こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第30主日(マタイ22:34-40)あなたの生活は二つの掟に基づいているか

2017-10-28 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2017/10/29(No.910)
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年間第30主日
(マタイ22:34-40)
あなたの生活は二つの掟に基づいているか
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「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」今週の福音朗読の答えがここにあります。わたしたちの生活も、この二つの掟に基づいているはずです。わたしは、神を愛する見えるしるしを、隣人を自分のように愛することで表すことができているでしょうか。

11月、いくつかの大事な予定が組まれています。2日(木)死者の日に田平教会の亡くなった方々のためにミサをします。田平教会は大きな家族なので、信徒の中からたくさんの修道者、司祭を輩出し、そのうちの何人かはすでに眠りについています。こうした聖職者、修道者の為にも合わせてお祈りしましょう。

5日(日)、わたしは郷里の鯛之浦教会に行って叙階25周年の感謝のミサをささげてきます。田平教会にも12人の主任司祭が与えられました。中には亡くなられた歴代主任司祭もいますので、その方々の為にも日を改めてお祈りしたいと思います。わたしは5日のミサで、司祭職という生き方は思い付かなかった人も多いかもしれないが、「いちばん偉い人」を目指しているなら、考えてみてほしいと話そうと思っています。

12日(日)女性の会のバザーがあります。午後からは生月「黒瀬の辻」殉教祭とこの教会に戻ってきて「鉄川與助の建てた教会」について鉄川進氏から講演をしていただきます。わたしたちがお世話になっているこの聖堂をもっと深く知り、大切に守っていくためのヒントをいただきたいと思います。

こうしてみると、わたしたちが神を礼拝し、神に感謝し、神に願うために、この教会堂は重要な役割を果たしていると思います。ほとんどの人は、洗礼を受けて永遠の命をいただくために、この教会堂のお世話になったわけです。

大人の信者になるための堅信の秘跡も、互いに愛と忠実を尽くすことを誓ったのも、教会堂の中においてです。「神を愛するのに建物は直接関係がない」と言えなくもないですが、わたしたちの身体は「祈りの為に建てられた家」と「生活のために建てられた家」とでは、「祈りの家」で祈るほうが、より祈りに入りやすいことを知っているわけです。

今週の福音朗読で、イエスは律法の専門家が仕掛ける新たな罠を見破ります。当時律法の専門家は書かれた掟のほかにも言い伝えとして受け継いだ掟があり、一つ残らず掟を守るのはほとんど不可能でした。その中で自分たちはすべての掟に背かず生きていることを誇りにして、他人を見下していたのでした。

「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」(22・36)律法の専門家がイエスにこう尋ねたのは、答えを聞きたかったというよりも、どれか一つの掟を答えとして選んだ場合に、「この人は掟の一つは重要だと言ったが、ほかをないがしろにした」と言いがかりをつけるための落とし穴として尋ねたのです。巧妙な罠でした。

イエスは彼らの罠を見破り、答えます。「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(22・40)たとえばそれは、ビーズ細工をつなぐ糸のようなものです。神を愛することと、隣人を自分のように愛することが掟を貫く糸であり、この糸を失ったら一つ一つの掟はバラバラになってしまうのです。

あるいはウイスキーの樽を縛っている「たが」のようなもので、「たが」が外れれば樽は形を保てないし、意味を為さないのです。掟を守ることが、神を愛し、隣人を自分のように愛することに結びつかなければ、意味を為さないのです。

教会には秘跡があります。神の目に見えない恵みを、目に見えるしるしによって与えてくれるものです。恵みは神が与えるのですから、人間の道具を必要としません。神はあえて、その恵みの中でも七つを、人間が感じることのできるしるしで用意してくださいました。わたしたちにとって、恵みをいただくのに「見えるしるし」は大いに役に立つのです。

わたしたち人間にとって、神を愛する目に見えるしるしは、「隣人を自分のように愛すること」です。隣人とは、まずはすぐそばにいる人です。わたしのすぐそばにいる人は誰でしょうか。その人と、どのような関係を築いているでしょうか。ここから考えて、各自それぞれの答えを見つけてほしいと思います。

もう一つの「すぐそば」についても言わせてください。11月12日、鉄川與助の思いを今に受け継ぐ鉄川進設計事務所の代表鉄川氏に講演をお願いしています。わたしたちが神を礼拝し、神に感謝をささげ、また願いを打ち明ける時、建物である聖堂が深くかかわっています。神は愛するが隣人は愛さない。そんな信仰が成り立たないのであれば、神を礼拝するが聖堂はどうでもよい。そんな礼拝も成り立たないのではないでしょうか。神を愛する、その目に見えるしるしが聖堂を愛することと言っては、言い過ぎでしょうか?

