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‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
2019/6/30(No.1010)
‥‥‥†‥‥‥‥
年間第13主日
(ルカ9:51-62)
救いであるイエスに出会ったなら前へ、前へ
‥‥‥†‥‥‥‥
通常の年間主日が始まり、今週は年間第13主日です。イエスに従う弟子の覚悟が問われています。それぞれ置かれている場所で問われる覚悟も違ってくるでしょう。自分の置かれている場所で忠実にイエスに仕えるための学びを得ることにしましょう。
留学なさる山内啓輔神父様は先週イタリアに旅立ちました。遠く離れて、存在を意識させる。それだけでもたいしたものだと思います。小教区を旅する一介の主任司祭は、次の任地に行けば過去の人になるのだろうなぁと思うと、いないのに意識させるのはすごいことです。山内神父様から、壮行会では大変お世話になりました、皆さんにもくれぐれもよろしくお伝えくださいと頼まれました。確かにお伝えしました。
壮行会で主任司祭からも一芸披露しました。山内神父様が喜んでくれたかは分かりませんが、実は私としては不完全燃焼だったので、完成度を高めて、私の霊名のお祝いの時に自分のためにもう一度やりたいと思っております。
皆さんは「NHKこころの時代」で前田万葉枢機卿様がインタビューを受けられて、それが放送されたのをご覧になったでしょうか。枢機卿様は平戸ザビエル教会から東京潮見のカトリック中央協議会事務局長の辞令を大司教様から受けて東京に行くことになった経緯を話しておられました。
「これは相談ですか、それとも正式な辞令ですか?」前田枢機卿様は当時お母様が司祭館で賄いをしてくださっていて、母を残して東京に行くことに大変迷っておられたのでした。けれども「正式な辞令です」と言われて心を決めて前に進んだ、そのような話をしておられました。
前田枢機卿様のモットーは「お言葉ですから網を下ろしてみましょう」です。それは、人間的な経験や知識を超えた何かを求められるときに、イエスに全面的に信頼して前に進みますという覚悟でしょう。カトリック中央協議会の局長から広島教区司教、さらに大阪大司教区の大司教、そして枢機卿と、一般社会で言えば自動車会社に入社してその会社の執行役員にまで上り詰めたようなものです。そのたびに自分の経験や知識を超える任務を前にして、イエスに信頼することでしか、この重責を担えない。前に進むために、あらゆる物を横に置こう。そういう覚悟を決めていったのだと思います。
この覚悟は、そのまま今週の福音の学びになると思っています。福音朗読の前半は、サマリア人から歓迎されない現実が紹介されています。弟子のヤコブとヨハネは「すぐに裁きを下してもらいましょう」と提案しました。経験と知識に照らして、イエスに対するサマリア人の応対は許しがたいと思ったのでしょう。けれどもイエスは、裁きを御父に任せ、前に進むことを選びました。エルサレムでまもなく迎えるイエスの受難と死が、目の前の出来事よりも優先だと考えたからです。御父が御子イエスに示す計画に、人間的な判断を横に置いて従ったのです。前に進む力は、御父への全面的な信頼、それだけでした。
福音朗読の後半は、三人の人がイエスに従おうとして、ただしこれだけは認めてくださいと条件を交渉します。些細な事柄もありますし、人間として当然の事柄もありました。けれどもイエスに従っていく、イエスと前に進むと決めたからには、「ただしこれだけは」という条件は一切横に置くべきなのです。
たとえとしてふさわしいか分かりませんが、ラグビーというスポーツは基本的に「前へ、前へ」陣地を進めていくゲームです。下がりながら前に進む、というものではなく、ひたすら前に進むために全員が一丸となります。「これだけは一歩引いて」という戦略は存在しないわけです。ラグビーボールを持つ選手を少しでも前へ進める。一歩でも前へ進める。そのためにすべての努力を注ぎます。
イエスの弟子になる覚悟というのは、たとえるならこのラグビーのようなものではないでしょうか。救い主イエスを、少しでも前へ進める。一歩でも前へ進める。そのための努力を惜しまないのが弟子です。弟子の覚悟です。この使命には、「一歩引いてからそのあと前に進む」という戦略はないのです。救い主イエスの言葉とわざを伝えるために、今は旗色が悪いから譲歩して、形勢が良くなったら一気に行こうとか、そういう戦略は存在しないのです。すべてを賭けて、すべてを置いて救い主イエスの言葉とわざを前へ進めるのです。
当然、置かれた場所で覚悟も違ってくるでしょう。小学生と堅信を受けた中学生でも違うでしょう。けれども置かれた場所でできることを、英雄的な勇気で行う覚悟は皆同じです。食前の祈りを習慣にしている人が、「この場ではこっそりお祈りして済ませよう」そんな戦略をとるべきではありません。常に「前へ、前へ」です。
「隣人を自分のように愛しなさい。」声を掛ければ助けてあげられる人がいるのに、「今日はやめておこう」そういう戦略は、イエスの弟子としてあり得ないのです。常に「前へ、前へ」。そうして私たちの弟子としての覚悟は果たされるのです。
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‥次の説教は‥‥
