こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

神の母聖マリア(ルカ2:16-21)マリアはイエスと共に成長する

2013-12-31 | Weblog
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‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
14/01/01(No.687)
‥‥‥†‥‥‥‥
神の母聖マリア
(ルカ2:16-21)
マリアはイエスと共に成長する
‥‥‥†‥‥‥‥

新年明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。守るべき大祝日である御降誕と神の母聖マリアの祭日は、ミサの依頼を発表しませんので、依頼された方のミサは、あらためて次のミサで発表いたします。また、本日の神の母聖マリアのミサの終わりに、新成人を迎えた方の祝福式をおこないます。皆さんで、新成人をお祝いしましょう。

昨年末に茨城県に住んでいる妹が、妹の子を連れて里帰りしていました。半年前と比べてどれくらい成長しているだろうかと実家に様子を見に行きました。半年前は1歳9ヶ月、何かを話しているのですがまったく聞き取れませんでした。

それが、2歳3ヶ月ですっかり変わって、飼い猫を見れば「ねこ」と呼びながら指さしましたし、「こんばんは」のようなあいさつもオウム返しですが返せるようになっていました。「へぇ、話せるようになるんだ」と当たり前のことを妹に聞いたら、「最近はよちよち歩きじゃなくて、走り回って困るの」と成長ぶりを聞かせてくれました。

成長していく子供もそうですが、母親となった妹も、子供と一緒に成長しているのだなぁと思います。わたしとは10歳離れていますが、結婚し、母となったことが本人を成長させてくれているのだと思います。

さて、世界中どこでも新年のミサは「神の母聖マリア」を祝います。今年は、母として成長するマリアの姿に注目してみました。マリアも、大きな使命を託されて、立派に成長していったのでした。当時はとても早く結婚していたでしょうから、マリアがイエスの母となったときは、10代の後半から、20代にかけてのことだったでしょう。すると、一人の人間として、まだまだ成長途上にあったのだと思います。

マリアの成長は、マリア一人だけで積み上げていったのでしょうか。わたしは、御子イエスがそばにいることで、マリアは成長し、完全な者となっていったと思います。マリア一人では理解することも受け止めることもできないようなたくさんの出来事がマリアの一生涯には起こりましたが、彼女が「出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」(2・19)この姿勢で何事も受け止めることができたのは、イエスがそばにおられたからなのです。

つまり、マリアはイエスを産み、神の母になるという恵みをいただいたことで、すべての女性の模範、すべての母の模範となるほどに成長し、完成されていったのです。神の母聖マリアはいつもイエスと共に成長していきました。マリアが登場する場面には、つねにイエスの姿があります。

神の母マリアの称号は、もちろんイエスの母マリアにのみ与えられる称号です。ですが、神の母マリアの生涯の歩みは、わたしたち皆にも模範として示されています。マリアが神の母であるのは、神の子を宿したたった一人の女性であるからですが、同時に、イエスを大切に育て、イエスから離れずに暮らし、イエスのどんな小さなしぐさも見つめながら生きておられたからでもあります。

すると、わたしたちはイエスの母になることはできませんが、イエスの近くにいてイエスと共に暮らし、イエスの小さなしぐさも見つめながら生きることは可能なのではないでしょうか。マリアは、イエスと共に歩む中で神の母聖マリアとして成長し、完成されていきました。

同じように、わたしたちが新しい年をイエスと共に歩むなら、マリアのように成長することができます。神の母聖マリアを称えるわたしたちは、神の母聖マリアが成長していった歩みに倣って、わたしたちのさらなる信仰面の成長を願うことができます。

今年一年、わたしたちがより良い年であることを願うなら、それは神と共にある生活を願うのがいちばんの近道です。どのようにして神が共にいてくださる生活を積み重ねていけるか、それぞれ考えましょう。今日こうして礼拝に集まったように、ふだんから教会に足を運ぶことも神と共にある生活を維持する力になります。

礼拝に集い、祝福を受け、派遣の言葉に送られながら、今年一年、また成長していきましょう。神の母聖マリアの取り次ぎを願いながら、イエスと共に生きる決意を確かめ合うことにしましょう。

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‥次の説教は‥‥
主の公現
(マタイ2:1-12)
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ちょっとひとやすみ
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▼大晦日にわたしは決まって一年を振り返り、手書きのメモのような「遺言状」を書くのが習慣になっている。書式を守っていないので遺言としての有効性がないが、わたしにもしものことがあったときは、このメモに沿って残った物を処分して欲しいと思っている。
▼2013年はいろんな出会いに恵まれた年だったと思う。また、苦手なことに挑戦することもできた。それもこれも人との出会いがあってのことだが、特に「歩くこと」に目を向けることができたのは大きな収穫だった。
▼昨年は人生で初めて、20kmという長距離を歩いたが、それは今年の3日間で100kmを歩き通す準備に過ぎない。去年歩くことの奥の深さみたいなものを考えさせられて、それが今年の計画に繋がっている。あと2ヶ月。来年2月と言っていたのが嘘のようだ。
▼合同自主トレをそんなにひんぱんに出来ない分、自主トレをできるだけ続けるよう努力している。去年12月28日に往復11kmあるき、30日の歩き納めとして12kmをこなした。歩くのがいちばん遅い移動手段だが、歩くのがいちばん収穫の多い移動手段でもある。
▼浜串の上にある「浜串入り口」というバス停から「神ノ浦」というバス停までを往復したとき、さまざまなゴミが道路脇に捨ててあるのが目に留まった。車で走っても、道路の崖下に捨てられたゴミは決して見ない。だが歩いてみると、美しい自然がいかに汚されているかがよく分かる。
▼空き缶や、生活ゴミがたくさん捨てられていたのは想定内だったが、赤白の工事現場で使用する三角のポールとか、お酒を運ぶケースとか、考えられないものまで捨てられていた。三角のポールは強風で飛ばされた可能性もあるから断定はしないが、お酒を運ぶ四角の大型ケースは捨てなければあんな場所にはないはずだ。
▼これからも、いちばん遅い移動手段でいちばん多くの情報を収集したい。いちばん苦労して移動して、いちばん苦労した時代の人たちの信仰に触れたい。時間はかなりかかるが、時間以上の収穫をいつも感じている。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第294回目。鯛ノ浦港(上)と、有川港(下)の区間を往復。歩くのも悪くない。

ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/

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ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
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聖家族(マタイ2:13-15,19-23)聖家族がたどった「新しい出エジプト」

2013-12-29 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
13/12/29(No.686)
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聖家族
(マタイ2:13-15,19-23)
聖家族がたどった「新しい出エジプト」
‥‥‥†‥‥‥‥

最近浦桑で買い物をしていた時、鯛ノ浦で暮らすご婦人に「神父さま久しぶり」と声をかけられました。神学生だったときからわたしを知っている人なのですが、わたしを見つけてつい声をかけたくなったそうです。

その人が続けてこんなことを言いました。「お父さん亡くなられてからもう4年?5年かな?神父さんのお父さんが亡くなって思うんだけど、よくまぁお父さんに似たもんだなぁとつくづく思うわけ。そう思ったことありませんか?」わたしも似ているんだろうなぁとは思いますが、そこまで気にしたことはありませんでした。

「お父さんがいた頃は、似ているとは思っても、やはりお父さんはお父さん、神父さんは神父さんだと思ってたわ。でもお父さんが亡くなってみると、まるでお父さんが道を歩いているみたいに神父さん歩いているし、神父さんのしぐさがまるでお父さんがそこにいるように見えるのよ。よくまぁこんなに似たものだと、ほとほと感心してね。」そう言ってその人とはその場を別れました。今となっては思い出すことができない父の面影を、このご婦人との会話で思い出すことができました。

