こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第13主日(ルカ9:51-62)救いであるイエスに出会ったなら前へ、前へ

2019-06-29 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2019/6/30(No.1010)
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年間第13主日
(ルカ9:51-62)
救いであるイエスに出会ったなら前へ、前へ
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通常の年間主日が始まり、今週は年間第13主日です。イエスに従う弟子の覚悟が問われています。それぞれ置かれている場所で問われる覚悟も違ってくるでしょう。自分の置かれている場所で忠実にイエスに仕えるための学びを得ることにしましょう。

留学なさる山内啓輔神父様は先週イタリアに旅立ちました。遠く離れて、存在を意識させる。それだけでもたいしたものだと思います。小教区を旅する一介の主任司祭は、次の任地に行けば過去の人になるのだろうなぁと思うと、いないのに意識させるのはすごいことです。山内神父様から、壮行会では大変お世話になりました、皆さんにもくれぐれもよろしくお伝えくださいと頼まれました。確かにお伝えしました。

壮行会で主任司祭からも一芸披露しました。山内神父様が喜んでくれたかは分かりませんが、実は私としては不完全燃焼だったので、完成度を高めて、私の霊名のお祝いの時に自分のためにもう一度やりたいと思っております。

皆さんは「NHKこころの時代」で前田万葉枢機卿様がインタビューを受けられて、それが放送されたのをご覧になったでしょうか。枢機卿様は平戸ザビエル教会から東京潮見のカトリック中央協議会事務局長の辞令を大司教様から受けて東京に行くことになった経緯を話しておられました。

「これは相談ですか、それとも正式な辞令ですか?」前田枢機卿様は当時お母様が司祭館で賄いをしてくださっていて、母を残して東京に行くことに大変迷っておられたのでした。けれども「正式な辞令です」と言われて心を決めて前に進んだ、そのような話をしておられました。

前田枢機卿様のモットーは「お言葉ですから網を下ろしてみましょう」です。それは、人間的な経験や知識を超えた何かを求められるときに、イエスに全面的に信頼して前に進みますという覚悟でしょう。カトリック中央協議会の局長から広島教区司教、さらに大阪大司教区の大司教、そして枢機卿と、一般社会で言えば自動車会社に入社してその会社の執行役員にまで上り詰めたようなものです。そのたびに自分の経験や知識を超える任務を前にして、イエスに信頼することでしか、この重責を担えない。前に進むために、あらゆる物を横に置こう。そういう覚悟を決めていったのだと思います。

この覚悟は、そのまま今週の福音の学びになると思っています。福音朗読の前半は、サマリア人から歓迎されない現実が紹介されています。弟子のヤコブとヨハネは「すぐに裁きを下してもらいましょう」と提案しました。経験と知識に照らして、イエスに対するサマリア人の応対は許しがたいと思ったのでしょう。けれどもイエスは、裁きを御父に任せ、前に進むことを選びました。エルサレムでまもなく迎えるイエスの受難と死が、目の前の出来事よりも優先だと考えたからです。御父が御子イエスに示す計画に、人間的な判断を横に置いて従ったのです。前に進む力は、御父への全面的な信頼、それだけでした。

福音朗読の後半は、三人の人がイエスに従おうとして、ただしこれだけは認めてくださいと条件を交渉します。些細な事柄もありますし、人間として当然の事柄もありました。けれどもイエスに従っていく、イエスと前に進むと決めたからには、「ただしこれだけは」という条件は一切横に置くべきなのです。

たとえとしてふさわしいか分かりませんが、ラグビーというスポーツは基本的に「前へ、前へ」陣地を進めていくゲームです。下がりながら前に進む、というものではなく、ひたすら前に進むために全員が一丸となります。「これだけは一歩引いて」という戦略は存在しないわけです。ラグビーボールを持つ選手を少しでも前へ進める。一歩でも前へ進める。そのためにすべての努力を注ぎます。