年間第14主日
(ルカ10:1-12,17-20△10:1-9)
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ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥
▼もはやどこで何を言ったのか、いつ頃何を言ったのか、分からなくなってきた。かつて松永司教様がそのようなことをおっしゃって、それ以来メモを取るようになったと言っておられたが、自分のような者がメモを取らずに書いたことがダブったりするのは避けられるはずがない。
▼ある日のこと。教会聖堂内「長崎大司教区の聖堂維持協力金」の箱に、段ボール箱を献金箱の中にはめ込もうと考えた。計ってみたところA4サイズで10センチくらいの深さの箱がよさそう。空き箱を見つけて箱の天井をくり抜いて準備した。
▼箱は準備したが、たまたまそれを献金箱にはめ込むまでに日数を要してしまい、数日後に用意した箱を司祭館で探すがなぜか見つからない。あくまで推測だが、「ゴミ」だと判断されて捨てられたのだろう。あくまで推測。
▼天井をくり抜かれた箱が無造作に応接室テーブルに置かれていれば、使用済みの箱と思われても仕方ない。あきらめて別の箱を探す。あらためて見つけた箱を献金箱に当てはめてみると、意外や意外、サイズがぴったり。あらためて探した箱は、それこそ与えてくれる神様の立場から考えて与えられた、以前の箱よりも目的に叶った箱であった。
▼願い求める私が用意した空き箱が使えず、いったんは気分を害したが、新たに「もっと目的に叶った箱」が神から与えられた。「その日その時に必要なもの」を配慮してくださる神が、与えてくださる側の立場に立って願いを叶えてくれたのだと思う。
▼中田神父の理解では、願う側の立場に立って叶えられるというよりも、与えてくださる、叶えてくださる神の立場に立って与えられている。この考え方が受け入れられるなら、思い切ってこう言えるだろう。私たちが願うとき、「私たちの願いはすべて叶えられる」のである。
‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
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第617回目。もう一度完成度を高めて、山手線を一周する!
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【文庫本の問い合わせについて】
文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
3冊セットの提供が可能になりました。ABC年セットで
2000円です。ご希望の方は住所と名前を添えて連絡ください。
† 神に感謝 †
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こうじ神父
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年間第13主日
(ルカ9:51-62)
救いであるイエスに出会ったなら前へ、前へ
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通常の年間主日が始まり、今週は年間第13主日です。イエスに従う弟子の覚悟が問われています。それぞれ置かれている場所で問われる覚悟も違ってくるでしょう。自分の置かれている場所で忠実にイエスに仕えるための学びを得ることにしましょう。
留学なさる山内啓輔神父様は先週イタリアに旅立ちました。遠く離れて、存在を意識させる。それだけでもたいしたものだと思います。小教区を旅する一介の主任司祭は、次の任地に行けば過去の人になるのだろうなぁと思うと、いないのに意識させるのはすごいことです。山内神父様から、壮行会では大変お世話になりました、皆さんにもくれぐれもよろしくお伝えくださいと頼まれました。確かにお伝えしました。
壮行会で主任司祭からも一芸披露しました。山内神父様が喜んでくれたかは分かりませんが、実は私としては不完全燃焼だったので、完成度を高めて、私の霊名のお祝いの時に自分のためにもう一度やりたいと思っております。
皆さんは「NHKこころの時代」で前田万葉枢機卿様がインタビューを受けられて、それが放送されたのをご覧になったでしょうか。枢機卿様は平戸ザビエル教会から東京潮見のカトリック中央協議会事務局長の辞令を大司教様から受けて東京に行くことになった経緯を話しておられました。
「これは相談ですか、それとも正式な辞令ですか?」前田枢機卿様は当時お母様が司祭館で賄いをしてくださっていて、母を残して東京に行くことに大変迷っておられたのでした。けれども「正式な辞令です」と言われて心を決めて前に進んだ、そのような話をしておられました。
前田枢機卿様のモットーは「お言葉ですから網を下ろしてみましょう」です。それは、人間的な経験や知識を超えた何かを求められるときに、イエスに全面的に信頼して前に進みますという覚悟でしょう。カトリック中央協議会の局長から広島教区司教、さらに大阪大司教区の大司教、そして枢機卿と、一般社会で言えば自動車会社に入社してその会社の執行役員にまで上り詰めたようなものです。そのたびに自分の経験や知識を超える任務を前にして、イエスに信頼することでしか、この重責を担えない。前に進むために、あらゆる物を横に置こう。そういう覚悟を決めていったのだと思います。