さて聖家族の祝日を迎えました。聖ヨセフに焦点を当てて、今年最後の主日の学びを得ましょう。ヨセフはイエスの幼少期に決定的な役割を果たしたはずですが、あらためて福音書を読み返して、一切ヨセフの言葉が残されていないことに驚きました。本当に、どこにもないのです。

今週の福音朗読から振り返ると、主の天使が夢でヨセフに現れ、「ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた」(2・14-15)となっています。「さあ急いで行こう」といった言葉すら、見つけることができません。

再びエジプトからイスラエルの地に行くときも、「ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来た」(2・21)となっていますが、ここにもヨセフの言葉は見つかりません。「アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。」(2・22)彼の恐れや不安を伺わせる言葉も見当たりません。

いちばん不思議に思うのは、12歳になったイエスを伴ってエルサレム神殿に礼拝に行ったあと、両親がイエスを見失い、それから3日間かけて神殿に引き返し、イエスを見つけたときです。マリアはその時こう言っています。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」(ルカ2・48)中田神父の家庭でしたら、父親のカミナリが落ち、平手が飛んでいたでしょう。この場面ですら、ヨセフの言葉を見つけることができないのです。

こうなると、「ヨセフはどんな人柄だったのだろうか」と考え込んでしまいます。お人好しで、一言も口をきけない人だったのでしょうか。けれどもお人好しが、婚約していたマリアをかばい、縁を切ろうと決意したりできるでしょうか。どんな危険が待ち受けているかも知れない道のりを、マリアとイエスを連れてエジプトまで避難出来るでしょうか。

あるいはまったく違った性格で、父親として絶対的な人物だったのでしょうか。ヨセフが厳しい父親だったことを伺わせる聖書の箇所も見つかりません。それでも、「この親にしてこの子あり」という諺が示すように、弟子を集めるイエスの統率力や、徹底的な奉仕の姿、権力の濫用を決して許さない強さ、人の悲しさに深く寄り添うことのできる感受性など、多くの部分が両親から与えられたもののはずです。ですからきっと、ヨセフがイエスに残してくれた特徴もあると思うのです。

ですから、困難に出くわす家族を最後まで守り抜いたヨセフの人柄を、どうにかして描き出したいと思うのです。そこで気がついたのが、「ヨセフは主の天使の声に、いつも忠実に従っている」ということです。それは、主の天使の言いなりということではなく、神の声に、最高の信頼を置いて生きたということです。

つまり、ヨセフは自分と家族の運命が、完全に神の導きの中にあることを理解し、すべてを、主のご命令に忠実でありたいと願って生きた人だったわけです。ヨセフの言葉が聖書から拾えないのは、ヨセフが一切を、主のみ旨に沿うように生きたしるしだと言えるかも知れません。イエスは、人として、父なる神に一切を委ねて生きるヨセフの姿を、そのまま生き写しにして生きられたのではないでしょうか。

ヨセフが、完全に神の望みに忠実であったとすれば、朗読されたエジプトへの避難とイスラエルの地への出発もまた、神の望みの忠実な再現だったはずです。かつてエジプトを舞台に繰り広げられたご計画がありました。それは出エジプトの物語です。イスラエルの民が神の望みに忠実に留まるなら、民を導いて約束の地に住まわせるというものです。

マタイ福音記者は、聖家族のエジプトへの避難とエジプトからの出発を、かつての出エジプトと重ねていたと思われます。聖家族のエジプトへの旅とエジプトからの旅は、神の望みに完全に忠実であろうとするヨセフを通して、「神が聖家族を導いて、約束の地に住まわせる」という真理を描こうとしているわけです。聖家族は、「新しい出エジプト」をわたしたちに示そうとしているのです。

聖家族の旅が「新しい出エジプト」であるなら、わたしたちも、聖家族に倣って「新しい出エジプト」を体験するよう期待されています。「新しい出エジプト」それは、「今、神の望みに忠実に留まるなら、神はその家族を導いて約束の地に住まわせる」というものです。

あなたが家族を持っているなら、その家族の中で神の望みに忠実であろうと努めましょう。家族を持たない人は、教会という神の家族の中で、神の望みに忠実であり続けましょう。忠実であろうと努力し続けるなら、神はわたしたちを導き、行く手を守り、最後には約束の地である神の国に住まわせてくださいます。聖家族の取り次ぎを願いましょう。

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‥次の説教は‥‥
神の母聖マリア
(ルカ2:16-21)
‥‥‥†‥‥‥‥


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ちょっとひとやすみ
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▼今年最後の雑談。最近便利だなぁと思ったのはインターネット回線を利用したラジオ。たとえばNHKのネットラジオ「らじる★らじる」。これを利用すると、NHKのラジオ第1・第2・NHK-FMが、雑音のないクリアな音質で聞くことができる。わたしは勉強していないが、NHKのラジオ講座をしている人にはきっと有り難いと思う。
▼仕組みはどうなっているのか知らないが、雑音がないのは本当にありがたい。五島列島でラジオを聞いていれば、韓国の電波が邪魔をして聞きづらいという体験はだれもがしている。また、車で移動中さまざまな電波と干渉してがまんしながら聞くこともある。場所によっては(「今里バス停周辺」のことだ)雑音でまったく聞こえなくなるときもある。
▼それに比べ、「ネットラジオ」の音質はすばらしい。ただネットという制約はあるので、インターネット回線に繋がっていなければ、ラジオは流れてこない。ただ、家の中にいてラジオを安定して聞き続けることが困難な環境にある人には、どんなにありがたいことだろう。
▼まったく話は変わるが、木曜日から金曜日にかけての深夜に、デザイナー対談がおこなわれていた。工業デザイナーの奥山清行氏と、建築家の安藤忠雄氏の対談だ。彼らの仕事は、ネット上で展開される出来事とは真逆の場所にあると思う。ネット上の出来事はある部分「仮想現実」だが、デザイナーが手掛けることは「未来に残る現実」だからだ。
▼とても興味深い話だった。奥山氏がトラクターをデザインすることになって、彼の考えによると、「トラクターをデザインするのはきっかけで、自分は『農業』をデザインするのだ」と言っていた。農業に魅力を感じ、農業にあこがれるようにデザインしたそうだ。
▼安藤氏はご存知のように、独学で建築の分野での地位を築いた。「勉強出来ない子は無理して勉強せんでもええ」ときっぱり言っていた。説明が必要な発言だが、勉強出来ない子が学校の勉強で人間を量られるのはかわいそうだとおっしゃっていた。その通りだと思う。学校の勉強ができなくても、世界を変える人もいるのだから。
▼奥山氏、安藤氏、共に言っていたのが「無駄の大切さ・無駄の意味」だった。空白とか無駄が、人に何かを考えさせる。空白や無駄のないデザインは面白くないし、われわれの手掛ける仕事ではないと。「一切無駄を省いた○○」のような商品は、言ってみれば「面白くも何ともないガラクタ」なのである。
▼年の瀬押し迫って、「仮想空間」に足を置いて暮らしつつある自分に、現実の生活に足を置くように、もう一度考えさせられるひと時をもらったと思う。デザイナー対談は、もし再放送があるなら、今度は録画して繰り返し学びたい。

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今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第293回目。今年最後に買ったどうでもよさそうな(笑)もの。折りたたみ式。

