こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

聖家族(マタイ2:13-15,19-23)聖家族のエジプト避難は深遠な神の計画です

2007-12-30 | Weblog
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‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週のお説教」
07/12/30(No.334)
‥‥‥†‥‥‥‥
聖家族
(マタイ2:13-15,19-23)
聖家族のエジプト避難は深遠な神の計画です
‥‥‥†‥‥‥‥

説教も時には大変な思いをして準備することがあります。今週の聖家族はなぜかどうにもイメージが涌かなくて、深夜の12時になっても1時になってもいっこうにまとまりませんでした。ようやく書き始めたのが朝の3時です。眠くて仕方ありません。

まずどうして今週の説教がそこまで書けなかったのかというと、もともとの原因は準備不足なのかも知れませんが、もう1つの原因はクリスマス前に観た映画「マリア」のせいだと思います。映画のせいにしてはいけないのですが、皆さんはあの映画の中でのエジプトの砂漠を聖家族が移動している様子をどのように受け止めたでしょうか。「聖家族がエジプトに避難している」それ以上特に考えなかったかも知れません。私もそうでした。

実際、映画はそこで終わっていたわけです。エジプトから戻り、聖家族がナザレに住み着き、幼子イエスが成長していく様子は、今回の映画には盛り込まれていませんでした。実はここに、今週の聖家族の説教がなかなかまとまらなかった落とし穴があったのかもしれません。

聖家族は、夢でお告げを受けてエジプトに避難しました。ヨセフは夢のお告げに忠実に行動しました。でもなぜエジプトに避難したのか、ほかの国ではなく、エジプトでなければならなかったのか、疑問を感じたわけです。どうしてエジプトに避難したのだろうと思い始めたらどうしてなのか分からなくなって、何時間も時間を無駄にして夜更かししてしまいました。

どうしてエジプトに逃げなければならなかったのでしょうか。エジプトでなく、アラビアの砂漠に逃げるとか、あるいはヨーロッパに逃げるとか、はたまたインドの方に逃げるとか、ほかのどの土地でもなくエジプトに避難しなさいと聖家族に命じたのはなぜなのでしょうか。

ところが思いがけないことで解決の糸が見つかりました。答えは今週の福音朗読箇所の中にあったのです。ぼんやり読んでいたためか、見抜くことができませんでした。おそらく、15年ものあいだ、ぼんやり読んでいただけだったのでしょう。15年も何をしていたのだろうと自分に腹が立ったくらいです。

答えはここに書かれていたのです。2章の15節と23節「(主が)預言者(たち)を通して言われていたことが実現するためであった」。結局はこの箇所が、今週の聖家族の朗読箇所を解くカギだったのだと思います。預言者を通して言われていたこと、いったいそれは何だったのでしょうか。

旧約聖書の中でエジプトに関連する最大の出来事はというと、これは疑いもなく「出エジプト」の出来事です。細かいことは分からなくても、モーセが民を率いてエジプトを脱出し、民をエジプト王ファラオの手から守り、約束の地に連れていったという壮大な物語です。

私たちにとっては単なる知識かも知れませんが、イスラエルの民にとっては民族の誇りに関わる偉大な出来事でした。イスラエル人であれば、大人から子どもまで語り継がれた先祖の記憶、決して忘れてはならない貴重な体験だったわけです。

そして、今週の福音朗読は、この体験を踏まえて考えるとき、今までとはまったく違った、新しい発見が得られるのです。さんざん時間を費やして、ようやくそのことに気付きました。大げさなと思われるかも知れませんが、15年かかってやっと本来分かっておくべきことにたどり着いたということになります。

今週の朗読箇所、命を狙うヘロデの魔の手から逃れてエジプトに避難していく場面は、旧約聖書のエジプト脱出の物語を踏まえてでなければ理解し得ないということです。つまり、エジプトに避難することが大事なのではなくて、避難したエジプトから戻ってくるところに意味があるのです。

戻ってくることを考えれば、どうしてもエジプトでなければならないということも分かってきます。イスラエルの民には、エジプト脱出までの長い長い物語がありました。ヤコブの11番目の息子ヨセフが商人によってエジプトに売り飛ばされ、エジプトでファラオの次の位まで上り詰め、家族をエジプトに呼びます。

その後エジプトで繁栄しますが、ヨセフの功績を知らないファラオが国王になり、イスラエルの民を虐げることになります。そこでモーセが選ばれ、民をエジプトから約束の地カナンに導いていくのです。この物語はほかのどの土地、ヨーロッパでもアラビアでもインドでもなくて、エジプトで起こった出来事でした。そして聖家族がエジプトに避難したというのは、イスラエルの民のこのエジプトでの出来事と重ね合わせるときに出来事の本当の意味が見えてくるのです。

つまり、聖家族がエジプトに避難し、のちにエジプトからユダヤに戻ってきて、ナザレに住み着くようになったというこの一連の出来事は、かつてのイスラエルの民に起こったエジプト脱出の再現だったのです。モーセが選ばれ、かつてのイスラエルの民をエジプトからカナンに導き上ったように、神が聖家族をエジプトからナザレに導いた、神が聖家族を救い出したということを強く印象づけるための出来事だったのです。

そう考えれば、果てしなく時間を費やしたことも報われる思いがします。エジプトに避難したこと、そこで止まってしまうとなぜエジプトでなければならなかったのかということで頭はいっぱいになります。ところがエジプトから連れ戻してナザレに住まわせることが計画の中に最初から織り込まれていて、その上でのエジプトへの避難であればその意味ははっきりしています。

それは旧約の出来事の再現、今週の朗読で言えば「(主が)預言者(たち)を通して言われていたことが実現するためであった」この一点に狙いは絞られてくるわけです。こんなことが今まで分からなかったのかという思いと、やはり聖書は奥が深く、説教は生涯にわたる探求の旅だなぁとあらためて実感しました。