聖堂を愛するきっかけを得るためにも、12日の夕方5時からの講演会は、一人でも多く参加してほしいのです。わたしたちがより良い礼拝をささげるために、この田平教会聖堂の成り立ちを知り、どのようにかかわっていけばよいのかを学ぶのはとても良いことだと思います。

日頃、聖堂の内外清掃をわたしたちの手でしております。清掃を心掛けなくても礼拝は可能かもしれません。しかし、聖堂を完全に放置すれば、埃だらけ、カビだらけになり、神を礼拝するどころではなくなるのではないでしょうか。

わたしたちは体を持った存在で、礼拝も心だけで礼拝しているのではなく体である聖堂を使わせてもらっています。12日の講演がきっかけになって、「神を愛することは、聖堂を愛することと深くかかわっている」そう感じることができれば幸いです。

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‥次の説教は‥‥
年間第31主日
(マタイ23:1-12)
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ちょっとひとやすみ
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▼2週連続で台風が週末にやって来た。心配で船を見に行ったが、「台風のコースが東寄りなので、思ったよりは大丈夫だよ」と、お隣さんの漁師さんに声をかけてもらった。ただ、長く乗船していなかったツケが。
▼利用している船は「船内船外機」というタイプなのだが、プロペラ部分(いわゆる船外機)がチルトダウン(ボタン操作で海中に降ろす)できなくなっていた(泣)牡蠣がいっぱいついていたのでそのせいかと思ったが、結論から言うと違っていた。
▼不安材料が2つあったので、思い切ってエンジンを扱える人を紹介してもらった。オーバーヒートの問題、船外機部分のチルト操作の問題。すぐに機械屋さんが来てくれた。紹介してくれた教会の信徒もいっしょに見てくれて、診断と、これからの対処法を説明してもらった。
▼どうやら、処置を施せばまた海に出ることができるらしい。ありがたいことだ。また海の男になって、広い海原で次の一手を考える。そうして港に戻った時は新たなアイディアを引っ提げてみんなの舵取りができればと思っている。
▼診断とは別のこともその場で話題となった。船は停泊しているだけでは牡蠣がこびりつき、船は水の抵抗を受けて前に進みづらくなる。半年に一度とか、船を陸揚げして船底を洗い、ペンキを塗りなおす必要がある。この船は2年もその作業を怠っていて、「そんな船で海に出てるって?」と笑われた。

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今週の1枚
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第517回目。100年以上前の洗礼台帳。個人情報ではあるが、どうしても調べたい。

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年間第29主日(マタイ22:15-21)神のものを神に返すわたしたちに人々は驚く

2017-10-21 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2017/10/22(No.909)
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年間第29主日
(マタイ22:15-21)
神のものを神に返すわたしたちに人々は驚く
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「彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、イエスは、『これは、だれの肖像と銘か』と言われた。」(22・19-20)ファリサイ派の人々は、「皇帝への税金」を餌に、イエスを罠にかけようとします。イエスは偽善者たちの罠を打ち破り、本来考えなければならないことに目を向けさせます。イエスの問いかけはわたしたちにも当てはまります。

先週、インフルエンザのシスターの代用教員をしてみて、小学1年生2年生の指導は大変だなぁと思ったと話しました。その続きの話もしておきましょう。3人来ていた子供たちに、イエス様を信じる人々が増えてきたら、「福音を宣べ伝えなさい」「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい」という務めは、そのうちに手が足りなくなってくるよね~どうしたと思いますかという話を最後にしました。一人芝居までして、説明をしたのです。

「イエス様を信じる人が、1万人になったら、遠くに住んでる人のお世話をしに、『行ってきま~す』と出かけて、3日くらいして『ただいま~』って帰ってくる。信じる人が5万人くらいになったら『行ってきま~す』『ただいま~』って1ヶ月くらい戻ってこれなくて、ずいぶん家を空けてしまうよね。10万人にもなれば、『行ってきま~す』『ただいま~』って帰るまでにもしかしたら3ヶ月もかかるかもしれない。そうなったらどうすればいいかなぁ。」

