こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第8主日(マルコ2:18-22)断食は今こそ価値がある

2006-02-26 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
06/02/26(No.225)
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年間第8主日
(マルコ2:18-22)
断食は今こそ価値がある
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今年の3月1日(水)は、四旬節の開始に当たる「灰の水曜日」です。四旬節とは、主の受難と復活を準備するためにもうけられた季節で、教会をあげて復活祭をふさわしく迎えることができるように、祈りと断食に励む季節として定められています。

今週の福音朗読は、この四旬節の断食を考えるちょうどよい朗読箇所です。断食を積極的に行っていたヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、イエスが弟子たちに断食するように仕向けないのを不思議に思っています。なぜ、イエスは断食にこだわっていないのでしょうか。

二つの可能性を考えてみましょう。一つは、イエスが断食を軽んじていただろうかということです。これはどう考えてもあり得ません。なぜなら、イエスは宣教活動に入る前に、四十日間、昼も夜も断食したという経験があるからです。イエスは断食を通してあらゆる執着と対決し、父なる神に全面的に信頼を寄せて生きる人間の姿を描き出してくれました。

もう一つの可能性というか、考えられるのは次の答えです。それは、イエスは断食の価値を十分知っておられ、その上でやみくもに弟子たちに断食を命じたりはしなかったということです。

ルカの福音書の中に、神殿に来て祈るファリサイ派の人と徴税人のたとえがあります。ファリサイ派の人は、「わたしは週に二度断食しています」と胸を張っていました。決められた断食だけでなく、個人的に、敬虔さを見せつけるために週に二度もおこなっていたのでしょうか。

ところが、このファリサイ派の断食をイエスは立派だとは言いませんでした。イエスは断食の価値を理解していましたが、イエスが考えていた断食の姿ではなかったということです。とうとうイエスは、弟子たちと一緒にいる間断食しなさいとは言わなかったようです。

では、イエスにとって意味のある断食とは何だったのでしょうか。私は、教会が今も受け継いでいる断食の務めが、イエスの考えていた断食の価値をよく理解している姿ではないかと思っています。つまり、灰の水曜日と聖金曜日の大斎と小斎、また毎金曜日の償いの努めこそが、イエスが思い描いていた断食の目的ということです。

イエスは、その宣教活動の間は弟子たちに断食を求めませんでした。ただ「花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる」と仰いました。花婿が奪い取られる時、それは、イエスが十字架上でお亡くなりになる時です。そして教会は、イエスのご死去を忍んで、金曜日ごとに断食の償いを続けてきたのです。つまりイエスはご自分の死去のあと、断食はその意味と価値が出てくるということを暗示していたのです。だからこそ亡くなる前には、弟子たちに断食を求めなかったのでしょう。

今こそ、断食はイエスが望む意味と価値を持ち始めました。断食をすることで、私たちは多少のつらさを感じます。中田神父は特に、断食をすれば時間が止まっているのではないかと思うほど進まなくなります。イエスの死はすべての時間が止まる瞬間です。私たちも、空腹のつらさを感じながら、イエスの苦難とすべての時間が止まった十字架の出来事を思い起こすのです。

断食は古い古い時代から行われていたわざですが、イエスの苦しみに自分を重ね合わせるという目的は、イエスの十字架を通して初めて示されました。そしてこの目的こそが、キリスト信者にとっての断食の価値なのです。今週水曜日、灰の水曜日を迎えますので、この日に大斎と小斎のつとめを果たしながら、イエスの十字架に自分を重ね合わせているという気持ちを保って、四旬節に入るよい準備の一つにいたしましょう。

なお、四旬節中は十字架の道行きが勧められています。典礼委員会と打ち合わせをして、これからの四旬節に十字架の道行きも実行していくことにします。水曜日から始める四旬節をよりよく過ごし、主の復活を喜びをもって迎えることができるように、ぬかりなく準備していきましょう。