ではもう一つ踏み込んで、聖家族がエジプトに避難し、エジプトから戻ってナザレに住み着くようになるのは、単に旧約聖書の預言が実現するためだったのでしょうか。旧約の預言を超える何かがそこにあるのではないでしょうか。ここからは、解説書にない私自身の考えですが、避難したエジプトから家族をナザレに連れ戻したのは、実は御子イエスの働きだったのではないでしょうか。

つまり、イエスこそ、すべての民をエジプトで象徴される苦難の状態から神の子の自由に生きる者へと導き上ってくださる方、まことの救い主だということです。旧約のエジプト脱出の時にはモーセがイスラエル民族を約束の地に連れ戻しましたが、新約においてはイエスが、すべての民族を罪の奴隷の状態から神の子の自由へと導き上るのです。

人間は何かに縛られています。恐怖に縛られていたり、欲望に縛られていたり、名誉や金銭に縛られていたりなどさまざまです。そしてこの縄目は、しばしば人間の力では解くことができないのです。

イエスが両親に伴われてエジプトからナザレに戻ってきました。すべての人を、すべてから解放するために戻ってきてくださいました。私たちもイエスに自分を委ね、縛られているものから解放されることにしましょう。ナザレに住み、これから成長して「天の国は近づいた」(マタイ4・14)と福音を告げるイエスを今は静かに待つことにいたしましょう。


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼今週の説教は悪夢のようだった。3時から書き始めて、5時に書き終えた。原稿を書いても、頭の中で考えが整理されているわけではない。1時間半後に、ちゃんと説教できるのか自信は全くない。こんな説教が今年の最終説教であったことに、この1年を象徴するものがあるような気がした。来年への反省としておきたい。
▼お笑い芸人が昨日29日のある番組で「今年は良い年にしたいと思います」とぼけたところを「あと3日しかねぇよ」と突っ込まれていました。自分自身のようでおかしくもあり、あわれにも感じました。今年1年をまとめると、どういう年ということになるのだろうか。見落としのたくさんあった1年と言うのが当たっているかも知れない。
▼あと20分で司祭館を飛び出さなければならないが、あと20分で配信を済ませなければならない。どうする?ケータイ用メルマガ(ミニまぐ)は、全体を2000字以内に縮めなければならず、その作業まで含めて残り20分は、どう見ても無茶ということになる。
▼「メルマガ届かないなぁ」そう思って寝床に付いた方々もいらっしゃるに違いない。寝床に付かなかった私に免じて、今週号遅れたことをゆるしてもらいたい。次の1月1日号までは、まだまだ息が抜けない。今年の抱負が何だったのか、思い出せないまま、大明寺のミサ、馬込のミサ、高島のミサ、葬儀ミサと続く日曜日のとある1日が始まる。

‥‥‥†‥‥‥
今週のセンテンス
‥‥‥†‥‥‥
第12回目。知らない単語に出会ったら、推測します(これが難しい・・・)。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
神の母聖マリア
(ルカ2:16-21)
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===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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主の降誕(日中)(ヨハネ1:1-5,9-14)イエスの誕生にのちの十字架が投影されています

2007-12-25 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
07/12/25(No.333)
‥‥‥†‥‥‥‥
主の降誕(日中)
(ヨハネ1:1-5,9-14)
イエスの誕生にのちの十字架が投影されています
‥‥‥†‥‥‥‥

主の降誕おめでとうございます。今年の降誕の喜びを、2つの視点でとらえたいと思います。1つは、旧約で預言された通り、幼子の誕生を迎えたということです。「それゆえ、わたしの主が御自ら あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み その名をインマヌエルと呼ぶ」(イザヤ7・14)。

イエスは、前もって予告された「救いのしるし」でした。誕生の瞬間に、だれもいなかったとは言え、イスラエルの民が待ち望んでいた主メシアでした。この視点から考えると、イエスは歴史のある瞬間にお生まれになったことになります。ルカも歴史のある瞬間の出来事であることを補足しています(2・2)。

この1つめの視点を今日の典礼、主の降誕(日中)の福音朗読に当てはめて考えると、「言(ことば)は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」(ヨハネ1・11)という部分になると思います。幼子イエスは、自分の民のところに来ましたが、礼拝に来る人は羊飼いと、あとでやって来る外国の学者しかいませんでした。およそ2000年前、ユダヤの国で起こった出来事です。歴史の1コマです。

けれども、イエスの誕生について、もう1つの視点も忘れてはいけません。それは、全人類のために神の独り子はこの世においでになったということです。歴史上のある瞬間に、ある場所で起こった出来事ですが、すべての人、すべての時代に大きな喜びをもたらす出来事だったのです。

それは誕生して宣教活動に入り、ことばとわざで神の救いを知らせ、すべての人のために十字架上でいのちをささげ、復活したときに明らかにされました。イエスの全生涯を振り返ったときに、あの誕生の瞬間が、単に瞬間だったのではなく、全人類に及ぶ神の救いの計画の始まりでもあったことが見えてきます。

ここでも、2つめの視点を今日の福音朗読に当てはめてみましょう。「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」(1・9)という箇所が当てはまります。「すべての人を照らすまことの光」は、当時のユダヤの民だけでなく、全人類にもおよぶ光だからです。「すべての人を照らす」その本来の意味からすると、範囲や、時代を限定するはずがありません。

ここで思い切って、2つの視点を2つの線に置き換えてみましょう。歴史の中のある瞬間を表すのに縦の線を使うことにします。全人類に広がる救いの計画の始まりを横の線で表すことにします。すると、イエスの誕生は、縦の線と、横の線が重なった場所で起こったということです。縦の線と、横の線、何かを思い付かないでしょうか。私は、イエスの最後の場面、十字架上の出来事を思い出します。