イエスの弟子になる覚悟というのは、たとえるならこのラグビーのようなものではないでしょうか。救い主イエスを、少しでも前へ進める。一歩でも前へ進める。そのための努力を惜しまないのが弟子です。弟子の覚悟です。この使命には、「一歩引いてからそのあと前に進む」という戦略はないのです。救い主イエスの言葉とわざを伝えるために、今は旗色が悪いから譲歩して、形勢が良くなったら一気に行こうとか、そういう戦略は存在しないのです。すべてを賭けて、すべてを置いて救い主イエスの言葉とわざを前へ進めるのです。

当然、置かれた場所で覚悟も違ってくるでしょう。小学生と堅信を受けた中学生でも違うでしょう。けれども置かれた場所でできることを、英雄的な勇気で行う覚悟は皆同じです。食前の祈りを習慣にしている人が、「この場ではこっそりお祈りして済ませよう」そんな戦略をとるべきではありません。常に「前へ、前へ」です。

「隣人を自分のように愛しなさい。」声を掛ければ助けてあげられる人がいるのに、「今日はやめておこう」そういう戦略は、イエスの弟子としてあり得ないのです。常に「前へ、前へ」。そうして私たちの弟子としての覚悟は果たされるのです。

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‥次の説教は‥‥
年間第14主日
(ルカ10:1-12,17-20△10:1-9)
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ちょっとひとやすみ
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▼もはやどこで何を言ったのか、いつ頃何を言ったのか、分からなくなってきた。かつて松永司教様がそのようなことをおっしゃって、それ以来メモを取るようになったと言っておられたが、自分のような者がメモを取らずに書いたことがダブったりするのは避けられるはずがない。
▼ある日のこと。教会聖堂内「長崎大司教区の聖堂維持協力金」の箱に、段ボール箱を献金箱の中にはめ込もうと考えた。計ってみたところA4サイズで10センチくらいの深さの箱がよさそう。空き箱を見つけて箱の天井をくり抜いて準備した。
▼箱は準備したが、たまたまそれを献金箱にはめ込むまでに日数を要してしまい、数日後に用意した箱を司祭館で探すがなぜか見つからない。あくまで推測だが、「ゴミ」だと判断されて捨てられたのだろう。あくまで推測。
▼天井をくり抜かれた箱が無造作に応接室テーブルに置かれていれば、使用済みの箱と思われても仕方ない。あきらめて別の箱を探す。あらためて見つけた箱を献金箱に当てはめてみると、意外や意外、サイズがぴったり。あらためて探した箱は、それこそ与えてくれる神様の立場から考えて与えられた、以前の箱よりも目的に叶った箱であった。
▼願い求める私が用意した空き箱が使えず、いったんは気分を害したが、新たに「もっと目的に叶った箱」が神から与えられた。「その日その時に必要なもの」を配慮してくださる神が、与えてくださる側の立場に立って願いを叶えてくれたのだと思う。
▼中田神父の理解では、願う側の立場に立って叶えられるというよりも、与えてくださる、叶えてくださる神の立場に立って与えられている。この考え方が受け入れられるなら、思い切ってこう言えるだろう。私たちが願うとき、「私たちの願いはすべて叶えられる」のである。


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今週の1枚
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第617回目。もう一度完成度を高めて、山手線を一周する!

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キリストの聖体(ルカ9:11b-17)聖体は父なる神から私たちに与えられる

2019-06-22 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2019/6/23(No.1009)
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キリストの聖体
(ルカ9:11b-17)
聖体は父なる神から私たちに与えられる
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キリストの聖体の祭日を迎えました。私たちに与えられる聖体の恵みはあふれるほど豊かです。どこからこの豊かな恵みが出ているのかを考え、私たちも神様の豊かな恵みにあずかる方法を考えてみることにしましょう。

田平教会出身の山内啓輔神父様がイタリアに留学することになり、私たち田平教会の信徒で元気づけて、送り出しましょうということになりました。留学経験は本人だけのものですが、勉強した内容は将来長崎教区に、また日本の教会に戻ってきますので、収穫がたくさんあるようにお祈りし、気持ちよく送り出したいと思います。

中田神父は残念ながら留学の経験が無いので、山内神父様に偉そうなことは言えません。駅前留学すら、経験がありません。フィリピンに10日間研修に行ったことと、イスラエル巡礼に2度行ったことと、韓国のソウルに2度行ったこと、これが海外経験のすべてです。これから数年にわたって暮らす神父様の苦労は、並大抵ではないと思います。