この時わたしが説明したかったのは、「12人の弟子たちだけではお世話が難しくなるので、後を引き継いでくれる『司教様』を国ごとにとか、地方ごとに選んで、イエス様に託された仕事を続けていったんだよ」ということでした。こうして教会が広がっていくのと同時に、地方にも司教様が選ばれてイエス様からの務めは立派に果たされたと言おうとしたのです。

「信じる人が10万人になると、遠くまで務めを果たしに行って、3ヶ月もしてから『ただいま~』ってなるよね?」と聞きました。すると先週正解を答えに書いていた女の子が自信を持ってこう言ったのです。「大丈夫。留守番できるから。」そうか~。留守番できるのね。じゃぁ司教様も要らないか。わたしはそれ以上説明できませんでした。こんな小さな子供たちが留守番できるのであれば、立派な大人たちは司祭が250年間戻ってこなくても、留守番できるはずだとも思いました。

さて今週の福音朗読で強調したいのは、「神のものは神に返しなさい」という力強いイエスの返事です。当時パレスチナで流通していた貨幣には、皇帝の肖像が刻まれていました。お金は、いくら貯めていても役に立ちません。お金は使うことで、価値が出てきます。皇帝が要求してきた税金を払うことも、お金を必要に応じて使うことの一つでしょう。

同じように、わたしたちは神のものを神に返す、あるいは神のものを神のために使う必要があります。わたしたち人間には、ローマの貨幣に皇帝の肖像と銘が刻まれていたように神の像が刻まれています。ですからわたしたち自身を神に返す、神のために使う必要があるのです。

神ために自分自身を使う身近な場所は教会です。典礼奉仕はその最たるものでしょう。ただ、皆さんの典礼奉仕を見ていて、せっかくの奉仕がもったいないなぁと感じることが多々あるのです。わたしたちはお金の使い方は少しでも無駄にならないようにと気を遣うのに、自分自身を神さまのために使うことになぜあまり気を遣わないのでしょうか。

たとえば、第一朗読・第二朗読をお願いされた人が朗読台にやってきて朗読をします。よく聞き取れない時がありますね。せっかく自分自身を神さまのために使っているのに、朗読が聞き取れないとか何度も読み間違えて流れが悪いとか、もったいないなぁと思います。共同祈願も、聞き取れないことがあります。自分自身も朗読した聖書が耳で聞いて理解できない、唱えた本人が共同祈願の内容が聞き取れないなら、それは誰のための朗読、誰のための共同祈願なのでしょうか。

祈りの先唱の人は、必ず自分のあとを皆さんが継いで唱えます。そのつもりで先唱する人は、あとを継ぎやすいように間を空けてくださいます。「すべてを造り、治められる神よ」でしっかり止めてくれたら、皆さんはたやすくあとを継ぐことができますが、「すべてを造り、治められる神よいつくしみ深い御手の中で始めるこの集いを祝福し・・・」とやられると、あとを継ごうにも継げないのです。

せっかく奉仕しているのですから、「もったいない」と思わせるような奉仕で終わらないよう、あとひと手間かけてください。マイクが声を届けてくれているか気にするとか、わたしの朗読の声だけで十分意味が伝わっているか気にする。先唱の人は、皆さんがあとをスムーズに継げるように、止めるところはしっかり止める。そういう「あとひと手間」があれば、神さまからいただいたわたし自身を、神さまにお返しする、神さまのために使うことになると思います。

ちなみにイエスは「皇帝のものは皇帝に」とも言われました。皇帝が当時のローマ帝国に及ぼしていたのは政治的な影響力です。わたしたちも目の前に選挙を控えています。衆議院選挙と、平戸市議会議員選挙です。どちらも、よく考えたうえで大切な一票を投じてください。

国政選挙は600億円ものお金が先につぎ込まれています。1人あたり600円くらいです。この600円、選挙に行って1票を投じれば、国民の税金を国民に返すことになるのです。国民の税金が先に使われているのに、投票せず、お金を捨てるようなことは決してしてはいけません。