そうです。イエスの誕生は2つの視点の重なる場所で起こり、それは全生涯のクライマックスとも言える十字架上の出来事を予感させる出来事でもあったのです。私たちは歴史のある瞬間に起こり、しかもすべての時代と人に関わる大切な場面を世界中で祝っています。


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼クリスマス劇がどうなったか、この配信の時点(12/24、正午)では何とも言えない。けれどもその結末は、ビデオにしっかり収めることにしている。この辞典で確実に言えることは、彼らは今年の聖劇を通して成長し、イエス・キリストを決して他人とは思わなくなったということだ。
▼3年このかた、クリスマスミサの前に短い聖劇をおこなっている。お年寄りに喜ばれているのは当然だが(お年寄りは孫を見ているだけで嬉しいものだ)、クリスマスを自分たちらしく祝うことでクリスマスの意義が深まることを全信徒が知り、小教区全体が成長していくのだと思う。何かをやってみなければ、何も起こるはずがない。
▼本音を言えば、感動する劇にまで完成させたいもどかしさはある。占星術の学者を襲う兄弟の盗賊が登場するが、この兄弟が忍び足で学者の一行に近づく細かさが足りない。のこのこ現れて、「命が欲しかったら金を出せ」と言っている。のこのこ現れた盗賊に誰がビビったりするだろうか。
▼細かさを求めたいけれども、年に一度寸劇をする子どもたちにそれは無茶な要求かも知れない。よくやったなぁと褒めて、クリスマスプレゼントをあげることにしよう。ちなみに、プレゼントの中身は、聖家族のイラストがあしらわれたコップと、お皿です。「いいよ」。

‥‥‥†‥‥‥
今週のセンテンス
‥‥‥†‥‥‥

お休みします

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
聖家族
(マタイ2:13-15,19-23)
‥‥‥†‥‥‥‥
===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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主の降誕(夜半)(ルカ2:1-14)今こそ救い主を迎えに出なさい

2007-12-24 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
07/12/24(No.332)
‥‥‥†‥‥‥‥
主の降誕(夜半)
(ルカ2:1-14)
今こそ救い主を迎えに出なさい
‥‥‥†‥‥‥‥

主の降誕おめでとうございます。今年の降誕の喜びを、1つの姿に示してみたいと思います。それは、10人のおとめのたとえです。たとえをかいつまんで紹介すると、花婿を迎える10人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行きます。 そのうちの5人は愚かで、5人は賢いおとめでした。

愚かなおとめたちは、ともし火は持っていましたが、油の用意をしていませんでした。賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていました。真夜中に「花婿だ。迎えに出なさい」と叫ぶ声がすると、用意のできている賢い5人のおとめは、花婿と一緒に婚宴の席に入っていったというものです。

私は、この賢い5人のおとめを2通りに当てはめて考えてみました。1つは、救い主の母となったマリアです。もう1つは、私たちです。マリアは、「花婿だ。迎えに出なさい」と叫ぶ声を聞いた賢いおとめのように、ともし火に油を用意して、救い主をお迎えする万全の準備をととのえてこの日に臨みました。

マリアは、お腹に宿した子が、男の子であり、聖霊によって身ごもっていること以外は、何も知らされてなかったのですが、それでも神に完全に信頼を寄せてその時を迎えようとしていました。お産のその時、救い主を待ち望む人々はそばにいませんでしたが、マリアとヨセフだけは、賢いおとめのように、準備を怠らずにいたのです。

実は私たちも、賢いおとめに加えてもらう人々だと思います。なぜなら、待降節を通して、救い主をお迎えする準備を着実に進めてきたからです。それはクリスマスの飾り付けであったり、クリスマス前のゆるしの秘跡であったり、またクリスマスのための聖歌の練習だったり、聖劇の練習などを通してです。私たちは救い主を迎えるために、目に見えない内面の準備と目に見える外的な準備とで、器であるともし火と、火をともす油の両方を準備したのです。

ちなみに、クリスマスはせかいじゅうがこぞって祝う行事と言えます。ところが、すべての人が賢いおとめのような準備をしていたかと言うとそうではありません。外的な飾り付けは盛大に施しても、救い主を迎えようという心の準備を持っていない人があまりにも多いのです。

ともし火と、油を同時に用意している者は、救い主を出迎えるために救い主誕生の場に集います。ですが、本当のクリスマスの意義を知らない人々、ともし火があってもともし火に本当の意味を与える油を用意していない人々は、クリスマスを喜び合うために、いったいどこに集まるのでしょうか。救い主の誕生の場に集まるのでなければ、その人々は意味もなく浮かれているだけに過ぎないのです。

私たちは、賢い5人のおとめたちです。クリスマスが喜びの日であり、その喜びの源はすべての人のために救い主が生まれたことにあると知っています。どうぞこの喜びの知らせをたずさえて、生活の中に派遣されていきましょう。ともし火は、暗闇の中でこそ輝きます。まことの光、救い主が来てくださったことを、一人ひとりがともし火となって、告げ知らせることにしましょう。ともし火の油がなくならないように、この聖なるミサの中で恵みに満たされることにしましょう。