ただいろんなことを考えたのではないだろうかと想像はします。たとえば、どうして私が留学しなさいと言われたのだろうか。どうしてこれこれの分野を勉強することになったのだろうか。どうして今年から留学することになったのだろうか。いろいろ思ったのではないでしょうか。

実際は、それらに納得がいくような答えは与えられないかも知れません。納得のいくような答えは見つからないかも知れません。それでも私は、留学の機会が与えられたのだから行ってくるべきだと思うし、学んでくるようにと言われた分野に興味を持ってみるべきだと思っています。

最終的に、思い巡らすいろいろな疑問に答えを与えてくれるのは、やはりイエス・キリストだと思います。特に今週のキリストの聖体の祭日に与えられた福音朗読は、疑問に十分答えてくれると思っています。イエスが「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」(9・13)と投げかけたとき、弟子たちはとても自分たちにはその任務は負えないと思ったのです。

彼らの手元には「パン五つと魚二匹」しかありませんでした。弟子たちの持ち合わせが心細かったと言うよりも、彼らが考えるもとにしていた根拠が頼りなかったのです。そこでイエスは、彼らのより頼む根拠から出発して、不思議な体験を積ませてくれました。

イエスは、弟子たちが「根拠になり得ない」と考えたものを道具に用います。「イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。」(9・16)ただ五つのパンと二匹の魚は、いったん弟子たちの元を離れ、イエス・キリストの手によって御父に委ねられたのです。そして御父からイエスの手を通して返していただいたとき、五つのパンと二匹の魚は「根拠になり得ないもの」から、「偉大な道具」に変わっていたのです。

山内啓輔神父様の留学を、私が計り知ることはできません。自分自身に当てはめて考えるとき、私が「なぜだろう」と考えたのは教区の広報委員長をするようにと任命書をもらったときでした。それまで広報委員会で委員に加わっておりましたが、委員長はちと荷が重い、なぜこうなったのだろうかと思い悩んだのです。

けれども答えは広報委員長任期中に巡ってきた188福者の列福式に関わったときに与えられたのです。すでに教区報の編集でアップアップだった私は、もはや自分の能力を超えている、もうこれ以上背負えないと思っていました。

けれども一日一日、自分で背負っていたものを下ろして神様にお委ねして床につき、次の日を迎えるといった繰り返しをしているうちに、「私が抱えてしまっては実を結べなくても、いったん神様に手放して戻ってきたものを引き受けていると、大きな働きにつながるのかな」という実感が持てるようになりました。

今週与えられた福音朗読の中でも、弟子たちがよりどころにしていたものは悲しいくらいに貧弱なものだったのですが、それをイエス様が御父にお渡しすると、あっと驚くものになって返ってきたわけです。ここには御聖体の恵みが暗示されています。イエス・キリストが御自分を十字架の上で御父にお渡ししたことで、御父から私たち人類に返してもらったものは、計り知れない御聖体の恵みになったわけです。

誰しも、自分自身の能力や現状を考えると、「なぜ」と思えることがあるのは確かです。その疑問に答えてくれる鍵となるのは、よりどころにしているものをいったん神様に明け渡すということです。神様に明け渡して、そのあと返ってくるときには、答えも添えられて返ってくるのです。計り知れない恵みとなって、返ってくるのです。

留学する山内神父様は、たくさんの勉強をし、たくさんのものを見て、たくさんの人に巡り会うでしょう。長崎教区の為、日本の教会の為に豊かな実りを持ち帰って欲しいと思います。その鍵となるのは、留学期間のすべてを、いったん神様に明け渡して、それから受け取る。ここにあるのだと思います。

