こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

待降節第1主日(ルカ21:25-28,34-36)いつも目を覚まして祈りなさい

2015-11-29 | Weblog
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http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/151129.mp3

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‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
15/11/29(No.798)
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待降節第1主日
(ルカ21:25-28,34-36)
いつも目を覚まして祈りなさい
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待降節を迎えました。カトリックの暦「典礼暦」はこの待降節から始まります。ですから典礼的には新しい年が始まり、主の降誕を待ち望む季節が始まったということです。待降節はラテン語でadventusと呼びますが、これは英語のadventureに通じる言葉です。つまり主の到来を、今か今かとワクワクしながら待つのが、待降節のよりよい過ごし方と言えるかもしれません。

おもしろい体験をしたので報告しておきます。2週間前の話です。カトリック教報の編集会議で日帰り出張した日、長崎で帰りの便を待っていたら韓国からの巡礼者かなという団体がたむろしていまして、盛んに会話していました。わたしには「ハムニタ」「イモニタ」「ミギニセヨ」「ヒダリニセヨ」と言っているように聞こえました。

団体の中にシスターが混じっていまして、すぐに「この団体には司祭が同行しているに違いない」と直感しました。儒教の影響を多分に受けた国で、シスターが団長を務めるということは考えにくいからです。

しかしジロジロ眺めるわけにもいきません。船に乗る時点でも司祭の姿は確認できなかったのですが、結果的に思わぬところでわたしの読みは正しかったのだと証明されました。

船が奈良尾に到着し、タラップを降りてみると、「ようこそ」という横断幕が目に飛び込んできました。新上五島町の職員なのかわかりませんが、桟橋で待っていた2人がいきなりわたしに近寄ってきて「アンニョンハセヨー」と声をかけてきたのです。

わたしはカトリック司祭が一般的に着用する司祭シャツを着ていたので司祭だとすぐわかる格好をしていました。お迎えに来ていた人々は、団体の中で真っ先に司祭に敬意を払おうと思ったのかもしれません。それは理解できますが、そうだとしても日本人か韓国人かは区別してほしかったです。「アンニョンハセヨー」と勢いよく話しかけてきた人に「イイカゲンニセヨー」と言いたい気分でした。

わたしのところに飛んできた2人は、待ちに待った団体さまが到着して、おあつらえ向きの格好をした司祭が見えた。これは間違いないと思ったのでしょう。愛想のない態度で過ぎ去ってしまい、彼らにはかわいそうなことをしたなと思いました。

福音に戻りましょう。待降節でわたしたちが待ち望んでいるお方も、実は飛んで行って挨拶をしてもよいくらい尊い方です。わたしたちが待ち望んでいる方は、2つの形でその力と栄光を帯びておられる方です。

1つは、神が人となってわたしたちのもとにおいでになり、人類の救いに必要なことをすべて成し遂げてくださった方です。その救いの御業は2千年前にすでに成し遂げられました。この救いの御業によって、力と栄光を帯びておられます。

もう1つは、ご自身が成し遂げてくださった救いの御業を、完成させるために再びおいでになります。救いは、実際にすべての人が救われることで完成します。わたしたちは救いの御業の完成のために力と栄光を帯びてこられる救い主という形でも待ち望むのです。

わたしたちが待降節を通して待ち望む方は、一方ではすでに救いの御業を成し遂げてくださった方ですが、他方では救いの御業を完成させるためにおいでになる方です。この二つの姿を重ねて待つことで、わたしたちは目を覚ましていることができます。

「救いの御業は成し遂げられた。」このことだけを考えている人は、放銃や深酒や生活の煩いで、心が鈍くなってしまいます。また「救いの御業を完成するために再びおいでになるのはまさか今ではないだろう。」そう考えている人も、心が鈍くなってしまいます。一方を思い描いて他方を顧みないなら、わたしたちは裁きを受けることになるでしょう。イエスの救いの御業の両面を忘れないよう心がけて日々を送る人、すなわちイエスの到来を正しく理解し、目を覚まして待つ人だけが、人の子の前に安心して立つことができるのです。

最後に、イエスは「いつも目を覚まして祈りなさい」と忠告します。「祈りなさい」と付け加えたのを見落としてはいけません。わたしたちが神の勧めを立派に果たすためには、祈りが必要だということです。

「目を覚ましている」というと、自分で注意しておけば立派に果たせるように思うかもしれませんが、いつも神の助がそこには必要なのです。祈ることで、わたしたちは神の助けを常に求めることができます。

どこかでわたしたちは気を抜くことがあります。それを戒めるために、イエスは「いつも目を覚まして祈りなさい」と忠告しておられます。主の降誕を待つ待降節の期間に、心が鈍くならないようにと絶えず祈ることにしましょう。わたしたちを喜びで満たしてくださる救い主は、目を覚まして祈るその先で待っておられます。