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ちょっとひとやすみ
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▼何もしないと、本当にダメになることが最近よく分かってきた。運動をまったくしなければ、筋肉は明らかに落ちる。まだ大丈夫と思っていても、重い荷物を持ち上げようとして怖くなった。痛めてしまってからでは修復はできない。
▼今立ち上げ始めた計画が頓挫しかけている。今初めて頓挫とはお粗末だが、よく考えればこちらに非があったかも知れない。本当に、相手の気持ちを分かって動き出したのだろうか。声を上げれば、骨折らずとも人が集まると思っていたのかも知れない。
▼うまくいかなければ、どん底からでも始めなければならない。今もがいておけば、自分のこれからの姿勢を作るためにも、今ここにいるみんなのためにも、残せるものを残すしかない。自分の中にも、みんなにも。今ここが踏ん張りどころと心得よ。
▼最近「不合格を知らせる使者」と感じる人に出会った。だから今のうちに、不合格であれば「再試験」を、どん底を怖がっているならどん底にはいつくばる勇気を、取り戻したい。初めての教会で電話越しにこてんぱんに悪口言われたとき、お前はその家庭に出向いて、謝りに行ったじゃないか。あのときの姿勢を今こそ思い出せ。

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こうじ神父絵手紙
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第14回目。ジェットヘルメットって言うんですね。初耳です。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
四旬節第1主日
(マルコ1:12-15)
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===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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年間第7主日(マルコ2:1-12)本当の奇跡執行者は病を担い罪を担う

2006-02-19 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
06/02/19(No.224)
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年間第7主日
(マルコ2:1-12)
本当の奇跡執行者は病を担い罪を担う
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ようやく小型バイクの教習課程を修了して、バイクに乗れることになりました。口で言うのと実際に取ってくるのとでは頭で考えていたよりもはるかに開きがありました。ひょっとしたら簡単に取れるのではないかと思っていましたが、補習が7時間、卒業検定を受けられるかどうかの見極めにも一度落第して、あらためて自分の運動神経がどの程度のものかを思い知らされました。

さて無事に免許を手に入れましたので、今度は乗り物をどこかで拾ってこようと思います。いちおう希望しているのはYAMAHAのSR125というバイクです。あんまり人気がなかったらしくて、今となっては町中ではほとんど見かけないみたいです。そこがねらい目です。

しばらく釣りのできる天気になるまで、伊王島の中を暴走族になって走って回ろうと思います。郵便局員以外でバイクの音が聞こえたら、大明寺の近辺では私ではないかも知れませんが、馬込でブンブン音がしたら、これはもう間違いなく中田神父だと思ってください。ですが夜は走って回りませんのでご安心ください。

今日、福音の中でイエスさまは次のように仰いました。「中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。」どっちとも言いかねますが、「『免許なんて簡単に取れる』と言うのと、『行って、実際に免許を取ってきたよ』と言うのと、どちらが易しいか」と言われたら、私の経験からすると、免許なんて簡単に取れると無責任なことを言う方が易しい気がします。

ともかく、イエスさまは易しいほうで事を済ませませんでした。人間には決してできない、不可能な道を自らお選びになって、ご自分が神であり人であることを証明しようとされたのです。今週はこの点こそ見逃してはいけないと思っています。

イエスが選ばれた道。人間には決してできないその道とは、口で言って示すことは簡単です。それはつまり、「子よ、あなたの罪は赦される」と仰ったことと、「わたしはあなたに言う。起きあがり、床を担いで家に帰りなさい」と仰った、この両方です。

片方だけ言うことは、たやすいかも知れません。ですが、まことの神として、罪を赦す権能をお持ちであることを証明するために奇跡を実行するというのは、証拠が残りますからインチキ詐欺師にはできないわざなのです。まことの神でなければ、奇跡を証拠として罪の赦しを与えることはできないわけです。