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‥次の説教は‥‥
年間第13主日
(ルカ9:51-62)
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ちょっとひとやすみ
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▼最近「音声入力」を状況に応じて利用するようになった。初めて音声入力をしている場面を見たのは一人の先輩で、食事会の席だった。にぎやかな場所で正確に声を文字に変換し、検索させていた。それを見て「隔世の感があるなぁ」と思ったものだ。
▼実は音声入力そのものは昔からあったし、何度も取り入れた時期があった。だがどれもしっくりいかなかった。変換の能力が見劣りしたのが最大の原因だが、マイクつきのヘッドフォンをセットして利用するという「見てくれの悪さ」もあったかもしれない。
▼しかし先輩が実行していたのは、単純にスマホに呼びかけるというものだった。ただそれでも私は飛びつかなかった。今度は「スマホに話しかけている姿」に抵抗を感じたからだ。それから2年、とうとう見てくれを捨てて、利用する気持ちになった。
▼理由の一つは、変換の能力が格段に向上したこと。おそらくネットを仲介して変換しているのだろう。ネットの向こうでは大型のコンピューターネットワークがフル稼働しているに違いない。ネットの向こうで作業させる。こうなると自分のパソコンにソフトを入れて利用する音声変換が到底追いつけないのは当然である。
▼もう一つは、「ものは考え方次第」ということか。長崎に出かけて時間を持て余すとき、自分のノートパソコンがあれば仕事できるがそれがない。そういうときに、メモ書き程度なら音声入力でも十分である。メモを出張先で作り、持ち帰る。すると文字がいくらかでもできあがっているのでとても助かる。こういう用途なら使えるかなと思った。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
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第616回目。ヤーウェを「主」と読む。すると、「主、主は・・・」となるぞ?

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三位一体の主日(ヨハネ16:12-15)父と子と聖霊を等しくたたえる

2019-06-15 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2019/6/16(No.1008)
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三位一体の主日
(ヨハネ16:12-15)
父と子と聖霊を等しくたたえる
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三位一体の主日を迎えました。三年かけて、三位一体の主日を学ぼうと取り組んでおります。今年はその三年目です。今年は「聖霊なる神」について考えてみたいと思います。

黙想会に参加してきました。田平教会にも来てくださった大阪の酒井補佐司教様が説教師でした。いつもですとメモをしっかり取るのですが、今年はメモを取るよりも話に聞き入りたいと思うような講話でした。最後まで、メモを取らずにずっと話に耳を傾けておりました。

一応、聞き直しができるような準備はさせてもらいました。長崎への移動の時などに聞いてみようと思っています。とても聞きやすい声で話してくださり、田平の時と同じように資料をスクリーンに映し出しながらの講話は分かりやすかったです。

三位一体の主日を「御父」「御子」「聖霊」と学ぶ三年目です。一点だけに絞ります。聖霊を取り上げるときに聖霊だけを強調することのないようにしたいと思います。たとえば聖霊運動などはそうでしょう。カトリック教会の中で聖霊の働きかけを特別視する集まりです。

私は一度、福岡の大神学校で助祭の時に病人訪問をお願いされて信徒のグループと一緒にある家庭を訪ねました。実習先の教会信徒だったので訪問の許可は主任司祭から得て出かけました。私が聖体を授けた後、「病人に聖霊の特別な癒やしを願いましょう」と誰かが祈り始めました。すると皆が恍惚状態になって、ある人は異言すら語り始めました。私は怖くなって、そのグループとは病人を訪ねなくなりました。

聖霊の特別ないやしの働きを願うことは、悪いことでは無いと思います。けれども、聖霊を特別視するのは問題があります。今日朗読された福音の中で「その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語(る)」(16・13)とありますし、「(その方は)わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである」(16・14)と言われているのです。

つまり、聖霊の働きは御父と御子から出るもので、決して聖霊が一人歩きしてあっと驚く癒やしを施したりはしないのです。癒やしが与えられる時それは、「御父と御子から、聖霊を通して」与えられるのです。私がそれと知らずに聖霊運動のグループと病人を訪問し、直感的に「これは何かがおかしい」と感じたのは、聖霊の働きを熱心に願ってはいても、授けられた御聖体以上に聖霊の働きを特別視していたことでした。

