こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第17主日(マタイ13:44-52)あらゆる出来事に神の働きを見る弟子になる

2023-07-29 | Weblog
当ブログをお読みくださり、ありがとうございます。

■■YouTubeチャンネル登録はこちら■■
https://www.youtube.com/channel/UCYRgrlA29PNjJmB0gngYQqA

↓↓聖週間の説教一覧はこちらから↓↓
ご覧ください。
http://ss104313.stars.ne.jp/

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://ss104313.stars.ne.jp/voice/230730.mp3
(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
2023/7/30(No.1248)
‥‥‥†‥‥‥‥
年間第17主日(マタイ13:44-52)あらゆる出来事に神の働きを見る弟子になる
‥‥‥†‥‥‥‥

木曜日まで、中田神父が応援している広島カープが10連勝しまして、ついにセ・リーグの首位に立ちました。あまりの嬉しさに金曜日の朝ミサでは「主任司祭に何かおねだりするなら今ですよ」と話したのですが、金曜日のナイターでは阪神にメッタ打ちに遭い、一日で首位を明け渡してしまいました。今日何をおねだりしようとしても、もう手遅れです。

皆さんはどう思いますか。私は「あらゆる出来事に神の働きを見いだす人」が、世の中にはいるなぁと感じます。どんな些細な出来事からも、それがたとえ思い通りでない場合にも、あらゆる出来事に神の働きを見つけ、感謝したり謙虚に受け入れたりできる人です。

同じ場面でも、神の働きを見いだせない人には不平や不満、時には怒りが生じたりします。中田神父も、「ここは当然私の出番であろう」という場面に備えていたのに出番が無く、残念を過ぎて怒りを覚えた経験があります。しかしそんな場面にも神の働きは確かにあるわけで、備えが役に立つのはもう少し後なのかもしれないと思い直しました。

駆け出しの司祭の頃、主任神父様の説教を、告解場や香部屋で何度も聞いておりました。「あんな単純な説教なら、自分にだってできる」と思わせるような素朴な説教でした。実際には、易しい言葉で説教をするのは至難の業なのです。考えれば考えるほど、何かを参考にすればするほど、主任神父様の単純な語り口から遠のいていくのでした。

あれから30年が経ちました。今なら分かります。お仕えした主任神父様は「あらゆる出来事に神の働きを見いだす司祭」でおられたので、どんな些細なことからでも福音に繋げて話すことができていたのです。今まさに話題になっている出来事からでも、過去の出来事からでも、自由自在に天の国の、持ち物をすっかり売り払ってでも得たいと思わせる有難い説教を、届けることができたのでした。

今週の福音朗読に「畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。」(13・44)また、「商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。」(13・45-46)とあります。ひとたびこのような宝物を手にしたら、他の物は一切横に置くことができる。これは本当だと思います。

中田神父は、この「畑に隠された宝」「高価な真珠」を中学生の時に見つけました。それは二十六聖人ミサの説教でした。その年、説教師に指名された神父様は冒頭次のように語りかけました。「あなたがたは何を見に、ここに集まったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である。」

2月5日の夜、凍えるような寒空の中、神学生だったので義務的にミサに参加していた少年に、説教師の言葉は心を打ちました。「司祭になったら、いつかきっと今日の神父様のような心に残る説教をしたい」と思ったものです。当時は、説教中も「はよう終わらんかな」とばかりに下を向いていたので説教師がどなただったのか知りませんでした。

司祭になり、浦上教会の助任となり、最初の復活徹夜祭を無事に終えて司祭館食堂で一杯やろうということになりました。主任神父様がおもむろに「司祭になろうと決心した出来事を何か一つ皆で分かち合おう」と誘ったのです。先輩の助任神父様から順に体験を分かち合い、私の番になったので先ほどの二十六聖人の説教の話をしました。

