損気なんだけどなぁ。」似たような場面に立ち会ったことが2度ありました。

それでも、わたしは萩原神父さまによって育てられ、司祭職に送り出されたと思っています。主日のミサは鯛之浦で2回、船隠、佐野原、頭ヶ島それぞれ1回、合計5回のミサと説教がありまして、そのすべてにわたしは助祭としてついて行き、説教は田平教会で言えば二番ミサ以外はすべてわたしが担当しました。日曜祝日毎に4回説教をして、助祭の期間を鍛えてもらったことは一生の宝でした。

長くなってしまいました。福音朗読に戻りたいと思います。弟子たちは、一日の終わりにあたり、イエスに進言しました。「群衆を解散させてください。」(9・12)弟子たちのこの言葉には、単に「今日はこれで終わりましょう」だけではない、隠された意味があるかもしれません。

「神の国について語り、治療の必要な人々をいやす」この仕事は大まかに言うと祭司の仕事です。祭司の務めは一日が終わればまた次の日に果たせばよいわけです。「先生、祭司の務めは終わりにしましょう。群衆は生活に戻る必要があります。食べ物を与えるのは先生の仕事ではないです。」そういう意味合いが込められていたのかもしれません。

「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」(9・13)イエスは単なる祭司ではありません。祭司であり、預言者であり、王であるのです。ひとことで言うなら「主でありメシアである」お方なのです。主でありメシアである方の務めは、日が傾いてそれで終わりなのではなく、どこまでも民の必要に答える必要があるのです。

昼も夜も、絶えず叫び求める民に答えるために、イエスはご自分が食べ物となることを願われました。御聖体です。ご自分が食べ物となることで、「すべての人が食べて満腹した。残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった」(9・17)あの豊かさを味わうことができたのです。

イエスを信じる人は、五千人にパン五つと魚二匹という絶望的な状況でも、満たされる体験ができます。35年前、聖ヨハネ・パウロ二世教皇が松山でミサをささげた時、人々は寒さに凍えましたが、教皇様を一目見た。教皇様のミサにあずかれた。そのことだけで寒さを忘れました。

長崎市内の滑石教会で、お仕えしていた主任司祭が年末に肺炎で急死したとき、クリスマスは喜べるはずがないと思っていましたが、希望の持てるクリスマスを神様は用意してくれました。聖地巡礼に連れて行ってくれた島本大司教様が亡くなられたとき、あまりのことに何も手につきませんでしたが、当時巡礼に参加した青年たちが立派に育ち、今は慰められています。絶望的な状況にあって、イエスがご自分を食べ物として与えてくれたおかげで、何度も有り余る豊かさにあずかったのです。

一つ、ここに必要なものがあります。弟子たちの働きです。イエスが五つのパンと二匹の魚を群衆に配った時、弟子たちの協力がありました。今わたしたちの手足を必要としています。御聖体はいつもわたしたちのために用意されていますが、それを配る司祭が必要で、「この人は御聖体を必要としています」と案内してくれる信徒が必要なのです。

わたしたちの食べ物となられたイエスは、わたしたちの絶望的な状況にあって豊かになる体験を与えてくださいます。特に聖体祭儀、ミサの中で体験させてくださいます。そして、キリストの聖体に豊かにされるには、奉仕者である司祭、修道者、信徒がこれからも必要なのです。