聖霊は必ず、賜物を与えてくださいます。それは同時に、「御父」と「御子」からもたらされる賜物です。それ以外の、聖霊だけが特別視された恵みを願うべきではないと思います。私たちは長く聖霊の賜物をいただける世代です。だからこそなおさら、「父と子と聖霊」を等しくたたえる恵みを願いたいと思います。

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‥次の説教は‥‥
キリストの聖体
(ルカ9:11b-17)
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ちょっとひとやすみ
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▼すごく体調が悪く、午前中横になっていて、午後からも3時まで頭が回らず、説教と向き合うことができなかった。黙想会で英気を養ってくるつもりが、疲れて起き上がれない。年に一度か二度、気圧の関係で身体が動かないときがある。そんな一日だった。
▼申し訳ないけれども、説教案はA4一枚、原稿用紙で3枚程度だろうか。実際の説教の時間は6分くらいだろうと思う。5分弱かもしれない。張り切って現場に戻ってきたつもりだったが、黙想会を充電の場にすることができず、田平教会の皆さんにすぐには還元できそうにない。
▼黙想会を指導してくれた酒井司教様はオプス・デイ出身の司教様ではあるが、私が知る範囲の酒井司教様はどんな色にも染まっていない司教様だと思う。司教様が司教様としての働きを十分発揮できるように、続けて祈りたい。
▼そう思えるようになったのは韓国の王朝ドラマを観るようになってからだ。朝鮮の歴代の王はそれぞれの理想を掲げて王座に就くが、両手両足を朝廷の重臣に押さえつけられて思うような働きができないというのがドラマのパターンである。ドラマだと思って観ているけれども、他人事ではないと思える部分もある。だから、司教様としての働きが十分にできることを心から願っている。

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今週の1枚
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第615回目。説教師の司教様に教区総代理が挨拶。説教をうまくねじ込んだ。

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聖霊降臨の主日(ヨハネ14:15-16,23b-26)聖霊は欠けている私たちを満たしてくださる

2019-06-08 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2019/6/9(No.1007)
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聖霊降臨の主日
(ヨハネ14:15-16,23b-26)
聖霊は欠けている私たちを満たしてくださる
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聖霊降臨の主日を迎えました。「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」(14・26)イエスの言葉を思い起こさせ、その意味を理解させてくださる聖霊を、私たちも豊かに受けましょう。

長崎教区司祭の黙想会が火曜日から始まります。黙想会ですからもちろん各自が何かの学びを得てそれを小教区に持ち帰るお恵みの時なのですが、私はそのほかにも、今まで欠けていた何かを埋めていただくひとときでもあると思っています。

もう20年以上も前のことですが、黙想会に行くと一人の先輩から同じことを質問され、ほとほと困っておりました。当時私は浦上教会の助任だったのですが、その先輩神父様が食事の席で相席になり、「あんた、今どこか?」と聞いてくるのです。

黙想会はざっと百人が集まる大所帯で、朝昼晩、ふだん顔を合わせることのない先輩方に混じって食事を共にします。大きな食堂で食べる割には案外同じ席を好むもので、窓のある席、壁を背にした席など、先輩方が選ぶ席は結構決まっておりました。

若い司祭たちは通路の混み合う席とか、残り物の席を選んで先輩の席が減らないように気を配って座っておりました。その中で、「おう。あんた、今どこか?」と聞かれたのです。当然私は「浦上の助任です」と答え、その場はそれで終わりました。

次の年も私は浦上の助任でしたが、黙想会での食事中に例の先輩から同じ質問をされたのです。「おう。あんた、今どこか?」私は笑顔で、「はい。浦上の助任をしております」と答えました。その年も、その先輩との会話はそれだけでした。さらに翌年、同じ先輩が三度同じことを聞いてくるのです。「おう。あんた、今どこか?」

「仏の顔も三度まで」と言います。私はつい、言わなくてもいいことをその先輩に言ってしまいました。「別に、誰でもいいでしょ?どうせ興味ないでしょ!」これで話が終われば、名前を覚えてくれない先輩司祭と、生意気な後輩司祭の話で終わりなのですが、これには続きがあるのです。

