こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

四旬節第4主日(ヨハネ9:1-41)イエスはわたしたち人類に「遣わされた者」

2017-03-26 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2017/3/26(No.875)
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四旬節第4主日
(ヨハネ9:1-41)
イエスはわたしたち人類に「遣わされた者」
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四旬節第4主日は洗礼の準備をしている志願者がおられる教会はそのための典礼を行うことになっています。わたしたちの教会にも洗礼志願者がいます。少し洗礼の準備のことと重ねて、今週の福音朗読を考えることにしましょう。

いよいよ黙想会が始まります。赴任して最初の年なのでわたしが黙想を引き受けましたが、今年はいつになく準備ができず、うまくいくか心配しています。しっかり準備すれば済むことですが、なかなか時間が取れなかったので、神さま助けてくださいと、祈っているところです。

また、田平教会献堂百周年も、あと一年ちょっととなりました。百年前の5月14日に献堂、つまり神さまにささげられていますので、近い日程、来年の5月20日に記念ミサがおこなえたらなぁと思っています。

関連してですが、「田平教会献堂百周年の祈り」というものを作ってみました。典礼委員会で「作ってくれ作ってくれ」とせがまれたものですから、あまり祈りをしない神父が、必死に祈って作ってみたわけです。おかげで髪の毛が100本抜けました。

祈りの用紙はすでに出来上がっておりますが、どうやら田平教会でのわたしの銀祝が済んでから百周年の祈りを始めるようです。今配ってしまうと、無くしてしまう恐れがあるので、近くなってから配ります。

今日の十字架の道行き、どうでしたか。今回のイエスさまが今まででいちばんだったでしょ?でも身代わりになったクレネのシモンは現れませんでしたね。布を差し出すベロニカおばさんも、現れませんでした。

今日のイエスさまを見て、わたしにもできそうだなと思った人がいるでしょう。そう思った人は、祈りの先唱をしている典礼の人に名を名乗ってください。四旬節に徳を積むことになると思います。今年の四旬節の十字架の道行きも、もうあと残りわずかです。来年も続けたいです。

福音朗読に戻りましょう。「生まれつきの盲人をいやす」物語です。2つのことに注目しましょう。この生まれつき目の不自由な人の、置かれている状況が変わっていく様子と、この人がイエスを呼ぶその呼びかけが変わっていく様子です。わたしにとってこの2つのことは、とても興味深い気付きとなりました。

置かれている状況の変化はさらにファリサイ派の人々から見た変化と、イエスの立場で見た変化とに分かれます。ファリサイ派の人々から見た「生まれつき目の不自由な人」の置かれている状況の変化ですが、彼ら宗教指導者にはもともと、この人が眼中にありませんでした。

当時の考え方では、身体的な不自由をこうむっているのは、本人か、周りの者か、先祖が罪を犯したからだと本気で考えていました。罪を極力遠ざけて生きていると威張っていた人々ですから、「罪の中にいる人」は全く眼中になかったのです。

しかし、イエスによって視力を取り戻し、盲人がファリサイ派の人々の視界に飛び込んできました。彼らは見えるようになった人を尋問し、尋問して自分たちには都合の悪い「あの方は預言者です」という信仰を聞くに至って、またも彼を外に追い出し、視界の外に置いたのです。

彼らファリサイ派の人々は、罪人とされていた生まれつき目の不自由な人が解放されて正しい人の仲間入りをする様子を受け入れることができませんでした。人間の弱さのためです。神のあわれみといつくしみが罪人を救うという愛のはたらきの前に、ひれ伏すことができないのです。自分の正しさだけが大事なのであって、罪人が正しい者とされるのが面白くないのです。

イエスはどうでしょうか。イエスは多くの人にとって視界の外にいる人、蚊帳の外にいる人に神がどのように働きかけるのかを身をもって示します。イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけ、すぐにお世話をして、多くの人の目に留まっていなかった人を注目の的にしてくださいます。

それは見世物にするという意味ではなく、神は「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださった」(ルカ1・48)このようになさる方ですよと知らせるためでした。人々が無視したり、避けたりして視界の外にいた人々に、神は初めから目を留め、最後までお世話するということです。生まれつきの盲人は、しいたげられてきた場所から、神の愛といつくしみを溢れるほど受ける場所に移されたのでした。