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主の降誕(日中)(ヨハネ1:1-18)肉となった言(ことば)に耳を傾ける

2013-12-25 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
13/12/25(No.685)
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主の降誕(日中)
(ヨハネ1:1-18)
肉となった言(ことば)に耳を傾ける
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あらためて主の降誕おめでとうございます。夜半のミサでわたしたちは、神が不可能を可能にして人類の救いのために御子をお遣わしになったことを黙想しました。今日、ヨハネ福音書が語る神の救いのご計画を黙想することにしましょう。

ヨハネ福音書は、神である御言葉の働きについて語ります。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」(1・1)「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」(1・3)一つの点に注目してみました。それは、「肉となった言(ことば)に耳を傾ける」ということです。

「耳を傾ける。」これまでの司祭生活の中で、わたしには耳に残っている言葉、今でも忘れない言葉がいくつかあります。これまで赴任した教会でいろいろな人と出会い、いろいろなことを言われましたが、中でも「貴重な意見だったなぁ」と振り返る言葉があります。

初めて赴任した教会でのことでした。生意気なことを言っていた時期だったと思います。一度だけ、主任司祭にお叱りを受けたことがありました。「お前なぁ、60歳にならないと言うべきでない言葉もあるんだぞ」と言われました。ある奉仕のグループに言った無責任な言葉を、これは不適切であると叱られたのでした。

また、初めて主任司祭になった小教区で、正月に男性信徒が司祭館に訪ねてきました。玄関で座り込みましたから、しこたまお酒を飲んでいたのでしょう。その人から「お前はこの教会の信者一人一人の声を聞いてみようと思ったことがあるか」と言われ、わたしは「全員の声を聞くのは難しい。全世帯、家庭訪問して回るわけにはいかないから」と答えたのです。すると「全世帯、一軒一軒訪ねたら、すべての信者の声が聞けるじゃないか」と言い返されたのです。今でもその言葉は、わたしの中で引っかかっています。

言葉は、だれかが耳を澄まして聞いたときに、大きな働きをすることがあります。だれも聞いてくれなければ、言葉は通り過ぎ、消え去っていくでしょう。ところが、だれかが語られる言葉に真剣に耳を傾けるなら、一つの言葉が何十人、何百人を動かし、時には世界を動かし歴史を変えたりするのです。

今日の福音朗読は、おいでになった御子、世の救い主を「言(ことば)」という表し方で示しています。すると、神の言(ことば)がわたしたちに何を期待しているかを知るためには、肉となった言(ことば)に、真剣に耳を傾けることが必要ではないでしょうか。

しかしながら、人間は弱さを持った生き物なので、自分が聞きたくないことについては耳を塞ぐことがあります。その人のために必要なことを言っていても、聞き入れたくないので耳を貸さず、聞こうとしないのです。その人の健康を思って言っている言葉、その人の将来を思って言っている言葉であっても、それを聞きたくないと思って拒むことがあるのです。

神は御子を、言(ことば)としてお遣わしになりました。そして言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られました。御子はすべての人を造り上げ、すべての人を導く言葉をもっておられます。今は幼子として、わたしたちの間に宿っておられます。わたしたちは真剣に、また謙虚に耳を傾ける必要があるのです。

肉となった言(ことば)、幼子イエスの前に、もう一度近づきましょう。一人ひとりに必要な声を聞き取るために、静かに耳を傾けましょう。自分さえよければとか、独りよがりな生き方をして、さまざまな雑音をため込んでいるかも知れません。

それら雑音を一切追い出して、肉となった言(ことば)の語り掛けに自分を従わせましょう。謙虚に耳を傾ける人に与えられる報いは次の通りです。「言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」(1・12)今日一日、肉となった言(ことば)の声にひたることにしましょう。

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‥次の説教は‥‥
聖家族
(マタイ2:13-15,19-23)
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ちょっとひとやすみ
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▼「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」(創世記2・18)主の降誕(日中)の説教案を書きながら、最も説教のメッセージに耳を傾ける必要があるのは自分自身だという反省を持った。26日(木)に「生活習慣病検診」というのを受けるのだが、ここ数年この検診を受けて、言われることはだいたい予想が付いている。
▼「コレステロール値が高い」「体重を落としなさい」「軽めの運動を続けなさい」「食事を年齢相応に減らしなさい」等々。だから検診に行っても行かなくても同じなのだが、ここで踏ん張らなければならない。「同じかも知れないが、真剣に耳を傾けなければならない。」
▼たぶん、検査項目のいくつかに引っかかり、また来年になれば保健指導員から呼び出されて小言を言われ、「生活指導ですか。はいはい分かりました。やりますやります」と返事をして半年近く改善に取り組み、たまに努力が実ったら保健指導員に褒められたりして指導期間をやり過ごす。
▼だが、来年また検診を受けると、同じような項目に引っかかり、また同じことがその先に待っている。無限に同じことを繰り返すのだが、「でもそれでも・・・」謙虚に耳を傾けなければならない。
▼しかし、保健指導員は「彼に合う助ける者」なのだろうか。わたしの生活習慣病検診を担当する医師は、「彼に合う助ける者」なのだろうか。いつも「了解了解。真面目に聞いてますよ」と調子を合わせるが、現状維持が精一杯である。助けてもらっているのだろうか。
▼多分、助けてもらっているのだろう。そう思って今年もできるだけ耳を澄まして話を聞いてくるつもりである。健康を維持したくないわけではないし、わざわざ病気になりたいわけでもない。だから真剣に聞こうと思っている。ただ現実は、同じ過ちを繰り返しているのである。

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今週の1枚
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第292回目。カレンダーをいくつかもらった。その中で「赤い血が騒ぐ」逸品。

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主の降誕(夜半)(ルカ2:1-14)神は「不可能」からご計画を始める

2013-12-24 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
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主の降誕(夜半)
(ルカ2:1-14)
神は「不可能」からご計画を始める
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主の降誕おめでとうございます。今年の御降誕にあたり、わたしは神のご計画の不思議さについて考えてみました。それは、人間的に「不可能」と思われることから神のご計画が始まるということです。救い主をお遣わしになる直前の時期にも、不可能と思われる3つの出来事を神は可能になさいました。

1つは、マリアが神の母となることの承諾です。マリアは天使から「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。」(ルカ1・31)と知らされたとき、その時点で人間的には不可能であることをはっきり知っていました。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」(同1・34)

マリアはよく分からなかったから天使に尋ねたのではなく、「人間的に不可能なことが可能になるのはなぜですか?」と尋ねたのです。それでも天使の「神にできないことは何一つない。」(同1・37)という返事を聞いて、「神がご計画を動かしておられる」と理解し、すべてを委ねることにしました。

2つめは、夫ヨセフの承諾です。ヨセフも、婚約者であるマリアが一緒になる前から母となっている事実を受け入れるのは、人間的に不可能なことでした。けれどもヨセフも、「神は我々と共におられる」という思いを理解し、人間的には不可能だけれども、神が我々と共におられるから、このご計画は信頼出来ると感じたのです。

そして最後3つめは、神の御子が家畜小屋でお生まれになったことです。「布にくるんで飼い葉桶に寝かせ」(ルカ2・7)、地上に姿を現しました。全能の神が、その御子を、さまざまな危険が考えられる場所にお与えになる。こんなことがなぜ可能なのでしょうか。