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
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▼クリスマスおめでとうございます。幼子を育てたことのない私は、これから成長しているイエスさまを見つめるマリアとヨセフのまなざしを知ることはできませんが、毎日が驚きの連続なのかなと思います。あくびをしても、くしゃみをしても、かわいくてしかたない、楽しくてしかたないといったところでしょうか。
▼今年はクリスマスの聖劇に映画「マリア」から感じたことを取り入れました。掲示板http://8214.teacup.com/koujimaga/bbsに、劇の台本を掲載したので、ご覧下さい。今回の聖劇のポイントは、キャスティングと、「セリフを間違っても、アドリブを利かせて乗り切る」という点です。
▼聖劇の台本を練るとき、すでに「あの子がこの役を選ぶであろう」そういう予想を立てて書き上げました。当然、「どの役をしたいか、手を挙げなさい」と選ばせておきながら、「この役を選んでくれ。頼む」といった気持ちでそれぞれの役選びを見守っていました。予想通りのキャスティングになり、第1段階はクリアです。
▼次の難問は、「予想通りに選んだA君が、予想を裏切る演技ができるか否か」ということです。A君は博士のラクダを道案内する使用人1で、普段からみんなにからかわれるおっとりした性格の子です。セリフは博士の第一声のすぐあとにやってきます。博士に、「もうずいぶんラクダを歩かせました。ラクダをやすませるために、しばらくおりてください」と促す大切な役割ですが、最後の最後まで、うまく演技をこなせませんでした。
▼簡単に言うと、「ラクダを休ませる」のが仕事ですが、A君はセリフを暗記することで精一杯で、仮にセリフを思い出せなくても、「ラクダを休ませなければならない」という使命が理解できていないのでした。案の定、セリフが出てこなくて、苦し紛れにこう言ったのです。「博士、もうずいぶんラクダを歩かせました。ラクダを歩かせるために、しばらくおりてください」。
▼そこへほかの子どもたちのつっこみが入ります。「ラクダをまた歩かせたらダメやっか!なんでまた歩かせるとや」。その通りです。ラクダを休ませなければならないのに、彼は自分に与えられた重大な使命が理解できていないのでした。A君、キミはラクダを休ませたくないのかなぁ。

‥‥‥†‥‥‥
今週のセンテンス
‥‥‥†‥‥‥

お休みします

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‥次の説教は‥‥
主の降誕(日中)
(ヨハネ1:1-5,9-14)
‥‥‥†‥‥‥‥
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待降節第4主日(マタイ1:18-24)神が共にいてくださるならそれで十分です

2007-12-23 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
07/12/23(No.331)
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待降節第4主日
(マタイ1:18-24)
神が共にいてくださるならそれで十分です
‥‥‥†‥‥‥‥

年末年始になると、頭を使う仕事が特別増えます。今日23日の「待降節第4主日」、明日24日夜の「主の降誕(夜半)」、明後日は「主の降誕(早朝)」、来週30日が「聖家族」、明けて1月1日が神の母聖マリアの祭日と、10日間で5つの説教を準備してミサの中で話さなければなりません。追いかけられるように祝日がやってくるし、追いつかれないようにしなければならない。目の前のことに集中しなければ、とても終われそうにありません。

こんな時、誰か助けてくれる人がいればいいなぁ、なんて思いますが、私が話す内容を人が書くわけにはいきません。誰かが作文したものをまるで自分が書いたかのように読み上げても、ただの挨拶に聞こえて、きっとつまらないと思います。それでもまったく助けがないかというと、そうでもなくて、私にとっては力をいただくようなことをあれこれ与えてもらいます。いくつか、紹介したいと思います。

1つは、中田神父と出会ったことのある人が、クリスマスなどに洗礼を受けることになるとか、そういう便りは大いに力になります。今年のクリスマス、私たちの小教区は大人も子どもも洗礼のチャンスは巡ってきませんでしたが、私が出会った人の中に、12月2日に洗礼を受けた人と、明日のクリスマスイブのミサで洗礼を受ける人がいます。

私は洗礼を受ける彼らのそばにいて見守ることはできませんが、心はそばにいることができると思います。同じように、出会ったその人々も、私のことを洗礼のその日に思い出してくれるのではないかなと思います。こうして、遠くにいる人であっても、年末年始の5つの説教を書く力を与えてくれる人々がいます。ありがたいことです。

次に、司祭館に差し入れをくださる方もいます。差し入れはいつもありがたいものですが、忙しくなっているときにいただく差し入れは、もう少し頑張るぞーという気になるものです。差し入れをくださる人も気にかけていなければ差し入れしようとか思い浮かばないと思います。心にかけて下さっていることの目に見えるしるしです。感謝します。

まだ出会ったことのない人から、力をいただくこともあります。土曜日に、書留が届きまして、中を開けたら心付けが入っていました。それと一緒に、お手紙も入っていました。この人は私が毎週発行している説教のメールマガジンを読んでくださっている人なのですが、「今年1年、何度も力をいただき、イエスさまへの小道(の小道)を歩ませていただきました」と書かれていました。「頑張れ、頑張れ」という言葉よりも、もっと力を与えてくれる言葉だと思います。

こうしてみると、年末年始の「あー、説教ずっと準備し続けなきゃー。ずっと書き続けなきゃー」というため息を乗り越える力は、直接誰かが説教を書いてくれるというような形ではなくて、いつでもそうですが、誰かが私のことを覚えていてくれる、心に留めて応援してくれているということだと思います。これは、小さなことでは決してなくて、大きな力なのです。

今日の福音朗読は、イエスの誕生を間近にして、ヨセフが身ごもったマリアを妻として受け入れる場面が朗読されました。ヨセフにしてみれば、いったんはひそかに縁を切ろうとまで思い詰めたことをもう一度受け入れるのは並大抵のことではなかったでしょう。マリアが人にどう思われるだろうか、産まれてくる子ども(この時点では聖霊によって宿った子どもだと理解していませんでした)が人にどう思われるだろうか、自分自身も人に何を言われるか分からない。そんなことを思えば、簡単にそれでも妻として迎えるよとは言えなかったと思います。

それを、勇気を振り絞ってすべてを神にお任せすることにしたのは、夢で主の天使が語りかけた言葉が信頼できると思ったからでしょう。ヨセフの夢に現れた天使は、「マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」と言っています。この出来事に聖霊が働いていて、マリアとヨセフの2人に、神が共にいてくださることを理解したわけです。

朗読の後半に説明が加えられています。「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」(1・22-23)。神が共にいてくださることを、ヨセフは何よりも自分の勇気の源にしたのです。