次に、生まれつきの盲人が、イエスを呼ぶその呼びかけの変化に注意しましょう。ファリサイ派の事情聴取の初めのころ、「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」(9・15)と言います。尋問の最後には、「あの方は預言者です」(9・17)と答えました。そしていよいよイエスと再会して、「主よ、信じます」(9・38)と言ってひざまずいたのです。

わたしたちは、どちらから示された状況の変化に心惹かれるでしょうか。答えは明らかです。わたしたちが信じるイエスが用意してくださる変化に引き付けられるはずです。たとえ今、人々の視界から遠ざけられていても、わたしたちを注目の的とし、はしためにも目を留めてくださる神のなさり方に心惹かれるはずです。

そうであるなら、わたしたちの語る言葉も、変わっていかなければなりません。今の生活にあって、イエスに呼びかける言葉は、単に「あの方」かもしれません。教会に行った時だけ関わりのある方、あの方。本当にそれでよいのでしょうか。もっと、関わりの深い方として呼びかけなければなりません。わたしの生活の大事なところで照らしと導きをいただいている方ですと、答えることができているでしょうか。

そして最後には、「主よ、信じます」と、人生のすべてを託す方として呼びかけたいものです。わたしたちが信じるのは、社会の底辺に置かれている人、日の当たらない片隅に置かれている人を探し出して、光を当て、そっと触れてくださるお方です。そのためにイエスはわたしたちに「遣わされた者」なのです。

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‥次の説教は‥‥
四旬節第5主日
(ヨハネ11:1-45)
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ちょっとひとやすみ
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▼プロジェクターを購入。プロジェクターにとどまらず、スクリーンも購入。かなりの出費だった。プロジェクターは、もともとDVD鑑賞などに使うつもりで購入したが、プロジェクターが役に立ちそうな場面は外からも飛び込んできた。
▼典礼委員会で次の聖週間に向けての話し合いがもたれた。その中で、復活徹夜祭の初めに行われる「光の祭儀」(復活のローソクを祝福する典礼)が、典礼の行われている正面玄関近くの人には見えるけれども、最前列の子供たち、高齢者の方に見えないので、スクリーンに映すなど何かできないだろうかという意見が出た。
▼その時には「よし」と思ったが、「検討します」と答えた。ここで活用できれば、ほぼ自分のために買ったはずのプロジェクターとスクリーンが教会のために活きることになる。一石二鳥だ。
▼「求めなさい。そうすれば与えられる。」(マタイ7・7)いつもそうだ。初めての主任司祭の任命を受けて、船で上陸する途中で造船所の4万トンクラスの運搬船を眺めながら、「あんな船を祝別できたらいいなぁ」と思っていたら、その週のうちに造船所から打診が来た。
▼「司祭館の新築が、信徒の気持ちを一つにまとめるきっかけになればいいなぁ。」そうやって司祭館を建てることができた。賑わうきっかけが欲しいなぁと思ったときにも、そのたびにきっかけを与えてくださった。
▼前任地の百周年では「教会の歌」を作ってくださいと言われ、その時も与えていただいた。「音楽2」のわたしがである。今年も、「献堂百周年の祈り」を与えていただいた。

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今週の1枚
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第482回目。「田平教会献堂百周年の祈り」小教区の評議会にもまだ見せていない

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四旬節第3主日(ヨハネ4:5-42)わたしに飲み方をください

2017-03-19 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2017/3/19(No.874)
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四旬節第3主日
(ヨハネ4:5-42)
わたしに飲み方をください
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今週の福音朗読はサマリアの婦人との対話です。イエスが言われた「水を飲ませてください」という呼びかけに注目して今週の糧を得ることにしましょう。

わたしの父の話を少しさせてください。わたしの小学生時代、父はまだ遠洋漁業の船に乗っていました。後にわたしが神学校に入学し、父は船を降りて農協の勧めで牛を飼い始めるのですが、当時はまだ船に乗って月夜間の3日間だけ家庭にいるという生活でした。

3日間しか家にいないのに、1日は仲間と徹夜でマージャンをして家に帰らず、1日は疲れてずっと寝て、子供たちと付き合ってくれるのは1日だけでした。この1日で1ヶ月分を埋め合わせるのですから、父にしてみれば教えることが山のようにあったわけです。わたしたちは、一つひとつ目に焼き付け、次に帰ってくるまでおさらいするのでした。

