こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

四旬節第4主日(ヨハネ9:1-41)わたしたちはイエスに遣わされて主の思いを知る

2014-03-30 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
14/03/30(No.700)
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四旬節第4主日
(ヨハネ9:1-41)
わたしたちはイエスに遣わされて主の思いを知る
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四旬節第4主日、A年は「生まれつきの盲人をいやす」物語でした。この中で、イエスが「シロアム『遣わされた者』という意味の池に行って洗いなさい」と言われた(9・7)この点に注目して「イエスに遣わされて主の思いを知る」というテーマで黙想してみたいと思います。

長崎大司教区の司祭異動がすべての長崎教区司祭に送られてきました。眼を皿のように見開いて読み返しましたが、わたしの名前は含まれていないので、今年も浜串小教区でお世話になります。

さて、選ばれた福音は長い長い朗読でしたが、この奇跡物語を考えるのに、他の奇跡物語を参考にしたいと思います。それは、ルカ福音書第17章の「重い皮膚病を患っている十人の人をいやす」物語です。両方に共通するのは、病人がイエスの指示された場所に行くという点です。

今日の生まれつき目の不自由な人は「シロアムの池」に行くように言われ、その通りにしましたし、比較するために紹介した物語では十人の重い皮膚病を患った人たちが祭司のところに行くように言われ、その通りにしています。この様子から、人はイエスに遣わされ、遣わされたその先で、イエスの思いに触れることが分かります。

3つの場面を取り上げたいと思います。1つ目は、通りすがりにイエスがこの生まれつき目の見えない人を見かけたという場面です。イエスはこの障害を抱えた人を導くために、「地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗り」(9・6)シロアムの池に遣わします。ここで目が見えるようになり、イエスが奇跡をおこなう人であることを知ります。

2つ目の場面は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行かれた場面です。彼はまだイエスを見ていませんが、イエスのことを心から信じる人に変わっています。目が見えるようになって、重宝していることに感謝しているだけではなく、もっと踏み込んで、イエスはわたしたちと同じ罪の中にいる人ではない、神のもとから来られた方であると、考えるようになっています。

そして3つ目は、いやされた人が外に追い出されて、イエスと再び出会っている場面です。今度は、イエスを肉眼で見ています。そして「あなたは人の子を信じるか」とイエスに言われ、彼は答えて「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」と言います。

それに対してイエスは「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」と答えると彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずきました。生まれつき目の見えなかった人は、3つの場面を通して、大きく変化していきました。

取り上げた3つの場面は、わたしはこの障害を抱えていた人がイエスに遣わされた場面だと考えています。1つ目の「シロアムの池」は明らかに派遣されていると分かります。けれどもその後の2つの場面は、ファリサイ派の人々のもとに連れて行かれ、そこから外に追い出されてと、迫害の中にあるわけです。それでもあえて、彼はイエスに遣わされてそこに置かれていると考えたいのです。

迫害が予想される場所に出向いても、先に大きな体験をしたので、迫害に屈しませんでした。彼は肉体の視力を回復して、それで終わりとはならず、自分をいやしてくれた人に誠実にふるまいました。肉体の視力を奪われていたときは、生きるために人の言いなりになっていたかもしれません。彼はその状態を抜け出して、自分が今あるのはイエスのおかげだから、イエスに背を向けるようなことはしないと決めたのです。彼はイエスに誠実に生きるという新しい生き方に目が開かれたのでした。

さらに、彼はファリサイ派に追放された後にイエスに出会います。彼は誰にもはばからずに「主よ、信じます」(9・38)と言ってイエスにひざまずく人に生まれ変わりました。肉体の目を開かれ、新たな生き方に目を開かれ、さらに信仰の目が開かれたのです。

比較のために紹介した、十人の重い皮膚病を患った人たちも、同じ段階を経ています。重い皮膚病から解放され、新しい生き方に招かれました。ただし、イエスへの信仰に目が開かれたのは十人のうち一人、外国人として差別されていたサマリア人だけでした。

わたしたちに当てはめてみましょう。イエスのなさり方は、人を遣わし、遣わした先でご自分の思いに触れさせるのでした。わたしたちも同じ体験をすることで、イエスの思いに触れます。言い方を変えれば、当たり前に見えているものも、イエスに遣わされて初めて物事がよく見えるようになり、その意味を深く学ぶのではないでしょうか。

一つ、紹介したいと思います。わたしたちは日曜日に集まって、主日のミサに参加しています。当たり前かもしれませんが、見方を変えて、わたしたちが一人一人イエスに遣わされて、この場に集まっているとも考えることができるのではないでしょうか。

ミサは、みなさんの考えによれば、司祭が一人でささげるものと考えているかもしれません。しかし祭司の務めを果たすのは、主任司祭一人ではないのです。洗礼を受けたすべての人は、共通の祭司職を委ねられていて、一人一人が信徒の立場で、祭司の務めを果たすのです。