また、もう一つの見方からも、イエスがまことの神、まことの人であることをこの場で証ししてくださったのだと思います。それは、イエスが中風の人に「あなたの罪は赦される」と言うことで、彼の罪を主が担ってくださることを意味しています。同時に、「起きて、床を担いで歩け」と仰ることで、主は彼の病を身に負われたということです。

人が、他の人の罪を担い、また体の病を代わりに担うということが、果たしてできるでしょうか。この意味でも、イエスは中風の人の重い荷物をすべて取り除くことのできる唯一の神であることが証明されたと思います。

人間であれば、誰かの病を代わりに担うということはできるかも知れません。寝たきりの人が何不自由なく暮らすことができるように完全な状態で介護をしてあげるなら、その場合は一人の人が他の誰かの病を担ったと言うことができるでしょう。けれどもそれは、誰か他の一人の人についてです。すべての人の病を担うわけではありません。ましてや、同時に罪を担うということでもありません。

ところが、イエスは今日の中風の人のいやし、罪と体の病の両方をいやしてくださったことで、ご自分がすべての人の罪を担い、すべての人の病を担う者であることをはっきりと宣言されたのではないでしょうか。

人間は一人の人の病であれば担うこともあり得るでしょう。ですが、すべての人の病を担い、すべての人の罪を担うことができるのは神以外に考えられないわけです。奇跡についても、当時のイエスさまの時代に奇跡を行う人というのはあちこちに見かけたそうですが、本当の意味で奇跡を行う人とは、奇跡を通してその人の病を担い、同時にその人の罪を担うことのできる人ではないでしょうか。さらに、すべての人の罪を担い、病を担うとなれば、これはもう神にしかなしえないわざなのです。

私たちは、今日の朗読を通して、人間には決してできないその道をイエスが歩まれたことを確かめました。すなわち、苦しんでいるその人の病を担い、また罪をも担ってくださるという道です。私たちがもし病に悩み、罪に苦しんでいるとしたら、今日のイエスの姿を思い起こして希望を新たにいたしましょう。

私の病を、主は担ってくださいます。私の罪を、主は赦し、引き受けてくださいます。病は今すぐになくならないかも知れません。けれども、主はあなたのそばにいて、一緒に病を担ってくださいます。信頼しましょう。罪は、赦しの恵みを通して確かに赦されます。主は赦しの秘跡を通してあなたの罪を担ってくださいます。

今週、私たちはあらためて、イエスに信頼を寄せることができると確かめることができました。信頼を失いかけていたなら、今週からもう一度信頼の道を歩み続けましょう。イエスは二千年前も今も、変わらず私たちの病と罪を担っておられる「主」なのです。


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ちょっとひとやすみ
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▼「あなたはだれですか」。もしも神さまにそう尋ねられたら、何と答えるでしょうか。「なかだこうじです」。神さまは私の名前など、百も承知のはずです。何と答えたらよいのでしょうか。「中田神父です」。それもまた、神がそうなさってくれたことですから、誰に物を言っているのか?ということになるでしょう。
▼私の今の心境だったら、「わたしは挑戦し続ける者です」と答えるかも知れません。思い立ったことを実行し、日々の雑事をこなし(逃げ回って積み上げているものもあるが)夢に描いたことにも手を伸ばす。そうして、日々挑戦していることを神さまに申し上げるだろうと思います。
▼「なかださ~ん。前回はこの課題ちゃんとこなせたじゃないですか。どうして今日は同じことが同じようにできないんですか?」39歳にもなってこういうことを言われると、やっぱり内心ムカッと来るわけですが、それでも挑戦し続けなければ扉を開くことはできません。課題をクリアすることもできません。
▼今この時点で、神さまがちょっとした機会を捉えて「挑戦するチャンス」を作ってくれたのかなあ、そう感じた自動二輪の教習でした。それでも、十分意義を認めつつも、しばらくは戻らないぞ~。もう懲り懲りだからね。あばよ~。

