こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第30主日(マタイ22:34-40)掟にある最も重要な精神を示すイエス

2014-10-26 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
14/10/26(No.734)
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年間第30主日
(マタイ22:34-40)
掟にある最も重要な精神を示すイエス
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年間第30主日の福音朗読として、「最も重要な掟」に関する律法の専門家とイエスとのやり取りが選ばれました。この箇所をわたしは、イエスが掟の精神について律法の専門家に答えていると理解しました。「掟にある最も重要な精神を示すイエス」について、学びたいと思います。

説教の前に、司教協議会からの通達に少し触れたいと思います。ミサの奉献文に「聖ヨセフ」の名を加える通達です。教皇庁典礼秘跡省は2013年5月1日(労働者聖ヨセフの記念日)付の教令で、ミサの奉献文の取り次ぎの祈りに、聖ヨセフの名を挿入することを発表しました。

これに伴い、日本語で唱えるための式文を日本の司教協議会は準備して、2014年6月23日付で教皇庁典礼秘跡省から認証を得ました。そして日本のすべての教会で、11月1日から正式に聖ヨセフの名を加えた形で奉献文を唱えるように、教令を発布しました。

実は一週間くらい前から、聖ヨセフの名を加えた形で奉献文を唱えています。祈祷書に載っている第二奉献文をよく見ながら奉献文に耳を傾けますと、「なお、わたしたちをあわれみ、神の母おとめマリアと聖ヨセフ、使徒とすべての時代の聖人とともに永遠のいのちにあずからせてください。」この部分が祈祷書と違っていることに気付くと思います。

わたしはこの聖ヨセフの名を奉献文に加える決定について、ずいぶん時間がかかったなぁという印象を持っています。イエス・キリストの養父である聖ヨセフが、毎日のミサの中で唱えられてこなかったというのは、もっと早くに対応して良かったのではないかなぁと思うのです。

けれども別の見方もあります。本年10月5日から2週間、バチカンでは「家庭についての臨時シノドス」が開催されていました。このタイミングで「聖家族」の柱であった聖ヨセフに光を当てたという見方もできます。家庭について全世界の代表者がバチカンに集まって討議しているので、神が奉献文に素敵な贈り物を用意してくださったのかもしれません。司祭は奉献文を唱えるとき、今まで以上に注意深く唱える必要が出てきましたが、いずれにしても画期的なことだと思いました。

福音に入りましょう。律法の専門家が、「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」(22・36)と尋ねました。律法は神がモーセを通してイスラエルの民に与えた掟で、生きる基準でした。「モーセを通して与えた」律法は、「イスラエルの民が、神の前にどのように生きるか」ということと切り離すことはできません。ところが律法の専門家は律法だけを抜き出して、その優劣をあれこれ議論していたのでした。

イエスはそこで、すべての律法が「民が神の前にどのように生きるか」を抜きにしては語れないことを思い起こさせるために、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」(22・37)これが最も重要な第一の掟であると答えたのです。

それはすべての掟が、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、神を愛することにぶら下がっているということです。どの掟も、掟が授けられた精神をたどっていくと、掟がぶら下がっているもの、すなわち心を尽くして神を愛することに行きつくのです。

掟が依って立つ精神を知れば、掟を通してますます神に心を開き、神に近づく生き方を望むようになります。すると神の思いにも触れることになります。神の思いは、隣人をないがしろにしない、隣人に背を向けない深い憐れみです。わたしたちは掟を通して神の思いに触れ、そこからしぜんと隣人を自分のように愛する人に造りかえられていくのです。

どのような思いで掟が授けられたのか。これが掟を守る上で大切なことです。掟を守るために掟があるのではないのです。掟を守ることで、神をますます愛する人になる。これが掟の精神です。

そして、人が掟を通して深く神を愛するようになれば、神が隣人を深く憐れむ方であることを知り、同じように隣人を自分のように愛するようになるでしょう。イエスは掟の精神、その最も重要な部分を示して、すべての掟に調和をもたらし、掟が神に向かうように完成されたのです。

わたしたちにも、旧約時代から受け継がれている掟があります。それは十戒です。十戒には神を心から愛し、隣人を自分のように愛する掟の精神がはっきり刻まれています。わたしたちが十戒を大切に守るなら、わたしたちはより神の望みに適った生き方に導かれますし、隣人を自分のように愛する人に育つのです。

