こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

四旬節第4主日(ヨハネ3:14-21)イエスは出会えない者までも引き寄せる

2006-03-26 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
06/03/26(No.229)
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四旬節第4主日
(ヨハネ3:14-21)
イエスは出会えない者までも引き寄せる
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どこまで行っても出会うことのないものがあります。たとえば右と左。どこまで右に行っても左と出会うことはありません。または東と西、北と南。東へ東へどこまで行っても西と出会うことはありません。Aという地点は、地球を一周すれば戻ってきますが、東と西はあくまでも出会うことはありません。

そのたとえを頭に置いて今日の朗読をたどっていくと、決して出会うことのないものが取り上げられていることに気付きます。それは、「光」と「闇」です。次の箇所です。「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ」(3章19節)。
光を求めれば求めるほど、闇は遠くなり、闇を追い続ける人間にとっては光は遠のいていくのです。物には裏と表のあるものがありますが、光の裏は決して闇ではありません。正反対ではありますが、光と闇に接点はないのです。

今日の朗読で示されている「光」、この光とはいったい誰のことでしょうか。「光が世に来た」とあります。「光」の意味を間違いなく理解するために、今日の朗読は直前で次のように言っています。「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」(17節)。するとこの「光」とは、御子イエス・キリストであることは明らかです。

この光であるイエス・キリストに対して、人間はどちらかの態度を取り始めます。「光の方に来る」のか「光の方に来ない」かです。当然、選ぶべき態度は「光の方に来る」態度、朗読の中から取り上げると「真理を行う」ことが私たちの取るべき態度になります。

繰り返しになりますが、「光の方に来ない」態度と「光の方に来る」態度とは決して出会うことはありません。イエスから遠ざかる態度を繰り返しているうちにいつの間にかイエスに近づいていたなどということはないのです。私たちがイエスに向かう態度をとり続けない限り、イエスのもとに集うことはできないのです。

具体的に考えてみましょう。教会と関わりたくないと思い、その通りに実行することは「光の方に来ない」態度です。10年間、「光の方に来ない」態度をとり続けた人がいるとしましょう。その人は、何もしなくても11年目には態度を改めて「光の方に来る」ようになるのでしょうか。

私は、その人が11年目に自然と向きを変えるとはとても思えません。そうではなくて、その本人か、周りの働きかけによって意識して光の方に来るのでなければ、教会との交わりを拒み続けているだけでは何も変わらないと思います。

そこまでは、私たちみなが頭で分かっていることです。けれども、分かっていたとしても切り替えることができない弱さもあります。周りの人も働きかけた、本人もいくら何でもそろそろ教会との関係を取り戻さなければと考えるようになった。でもそれでも、動けない、足が向かない、出かけようとしたけれども途中で帰ってしまった。人間はそれほど強くありませんから、いろんなことがあり得ると思います。

私たちを照らし導く光であるイエスは、何度も立ち直りそうになって挫折する姿を見て諦めてしまう方でしょうか。私はそうは思いません。神はある意味で諦めの悪いお方だと思います。人間であればさじを投げるような状況であっても、神は決して諦めない。そのことを表す明らかなしるしが、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」という部分に示されています。

その場を逃げ出したり、どうなっても構わないとまで投げやりになったりする人間を神は決して諦めず、独り子をお与えになるほど愛されたのです。最後の手段までも、私たち人間を「光の方に来る」ためにお使いになったのです。

イエスは、ご自分が父である神から遣わされた者であることをはっきり意識していました(17節参照)。この世界の人間をどこまでも愛して救いに導くためにご自身が遣わされたということを自覚していました。イエスはご自分の使命をある程度実行して終わったりはしません。ご自分を世に与えるのですが、ある程度与えるのではなくて、十字架の上で、いのちもすべてお与えになったのです。光の方に来るのが正しい道だと分かっていても逃げてしまう弱い人間を光であるご自分と出会わせるために、みずからいのちを投げ出すのです。そのままでは光を憎み、避けてしまう人間をもご自分と向き合うことができるように、みずから、いのちを与え尽くすのです。

今週は四旬節の第4週目です。受難の主日、2週間後の日曜日には、十字架の場面の朗読を読み、ここまで出会いの場を準備してくださった神の深い愛に触れます。出会いの場を命をかけて準備してくださるその時が近づいています。私たちも、神との出会いの場に足を運んでくれない人たちに、何とかその機会を用意してあげましょう。