当然、1日で教えられることは限られてきます。トリモチの木から皮をはいでトリモチを作る。竹馬の足を載せる部分を自分で作る。凧揚げの凧を骨組みから作り、障子紙を張って飛ばす。釣りに行けば釣り糸に針を結ぶ。いろんなことを一から教わりました。

一つだけ悩みがありました。父はあらゆることを教えてくれましたが、一度しか教えてくれなかったのです。しかも作り方は教えてくれましたが、実物は残しませんでした。魚釣りが好きだったわたしにとって、釣り針の結び方を一度しか教えてくれなかったのには苦労しました。お手本にと、結んでくれた釣り針も残してくれなかったのです。

手取り足取りきっちり教えてくれたのですが、いざ父親が船で出てしまい、一人で釣りに行くと、結びが不十分で針が抜けたりします。父のそばで見よう見まねで結んだときはどんなに引っ張っても抜けなかったのに、自分で繰り返してもうまくいきません。これには閉口しました。

しかしよくよく考えると、出来上がったものを与えられても、失ったり壊したりすることがあり得ます。ところが作り方、使い方、手に入れる方法を学んだ人は、決して失わないわけです。その意味で父が与えてくれたものは、わたしの中で生涯失わないものとなっていました。

福音朗読に戻りましょう。サマリアの婦人とイエスが生ける水について対話します。イエスは、「水を飲ませてください」と言われました(4・7参照)。ただし、日本語訳ではこうだということで、本来福音書が書かれたギリシャ語もそうであるかは確かめる必要があります。

悲しいかな、わたしはギリシャ語を読み解くだけの語学力はありませんので、原文に近い形で翻訳された英語を読むと、”Give me to drink.”と書かれています。「水を飲ませてください」と”Give me to drink.”の違いが分かると、わたしの説教のオチもすでに分かったようなものです。

”Give me to drink.”をあえて日本語に訳すと、「わたしに飲み方をください」となります。これが原文のギリシャ語に近いと思います。するとイエスは、サマリアの婦人に、「水を飲ませてください」と言ったのではなく、「わたしに飲み方をください」と言ったことになります。これは明らかに違いがあります。

つい最近高校受験をなさって、見事合格を勝ち取られた中学3年生でしたら、”Give me to drink.”と “Give me (this) water.”は区別できると思います。イエスはサマリアの婦人に目の前の水を飲ませてほしいと言ったのではなく、飲み方を教えてくださいと、わざと言ったのです。

今週の説教のために、クムランの洞窟遺跡の写真を用意してみました。見てお分かりかと思いますが、このように乾燥した砂漠で、目の前に水などあるはずがありません。たとえ運よく井戸が掘り当てられても、その井戸もいつ涸れるかもわかりません。すると、本当に必要なのは目の前の水なのではなくて、水の飲み方、肉体的にも精神的にも、渇きをいやすその方法を知っておかなければならないのです。

ではイエスは、水の飲み方、渇きをいやすその方法を、サマリアの婦人に教えてもらおうとしたのでしょうか。そんなはずはありません。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」(4・10)と言っているお方ですから、イエスは人間がどのようにすれば真に渇きをいやすことができるのか、ご存知なのです。

ではなぜ、あえてサマリアの婦人にそのように話しかけたのでしょうか。それは、彼女に気づいてもらうためです。人は誰もが渇く。肉体的にも渇くけれども、それ以上に精神的に乾く。だから人はみな、渇きをいやすために、水の飲み方を学ばなければならない。それも、イエスから学ばなければならないと気付かせようとしているのです。

最終的に、サマリアの婦人は渇きをいやす水のありかを見つけたのでしょうか。彼女の理解はまだ不十分でした。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」(4・15)

イエスの招きを十分理解するためには、聖霊の照らしが必要です。サマリアの婦人にも、そして彼女を通してイエスを知り、信じるようになったサマリア人たちも、そしてわたしたちもです。洗礼を受けていきなりカトリックの信者として十分生きていけるわけでもないし、堅信を受けた瞬間、大人の信者に成長するわけでもありません。一歩ずつ近づいていくし、徐々に恵みの意味を理解するようになるのです。

「わたしに飲み方をください。」イエスが示してくれた願い方を、わたしたちも願いましょう。どんな場面でも、永遠の命に至る水を探し当てることができるように。イエスが、その水を与えてくださることを忘れないように。永遠の命に至る水の探し方を学んだ人は、ある時目の前の水を失っても、渇いたままでいることはありません。