ほかにも、教会の五つの掟があります。教会が求めているのは、これらの掟を通して、より深く神を愛する人になることです。なぜ日曜日にミサにあずかるのだろうか、なぜ少なくとも年に一度、告白し、御復活祭のころに聖体を受けるよう命じられているのだろうか。これらの掟に疑問が生じたときに、掟の精神にもう一度目を向けて欲しいのです。

掟を守ることで神を心から愛し、隣人を自分のように愛そうというのは、画期的な方法とは言えないかもしれません。とても地味で、どちらかと言えばやりたくない方法かもしれません。けれどもこの道は、心を尽くして神を愛するために確実に一歩進めるための道です。確実に一歩進むことは、いつになるか分からない二歩三歩よりも大切なことです。

昨日よりも今日、イエスが示してくれた掟の精神に近づく生活を積み重ねましょう。一歩進む、一点積み上げる、一塁先に進むことが本当に大切な場面はどこにでもあります。イエスが示された最も大切な掟を、すでに与えられている掟の中に認める力を、ミサの中で願いましょう。

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‥次の説教は‥‥
死者の日
(ヨハネ6:37-40)
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ちょっとひとやすみ
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▼浦上教会の壮年部の人たちが巡礼団を組んで浜串教会に訪ねて来てくれた。わたしもあちこち羽根の生えたように出て回るのでなかなか訪問者と出会うことができないが、今回は何度も確認の電話が入った訪問者だった。
▼ところが、確認の電話のことは玄関のチャイムが鳴って浦上の信徒が一人知らせに来てくれるまでまったく覚えていなかった。電話で打ち合わせをしていた時は「あー、25日に訪ねてくる、訪ねてくるから席を外さないように」と心の中で念じていたのだが、とうとう最後まで覚えていなかった。
▼それでも土曜日のいちばん忙しい時間帯だったので席をはずすこともなく、いかにも待ってましたと言わんばかりに応対した。十年以上会ってない人も中にはいたので、懐かしい顔に、この場所が浜串教会であることをしばし忘れて時間を過ごした。
▼このメルマガも、「ちょっとひとやすみ」も、浦上の巡礼者の中に利用している人がいてとてもうれしくなった。当然、今回の「ちょっとひとやすみ」は恥を忍んで書いているわけで、メルマガを読んでくれているお父さんたちは巡礼していた他のお父さんたちには訪問予定を忘れていたことは内緒にしていてほしい。
▼「浦上にもいつか戻ってきてください。」有難い話だが、責任のある立場で舞い戻るのはわたしには荷が重すぎる。当時一緒に働いていた助任の中では、わたしのすぐ上の先輩が浦上をまとめるのには適しているのではないだろうか。わたしはちょっと、遠慮させてもらいたい。
▼日曜日にはソフトボール大会がある。浦上の巡礼者たちはきっとソフトボール大会も見学に来るだろうから、張り切ってプレーしたい。いろんな司祭の部分を見せることで、信徒との距離が近くなればと願っている。

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今週の1枚
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第341回目。遅くなると思うが、上五島地区壮年会のソフトボール大会の模様。

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年間第29主日(マタイ22:15-21)返すべきものを返すべきお方に返す

2014-10-19 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
14/10/19(No.733)
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年間第29主日
(マタイ22:15-21)
返すべきものを返すべきお方に返す
‥‥‥†‥‥‥‥

年間第29主日、年間の主日も残り少なくなってきました。それはつまり、教会の暦も終わりに近付いているということです。今週与えられた福音朗読は、「皇帝への税金」を取り上げて、ファリサイ派の人々がイエスと対決しています。今週の学びとして、「返すべきものを返すべきお方に返す」としたいと思います。

先週は女性部のミニバレー大会でした。わたしたち浜串チームはBブロックで熱戦を繰り広げ、優勝を勝ち取ってきました。中田神父はこれといって活躍していませんが、足でボールを拾ってチームのピンチを救った場面がありました。来週壮年のソフトボール大会なので、ここでも何とかお役に立ちたいと思っています。

ようやく台風が明けて、久しぶりにボートで釣りに行きました。手のひらくらいの鯛が2枚釣れて、あと30cmくらいのキジハタが1匹釣れました。もっと沖に出ればまた違うのかもしれませんが、急病人などで呼び出されることも考え、船を港につなぐまで30分以内で戻れる場所を自分のいるべき場所と考えています。