例を挙げておきます。聖木曜日、イエスが最後の晩さんの席で弟子たちの足を洗ったように、私たちもミサの途中で男性12人の足を洗います。せっかくの機会ですから、足を洗いあって、もう一度出直す機会を作ってあげましょう。また、次の日聖金曜日には、等身大の十字架を担ぎながら十字架の道行きをします。そこでも、今まで背負ってきたものの代わりに、キリストのしるしである十字架を背負ってもらうことで、新しい出発を作ってあげましょう。


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ちょっとひとやすみ
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▼まだまともにバイクも倒せないくせに、島じゅうゴロゴロ転がして遊んでいます。一度山道で軽トラックとはち合わせして、思いっきり前後のブレーキを踏みました。いわゆる「急制動」ってやつです。
▼状況としては、こちらこうじ神父側が谷底に落ちる崖、軽トラック側は山肌の崖でした。もしも急制動でタイヤがすべったりすれば、真っ逆さまに崖を転げ落ちていたかも知れません。我ながら、ゾッとしました。
▼「よきおとずれ」という広報誌で、月曜日の割り付け時にはなかった状況が発生し、急遽土曜日の初校の時に割り付けを見直す事態になりました。たいていこういう場面で飛び込むのは訃報記事と相場が決まっています。こんな時に死ぬなよなぁ。
▼そうとばかりも言っておられず、仕方なく私の判断で「編集記」に当たる部分を取り外して訃報記事を入れた。初校を終えたつもりで司祭館に戻ってみるとFAXが入っていて、亡くなられた神父様の功績を考えて、最下段ではなくもっと上の段に割り付けてみてはという内容のFAXだった。確かに。やはり人の支えなしには物事は成り立っていかないのである。

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こうじ神父絵手紙
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第18回目。実際はノートパソコン上ですが、こうやって割り付けを行っています。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
四旬節第5主日
(ヨハネ12:20-33)
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===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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四旬節第3主日(ヨハネ2:13-25)積み上げた物をすべて運び去りましょう

2006-03-19 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
06/03/19(No.228)
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四旬節第3主日
(ヨハネ2:13-25)
積み上げた物をすべて運び去りましょう
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先週は40歳になりましたという話から入りましたが、今週私は司祭叙階の記念日を迎えました。3月17日です。18日昨日で、15年目に入りました。皆さんに当てはめて、結婚15年目というのはどういう感じでしょうか。当てはまる方々に感想を聞かせてもらいたいものです。

ちなみに私は、15年目に入ってみると、10年目からの5年間は横には広がったけれども前には進まなかったのではないかという反省ばかりが目に付きます。ついこの前、手配していた125ccのバイクが手に入ったのですが、バイクの重量が104キロ、自分の体重が78キロですから、バイクも私がまたがっていては相当に重たかろうなあと同情いたします。

船もバイクも一緒ですが、上が重くなればバランスは悪くなります。方向を変えるときに大きく重心が傾いて、度を超せば船であれば転覆、バイクであれば転倒ということになります。このような危険を少なくするために必要なことはただ一つ、積み荷を軽くする、乗っている人間の体重を減らすということです。それは極端な話、積み荷が全くなければ、仕事にはなりませんが船はいちばん安全だし、誰も乗っていなければバイクにも何も起こらないということになるでしょう。

そこで叙階15年目に入った私の願いは、積み荷をできるだけ軽くする。この一点に的を絞って取り組んでみたいと思います。年頭のあいさつでは去年を乗り越える一年にしたいと話しましたので、そのことと重ね合わせるなら、動きに精彩を欠いていた去年を乗り越えて、機敏に動けるように軽くなる(それは心も体も持ち物もということですが)、この点に力を入れてみたいと思っております。

さて今日の福音ですが、イエスは神殿で羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らしと、ずいぶん手荒なやり方で神殿にあるものを一掃しました。昨年までの私の理解は、このような荒っぽい方法で、イエスは神殿を清めたのだと考えていました。けれどももう少しじっくり読んでみると、神殿からいけにえの動物をすべて追い出すということは、神殿を清めるということだけではないことに気が付きました。