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‥次の説教は‥‥
待降節第2主日
(ルカ3:1-6)
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ちょっとひとやすみ
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▼もうすぐメルマガ800号なんだなぁ。よくまぁ800回も出したものだ。800回記念に、何か企画しようかな。うーん、何だろう。よく分からないけど。800回記念に、希望者にはメルマガのもとになった800回分の原稿を・・・って、要らないよね。もらっても、ね。
▼録音説教を希望者全員に無料で・・・というのはちょっと奮発しすぎなので、材料費とCD製作費で2千円いただいて提供するか。でも以前この手の企画をしたような気もするので、以前の録音説教を持っている人には2重になってメリットがない。
▼あー、悩ましい。どこかで同様の企画を打ったような気もするが、忘れてしまった。歳を取ると簡単に忘れてしまうので恐ろしい。でも思い出せないのも悔しいから調べてみたら368号でCD3枚に収めて用意したようだ。その当時は800円で用意したようだ。
▼するとおおよそそれ以降の分をCDに焼いて提供するなら、1000円で提供できそうである。もし説教の録音CDに興味があれば、郵便番号、住所、氏名を書いたメモと、82円切手12枚(984円)を同封して中田神父のところまで連絡(メール)ください。中田神父の住所は「〒853-3102 長崎県南松浦郡新上五島町岩瀬浦郷724番地 カトリック浜串教会」です。
▼大人げない、ばかばかしい話。車を運転中に2度、バカなことをした。1度はヤクルトを飲んでいて、途中でごみ箱を見つけたので車から投げ入れようと思い、手探りで車の窓の開閉スイッチを触り、窓が開いたと思ったのでヤクルトの空容器を投げた。するとごみ箱はおろか、車の中でヤクルトの容器が跳ね返り、ヤクルトの飲み残しが飛び散ってしまった。
▼窓を確認してみると助手席の窓のつもりが後部座席の窓を開いていた。腹が立ったが、自分の愚かさにも腹が立った。ごみをごみ箱に捨てたいなら、ちゃんと車を降りてごみ箱に捨てに行くべきである。
▼もう1度は、お告げのマリア修道会が関わっている「児童養護施設」のバザーの帰りのこと。おいしそうなたこ焼きを見つけ、お昼のつもりで買って帰った。10個入り200円。良心的な値段である。ところが浜串に帰ってから食べるつもりがお腹が空いて、車の中で手を出してしまった。
▼最初は問題なかったのだが、山道をくねくね走っているうちになんとたこ焼きを入れたパックが横転し、たこ焼きが助手席から床にダイブしてしまった。その時点で3分の2は食べてはいたが、何個か無駄になったし、車の中は信じられない異様なにおいが充満し、本当に自分で自分が腹立たしかった。食べ物は決して車の中で食べるべきではない。

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今週の1枚
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第405回目。先輩司祭の叙階25周年(銀祝)の一コマ。後でアップします。

ホームページもご覧ください。
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文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
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王であるキリスト(ヨハネ18:33b-37)真理に属する人は皆、わたしの声を聞く

2015-11-22 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
15/11/22(No.797)
‥‥‥†‥‥‥‥
王であるキリスト
(ヨハネ18:33b-37)
真理に属する人は皆、わたしの声を聞く
‥‥‥†‥‥‥‥

王であるキリスト、年間最後の主日を迎えました。キリストはどのようにわたしたちを導くのか、わたしたちはどのように王の国民であることを証しすればよいのか、考えることにしましょう。

来週日曜日、故郷の鯛ノ浦教会で意義深いお祝いが予定されています。わたしの2年先輩の葛嶋神父さまの叙階25周年「銀祝」を記念するミサと祝賀会です。わたしも出席することにしています。

出席する第一の理由はもちろん先輩神父さまのお祝いのためですが、もう一つの理由は、自分自身2年後に銀祝を迎えることになるので、いろんなことを見て、持ち帰って来ようと思うからです。

銀祝の記念ミサの様子はもちろん、祝賀会でのプログラムも参考になると思っています。銀祝を迎えた葛嶋神父さまがどんなお話しをするのか、集まっている信徒の皆さんの熱意はどのようなものか、2年後にはどのように変化していると考えられるか、雰囲気を感じ取ってきたいと思います。

葛嶋神父さまは高校1年の時から小神学校に入学してきた編入組です。わたしは中学1年からの入学だったので、中2になった時に急に先輩が飛び越えてきた感じで戸惑いつつ小神学生時代を過ごしました。

郷里の鯛ノ浦教会で、わたしと葛嶋先輩は比較されていたと思います。わたしはどこから見ても続かないだろうと思われていましたし、先輩はどこから見ても神父さまになるだろうと思われていました。