おそらく、ヨセフにはほかに応援してくれる人はいなかったかも知れません。ヘロデの手を逃れてエジプトに移り、戻ってからもガリラヤのナザレに引きこもりました。見ず知らずの人ばかりの中に住んだのかも知れません。それでも、ヨセフはマリアとイエスを命がけで守り、養いました。神が共にいてくださるという確信は、すべての恐れを乗り越えるのに十分だったのです。

私たちも、間近にイエスの誕生を迎えようとしています。主の天使は、幼子の誕生に当たって、「この子は自分の民を罪から救うからである」と知らせました。私たちは身近な場所で事件や事故、災難を見聞きしたり、自分の生活を脅かすような不安を抱えたりしますが、誰もそばにいてくれないと思えるときでも、クリスマスの出来事はそれらの不安をも乗り越えさせてくれます。生まれてくる幼子が、自分の民を確かに救ってくれるからです。神が我々と共にいてくださるという約束を、私たちは聞いたからです。

ヨセフを思い出しましょう。誰も理解してくれる人がいないだろうと思われる中で、彼はマリアと生まれてくる子を受け入れました。「神は我々と共におられる」ということだけが頼りでした。私たちも、どんなにお先真っ暗に感じても、「神は我々と共におられる」この言葉に固く留まることにしましょう。私たちが幼子に寄せる信頼を、おいでになる救い主は決して裏切ることはありません。


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ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼クリスマスがやってくる。おそらく今年、ケーキは一人でローソクを立て、一人で消して一人で食べる。だから、クリスマスはこうじ神父にとってはミサの終わり、信徒と談笑して見送ったところで終わったようなものだ。あとのケーキとシャンパンは、おまけのようなものかも知れない。
▼まだ取り付けていないが、司祭館の一部屋をカギかけて閉じた空間にできるように計画している。これまでその必要を感じなかったが、どうやら必要性が出て来た。それもだれかが共同で暮らしていれば問題ではなかった部分だ。一人で暮らすと、何もかも一人の責任になる。一人ってときどきおもしろくない。
▼同じ信仰を持っている人同士だと、国籍や年齢が違っていても信仰が同じことのほうが上回るらしい。「へー、あなたもカトリックですか」この言葉でまったく知らない人とでも親密になれるから不思議だ。だから、遠くにいるあの人も、洗礼を受けて同じ信仰を持ち、親しみを感じることができる。そういう意味では、誰も一人ではないのかも知れない。
▼年末年始はガソリンスタンド、銀行、公共機関、いろんな物が動かない可能性がある。早め早めに準備をして、ひとときの自由を満喫したい。できれば、「書き初め」ならぬ「釣り初め」をしたいものだ。年賀状書いてないけど、「でもそんなのかんけーねー」か?

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今週のセンテンス
‥‥‥†‥‥‥
第11回目。「辞書」「辞典」には限界があります。

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‥次の説教は‥‥
主の降誕(夜半)
(ルカ2:1-14)
‥‥‥†‥‥‥‥
===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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待降節第3主日(マタイ11:2-11)判断が揺らいだときこそ、イエスに合わせましょう

2007-12-16 | Weblog
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‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週のお説教」
07/12/16(No.330)
‥‥‥†‥‥‥‥
待降節第3主日
(マタイ11:2-11)
判断が揺らいだときこそ、イエスに合わせましょう
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今年、中田神父に1つ心残りがあるとすれば、今年も福岡教区の新しい司教さまが決まらなかったということです。松永司教さまが亡くなられて1年半になります。世の中で言えば、会社の社長が亡くなって1年半経ったということです。会社を力強く引っ張っていくはずの社長が1年半ものあいだ空白になれば、その会社はどうなっていくでしょうか。

そういうことを考えると、隣の教区の話ではあっても、日本の教会が足並みそろえて歩み続けるためにも、人ごとでは済まされないような気がするのです。ことの重大さで考えれば、188殉教者の列福式よりも先に、福岡教区に新しい司教さまを選んで欲しいなぁと、個人的には考えます。

皆さんにも経験があるかも知れませんが、どれだけある人やある物にお世話になっていても、いったんその恩恵から遠ざかってしまうと、大切さが分からなくなるのです。中田神父はもう3年以上一般紙を読んでいませんが、それまで毎日欠かさず読み続けていた新聞でも、いったん読まなくなってしまうと「読まなくてもいいかなぁ」というような気になるものです。

福岡教区の教区長を新聞と比べるつもりはありませんが、福岡教区の司祭、修道者、信徒が教区長を早く与えてほしいという気持ちにかげりが生じたりはしないかと心配になります。もちろんそんなことは決してないと信じたいですが、長く教区長が与えられないままだと、やはり余計なことが頭に浮かんでしまうのです。福岡教区のことをバチカンはどう考えているのだろうとか、余計なことだとは承知していても、つい考えてしまいます。

ただ、これだけ長く待たされれば、「やはり何か神さまの考えが働いているのではないか」そういう思いも一方ではわいてきます。神さまの目に福岡教区はどう映っているのだろうか。いやいや神さまは今慎重にお考えになっているに違いない。思いは揺れますが、どこかで私の心は、「きっと、何か考えがあってのことだろう」という結論に落ち着きます。神さまが、ご自分の愛しておられる福岡教区を放っておくはずがありません。

自分で考えていることと、実際に目の前で起こっていることが違っていたら、私たちはどう理解すればよいのでしょうか。そんな場合、信仰に関わる問題であれば、1つの大原則があります。それは、イエスが指し示すほうに自分を合わせる、ということです。このことを頭に置いて、今週の福音朗読を考えてみましょう。

まず、先週の福音書を少し思い出しましょう。「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」(3・11-12)。洗礼者ヨハネは、「力強い救い主」を人々に紹介しました。

ところが、ヨハネの弟子たちが見たイエスは、「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」(11・4-6)と、洗礼者ヨハネが考えていた「強い人」の姿と少し違っていたのです。