当時の神殿は、いけにえをささげて礼拝する場所として用いられていました。幼子イエスを抱きかかえたヨセフとマリアは、鳩を神殿でささげました(ルカ2章24節参照)。いけにえをささげることでこの神殿は活用されていたのですから、いけにえの動物がすべて追い払われれば、神殿は神殿としての役割を果たせなくなります。

実はイエスのねらいはそこにあったのです。神殿からすべての動物を追い払うことで、この神殿はもはや役に立たないものとなったということを人々に知らせようとしたのです。もはや神殿では動物をいけにえにして礼拝は行われない。代わりに、イエスご自身が、十字架上で命をささげることでまことのいけにえとなってくださる。神と人間との間を取り持つささげものは、牛や羊や鳩ではなく、イエスキリストこそがまことの仲介となるということを今日の出来事で示したのです。

この点をふまえてイエスの言葉をもう一度考え直してみましょう。イエスは鳩を売る者たちにこう言いました。「このような物はここから運び出せ。」これまで大切に取り扱われてきたいけにえの儀式、そのいけにえの動物をイエスは「このような物」ときっぱり退けました。

誰もが大切だと考えていたものであっても、いったんそれを横に置いたとき、それらを頭の中から追い出したとき、もっと大切な物、唯一の大切なものに気付くことができるようになります。私自身にそれを当てはめるなら、15年目を歩き始めて、直前の2年間は結構いろいろやったじゃないかと思ったりもするのですが、これだけのことをしましたと私が考えているものは、ほんとうに神の望みにかなっていただろうかと思うのです。

「ユダヤ人たちはイエスに、『あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか』と言った。」これは、イエスに食ってかかる態度です。「なぜあなたは、わたしたちの礼拝にけちを付けるのですか」と言っているようなものです。動物のいけにえをささげて礼拝をおこなうやり方に、これまでだれも反対意見を言う者はなかったので、イエスの言葉にかっとなったのです。

「このような物はここから運び出せ。」イエスは、私がささげようとしている実りを退けるかも知れません。そうなると私はイエスに食ってかかって、「何てことをするんですか。どれだけ苦労してここまで積み上げたと思っているんですか」と言うだろうと思います。

このような態度は、かつてのユダヤ人たちがイエスに詰め寄ったのと何も変わりません。「なぜあなたは、わたしたちの成し遂げたわざにけちを付けるのですか」と言っているのと同じなのです。私の態度は正しいのでしょうか。私が神に口答えして、神に不平を言うことは筋が通っているでしょうか。

ここでもう一度考え直してみると、本当に神が求めているものを私はささげてなかったのではないかと反省させられます。もしかしたら、私が満足しているものを神に報告していただけではないだろうか。もっと今日の朗読の出来事に倣って、私が仕上げた何かをささげるのではなくて、自分を無にしてイエスご自身をささげることに徹する必要があるのではないか。あらためてそう思いました。

確かに、私たちはなにがしかのことを成し遂げてきたかも知れません。けれども、それにしがみついてしまっては、私たちはイエスを告げ知らせる人であり続けるのは難しい、神をたたえる純粋な信仰者であり続けるのは難しいと思います。いつの間にか私のしたことを告げ知らせる人、私の成し遂げたことを礼拝する人になってしまうのです。

そうならないためには、私の心からいっさいを運び出す。私の成し遂げたことをいったん横に置いてみること。これがいちばん分かりやすい試験方法です。もしも私の積み上げたものに執着があるなら、やはり私はイエスにもっと徹底的に砕かれる必要があるのです。

私たちにも、イエスの叫びは向けられています。「このような物はここから運び出せ。」パウロはイエスの叫びについて考えさせる次の言葉を言っています。「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」(1コリント3:16)。私が自分という神殿に神の心にかなわない物をたくさん置いていれば、イエスの言葉通り「このような物はここから運び出せ」と言われてしまうことでしょう。

最終的に、私たちキリスト信者はみな、おのおの信じているイエスご自身をささげものとしてささげなければなりません。それはたとえば、「わたしではなく、わたしの中におられるキリストがほめたたえられますように」という祈りを心で思い浮かべて、ことに当たるとか、「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです」(ローマ14:8)と繰り返し言い聞かせて務めを果たす、こんな心がけがあれば誰もがみな私の中におられるイエスをささげることができるのではないでしょうか。