さて、与えられた福音はファリサイ派の人々がイエスを罠にかけようとたくらむ悪意に満ちています。「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」(22・17)質問する人々は、ただイエスを罠に陥れたいのです。イエスがどちらの返事をしても、罠にかけることができたのです。

イエスはこの問題に直接答えることをせず、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」(22・21)と答えました。心ではローマによる支配を苦々しく思っていながら、日常生活では皇帝の肖像と銘が刻まれた貨幣を平気で使用しているのだから、皇帝の要求にも応じたらよいではないか。だが神のものは神に返しなさいと釘を刺したのでした。

ここでは特に、「神のものは神に返しなさい」ここに込められた思いを探りたいと思います。皇帝がその支配する領土で税を要求する権利があるのであれば、なおさら、神がわたしたちに要求する権利は当然のことです。神も、御自分の肖像と銘が刻まれたものから要求できるのです。

この世にあって、神の肖像と銘が刻まれたものとは何でしょうか。それはわたしたち人間そのものです。神は御自分に似せて人をお造りになったと、旧約聖書の創世記にあります(創1・26参照)。わたしたちは神に似せて造られたもの、そして神のものなのです。ですから機会を見ては、自分を神にお返しする必要があります。

一人の修道女を紹介したいと思います。15年くらい前から関わりのあるシスターで、わたしが出会った時はまだ大変活発に奉仕活動をしていました。しかし体調を崩され、脳梗塞も患い、病気療養を続けたのですが回復せず、今は寝たきりで延命治療を3年も受けています。話しかけても反応はなく、ただ見守ることしかできない状態です。

わたしは、このシスターが長いこと関わってきた視覚障害者のためのボランティアの代表を引き継ぎました。引き継いでみて、このシスターが今何を思っているかが分かるような気がしたのです。

ボランティア団体の代表を引き継いだ時点では、まだシスターとも意思疎通ができていました。わたしがボランティア団体のことを心配するのは半分くらいで済んだのです。ところが全く意思疎通ができなくなったときに、わたしの心配は半分ではなく、すべてとなりました。

おそらくこのシスターも、何もないところから立ち上げたボランティア団体と会員の行く末を、今も心配しているのだと思います。直接顔を出して様子を見ることができない分、一日24時間すべて、会員のことを心配する時間になっているはずです。

それは言いかえると、病室で延命治療を受けながら、「神のものは神に返しなさい」とのイエスの言葉に懸命に答えようとしているのだと思います。わが子のように大切に育ててきたボランティア団体を、身動き一つできない状態のまま思い続け、まさに命を削って見守ってくれている。これは、神から与えられたいのちを、今置かれている形で神にお返ししている姿なのだと思います。

ときどき、もうこんなに長く苦しい思いをしなくても、と思うことがあります。ですが、延命治療の中で日々いのちを削って会員のことを思う姿は、神の似姿として造られた人間の価値が、一日で咲いてはしぼむ花とは違うということを、苦しみの中で教えてくれているように思います。自分の時間は自分のものだけれども、何かの奉仕を通して人にお返しする、人への奉仕を通して神にお返しする。そういう生き方が会員皆に浸透するよう願いながら、今もいのちを削り続けているのだと思います。

わたしたちはどのようにして、「神のものを神に返す」のでしょうか。今日こうして礼拝に集まっている皆さんは、少なくとも1時間を、神さまにお返しできているのだと思います。その中でも、何もしないで1時間ここにいる人よりは、聖歌を歌い、祈りを唱え、みことばに真剣に耳を傾けるなら、よりよい状態で1時間をお返しできていると思います。ほかにも、お返しができない人に親切を施したり、赦し難い人を赦したりすることは、自分を神にお返しする立派な行いになります。

わたしたちは、「神のものは神に返しなさい」とのイエスの呼びかけに答える神の民です。「自分のものを自分の好きなようにしてはいけないか」という主張が横行する社会の中で、全く違う生き方を世に示していく民です。カトリック信者の生き方を通して、「わたしたちはどのようにしたらよいでしょうか」と、神に心を向ける人が現れるよう、主に願いましょう。より多くの人が、「神のものを神に返す生き方」を見いだして歩めるよう、ミサの中で願い求めましょう