「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」(22・21)特にカトリック信者であるわたしたちは、自分自身を神さまのために使って、人間に刻まれている神の肖像と銘を曇らせないようにしましょう。いやいや奉仕しても、もったいない使い方にしかなりません。あとひと手間かけて、もっと喜ばれる奉仕にしましょう。人間の権利と義務の上に、神の栄光となるカトリック信者の権利と義務を果たして、人々を驚かせる者となりましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第30主日
(マタイ22:34-40)
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ちょっとひとやすみ
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▼小神学生時代にお世話になった神父様を見送った。通夜、葬儀ミサを終えて長崎教区の聖職者が眠る赤城墓地まで行き、納骨を見届けた。いずれはわたしも眠る予定の場所である。広いとは言えない地下の納骨堂。できれば太陽の降り注ぐ場所に眠りたいが、死んだ後には言われたとおりに納骨されるしかない。
▼年齢を重ねた先輩は、「いずれは・・・」とは思っていないのか、「すぐそちらに行くから」そんな感じで遺影や遺骨に声をかけている司祭もいた。我々とは覚悟が違う。まだ死を身近なものとは思えない我々には、たどり着けない境地だ。
▼11月5日、鯛之浦教会でお世話になる時の説教と、11月12日、生月「黒瀬の辻」殉教祭ミサでの説教が出来上がった。誰と比較することもせず、わたしなりに区切りの説教としたつもりだ。この25周年が終わると、次に目立つのは50周年。まぁ、存在していればの話だ。そして最後は、前述した先輩司祭のように死んだ時だ。
▼マカオ。有りだな、と思った。海外は基本的に物価が安いから、同じ資金で日本以上のゆとり生活ができるのかもしれない。引退してからは、誰かに義理立てて働く必要もないはず。自分が納得できる生活ができる国を選ぶのも有りかもしれない。
▼そう言えば、最後の語学の勉強として、韓国語を勉強しているのだから、韓国で余生を暮らすというのも考えられる。いくら何でも引退するころには一通り話せるようになっているだろう。身についている予定の言語によっては、海外移住も有りなのかも。

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今週の1枚
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第516回目。葬式で、クライマックスシリーズ行けなかったけど、負けてたしな。

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年間第28主日(マタイ22:1-14)あなたに礼服を着せたのは誰ですか

2017-10-14 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2017/10/15(No.908)
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年間第28主日
(マタイ22:1-14)
あなたに礼服を着せたのは誰ですか
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年間第28主日A年で取り上げられた「婚宴」のたとえは、神の国に多くの人が招かれる可能性があることを教え、同時に本人の責任で放り出される可能性もあると教えます。鍵となるのは、「礼服を着ているかどうか」です。

長崎教区の先輩司祭が一人亡くなりました。わたしや田平教会の同期の方が小神学校時代にお世話になった「阿野武仁」神父様です。小神学生時代、ずっと会計係をしていたので、わたしにとっては会計の神父様という印象でした。

いくつか思い出があります。入学直後に「霊名を言ってみなさい」と質問されて、「ペトロです」と答えました。母親が間違ってわたしに教えていたのですが、阿野神父様が「あなたの霊名は鯛之浦教会の記録によると『トマス』ですよ」と言うのです。忘れもしませんが、わたしはこの時「証拠がないと信じられません」と言ったのです。後になって、この返事の仕方こそわたしの霊名がトマスである証拠だと思いました。

神学校の朝ミサで、ミサ前に黙想の時間があって、それぞれ担当の神父様が黙想の話をしてくれるのですが、阿野神父様は学生の最後尾から話をしていました。前に立って話をすれば神父さまを見ながら話を聞くことができますが、姿がなくて後ろから声だけ聞こえるので、眠たくてよく居眠りしていた覚えがあります。これもあとになって気づくのですが、姿を当てにせず、声だけを頼りに深く黙想するための訓練だったのでしょう。そうとも知らず、いつも眠って申し訳なかったと思います。

神父様はよく拳骨を落とす方でした。規則違反とか、神学校での試験の成績が悪かったとか、何かにつけてたくさんの拳骨をもらいました。高校生になった時、宗教の授業で「少なくとも年に一度、告白すべしとは、いつのことを指していますか?」と聞かれたことがあります。