私がしがみついているものを全部心の中から運び出しましょう。大変つらいことかも知れません。すべて運び去って、もう一度イエスを告げ知らせる者として出直しましょう。私が頼りにしていたものをすべて取り去ったとき、初めてイエスにのみより頼む望ましい礼拝が始まるのです。


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ちょっとひとやすみ
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▼350万部を売り上げたマンガ「ドラゴン桜」のモデルになった英語教師がNHKの「プロフェッショナル」に登場した。録画したものをあとでチェックしたのだが、それでもどんどん引き込まれていった。おーすごい、と思ってみていたのだが、なぜか録画は途中で切れていた。
▼そんなぁ。これからと言うときに。どうやらそれ以前の番組の放送が押していて、通常の時間よりも遅れて放送が始まったらしい。再放送を調べてもすでに時遅し。プンプン!最後はどんなメッセージを語ってくれたのだろうか?気になって気になって仕方ない。
▼そんな消化不良の中でも、「回り道のほうが、ある意味で効果が上がる」というようなことを言っていたのが印象に残った。そう考えてみると、自分は果てしなく回り道をしているのだが、本当にそのことが結果として戻ってくる日が来るのだろうか。
▼125ccのバイクはイイ。Uターンも思わず真剣に取り組んでしまうし、8の字や低速でのスラロームを何度も繰り返し、満喫している。ある直線道路では80キロ出してみた(真似しないでね)。でも信号一つもない島の中で暴走族しているだけなので、そのうちに女神大橋、第二西海橋、大島大橋、橋という橋を渡ってみたいなぁ。

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こうじ神父絵手紙
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第17回目。SR125をできるだけ観察して描いたつもりです。

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‥次の説教は‥‥
四旬節第4主日
(ヨハネ3:14-21)
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四旬節第2主日(マルコ9:2-10)これからも徹底してイエスに聞き従う

2006-03-12 | Weblog
06/03/12(No.227)
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こうじ神父
「今週のお説教」
06/03/12(No.227)
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四旬節第2主日
(マルコ9:2-10)
これからも徹底してイエスに聞き従う
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本日をもって中田神父は40歳になりました。介護保険の支払いをしておられる皆さんの仲間入りをすることになりました。振り返ってみると30代の10年間は、ぶっ倒れるまでやるぞー、というつもりで走ってきましたが、40歳になってみるとぶっ倒れてはいかんなあ、と素直に思います。30代でぶっ倒れたら、働き過ぎと同情してもらえますが、40代で倒れたら、生活習慣病と笑われてしまうからです。

生まれて初めて、誕生日を「疲れたあ~」と思って迎えました。たとえ夜中に誕生日を祝ってもこれまではそんなこと考えもしなかったのですが、過ぎた10年間を思い出して、ついついそうつぶやいたのだと思います。いずれにしても、なってしまったものは仕方ありません。これからの40代を倒れないように進んでいきたいと思います。

考えてみたら、イエスはおそらく30歳頃に宣教活動に入り、3年間の活動のあとに十字架に張り付けになられて命をささげておられます。それはつまり、中田神父が考えていた「ぶっ倒れるまでやるぞ」という年代だったわけです。もう少し上品な言い方をすれば、「燃え尽きるまで」ということでしょうか。

「燃え尽きるまで」とか「ぶっ倒れるまで」という生き方は、ろうそくの炎が消えるちょっと前に大きな炎を上げるときのような、大変大きなエネルギーを発揮する生き方だと思います。ライブドアの前の社長も、新しい球団を立ち上げた楽天の社長も、30代です。楽天の社長はもしかしたら今日の時点では40歳になったかも知れませんが、ものすごいエネルギーを発揮する年代にあることは確かです。

同じく、イエスも30歳で宣教活動に入り、最後を迎えるというのは何か意味するところがあったのかも知れません。今日の朗読箇所は、「イエスの姿が変わる」という箇所ですが、一瞬衣服が真っ白に輝くわけです。実際にそうだっただろうと思いますが、私が言う「燃え尽きるまで頑張る世代」でもあったわけですから、燃え尽きる直前の大きな炎を上げる瞬間がそこに織り込まれていたと言っても良いかも知れません。