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‥次の説教は‥‥
年間第30主日
(マタイ22:34-40)
‥‥‥†‥‥‥‥


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ちょっとひとやすみ
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▼物事を「おおよそ」理解しているという人と、「完全に」理解している人には違いがあるものだ。祭壇奉仕の話だが、浜串教会では曜日ごとにミサの準備をしてくれる担当者が割り振られている。些細なことかもしれないが、ある曜日だけはほかの曜日と準備が少し違っている。
▼水とぶどう酒を入れる容器(ウルセオルス)を1つ挙げる。浜串教会のウルセオルスはわざと大きさが互い違いにしてあり、ふだん大きいほうに水を、小さいほうにぶどう酒を入れて準備している。しかしある担当者だけは、これを逆に使用して準備している。
▼小さな違いなのでほかの曜日の人ももしかしたら気付いていないかもしれないが、使っているわたしは「この日だけは逆だなぁ」と思いながらミサを進めている。ただ、わたしは性格が素直でないので、それを本人に伝えることはしない。ちょっとの変化に気付くか気付かないか、わたしはここを出るまで黙って観察するだけで、結果的に気付かなくても、それでも最後まで言わない。
▼似たようなことをもう1つ。侍者の奉仕をしてくれている小学生たちがいる。朝眠いのに、また最近は寒くなっているのに、実によく頑張ってくれている。聖体拝領の時に小学生の1人は信徒の手の下に受け皿を添える手伝いをするが、聖体拝領が終わると司祭が受け皿に聖体のかすかなかけらが残っていないか確認してすすぎを済ませてからその受け皿を侍者が祭壇から引いて片づけることになっている。
▼聖体拝領後、侍者が手に持っていた聖体の受け皿を祭壇に置くわけだが、ほとんどの侍者は受け皿を無造作に祭壇に置いている。それは、「どのように置くのが最適か」を理解していないからである。もしかしたらわたしも、そこまで細かい説明をしなかったかもしれない。
▼だが1人だけ、わたしが手を伸ばしてスムーズに取れる状態に置いてくれる侍者がいる。この侍者は明らかに、「だれのために聖体の受け皿を祭壇に返しているのか」を理解している子である。他の子供たちは祭壇に受け皿を戻すことは理解しているが、「司祭の立場に立って」受け皿を置くことまでは考えが及んでいないわけだ。
▼教えなかった可能性もあるので、中田神父に責任があると言われるかもしれない。ただわたしは、これはセンスの問題だと思っている。取っ手の向きまで司祭が取りやすいように向け直して聖体受け皿を置く。仮に練習で説明したとしても、ほかの子供たちは「そう言われたからそうしている」で終わりだろう。だがこの子は、おそらく説明していない細やかな部分まで「こうしてあげたら親切だろうなぁ」と感じてそうしているわけだ。
▼「おおよそ」理解しているというのと、「完全に」理解しているということの間には違いがあると思っている。それは超えられないものではなく、観察力や、感性や、何のためにその動作をしているのかを考える思考力などが磨かれて超えていく。分かりやすく言えば「こうしてあげたらもっと喜ばれるのではないか」との気付きが超えさせるのだ。

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今週の1枚
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第340回目。久しぶりに土井ノ浦主催の洞窟ミサが開催。後でアップします。

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年間第28主日(マタイ22:1-14)見かけた人はだれでも婚宴に連れて来なさい

2014-10-12 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
14/10/12(No.732)
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年間第28主日
(マタイ22:1-14)
見かけた人はだれでも婚宴に連れて来なさい
‥‥‥†‥‥‥‥

年間第28主日は「婚宴のたとえ」が朗読に選ばれました。王が家来たちに、「見かけたものはだれでも婚宴に連れて来なさい」と指示を出す様子から学びを得たいと思います。

先週水曜日は天気も良くて、皆既月食を楽しむことができました。ですが同じ場所で見学した人たちの中には違う楽しみ方をした人もいたようです。わたしの後ろに立っていた人が、「おかしいなぁ。月が2つ見える」と言っていました。そして30分くらいすると今度は、「おかしいなぁ。上にある月はだんだん欠けてくるのに、下の月は全然欠けない」と言いだしました。どんな楽しみ方をしていたのでしょうか。

さて王が王子のために催す婚宴は、どれくらい価値のあるものでしょうか。おそらく、王が催す行事の中で、最大のイベントなのではないでしょうか。王子が次の王として即位するまでは、ほかにこれ以上のイベントはないはずです。