まったく無防備な姿の幼子が、命を危険にさらすような場所にお生まれになりました。そして3歳にもならないうちに、ヘロデからも命を狙われます。こんな危険な場所と環境が予測出来ているのにそれを選ぶのは、人間的には不可能なことです。それでも神は、人間的には不可能な状態から、ご自分のご計画を始められたのです。

わたしたちが喜び迎えた幼子イエスは、幾重にも張り巡らされている不可能な状況を乗り越えて、おいでになりました。幼子イエスは「神にできないことは何一つない。」との神の思いを、「布にくるんで飼い葉桶に寝かされて」全身で表してくださっています。

不可能が可能になる様子を見た人間は、どんな反応をするのでしょうか。幼子イエスを与えてくださった父なる神は、わたしたちに何を求めているのでしょうか。一つの光景がそれを教えてくれています。「すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」(2・13-14)

つまり神は、わたしたちに「神を賛美しなさい」と呼び掛けているのではないでしょうか。人間的に不可能な出来事から、神はしばしばわたしたちにご自分の計画を明らかにしてきました。不可能と思われたことが乗り越えられた時、神のご計画が動き出していることに気付いて神を賛美しなさいと、教えているのだと思います。

実際、救い主の誕生に最も近く関わった人たちは皆、神をたたえています。先駆者ヨハネを宿したエリサベトは、「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。」(ルカ1・42)と賛美の声を上げます。これに応えてマリアも、「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」(同1・47)と神を賛美しました。

ヨハネの誕生を喜ぶ父ザカリアも、「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた。」(同1・68-69)と賛美の声を上げました。

さらに付け加えるなら、マリアとヨセフが幼子イエスを神殿に献げに来たとき、シメオンは「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。」(同2・29-30)と感謝を口にしました。

不可能とも思える中で決定的な神のご計画が実現した様子を見て、人々は皆賛美しました。わたしたちも今、人間を救う神のご計画を、マリアの腕の中に見ているのです。羊飼いが見守る視線の先に、占星術の学者たちが礼拝し、贈り物を献上する先に、小さな小さな全能の神がおられるのです。

わたしたちは力の限りこの出来事を賛美しましょう。わたしの歌、わたしの祈りに喜びを載せて、神を賛美しましょう。すべての人に訪れた救いを今ここで力の限りたたえるなら、礼拝に集まることのない人々にも、喜びは届いていくでしょう。

1つ、不可能を可能にしましょう。みなさんの中に、悲しみに打ちひしがれ、温かい心を準備出来ない人がいるかも知れません。そんな人にも、幼子イエスはおいでになります。悲しみの中でも、幼子が眠る温もりのある部屋を整えてください。温かい心を用意するなら、あなたはすでに不可能を可能にしています。不可能が可能になったなら、そこに神を賛美する力が湧いてくるのです。

どんな困難も神は乗り越えて、ご計画を進めてくださいます。わたしたちに与えられた幼子がそのしるしです。今日幼子をわたしたちの心に迎え入れ、賛美しながら家路につきましょう。神を賛美することを知らない人にも、幼子誕生の喜びを知らせ、賛美の歌を共にする人に導くことができますように。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
主の降誕(日中)
(ヨハネ1:1-18)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼御降誕おめでとうございます。まだ一息つくには早すぎるけれども、まぁケーキでもつついて、2013年を振り返りたい。今年起こったことを考えると、得したことはあまり思い出せなくて、損したこと、損失と感じることの方が多かった。
▼いろいろ相談出来る医師が上五島から故郷に戻られた。カトリック信徒の医師だったので、わたしにとっては損失だった。まぁ今でも連絡は取れるのだが、診察をしてもらえなくなった。個人的な親しみを持てる医師がいるといないとでは安心感が違う。
▼お金を失った。失ったというか、貸した金はどうせ返ってこない。失ったのだから損失だ。損失があったら、「取り戻す」か「損失をカバー出来る価値を別に見出す」か、どちらかを考えなければならないが、今年はそのどちらもできなかった。どうして借りに来る人は「ちゃんと返せる」と言うのだろうか。
▼分析・判断があと少し届かなかった。「この人はもう少し働きかけたら変わるかな」という想定のもとに押したり引いたりしたつもりが、その人はもはや興味を失ってしまい、距離ができてしまった。わたしもそれ以上踏み込めず、人間関係で損をした。
▼多少の得もあったかも知れない。「無理なのかなぁ」と思っていたことが好転し、喜ばしい日を迎えることができた。人間の力を越えた働きを感じた。不可能を可能にするのは、やはり神の力なのだと再確認した。感謝と賛美を忘れてはいけない。
▼子供がなついてくれた。4年目で、何となく心を開いて話せるようになった。どこで距離が縮まったのかは覚えていないが、小学校低学年から中学3年まで、話しかけることができて話を聞いてあげることも出来るくらいになった。打ち明け話をしに来る子供に「へぇ。そうなんだ」と相づちを打つ自分が、我ながら滑稽ではあるが。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第291回目。「X'mas愛の募金に、ご協力お願いします。」元気よく言えました。

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待降節第4主日(マタイ1:18-24)その名はインマヌエル

2013-12-22 | Weblog
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‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
13/12/22(No.683)
‥‥‥†‥‥‥‥
待降節第4主日
(マタイ1:18-24)
その名はインマヌエル
‥‥‥†‥‥‥‥

先週月曜日、来年2月の今村巡礼に備える徒歩特訓の号令が掛かりました。曽根教会から、仲知教会までを往復してきました。浜串の皆さんにイメージしやすいように言うと、浜串の上の道路を、鯛ノ浦港まで往復すると考えたらよいと思います。

今回は後輩司祭3人と、発起人の先輩司祭1人とわたしで訓練に出発しました。仲知教会まで峠をいくつも越えていくのですが、わたしだけ登りで遅れてついていけなくなり、息が切れ、何度か頭がくらくらして座り込みそうになりました。これで本番に間に合うだろうか、迷惑をかけるのではないかと心配になりました。

幸いに、往復20kmを何とか歩き通し、ご褒美の曽根温泉にゆっくり浸かることができました。ただし、服を脱いだときに気付いたのですが、股ずれを起こしていまして、温泉に浸かるときはかなり染みました。股が痛くなったり足が痛くなったら、それは練習を取りやめる合図です。なぜかと言うと、「股・足・痛→また明日」だからです。

今回の20km徒歩訓練、歩数で言うと3万歩でした。人生で初めて、1日に3万歩も歩きました。これは明らかに、「一緒に歩いてくれる仲間がいたから」なし遂げられたことです。1人で歩こうとしていたら、とてもこんな距離は歩けなかったでしょう。特にわたしは、ずっと遅れ気味にみんなの後を追いかけたわけですから、1度もみんなを引っ張ることはできなかった、迷惑を掛けたわけです。

でも、みんなは文句一つ言わず、わたしを気遣いながら、最後まで歩き通してくれました。だれかが一緒にいてくれるって、こんなに力強いのだなぁと、これまででいちばん感じた日でした。

今日の福音朗読は、ヨセフが、すでに母となっているマリアを受け入れようとする場面が描かれています。ヨセフは「ひそかに縁を切ろうと決心していた」(1・19)とあるように、自分一人で目の前の出来事を受け入れることは不可能だったのです。マリアが自分の婚約者であるということは受け入れることができましたが、まだ一緒に暮らしていないのに母になっているという事実は受け入れることができなかったのです。

そこへ、主の天使が夢に現れて、事の次第を詳しく説明します。説明と同時に、「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。」(1・20)と促します。たった今、受け入れることは不可能だと考えたのに、夢で受け入れよと言われても、はいそうですかとは言えないはずです。