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‥次の説教は‥‥
四旬節第4主日
(ヨハネ9:1-41)
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ちょっとひとやすみ
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▼19日(日)は長崎教区の司祭叙階式の日。上五島出身の受階者が1人司祭に叙階される。助祭に叙階される候補者はいないようだ。毎年続けて司祭を送り続けることも、召命の減少があって難しくなってきた。
▼最初の数年間は助任司祭として頑張ってほしい。初めは本当に時間に追われて、あっという間に時間が過ぎる。時間が逃げていく中で、どうやって自分を失わず、自分の時間を確保するか。わたしはそこまでの余裕はなかったが、自分を見失わないためにも、自分を取り戻す時間を持ってほしい。
▼環境が一変する。環境の変化にうまく乗っかるために、先輩の話はよく聞くこと。わたしはこう言われた。「司祭になった今日から、『白は白、黒も白』だぞ。」意味はご想像にお任せする。
▼すべきことが山積みになり、「その日のことをその日で果たす」これができなくなったら一度自分の生活を見直す。「本当に今の時間の使い方、今の過ごし方が自分に適合しているだろうか。」考えてみよう。
▼どこに自分のタレントが生かせそうか、3年くらいで見極める。そこを伸ばし、小教区のため、教区のため、日本の教会のために役立ててほしい。わたしはパソコンを早くから扱っていたので、現在インターネットを使って説教を配信している。
▼メモを取る習慣を。記憶に頼ると、次から次へと依頼される業務で忙殺され、忘れてしまう。納骨の依頼、特定のミサの依頼、新しい訪問先の病人。「分かりました」と返事したのにメモをしなかったことで迷惑をかけないように。
▼思わぬアイディアが浮かぶことがある。その時のためにもメモできる何かを持ち歩くべきだ。わたしはiPhoneをメモ帳代わりにしている。おかげでふっと湧いて浮かんで、すぐに消えるアイディアを少しは活かせるようになった。とにかく、楽しみに待っている。

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今週の1枚
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第481回目。福岡天神の街から。奥には豪華客船。海が見えると初めて知った。

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四旬節第2主日(マタイ17:1-9)イエスが連れてきた場所にいつもとどまる

2017-03-12 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2017/3/12(No.873)
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四旬節第2主日
(マタイ17:1-9)
イエスが連れてきた場所にいつもとどまる
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四旬節第2主日は主の変容を朗読に取り上げて、わたしたちを「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」(17・5)と招きます。イエスの声に聞き従うとはどういう生き方を指すのか、考えてみましょう。

3月12日、51歳の誕生日を迎えました。日本人男性の平均寿命は、2015年の統計によると80.79歳だそうです。普通に考えるとあと30年生きられれば良しとしなければなりません。そうすると、これからの30年で何をすべきかを決めておかなければならないと思いました。

何か具体的なことを決めるのではありません。個人的には今年韓国語を勉強しようと考えていますが、あれをする、これをするということよりも、むしろ何をしているときでも「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」この声に聞き従っている人生でありたい。要するにイエスのあとをついて行く人生でありたいと思いました。

生まれた時の様子を母親から教えてもらったことがあります。わたしは仮死状態で生まれたために、すぐは鳴き声を上げなかったそうです。自宅から100mも離れていないところに産婆さんがいて、この方に取り上げてもらいました。第一声を上げるまで、母は生きた心地がしなかったそうです。産婆さんが処置をして、ようやく鳴き声を上げました。

それからもう51年も経ちました。あと5日経つと、今度は叙階記念日です。3月17日の叙階記念日で、とうとう25周年、銀祝を迎えることになります。小学生で警察に補導までされた過去を含め、わたしは本当は「家を建てる者の捨てた石」(マタイ21・42)だったのに、神さまは今日まで辛抱強く使ってくださいました。感謝に絶えません。先に話した通り、どのように決断し、行動すべきか、残る30年はイエス・キリストに耳を傾けて、決断し行動する人生を送りたいと思うのです。

福音朗読に移りましょう。ペトロは高い山でイエスの輝く姿、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合う姿を見て、「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです」(17・4)と感嘆しました。

この場面、わたしたちは大切なことを見落として、興奮気味に語るペトロの言葉を聞いているかもしれません。それは、「イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた」(17・1)ということです。誰がこの場所に導いてくれたのか。それはイエスだったのです。イエスが目的をもって弟子たちを山に連れて行き、あの光景をお見せになったということです。