王子の婚礼がこれほど重大な価値があると言うのに、婚宴に招いておいた人々は何をしていたのでしょうか。彼らは招待を無視し、ひどい人は招待した人を乱暴したり殺したりして、王を侮辱したのです。

それは、自分たちの暮らしは王が執り行おうとしていることと無関係であるという、王に対する明確な意思表示です。つまり、「わたしは毎日畑を耕したり商売に出たりしなければ生きていけない。王子の婚宴とわたしの日々の生活に、何の関係があるのか」と言っているのです。

本当に、彼らの言い分は正しいのでしょうか。日々の暮らしを平穏に迎えることができるのは、国の平和と安定を守ってくれている王のおかげではないでしょうか。王子の婚宴は、これからも国の平和と安定が約束されるしるしのはずです。そうであれば、招いておいた人々の暮らしが滞りなく進んでいることへの感謝を表すために、何を置いても出席すべきだったと思います。王と喜びを共にしなかったこの人々は、高い代償を払わされることになりました。

王は、招かれていた人々に見切りをつけ、家来たちに新たな指示を出します。「町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。」(22・9)これは先程の考えに沿って捉えると、「あなたもあなたも、王のおかげで日々平穏な暮らしができているのですよ。どうぞ王子の婚宴に来てください」そういうことだと思います。

むしろ最初に招かれていなかった人々のほうが、自分たちと王とは日々の生活で十分つながりがあると理解したのです。このたとえを、イエスから直接話を聞いている人々がいたわけですが、招かれていた人々とはおそらくユダヤ人のことで、通りで見かけた人とは、異邦人、罪びと扱いされている人々、見捨てられた人々のことでしょう。王として現れている父なる神が、王子として紹介されている御子イエス・キリストの宴を催す時、出来事の重大さやわたしたちの日々の生活とのつながりを理解できるかできないかは、恵みにあずかるかあずからないかの大きな分かれ目になるのです。

さてわたしたちに「婚宴のたとえ」はどのように結びつくのでしょうか。父なる神が御子イエスのために用意する宴はどこでしょうか。それはミサ、この祭壇上で行われる祭儀だと思います。御父が御子イエスを祭壇のささげものとして食事の用意を整え、わたしたちとすべての地上の人々を招いているのです。

そしてわたしたちは、招かれている人であると同時に王の家来でもあると思います。招かれた人として、毎日の生活と父なる神が御子イエスを通して招くミサには深い関わりがあることを認め、宴に参加します。同時に、「見かけた人はだれでも婚宴に連れて来なさい」との王の言葉を携えて、見かけた人はだれでも、この聖体祭儀に連れて来るのです。

「あなたの生活も、御子イエスが人類の救いのためにささげものとなっているこの祭儀と関わりがあります」そう伝えて、見かけた人はだれでも、悪人でも連れて来てよいのです。

今日丸尾の体育館で女性部のミニバレー大会が開催されます。金曜日の練習の様子からすると、かなり上位を狙えるような気がします。わたしたちが出かけて行って多くの人とミニバレーで交流を持つのは、スポーツによっても見かけた人はだれでも声をかけて教会同士のきずなを確かめ合うためだと思います。ぜひ、ここで出会った人の中で、もう一度ミサの宴に戻ってくる人を一人でも二人でも見つけていただきたいと思います。

父である神は、祭壇上でささげられる御子イエスの宴の意味と価値を理解するわたしたちに、「見かけた人はだれでも婚宴に連れて来なさい」と呼びかけています。この呼びかけに誠実に答えることが、わたしたちに求められている礼服なのではないかなと思います。