クラスの全員答えに窮していました。一列目が答えられなくて拳骨一発ずつ、二列目が答えられず拳骨二発ずつ、三列目は三発ずつ、徐々に拳骨の数が増え、わたしの列では六発くらいになっていました。いよいよわたしに質問が回ってきて、苦し紛れに「いつでもいいです」と答えたところ、望み通りの答えだったのか、拳骨が落ちなかったのでした。

おそらく、神学生によって阿野神父様の思い出は両方あると思います。恨みを持っている人もいるでしょう。規則違反で往復ビンタを何発も食らった人もいるわけですが、司祭になった人も、そうでない人も、阿野神父様を通ったことでどんなに鍛えられたかわかりません。神父様になった先輩で、顔が腫れるくらい往復ビンタを食らった神父様が、「当時は恨んでいたけれども、あそこで終わっていたら今はないのだから、感謝している」と言っているのが印象的でした。

わたしは、阿野神父様と小神学校時代、さらに上五島時代と二度関わったので、小神学校時代しか見たことのない人とは違った見方を持っています。たしかに小神学校では鬼のような神父様でしたが、上五島に赴任した時はおじいちゃん神父様で丸くなっていました。

もちろん小神学校時代の記憶はなかなか抜けませんでしたが、それほど極端な人ではなく、別の時代に出会っていたら、付き合える神父様だなという印象を持ちました。晩年はご自分の衰えと、思うように導けない歯がゆさと闘いながらの司牧生活だったと思います。先月だったか、病気療養中だと聞き、わたしはてっきり上五島病院だと思っていましたが、マカオに滞在中体調を崩したようです。

あっと驚く死に場所でした。マカオでお亡くなりになると、だれが想像するでしょうか。詳しいことはわかりませんが、神父様は萩原神父様と一緒にローマで勉強し、ローマで司祭に叙階されています。きっと学友もたくさんいたことでしょう。その中に、親しかった学友がマカオにいたのかもしれません。今はご遺体を引き取りに行っていて、戻ってから通夜と葬儀の日程が決まると聞いています。

阿野武仁神父様の追悼の辞に終始してしまいました。最近長崎教区は司祭の通夜の時に24時間の連続ミサをしなくなりました。かつては30分間隔で徹夜のミサをしていましたので、若い司祭たちにも思い出を語る機会がありました。今は通夜の説教を担当する司祭と、葬儀の説教を担当する司祭しかチャンスがありませんので、せめてこの場で話をさせてもらいたいです。

最終的に二つのことを思いました。一つめは、阿野神父様はおそらく自分の最後が近づいていることを感じていたのでしょう。婚宴に招かれるその日のために、礼服の準備を整えようとマカオに行ったのかなと思いました。もし、学友を訪ねたのであれば、自分の身支度を、学友に手伝ってもらったのかもしれません。そして立派に礼服を着て、王が王子のために用意した祝宴に招かれて行ったのではないでしょうか。

二つめは、阿野神父様の厳しい指導で、礼服を身につけた神学生、司祭、そして司教様もいたということです。わたしたちは誰もが天の国の婚宴に招かれるとき、礼服が必要です。礼服がなければ、善人も悪人も、区別なく放り出されることになるのです。たとえ神学校であっても、善人も悪人もいるのが共同生活です。学生を区別せず、神学生に求められる脇目もふらずに生活する道を厳しく指導した阿野神父様は、出会った学生すべてに、礼服を着せてくれたのではないかと思っています。

わたしたちはどうでしょうか。わたしたちに礼服を着せてくれた人は誰でしょうか。その人に感謝しているでしょうか。また、わたしたち自身は、だれかに礼服を着せるお手伝いをしたでしょうか。

わたしに礼服を着せてくれた人を証言すれば、その人も婚宴に招かれるでしょうし、わたしたちが誰かに礼服を着せてあげれば、わたしたちも招かれます。善人も悪人も、一人残らず、礼服を着て天の国の婚宴にあずかれるように、できるお手伝いをしたいものです。