でも先輩のよい模範があったから、わたしはこの道を進むことができましたし、折に触れて「こうじ」と下の名前で声をかけてくれ、いつも気にかけてくれた先輩でした。先輩が留学中にときどきFAXで近況報告などをしていましたが、やはり恩を感じていたのだと思います。

その先輩が25年を迎えて、喜ばしいなという思い以上に、感謝したい気持ちでいっぱいです。お互い大人ですから、何があっても受け入れることはできますが、先輩は最初から最後まで模範でいてくれました。人間ですから何かしらの噂が聞こえてきても不思議ではありません。ところが先輩の悪い噂は、わたしには何一つ聞こえてきませんでした。それはわたしにとって、曲がりなりにもここまで続けてくることができた大きな支えだったと思っています。

福音朗読に移りましょう。ピラトは裁判の席でイエスと正面から向き合います。ピラトは権力者ですから、権力を脅かす人や、権力を争う可能性のある人には神経をとがらせていたでしょうが、イエスは権力者が気にも留めない生き方の人でした。ピラトとしては、イエスに全く興味がなかったと思います。

しかしイエスが「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」(18・36)と話し出したときには無視できなくなったと思います。国を支配しているのであればそれは権力者のはずです。ピラトのほかに権力者がいるとなれば、処刑しなければと思ったわけです。ところがイエスは権力者ではありませんでした。権力で支配する王ではなかったのです。イエスは、真理に基づいて導く王でした。

イエスが民を導くために持っていた真理とは何でしょうか。それは一般的な真理ではなく、イエス・キリストが語られた言葉を意味しています。イエス・キリストは御父から聞いた言葉を持っていました。御父の言葉は真理であり、わたしたちは真理であるイエス・キリストの言葉をよく聞き、真理を受け入れるために心を開き、悔い改める必要があります。

真理は人を強要したりしませんが、喜んで従う心を育てます。わたしも、良い先輩を与えられたので真理の素晴らしさが分かりました。真理を知ったなら、真理そのものであるイエス・キリストに従うようになります。先輩に無理やり従うよう強要されたのではなく、真理を知って歩く姿をわたしも見たので、どのように歩けばよいかが分かり、自然と本来歩くべき道に従っていくことができたのです。

ピラトは裁判に立つイエスを見て、イエスが無実であることを理解します。しかもイエスが真理を持っていて、ピラトに態度を決めるように迫っていることも感じ取っていました。正しい道を選ぶことができる真の勇者であるなら、イエスに導かれ、イエスに聞き従うべきでした。しかしピラトは地上の権力者であり、手にしている権力がピラトの心を曇らせ、イエスの声に耳を傾けることができなかったのです。

わたしたちもイエスの声に耳を傾ける必要があります。わたしたちは今日イエスによって真理の言葉を耳にしています。イエスが語る言葉、イエスの声がわたしたちを本当の幸せに導く真理です。キリストの言葉の中に留まる者だけが真理を知り、この真理によって罪から解放されます。

イエスの中に真理があると知った人が、イエスの導きに心を開いて日々を送るなら、そのような人々がそこここに見られるようになるなら、イエスの国、この世に属していない国が実現し、広がっていくのです。

王であるキリストの祝日、真理であるイエスの言葉にわたしたちは耳を傾け、態度でこの祝日を祝いましょう。

わたしたちは真理によって導いてくださる王をいただく民であると、生活で証ししましょう。権力にひれ伏して生きる民ではなく、多数決で疑問に思いながらも流されていく民でもない、イエスのみ言葉に耳を傾けて生きる国民であると、チャンスがあれば声をあげましょう。真理に属する人が一人でも多く王であるキリストのもとに集まりますように、ミサの中で恵みを願いましょう。

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‥次の説教は‥‥
待降節第1主日
(ルカ21:25-28,34-36)
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ちょっとひとやすみ
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▼魚釣りは「魚の引きが楽しい」のは言うまでもないが、わたしの釣りの場合「何が釣れるか分からない」というのも楽しみの一つである。最近はずっとボートでの釣りなので、「この魚種を」と決めて出掛けるわけではない。
▼「このあたりで釣っていれば、何かしら食ってくる」そんな当たりをつけて釣りをしているから拍子抜けするような魚が喰って来たり思わぬ大物が掛かったりする。大きな魚で拍子抜けするのは学名「イラ」という魚だ。長崎(五島)では「ナベタ」と呼ぶ。
▼このナベタは引きは強いので「鯛か?」と期待させるが、途中で「いや、違うな」と分かる。頭が極端に大きいので見た目はグロテスクだ。身が柔らかくウロコを取るのが面倒だが、から揚げにするととてもおいしい。もともとはベラ科の仲間で、他にもコブダイなどが仲間。
▼最近釣っていてワクワクするのは根魚(ねざかな)のオオモンハタ。強烈な引きが魅力で、いきなりひったくっていく。本当はキジハタを釣りたいのだが、キジハタは浜串周辺に限らず個体数が少なく、めったにお目にかかれない。釣れているのはほとんどオオモンハタである。
▼キジハタもオオモンハタもスズキ目ハタ科の魚。見分けは付くが、キジハタは赤に近い褐色で全身に斑点があり、背びれの付け根中央部に大きな黒色斑がある。オオモンハタも全身に斑点があるが、見た目はこちらのほうが「キジ」に似ている。ハタ科の魚は種類が多く、ホウセキハタ、オオモンハタ、キジハタ、アオハタ、ノミノクチ、ほかにも数え切れないくらいだ。
▼こう言うと相当詳しいのかと思われるかもしれない。実は魚類図鑑を購入してその受け売りに過ぎない。今回購入した図鑑は発行年が古いが、当時の定価で25750円だったのをアマゾンと提携している古書店から9000円くらいで入手した。ときおり名前のわからない魚を釣ることがあるので、これからは持ち帰ってから調べる楽しみができた。