ですから、ミサに集っているわたしたち一人一人は、実はイエスに遣わされて、ミサをささげるために集まっているのです。司祭が「主は皆さんとともに」と招くとき、一人一人が「また司祭とともに」と答えてミサをささげているのです。「また司祭とともに」という応答は、ミサの中で皆さんがささげている部分なのです。決して、司祭が一人でささげているのではないわけです。

今日も、わたしたちはイエスに遣わされて、遣わされた先でイエスの思いに触れます。今日わたしたちは、単にミサに参加するためではなく、ミサをささげるために集まっているのです。日々、イエスに遣わされることで、イエスの思いに触れることにしましょう。当たり前に見えていることの中に、イエスに遣わされているという見方を当てはめて、イエスの思いをより深く学ぶことにしましょう。

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‥次の説教は‥‥
四旬節第5主日
(ヨハネ11:1-45)
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ちょっとひとやすみ
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▼メルマガが700号になった。全く意識してなかったわけではないが、ちりも積もればここまで来るのだなぁと感慨深い思いだ。たくさんの方の支え、励ましでここまで来たと思う。
▼ときおり配信を忘れ、「今週のメルマガが届いていません(泣)」という連絡を受けたりして、必要とされていることを再認識することもあった。どうしてもメルマガの登録がうまくいかず、個人的にメールを転送している人も数人いる。この人たちもメルマガを待っている人たちだ。
▼これまでに、配信の道具が故障して作業が行き詰ったこともあった。特に昨年は、メインのデスクトップパソコンが深刻な障害に見舞われ、活動を諦めるか、というところまで追い込まれた。幸い作業を続けるだけのデータだけは保護できたが、本体を買い替えるくらいの時間と費用がかかった。
▼それでも待っている人のため、メルマガを続けてきた。これも、続けて購読してくれている人がいるからこそ。これからも多くの人に感謝しながら、このメルマガを続けていきたい。
▼できれば、この活動を理解してくれる人をもっと広げたい。何より、説教をしている同じ司祭たちからの認知度が低いので、そのへんを掘り起こしたい。「メルマガ?ふーん」としか返事の返ってこない司祭たちに、何をどう投げかければ認知してもらえるのかわからないが、やはり同じ立場の人に理解してもらうのは心強いものである。

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今週の1枚
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第307回目。カトリック桐教会の信仰の先達を記念するプレート。

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四旬節第3主日(ヨハネ4:5-42)イエスはあなたに決定的な関わり方をしてくださる

2014-03-21 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
14/03/23(No.699)
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四旬節第3主日
(ヨハネ4:5-42)
イエスはあなたに決定的な関わり方をしてくださる
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先週は黙想会、ご苦労さまでした。わたしは、黙想会は信仰の畑を耕すまたとない機会だと思っています。黙想会でしっかり畑を耕して、生活に戻ってこれから信仰の種まきをすれば、きっと実を結ぶと思います。ぜひこれからの生活で黙想会の話を活かしてほしいと思います。

四旬節第3主日です。「イエスはあなたに決定的な関わり方をしてくださる」この点について考えてみたいと思います。ヤコブの井戸のそばでイエスは、サマリアの女に対して決定的な影響を与える出会いをなさいます。女性の負担の中でも特に重労働だったであろう水汲みに来た場面で、イエスは「生きた水」について語り始めます。イエスの言葉は、乾いた地に染み込む水のように、女性の心の中に染み込んでいきました。

イエスとサマリアの女の対話から学びを得る切り口として、わたしはサマリアの女の次の言葉に注目してみました。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」この女性はイエスが与えようとする生きた水を十分理解していたわけではないと思いますが、彼女の願う姿は、彼女が心の渇きを癒してくれる人を必要としていることがよく伝わると思うのです。

当時のパレスチナ地方の女性たちは、水くみはどうしても避けられない労働でした。井戸はしばしば遠く、掘られた井戸も深く、できれば避けたい重労働だったでしょう。しかも、この女性は1人の夫のためにこれまで水くみをしてきたのではなく、これまでに5人の夫がいて、その5人に水くみの苦労を強いられてきたのです。彼女は水をくむ度にのどの渇きをいやしましたが、これまでの人生で感じていた心の渇きは、5人の夫をもってしてもいやしてもらうことができなかったのです。

そこへ、決定的な形でイエスが関わってくださいました。見た目には、イエスは旅に疲れて、井戸の水をくむものも持たず、弱々しい姿だったのです。飲み水を与えませんでしたが、イエスは「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(4・14)とおっしゃるのです。

人は、決定的な影響を与える人によって、どのような姿にでも変わることができます。イエスはすべての人にとって、決定的な関わり方を果たしてくださいました。ペトロには、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(マタイ4・19)と言ってペトロの人生を決定づけます。罪深い人生にあった犯罪人でさえ、イエスは天の国に迎えられる人に変えることができます。