イエスが五千人を満たしたあの体験を現代に再現するためには、奉仕者が必要です。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」このイエスの言葉に従う奉仕者がわたしたち田平教会に与えられますように、ミサの中で恵みを願いましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第10主日
(ルカ7:11-17)
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ちょっとひとやすみ
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▼黙想会で思わぬ餌に引っ掛かり、釣り上げられてしまった。例えるなら、ふつうであればたやすく見破る疑似餌に引っ掛かった魚のような気分だ。日本カトリック神学院東京キャンパスに派遣されている後輩の長崎教区司祭N師が黙想会に参加していて、声をかけてきたのが始まりだった。
▼「東京の大神学生たちのために『月の静修(ミニ黙想会のようなもの)』を引き受けてくださってありがとうございます。」「はぁ?知らんぞ。」「またまたぁ(笑)指導をしてくれる神父さまの名前の欄に、ちゃんと先輩の名前書かれてましたよ。」
▼「何の話だ?俺は何も知らんぞ。」「だって先輩、神学院副院長である鹿児島教区のN師の電話依頼を引き受けてくれたんでしょ。快く引き受けてくれたって言ってましたよ。」わたしの頭はさらに混乱し、本当にそういうやり取りがあったのか確認してくれと念を押した。
▼翌日のことである。前任地である浜串教会に赴任したS師がわたしのそばに来て、神妙な顔でこういった。「先輩、落ち着いて聞いてください。実は最近、日本カトリック神学院東京キャンパスから浜串教会に電話がありまして、『月の静修を引き受けてくれ』という依頼があったんです。わたしは当然、自分に依頼されたものだと思い、よく考えた上で『わたしでよければ』と言って引き受けました。」
▼「東京キャンパスで働いている鹿児島教区のN師は、人事異動があったことを知らなかったようで、浜串に中田先輩がいるものだと思い込んで電話をしていたそうです。わたしに名前を聞いてくる雰囲気でもなかったので、まさか人違いで依頼しているとは思わず、引き受けたのです。」
▼「ところが今朝、長崎教区から東京キャンパスに派遣されているN師と月の静修の確認をしてみて、お互い間違いに気づいたんです。東京キャンパス側は中田先輩に依頼しているつもりでした。引き受けたのはわたしですが、東京キャンパス側としては中田先輩が受けてくれたことになっているんです。お分かりでしょうか?」
▼「知らん知らん。俺は知らん。」「先輩。そう言わずに、ぜひ東京に行って務めを果たして来てもらえませんか?」「お前が引き受けたんだろう?お前が行けよ。」この時点でわたしは笑いが止まらなくなっていた。一度も内容を聞かず、返事もしていないのにわたしは東京で講話をすることが決まった。父イサクから祝福をだまし取るヤコブの物語を思い出した。

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今週の1枚
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第437回目。28日(土)午前中の保育園聖母祭。夜は小教区も聖母行列を行う。

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三位一体の主日(ヨハネ16:12-15)わたしたちは三位の神を等しくたたえます

2016-05-21 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
16/05/22(No.829)
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三位一体の主日
(ヨハネ16:12-15)
わたしたちは三位の神を等しくたたえます
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三位一体の祭日を迎えました。父と子と聖霊の唯一の神をたたえる日です。三位の神をたたえる確かな動機、きっかけを探すことにしましょう。

わたしは以前、次のような書き置きをして出かけることをよくやっていました。書き置きには3つのことが書かれていまして、「海上保安庁の仕事に行ってきます。捜さないでください。先立つ不孝をお許しください」というものです。すでにお気づきかと思いますが、釣りに行くときにそのことを賄いのシスターに知らせる書き置きでした。

初めの頃は、「海上保安庁の仕事って何ですか?」と聞かれたりしていました。分かってないのだなと思い、さらに困らせようと思って「誰か違反操業をしていないか、見張りに行っているのよ」ととぼけたりしていました。お土産の魚を持って帰る日もあったので、最終的には釣りに行っているのだと分かったようです。

「捜さないでください」と書くのは、午前中に出かけることが多かったのですが、たいてい昼ご飯までには帰るので、昼ごはんは用意していてねという合図でした。「先立つ不孝をお許しください」はシスターがやってくる前に出発していたので、なぜいないのかを知らせる合図でした。

単なる書き置きでは面白くありません。何かを考えさせる書き置きをして、わたしという人間を知ってもらおうという思いもありました。3つの書き置きを総合して、賄いのシスターは主任神父がどのような人間であるかを徐々に理解していったのでした。

わたしたちの信じる神も、ご自身の特徴を言おうとして「三位一体の神である」と、このように啓示されたわけです。人間の知恵でたどり着けない神の特徴は、神ご自身がお示しくださる以外に知ることはできません。そこで神は、御子イエス・キリストを通して「父と子と聖霊である」と示してくださったのです。

ここまでで「なるほど」と納得された方がいらっしゃれば、これ以上話すことはありません。ただ、多くの方が「それは分かりますが、ピンときません」と思っておられるでしょう。わたしたちの信じる神は「父と子と聖霊」ですが、ほかに言葉を補うことはできないのでしょうか。

三位一体の神についてはさまざまな説明が試みられてきました。それらの歴史に耐えうる説明と比べるとつたないかもしれませんが、次の3つについて考えるなら、わたしたちの信じる三位一体の神に思いを馳せることが出来るのではないかと思っています。その3つとは、「死・復活・赦し」です。

わたしたちの信じる神さまは、人となってこの世においでくださっただけでなく、わたしたちの救いのために死んでくださったお方です。人の救いのために死んでくださる神は、ほかのどの宗教にもおられません。この、人の救いのために死んでくださる神は、わたしたちの推理ではたどり着けないお姿なので、神が人となって、実際に命をささげ、わたしたちに啓示してくださいました。この「人の救いのために死んでくださる神」は、御子によって啓示された神の姿です。