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今週の1枚
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第404回目。「日本産 魚類検索 全種の同定」。大型本。中身はモノクロ。

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年間第33主日(マルコ13:24-32)キリスト者は再臨の日を信じて生きる

2015-11-15 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
15/11/15(No.796)
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年間第33主日
(マルコ13:24-32)
キリスト者は再臨の日を信じて生きる
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今週の福音朗読で、「人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来る」その日について描かれています。これはイエスの再臨についての予告です。イエスの再臨について、わたしたちはどのように受け止め、今の暮らしをどのように結びつけていけばよいのでしょうか。考えてみたいと思います。

さて、相河(あいこ)という地区が新上五島町にあるのを皆さんご存知でしょう。ホタルで有名な地区ですが、ここにペンキで書かれた「キリストの再臨は近い」という看板があるのをご存知でしょうか。

おそらく車を運転する人しか、その看板に気付くことはできないと思います。お年寄りの方々も車で上五島病院に連れて行ってもらうついでに、看板をぜひ見せてもらってください。一見の価値があります。

あの看板、いったい誰が作ったのでしょうか。わたしも直接話を聞いたことはありませんが、少なくともカトリック関係者ではないと思います。もちろん上五島の司祭やシスターが「ここに看板を掛けさせてください」とお願いに行ったこともありません。

想像ですが、わたしたちのところにたまにやって来て「聖書の話に興味ありますか」と言ってくる人たちが用意したものではないかなぁと思っています。司祭館にも「聖書の話に興味ありますか」とやって来るので、わたしは「興味無いねぇ~」とお断りしています。

いずれにしても、相河では年中「キリストの再臨は近い」のだろうと思います。カトリック教会は「キリストの再臨は近い」という公式見解を出していませんので、あそこを車で通るたびに、「キリストの再臨はいつごろなのですか?」と聞いてみたい気がします。

相河のキリストの再臨はさておき、イエスが語る「人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来る」この再臨の時はわたしたちも十分意識しておく必要があります。まず、「再臨の日」は「希望の日」なのでしょうか。それとも「不安と恐怖の日」なのでしょうか。

再臨の日をどのように感じるかは、終末をどのように考えているかにかかってきます。終末を滅亡の時、破滅の日と考えているなら、キリストの再臨に不安と恐怖を覚えるでしょう。終末を救いの日、希望の時と考えているなら、反対に顔を上げて待つことができるはずです。

日本人の意識の中には、終末というと何か滅亡の時、破滅の日を思わせる要素があるように思います。さきほどの相河の集落で目にした看板も、日本人一般の終末思想を利用して、不安をあおって自分たちの新興宗教に引き寄せようとしている印象があります。

しかしキリスト教では、終末にたとえ破滅の要素があるにしても、救いを完成するためにキリストが再臨する日なので、希望に満ちているのです。終末にキリストの再臨が抜け落ちていたら、確かにその終末は不安と恐怖以外にないでしょう。ですがキリストを信じるわたしたちにとっては、わたしたちを救いに来てくださるキリストの前に立つ日なので、信頼して待つことができるのです。

ここで皆さんは、「終末はいつなのだろう。キリストの再臨はいつなのだろう」そんな疑問を持つかもしれません。今週の朗読でイエスは「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである」(13・32)と言っておられます。だれも「その日、その時」を知ることはできません。わたしたちに必要なことは、「その日、その時までふさわしい生き方を保つ」ということです。

ふさわしい生き方とは、行き過ぎを避け、希望を保ち続けて生きることです。行き過ぎとは、「キリストの再臨は近い」と不安や恐怖をあおる生き方と、「キリストの再臨はやって来ない」という怠惰な生き方です。両方の生き方を避け、キリストの再臨のその日まで顔を上げて生きる。わたしたちにはそのような生き方が求められています。