そこで、今週考えたいいちばんのテーマですが、伝わってくるイエスの姿が、考えていた救い主の姿とは違っている。思っていたことと違う話が聞こえてきている。こんな時、どうすればいいのでしょうか。

答えははっきりしています。イエスに自分を合わせる。これが正しい態度です。洗礼者ヨハネは救い主を「力強い人」と思っていたのに、聞こえてくるのは「柔和な人、あわれみ深い人」だった。ヨハネはすぐに、考えをイエスに合わせたのです。

信仰の目で物事を捉えるために、同じことを、生活の中でも実行しましょう。心の中で、「出来事がこうなってほしい」と思っていた。けれども、結果は違っていた。神に、「願っていた結果と違います」と言うのではなくて、「神よ、あなたが望む結果に合わせます」と、落ち着いて考えることです。

生活の中では、考えていた結果と違うことも頻繁に起こります。会社の中で、家族の中で、教会の中でも予想と違う結果を体験することがあります。説教の初めに話したように、福岡教区にどうして早く司教さまが与えられないだろうかと私はこのところずっと感じております。

こんな時、神が私たちを訓練していると考えましょう。あなたが期待していること、予想している結果よりも、神が示す結果の方が正しく、豊かなのです。予想と違う結果を受け入れるのはある場合大変つらいことですが、それは、もっと深く、もっと強く、神を信じるためなのです。今回の福岡教区に起こっていることは、もっと深く、もっと強く、司教さまを待ち望む時間になるのだと思います。

神は今週、私たちに次のことを求めます。あなたの心の中に不安が起こったら、イエスが言葉と行いで示すありのままの姿を、もっと深く信じなさい。もっと強く信じて、信仰を育てなさいということです。

洗礼者ヨハネも、不安になりました。彼は、自分の考えと実際のイエスの姿が違ったとき、イエスに信頼し、自分自身を合わせました。福岡教区にとっても、新しい教区長に全幅の信頼を置くための忍耐の時間です。福岡教区のことで考えが止まってはいけません。幼子としておいでになるイエスを待っている私たちも、神が示してくださる答えに機敏に合わせていくことができるように、信仰の恵みを願いましょう。


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
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▼どうしてこんなことが起こるのだろうか。金曜日、実家の父に頼まれて佐世保市役所近くの整形外科に手術入院している叔父を見舞いに行った。父が五島から船でやって来て、遅れてこうじ神父が大波止ターミナルに到着。合流して車でバイパスと高速を飛ばして叔父を見舞いに行った。
▼叔父は重い腰痛の手術だったそうだ。それでも佐世保市内でも有名な病院らしく、術後の経過は良好のようだった。聖体拝領もさせて、午後2時に佐世保市内からでた。この日の夜、スポーツジムで、散弾銃を使った惨劇が起こるとは、誰が考えるだろうか。
▼その日のニュースでは、犯人が逃走したことまでしか報道されなかった。死者が2人、けが人が6人出た。そのニュースに胸を痛めていたところに、土曜日の朝にはカトリック教会の敷地内で散弾銃を使って容疑者が自殺するという最悪の結果になってしまった。どうして犯行にいたった経緯を語ることなく命を絶ってしまったのか。悔しい。
▼容疑者はカトリック信者だった。カトリック信者は命の尊さをしっかり教えられているはずなのに、いったいどうなってしまったのだろうか。カトリック信者であるかどうかに関わりなく、なぜ他人と自分の命に手をかけたのか、理由を知りたかった。

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今週のセンテンス
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第10回目。言語は置かれている環境に大きく影響を受ける。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
待降節第4主日
(マタイ1:18-24)
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===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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待降節第2主日(マタイ3:1-12)私は神を待ちます。救いは、神から来るからです

2007-12-09 | Weblog
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(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/71209.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
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こうじ神父
「今週のお説教」
07/12/09(No.329)
‥‥‥†‥‥‥‥
待降節第2主日
(マタイ3:1-12)
私は神を待ちます。救いは、神から来るからです
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今日は映画の話から入りたいと思います。長崎駅そばに「アミュプラザ」という商業施設があります。その4階に、映画館が入っています。ここで、「マリア」という映画が今上映されているのですが、この映画、クリスマス前に観ることをお勧めしたいと思います。

映画の上映時間は1回目が10時45分から、2回目が16時からとなっています。内容は、洗礼者ヨハネの誕生とイエス・キリストの誕生、羊飼いが拝みに来て、占星術の学者たちが拝みに来て、ヘロデ王がイエスをこの世から消すためにベツレヘムにいる2歳以下の男の子を殺害するため兵を送り込む、その中で聖家族がエジプトの砂漠に逃れていく場面までです。ちょうど、このクリスマスの季節にふさわしいと思います。

映画のできばえはというと、私は良くできていたと思っています。たくさんの収穫がありました。一つは、イエスがお生まれになった場所は、ちょうど今年工夫して作り上げた馬小屋のような場所だったということです。ですから、今年の馬小屋の作り方は、今後の参考になると思っています。映画を観て、イエスの誕生の場面を焼き付けてきてほしいと思います。

また、マリアが大天使ガブリエルのお告げを受けて深く思い巡らす様子とか、ヨセフがマリアを信じてあげた勇敢な姿とか、学者たちが長い旅をいとわず本当に貧しい中に生まれた救い主を拝む姿とか、聖家族がエジプトの砂漠に逃れていく中で、神への信頼を決して失わない姿とか、深く考えさせるなぁと思ったのです。

ぜひ、映画館に行って映画を鑑賞してください。百聞は一見にしかず、私があれこれ話すよりも、実際に観て感じてもらったほうがはるかに良いと思います。今日私がこの映画をお勧めするまでに、12月8日無原罪の聖マリアの祭日が巡ってきたのも幸いなことでした。また、今週の福音朗読は洗礼者ヨハネが中心にいます。うまく教会の典礼の季節とかみ合っていると思います。待降節をよりよく過ごす一つの方法として、可能な限り映画鑑賞に出かけてください。