この覚悟は、そのまま今週の福音の学びになると思っています。福音朗読の前半は、サマリア人から歓迎されない現実が紹介されています。弟子のヤコブとヨハネは「すぐに裁きを下してもらいましょう」と提案しました。経験と知識に照らして、イエスに対するサマリア人の応対は許しがたいと思ったのでしょう。けれどもイエスは、裁きを御父に任せ、前に進むことを選びました。エルサレムでまもなく迎えるイエスの受難と死が、目の前の出来事よりも優先だと考えたからです。御父が御子イエスに示す計画に、人間的な判断を横に置いて従ったのです。前に進む力は、御父への全面的な信頼、それだけでした。
福音朗読の後半は、三人の人がイエスに従おうとして、ただしこれだけは認めてくださいと条件を交渉します。些細な事柄もありますし、人間として当然の事柄もありました。けれどもイエスに従っていく、イエスと前に進むと決めたからには、「ただしこれだけは」という条件は一切横に置くべきなのです。
たとえとしてふさわしいか分かりませんが、ラグビーというスポーツは基本的に「前へ、前へ」陣地を進めていくゲームです。下がりながら前に進む、というものではなく、ひたすら前に進むために全員が一丸となります。「これだけは一歩引いて」という戦略は存在しないわけです。ラグビーボールを持つ選手を少しでも前へ進める。一歩でも前へ進める。そのためにすべての努力を注ぎます。
イエスの弟子になる覚悟というのは、たとえるならこのラグビーのようなものではないでしょうか。救い主イエスを、少しでも前へ進める。一歩でも前へ進める。そのための努力を惜しまないのが弟子です。弟子の覚悟です。この使命には、「一歩引いてからそのあと前に進む」という戦略はないのです。救い主イエスの言葉とわざを伝えるために、今は旗色が悪いから譲歩して、形勢が良くなったら一気に行こうとか、そういう戦略は存在しないのです。すべてを賭けて、すべてを置いて救い主イエスの言葉とわざを前へ進めるのです。
当然、置かれた場所で覚悟も違ってくるでしょう。小学生と堅信を受けた中学生でも違うでしょう。けれども置かれた場所でできることを、英雄的な勇気で行う覚悟は皆同じです。食前の祈りを習慣にしている人が、「この場ではこっそりお祈りして済ませよう」そんな戦略をとるべきではありません。常に「前へ、前へ」です。
「隣人を自分のように愛しなさい。」声を掛ければ助けてあげられる人がいるのに、「今日はやめておこう」そういう戦略は、イエスの弟子としてあり得ないのです。常に「前へ、前へ」。そうして私たちの弟子としての覚悟は果たされるのです。
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年間第14主日
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ちょっとひとやすみ
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▼もはやどこで何を言ったのか、いつ頃何を言ったのか、分からなくなってきた。かつて松永司教様がそのようなことをおっしゃって、それ以来メモを取るようになったと言っておられたが、自分のような者がメモを取らずに書いたことがダブったりするのは避けられるはずがない。
▼ある日のこと。教会聖堂内「長崎大司教区の聖堂維持協力金」の箱に、段ボール箱を献金箱の中にはめ込もうと考えた。計ってみたところA4サイズで10センチくらいの深さの箱がよさそう。空き箱を見つけて箱の天井をくり抜いて準備した。
▼箱は準備したが、たまたまそれを献金箱にはめ込むまでに日数を要してしまい、数日後に用意した箱を司祭館で探すがなぜか見つからない。あくまで推測だが、「ゴミ」だと判断されて捨てられたのだろう。あくまで推測。
▼天井をくり抜かれた箱が無造作に応接室テーブルに置かれていれば、使用済みの箱と思われても仕方ない。あきらめて別の箱を探す。あらためて見つけた箱を献金箱に当てはめてみると、意外や意外、サイズがぴったり。あらためて探した箱は、それこそ与えてくれる神様の立場から考えて与えられた、以前の箱よりも目的に叶った箱であった。
▼願い求める私が用意した空き箱が使えず、いったんは気分を害したが、新たに「もっと目的に叶った箱」が神から与えられた。「その日その時に必要なもの」を配慮してくださる神が、与えてくださる側の立場に立って願いを叶えてくれたのだと思う。
▼中田神父の理解では、願う側の立場に立って叶えられるというよりも、与えてくださる、叶えてくださる神の立場に立って与えられている。この考え方が受け入れられるなら、思い切ってこう言えるだろう。私たちが願うとき、「私たちの願いはすべて叶えられる」のである。
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今週の1枚
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† 神に感謝 †