また神は、人類の救いのために死んでくださった神の独り子を、復活させてくださいました。使徒言行録13章30節に次のようにあります。「神はイエスを死者の中から復活させてくださったのです。」パウロはアンティオキアの会堂でこのように雄弁に語って、「父と子と聖霊」の神を証ししたのです。イエスを死者の中から復活させてくださったのは、父なる神の姿を示しています。

そして復活したイエスは弟子たちに息を吹きかけて、次のように言われました。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」(ヨハネ20・22-23)御父と御子から与えられる聖霊は、神の赦しを啓示するのです。

こうして、御子によって「神は人類の救いのために死んでくださる」ことが示され、御父によって「神は死者の中から復活なさる」と示され、聖霊が弟子たちに注がれて「神は赦しを与えてくださる」ことが示されました。わたしたちの信じる神は、「父と子と聖霊」の三位一体の神であり、言葉はつたないですが、「死んで復活し、赦しを与えてくださる神」と補うことができると思います。

この説明であれば、神さまはどのようなお方ですかと問われたときに、「父と子と聖霊の神」また「死んで復活し、赦しを与えてくださる神」と、自信をもって答えることができるのではないでしょうか。

説教の初めに、「三位の神をたたえる確かな動機、きっかけを探すことにしましょう」と呼びかけました。もし、今日のミサを通して三位一体の神をたたえるきっかけをつかんだなら、具体的な場所、時間を思い描きましょう。わたしはどこで、三位一体の神をたたえますか。わたしはいつ、三位一体の神をたたえますか。

「わたしはこの日、この場所で父と子と聖霊の三位一体の神をたたえます。」あなたが三位一体の神をたたえるとき、三位一体の神を知らないだれかが、あなたを通して知り、同じように父と子と聖霊の三位一体の神をたたえる日が来ますように、今日のミサの中で恵みを願いましょう。

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‥次の説教は‥‥
キリストの聖体
(ルカ9:11b-17)
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ちょっとひとやすみ
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▼以前書いたかもしれないが、「これ以上はないだろう」という想定は、結局書き換えられるので意味がない半面、いちおう、そういう想定は持っていたほうが良いとこのごろ思う。ある小教区にいた時、言い方はよくないが「歌が下手な」巡回教会があった。日曜日のミサをささげながら、「気が散るから、もう歌わなくてもいいのに」とさえ思うような状況だった。
▼ところが、違う小教区に赴任してみると、それを上回る「歌の下手な」巡回教会が待っていた。「まさかここより下手な教会があるとは」と初めのうちは思ったものだが、想定も書き換えられてみると楽しいもので、「この次、もっと歌の下手な教会に巡り会うのはいつだろう」と、変な期待を持ったりする。
▼今この時点でも、「これ以上ひどい状態はないだろう」という現実と向き合いながら日々を過ごしている。なぜここまで先延ばしにして、結局それを片付けないで時間だけが過ぎたのだろうか。なぜこんなひどい状態からわたしはスタートしなければならないのか。本当に驚き、腹立たしさで大声を出したくなる。
▼しかし、「これ以上はないだろう」という想定のもとに現実と向き合えば、それはそれで楽しくなる。きっとこれ以上のひどい体験はしないに違いない。ここで積んだ経験はこの先何倍にもなって帰って来るだろう。ただし、多くの場合「これ以上はないだろう」という想定は書き換えられ、さらにひどい状況に置かれることになるのだが。
▼それでもいいじゃないか。今は「これ以上ひどい状況は考えられない」と思って作業ができている。それに、どれだけあがいても50歳の私が残り担うことのできる時間は25年である。これ以上のひどい状況がこの先待っていたとしても、25年もすればすべて思い出に変わるのだから、楽しんでいこう。

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今週の1枚
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第436回目。たまたま夕方にこの場面に遭遇した。シェアしたいと思った。

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聖霊降臨の主日(ヨハネ14:15-16,23b-26)御父と御子の愛は開かれた。あと必要なのは

2016-05-15 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
16/05/15(No.828)
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聖霊降臨の主日
(ヨハネ14:15-16,23b-26)
御父と御子の愛は開かれた。あと必要なのは
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聖霊降臨の主日を迎えました。天に昇られたイエスは、父なる神と御子イエスとの愛である聖霊を、弟子たちに注いでくださいました。聖霊の注ぎによって、天に昇られたイエスのわたしたちに対する愛を知ることができます。聖霊の恵みに、どのようにすれば感謝を表すことができるでしょうか。み言葉にしばらくひたりたいと思います。