そこを見落とさずに考えると、今度は「一同が山を下りるとき、イエスは、『人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない』と弟子たちに命じられた。」(17・9)ここもイエスが導いて山を下りているのだと分かります。目的があるのです。

何が言いたいか。弟子たちはイエスが導いたので高い山に連れてこられ、あの荘厳な場面を見た。そうであれば、これから山を下りて弟子たちが直面しなければならない主のご受難とご死去、これらもイエスが導いて体験させる出来事である、ということです。人間が体験する輝かしい場面も闇の場面も、イエスがそこに導いて、イエスが体験させてくれている。そういうことなのです。

ペトロをはじめ弟子たちは、高い山での栄光ある場面に感嘆するのですが、苦しめられ、死んで、復活することになっていると打ち明けられると、手の裏を返したように否定します。弟子たちはイエスに導かれ、連れてこられてすべての体験をしているのに、輝かしい場面は受け入れ、惨めな場面になると避ける。どちらもイエスは「わたしが弟子たちを呼び出して、指し示している道だ」と教えているのです。

同じことはわたしたちにも当てはまります。わたしたちは神に呼び出され、導かれてある時ある場所に置かれている。すべて神の導きの中で起こる出来事です。それなのに、自分にとって喜ばしいものは受け入れるけれども、辛く苦しく感じるとそれを途端に拒むのです。これはいけません。イエスが高い山に連れて行ってくだされば栄光を見るし、深い淵に下りて行くことになれば、試練を受けるのは当然です。

人はみな、神に呼ばれてこの世に生を受けています。神に呼ばれて、今日を迎えました。山の上でも、地の底でも、神が導いてお与えになるものは受けるべきです。もちろん、甘んじて受けるためには勇気が必要です。信頼が必要です。拠り所をどこに求めればよいでしょうか。

わたしたちが拠り所とするのは次のみ言葉だと思います。「イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。『起きなさい。恐れることはない。』」(17・7)イエスのほうからわたしたちに近づいて、触れてくださる。実はイエスが弟子たちに近付く場面は、復活の場面にもあります。

「イエスは、近寄って来て言われた。『わたしは天と地の一切の権能を授かっている。』」(マタイ28・18)いざ宣教に出かけてみると、だれも耳を貸さないとか冷たくあしらわれるとか、カトリック信者と表明しただけで「なんだ宗教の押し売りか」と相手にしてもらえない。いろんな惨めな思いが考えられます。けれどもイエスはいつも、どんなときも、わたしに近づいて力づけてくださるのです。

輝かしい場面も、惨めで避けて通りたい場面も、勇気を持って受け取る。そのためにイエスは近づいてくださるのです。イエスが導いてくださった場所で出来事は起こっているから、どんなことがあってもイエスはすぐに近づいて、触れてくださったり声をかけてくださるのです。

「イエスがわたしをここに導いて立たせてくださった。」そう信じて日々を送りましょう。わたしたちの態度がぶれないなら、人々は神の声に耳を傾けて生きるわたしたちの姿に魅了されることでしょう。

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‥次の説教は‥‥
四旬節第3主日
(ヨハネ4:5-42)
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ちょっとひとやすみ
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▼今日が誕生日。51歳になった。51歳でハングル(韓国語)の勉強をして汗をかいている。べつに韓流スターにときめいてではなく、まずは頻繁にやってくる韓国からの巡礼者の応対をするためだ。
▼前にも言ったが、英語で話しかけても多くの場合返事がない。全く英語に興味がないのか、全く学んでいないのか、英語を嫌っているのか、いずれかであろうと思っていた。ところが、ハングルを学び始めて、「それだけではないかも」と思うようになった。
▼韓国では上下関係が厳格に守られていて、たとえば電話で「お父さんはいらっしゃいますか?」と尋ねたとする。日本人なら、「父は今自宅にいません」と言っても問題ない。ところが韓国の人たちは「父」は明確に「目上」であり、「お父様は今自宅にいらっしゃいません」と返事をする。
▼日本語だと違和感がある。しかし韓国では上下関係は相対的なものではなく、絶対的なものであり、徹底して目上に対する用語で話す必要がある。そこで連想したのだが、彼らに"Nice to meet you."と語りかけても、韓国人信徒からするとおそらく日本人司祭は目上なのだろう。
▼そのため「英語で目上の人にどのように答えればよいのだろうか?」と悩んでしまい、つい言葉を飲み込んでいるのではなかろうかと思うようになったのである。ハングルを勉強していて、そう思いたくなるほど、言語に上下関係を厳格に求めるのである。
▼英語はその点で言うととてもフランクである。目上に対してとか、同僚に対してとか、そんな区別は基本的にない。誰にでも"Nice to meet you."である。もちろん突っ込んで考えれば偉い人に「やぁ、元気?」とならないような英語表現はあるだろうが、それはよほどのことだろう。
▼かじったばかりのハングルを長々と偉そうに書いたが、51歳を全く感じないくらい、真剣にハングルを勉強している。気がついたら説教を韓国語でしているかもしれない。ミサを韓国語でしているかもしれない。近くて遠い国に、この一年で橋を架ける道具にできたらと思っている。