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こうじ神父絵手紙
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第13回目。もうしばらく来ん(こん)けんね。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
年間第8主日
(マルコ2:18-22)
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年間第6主日(マルコ1:40-45)だれにも何も話さないと決めてみよう

2006-02-12 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
06/02/12(No.223)
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年間第6主日
(マルコ1:40-45)
だれにも何も話さないと決めてみよう
‥‥‥†‥‥‥‥

私たちのカトリック教会には典礼暦という暦があって、救い主の誕生を待ち望む待降節から暦が始まり、一年後の最後の日曜日、王であるキリストの祭日で暦が終わっていることは十分ご承知だと思います。

もう少し説明を加えると、この年間の暦は三年周期になっていて、マタイ福音書を中心にして日曜日の典礼を組み立てていくA年、マルコ福音書を中心にして組み立てていくB年、ルカ福音書を中心にするC年に分けられています。三年周期が繰り返されている中で、今週のようにマルコ福音書が日曜日の福音朗読に据えられているということは、ことしは典礼暦のB年であるということです。

ここまでは仮に初めて聞いたという人がいたとしても、説明を聞いたことで理解できると思います。ただしここからはもっと注意して聞かないと分からなくなりますのでますます耳を澄まして聞いてください。

朗読されているマルコ福音書は、全体では16章あります。今週朗読されているのは第1章40節から45節、第1章の最後の部分なのですが、マルコ福音書全体からすると、その16分の1を読み終えたに過ぎません。

それなのにです。それなのに、私たちはこのマルコ福音書の最初の第1章の中でイエスが語った第一声について、ほとんどの人が覚えていないのではないでしょうか。ちなみにこの第1章でイエスが語った第一声は、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」というものでした。このイエスの第一声が今週の朗読箇所に大きな役割を果たしていますが、正直言いますと、大きな役割を果たしていたのだと私自身もあらためて気付かされたのです。

つまりこういうことです。この第1章ではイエスがガリラヤで伝道を始め、四人の漁師を弟子にして、汚れた霊に取りつかれた男をいやし、多くの病人をいやし、巡回して宣教し、重い皮膚病を患っている人をいやしたというのが全体の流れですが、この第1章全体はイエスの第一声「時は満ち、神の国は近づいた」という声に包まれているのです。

この点に今年あらためて気付かされましたが、同時に今日の重い皮膚病を患っている人をいやした場面まで読み進めるうちに、私はすでにイエスの第一声を忘れていたのだということにも気付かされたのです。イエスのこのみわざが、神の国が近づいたことを告げ知らせようとして行われた奇跡であることを、全体で16章あるマルコ福音書の読み始めに過ぎない部分で、もうすでに忘れてしまっていたのです。

人間ですから、何かを忘れるということはしかたのないことかも知れません。けれども、いよいよこれからイエスの活動が本格的になるという段階で、私たちはイエスが行っておられる奇跡の意味とか目的を、すでに見失いかけていたのです。はっきり言うと、重い皮膚病を患っている人がいやされたのを見て、「ああすごいなあ、ああビックリしたなあ」と、奇跡にばかり目を奪われてしまっていたのではないでしょうか。

口を酸っぱくして言いますが、イエスが行っておられる奇跡は、「神の国は近づいた」ということを知らせる手段の一つでした。神の支配がイエスによってもたらされたということを知らせる手段でした。それでも私たちは、すでにイエスの期待からそれ始めて、イエスさまは奇跡を行ってすごい力を持っているんだなあとか、間違った方向を向いていたのです。

実は私たちのこうした弱い姿が、今日の朗読箇所の中で見事に描かれています。それは、重い皮膚病をいやしていただいた当の本人です。この男は神の支配が始まったのだという一つの実例として病をいやしていただき、イエスから「だれにも、何も話さないように気をつけなさい」と厳しく注意を受けたのです。

ところが実際は、「その場を立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた」とあります。奇跡のあまりのすばらしさに、男は我を忘れてしまったのでしょう。私はこの男の行動を、あれほどの奇跡を体験すれば、それは無理もないよなあと同情して見ていたのですが、よく考えると私たちもまったく同じ状態に置かれていたことになります。