復活節から年間の季節に移行するこの時期、一連の主の祭日が続きます。主の昇天・聖霊降臨・三位一体・キリストの聖体・イエスのみ心です。これら一連の祭日の名前と順番は、ぜひ覚えておきたいものです。

ついでですが、わたしが大人の信徒に求めることは、これから大人の信徒の仲間入りをする堅信組にも求めると理解してください。大人に要求することは、わたしは堅信組にも要求します。そういうわけで、ついこの前のけいこの時は、典礼暦で大切と思う10の祝祭日を覚えてもらいました。

先週散髪に行きました。なかなか床屋の看板が目に留まらなくて、はじめはずいぶん探しました。ようやくお店を探し当て、火曜日に散髪してきました。「そろそろ行こうカナ」「だいぶ伸びたし、いいかげん行こうカナ」「散髪に来るのを待ってますって言ってたお店はどこにあるのカナ」ここまで「カナ」を4回言ったカナ。まぁ、これくらいお店の名前を宣伝しておけば大丈夫でしょう。

福音朗読の学びに戻りたいと思います。聖霊降臨の場面は第一朗読、「使徒言行録」に詳しく描かれていました。「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」(使2・1-4)

ここで2つのことを取り上げたいと思います。1つは、「一同が一つになって集まっていると」(同2・1)という場面です。何気ない場面と思われるかもしれませんが、彼らはすでに心を一つにして、助け主である聖霊を待っていたということです。

イエスの復活の直後、恐れに囚われて家の中に閉じこもっていた弟子たちでしたが、復活したイエスが天に昇られた後は、心は一つにまとまっていたのです。そこへ炎のような舌の形で聖霊が現れ、一人一人の上にとどまりました。わたしたちが聖霊の恵みを願うためにも、心を一つにして祈り求める必要があることを教えてくれていると思います。

もう1つ取り上げたいのは、「一同は聖霊に満たされ」て「話しだした」ということです。聖霊がちょっと注がれたのではありません。聖霊に満たされたので、言葉となってその人から溢れ出ていったのです。

ここに、聖霊降臨が果たした2つの面が示されていると思います。1つは、御父と御子の愛である聖霊は、溢れて弟子たちに注がれていったということです。たとえば夫婦間の愛は夫婦の間にだけとどまるのですから、御父と御子の愛は、御父と御子の間にだけとどまるということも可能だったでしょう。けれども神はそのような閉じられた愛を望まず、愛である聖霊が弟子たちに、そしてわたしたちにも注がれるように窓を開いてくださったのです。

聖霊降臨のもう1つの面は、弟子たちに注がれたのちに彼らを満たし、あふれて人々に届いたということです。聖霊が弟子たちを満たして、そこでとどまって終わることも可能だったかもしれませんが、聖霊は弟子たちを満たすだけでは終わらず、溢れて人々に語りかけたのです。

この同じ聖霊降臨の体験は、わたしたちにも与えられるに違いありません。父と子の愛である聖霊は、復活したイエスに希望をおくすべての人に開かれているのです。聖霊は溢れて、イエスを信じるすべての人に注がれるのです。

もう1つも同じように実現するでしょう。わたしたちに聖霊が注がれたなら、わたしたちを満たして終わるのではなく、わたしたちから溢れて人々に向かっていくはずです。「“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(使2・4)とありますが、これは別に日本人が外国語をすらすら話すということだけ考えなくてもよいと思います。

「イエスを信じる人は永遠の命を受ける」この言葉だけでもイエスを知らない人々には何を言っているのか分からない言葉のはずです。これまでの生活で聞いたこともない言葉は、十分にほかの国の言葉ではないでしょうか。

あとは、わたしたちの応答だけが残っています。今週の福音朗読でイエスは「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」(ヨハネ14・15-16)と仰っています。

新しい言葉、つまりイエスを知らない人々が一度も聞いたことのない洗礼や聖体や罪の赦しがあるのですと語りましょう。わたしたちから溢れ出た言葉は周りの人々を変えるきっかけとなります。それはもはやわたしたちの言葉ではなく、聖霊の恵みが溢れてわたしたちの口をついて出てきた言葉だからです。

互いに愛しあうこと、聖霊の導きに信頼して、すべての人に福音を知らせること。これらはイエスの「掟」でもありますが、わたしたちに注がれた愛が言葉や態度になって溢れ出たそのものなのです。