その次の年、私は浦上教会の助任として五年目でしたが、またあの先輩が食事の時に近寄ってきて声を掛けるではありませんか。「このやろう」と心の中では思っていたのですが、その先輩は私にこう言いました。「おう。浦上も五年目か。そろそろどこかの主任やな。」

私はなぜかもらい泣きしそうになりまして、「ありがとうございます」と答えてあとは何を話したか、頭が真っ白になりました。それからこの先輩は私を見ると、「おう。田平はどうか?」と正確に私の任地と赴任年数を踏まえた声かけをしてくれるようになったのです。

三年同じ質問をされて頭にきて「どうせ興味ないくせに」と言った私には、何かが足りなかったのだと思います。先輩は本当に私に興味がなかったかも知れません。けれども四年目には、「何が足りなかったのか」を見極め、見事に私の期待を良い意味で裏切ってくださったのです。黙想会で、欠けている何かを埋めていただいた先輩は、四年目には私にその姿で私にも欠けていたものを理解させてくださったのだと思います。

今日、聖霊降臨を祝っていますが、聖霊は私たちキリスト者に、人間として欠けているものを満たしてくださるお方ではないか。そう考えました。私たちは福音書を通してイエスの言葉、態度に触れ、それを学び、生活に生かそうとしています。けれども人間的な欠陥があって、イエスの言葉は分かるけれども、実行できないときがあり、理想と現実の隔たりに肩を落とすのです。

「一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」(ルカ17・4)このイエスの言葉は十分理解できますが、同じことができない。その欠けたところを埋めてくださるのは何でしょうか。

もし、欠けたところを埋めるのが自分自身の努力だとしたら、ある人は努力で埋め合わせて高い目標に到達するでしょうが、ある人はとてもそのようなことはできないかも知れません。そして、たどり着いた人はたどり着けない人を見下すという愚かなことをするかもしれない。

もしこれが、人間の努力ではなく、もっと大きな愛、大きな力が人間の欠けたところを満たしてくれるのだとしたら、私たちは互いに喜び合うことができるでしょう。その大きな愛、大きな力とは、言うまでもなく「弁護者である聖霊」のことです。

あらためて、欠けたところを埋めることができたとすればそれは「弁護者である聖霊」のおかげであり、埋めることのできない人に私たちは「いつくしみ」のまなざしを注ぐ。聖霊が働いてわたしたちの欠けたところを埋めてくださるのであれば、私たちは皆互いに喜び合うことができるのです。

聖霊は、私たちがイエスの言葉に聞き従おうとするとき、欠けているところを埋めて、満たしてくださるお方だと考えました。そうしてイエスの言葉と行いをことごとく理解し、自分のものにできるのです。

イエスの言葉とわざは、すでに完全に示されましたが、これを十分に理解するためには、聖霊の注ぎが私たちに必要なのです。「隣人を自分のように愛しなさい」この言葉がどうして身につかないのか。聖霊の注ぎが必要だからです。

欠けているところを埋め、満たしてくださる聖霊の照らしがなければ、イエスの言葉とわざを生きたものにできないのです。心から、聖霊の照らしを願い、欠けている私を満たしてくださるように祈りましょう。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
三位一体の主日
(ヨハネ16:12-15)
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ちょっとひとやすみ
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▼黙想会は聖霊の照らしがある場所だと思う。自分で言うのもなんだが、ふだん司祭館にいて机に向かっていては得られないものを得ることがある。「だったら聖堂にこもって祈ってみろよ」と言われそうだが、いつもの環境では気づかないことがあるのだと思う。
▼私たちの黙想会は司祭の黙想会なので、司祭同士で学ぶ姿を見ることになる。司祭どうして祈り、司祭同士で赦し合う。小教区の主任とか助任とか、その他の責務にあるとか、そういうことから離れて、一人の司祭として、自分を見つめ、互いを見る。
▼共同でミサをする。そこは全員司祭でささげるミサ。その緊張感がとても心地よい。全員司祭という環境で、指名された司祭がミサの福音朗読後に説教をする。25年過ぎた私でも、説教台に立ちたいとは思わない。
▼若気の至りか、司祭十周年の時に説教の機会が与えられ、大神学院で大勢の先輩司祭を前に説教をしたことがある。九州管内の多くの先輩たちがいる中で、「新司祭の時、朗読担当の信徒が読み間違いをしようものなら飛んでいって間違いを指摘していました。五年経つと、優しく諭して間違いを指摘するようになりました。」
▼「十年経つと、私が行かずとも私が教育した典礼委員が注意しに行くはずと思い、様子を見ていましたら、間違って福音朗読を読んでいたその信徒が『キリストに賛美』と言うまで誰も注意しに行きませんでした。ついでに説教もすればよいのに、とさえ思ったほどです」そんなことを話した。
▼十年も経つと、その場を楽しむほど、変化したのだなと可笑しかったのである。だがこの説教は先輩方を立腹させたようで、ミサ後にお叱りを受けることになった。何かの視点が足りなかったのだと思う。それを解消して話す機会は、金祝のミサの時か。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
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第614回目。時計持っているくせに真ん中の時計を買った。ムーングラフ付き。