わたしたちが、キリストの再臨を信じ、また「その日、その時」が救いの日となるという希望のうちに生きることで、何が起こるのでしょうか。わたしたちの生き方が、多くの人の希望となると思います。わたしたちの身近に、さまざまな苦難に遭い、しかもその苦難に希望を見いだせずにいる人々がさまざまいらっしゃいます。

まだまだ若いのにというような年齢で病に命を奪われる人がいます。信頼していた人に裏切られ、すべてを失ってしまった人がいます。自分の記憶が少しずつ壊れて、周りの人といさかいが始まってしまう人がいます。社会的な罰を受け、償いの日々を送っている人がいます。こうした人々の中に、キリストの再臨を待ち望んで希望を失わずに生きている人はごくわずかです。

そうした人々ともしわたしたちが関わりあるのなら、わたしたちの生き方は彼らに大きな希望を与えると思います。どんな困難の中にあっても、キリストの再臨を待ち望んで希望を失わずに生きることができる。その生き方を知ったなら、困難の中にある人々も大きな影響を受けるに違いありません。わたしたちは自分のためだけではなく、関わりある人々のためにも、キリストの再臨を信じて生き、「その日、その時」に救いが訪れると希望して生きるのです。

「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。」(13・26)すべてのキリスト者にとって、キリストの再臨の日は顔を上げて救い主を迎える日です。すべてのキリスト者が、キリストの再臨を信じて日々を生きていけますように。「その日、その時」を希望を持って待ち続けることができますように。ミサの中で恵みを願いましょう。

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‥次の説教は‥‥
王であるキリスト
(ヨハネ18:33b-37)
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ちょっとひとやすみ
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▼信徒発見150周年に長崎中地区が主体になって信徒発見劇が準備され、長崎はもちろん佐世保でも上演、好評を博している。この劇が来年2月21日に上五島でも上演されることになった。喜ばしいことですね~と単純に歓迎の気持ちでいたのだが、ここ数日で変化があった。
▼信徒発見劇は本来浦上のキリシタンが大浦のプチジャン神父(のちに司教)を訪ねてキリシタンが250年の迫害を耐えしのんで復活したという物語の劇である。だが信徒は浦上だけにいたわけではなく、五島にも存在していた。五島には五島の信徒発見の物語がある。
▼14日(土)午前に1本の電話が入った。信徒発見劇の脚本・監督を手掛けている先輩司祭からだった。「信徒発見劇を上五島で上演するに当たり、配役を入れ替えて上五島の信徒発見物語を少し織り交ぜたい。そこで新しいメンバーとしてあなたに入ってもらいたい。」
▼え?という思いがよぎったが、先輩がわざわざ電話してくる用事は大事な用事と決まっている。だから引き受けることにした。五島の信徒発見を、何かの形で信徒発見150周年の年に刻むお役に立てるのだから、断る理由はない。
▼実は昔からわたしの中には演劇の血が流れている。高校卒業して進学した福岡の大神学院では卒業するまでの8年間、主演女優として謝恩会の劇には登場していた。もちろん男子学生だけで演ずる劇なので、女性の役が必要となればだれかが引き受けることになる。入学した年に引き受けてみたらこれが大ウケしたので、そのまま続けてしまった。
▼信徒発見劇はまじめな劇だし、アドリブも禁止だろう。するとわたしの持ち味は少し生きないかもしれないが、任せられた役割はきっちりこなしたい。ちなみにわたしの尊敬する俳優さんは大滝秀治である。「明日の記憶」での渡辺謙さんとの場面は秀逸で、わたしも丸暗記している。

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今週の1枚
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第403回目。冬の鍋の季節。オオモンハタ2匹はともに1キロ超えていた。

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年間第32主日(マルコ12:38-44)信仰は生活費を全部入れるだけの価値がある

2015-11-08 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
15/11/08(No.795)
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年間第32主日
(マルコ12:38-44)
信仰は生活費を全部入れるだけの価値がある
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年間第32主日、年間の主日もあとわずかです。この時期、11月の第2週は上五島地区で堅信式が行われます。わたしたちの小教区からも2人の受堅者が午後2時からの堅信式に臨みます。今週の福音朗読に触れながら、堅信の秘跡を受ける心構えについて考えてみたいと思います。

長崎教区は伝統的に、堅信の秘跡を受ける前に長い準備をします。わたしが子供の頃は堅信式が3年に1度回って来て、3年かけてこの日のために準備していました。小学6年生から堅信組に加わって、中学2年生の終わりか3年生になった時に堅信の秘跡を受けていたと思います。

当時はカトリック要理という小さな本を暗記して、主任司祭の前に1人ずつ立たされて、学期ごと習い覚えた中から10問主任司祭が質問し、それに答えるという形でした。多くの人が経験したことですが、木の上に登ってセミが鳴くように大声で問答集を繰り返して覚えたものです。