モーセとエリヤが現れて、イエスと語り合っています。旧約聖書の中の偉大な人物を2人も見ているという、ものすごくドラマチックな場面です。ペトロが小屋を建てようと提案したのも無理はありません。ただしペトロの考えは、イエスを人間の30代と同じ枠にはめようとすることではないかと思いました。このすばらしい場面をその場にとどめて、人々にも見せたかったのでしょう。けれどもこのような努力は、神であり人であるイエス・キリストにはふさわしくなかったのです。

そのことを証明するように、彼らはみな雲に覆われ、雲の中から声が聞こえました。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」イエスは人間としての輝かしい30代には決して収まらない、もっと偉大なお方です。だからこそ、ペトロの考えの中にイエスを収めることなく、その中にとどめ置こうと考えていたその家を打ち壊して、イエスに耳を傾ける。そうして初めて、イエスの偉大さをありのままに認め、受け入れることができるようになるわけです。

ペトロは仮小屋を建ててモーセとエリヤ、またイエスをそこにお納めしようと考えたわけですが、この態度はペトロ自身の心の動きでもあると思います。つまり、ペトロはイエスを自分の理解する範囲の中に収めようと一生懸命になっていたのです。そうではなく、イエスに徹底的に聞き従う、イエスを受け入れるために自分の考える枠を壊してでも聞き従う。この態度が必要だったわけです。

今日、中田神父もはっきり分かりました。説教を毎週練りながら、ある時は中田神父の理解の中にイエスを収めようとしていたかも知れません。たとえばそれは、何かはっきりと伝えたいメッセージがあって、それに合うようにイエス様の姿を取り上げて話したりとか、あるいは今回のようにいくら考えてもつかめなくて、いよいよ時間が迫ってきたので時間内に収まるように適当にイエスの姿をつまみ食いで紹介したりと、ありとあらゆる形でイエスを自分の置かれている状況の中にはめ込もうとしていたのかも知れません。

そうではなく、もっとイエスのありのままを紹介するためにこそ時間を費やし、黙想する必要があるのだと思います。それは言い換えると、自分の考えている枠の中にイエスがとどまるはずはないのだから、もっとすばらしく、もっと偉大なイエスを紹介するために、自分が今週用意しようとしていた枠組みを壊すこと、この枠にすら収まらないということを毎週皆さんお一人おひとりに示すことが、これから40代に入ってからの目標なのだとはっきり理解したわけです。

もう一回り大きな型枠を作るためには、以前のものを壊す以外に方法はありません。少し伸ばして、というようなやり方はないわけです。以前考えていたイエスの姿よりも、さらに偉大でさらに崇高なイエスを紹介するためには、これまでの枠組みを壊す以外にない。それが雲の中から聞こえたという「これはわたしの愛する子。これに聞け」という声なのだと思います。

「あなたが考えているイエスは目の前にいるイエスとは違う。もっとイエス自身の声に耳を傾け、あなたが考えていた以上の姿をしっかり捉えなさい。」そう呼びかけているのではないでしょうか。

イエスにこれからも徹底して聞き従うなら、私自身もさらに偉大でさらに崇高なイエスにこれからも出会うことができ、皆さんにそのことを分かち合うことができるでしょう。40歳の記念となる日曜日にたどり着いた境地です。


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ちょっとひとやすみ
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▼先人はこう言いました。「四十にして惑わず。 五十にして天命を知る。 六十にして耳従う。 七十にして心の欲する 所に従って、矩を踰えず。」で、どうなのよってことですが、四十になったことを最初に記念するこのメルマガが、締め切り時間に間に合わなかった。惑わずなんてとんでもなくて、迷いに迷って書けずに困っている。
▼つまりその、平均寿命が今よりも短かった時代には、上記のような心境に多くの人があこがれ、その境地にたどり着いたのかも知れない。言い訳がましいが、現代は四十にして迷いに迷ってまだ道半ば、というところだろうか。
▼絵手紙にも断ったが、杏の花をデジカメに撮ってブログに掲載した。ちょっと前まではそこに梅の花が咲いていようがまったく関係がなかった人間だったが、今の心境を素直に表現すると、「あー、杏の花って、桜の花びらみたいだなあ」というところだろうか。かつては何とも思わなかった目の前の出来事に、少し目が開けて、花が美しいと感じられるようになった。
▼全国の四十歳になった読者の皆さん。今週号は七転八倒してお恥ずかしい限りの説教になってしまいました。四十歳の仲間に入れてもらうには申し訳ないスタートを切ってしまいましたが、今さらどうにもなりません。こんな私ですが、どうか仲間に入れてください。