「神の国は近づいた」「神の支配がいよいよ始まったのだ」ということを確認していながら、私たちはもうすでにイエスの行われている奇跡の目的を忘れて目の前のことに釘付けになっていたのです。奇跡的にいやしていただいた後にイエスの忠告も聞かずに自分が病を治してもらったと大騒ぎしているこの男は、実は私たちそのものだということです。

このことは、何を意味しているのでしょうか。たった今、「だれにも、何も話さないように気をつけなさい」と厳しく注意を受けてもそれを守ることができない一人の男。全体の16分の1、第1章を読み終えたばかりなのに「神の国は近づいた」と態度で示しておられるイエスの思いを忘れて大騒ぎしている私たち。この悲しいほどの弱さは、何を意味しているのでしょうか。

これほどの人間の弱さは、救いに関して私たちがまったく無力なのだということをはっきり悟らなければならないと教えているのではないでしょうか。今日私たちが耳で聞いた奇跡から、神の支配はますます広がっているということすら思い起こせないのですから、救いに関して私たちは何も言えない、神に全面的にすがるしかないということなのです。

「だれにも、何も話さないように気をつけなさい」。こう言われているにもかかわらず、私たちは暮らしの中で何とおしゃべりなのでしょう。いったいどれほどの言わなくてよいことを口にしたり態度で表したりしていることでしょう。神さまがいつ私のために働いてくれているのか分からないとか、自分ばかり教会のことで働かされていて割に合わないとか、まったく言わなくてもよいことを私たちはついつい口にしてしまうのです。

だれにも、何も話さないことは、意味のないことでしょうか。考えてもらう一例として、とある修道会のことを紹介しておきたいと思います。長崎本土の愛宕という場所に、一つの女子修道会があります。この修道会は簡単に言うと、だれにも何も言わない修道会です。活動としては、祭服を作っています。他にもあると思いますが、いちばんの活動は神に祈りを捧げること、神とだけ語り合うことがこの修道会の務めです。

彼女たちはだれにも何も話しません。けれども中田神父は彼女たちが縫い上げた祭服を着て、ミサを捧げています。だれにも何も話さない彼女たちの働きを身にまとって、司祭が祭壇でミサを捧げているとは不思議です。彼女たちの働きを知れば、だれにも何も話さなくても、十分に神のために働くことができることが分かるのではないでしょうか。

もしかしたら私たちは、ほとんど言わなくてもいいことを口にしているのかも知れません。私たちがあえてだれにも何も言わないと心に決めたとしたらどうなるでしょうか。きっと、あえて何かを語り始めるときには聖霊が働いて私の口に新しい言葉を、神への賛美を授けてくださるのではないでしょうか。

だれにも、何も話さないと決めたときこそ、何か話し始めるときに神さまのお役に立てることを話しているのか、そうでないのかが人々の前に明らかにされるに違いありません。


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ちょっとひとやすみ
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▼うーん今週ほど緊張を強いられる週は久しぶりです。説教に集中しなければならない時間にトリノオリンピックにかまけてしまい、時間を無駄にしてしまったあげくに委員会立ち上げの準備、教区の広報誌の記事がまだ確定できていない、さらに黙想会はどうするのかなど、焦ってばかりで何も手に着かず。
▼人間は一度に一つしかできないのだから、あきらめて一つずつ片付ける以外にないのだけれども、それにしてもあまりにも手際が悪すぎます。そして肝心なときの集中力がなさ過ぎます。こんな人間がだれに何を言えましょう。それこそ、「だれにも何も話さないように気をつけなさい」ということです。
▼さらにもう一つ悩ましいことがあります。それは、今週前半で自動二輪の卒業検定を入れているということです。合格する保証はどこにもありませんが、これほど緊張させられている感覚はここ最近味わったことがありません。心地よい緊張感と言えば聞こえはよいですが、そんな生易しいものでは決してありません。
▼一発で合格できると分かっていれば、乗るバイクの手配も必要です。一度不合格になってから、それからバイクの入手に取りかかったほうが安全かなあと思う気持ちもあります。今のところ、手に入れようとしているバイクは「懐かしい~。だけど人気なかったよね~」と言われそうなYAMAHA SR125です。ご存知の方いますか?