中には、学校の勉強そっちのけで、カトリック信者は堅信のための勉強をしていました。今週の福音朗読にある金持ちの献金とやもめの献金の姿に似ています。わたしは頭がよかったので学校の勉強そっちのけで要理を覚えた経験はありません。有り余る才能の中から、少しだけ費やしたのですが、人によっては、乏しい中から、自分の持っている時間をすべて、昼間の時間全部要理の勉強につぎ込んだわけです。

わたしは最後の最後まで、勉強らしい勉強もせずに堅信の秘跡を受けました。小学6年生の時は、仲間がけいこに行く時間も東浦小学校の運動場で遊んでいて、仲間がけいこに行く時と帰る時は体育館の陰に隠れ、シスター小林三枝のけいこにはほとんど通わなかったのです。

いざ試験当日になれば、当時の主任司祭道向神父さまが1番目の人には1番11番21番31番と問題を掛けていることを見抜き、自分の順番を確認し、たとえば6番目なら6番16番26番36番だけをその場で覚えて、何食わぬ顔でその場をやり過ごしました。

中学からは神学校に入りましたので、故郷鯛ノ浦でのけいこも試験もおさらばとなりました。神学校では簡単な試験で準備が終わり、里脇枢機卿さまの鼻の下の長さばかり気になって堅信の秘跡を受けたのです。わたしの見たところ、枢機卿さまの鼻の下は5cmくらいありました。

そういう事情で、わたしは金持ちが有り余る中から賽銭箱にお金を入れるような勉強しかしていないので、本当の意味でやもめが乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れるような努力を、堅信組の時期に払ってきた方々の苦労がいまいち理解できません。

けれども6年間この小教区で堅信組の中学2年生と勉強をしてきて、彼らの中にわたしが用意した祈りの口頭試験と教会の教えの筆記試験にすべてを投じて準備してくれた子供たちがいました。今になって堅信式のためにすべてを注いでくれた子供たちの努力がどれほど尊いものかを理解するようになったのです。

1人の子供は、祈りと筆記試験の合計が合格点の150点に到達せず、涙を流して「何でもしますから、堅信を受けさせてください」とすがりました。「何でもする」と言われて困ったのですが、この子が今日までどれだけ努力してきたか、わずかに届かずどれだけ困り果てているか、十分伝わりました。その子には「これから中学生の間だけでも教会に休まず来なさい」と言い含めました。その子は約束を守ってくれました。

堅信組になった中学2年生が、堅信式前の最終試験に真剣に取り組む姿を見ていて、今になって後悔することがあります。堅信組の時くらいしか、信仰生活の中で「自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れた」そういう経験はできないのです。それなのに、わたしは片手間で堅信式の準備を終えてしまいました。神さまは、わたしがあの時自分の持っている物をすべて堅信の準備に充てなかった責任を取らせるために、司祭召命にわたしを導き、司祭叙階の時に「自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れた」姿を要求したのだと思います。

今週の福音朗読のやもめの献金は、わたしたちへの忠告なのだと思います。やもめが神殿の献金箱に有り金全部入れた姿は、人生のある場面でわたしたちは自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れる決断をしなければならないのだと教えるための忠告なのです。

堅信式がまさにそうです。わたしたちはすべてを横に置いて、堅信組の時期に教会の教えを学びました。人生のある時期、堅信式という一瞬のために、長い準備を引き受けたのです。それは、信仰がどれほど価値あるものかを理解させるものです。堅信式は、わたしたちの受けた信仰が、「自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れる」に値することを教えてくれるのです。

わたしたちの中で堅信の秘跡を受けていない人はまずいないと思います。大学には、行ってない人もいるでしょう。しかし、どんな時代の人も、堅信の秘跡は受けたのです。そして堅信式の準備のために、「自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れた」のです。

わたしたちはこの経験を、必ず次の世代、またその次の世代に受け継がせる義務があると思います。大学には行く人行かない人いろいろいるけれども、堅信の秘跡はカトリック信者であれば何をおいても受けるべきだし、「自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れる」それだけの価値があると、確信を持って伝える必要があります。中学3年生以上は、確信を持って伝えることができるはずです。