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‥次の説教は‥‥
年間第29主日
(マタイ22:15-21)
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ちょっとひとやすみ
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▼あとで聞いた話だが、やはり役割分担というのはあるようで、「校長先生」がおおらかな人であれば、「副校長」は厳しい人と組み合わせて釣り合いが保たれる。阿野神父様は当時の濱崎渡校長がおおらかな人だったので、あえて厳しい役回りを引き受けたのだろう。
▼阿野神父様の居室は1階だった。濱崎校長が2階だったので、そうなるのだと思うが、阿野師が1階にいることで反抗期真っ盛りの神学生にとってはかなり抑制効果があったのだと思う。たとえば規則違反をしようにも、神学校の外に出かけるには1階を通らなければならない。
▼もちろん、わたしたちの時代には豪傑もいて、二階のチャペル脇のドアから夜に無断で外出し、ゲームセンター(?)に行く先輩もいた。何も知らず、中学1年の時に「休憩時間に敷地の外に飛んで行ったサッカーボールを取りに行ってくる」と言われ、無断外出の手引きをしたこともあった。
▼晩年、上五島地区でご一緒した時、「さすが」と唸ったことがあった。地区の神父様たちで中学生の要理テキストの話題になり、どういったテキストを使っているかという話になった。わたしはある先輩のプリント教材を借用していたが、阿野師は「YOUCAT」を使っていると事も無げに答えたのである。
▼「YOUCAT」とは、「Catechism for Youth」という意味で、新たにローマから出された若者向けの要理書だった。当然、新しい教科書は予習復習が必要である。それが面倒で、昔から慣れたものを使い回している自分は、恥ずかしい思いだった。
▼小神学校時代に英語を教えてくれたのを思い出す。発音がアメリカ英語だったかどうかは定かではないが、懐かしい思い出だ。ギラギラ反射するメガネは、ちびまる子ちゃんで登場する学校の先生みたいで、上五島に赴任した時も変わらないメガネだったので思わず笑ってしまった。

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今週の1枚
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第515回目。九州視覚障害者情報提供施設協議会理事会でのチョコ。有名らしい。

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年間第27主日(マタイ21:33-43)収穫を受け取る主の栄光のために働く

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こうじ神父
「今週の説教」
2017/10/8(No.907)
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年間第27主日
(マタイ21:33-43)
収穫を受け取る主の栄光のために働く
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年間第27主日A年の福音朗読を味わうために、第一朗読を少し意識してみましょう。ひごろから、第一朗読、第二朗読のことを前置きして福音朗読に向き合うことが望ましいですが、今週は特にそのことを意識してみましょう。

数日前に広島のMさんからショートメールが入りました。「10月19日(木)、マツダスタジアムのチケットが手に入りました。ご一緒しませんか?」というものでした。この方は広島の司教様の運転手なのですが、願ってもない連絡にすぐ飛びつきたい気持ちを抑え、確認を入れてみました。「広島の司教様は、その日の予定はどうなっていますか?」

すると、すぐに返事がきました。「広島の司教様もいっしょにマツダスタジアムです。中田神父様がその日司教館に泊まるようでしたら、司教様とご一緒にミサができるように手配します。いかがでしょうか。」

答えはもう決まっているのですが、もったいぶってこう返事をしました。「その日は典礼委員会が予定されていますので、日程の調整ができたらわたしも加えてください。」19日(木)の典礼委員会、前日か、翌日か、一週間後か、いずれかに変更願います。

さて今週の福音朗読をもう一歩踏み込んで考えるために、第一朗読にヒントをもらいたいと思います。第一朗読は「イザヤの預言」です。不忠実なイスラエルの民に回心を迫る書物ですが、「わたしの愛する者」はぶどう畑に良いぶどうを植えました。そして良いぶどうが実るのを待ったとあります。

ここで「良い」と日本語に訳されている箇所はそれぞれ別の単語が使われていて、「わたしの愛する者」が植えたとされる「良い」ぶどうの木、ここで使われている「良い」は、「選りすぐりの」という意味があるそうです。

他方、「良いぶどうが実るのを待った」という場面での「良い」は、「まあ、普通に」ぶどうの汁を絞ることのできるぶどうという意味で、「選りすぐり」のような特別な価値を含んでいないそうです。

すると、ここで登場する「わたしの愛する者」が植えてくださったぶどうの木は選りすぐりのぶどうの木であり、そこから期待したのは、「まあ、普通に」ぶどうの汁を絞れたらそれで十分という控え目な期待だったことが分かります。

「しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。」この落胆は大きいでしょう。選りすぐりのぶどうの木を植え、まあ普通にぶどうの汁を絞れたらそれでいいよと言っているのに、その控え目な期待にさえ応えてくれない。ここを理解して、福音朗読に入っていきたいのです。