御父と御子は、その愛を閉じた関係にとどめることを望まず、弟子たち、わたしたちに溢れさせてくださいました。わたしたちも聖霊を受けて、閉じた関係にとどめることなく、周りに溢れさせましょう。聖霊降臨はこうして、イエスを信じる者から始まって、世界中のすべての人に届いて行くのだと思います。

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‥次の説教は‥‥
三位一体の主日
(ヨハネ16:12-15)
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ちょっとひとやすみ
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▼傑作な話が毎週毎週発生するが、こまめにメモを取らないものだからどういう話だったか忘れることが多い。一度体験したことは脳から直接データを取り出せるような発明をしてくれないだろうか。眠らせて夢を発生させてデータに取り込むとか、夢物語のように聞こえるかもしれないが、そんなことが出来たら、忘れる前に保管できるのにと思う。
▼大神学院の生徒たちを率いてA神父さま一行が田平教会を訪ねて来て、その日の晩信徒会館に宿泊した。5月の連休でもあり、巡礼をしていて、前任者との取り決めで宿を貸してもらうことになっていたらしい。翌朝のミサをA神父さまも一緒にささげてくださり、大神学生たちも参加した。
▼わたしは大神学生を念頭に置いて、次のような話をした。「司祭に求められる資質の一つとして、どこででもどんな状況でも、ぐっすり眠れることは大切だと思います。」赴任した教会の主任司祭と折り合いが悪くなって一言も口を利かなくなったとしても、それでもぐっすり眠ることが出来なければ、この先続かない。
▼あるいは、赴任した先にこれまでの積年の問題が山積していて、思わず逃げ出したくなるような状況になっているかもしれない。それでもぐっすり眠れなければ、先は長いのである。だから、どんな状況であっても眠れる。これは大切な資質だと思うと話したのだった。
▼ところでこの日、小学生の侍者が3人来ていた。5人兄弟の上から3人が来ていたわけだが、長男と次男に挟まれて侍者をしていた三男が、何と第一朗読中から居眠りしていたのである。当然説教中も寝ていたわけだが、ミサが終わった時に共同司式をしてくれたA神父さまがその子を呼び止めた。
▼「やあキミキミ。ミサ中神父さんが何を話していたか分かるかい?どんな場所でも、どんな場面でもぐっすり眠ることが出来るのは司祭に求められる資質だと言っていたよね。キミはどうやら司祭に必要な資質が備わっているようだね。神学校に来なさい。」

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今週の1枚
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第435回目。車にETCを取り付けた。このカードは会費が必要だった。失敗か?

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主の昇天(ルカ24:46-53)昇天したイエスは今も近くに感じさせてくださる

2016-05-08 | Weblog
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16/05/08(No.827)
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主の昇天
(ルカ24:46-53)
昇天したイエスは今も近くに感じさせてくださる
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「イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。」(24・50-51)主の昇天の祭日を迎えました。弟子たちとイエスとの距離は離れたのでしょうか。より近くなったのでしょうか。

不思議な体験をしました。釣り竿と会話を交わしました。ライトジギングのロッドなのですが、わたしがそばを通るたびに「海行きてぇな」「海行きてぇな」って言うんですよ。しばらくは相手にしませんでしたが、あまりにうるさいので「行け」と言い放ちました。

これが効いたらしく、釣り竿はわたしの痛いところを突いてきました。「連れてってくれよ。3月までは毎週毎週毎週毎週、どこかに連れてってくれたじゃないか。」これには参りました。願いを叶えてあげたいのですが、目の前の仕事を横に置いては行けません。もうしばらく待ってくれと、今回のところは宥めました。

わたしの耳がおかしくなったのかもしれません。でも釣り竿が訴えかけている気がしてならないのです。それがわたしの心の中で声となった。そういうことだと思います。道具は決して話したりはしませんが、道具が伝えたいことは、道具の持ち主には分かるのではないでしょうか。

福音朗読に戻りましょう。イエスは、ご自分の弟子たちを祝福し、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられました。イエスが天に上げられた時、弟子たちはイエスが遠く離れて行ったと感じたのでしょうか。

ところでイエスはどのように思っておられたのでしょうか。イエスは弟子たちをこの上なく愛し、すべてを教え、ことごとく思い起こさせてくださる聖霊の約束もなさいました。ですからイエスが父のもとに昇ったとしても、遠く離れて行ったとは考えてなかったでしょう。これまでと変わらず、むしろこれまで以上に、イエスは弟子たちの間にとどまり、弟子たちの中に生きていると考えていたはずです。