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主の昇天(ルカ24:46-53)天に昇り、すべての人の主となられた

2019-06-01 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2019/6/2(No.1006)
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主の昇天
(ルカ24:46-53)
天に昇り、すべての人の主となられた
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主の昇天の祭日を迎えました。キリストの聖体まで一連の祝日が日曜日ごとにやって来ます。名前と、順番を、中学生くらいからしっかり覚えて欲しいと思います。もし中学生高校生がしっかり覚えてお父さんお母さんが覚えていないなら、その時だけは子供が親に威張っても構いません。

フランシスコ教皇は、5月31日正午に、三浦町教会の主任司祭であるペトロ中村倫明神父様を長崎大司教区の補佐司教に任命されました。日頃重責を担っておられる髙見大司教様も大きな助け手を与えていただいたのではないかと思っております。2019年の主の昇天は、中村倫明被選司教様に触れながら考えてみたいと思います。

私事ですが、中村倫明被選司教様は私が中学一年で神学校に入学したときの高校二年生でした。とても真面目で信心深く、神学生のあいだでは聖人と呼ばれていました。ひょっとしたら、今の中村被選司教様を知っている人は、「せいじん」は「せいじん」でも「別の星からやって来た異星人」と思っている人がいるかも知れません。私も実は、どこであの真面目な人があれほど人を楽しませる人に変わったのか不思議でなりませんでした

ですが、私は縁あって中村被選司教様のふるさとである太田尾小教区に初めての主任司祭として赴任したのです。今から20年以上前のことです。そこで6年過ごし、生まれ育った「塩田地区」の雰囲気に触れて、「あー。ここで幼い頃に育てば、こうなるのは当然だ」と納得したのでした。その地区の人はだれもが芸達者でした。小学生でさえ、小皿をカチカチ鳴らしながら踊りを踊る地区でした。

けれどもこのたびの補佐司教の任命で、すべてのことをいったん手放さなければならなくなったと思います。7年目に入っていた三浦町小教区の主任司祭、またクルシリヨの指導司祭、ほかにも私の知らない数々の務めを果たしておられたことでしょう。それらを手放し、長崎教区全体のため、日本の教会と世界の教会全体のため、新しい形で神様の道具となる必要があります。よく決断なさったなぁと思いました。

ところでさまざま引き受けておられた務めは、後任を決めなければなりません。すぐに任命しなければならないのは三浦町教会の主任司祭です。どなたか適当な方がおられるのでしょうか。私は最近やっと、7キロの鯛を釣ったばかりなので、私は行くことはできません。5月の転勤で同じ任地に6年おられた方は異動なさったのですから、そうなると5年間同じ任地におられる神父様の中から、選ぶことになるのではないでしょうか。誰とは言えませんが、すぐに人事異動も発表されることだと思います。

さて、中村被選司教様は、このたびの辞令で、小教区の主任神父様という立場から、司教様という立場になられました。実は私は中村被選司教様のことを、「倫明さん」と親しみを込めて呼んでいました。けれども司教様になられたのですから、「中村司教様」と呼ばなければならないと思います。「倫明さん」と「中村司教様」とでは、天と地の開きがあると思いませんか?雲の上の存在、私たちから遠く離れた存在になってしまうのでしょうか。