けれども、「ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ(た)」(1・24)となっています。ついさっきまで不可能だと感じていたことを、どうして受け入れることができるようになったのでしょうか。それは、夢の出来事を通して、「神は我々と共におられる」というメッセージを理解したからです。

ヨセフは正しい人、誠実な人でした。きっと律法や預言書の学びも忠実だったでしょう。すると、「神は我々と共におられる」を連想させるいろんな聖書の言葉が思い浮かんだのだと思います。

たとえば、エジプトを脱出したイスラエルの民が、これから取得するカナンの土地を偵察しますが、偵察した人のうちにはエジプトに引き返そうと言う人もいました。そこで民の間に分裂が生じます。その時偵察に行ったヨシュアとカレブは「住民を恐れてはならない。彼らは我々の餌食にすぎない。彼らを守るものは離れ去り、主が我々と共におられる。彼らを恐れてはならない。」(民14・10)と言います。主が我々と共におられる。恐れることはないとヨセフも思い起こしたでしょう。

また、かつて少年ダビデが、ペリシテの巨人ゴリアトと戦ったとき、「この戦いは主のものだ。主はお前たちを我々の手に渡される。」(サム上17・47)と断言しました。戦力的には太刀打ち出来なかったイスラエル側が、「神は我々と共におられる」という思いに勇気づけられて戦いに勝利したことも、ヨセフは思い出したかも知れません。

こうして、「神は我々と共におられる」と分かったとき、どんな困難も乗り越えることができるというのがヨセフの知っていることでした。ヨセフは眠りから覚めたとき、出来事をたった一人で背負うわけではない。「神は我々と共におられる」この言葉は信頼できる。そう考えたのです。

すでにマリアは、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」(ルカ1・32)と言って、神が我々と共におられることを信頼して出来事を主に委ねていました。ヨセフも妻マリアを迎え入れ、お互いの気持ちを確かめ合ったことでしょう。自分たちだけではとても起こっていることを受け止めることはできないけれども、「神は我々と共におられる」この言葉は信頼に足りる。ヨセフもマリアもその思いは変わらなかったので、神の計画は大きく前進したのです。

人間は、神の計画をすべて理解するにはあまりにも小さな存在です。けれども、「神は我々と共におられる」この言葉を信じることだけの力は与えられています。それが、1人だけで信じて道を歩くのは困難かも知れませんが、同じ思いを持っている人がそばにいてくれたら、どんな険しい道でも歩き続けることができるでしょう。マリアとヨセフの夫婦は、今日わたしたちにそのことを教えてくれているのだと思います。

わたしも、今村徒歩巡礼のための特訓に加えてもらったとき、これを3日間も続けるなんてとてもできないと最初は恐ろしくなりましたが、わたし1人が歩くのではなくて、「神が我々と共におられる」と思うと、勇気が湧いてきました。しかも同じ思いを持つ司祭がそばに何人もいて支えてくれるので、目指す場所まで歩いて行こうという気になれました。

わたしたちの人生の歩みは、わたし1人で担っているのではありません。「神が我々と共におられる」歩みです。同じ信仰の理解を持つ人となら、さらに心強いはずです。神のご計画に従って歩み始めたヨセフとマリアに倣い、神のご計画の中にある人生の歩みを続けましょう。神に信頼して生きることを全身で示してくださる御子がもうすぐおいでになります。わたしたちも心を整え、御降誕のその日を迎えることにしましょう。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
主の降誕(夜半)
(ルカ2:1-14)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼大浦教会から福岡の今村までの徒歩巡礼に向けて、訓練が始まった。第3回目の訓練に、わたしは初参加した。曽根というところから、仲知というところまで歩き、弁当を食べて折り返し曽根まで歩いた。19.5kmだったが、人生で初めてこんな距離を歩いた。
▼歩数計で30000歩(興味のある方はfacebookの3月17日の画像参照)。こんな歩数見たことない。だが実際の徒歩巡礼の時はおよそ4万歩になるらしい。3万歩で息切れし、折り返して仲知からの最初の上り坂では酸欠で頭に血が回らず、3回くらい瞬間的に気を失いかけた。
▼こんな調子で当日の徒歩巡礼を迎えられるのだろうかと心配だが、計画の発案者であるI神父さまによると「当日は今日ほどきつい上り下りはないから、今日を乗り切れたなら大丈夫」と言ってもらった。参加者は発起人の50代司祭と、わたしと、後輩司祭4人と、バックアップに回る同級生の司祭で合計7人。
▼今まで履いていたジョギングシューズでこの日の訓練に参加したが、帰り道は親指が窮屈に感じ、思い切ってシューズを新調した。今回のシューズで、2月中旬のの徒歩巡礼には参加する。ソックスは、恩人から買ってもらったタビオのソックス。これは本当に優れもので、20km歩いても靴擦れもマメもできなかった。
▼クリスマスが目の前に近づいた。救い主の人生は「降りていく人生」だと思う。もっとも貧しいお産の場所に降りていき、もっとも命が守られてよいはずの時期に命を狙われる環境に降りていき、罪人や徴税人の仲間と中傷されてもその人々のもとに降りていった。
▼だれもが関わりを避けようとする重い皮膚病の人に近づき、目の不自由な人に光を与え、十八年間出血の止まらない女性をいやした。すべての人のもとに降りていった。きっと現代にも、さまざまな重荷を抱えて暮らす人のもとに降りていって、希望を与えてくださる。希望が持てないときにこそ、希望が必要なのだ。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第290回目。このシューズが3日間延べ100kmの道のりを支えてくれる。

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待降節第3主日(マタイ11:2-11)行って、見聞きしていることを伝えなさい

2013-12-15 | Weblog
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‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
13/12/15(No.682)
‥‥‥†‥‥‥‥
待降節第3主日
(マタイ11:2-11)
行って、見聞きしていることを伝えなさい
‥‥‥†‥‥‥‥

年末、クリスマスはもちろんですが、マラソン大会の話が出る頃だがなぁと思っている人もいるでしょう。毎年1月最後の火曜日は司祭マラソン大会ですが、今年は違う目的に時間を充てようと思っています。

今年青砂ヶ浦に赴任してきた神父さまが、来年2月福岡の今村教会までの徒歩巡礼を計画しています。神父さまの前任地は今村教会でした。今村というと、古くからカトリック信者が住み着いている土地です。

かつて浦上のキリシタンが大浦にプチジャン神父を訪ねて信徒発見につながり、それから程なくして、浦上の4人の信徒が今村を訪ねて行って今村のキリシタンが発見されたという歴史があります。当時のことですから、浦上キリシタンは歩いて今村に行ったわけです。

そこで青砂ヶ浦の神父さまが、「今村の信徒発見の出来事を再現するために、浦上から今村まで徒歩巡礼をしようと思う。だれか一緒に行かないか?」と上五島地区の司祭たちに個人的に投げかけたわけです。

わたしは最初尻込みしまして、「いやそれはちょっと」と思ったのですが、わたしよりも若い司祭たちは二つ返事で、「先輩やりましょう。ついていきます」と参加を申し込んだのです。それでもわたしは、簡単に「行く」とは言えませんでした。何せ135kmくらいの距離がありますから、勢いで「ぼくもわたしも」とは言えないわけです。