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こうじ神父絵手紙
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第16回目。今回は写真で置き換えます。杏の花が咲きました。

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‥次の説教は‥‥
四旬節第3主日
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四旬節第1主日(マルコ1:12-15)四十日もの誘惑を退けるたった一つの道

2006-03-05 | Weblog
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こうじ神父
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四旬節第1主日
(マルコ1:12-15)
四十日もの誘惑を退けるたった一つの道
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冬のオリンピック、日本選手団はメダルが1個も取れないのではないかと見守っていましたが、女子フィギュアスケートの選手が金メダルを取ってくれたことで、心配が一度に吹き飛んだ気がします。いよいよ困ったときには、女性が頼りなんだなと、男性の私は思いました。実際男子の選手はメダルを1個も取れなかったわけですから。女性はさすがです。もうひとこと言えば、荒川「静香」選手は偉いと思いました。

身近な話題はこの辺にして、今日の福音朗読に入っていきましょう。マルコ福音書が伝える荒れ野での誘惑とその後の福音宣教の始まりについてです。正直に言うと、たったこれだけなの?と言いたいくらい短いのですが、この中で今週の糧を得る努力をしてみましょう。

イエスは四十日間荒れ野にとどまり、サタンから誘惑を受けたとあります。この誘惑は、大変厳しい試練だったわけですが、私たちはその様子をどうやったら身近に感じることができるでしょうか。四十日間の間、誘惑に決して耳を貸さなかったわけですが、それはどのようにして可能になったのでしょうか。考えてみたいと思います。

そこで、私たちが出来事を身近に感じるために、次のようなことを考えてみました。ある人が、四十日間家に尋ねてきて、これこれの人を罠に陥れたいので一緒に手伝ってほしいと言いに来たとしましょう。この人は別の誰かに憎しみを覚えていて、罠に陥れるために自分にも手を貸してほしいと誘惑しに来たのです。

とんでもない、自分はそんなことに協力するつもりはないと、皆さん誰もが思うことでしょう。頭で考えればそんなことはできるはずがないと分かっていますが、毎日毎日、それも四十日間玄関にやってきて罠に陥れるために手を貸してくれと言われたらどうなるのでしょうか。

気味の悪い人だなあと思って絶対にその人を入れないようにしようと思っても、その人はどんな時間にでもやって来て、これこれの人を罠に陥れる手伝いをしてほしいと言い続けます。今日も、明日も、その次の日も、どんなに家の玄関と心の扉を閉めていてもちょっとした隙にその悪人がやって来て、繰り返し誘惑したとしたらどうなるでしょうか。

もしかしたら、どんなに心の清い人でも、その悪い人の誘いに負けて、罪もない誰か別の人を罠に陥れる手助けをする気になるかも知れません。頭では絶対にいけないこと、決して賛成してはいけないことと分かっていても、私の判断を鈍らせ、普通なら同意するはずのない悪事に同意するということが、四十日もの誘惑にさいなまれては起こってしまうのではないでしょうか。

皆が皆、同じように悪事に加わるとは言い切れませんが、四十日間続けての誘惑とは、人間の普通の判断も狂わせ、絶対賛成するはずのない悪事に賛成してしまうほど人間を弱らせてしまう危険があるわけです。それほど大きな誘惑が、イエスさまが体験された四十日間のサタンの誘惑だったということです。

少しは、イエスさまが荒れ野で過ごされた四十日間を想像することができたでしょうか。さてこれからが問題ですが、ではイエスさまはどのようにしてこの長くて激しい誘惑を乗り越えることができたのでしょうか。私たちが先に考えたたとえに戻って、また考えを進めていきましょう。

毎日毎日、ある人がこれこれの人を罠に陥れたいから協力してくれと言いに来ます。その人をきっぱりと断るために、いちばんすぐれた方法は何なのでしょうか。ほかに何人かを集めておいて追い払うのがいちばんよいのでしょうか。何日かは理解してくれる人が力になってくれて追い払ってくれるかも知れませんが、四十日の間休まず来てくれと言うのは無理な話です。