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こうじ神父絵手紙
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第12回目。トリノオリンピック。ついつい釘付けになって説教書けません。

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‥次の説教は‥‥
年間第7主日
(マルコ2:1-12)
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年間第5主日(マルコ1:29-39)委員会に所属してイエスを行き渡らせよう

2006-02-05 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
06/02/05(No.222)
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年間第5主日
(マルコ1:29-39)
委員会に所属してイエスを行き渡らせよう
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今週は、神の家族みなが、宣教活動のために役割を最低一つ引き受けるということを考えてみたいと思います。少なくとも一つは引き受けてもらいますので、ある人にはご苦労ですが二つ、あるいは三つ引き受けてもらいたいと思います。

さて、今日の説教の土台になっている箇所は二つです。一つは、人々が病気の人をイエスに取り次いだ箇所です。今週の朗読箇所の前半で次のように言われています。「シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した」それと「夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れてきた」とあります。

これらはつまり、人々が皆、何かイエスのお役に立とうとしたということです。先週の朗読で考えたとおり、イエスには他の学者たちにない神からの権威が備わっており、悪霊さえも言うことを聴くことを理解していました。人々はこの権威あるお方にいやしてもらいたい人を自分たちの身の回りで見つけ、自分たちが取り次いであげるなら、お役に立てるに違いないと考えたのです。一人ひとりが、自分にできることを考えるようになりました。

もう一つ、今週の説教の土台になっている箇所があります。後半部分でイエスは次のように言っています。「近くの他の町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである」イエスが行きたい場所は、目の前に見えている場所にとどまりません。一つの場所にとどまらず、いろんな場所に行き渡らせる必要があるのです。

この二つの箇所を土台にして、先週話し始めた「委員会を立ち上げて、教会活動を強力に推し進める」という話を続けたいと思います。先週は委員会の一つ、典礼委員会がまず必要だという話と、全体をまとめる頭脳に当たる小教区評議会が必要だという話でした。今日の説教で、委員会の全体像を示したいと思います。

今日の朗読で人々は病気にかかっている人をイエスに取り次ぎます。このようなお世話をするためには、小教区に信徒がどれくらいいるのか、男性は何人か、女性は何人か、把握しておく必要があります。男性女性とも、その中に病人がいれば誰かがそのことを報告して、お世話してもらうようにしなければなりません。

つまり、小教区には婦人会と壮年会が必要で、婦人会長・壮年会長は、小教区の会員の皆さんの状態を心にかけていただき、病人のお世話が必要な家庭があれば、神父様に来てもらったらいいですよと勧めてあげるとよいと思います。もちろん今のは一つの例です。婦人会・壮年会に皆が参加すれば、一人ひとりの状態を心に留めてあげるよいきっかけになると思います。

また、小教区全体に必要な問題には、建物の維持管理や、定期的に必要な支払や、経済問題に関わる部分があります。昨年一年間、聖体拝領するための小さなパンを純心聖母会から取り寄せましたが、たとえばこのパンとぶどう酒も、経費がかかっています。経済問題を引き受けることで、小教区の活動にお役に立ってもらうことも必要です。この役割は経済問題評議会が担います。

イエスは会堂で教えたわけですが、私たちも子どもであるか大人であるかを問わず、教えていただくことも必要です。そこで「宣教・信仰教育委員会」を立ち上げて、信仰を育てる効果が期待できる研修会の案内をしたり、時には小教区の中で信仰教育に貢献する企画を練ったりして、学びの場を用意してあげることができます。私たちはイエスに生涯教えていただく必要がありますし、そのための時間と場所は当然あるべきだと思います。ある意味で、司祭をどんどん働かせる役割と言ってもよいかも知れません。