そうこうしているうちに、「今度の月曜日、巡礼に備えて歩きます。今回は青砂ヶ浦から、中ノ浦までです。次回は、青砂ヶ浦から頭ヶ島までです」と練習が始まりました。参加を名乗り出た後輩司祭と会うたびに、「先輩、練習に行かんと?」と言われ、「行こうよ」みたいな雰囲気になりまして、ついつい「じゃあ、行こうかな」ということになってしまったのです。それで今回、2月中旬の今村徒歩巡礼に備えるため、マラソン大会はお休みします。ちなみに、先に巡礼に同行すると名乗り出た後輩司祭たちは、マラソン大会にも出るそうです。元気ですね~。

さて福音朗読は、ヘロデに投獄された洗礼者ヨハネが、弟子を遣わして「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」(11・3)と尋ねさせる場面から始まっています。洗礼者ヨハネは、イエスのことを自分が告げ知らせていた「来るべき方」と見るべきか、ためらいがあったということになります。

ヨハネがイエスを信用していないという意味ではありません。ヨハネ自身が炎のような言葉でメッセージを語っていましたから、きっと後から来る方も、たちまちにしてこの世の善悪を裁き、あるべき姿に導く「力に満ちた方」であろうと考えていたのです。ところが、実際のイエスは「彼は争わず、叫ばず、その声を聞く者は大通りにはいない。正義を勝利に導くまで、彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない。」(マタイ12・19-20)という姿で登場したのです。

これには洗礼者ヨハネも戸惑ったことでしょう。人は自分で思い描いた印象からその人を判断し、そこからなかなか抜け出せないものです。イエスはあらためて、ヨハネの弟子に「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」(11・4-6)と告げたのでした。

これは、イエスが示す神の国の姿です。強い者が権力を振るう国ではなく、弱く貧しい人が守られる国。これがイエスの示す神の国です。たとえ、洗礼者ヨハネの頭になかった神の国の示し方であったとしても、イエスが示す姿でしか、神の国を垣間見ることはできないのです。

イエスは群衆にヨハネについて話します。「はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。」(11・11)もしヨハネが、イエスの示す神の国に希望を見いだすことができなければ、イエスに希望を見出したほかのすべての人、羊飼い、占星術師、シメオンやアンナのほうがヨハネよりも偉大だということになります。

先週、「すべてを横に置いて、おいでになる救い主のために自分を差し出す」ということを考えましたが、ヨハネも、自分が思い描いていた救い主のイメージを横に置いて、今示されているありのままのイエス・キリストを受け入れるよう求められたのです。彼はきっと喜んでありのままのイエス・キリストを受け入れたことでしょう。

救い主は、もうすぐおいでになります。神が、御子を通して、神の国をもっとも具体的に示すためにおいでになります。家畜の小屋にお生まれになること、羊飼いや、占星術を本業とする人たちの訪問を受けること、地上の権力者から命を狙われること、徴税人や罪人の仲間になること、苦しみを受け、十字架にはりつけにされること。それらすべてが、父である神がもっとも具体的に神の国を現そうとした方法だったのです。

「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。」いまだイエス・キリストを救い主と認めない人々に「あなたは何をよりどころにしているのか」と聞かれたときに、「もっとも具体的に神の国の姿を示してくださった幼子を、飼い葉桶の幼子を、わたしたちは信じている」と伝える必要があります。わたしたちが想像する救い主ではなく、わたしたちに伝えられた通りの救い主を、人々に知らせに行く必要があります。

1865年、それまで260年隠れていた長崎のキリシタンたちが大浦のプチジャン神父のもとに出向き、日本の信徒発見の歴史の一頁が刻まれました。2年後の1867年、135キロの道のりを歩いて今村の信徒発見に繋がりました。わたしも不承不承ではありますが、長崎のキリシタンが歩いた今村までの道のりを上五島の神父さまたちと歩いてみたいと思います。当時の長崎のキリシタンが、「行って、見聞きしていることを伝えなさい」というイエスの声を心に携えて歩いた道をたどり、救いの喜びを知らせに行った浦上キリシタンの思いに触れたいと思います。

「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。」皆さんも、救い主が来られるという喜びを、あなたの大切な人に伝えに行きましょう。イエスによって示された神の国を、まだ知らずにいる大切な身内や友達に知らせましょう。待ち続けた救い主はもうすぐおいでになり、喜びの知らせ、福音が、今まさに告げ知らされようとしています。

わたしたちが見聞きしたことを伝えて、信じてくれる人も信じてくれない人も出てくるでしょう。けれども、わたしたちが伝えなければ、幸いに招かれる人も招かれずに終わるかも知れません。イザヤは「いかに美しいことか。山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は」(52・7)と預言しました。わたしたちが救い主を知らせる足となれますように、このミサの中で恵みを願いましょう。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
待降節第4主日
(マタイ1:18-14)
‥‥‥†‥‥‥‥


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ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼無料のソフト(フリーソフト)のインストールは時に高い代償を支払わされる。さまざまなフリーソフトが出回っていて、たしかに恩恵もある。たとえば、ある音声ファイル形式を他の音声ファイル形式に変換するソフト。特にmp3変換ソフトは多種多様のものがあり、どれか1つはお世話になっている人もいるだろう。
▼または、圧縮・解凍ソフト。これも定番のものがあり、それ以外にもたくさんの類似品がある。わたしもたいていのソフトは定番ソフトを使っているし、恩恵のほうが多いわけだが、今回は手痛い仕打ちを受けた。どれかの無料ソフトをインストールした後に、パソコンの動作が極端に遅くなったのである。
▼たいてい、動作が遅くなるのはハードディスク内のファイルがあちこちにあるせいであり、デフラグという作業をすれば解消する。だが今回はどうもそういった原因ではなさそうである。デフラグをかけたが、まったく問題は解消されなかった。
▼パソコンの動作は、押し車を押して歩く高齢者のような動きになった。さっそうと歩いているのを常とする人にとって、漢字変換が押し車で歩く人の速度になれば、それは耐えられないほどのストレスである。漢字変換だけではない。ファイルの開閉、インターネットブラウザの開閉、すべてが押し車を押して歩く高齢者のような動きになった。
▼そこで原因を取り除くためにネットに当たってみたところ、最近インストールしたフリーソフトに思い当たるなら、いったんそれをアンインストールすべしというアドバイスだった。日常的にいろんなフリーソフトをインストールしてはアンインストールする繰り返しなので、どれがどれか分からなかったが、いろいろアンインストールするうちに劇的に動作が機敏に戻った。たしかにどれかがイタズラしていたのである。
▼あえて付け加えるなら、中国製のソフト(あるいは中国のメーカーが買収し、取り扱っているソフト)には要注意、である。会社名まで名前を出したいくらいだが、そのメーカーは勝手におまけのソフトをインストールさせようと誘導し、知らないうちにさまざまな余計なソフトが追加されてしまう。
▼本当に利用したいソフトをインストールし始めているのでつい「はい」のボタンを押し続けて作業を進めていると、途中でまったく関係の無いソフトがねじ込まれ、インストール前のパソコンの状態をいじられてしまう。その被害からもとのパソコンの状態に戻すのにブラウザの設定、不要なソフトのアンインストール、さまざまな苦労をさせられた。
▼ただ、本当に重宝するソフトであることは間違いない。だが、さまざまな誘導をするのである。中国製の日本語変換ソフトがねじ込まれたり、ブラウザのトップページを中国版のスタートページに強制的に変更されたり、ほとほと迷惑を被った。しまいにはファイルの残骸が残ってしまい、パソコン立ち上げ時に毎回ファイルの残骸がイタズラするような環境になってしまった。本当に高い代償を支払わされた。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
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第289回目。プログラムファイルのゴミが残り、パソコンを立ち上げるとこうなる