福音朗読でも、同じような物語の構造がみられるでしょうか。ぶどう園の主人はぶどう園を極めてよい状態に整えて農夫たちに貸し与えました。僕たちを送り出したのは、「収穫の時が近づいたとき」でした。これはつまり、いよいよ収穫の時になって受け取りにだけ来たのではなく、収穫の時を共に喜び合うために、少し早めに入って一緒に汗を流して収穫し、それを受け取ろうという主人の配慮でしょう。主人が最後に送った息子も、やはり共に汗を流して収穫の喜びを分け合うつもりでした。

わたしはここにも、イザヤ書と重なる設定を考えてよいと思います。ぶどう園の主人は、選りすぐりのぶどう園を準備して農夫に貸しました。僕たちは、分け前だけを取りに来たのではなく、ともに汗を流そうと少し早めに来ました。愛する息子も、ぶどうの収穫にあれこれ注文を付けていないのです。選りすぐりの収穫でなくても、普通に収穫を納めればよかったわけです。

結果はどうなったでしょうか。無残な結果に終わりました。控え目に見積もった収穫の受け取りすら、主人は受け取ることができませんでした。本来なら「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」(21・41)

こうなっても仕方がなかったのですが、このたとえで予想される結末を超越して、神は人間の救いの為に「家を建てる者の捨てた石」(21・42)となられたイエスを通して、救いを成し遂げてくださったのです。選りすぐりの、さらに極みである御子イエス・キリストさえいけにえにして、神はご自分の救いの計画を完成されたのです。

わたしたち田平教会の家族は、今週のたとえから何を学ぶことができるでしょうか。田平教会はあと八ヶ月もすると教会献堂百周年を迎えます。収穫の時が近づいているのです。収穫の時が近づいて、一人ひとりこの場所に神から僕として送られてきたのです。

少し時間を与えられて、献堂百周年を迎えようとしています。わたしたちは互いに力を合わせて、汗を流して、収穫の時を迎えようとしているでしょうか。「百周年の事業のために実行委員会が組織されているではないか。」たしかにそうですが、田平教会を形作っている神の民全員が収穫の為に手を差し出さなければ、本当の収穫は得られないのではないでしょうか。

誰かが手を開かず握りしめたままそこにいたら、神が受け取るべき収穫は、間引きされ、横取りされて、みすぼらしいものになってしまうでしょう。「ご主人様、わたしたちを百周年に遣わしてくださいましたが、ご覧ください」と、主である神と喜びを分かち合えたらと思います。

たとえ話のように、田平教会の神の民にも収穫の時はもうすぐそこまで来ています。「収穫を自分のものにしてしまおう」「わたしがいたから計画は成功したのだ」などというような自己中心的な考えはいっさい捨てましょう。もしそのような人がここに混じっていたら迷惑です。そうではなく、神に収穫をお渡しする。その一点に集中して、これからの八カ月を過ごしてまいりましょう。一つひとつのわざは、収穫を受け取る主の栄光となるべきです。

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‥次の説教は‥‥
年間第28主日
(マタイ22:1-14)
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ちょっとひとやすみ
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▼記録は嘘をつかない。Facebookの関連アプリであるMessenngerに、Mさんとの会話が残っている。(中田)「ところで、今年もクライマックスシリーズ応援に行きたいです。今年は特に、銀祝なので思い出になります」
▼(M)「こんにちは。CSですが、全力で取りたいと思っています。取れたら、ぜひ一緒に応援しましょう」(M)「こんにちは。CSのチケットが確保できました。19日ですが、一緒に応援しませんか?」
▼(中田)「この日会議です。ずらせないか相談してからあらためて返事します。三連勝で日本シリーズに駆け上がりたいですね」(M)「決まり次第連絡ください。また一緒に応援したいですね。」
▼(中田)「参加でお願いしいます。司教様はお会いできるでしょうか」(M)「司教様も行かれます。神父様の司教館宿泊も確保しています」以上。この文面からすると、わたしがけしかけたのだったかもしれない。

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今週の1枚
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第514回目。ちょっと早いが、上五島巡礼と鯛之浦教会での銀祝ミサ日程表。

ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/

【文庫本の問い合わせについて】
文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
3冊セットの提供が可能になりました。ABC年セットで
2000円です。ご希望の方は住所と名前を添えて連絡ください。
† 神に感謝 †
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