あなたの人生の中で、堅信組の時のように「自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れた」時期が他にあるでしょうか。もしそれほどの努力を払ったのであれば、それは必ず語り継がなければなりません。今日堅信の秘跡を受ける子供たちとともに、信仰を確信を持って伝える恵みが与えられることを神に感謝しましょう。自分の言葉で、信仰は「自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れる」だけの価値があると、伝えることができるよう、ミサの中で聖霊の照らしを願いましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第33主日
(マルコ13:24-32)
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ちょっとひとやすみ
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▼ホームページ「話の森」を幅広のデザインからスマホで見やすいように幅を狭めたことに気付いただろうか。別に気がつかなくてもかまわないが、努力はしているから~のポーズである。ホームページ制作ソフトとしては「ホームページビルダー」を使用し続けているが、本音では「WordPress」に切り替えたい。
▼実は切り替えようとした。切り替えようとはしたのだが、またもや自力で壁を乗り越えることができず、途中で断念してしまった。だれかよく分かるように、手取り足取り「WordPress」を教えてくれないだろうか。
▼どうしても「WordPress」でなければならないとは言わないが、外出先からちょこっと更新、そういうスマートな管理ができればなぁとますます思っていて、あと少しで断念したのは本当に悔しい。悔しい~悔しい~(泣)
▼もう1つ、Windowsパソコンで作ったテキストファイルがiPhoneで読めない(文字化けする)のも悔しい。なんだかんだといろいろアプリを試したが、そのたびに文字化けの壁に突き当たる。Appleの商品を使っていなかったからこの類の苦労は味わってなかったのだが、本当に悩まされている。
▼ところがこの文字化けが、つい最近うそのように解消された。決め手は有料アプリの「Pocketfiler」だった。有料無料のエディタをさまざま使ってみたが、どうもうまくいかず、ちまちまお金だけが減っていたのだが、今回のアプリは350円払った甲斐があった。Windows側で更新していたテキストファイルがすんなり読み込めた。1つ、イライラが減った。

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今週の1枚
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第402回目。今年の堅信式の模様。8日の写真なので後日アップします。

ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/

【文庫本の問い合わせについて】
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諸聖人(マタイ5:1-12a)なぜわたしたちは諸聖人を祝うのでしょう

2015-11-01 | Weblog
当ブログをお読みくださり、ありがとうございます。

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/151101.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
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こうじ神父
「今週の説教」
15/11/01(No.794)
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諸聖人
(マタイ5:1-12a)
なぜわたしたちは諸聖人を祝うのでしょう
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教区広報担当者の全国会議のための東京出張から帰りました。教区報や、教区ホームページの効果的な作り方について、さまざまな会社のホームページ作りにアドバイスを与えている人が講師に招かれ、「カトリック教会の教区報・ホームページにも、会社のホームページの作り方から刺激を受けて、インパクトがあり、説得力のあるホームページ作りを心掛けてください」という内容でした。

講師の授業の中で、サイモン・シネックという人の15分くらいの動画をみんなで見ました。社会に大きな影響を与える人とそうでない平均的な人とでは正反対の行動パターンを取るという説明が印象的でした。大衆を動かせずに終わる人たちの行動は「それは何か」から説き起こして「どのようになっているか」を説明し、「なぜそうなのか」で大衆に行動を促しますが大衆は動かないというのです。

社会に大きな影響を与える人は、「なぜそうなのか」から説き起こして「どのようになっているのか」を説明し、「それは何か」と最後に大衆に示す。すると大衆は行動するというのです。

講師が例に挙げたのは録画ができるテレビでした。多くのメーカーは「これは録画ができるテレビです」から始まって、「今見ている番組を録画したり、前もって予約して録画したりできます」と説明します。最後に「何度でも見たいと思う番組を残せるって素晴らしいでしょ。買いませんか?」と勧めるわけです。ですが実際にはあまり行動を起こしません。

他方ぜひ買ってみたいと思わせるメーカーの宣伝方法は、「なぜあの時録画しておかなかったのだろう。後悔したことはありませんか?」から始めます。そして、「今見ている番組は、録画ボタンを押せばすぐに録画できます」と説明し、最後に「これからはこの録画できるテレビがあなたの悩みを解決してくれます」と売り込むというのです。順番を逆さまにして「なぜそうなのか」から始めるだけで人は行動するのだそうです。あなたも「なぜ」から出発すべきだというのが彼の主張でした。

言われてみると、長崎教区のホームページも「これは何か」から始まって、「どのような中身か」を説明し、「なぜ必要か」と最後に訴えかけているありきたりの作りになっていると思いました。11月10日に、研修で学んだことをどう生かすか、わたしも加わって話し合いを持ちます。ぜひ出張費の元を取れるように努力したいと思います。

11月1日は諸聖人です。せっかくですから、諸聖人の祭日に思いを向け、行動を引き出すために「なぜ」から始めてみましょう。なぜ教会は、死者の月の最初に諸聖人の祭日を祝うように促しているのでしょうか。神のもとにある諸聖人とわたしたちは、どのようにつながっているのでしょうか。

教会はその誕生の初めから、迫害の中にあり、殉教者が絶えませんでした。そして教会は殉教者を記念し続けてきました。4世紀頃からはある特定の日(復活節中のある日、または聖霊降臨最初の主日)に祝っていました。9世紀になって、教皇グレゴリウス4世はこの祝日を11月1日に移し、すべての殉教者から諸聖人にまで広げました。諸聖人は、神によって幸いとされたすべての人を指しています。