こうした決定的な関わりかたを、サマリアの女から始まって、地域の住民の多くが経験したのです。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」(ヨハネ4・42)

わたしたちは、どこかで自分の歩むべき道を決定づける人に出会って今を生きているのだと思います。だれにでも、忘れられない出会いがあって、その出会いの中で受けた影響を粋に感じて、人生を歩いているのではないでしょうか。

この前、民放のドキュメンタリー番組で、肺の移植を専門にしている外科医が取り上げられていました。その外科医は、先輩医師が自分に言ってくれた言葉を心に刻み、いつも思い出していると話していました。それは、「将来1人でもいいから、あんたがおったから助かった。他の誰でもない、他の外科医じゃなくって、あなたがいたから助かったんですと言う患者が1人でも出来たら、君の外科医人生は大成功。外科医になった意味があったと思いなさい。」というものだそうです。

場面を観ながら、2つのことを思いました。わたしを決定的に導いてくれた人のことと、わたしはだれかに対して、決定的な影響を与える人になれるだろうかということです。まずわたしに決定的な影響を与えてくれた人は、高校を卒業して司祭になるまでの8年間、大神学院で指導をしてくださったカナダ人の司祭を挙げることができると思います。

この指導担当司祭にさまざまな導きを受けましたが、「神さまはあなたが思いもしない形ででもあなたを準備し、ご自分の道具にしてくださいます」という言葉が特別に残っています。わたしが神の前にへりくだって、「わたしでよければ、どうぞお使いください」と心から思えるようになったのは、カナダ人指導司祭のあの言葉だったと思います。

一方で、わたしはさきほどの外科医が心に刻んだ言葉を自分に当てはめ、「ナカダコウジというカトリック司祭がいたから助かった」そんな司祭になれているだろうかと考えました。この部分は、恥ずかしい話ですが、自分からはまだ「この人だ」という人を思い出すことができません。「中田神父がいたから助かった」という人が1人でもいれば、司祭になった意味があったと言えるでしょうし、もしかしたら地獄の滅びからも免れることができるのかも知れません。

イエスは皆さんお一人お一人にとっても、決定的な関わりをしてくださるお方です。時代を超えて、場所を越えて、その事実は変わりません。わたしが知っている範囲でも、結婚した妻を通してイエスの決定的な導きを受けた人を知っていますし、命に関わる場面で司祭を呼び、秘跡を受けて死の淵から帰ってきた人も知っています。皆さんにとっても、同じようにイエスは人生の中で決定的な働きをしてくださっています。

もし、自分の中でイエスが深い関わりを持ってくださっていることに感謝しているなら、次はわたしが、だれかに対して決定的な役割を果たすお手伝いをしてみましょう。わたしが人を助けるとか人を救うというとらえ方ではなく、イエスがその人に決定的な関わりをもってくれるために、わたしが一役買うということです。

イエスのために一役買ってくれる人を、イエスはいつの時代にも必要としています。お役に立てるならと力を貸してくれる人がいるおかげで、イエスはいつの時代にもどんな場所でも、具体的なあの人この人に、救いのわざを届けておられるのです。

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‥次の説教は‥‥
四旬節第4主日
(ヨハネ9:1-41)
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ちょっとひとやすみ
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▼ときどき、黙想のアイディアになりそうなことをメモを取っている。日々のミサの短い説教の中で、「これだ」と思うことがあり、ミサが終わってすぐにメモを取るようにしている。そんな「ひらめき」があった平日のミサは、「話したことを忘れないようにしなければ」という意識でミサに集中できていない・・・かも知れない。
▼いろいろ思い付くことがある。これまでもいろいろあったのだが、メモを取っておけばと本当に後悔する。それでも、メモを取り始めたところがスタートだと思うようにしている。後ろを振り向いても過去には戻れないのだから。むしろ、今から過去への後悔を忘れるほど努力すればよいではないか。
▼高校生に向けて、一つのアイディアが浮かんだ。高校生を指導する立場になったときに話してみようと思っているネタである。わたしたちはどうしても真面目になりすぎて、「立派な高校生になるように」と指導しがちである。そんな指導はほかの人に任せればよい。わたしはこう言いたい。「親不孝をしなさい」と。
▼現代、親不孝な高校生とはどんな高校生だろうか。立派に高校卒業して、引きこもりになることだろうか。進学はひとまずしたけれども、大学や専門学校を中退することだろうか。保護者はその程度の行動でわが子に唖然とするだろうか。
▼わたしは、その程度で腰を抜かしたりはしないと思う。ある程度悲しむかも知れないが、仰天する結末ではないと思う。そうではない。あなたが身につけた高等教育をひっさげて、修道会の志願者になったり、司祭を目指す神学生になること。これこそが、現代にあって保護者が腰を抜かし、予想だにしなかった結末なのではないだろうか。
▼「こんな道を選んでもらうためにおまえに勉強させたのではない。」保護者はかんかんに怒るかも知れない。面白いではないか。その親不孝のために、決断した青年は勘当されるかも知れない。いよいよ面白い。だから、いつか話す機会があったら、わたしが考える「親不孝」をしてみないか?と誘ってみようと思う。
▼黙想会の効用とか、黙想会のとらえ方については説教で話をした(つもり)。ここは、ゆるしの秘跡の場でひらめいた。一人ひとりの告白のあとに、「黙想会という機会をとらえて、お一人お一人の信仰の畑を耕しましょう。そして・・・」と言い聞かせをした。これもわたしの中で「キター」と思ったアイディアである。
▼ほかにも、司祭がミサをささげる中で、単調にならないための一つのエピソードをある場面で与えてもらった。わたしはそのアイディアを自分に言い聞かせ、心ここにあらずというようなミサにならないように戒めている。これは司祭の黙想のためだが、これを活かす場所がないか。