さて私たちは待降節、イエスを待つ季節にいます。あらためて、「救い主を待つ」のはなぜか、この機会に考えてみましょう。それは、イエスがおいでになって、救ってくださるからです。人間の救いは、人間の努力で成し遂げられるのではなくて、救い主を待ち、救い主に身を委ねるから成し遂げられるのです。人間の努力で救いを勝ち取れるのなら、イエスを待つ必要がどこにあるでしょうか。

映画「マリア」の中でも、マリアは救い主がおいでになるのを心の底から待ち望む1人でした。そして、思いがけず自分がそのために選ばれたことで、人間の思いではなく、神の思いに自分を委ねる勇気が求められたのです。どうして私が、それに私は男の人を知らないのにと、考えれば考えるほど分からなくなりそうですが、マリアは神の思いにすべてを委ねることにしたのでした。

ここに、神が計画された不思議が横たわっています。人が正しいと認められるのは、自分の努力ではなくて、神のあわれみによるのです。それなのに私たちは、「わたしはこんなに一生懸命働いて、いやなことも耐えて、ゆるせない人までゆるしているのに、どうして神は報いてくださらないのだろうか」と考えてしまいます。理不尽な仕打ち、不当な扱い。すべて良かれと思って耐えてきたのに、どうして人は私を理解してくれないのですかと。

実はすべての人は、徹底的に砕かれる必要があるのです。一人の例外もなく、「徹底的に」です。朗読福音に登場してくるファリサイ派の人々も、サドカイ派の人々も、正しいと認められることはすべて行い、誰にも指をさされないほどの厳しい生活をした上で、洗礼も受ければ皆の前で賞賛を受けると思っていたのかも知れません。けれども洗礼者ヨハネは、「あなたの努力で救われようとどこまで頑張ってもダメです。神の前に砕かれて、身を委ねなさい」としか言わないのです。

正しい生活のほうがいいに決まっています。どんな仕打ちをも耐え、殉教者と変わらない苦難を忍ぶ人を、神が見過ごすはずはないのです。けれども、「最後にわたしが救われるのは、自分を捨て、神に身を委ねるからだ」そのことが分からなければ、あるいは分かるまで徹底的に砕かれなければ、人が救い主を待つその深い意味を悟ることはできないのです。

イエスに身を委ねるために、私たちは救い主の誕生を待っています。おいでくださる方が救ってくださるから、御子を待つのです。それなのにまだ自分の努力や忍耐が御子イエスの到来よりも優れて意味があると考えているなら、この季節を徹底的に砕かれる季節として過ごしていきましょう。


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ちょっとひとやすみ
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▼前もって知らせてなかったかも知れないが、東京にカトリック新聞社諮問委員会出席のために上京した。かなり緩い時間で日程を組み、東京見物、横浜中華街と山下公園見学まで叶えることができた。
▼もともと、ギリギリ1ヶ月前に諮問委員会出席の知らせを受け、何とか特割(早割?)のチケットを入手したわけで、安いチケットを取ろうとすれば、おのずと都合の悪い時間しか空いていないということになる。出発には早すぎる時間だったり、帰るにはずいぶん間延びした時間だったり。
▼東京では、1度行って見たいと思っていた店に横浜在住の人から案内してもらった。「エポペ」である。その日に決めてふらっと行ったわけだが、教会関係者とおぼしき人が入れ替わり立ち替わり入ってきて、この新宿歌舞伎町の真ん中で信仰について語り合うことができた。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイ18・20)。
▼東京での収穫は、「密度の高い経験ができる」ということだった。東京駅構内で、人がそれぞれの方向に縦横無尽に動き回っている。誰もぶつからずに、誰にも声をかけずに何万何千という人が行き交い、それでも出会う人とは手を振って出会ったことを喜び合う。とても不思議な大都会だった。
▼考えを改めさせられたことがあった。東京の人は地方の人よりも余計に歩いていると思った。電車の乗り継ぎ、動く歩道の上で、エスカレーターでも、どこでも早足で人が歩いていた。きっと東京の人は、違う意味で長生きできる境遇にいるのかも知れない。

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今週のセンテンス
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第9回目。外国語を習得するレベルに応じて、さまざまな冒険ができる。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
待降節第3主日
(マタイ3:13-17)
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待降節第1主日(マタイ24:37-44)主の到来は決定的な喜びをもたらします

2007-12-02 | Weblog
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(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
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(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
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こうじ神父
「今週のお説教」
07/12/02(No.328)
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待降節第一主日
(マタイ24:37-44)
主の到来は決定的な喜びをもたらします
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待降節を迎えました。主の到来を待ち望む季節です。幼子イエスとしてやって来るのを待つのと、キリストの再臨を待つ、この両方の意味合いで待降節を過ごしましょう。はじめに、朗読された福音を読み返してみましょう。

今日の朗読福音は、「人の子が来る」で囲い込まれている前半と、「目を覚ましていなさい」「用意していなさい」で囲い込まれている後半部分とに分けることができます。前半は、主がおいでになるときには必ず善悪の裁きがおこなわれるという内容です。ですから、「キリストの再臨」に向けて私たちの心を備えさせます。

日々の暮らしの中で、いつかは善悪の裁きがはっきりくだることを私たちは覚悟しておかなければなりません。一人残らず、私たちは神の裁きにかけられるのです。怠惰な生活や、むなしい事柄に時間を費やしてはいけません。

次に、「目を覚ましていなさい」「用意していなさい」と促す後半は、間近に迫っている到来に私たちの心を向けます。「いつの日、自分の主が帰ってこられるのか、あなたがたには分からない」とありますが、準備を急ぐようにということのたとえです。そうであれば、後半の用意は、幼子イエスの到来を準備するということです。