次に、教会の中でこれこれの活動が予定されているとか、こうした勉強会が始まることになりましたとか、司祭も努めてお知らせをしていますが、ミサの後のお知らせだけですべてを済ませることはできませんし、年間を通してどのようなお知らせが伝えられたのかを把握しておくことも必要です。お知らせのことを尋ねられたときに、必要に応じて返事をするためには、司祭だけでは十分ではありません。このために、広報活動の係が必要だと思います。広報委員会は、小教区でお知らせすべき内容を把握して、小教区の皆に行き渡らせるお手伝いをします。

広報委員会のもう一つのお世話は、小教区内に存在する班という仕組みを把握し、うまく活用することです。各班には班長さんが決められていると思いますので、主任司祭は広報委員会を通して各班に伝えるべきことを伝え、各班からすべての信徒の皆さんに連絡が行き渡るという、しっかりした連絡網をこれからも維持していただきたいと思います。

他にも、私たちは身近な魂のお世話として、墓地の管理という大切な務めがあります。すでに墓地管理委員会が設けられていますので、この係を通して、墓地の維持運営にこれからも当たっていただきたいと思います。

こうして集められ、組織として組み合わされる委員会は次の通りです。この中に皆さん一人ひとりが所属して、少なくとも一役、ある人には二役か三役、お願いしたいと思っています。来週12日から、少しずつ委員会を招集して、委員会に任せられていることと活動の進め方などを一緒に勉強したいと思います。さらなるご協力をお願いいたします。

イエスは今も、私たちにこう呼びかけています。「近くの他の町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである」他の町や村を私たちの小教区で当てはめるなら、島内の隅々にまでと言ってよいかも知れません。島内の隅々までのことを詳しく知っているのは私ではなくて皆さんです。

きっと皆さんが一役ずつでも引き受けてくだされば、イエスをどんな隅にまででも届けることができるに違いありません。そしてあらゆる場にイエスの思いを行き渡らせるためには、一つの形ではなくて、いろんな形が必要です。さまざまな目的にかなった委員会のどれか一つに関わることで、イエスの思いが十分に行き渡りますように、またこれからの委員会活動に主イエスが共にいて力を与えてくださるように、ミサの中で心を合わせて祈っていきましょう。


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ちょっとひとやすみ
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▼自動二輪の教習も第2段階に入っている。ただし長足の進歩はなくて、相変わらず遅々とした歩みではあるが。第2段階に特徴的なことは「コース」を覚えることで、現在Bコースを指示通りに周回するという教習を受けている
▼この「コース周回」にあたってはっきり自覚させられたことがある。それは、コースの理解のしかたが甘すぎたということだ。先生から「コースは覚えてきましたか」と言われて、「はい。きちんと覚えてきました」と答えたのだが、いざ覚えたなりにコースをたどって帰ってきたら、「これが、覚えてきたという走りなのですか」と言われた。
▼もう一度先生が期待している走り方を実演してもらったところ、確認のしかた・合図の出し方・車線変更のしかた、どれ一つとして自分は満足にコースを理解し、消化していないことが分かった。バイクに乗ってから降りるまで、どこをとっても気を緩める場所などないのである。
▼そう考えると、自分の取り組み方がいかにいい加減だったかが分かってくる。気を緩めたとたんに先生の満足する走りから離れてしまい、実際にはそれが減点の対象になって、検定で不合格ということになりかねないのである。おそらくは、今に始まったことではなく、生活のあちこちで、いかに気がゆるんでいるかを物語っている出来事だったのだろう。ゆるんでいるのはお腹だけではなかったということだ。

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こうじ神父絵手紙
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第11回目。雨が降ったときに、皆さんはケータイをどうやって守りますか?

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
年間第6主日
(マルコ1:40-45)
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