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今週の1枚
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第306回目。3月16日に、知る限り新上五島町の2つの小学校が閉校になった。

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四旬節第2主日(マタイ17:1-9)山でイエスと一致して山を降りる

2014-03-16 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
14/03/16(No.698)
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四旬節第2主日
(マタイ17:1-9)
山でイエスと一致して山を降りる
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わたしは一度だけ、イスラエルを巡礼したことがあります。当時は島本大司教さまが、ぜひ青年たちを連れてイスラエルを巡礼したいと計画を発表なさり、各地区から全部で30人の青年が選ばれました。

この青年たちに加えて、各地区の若手の司祭たちが同行することになり、当時佐世保地区にいたわたしは、この地区の青年たちの引率として、エルサレムを初めイスラエルのあちこちを約2週間にわたって巡礼したのでした。

その中に、今週朗読に選ばれている箇所、主がご変容されたとされる山が含まれていました。タボル山というのですが、わたしたち巡礼団は、グループに分かれて車に分乗し、山の頂上にある「ご変容の教会」を訪問しました。

イスラエル各地を巡礼する間、いつも欠かさずしていたことがあります。それは、巡礼地にたどり着くたびに、その土地にまつわる聖書の箇所を朗読し、それについて大司教さまが解説を加え、しばらく朗読箇所について黙想することです。

タボル山でも、まさしく今週朗読された箇所を当番の司祭が読み上げ、出来事に思いを馳せたのでした。巡礼に行った当時30代前半だったわたしは、ペトロや一緒にいた弟子たちがイエスの姿が変わる様子に息を呑んだように、単純に光景を思い浮かべることしかできませんでした。

もしもう一度、タボル山に登ってご変容の教会で朗読箇所を読めば、もうちょっと違った感想を持つと思います。なぜならイエスの姿が変わったのは、このあと山を降りて行くことと深く関係しているからです。山を降りて、群衆のいる平地での宣教活動に戻る弟子たちに、大切なことを教え、大切なものを与えるためのご変容だからです。

ご変容の瞬間、イエスはご自分の栄光の時が近づいていることを十分感じていました。「顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。」(17・2)その姿は、受難のあとにやって来る復活の栄光の姿でもあったからです。

のちの栄光の姿を山上で弟子たちに見せたのは、このあと弟子たちが山を降りて、これからも続いていく宣教活動、その時受けるであろう迫害、この困難をしっかり担っていく力を与えたかったのではないでしょうか。

先週わたしは、イエスが誘惑を受ける場面で、「悪魔の罠にいっさい手を染めず」「神との絆を断ち切らないような生活を心がける」こうしたことを話しましたが、今週のイエスの模範はさらに踏み込んで、「神々しさを身にまとうほど御父と一致したわたしがあなたたちに近づいて触れるから、恐れるな」と呼びかけます。

先週はいわば「○○しないように」という消極的な呼びかけでした。今週はより積極的に、御父と深く一致して「顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」イエスが触れてくださるから、あなたは恐れることはない。そう励ましておられるのです。

イエスは山に登って御父と深く一致した姿を見せました。山に登るためには、地上での生活を脱ぎ捨て、体一つになって出かける必要があったと思います。また、一致するためには御父が自分のすべてとなる必要があります。この姿を、山を降りて行く弟子たちに見せて、山を降りてからも、イエスの声を聞き、イエスが弟子たちのすべてとなって宣教活動が続いていくよう望まれました。

今週わたしたちの小教区では、一人のお子さんが初聖体を受けます。初聖体は、イエスさまと一致する大切な日です。イエスさまは、御父と一致する姿を示して、わたしたちを招きました。初聖体を受けるお子さんも、イエスさまと一致するためにすべてを横に置いて、イエスさまの前にひざまずいています。