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‥次の説教は‥‥
年間第29主日
(マタイ22:15-21)
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‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
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▼司祭館には1本の「からしだねの木」がある。手入れが悪くてやせこけている苗木だが、わたしのひどい扱いにもけなげに背を伸ばそうとしている。どのように手に入れた苗木なのか、その辺りから話してみたい。
▼この苗木のもとは、イスラエル巡礼をしてきたシスターのお土産である。検疫の問題とかクリアしたのかどうか、詳しいことは聞かなかったが、お告げのマリアのとあるシスターが巡礼に行って、持ち帰った種を芽が出るまで育て、そのうちの一鉢を譲ってもらった。
▼最初から大切に育てなかったものだから、苗木が水が欲しいと要求しているのも、鉢が手狭になったので植え替えて欲しいと頼んでいることも、全く耳を貸さなかった。そのせいか、背が伸びて添え木も与えられず、根元がグニャッと曲がって伸びてしまった。
▼苗木はいくつもあって、大切に育ててもらったものはすくすく伸び、今では人間の身長よりも高くなっている。「お前がもらった苗木はどうなった?」と聞かれたが、恥ずかしくてありのままを言えなかった。
▼最近、ようやく大きな鉢に植え替えた。水も、てきとうだが与えるようにした。しかし若い苗木の時にグニャッと曲がったのはどうにもならず、痛々しい姿で生き続けている。そのからしだねの木に、最近大きな変化が現れた。
▼気温の変化なのか、わたしが土の栄養を気にしないからか、9月のはじめにかなりの葉を落としてしまい、今にも枯れそうになっていた。ところが10月に入ってよくよく見ると、古い葉を落とす代わりに、新しい葉が芽生えているではないか。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第339回目。生命力のすばらしさをこの目で確かめている。これからは大切に。

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年間第27主日(マタイ21:33-43)一致協力しなければ収穫を喜び合えない

2014-10-05 | Weblog
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年間第27主日
(マタイ21:33-43)
一致協力しなければ収穫を喜び合えない
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司祭団のソフトボール大会を終えて帰ってきました。当日長崎佐世保では朝からひどい雨が降って、試合も30分遅らせて開始しました。司祭の中には独断で試合は不可能と判断して会場まで来なかった方々もいました。そのため地区対抗の公式戦ではなく、順位を付けない交流試合という形での開催となりました。

五島チームは何人か佐世保平戸チームから選手を借りて、長崎チームを相手に二試合することができました。試合は一試合目が十何対一の大差で負けました。五島チームの虎の子の一点は、わたしのランニングホームランです。二試合目は大接戦をものにして逆転サヨナラで長崎チームに勝ち、去年のドラマの再現となりました。

個人的な成績も悪くはなかったと思います。一試合目はわたしのホームランがなければ完封試合でしたし、二試合目もサヨナラホームインしたのはわたしですから、気分はいいです。ただ、二試合目センターオーバーを打って欲張ってホームまで突っ込んだら、キャッチャーが余裕で待っていてせっかくの長打をダメにしたことと、あとで観ようと思って撮影したビデオカメラに、一試合目は映ってなくて二試合目だけ映っていたことがショックでした。

さらに追い打ちをかけたのは、映像が残っていた二試合目の、わたしのバッティングフォームが無茶苦茶だったことです。本人は絶好球を打ったつもりでしたが、顔の高さのボールを大根切りしていました。よくまぁあれで外野深くまで飛ばせたと、呆れて物も言えませんでした。

ビデオの映像を見て思ったことがあります。チームのメンバーに手伝ってもらって何度も何度もバッティング練習したのは何だったのだろう。わたしが打撃練習している時に、仲間には「そこはボールよ。手を出さないで」とか、「バットが下から出ているよ」と口酸っぱく言ってもらったのです。それが全く活かされてない。本当にショックでした。

チームの中でわたしが機能するように、どれだけ後輩たちは気を遣ってくれていたことでしょう。たまたま遠くまで飛ばす力が優れているわたしに、試合で最もボールを飛ばせる高さをくどいほどに覚えさせてくれたのに、それを無駄にしてしまったのです。申し訳なく思いました。

さて、今週の「ぶどう園と農夫のたとえ」ですが、農夫に焦点を当てると、彼らはぶどう園を任せようとする主人の思いを踏みにじっています。主人は、ぶどう園というある種の「チーム」の中で、農夫たちが最も機能するようにとあらゆる手はずを整えて、これを農夫に貸し与えたのです。見込み通りであれば農夫は最高に整えられたぶどう園でその能力を発揮して、主人が戻って来たときに収穫を受け取れるはずでした。

今、「ぶどう園」を、「ある種のチーム」と言いました。ぶどう園にかかわる人がたくさんいるからです。ぶどう園の所有者がいます。ぶどう園で働く農夫たちがいます。収穫を受け取りに行く僕たちがいます。そしてぶどう園の跡取り息子がいます。