あるいは自分が気持ちの強い人になることが、いちばんすぐれた方法でしょうか。決心を変えない、意志の強い人になればよいのでしょうか。誰もがそうなれるものでもありませんし、意志の強い人になる前に、誘惑に負けてしまうかも知れません。結局、自分に頼ったり、別の人に頼っても、この長く激しい誘惑に打ち勝つことはできないのではないでしょうか。

では、この四十日の誘惑に打ち勝ついちばんすぐれた方法は何なのでしょうか。それは、意外な答えかも知れませんが、自分も含めて人間に頼らない、ということです。人間に頼るのではなく、誘惑を一度も受け入れることのなかったイエス・キリストに頼ること。これが、私たちにとって誘惑に打ち勝ついちばんすぐれた方法なのです。

人間は、中田神父も含めて、ほんのちょっとの隙があれば弱さに負けてしまう危険があります。四十日間とは、長い果てしない期間と言ってもよいわけですが、その間一度も誘惑の入り込む隙を見せないということは、人間である限り不可能なことです。不可能です。

私に限ったことではありません、すべての人間が、ちょっとの隙も見せない、何の誘惑も感じないとは言えないのですから、ほかの誰かを頼ることも確かな方法とは言えません。ただ一つ、一度も誘惑を受け入れなかったイエスに頼って誘惑を退けること。これが、人間に示され唯一の確かな道なのです。イエスはご自分が父なる神に信頼を寄せて四十日を過ごすことで、自分に頼るのではなく、神に頼って初めて誘惑を退けることができるということを身をもって私たちに示してくださったのです。

イエスのこうしたお手本を見て、私たちは何を考えるべきでしょうか。こういうことではないでしょうか。つまり私たちに残された人生こそが、悩み多い四十日間だということです。これから全うすべき人生の中で、毎日毎日やってくる誘惑に直面するかも知れません。ほんの少しの隙があっても、私たちは誘惑するものに負けてしまうかも知れないのです。そんなときこそ、人間に頼るのではなく、祈りを通して、またはご聖体や赦しの秘跡といった恵みを通してイエスに頼る、イエスの力を仰ぐことが、いちばんすぐれた方法なのです。

私たちの誘惑との戦いの時間は、残りの人生を全うするまで今後もずっと続くわけですから、秘跡を通してまた日々の祈りを通してイエスに信頼を寄せ、イエスの助けを求めて人生を全うしたいものです。

黙想会もいよいよとなりました。黙想会は一年に一度みずからを神さまに向け直すまたとない機会です。イエスに頼って生きることの大切さを、この黙想の期間に学びなおしましょう。赦しの秘跡とご聖体にあずかって、恵みを通して誘惑に打ち勝つという生き方を私の生活に根付かせることができるように、ミサの中で助けを願いましょう。


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ちょっとひとやすみ
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▼そろそろ転勤に引っかかっている人は荷造りで大忙しといったところか。誰がどこに行くかはまったく興味のないこうじ神父なので、今年の転勤の事情も詳しいことは知らないが、興味がなくても職務上情報は入ってくる。
▼こうじ神父は教区の広報誌の編集長も兼ねている。転勤の内容も公示することになる。いつかは掲載するのだから、転勤に関わる人以外は、静観していてもよさそうなものだが、あの人はどこに行って、この人はあそこに行くらしいと大騒ぎする人は何者なのだろう?
▼この原稿を書いているのは土曜日の正午頃だったが、目の前の長崎港は珍しく鏡のような海面で、静けさと海の深さ、雄大さを感じさせるものだった。強風が吹き荒れ、波しぶきで海面が真っ白になる日とは大違いである。
▼それでも、海が荒れるというのは表面に過ぎない。たとえば水面下40mの場所では無縁な話だ。要するに、大騒ぎしているのは表面のわずかな部分だけである。そんなものはいちべつにも値しない。天地がひっくり返るかのように大騒ぎする人間は、いったい何者か。

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こうじ神父絵手紙
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第15回目。目の前をたくさんの船が行き交います。見飽きません。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
四旬節第2主日
(マルコ9:2-10)
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===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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