初聖体を受けるお子さんの姿は、わたしたちにももう一度思い起こしてほしい姿です。教会に来て御聖体をいただいてイエスさまと一致する。それは弟子たちがイエスと山に登った姿のようです。イエスと一致する場所である教会に集うために心と体の準備をし、イエスさまと一致した喜びを携えてお御堂という山を降りて、毎日の生活に戻っていくわけです。そこでは、イエスさまをいただいている喜びと感謝を、生活の中で現していくことが期待されています。

恐れている弟子たちに、イエスは触れてくださいました。初聖体を受けるお子さんにとっても、御聖体を拝領する瞬間は「イエスが触れてくださる」瞬間だと思います。イエスが触れてくださると、拝領する前に抱いていたすべての恐れや不安が取り除かれます。わたしたちもまた、御聖体を拝領することでイエスが触れてくださり、抱えている恐れを取り除いてくださるのです。

四旬節を進む中で、イエスはさらに信仰の歩みが進むように招いています。神との絆を断ち切る誘惑を退けることから出発して、今週はより積極的にイエスに一致した喜びと感謝を生活の中で保ち続けるよう期待しています。信仰の積極的な歩みを支えてくれるのはもちろん御聖体の恵みです。

初めて御聖体をいただくお子さんの喜びと感謝を、わたしたちも今週分かち合いましょう。イエスは御聖体にとどまってわたしたちと共にいてくださいます。この真理を生活の中で証ししましょう。また黙想会を通しても、イエスが共にいて力づけてくださることを体験することにしましょう。


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‥次の説教は‥‥
四旬節第3主日
(ヨハネ4:5-42)
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ちょっとひとやすみ
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▼3月12日に48歳の誕生日を迎えた。45歳も48歳もたいして変わらないが、40代の時間があと2年と限られてきたことは実感する。もはや人生の折り返しも過ぎ、のこりは12.195kmだと思っているので、これからは何が起こってもおかしくない。
▼今月初めに処方箋に沿って出された1ヶ月分の薬を受け取った。これで2回目、服用も2ヶ月目に入ったことになる。薬は2種類、コレステロールの値を下げる薬と、尿酸値を下げる薬。これで立派な病人である。食事のあとに薬を並べていた人々を憐れんでいたものだが、それももう過去の話になった。
▼誕生日に「おめでとうございます」という声をたくさんかけてもらった。大変ありがたいことで、心にかけてもらえることを感謝して生きたいと思う。1件だけ、仕事を頼んでくる電話が入った。誕生日に仕事を入れようとするなんて、どこのどいつだと思ったら、修道会が経営している保育園からだった。
▼内容は、「保育園の職員研修で、講師を務めてもらいたい」というものだった。ざっくばらんな電話に、おおざっぱな依頼内容。こんなテキトーな依頼を引き受けるほうもテキトーだとつくづく思う。あとで詳細な依頼の書類が届くそうだが、電話で聞いた内容に、少し説明が加わる程度だと思うが、どうだろうか。
▼断ってもよかったのだが、ちょっと断りにくい事情があった。電話をかけてきた保育園の園長が、同じ郷里の出身で、いろいろたどると他人ではないシスターなのである。まぁわたしも人の子で、先ではあちこちの保育園を抱えた小教区にお世話になることだし、恩を売っておいても悪くないかなぁと思ったので断らなかった。
▼それにしても、漠然としたテーマに対して、どんな準備をすればよいのだろうか。毎年、どんな講師を依頼していて、どんな順番でわたしになったのだろうか。そういうことを考えながら、あと3ヶ月近くも講話を考えなければならないことになる。最後は、自分でこうと決めたものを持っていくしかないか。

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今週の1枚
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第305回目。卒園式。この子たちまではわたしのことを記憶してくれるかも知れない。

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四旬節第1主日(マタイ4:1-11)「○○したらどうだ」に乗ってはいけない

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14/03/09(No.697)
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四旬節第1主日
(マタイ4:1-11)
「○○したらどうだ」に乗ってはいけない
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灰の水曜日を経て四旬節に入りました。この期間を「神との絆を確かめる日々」とするため、朗読された福音に目を留めたいと思います。

2月の最後の週でしたか、長崎に出かけていたときのこと、司祭館からケータイに電話がかかって、賄いのシスターが「中田神父さまに用事のある人が来ています。電話を代わります」と繋いできました。電話に出たのは見知らぬ声の人で、「自分は船外機を買い取りに来た。9.8馬力の船外機を売ってください。」と話しています。

船外機を売ってくれと言う電話の相手は、わたしには最近はやりの「押し買い」にしか聞こえませんでしたので、「きっぱり断る」と伝えました。わたしの毅然とした態度に「交渉の余地がない」と思ったのか、すぐにその人は引き下がり、わたしが電話を切って終わりました。

これは間違いなく、わたしがボートをまったく動かさないからこのような隙を突かれるのであって、一刻も早く船を海に浮かべ、アラカブ(カサゴ)釣りに行かなければならないと感じました。それでご苦労ですが、この話を聞いたお父さんたちの中でどなたか、わたしのボートを降ろして係船場に繋いでおいてほしいと思います。天候を見て、すぐに今年の最初の釣りに出かけたいと思います。よろしくお願いします。