問題は、イエスの思いが弟子たちに十分理解できていたかということです。もしイエスのご昇天の際、弟子たちがイエスと同じ理解に達していたら、あるいは聖霊降臨の恵みは必要なかったかもしれません。聖霊の約束は、弟子たちの理解がまだ完成途上であることを暗示しています。自分たちのもとを離れていくのではないか、自分たちは置き去りにされるのではないかと心配していたはずです。

しかし弟子たちは考えるきっかけをもらって立ち直りました。使徒言行録はその様子を次のように描いています。「話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、言った。『ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。』」(使1・9-11)

復活したイエスは姿が見えなくなりましたが、もはや天を見つめている必要はありません。イエスの存在は弟子たちに残された数々のしるしから読み取れるのです。イエスの声さえも聞き取れるのです。約束された聖霊を受けるまではエルサレムにとどまりなさい。聖霊を受けたら地の果てに至るまでわたしの証人となりなさい。

天に上げられたイエスの姿をぼんやり眺めるのではなく、その向こうにある思いに目を向ける。御父のもとで絶えず呼び掛ける声に動かされ、地の果てに至るまでイエスを証しする。弟子たちは、今は不安の中にいますが、間もなく聖霊に満たされてイエスの復活の証人となります。イエスの声が聞こえている人として、証の場に立つのです。

振り返ってわたしたちのことを考えてみましょう。天に昇られたイエスは、わたしたちにも近くいてくださるのでしょうか。わたしたちのうちにとどまって、導いておられるのでしょうか。例を挙げてみたいと思います。

中田神父は司祭になって24年、幸いに毎週説教を続けてきました。父の葬儀の時とイスラエル巡礼の時で合わせて二度、日曜日の説教をしなかったかもしれませんが、あとは欠かさず続けてきたつもりです。

24年も説教が続けられたのはなぜでしょうか。単に言い方を変えたり例えを入れ替えたりすれば、24年続けられるものでしょうか。わたしはそうは思いません。わたしを含めすべての司祭が、イエスの声が聞こえているので日曜日の説教を続けることができると思うのです。復活し、天に昇られたイエスが語りかける声がなければ、才能だけで続けられるものではないと思うのです。

皆さんの中には、ほとんど休むことなく日曜日のミサに来ておられる方もいるでしょう。何年、何十年とミサにあずかることができるのは、努力したからと言うより、ささげられているミサの中でその人がイエス・キリストを見たからではないでしょうか。司祭が唱える奉献文の言葉を通して、イエス・キリストの声を聞いたので、これまで参加し続けることができたのだと思うのです。

家庭での祈りを欠かさず続けている人もまだまだいらっしゃるでしょう。単なる習慣だけで、何年も何十年も祈りを続けることができるでしょうか。「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」(ルカ18・1)とのイエスの言葉が聞こえているから、ここまで祈り続けることができたのだと思うのです。

わたしたちは皆、何かの形でイエスの声を聞いて今の信仰を維持しています。遠くからかすかに響く声ではありません。天に昇られたイエスは、わたしたちのすぐそばで、わたしたちの中で、今も「(エルサレムから始めて、)あなたがたはこれらのことの証人となる」(24・47-48)と声を上げているのです。わたしたちはその声に動かされて生きているのです。

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‥次の説教は‥‥
聖霊降臨の主日
(ヨハネ14:15-16,23b-26)
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ちょっとひとやすみ
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▼先週の続き。そこで平戸地区で印刷所がないか、コピー機を納入している業者に尋ねたところ、とある印刷所を紹介された。名前を聞いてギョッとした。前任地で福見教会百周年記念のためにパンフレットを制作してもらった印刷所ではないか。
▼ギョッとしたのにはわけがある。何度かやり取りをして完成した福見教会百周年記念ミサのパンフレットだったが、校正をやり取りしているうちに仕事のいい加減さに頭に来て、「あなたたちには金も払いたくない。もう二度とお世話にならない」と啖呵を切って終わった業者だったのである。
▼どんな仕事内容だったかは割愛するが、それでも印刷屋か、素人でもこんなミスはしないぞと、こてんぱんに言った記憶がある。その印刷所の代表取締役が、あいさつを兼ねて訪ねて来たいという話だった。ここは覚悟を決めて、わたしも謝って新しく付き合いを始めようと考えた。
▼その印刷所の社長は思いのほか若かった。雰囲気はマグロの初セリで毎年最高値で落札することで有名な回転寿司社長のようだった。「社長はわたしのことを知らないでしょうが、わたしはあなたの会社を知っています。以前依頼した仕事の出来に腹を立てて、二度と取引しないと言いました。こんな形でお世話になるとは思っていませんでした。当時のことは謝るので、これからよろしくお願いします。」
▼社長は何を言われているのかさっぱりわからない様子だった。わたしは前もって準備していた福見教会百周年記念ミサパンフレットと、当時数回やり取りした校正のゲラ刷りを示して、「こういうミスは、とてもじゃないが受け入れられなかったので、腹を立てたのです。すみませんでした」と説明した。社長は初めて事実を知ったのか、申し訳なさそうに謝ってくれた。
▼ここからようやく仕事の依頼である。背表紙が役目を果たしていない様子を実際の台帳を見せて説明し、状態の良いものを参考にして、同じように製本し直してほしいとお願いした。期間と、費用はこちらの希望を出し、教会の財産なので、立派に仕上げてほしいとお願いした。
▼まぁ人間のすることだから、腹を立ててきついことを言うこともある。しかし言われた相手もなぜ言われたのかを理解して、これからの付き合いで挽回しようという誠意を見せてもらった。2年後は田平教会の献堂百周年が待ち構えている。その時にはぜひ、立派なパンフレットを立派な仕事ぶりで作成してほしい。


‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第434回目。転勤して佐世保市内のショップにバイクを注文。250ccは少し細身。

ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/

【文庫本の問い合わせについて】
文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
3冊セットの提供が可能になりました。ABC年セットで
2000円です。ご希望の方は住所と名前を添えて連絡ください。
† 神に感謝 †
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復活節第6主日(ヨハネ14:23-29)わたしが話したことをことごとく思い起こさせる

2016-05-01 | Weblog
当ブログをお読みくださり、ありがとうございます。

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/160501.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
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こうじ神父
「今週の説教」
16/05/01(No.826)
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復活節第6主日
(ヨハネ14:23-29)
わたしが話したことをことごとく思い起こさせる
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「事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。」(14・29)復活した主は聖霊の約束にわたしたちの目を向けさせようとしています。聖霊が働くその時に向けて、わたしたちも準備を急ぎましょう。

先週月曜日、ステキなご婦人が司祭館を訪ねてきました。午前10時ごろでしたが、司祭館のチャイムが鳴ったのです。月曜日だったので、「月曜日にチャイムを鳴らすとは無礼な」そう思いながら玄関に向かいました。そのご婦人はごミサをお願いに来ていました。

「ごミサならよろしい」と内心思っていたら、こう話しかけてきたのです。「神父さま。わたしは80歳になります。神父さまのお説教はステキです。」それを聞いてわたしは手の裏を返したように「まぁ何とステキな方でしょう」と思い直したのです。目の前のご婦人があと30歳若かったら一目ぼれしたのになぁ、と思いました。

話は変わりますが、次のコマーシャルをご存知でしょうか?「わたしのおじいさんがくれた初めてのキャンディー。それはヴェルタース・オリジナルで、わたしは4歳でした。その味は甘くてクリーミーで、こんな素晴らしいキャンディーをもらえるわたしはきっと特別な存在なのだと感じました。今ではわたしがおじいさん。孫にあげるのはもちろんヴェルタース・オリジナル。何故なら彼もまた、特別な存在だからです。」

もちろん飴の宣伝です。いかにもおいしそうだと感じさせます。みなさんは飴を食べるとき、性格が出ると言ったら信じるでしょうか。たとえば、飴を最初からガリガリ噛んで食べる人はいませんか?その人はきっとせっかちなのだと思います。さすがに最初からはガリガリいかなくても、最後のほうになるとガリガリ噛んでしまう人なら結構いるでしょう。この人たちはまぁふつうです。

そしてのんびりした人たちは、最後の最後まで、溶けてなくなるまでゆっくり味わうでしょう。飴を食べる癖をよくよく観察していると、3つのタイプそれぞれに性格が出ると思っています。

福音朗読に戻りましょう。イエスの約束は何だったでしょうか。次のようなものでした。「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」(14・26)今回このイエスの約束を、わたしたちにどのように当てはめることができるかなぁと考えてみたのです。

せっかちな人はこう考えるでしょう。「聖霊が教えてくれて、ことごとく思い起こさせてくださると言っておられた。それなのに今日教えてくれなかった、今日思い起こさせてくれなかった。なんだ、イエスさまは約束を果たしてくれないじゃないか。」すぐに結果を求め、すぐに答えを求める人がいます。すぐ与えられないと我慢ならない人は、聖霊の働きに導かれるのは難しいかもしれません。