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待降節第2主日(マタイ3:1-12)悔い改めにふさわしい実を結ぶ

2013-12-08 | Weblog
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13/12/08(No.681)
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待降節第2主日
(マタイ3:1-12)
悔い改めにふさわしい実を結ぶ
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土曜日、保育園のクリスマス会に参加してきました。今年のクリスマス会は、わたしにとって忘れられないクリスマス会となりました。クリスマス会の最初に用意されていた聖劇で、たくさんの園児が練習したことを立派に演じている中、羊飼いが羊を導きながら登場しました。その、羊飼いが引き連れてきた小さな羊たちの中の1匹が、会場の隅に座っていたわたしを見つけて、「神父さま~」と手を振ってきたのです。

わたしはとっさに手を振って返してあげたい衝動に駆られましたが、羊飼いの家畜の羊が手を振っているのって演技として変ですよね。もしわたしが手を振って返したら、それこそ聖劇を台無しにしてしまうのではないかと思い、手を振りたいのを何とか我慢して、「神父さまも君を見つけたよ」と目で合図を送って、聖劇を見守りました。

ところが羊を演じている小さな子供には、手を振って返してもらえない理由など分かるはずがありません。「へんだなぁ」と思ったのか、何度も何度も「神父さま~」とその園児は手を振っておりました。わたしはもうたまらなくて、胸を締め付けられる思いでした。皆さんが主任司祭の立場でしたら、こういうとき手を振って返すのでしょうか。

さて、この日のクリスマス会の聖劇を観て、わたしは今週待降節第2主日の構想が思い浮かびました。とっても可愛い園児が聖劇の最中に手を振っています。手を振って返したい。でも、今はその時ではない。よくよく考えて、その時がやって来たら決してタイミングを遅らせることなくすぐに園児に手を振り返すことでしょう。神の救いの計画は、たとえばこのようなものではないだろうか。そう思ったのです。

待降節第2主日は、洗礼者ヨハネの登場を取り扱います。神は救いの計画の中で、御子をお遣わしになる直前に、洗礼者ヨハネを登場させることを計画なさいました。それは、何となくそうしようと思ったのではなく、タイミングを遅らせることなく、的確にヨハネを旧約の最後の預言者として登場させ、救い主を迎える準備をさせたのです。

洗礼者ヨハネを、救い主がお生まれになる50年前に登場させる可能性はあったでしょうか。主の到来を待ち望むイスラエルの民は、「主よ来てください」と、何度も神に手を振り続けていたのです。神はそれをよくご存知で、この民を救うためにすぐにでも主への最後の準備をさせる預言者を送ることは可能だったでしょう。けれども神は、もっともよいタイミングを待って、的確に、ヨハネを人々に遣わしたのです。

神が計画を実行されるとき、その計画はもっとも時に叶っているはずです。炎のような口調で荒れ野に集まった人々を悔い改めさせるヨハネは、彼のすぐ後においでになる救い主を迎える最高の準備をさせる最適の人物でした。ヨハネがユダヤの人々に求めたことは、すべてを横に置いておいでになる救い主のために自分を差し出すことでした。

「アブラハムの信仰を受け継いでいる」という民族としての誇りや、「わざわざ荒れ野のヨハネのもとに来て罪を悔い改めている敬虔な人間だ」といった自負心、そんなちっぽけな優越感をかなぐり捨てて、おいでになる救い主に自分を差し出しなさいと主張するのです。ひとことで言うなら、「悔い改めにふさわしい実を結べ」(3・8)となります。

「悔い改めにふさわしい実を結べ。」具体的には、後から来られる方が授けてくださる「聖霊による洗礼」を受けるということです。アブラハムの血筋によるのでもなく、進んでおこなう償いのわざによるのでもなく、ただ「父と子と聖霊による洗礼」に生きる土台を置く。この生き方を、「悔い改めにふさわしい実」としたのです。それはまた、「救い主、イエス・キリスト」に生きる土台を置くことでもあります。

洗礼者ヨハネは、まだ見ていないお方にすでに生きる土台を置いて生活し始めていました。荒れ野にしりぞいたのも、「後から来る方」にすべてを委ねて生きる決意の表れだったのでしょう。わたしたちも、ヨハネが今週示そうとする生き方を選ぶ必要があります。すなわち、「わたしの生きる土台であるイエス・キリストから離れない」この決意を表す必要があるのです。

わたしたちは洗礼によって、イエス・キリストという土台を据えられました。かつて洗礼は、川のほとりで授けられ、水の中に3度身を沈めていました。今でもキリスト教のあるグループは、体を沈めるための浴槽が用意され、その中に身を沈めて洗礼を施しています。

体を水の中に沈め、また水から引き上げる動作は、洗礼を受ける人がいったん自分に死に、キリストによって生きることを表しています。すると、「父と子と聖霊による洗礼」を土台として生きる人は、キリストのために生きることを行動で示すことが求められます。「悔い改めにふさわしい実を結べ」と、ここでも言われているのです。

3つ例を挙げたいと思います。まずは、日頃から秘跡に親しむことです。聖体拝領、罪の赦し、節目節目に迎える堅信の秘跡、婚姻の秘跡、病者の塗油などです。日頃から秘跡に親しむ生活は、土台である洗礼の恵みをさらに堅固なものにします。

次に、聖書や教会の教えに親しむことです。長い歴史の中で教会も枝を伸ばしてきましたが、枝葉の部分はさまざまに変化することでしょう。けれども聖書と、公会議の教えのような教会が保持している根本的な教えは変わることはありません。信仰年は終わりましたが、信仰の核心の部分を確認することはますます大切になっています。

最後に、あなたのほかにあと1人2人、「父と子と聖霊による洗礼」を土台として生きる人を見いだしましょう。あなたを通して、「わたしも、あなたと同じ土台に人生の基礎を置きたい」と願う人を見つけましょう。「悔い改めにふさわしい実を結べ」との洗礼者ヨハネの呼びかけは、すでに同じ信仰にある人にも、まだ本当の意味で主の降誕を迎えない人のためにも向けられています。わたしたちが、ヨハネの呼びかけをすべての人に届けましょう。そのための恵みと力を、このミサの中で願いましょう。


‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
待降節第3主日
(マタイ11:2-11)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼去年はこんなにモテただろうか?モテ期か?秋の小学校運動会のときから、何となくその兆候はあった。運動会の来賓で呼ばれて出席して、借り物競走などでプログラムに借り出されると、「神父さま~」と保育園児から黄色い声援を受け、手を振ってもらっていた。隣の人から「さすが神父さまへの声援は違いますねぇ」と冷やかされたりしたが、まったく声援の理由に思い当たる節がなかった。
▼今回もそうである。なぜ羊飼いの羊役から、わたしだけを選んで手を振ってもらう理由があるのか。ほかの人には一切目もくれず、わたしだけに手を振っていた理由は何か。少なくともわたしにはその理由が思い当たらない。その幼子はカトリック信者の家庭の子でもないし、申し訳ない話だが、わたしもどこのだれかも知らないのである。
▼クリスマス会の間、椅子に座っているわたしの前を通り過ぎる保育園の子供たちが、代わる代わる「神父さま~」と言って手を振っていく。この場面では何の妨げもないのでわたしも手を振って返す。子供たちは満足した顔で次の演目に向かっていく。しかしわたしは、「なぜそこまでわたしに手を振ってくれているのか」ますます謎が深まっていく。
▼ためらいと、戸惑いすら覚える。ある園児はわたしの手を握り、「神父さまの手、あったかい」と言った後、まるで自分の父親であるかのようにわたしの膝の上に座り、しばしわたしに抱っこしてもらってまた離れていった。何だったのだろう?
▼わたしはこの保育園の子供たちと何回触れ合っているだろうか。ほとんど、数えるほどしか触れ合っていない。夏祭り、運動会、七五三、クリスマス会、卒園式、これくらいか。年に5回で、だれがその人になつくだろうか?考えれば考えるほど謎である。
▼亡くなった「やなせたかし」氏は、「子供は本能で相手を見抜く。子供には嘘やごまかしや中身を水で薄めたようなものは通用しない」とインタビューで答えていた。わたしに喜々として手を振り、近寄ってくる園児たちはわたしの何を見抜いているのか。しかし少なくとも、わたしが何もかも見抜かれていることは、わたし自身感じていることである。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
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第288回目。姿は見分けつかないと思いますが、立派にお遊戯している園児たち