四旬節第1主日は、ABC3年周期のどの年もイエスが悪魔から誘惑を受ける場面が選ばれます。悪魔は三度、イエスを試みるわけですが、その誘惑の言葉は、共通した特徴があるようです。

マタイ福音書第4章、悪魔の最初の誘惑は「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」(4・3)となっています。二度目の誘惑は「神の子なら、飛び降りたらどうだ。」(4・6)です。三度目は「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら」(4・9)と言っています。

共通する特徴があると言いましたが、共通点にお気づきになったでしょうか。わたしが共通すると見て取ったのは、「悪魔の誘惑に、自発的に応答させようとしている」という点です。悪魔は巧みにイエスを罠に引きずり込もうとしますが、この誘惑によってイエスがもし過ちを犯すとすれば、自発的に応答したときだということです。

このやりとりは、わたしたちにも当てはまります。わたしたちが罪を犯し、悪に引き込まれるのは、自発的に誘惑に応答したときなのです。イエスは今日の誘惑の場面で、いっさいの自発的応答をしませんでした。石がパンになるように命じなかったし、飛び降りなかったし、悪魔をひれ伏して拝むこともしなかったのです。

ついでの話ですが、悪い事柄を、悪いと知りつつ、自発的に行ったときに罪を犯すのであって、たとえば自発的にしなかった場合は罪が成り立っていないということをよくよく分かってほしいと思います。

具体的に言いますが、具合が悪くて日曜日のミサに行きませんでしたとか、入院していて日曜日のミサに行きませんでしたというのは、罪として成り立っていないのです。浜串小教区に来て、告解場に座って皆さんの告白を聞きながら、「具合が悪くてミサに行きませんでした」「入院していてミサに行きませんでした」と耳にタコができるほど聞かされましたが、罪が成り立っていないのです。

深酒して、日曜日のミサに行けなかった。これは罪になります。度を過ぎた飲酒が、どんな結果をもたらすか、おおよそのことは分かっていながら、それでもあえて深酒してミサに行けなくなっているからです。

通常の生活の中で、朝起きられないほど熱があってミサに行けなかった。この人のどこが、悪いと知りつつ、自発的にミサに行かなかったことになるでしょうか。詳しく説明したのですから、今日以降に「具合が悪くて・・・」と告解場で言う人がいるなら、それこそ具合が悪くなるくらいの量の祈りをわたしが命じます。覚悟しておいてください。

もう一度福音朗読に戻りましょう。悪魔はあえてイエスに三度も誘惑を仕掛けました。それは、イエスから、御父との絆を自発的に断ち切らせようとするためです。悪魔の誘惑に、自発的に応答する態度を引き出させて、御父と御子の絆を断ち切らせようとしているのです。

イエスは、悪魔の罠にいっさい手を染めませんでした。イエスが見せた姿は、ご自身の御父に対する揺るぎない信頼を示すためだけではありません。わたしたちに、それぞれの生活の中で神との絆を断ち切ってはいけない、その模範を示すためでもありました。

急に体調をこわして日常の信仰の務めを果たせないといったことをこれまでに経験したかも知れません。いつも休まずにミサに通っていたのに、いつも欠かさずに朝夕の祈りを唱えていたのに、ミサに行けなかった、祈りを休んでしまった。そうしたことは気落ちする出来事、自信を失うショックな出来事かも知れません。

突発的な出来事は、わたしたちの神との絆を断ち切ることは決してないのです。しかしもし、どんなに小さな出来事であっても、それが悪いことと知りつつ、自発的に行うなら、神との絆を断ち切る罪です。

わたしはタバコの投げ捨てを何よりも嫌う人間で、自分の前で信号待ちをしている車がタバコを車の外に捨てようものなら、降りて行ってわざわざ捨てたタバコを拾って車の中に投げ返します。心の中でですが。内心は投げ返してやろうかと思うくらいタバコの投げ捨てが嫌いです。

あの行為は、悪い事柄を、悪いと知りつつ、自発的に行っているのですから、神との絆を断ち切る罪なのです。いつだったか司祭館に訪ねてくる通路にタバコを投げ捨てた人がいたので、拾って洋服の中にねじ込んでやろうかと思うほど本当にムカッと来ました。