すると、福音朗読でイエスが宣言した幸いな人々も諸聖人に加えることができると思います。心の貧しい人々が、天の国を約束されました。さまざまな困難にある人が、イエスによって幸いな人とされました。「義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」(5・10)と約束されました。

これらの人々もすでに神のもとで幸いな人々と呼ばれているのですが、彼らはきっと、同じような境遇にある人々のことを思い、神に取り次ぎを願っているのではないでしょうか。

すると、わたしたちも多かれ少なかれ、心の貧しい人々、悲しむ人々、義に飢え渇く人々であり、迫害者にも柔和で憐れみ深く、心清らかに憎しみを抱かず、争うのではなく平和を作る人々であり、義のために迫害される人々のはずです。

ただ日常生活では罪な生活もあり、純粋にイエスの示された生き方を貫くことができずに悩みつつ歩いているわけですが、そのわたしたちを、同じ道を歩いて先に幸いな人々として神の至福のもとにある人たちが取り次ぎによって助けてくれるはずです。殉教者だけではなくすべての幸いと宣言された人々が諸聖人の交わりにあることを祝うのは、わたしたちにとって意義深いのです。

最後になりますが、来週8日(日)は上五島地区の堅信式です。今日の時点ですでに堅信組の2人は祈りと教えの試験を受け、合格していれば今週のリハーサルを経て大司教さまから堅信の秘跡の恵みを受けることになります。

これまで、「なぜ堅信の秘跡が必要なのだろう」と思ったこともあるかもしれません。また、自分の周りで教会の教えと違うことをしたり人に勧めたりしているのを見て、「注意しなければいけないけど、注意する勇気がない」「どうして注意しなかったのだろうか」思うこともあったでしょう。

堅信の秘跡は、そんなあなたたちの信仰を強め、信仰を力強く証しするために聖霊の賜物を注いでくださいます。忠告すべきときにできなかったあなたに勇気の賜物を与えて、キリストの兵士としてくださいます。これまで信仰の面で「なぜだろう」と思っていたことに答えを与えてくれる。それが堅信の秘跡です。

この大切な瞬間もあと一週間と迫ってきました。祈りは試験に受かるために学んだものではありません。ぜひ習い覚えた祈りを今週一週間まじめに唱えて、すべての聖人方の取り次ぎを願いましょう。知恵と理解、判断と勇気、神さまを知り、神さまを愛し、神さまを敬う心を聖霊である神に与えていただけるよう、諸聖人の取り次ぎを願いましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第32主日
(マルコ12:38-44)
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ちょっとひとやすみ
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▼日本シリーズはソフトバンクの圧勝で終わった。ヤクルトもホームゲームの勝ち方を十分知っているはずだが、ソフトバンクの打線がそれを許さないほど破壊力があったということだろうか。そんな中でシリーズ第2戦をこの目に焼き付けることができた。一生の思い出になった。
▼出張先では日本シリーズの話はほとんど聞こえてこなかった。やはり巨人が日本シリーズに出ていないからだろうか。そもそも野球に関心がないのだろうか。懇親会の歓談の時は、それどころではないとばかり、司教空位の教区にどんな司教さまがどのタイミングで与えられるだろうか、そういう話題が活発に交わさた。基本的にまじめな人たちだ。
▼都会だなぁ、とつくづく思う。担当者の全国会議でカトリック中央協議会に出張していたが、交通手段が3通りも4通りもあったり、料金に1円単位の設定があったり、キメ細かさ選べる数の多さ、確かに都会は便利だと思う。
▼ところがいったん会議から帰ってみると、ぐったり疲れて帰ったその日は何も手につかなかった。飛行機で移動して疲れたのかもしれないが、東京にも飛行機で行ったわけだから、そのことばかりではないはずだ。何か田舎とは違う疲れの原因があるから、田舎に戻ってみると疲れが出るのではないだろうか。
▼そうしてみると田舎は本当に素晴らしい。不便を並べれば数え切れないが、疲れずに日々を暮らすことができている。それだけでもありがたいことだ。生産性は下がるかもしれないが、生産性の歯車に使われ弾き飛ばされて疲れることはまずない。人にやさしい環境は、いつかきっと生産性にも貢献するようになるだろう。
▼話は前後するが、中央協議会に叙階3年目の司祭が教区広報担当者として参加していて、直接話すことはなかったが「若いなぁ~」と思った。それはそうだろう。自分は23年目で、20年の開きがあるからだ。全体のスケジュールの終わりに感謝のミサがあって、主司式をしていたこの神父さまの説教は、なかなか良くて響いた。


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今週の1枚
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第401回目。細長い植物は10月に撮影したからし種。冬を越してくれるだろうか

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【文庫本の問い合わせについて】
文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
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