その時初めて知ったのです。主任司祭の川添神父様が「その説教をしたのは私だ。よく司祭になってくれた」と答えたのでした。私は中学生の時に見つけた「高価な真珠」を手に入れ、すべてを横に置いて司祭になったわけですが、その高価な真珠にもう一度出会わせてくださったのは、単純素朴な説教でミサ参加者の心を掴んでいた川添神父様だったのでした。

「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」(13・52)一つの道も、歩き始めたときは真っ直ぐに前を見つめて歩くとは限りません。天の国のことを学び始めていてもこの世の景色もたくさん目に入り、よそ見をするかも知れません。

しかし「天の国のことを学ぶ」という一つの道を歩み始めたのなら、よそ見をせず、真っ直ぐに歩いてほしいと願っています。「天の国の宝」は「畑に隠された宝」であり、「高価な真珠」です。持ち物をすっかり売り払って手に入れるのにふさわしい宝なのです。中田神父はそのことを自信を持って言えるようになるまで30年かかりました。

天の国のことを学んで、一人前の学者になるには、もしかしたら数十年かかるのかも知れません。「自分の倉から新しいものと古いものを取り出す」これができる必要があるからです。「新しいもの」と「古いもの」両方を自在に使えるようになって、ようやく一人前ではないでしょうか。

新約聖書のヤコブの手紙1章25節に次のように書かれています。「しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります。」

あなたが、人生という持ち物をすっかり売り払って手に入れるのにふさわしい宝であるイエス・キリストを見つけたのなら、ほかには目を向けず、一心に見つめましょう。すると、イエス・キリストがあらゆる出来事に働きかけてくれていることに気付くでしょう。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
主の変容(マタイ17:1-9)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼地区全体での小中学生の黙想会が無事に終わった。一日黙想会という形で、小学生低学年・高学年・中学生の部に分かれて実施した。各小教区、その小教区の足跡をたどる学びを経てそれを模造紙にまとめるわけだが、福江教会の小学生低学年は「これまで18人の主任神父様が福江教会で働いてくれました。四月に19代目の主任神父様が来てくれました。顔と名前を覚えましょう。」この取り組みをした。
▼簡単に言うと似顔絵を描いた訳だが、その中に目を丸くするような絵を描いてくれた子がいた。聞けば、小学1年生だという。とても1年生の絵には見えない。県展に出品しても遜色ないのではないかというレベルだった。将来が楽しみだ。そして、いつまでも中田神父を描いてくれたことを忘れないでいてほしい。
‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第855回目。福江教会の小中学生黙想会の学びを模造紙にまとめた。頑張った。

http://ss104313.stars.ne.jp/230730.jpg
ホームページもご覧ください。
http://ss104313.stars.ne.jp/


† 神に感謝 †
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

年間第16主日(マタイ13:24-43)イエスの業を微塵も疑わない

2023-07-22 | Weblog
当ブログをお読みくださり、ありがとうございます。

■■YouTubeチャンネル登録はこちら■■
https://www.youtube.com/channel/UCYRgrlA29PNjJmB0gngYQqA

↓↓聖週間の説教一覧はこちらから↓↓
ご覧ください。
http://ss104313.stars.ne.jp/

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://ss104313.stars.ne.jp/voice/230723.mp3
(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
2023/7/23(No.1247)
‥‥‥†‥‥‥‥
年間第16主日(マタイ13:24-43)
イエスの業を微塵も疑わない
‥‥‥†‥‥‥‥

この説教は6年前の説教の焼き直しです。年間第16主日は先週の「種をまく人のたとえ」と結びつけて考えてよいと思います。イエスによってまかれた種は実を結ぶ。しかも、実を結ぶことに何の疑いもない。先週と合わせて、このように今週の朗読を読み解くことができます。

「毒麦のたとえ」「からし種とパン種」のたとえ、ここにも未来について微塵も疑いを持っていない雰囲気が伝わります。「『まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい』と、刈り取る者に言いつけよう。」(13・30)良質な麦と毒麦の区別は果たしてつくのか。そういった疑いすら微塵も感じられません。