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今週の1枚
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第480回目。十字架の道行き用十字架。これ、浜串小教区でも用いたかった。

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四旬節第1主日(マタイ4:1-11)わたしたちは「ただ一つの道」を歩む

2017-03-05 | Weblog
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‥‥‥†‥‥‥‥
四旬節第1主日
(マタイ4:1-11)
わたしたちは「ただ一つの道」を歩む
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四旬節に入りました。最後の晩餐、ご受難、ご復活に向かって、節制と償い、愛のわざにいそしみながら日々を過ごしてまいりましょう。四旬節第1主日にあたり、イエスは悪魔の誘惑を退け、「ただ一つの道」を示し、御みずから先頭に立ってその道を歩みます。そして今日、わたしたちは一人のお子さんの初聖体を見届けます。「イエスさまに養われて生きていきます。」今この子も初聖体を通して「ただ一つの道」を選ぼうとしています。

ところで灰の水曜日、皆さんきっちり大斎小斎の断食の務めを果たしたでしょうか。わたしは50歳なので大斎の務めを果たしましたが、ある人を唆して釣りに連れて行ってもらいました。結論から言うと、灰の水曜日には釣りに行くべきではない、ということです。

釣りに行こうよとそそのかした人は、ちょいちょい釣りに出ては「鯛が釣れましたよ。神父様焦るでしょ」と言って来る人です。まぁそれだけ言う人ですから、何かしら釣れる場所に連れて行ってくれるだろうと思って頼み込んだのです。

まぁ見事に、釣れませんでした。「坊主」でした。一匹だけアラカブを釣れましたが、それはわたしではなく、相方の「坊主が上手に」釣った虎の子の一匹でした。2時間以上いましたが、音も沙汰もありませんでした。実績のある人をもってしても、結果を出せなかったのです。

理由はいろいろあるかもしれません。水温が低い、魚の活性が低い、今は時期的にいちばん悪い、などいろいろ説明はあるでしょう。しかしわたしは、そういうことではないと思っています。理由はたった一つ、「灰の水曜日だったから」これ以外考えられません。

確かに、魚の活性が低かったかもしれない。けれどもこの日まで、食べ物にありつけずに困っていた魚が何匹かはいたはずです。時期的にいちばん悪いと言っても、もうそろそろ食べないと自分が死んでしまう。そういう魚もいたに違いありません。それでも、そういう魚でさえ、わたしたちの仕掛けに食いつかなかった。これはつまり、魚も大斎小斎の務めでやむなく食いつけなかったのではないでしょうか。

思わず仕掛けにとびかかろうとして「あ、今日は灰の水曜日だった!」そう考えて思いとどまった。もっと切羽詰まっていて襲いかかろうとした魚さえ、周りの魚から「おい、今日は大斎小斎ぞ。思いとどまれ!」そう言われて泣く泣く思いとどまった。そう考えると、すべてに説明がつきます。今後二度と、灰の水曜日に釣りには行きません。

福音朗読に戻りましょう。イエスは荒れ野で四十日間の断食の後、悪魔の誘惑と向き合い、悪魔を退けました。この悪魔の誘惑は、さまざまに説明が可能です。人間が限界に達したとき逆らうことのできない誘惑、食欲と、名誉欲と、権力欲なのだと説明することもできるでしょう。

わたしは、本来イエスにとって何が誘惑なのかを考えることが必要だと思います。イエスにとってたった一つの誘惑、それは「父なる神との絆を横に置くこと」これに尽きると思います。イエスが四十日間の断食で歩んだのは父なる神との一致の道です。これをいよいよになって断ち切らせようとしたのが悪魔のさまざまな誘惑だったのです。