次のような人もいるでしょう。最終的にどこかで期限を切る人たちです。あと少し残っていた飴を、かみ砕く人たちと言ったらよいでしょうか。この人たちはいつまでも待とうとはしません。やはりどこかに締め切りを置いて、いついつまでに結果が出なければ、そこで終了と決めてしまう人たちです。多くの人がこのタイプに当てはまると思います。

イエスは、聖霊が教えてくれて、ことごとく思い起こさせてくださると約束しましたが、それでも多くの人はそれがあまりにも長い時間かかるのは困ると考えてしまいます。ですから多くの人は、イエスの約束を信じてはいても、聖霊がいつ教えてくれて、いつことごとく悟らせてくださるのか知りたがっているのです。ですがイエスの約束なさることを「それはいつなのだ、どれくらい待つのか」わたしたちに注文を付けることなどできるでしょうか。

そして残る人たちは、イエスの約束がどれだけ時間がかかっても、それを待ち続ける人です。最後の最後まで飴をかみ砕かずに、飴が溶けきるまで待つことのできる人です。この人たちは、たとえイエスの約束、「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」この約束がどれだけ時間がかかっても、イエスの約束は必ず実現すると信じて待ち続けることのできる人です。

ここまで考えてみて、聖霊の働きに信頼を置いている人とは、どのタイプの人たちを言うのでしょうか。わたしは最後のタイプの人たちが、イエスの約束、聖霊の導きに十分にあずかれる人たちではないかなと思っています。

必ずしものんびりした人たちだけがこの最後のタイプなのではありません。どんな性格の人でも、その性格をうまく生かしながら、最後の最後まで飴が溶けるのを待つようにイエスの約束が実現するのを待つなら、聖霊の導きを十分味わうのではないでしょうか。

わたしたちのほうで結果を判断せず、あるいは期限を切ったりせずに、聖霊がすべてのことを教えてくださるまで、イエスの話したことをことごとく思い起こさせてくださるまで待つ人であるなら、必ず聖霊の恵みに触れるのだと思います。

わたしたちは、イエスが約束してくださる聖霊の働きに、どこまで信頼を置こうとしているのでしょうか。わたしたちのほうから期限を切ったりせずに、聖霊の働きに自分を委ねる信仰を育てていきましょう。

一つのゴールに導くのに、ある人は1年、ある人には3年をかけようとしておられるかもしれません。それでも、信頼を失わないでイエスの約束する聖霊の働きに心を開きましょう。わたしたちに約束された聖霊は、わたしたちの必要を満たして余りあるお方なのです。

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‥次の説教は‥‥
主の昇天
(ルカ24:46-53)
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ちょっとひとやすみ
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▼教会には役場の「戸籍」にあたる大切な台帳がある。いくつかに分かれていて、それぞれを手書きで連動させる。まず「洗礼台帳」。ここに洗礼を受けたすべての信徒が記録される。次に「堅信台帳」。長崎教区では中学生の頃に堅信を受けるが、それを記録する。
▼堅信を受けると、さかのぼって洗礼台帳にも「この人は堅信を受けました」という証拠を追記する。人によっては転出していき、転出先の教会で受けた堅信証明書が届き、それを洗礼台帳に追記する。
▼さらに多くの人は結婚する。すると婚姻台帳にまず婚姻の内容を記録し、さらにさかのぼって洗礼台帳にも「この人は結婚しました」と追記する。面倒なのだが、記録はとても大切なのである。場合によっては違う教会で結婚式をするから、婚姻証明書が届いた時点で追記する。
▼もしもこの人が死亡した場合、死亡台帳に死亡した旨を記録する。場合によっては違う土地に住んでいてそちらの教会で葬儀を済ませ、「死亡しましたよ」と死亡通知書が届くので記録する。
▼さらに手順がある。これら一連の台帳記録を済ませたのちに、堅信証明書と婚姻証明書、死亡通知書は最終的に教区本部に転送する。こんなめんどくさいことをすべての司祭がちゃんと果たしているのだろうかと思うこともある。まぁきっとまじめにやっているのだろう。
▼ここからが本題だ。それぞれの台帳も歴史を重ねてくると古びてくる。教会によっては製本された台帳を100年以上保管するわけだから、当然傷みも激しい。赴任した田平教会の台帳も、手を打たなければ本がばらばらになって大切な記録も散逸してしまう恐れすらあった。長くなるので来週に続く。

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今週の1枚
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第433回目。今回教会台帳の製本で世話になる業者。実は過去に利用したことが。

ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/

【文庫本の問い合わせについて】
文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
3冊セットの提供が可能になりました。ABC年セットで
2000円です。ご希望の方は住所と名前を添えて連絡ください。
† 神に感謝 †
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