まぁとにかく、お一人お一人の生活から、神との絆を断ち切ろうと悪魔はあの手この手を考えています。わたしたちは、決して挑発に乗って自発的に応答してはいけません。「神の口から出る一つ一つの言葉」により頼み、過ちがあればいつでも「退け、サタン。」というイエスの厳しいことばの前に身を砕き、へりくだりましょう。この四旬節中、神との絆を確かめながら、償いの精神に生きる日々といたしましょう。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
四旬節第2主日
(マタイ17:1-9)
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‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼昭和40年の4月から昭和41年の3月までの生まれの人は、わたしと同級生である。その中でも新上五島町の東浦小学校を卒業した人は、わたしを当然知っているはずである。だが、「当然」というのはどうやらそうでもないらしい。
▼わたしがいつもお世話になっている郵便局に、名前に見覚えのある局員が配置された。もう1年前のことである。そこで窓口で用事をお願いしている間に「わたしは東浦小学校卒業で、中野の出身です」と言ってみた。するとその人は「わたしも実は、東浦小学校卒なんですよ」と言う。
▼「同級生じゃないのかな」と思ってこっちは投げかけているのに、「奇遇ですねぇ」みたいに扱われた。仕方がないのでそのままにしていたら、この局員が1年経ってから「中田さん、わたしと同級生ですか?」と言う。
▼だから言ったじゃないか。「同級生だろう?」って。面倒くさいなとは思ったが、同級生の名前をずらっと並べて思い出すきっかけを与えてくれたら、嬉しそうに反応してくれた。だが肝心のわたしがクラスにいたことは思い出せないらしい。少なくともわたしは、小柄で華奢な体型の彼をおぼろげながら記憶しているというのに。
▼地元の上五島に残って、地域を支えてくれている同級生がたくさんいるはずである。わたしもどこに投げかけてよいのか分からないので、窓口を教えてほしい。あるいは、かつての同級生と直接出会える土地にいる間に、できるだけの人と会っておきたいから、何とかして名乗り出てきてほしい。
▼これだけ情報の時代にありながら、なぜ上五島にいて上五島の同級生と会う機会に恵まれないのだろうか。「ゆびとま」というサイトを見たことがあるが、同級生の名前はほとんど掲載されていない。ではfacebookか?これもまた、それらしい名前に当たったためしがない。
▼新上五島町でこのブログを閲覧している人は何人いるだろうか?そうした読者にも、できたら力を貸してほしい。かつては会いたいとも思っていなかったが、わたしもすでに赴任して4年が経過しているので、いつまでもここにいるわけではない。昭和40年4月から、昭和41年3月までの、東浦小学校卒業生。名乗り出てほしい。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第304回目。この中に2人、徒歩巡礼でない方がいます。だれとだれでしょう?

ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/

【文庫本の問い合わせについて】
文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
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2000円です。ご希望の方は住所と名前を添えて連絡ください。
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年間第8主日(マタイ6:24-34)あなたは、神と富とに仕えることはできない

2014-03-02 | Weblog
当ブログをお読みくださり、ありがとうございます。

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/140302.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
14/03/02(No.696)
‥‥‥†‥‥‥‥
年間第8主日
(マタイ6:24-34)
あなたは、神と富とに仕えることはできない
‥‥‥†‥‥‥‥

長崎教区にとって、また個人的には中田神父にとって恩人である道向 栄神父さまが2月26日肺炎で亡くなりました。87歳でした。今週の福音朗読と重ね合わせながら、今日は恩人の神父さまを偲びたいと思います。

郷里の鯛ノ浦教会に残されている台帳を調べると、わたしに洗礼を授けてくれたのは山内 豊神父さまでした。けれども、わたしの記憶の中には、山内神父さまのことは何もなくて、小さい頃の神父さまというとやはりこの亡くなられた道向神父さまということになります。

神父さまは鯛ノ浦にいるときは病院に通院するということで海上タクシーで若松に渡っていました。その時わたしも海上タクシーに乗せてもらったりした覚えがあります。

また侍者は、クリスマスにご褒美で5百円札をもらっていました。結婚式の侍者や葬式の侍者のときにも特別手当で5百円札をもらっていたと思います。そうやって機会があれば呼び出されて手伝いをしていたおかげで、神父さまという生き方に親しく触れることができました。

6年生の時、2通りの神学生の募集が回ってきました。1つは、当時大分教区の司教さまだった平山司教さまが、上五島と下五島をくまなく回って募集していました。司教さまなんて滅多にお目にかかることはないわけで、「あなたもうちの神学生になりませんか」と、指輪をはめて赤い帽子と赤い帯をした立派な身なりをした人から誘われたものですから、「いいなぁ」と一瞬思いました。

そこへ道向神父さまが割って入りまして、「ダメダメ。この子は長崎教区の神学生にやるとやけん」と言っておられたのを覚えています。道向神父さまの賢明な判断があったと感じています。

その後、教区の神学校の校長先生が募集においでになり、当時の校長であった浜崎 渡神父さまから「ぜひ神学校においでなさい。これを学用品の足しにしなさい」と言われて、ここでも5百円札を受け取りました。最終的にこの5百円札が決め手となり、神学校に入学したのでした。

神学校に入学してからも、休暇に入ると司祭館に真っ先に挨拶に行き、休暇中は何があっても毎日ミサに行って、聖書朗読やそのほかの典礼の手伝いをさせられました。信心業についてはことさら厳しい神父さまでしたので、神学校にいるときよりも、休暇中に道向神父さまにしごかれるほうがきつかったかも知れません。