イエスはどのような誘惑にも惑わされませんでした。父なる神との一致の道、それは御父と聖霊が両端を握っている綱渡りの綱のようです。この綱を危うくするいかなる誘惑も、イエスはきっぱりと退けたのでした。それはご自分のためと言うよりも、あとを歩むわたしたちのためでした。イエスが先頭に立って歩む「ただ一つの道」を、わたしたちも歩むのです。

わたしたちキリスト者はどんな時も、「ただ一つの道」を歩む者です。「うわべだけ誘惑を受け入れたふりをして歩む」そのような道はわたしたちに与えられてはいません。たとえ日曜日にミサにあずかることができなかったとしても、「ただ一つの道」を歩もうと悩んだ挙句に、悩んで出した結論が、「今日はどうしてもミサに参加できない。」もしそうであるなら、わたしはその人は「ただ一つの道」を歩もうとした結果なのだと思います。

映画「沈黙」を、ご覧になった方もいるでしょう。転んでしまった人、転ばなかった人、いのちをささげた人、踏み絵を踏んで生きながらえた人。いろいろいましたが、きっとどの人も、「だた一つの道」を歩もうと真剣に考えながら、答えを出し続けたのだと思います。わたしも映画を観ましたが、最後は「わたしはイエスに従うというただ一つの道を歩みます。」この答えに狂いがなければ、結果はいろいろありうると思いました。

さて、説教台を降りて、初聖体を今まさに受けようとしているお子さんのもとに行きましょう。先週予告しておいた二つの質問で、「イエスさまに養われて生きていきます」という「ただ一つの道」を確認してから、その後の初聖体式の流れに移りたいと思います。
ふるさと君。「ご聖体のうちにおられる方はどなたですか?」そうですね。「ご聖体のうちにおられる方はイエスさまです。」ではもう一つ。ふるさと君。「父である神さまとお話しするために、イエスさまが与えてくださったものは何ですか。」

その通りです。「父である神さまとお話しするために、イエスさまが与えてくださったものは『主の祈り』です。」あとで、お父さんお母さん、お兄さんたちと教会のみんなと一緒に、唱えることにしましょう。

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‥次の説教は‥‥
四旬節第2主日
(マタイ17:1-9)
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ちょっとひとやすみ
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▼小学5年生6年生の「代用教員」を3月4日(土)にお願いされた。内容は浦上キリシタンの総流配で受けた迫害、浦上に戻ってからの苦難と復活の歴史についてだった。子供たちはとてもよく話を聞いてくれるので、気持ちよく勉強会も進んでいった。
▼ところが、思わぬところに落とし穴はあるものである。追放された浦上キリシタンがようやく浦上に帰ると、踏み絵を強要された庄屋の屋敷を買い取り、教会の代わりにする。悲しい歴史を、喜びの歴史にするためである。すると男子がこう言った。「『庄屋』って、いろいろ食べられる庄屋ですか?」
▼一瞬怯んだが、これはからかわれているのだと感じた。「そうそう。その庄屋。ちが~う。」ついついわたしも図に乗ってしまい、子供たちと真面目な話をちゃかしてしまった。子供たちに「庄屋」とか「庄屋屋敷」と言っても確かにピンと来るはずがない。ここは子供たちと記憶に残りそうな部分を共有することにした。
▼さらに子供たちの「代用教員からかい」は続く。庄屋屋敷跡にいよいよ洋風の聖堂が建設されることになった。陣頭指揮を執ったのはテオドール・フレノ神父。自らが汗をかき、教会建設に奔走した。聞くところによると、教会に据え付ける御像を石工に作らせようとしたが「西洋人の顔を知らない」と言って制作は進まなかった。
▼そこで自らがモデルになり、御像を造らせたそうだ。教会の完成のために、人肌もふた肌も脱いだ格好だ。「教会建設に先頭に立って働いた神父様は誰ですか?」子供たちに尋ねるとこう切り返された。「フラノ(富良野)神父です。」
▼そう。「あーあー、あああああー。じゃなくてフレノ神父です。」今日はかなり子供たちに振り回され、かき回され、汗をかいて授業した。子供たちが楽しんでいたのか、わたしが楽しんでいたのか。たまにする代用教員でさえこの調子なら、ふだん教えてくれている信徒の方はどれほど苦労していることだろう。頭の下がる思いである。

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今週の1枚
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第479回目。灰の水曜日には魚群探知機も動作不良を起こすのだろうか。

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† 神に感謝 †
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