いろんな人が関わって、互いに協力してぶどう園からたくさんの収穫を得て、みんなが喜ぶことができます。だからこのぶどう園はある種のチームだと思うのです。チームワークが良ければ結果も期待できますが、チームワークが取れなければどの役割の人にとってもマイナスの結果になるのです。

農夫たちは、ぶどう園の収穫を喜ぶためにはどの役割の人もチームワークを大切にしなければならなかったのに、そのことを忘れました。すべての準備を整えてぶどう園を貸し与えた主人、そこで丹精込めてぶどうを育て、収穫する農夫、収穫を受け取る僕、皆が一致協力して初めて、皆で喜びを分け合えます。それなのに、収穫を独り占めにしようとして、却ってすべてをダメにしてしまいました。

独りよがりな行動が全体をダメにすることは、今年のソフトボール大会で痛いほど分かりました。先頭バッターで長打を打ったのに、ホームでタッチアウトになった。これはチームのことを全く考えていない証拠です。三塁で止まっていれば、後の3人のうちだれかが自分を返してくれたかもしれません。仲間を信頼せずに暴走して、得点チャンスをダメにしたのです。成功を独占しようとして、チームに迷惑をかけました。

ぶどう園の主人は、協力を拒む農夫に最後の協力を求めようと自分の息子をぶどう園に送りました。これは御父が人間世界に送ってくださった御子イエス・キリストのことです。

ぶどう園の主人が一人息子を送ってくださった。父である神が、御子イエス・キリストを送ってくださった。これはどういう意味があるのでしょうか。わたしは、収穫の喜びを決して無駄に終わらせたくないとの強い思いを感じます。父なる神が、御子イエス・キリストを送ってでも神の救いの恵みに人類をあずからせようという強い思いを感じます。

今まさに、独りよがりな行動でぶどう園の主人の思いを無駄にしようとしている農夫、神の救いの恵みを無駄にしようとしている人類を何とか喜びに招こうというのが、一人息子を送る姿ではないでしょうか。

「自分さえよければ」そんなちっぽけな考えを捨てて、ぶどう園の収穫の喜びが最大になるように一致協力する。同じように神の救いの計画が最大の実りをもたらすよう、自分にできる協力を惜しまない。独りよがりな行動を捨てるとき、わたしたちは神の救いの計画に最大の貢献をする働き手になるのだと思います。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
年間第28主日
(マタイ22:1-14)
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ちょっとひとやすみ
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▼司祭団ソフトボールの五島対長崎第二試合で、わたしは長打を打ったがホームでタッチアウトだった。確かにそうだが、ビデオを続けて観ていると後続は同じ回に2人内野フライでアウト、次の回の攻撃の先頭打者が四球を選び、その次の打者が外野フライで終わっている。
▼状況が変われば結果も変わっていたかもしれないが、わたしが三塁で自重していた場合、果たして帰ってくることができたかどうか。映像を見る限りでは疑問が残る。わたしは中継が乱れてわずかな望みがあると読んでいたが、そうはならなかった。いずれにしてもあの走塁は無茶だったのだろう。
▼この試合でもう一つわたしの走塁に賛否が分かれるケースがあった。最終回、わたしのセカンドゴロで二塁コースアウト、これでツーアウトとなり絶体絶命となる。後続のバッターのセカンドオーバーヒットでわたしは思い切って三塁まで走った。アウトになれば試合終了である。しかし三塁まで走れば、その次の打者が打つことで何かが起こるかもしれない。そう思って三塁を目指した。
▼三塁コーチャーは「先輩ナイスラン!」と喜んでくれたが、ビデオには審判の「中田さんあぶねぇ」の声が残っていた。危なかったのだろう。しかし、最後の打者がレフトフライを打って万事休すと思ったその時、一度もミスをしていなかったレフトの選手が落球し、すでにわたしがホームを駆け抜けていたことでサヨナラ勝ちを呼び込んだのである。
▼あの場面、わたしが二塁で自重していたら結果はどうなっていただろうか。ツーアウトだから二塁から全力でホームを目指したとして、レフトが落球した後にバックホームされれば、わたしは幻のランニングホームランの二の舞になっていたかもしれない。するとわたしは二度も笑い物になる可能性があったわけだ。あそこは三塁を狙って正解だったと、胸を張って言いたいと思う。

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今週の1枚
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第338回目。第一試合ランニングホームランの「ホームラン賞」。ニヤけすぎ。

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