両方をまとめると、人の子の到来の時には、2つのことが起こるということになります。1つは、人の子の到来で「想像以上のことが」起こるということです。朗読の前半、ノアの洪水がこれにあてはまります。

もう1つは、「思いがけないときに」やって来るということです。後半の部分ではっきり示されています。「あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである」(24・44)。この両方をまとめると、人の子がおいでになるときには、「思いがけないときに」「想像以上のことが」起こるということになります。そこでは、何かしらの準備が必要なのではないでしょうか。

思いがけないことというものはあるものです。最近のことですが、郵貯銀行の通帳で、把握していない通帳がひょっこり出て来ました。会計係に確認してもらって、結果を聞いて私はにっこりしました。思いがけないことってあるものです。

生きている中での思いがけないことと言えば、成人式の時を思い出します。私は成人式を、福岡とふるさとの五島の両方で受けました。そして考えられないような体験を両方の成人式で味わいました。

福岡での成人式の時、案内状には福岡サンパレスの会場に午後1時集合となっていました。福岡の大神学生だった私は、同級生みんなでちゃんこ料理を食べ、生ビールをたくさん飲んで、フラフラになって会場に滑り込みました。

酔っていたので式典のことはほとんど覚えていませんが、森田公一、キャンディーズがゲストとして呼ばれていたのは覚えています。式典が進み、新成人の誓いを表明するというときに、名前を聞いて驚きました。司会者の人が、「それでは、新成人を代表しまして、なかだこうじさんに新成人の誓いを披露してもらいます」と言っているのです。

私は腰を抜かしました。そんなの聞いてないよー、という気持ちでした。それでも何か言わなければと思って、ぐるぐる回る頭で必死に一言ひねり出した頃に、壇上では知らない男女一組の新成人が、挨拶をしていたのです。「なーんだ。同姓同名か」。一気に酔いが覚めました。この体験で私は、「思いがけないときに」「想像以上のことが」起こりうるのだということを知りました。

ついでの話ですが、五島での成人式でも、「名前を呼ばれたらその場で起立してください」というので、「なかだこうじさん」と言われて立ち上がってみたら、ここでも同姓同名がいて、私は別の「なかだこうじさん」の呼び出しの時に立ち上がり、同じ小学校卒業の仲間に「座れ。わいじゃなか」と座らされて大恥かきました。

さて、間近に迫っている幼子イエスの到来は、「思いがけないときに」何か「想像以上のことを」引き起こすのでしょうか。私たちが知っているイエスの到来は、一見すると何も特別なことはないように思えます。飼い葉桶に眠る幼子、マリアとヨセフが幼子のそばにいて、羊飼いたちが最初に幼子イエスを礼拝に来る。あるいは星の導きがあり、占星術の学者たちが拝みに来ます。だれもがはっきりその様子を描くことができます。何か、「思いがけないこと」「想像以上のこと」がそこにあるのでしょうか。

2つ、示しておきたいと思います。1つは、私たちが心から、救い主誕生の準備をすれば、幼子イエスは私の人生に消えない喜びを与えてくださるということです。まもなく幼子としてこの世においでになりますが、この救い主はやがてご計画のすべてをなし遂げて、私たちに永遠の命を与えてくださるのです。私たちはしばしば幼子が誕生したことだけに目を取られていますが、幼子の誕生は私の中で始まる消えない喜びのごく最初の出来事なのです。

もう1つは、救い主は幼子としてマリアからお生まれになります。このことは、救い主が人としての誕生から、人生の最後まで--イエスの場合は十字架上の死に至るまでということですが--この世に関わりを持ってくださるということです。見方を変えると、人生の始まりから終わりまでが、救い主イエス・キリストによって関係づけられたと言うことです。

救い主が、もしも大人の姿で突然現れたら、人の若い時代は、神の子イエス・キリストとつながっていなかったかも知れないのです。神は、人間の人生全体が三位一体の神と結び合わされたのだということを、イエス・キリストをとおして示してくださいました。あの馬小屋の中で、実は想像以上の出来事が繰り広げられているのです。

イエスが幼子として、また再臨の主としておいでになるのは、決して失わない喜びをもたらすため、また人生のすべてに関わりを持ってくださるためです。待降節を通じて、思いがけないときに想像以上のものを届けようとしている父なる神の計画に期待しましょう。


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼年賀状の季節がもうやってきた。どう考えても三が日の務めのような気がするが、司祭館に勤務しているSさんはその辺はきちんとしている。「お願いがあります。年賀状の裏面と、表の差出人を印刷してもらえないでしょうか」。嫌とも言えず引き受けることにした。
▼ところが、最近パソコンプリンターの調子が悪く、どれも「帯に短したすきに長し」。2階にあるパソコン用インクジェットプリンターは印字状態がすごく悪く、さすがのSさんでも分かりそうな質。かといって1階のインクジェットプリンターは裏面の画像をスキャンすると途中に線が1本入る故障機。
▼そこで、2世代前のものと思われる「レーザープリンター」を接続して印刷することにした。まず裏面を60枚印刷。葉書が熱で丸くなってしまったが、表面の印刷前に少し曲がりを戻したので問題ないと思っていた。ところがそう簡単ではなかった。
▼少しの反りで、このレーザープリンターは紙詰まりを起こし、異常を報告してくる。異常のメッセージを解除させるのに一苦労。そうこうしながらようやく印刷を終えたのが1時間半後。こんなに時間を取られてしまうと、親切をしたのに疲れのほうが上回った。今日は配信を終えたら、祈りを手早く済ませてさっさと寝よう。疲れ果てた。
▼東京に出かける。また、何か東京の土産話があったら報告するのでお楽しみに。

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今週のセンテンス
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第8回目。英語も含め、言葉が人間の発明の中で最高なのかも。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
待降節第2主日
(マタイ3:1-12)
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