被選司教様の立場からまず考えてみましょう。被選司教様はきっと、今まで通りの接し方を希望されると思います。もちろん立場の違いは厳然としていますから、公の場で「倫明さん」と呼ぶことは失礼に当たります。けれども心の中では「倫明さん」「おう。中田」そういう関係を心から望んでいるのではないでしょうか。

私たち一般の司祭の立場から考えてみましょう。誰かが教皇様の指名で司教様になることは当然あり得ます。けれども選ばれた司教様が雲の上に行くのであれば、その司教様は誰のための司教様でしょうか。そんな司教様だったら、神様の良い僕としてお仕えすることはできないと思うのです。

ですから誰かが司教様に選ばれるとき、それは雲の上の存在になるのではなく、もっと心を砕いて、すべての教区民に親しまれる存在になろうとするのではないでしょうか。一つの小教区の主任司祭は、一つの小教区の信徒に慕われ、愛されるならそれで務めを果たすことができるでしょう。けれども司教様になったからには、一つの小教区の司教様よりも、もっと信徒に愛され、身近に感じられる方になろうと努力するはずです。

私はここに、主の昇天に見るべき意味合いがあると思っています。復活したイエスが、御父のもとに、天に昇られました。それは決して雲の上の存在になるためではないはずです。人となられた神の子が公生活で活動された場所は限られています。その場所に限って務めを全うするだけならば、天に昇られる必要など無かったでしょう。そうではなく、復活した主は限られた場所の主から、すべての人の主となられるために、天に昇られたということです。すべての人の救いのために心を砕く主として働き続けるために、天に昇られたのです。

私たちが神学生時代に「倫明さん」と呼んでいた方が、補佐司教様となられます。これからも補佐司教様は「倫明さん」でいてくれると信じたいと思います。そのように、復活した主が天に昇られたのは、地上でその姿を見た人の救い主で終わらず、すべての人の救い主となられるのです。それは雲の上の存在になることではないと思います。あえて言うなら、もっと素晴らしい、もっと高い意味での「倫明さん」になられたのです。

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‥次の説教は‥‥
聖霊降臨の主日
(ヨハネ14:15-16,23b-26)
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ちょっとひとやすみ
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▼中村倫明被選司教様と言えば、過去に私は横柄な態度を取って被選司教様に悲しい思いをさせたと思う。この場を借りてお詫びしたい。被選司教様が小神学校で働いていた時代、私は生意気な大神学生であった。
▼ある日、大神学生が小神学校に立ち寄った。夏休みに入る頃だったかもしれない。大神学生は大勢でやって来ていて、小神学校の食堂でもてなしてもらっていた。中村倫明被選司教様は好意で麦茶をついでくださっていたが、麦茶がなくなった。
▼「麦茶のおかわりください。」私はその場で中村被選司教様に言った。顔色が変わった。たたみかけるように私は言った。「今は神学校の神父様で、私たちに麦茶をついでくださっているのですから、わたしたちの求めに応じて当然でしょ。」当時はそう思っていたのである。
▼中村被選司教様は文句一つ言わず、黙って麦茶のやかんを補充して持ってきた。今になって思うと、あまりに横柄な態度だったと言わざるを得ない。たしかに大神学校時代、神学院祭という行事の中で上級生が「ボーイ」の格好をして給仕をする伝統があった。
▼私たち下級生はボーイをしている先輩を呼びつけ、「ナイフが落ちたので取ってください」などと言っていた。中にはわざと落としてボーイ役の先輩に取らせていた人もいたかもしれない。そんな延長線上で、「麦茶、おかわり」と言ったわけだ。
▼中村被選司教様は当時のことを覚えていないかもしれない。人格者なので、覚えていても「忘れた」と言うかもしれない。そんな先輩が司教様になる。私は心から敬意を表したい。そして親愛の情を持ってこれからも「倫明さん」と心の中で呼びかけたい。

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今週の1枚
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第613回目。写真に、26聖人の聖アントニオ役の中村被選司教様がおられる。

ホームページもご覧ください。
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† 神に感謝 †
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