そうやって召し出しの最初の時期を過ごしましたが、道向神父さまはわたしが高校生になった年に、佐世保の鹿子前教会に転勤していきました。すると鯛ノ浦の神学生は長崎から佐世保経由で鹿子前に立ち寄ってから休暇に入るようになりました。さらに大神学院の神学生になっても、道向神父さまの導きをもらいながら育ったと言ってもよいと思います。その中に、今日の福音に繋がるさまざまな教えをいただきました。

たくさん学ばせていただきましたが、それはもしかしたら、「よく考えたら」という条件付きだったかも知れません。わたしが見た範囲で、道向神父さまが乗っていた車は晩年を除いてはマークtwoでした。コマーシャルではないですが、「いつかはマークtwo」と思ったものでした。

行った先行った先で司祭館を作り替えました。場合によっては教会とどっちが大きいかなぁという司祭館に見えました。神学生は来客用の応接間ではなく、執務室に通されましたが、そのときどきの最新の家電がずらっと並び、圧倒されました。

ただ一方では、信心をおろそかにすることは決してありませんでした。その姿を見ながら、「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(6・24)というみことばをしみじみ考えることになりました。

神学生として教会の手伝いを丸一日すれば、その間に司祭館で食事もいただくこともありました。司祭館の食事は、目を見張る内容で、「こんなの食べたことないなぁ」と思いながら出されたものをほおばりました。後で考えてみると、鯛ノ浦の時代から足が痛いと言っていたのですが、痛風の症状があったのかも知れません。

食事をいただくたびに驚きの連続でしたが、「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。」(6・25)というみことばは、わたしにとってはどこか遠い場所で起こっているのではなくて、すぐ目の前で起こっていることでした。

「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(6・33)このみことばで道向神父さまのことが偲ばれるのは、常に赴任した教会で信徒の動きを把握していたということです。当時パソコンもワープロもなかった時代に、ガリ版印刷で教会の全世帯の記録を印刷したものを資料として用意してわたしたちに見せてくれていました。どんなに小さな出来事でも、その資料を見れば一目瞭然でした。

神の国がどのようにこの小教区で根付き、育っていくのか。それぞれの信徒がどのような霊的状態にあって、どんなお世話を必要としているのか。いつも綿密に調べ上げて資料に残していました。大変に筆まめで、どんなことにも必ず返事をくださり、それはもうまねのできない細やかさでした。結論としては、すべてが神さまから与えられ、すべてを神さまに委ねていればよいと、心から信じている神父さまでした。

「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(6・34)道向神父さま、ゆっくりお休みください。明日の長崎教区のことは、明日を担う世代が思い悩み、悩み抜いて舵を切ります。神父さまの今日までの苦労は、十分神さまに知られています。どうか、鯛ノ浦から送り出した出来の悪い後輩司祭のために、神さまに取り次ぎをお願いします。

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‥次の説教は‥‥
四旬節第1主日
(マタイ4:1-11)
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ちょっとひとやすみ
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▼恩人の司祭が肺炎で亡くなった。あっけない幕切れだった。最近は、お世話になった司祭と司教で食事会をして神父さまの労をねぎらうのが恒例で、今年はどこでいつしようかと一度だけ話を持ったことがあったのだが間に合わなかった。
▼わたしの記憶では、観葉植物をたくさん育てていた。狩猟が今ほど危険視されていない時代で、キジ撃ちにいって剥製にしたキジが来客用の応接間に飾ってあった。ガラスの戸棚には板チョコが積まれていたが、あれは今思うとパチンコの景品だったのかも知れない。
▼日曜日のミサの侍者をしていて、一つ疑問に思うことがあった。説教のときに、「チースリク神父」の名前の印刷物が置いてあって、どうやらそれをそのまま使っていたらしいのである。当時のことを確かめるためには、カトリック神学院の福岡キャンパスに出向いて資料を突き合わせるしかないが、今更調べてどうなるものでもないか。
▼さまざまな逸話がある。ここでは書けない。さまざまな武勇伝を聞かされたが、幼い頃は真に受けていたが、あとでは半信半疑だった。そんなことまでご自分の武勇伝にしていいのかなぁ、という内容もあったからだ。
▼それにしても、名物司祭がまた一人旅立ったことは間違いない。どの司祭も個性的だが、大先輩のような司祭はこれからは登場しないかも知れない。皆同じような個性で、まぁちょっと変わっている、その程度の差しかない時代だからだ。
▼神学校に送り出してくれた恩は一生忘れない。主任司祭の推薦がなければ、神学校入学は許可されないのだから。卒業間際に警察沙汰を起こしたわたしを寛大に受け入れてくれたのだから、その恩は一生かけて報いたいと思っている。

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今週の1枚
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第303回目。巡礼先の今村教会でささげたミサの様子。

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