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待降節第1主日(マタイ24:37-44)到来のその時を逃さないように待つ(修正)

2013-12-01 | Weblog
当ブログをお読みくださり、ありがとうございます。
【文庫本の問い合わせについて】
文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
3冊セットの提供が可能になりました。ABC年セットで
2000円です。ご希望の方は住所と名前を添えて連絡ください。

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/131201.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
13/12/01(No.680)
‥‥‥†‥‥‥‥
待降節第1主日
(マタイ24:37-44)
到来のその時を逃さないように待つ
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司祭研修会に参加してきました。来年の5月連休に開催される「教区代表者会議(教区シノドス)」の提言をまとめるための「集中審議」と言ったほうがよい内容でした。集中審議をしたのですから、この討議が実りある提言を大司教さまに示すことにつながればと思っています。

教会の暦「教会暦」が新しくなり、今日から待降節が始まります。典礼の周期としては日曜日ごとにマタイ福音書をおもに読み続けるA年が始まりました。イエス・キリストの生涯が描かれているのが福音書で、四福音書あるのですが、それぞれ語られる相手を意識した書き方をしています。その中でマタイ福音書は、ユダヤ人に対し、イエス・キリストこそ旧約の預言者が告げ知らせていた救い主であると説明する福音書です。

待降節についてもう少しお話ししましょう。日本の教会で、クリスマスを準備する期間を「待降節」「主の降誕を待つ季節」と呼ぶわけですが、もとの言葉はラテン語の”Adventus”「到来」という意味合いの言葉が使われています。

使われている言葉の違いは、何を強調しているかについても違いが出て来ます。もとの言葉では「キリストの到来」ということが強調されていることが分かります。日本語の「待降節」だと、わたしたちの「待つ姿勢」が強調されていると思います。ですが、本来はキリストの到来が強調されるべきです。わたしたちが待つのは、キリストがおいでになるから待つのです。

救い主の到来を待っていた多くのユダヤ人は、救い主が到来しても救い主を救い主と認めることができませんでした。ユダヤ人は今も、救い主を待っているのに到来していないと考えています。ごくわずかの人々、羊飼いや、占星術の学者たち、ほんの一握りの人たちだけが、救い主の前に膝をかがめ、その到来を喜んだのです。

キリストの到来に強調点を置くと、わたしたちの待つ姿勢もはっきりしてきます。2つ考えてみました。1つは、いつどんなときにおいでになっても、救い主を迎えることができるように準備して待つことが必要です。与えられた福音朗読はそのことを教えようとしています。

「(そのときまで)何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。」(24・39)とか、「目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。」(24・42)さらに「あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」(24・44)と言われています。

もう1つの心構えは、救い主がおいでになるのですから、何かが変わるはずです。そこで、「わたしの中で、何かが変わる」「わたしたちの教会で、何かが変わる」そういう心構えで、救い主の到来である主の降誕を待つのがよいと思います。

イエスの到来は、具体的に何かを変えてくださるでしょうか。イエスの言葉から考えると、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マタイ9・13)とありますから、自分では招かれないような生活をしてきた人が、イエスがおいでになることで招かれる、そういう社会に変わります。

何かの過ちがあって、自分では元に戻せない、過去を消せないと思い悩んでいる人がいるかも知れません。そんな悩みの中にある人をイエスは招いて、変えてくださるためにおいでになります。

また、「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」(ヨハネ10・10)とあります。今までは、何かを使ってだれかにいのちを与えることしかできませんでした。それはいつまでもなくならないいのちを与えることはできませんでした。

イエスはわたしたちのもとにおいでになって、滅びることのないいのちを与えてくださいます。ご自身をいのちの糧として与えてくださいます。イエスのもとに来ること、イエスのもとに留まることで、わたしたちは永遠のいのちに満たされます。

最後に、「わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。」(ヨハネ12・47)と言われます。神が人を裁こうと思えば、どんなに小さなことでも見つけて裁くことはできるでしょう。けれども、どんなに罪が多くても、どんなに闇が深くても、どんなに長い隔たりがあっても、神は世を救ってくださいます。そのことを見える形で示すために、救い主はおいでになります。

こうして、今まで変えることができなかったものを、すっかり変えるために到来します。あなたが変えられるチャンスは、もうすぐそこまで来ています。救い主の到来に気付かずに通り過ぎることのないようにしましょう。クリスマスは、主がおいでになることの目に見えるしるしです。ただし、わたしが変えられるのは、クリスマスの日とは限りません。

その日その時を準備不足のために失うことのないように、この待降節の期間を大切に過ごしていきましょう。イエスの到来によって変えられた。そんな喜びのうちに、今年のクリスマスを迎えることができますように、このミサの中で恵みを願っていきましょう。

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‥次の説教は‥‥
待降節第2主日
(マタイ3:1-12)
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ちょっとひとやすみ
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▼先週メルマガの配信でトラブルを引き起こしてしまった。2000文字の縮小版を作って、昔の2000文字までしか受信出来ないケータイのための説教を別に配信しているのだが、その原稿を誤って通常のメルマガを配信する人たちにも配信してしまった。申し訳ない。慌てているとこんなことになる。
▼研修会の内容をちょっと紹介する。グループ毎に提言をまとめるための討議がおこなわれたが、初日は年齢別のグループだった。いちばん高齢のグループは、司祭になって50年とか、そういうベテランのグループである。そのグループが、まとめの発表の時間に会場全体が騒然となるような事態を招いた。
▼詳しく話せないので、「ちょっとだけ」話すのだが、最年長のグループの発表者は「わたしたち自身が、司教さまへの提言です」という言葉から発表を始めた。わたしは「へぇ。すごい発表だなぁ」と思いながら聞いていた。発表は持ち時間を大幅に過ぎ、それでも終わらなかった。
▼「わたしたち自身が、司教さまへの提言です」ここでは提言すべきことがあるから発表している。それは当然のことである。すると、「わたしたち自身が、司教さまへの提言です」というのは、どういう意味なのだろうか。「今、手を打たないと、わたしたちのような司祭になります」という意味なのだろうか。
▼わたしはこれから、もうしばらくあの発表の意味を考えてみようと思う。なぜなら、わたしたち40代の世代では、「わたしたち自身が、司教さまへの提言です」という名言は出て来ないのだから。その意味が分かるように、その意味が間違って解釈されないように、もう少し考えてみようと思う。

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今週の1枚
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第287回目。10月から続いていたナイターミニバレー。8戦全勝の証し。

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