また「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」(13・33)ここでも、天の国が豊かになり、発展することに何の疑いも持っていないのです。パン種がうまく生地にいきわたるのかなど、わたしたちが心配しそうなことが何も語られていないのです。

これはイエスが、神の国の成長・発展について微塵も疑いを持っていないことをよく表しています。まるで毒麦を抜き集め、良い麦を倉に納める様子をすでに確かめて来たかのようです。あるいは三サトンの粉が膨れる様子を確認済みであるかのようです。イエスにとって神の国の成長は、神が成長させてくださるのだから何の疑いもないこと、疑いをはさむ余地すらないことなのです。

もう一つ、マタイ福音書が読まれていた共同体の中では、イエスがメシア(救い主)であることについて微塵も疑いを持っていませんでした。マタイ福音書第11章には洗礼者ヨハネのように「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」とイエスがメシアであるのか心の揺れがある人たちも登場しますが、マタイ福音書が書き上げられた西暦80年ころにはイエスが死んで復活し、救いを成し遂げられたこと、イエスがメシアであることは疑いのない真実だったのです。

では、同じようにマタイ福音書の朗読を聞いた現代のわたしたちは、神の国の成長が疑う余地のないことであり、イエスが救い主であることもまた疑いようのない真実であると、表明できているでしょうか。苦労が多いのに結果が見えてこない。召命がみるみる減っているのに働き手を送ってもらえない。イエスさまがわたしを見ておられるのか、救ってくださるのか、疑問に感じるときがある。

周りの出来事を考え合わせれば、イエスのたとえもイエスのみわざも、今のわたしたちにとっては疑いをはさみたくなるかもしれません。ここに、「見えないものを見る信仰」が必要です。いつの時代にも、見えないものを見ることができるのは「少しもも疑いを持たない人たち」なのです。

マルコ福音書11章23節のイエスの言葉が思い出されます。「はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。」

せっかくなので、わたしの体験も挙げておきましょう。長崎の滑石教会で助任司祭をさせてもらった時期がありました。当時お見舞いをしているおばあさんの中に、九十歳を過ぎた方がいて、常々こう言っていました。「神父さま、わたしは滑石教会が栄えますように、滑石教会が栄えますようにと、いつも祈っています。」

滑石教会には、このような人が何人もいました。お世話になっている教会が栄えることを微塵も疑わずに祈り続けてくれる人がいたのです。このような人に、神さまが応えてくれないはずがないと思います。このおばあちゃんは、生きている間に、滑石教会の繁栄を見ることができたのでしょうか。

おばあちゃんの祈りは一つの形で聞き入れられました。30年前、当時の信徒の規模に合っていない小さな聖堂しか持っていなかった滑石教会は、その数年後に500人以上入ることのできる立派な聖堂と司祭館、信徒会館を完成させました。あのおばあちゃんの祈りがあったので、あのおばあちゃんの祈りが滑石教会全体を動かしたので、立派な教会施設が完成したのだと思います。少しも疑わない祈りは、祈ったことを神が必ず完成させてくれるのです。

マタイ福音書時代の教会共同体は、イエスが示した神の国の姿を微塵も疑わない人々が証ししてくれました。わたしたちの時代も、わたしたちの教会に注がれる神のまなざしを微塵も疑わずに祈ることで、必ず実を結ぶのだと証ししたいと思います。イエスの働きを微塵も疑わない人々に、神のみわざは実を結びます。この真理はいつの時代にも変わりません。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
年間第17主日(マタイ13:44-52)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼広島カープが調子を上げてきた。オールスター前の前半戦ペナントレースは五連勝。最後の三連戦はこの時点で二位だったDeNAベイスターズ。三連勝して順位が変わり、広島カープが二位で後半戦に入る。
▼去年までは、当然のようにお休みをいただいてマツダスタジアムに応援に行っていたが、今年からは五島市の福江教会。野球観戦が実現するのか、見通せない。ほかにはしゃぐような趣味もないし、どうやって日々のテンションを保てば良いのか。
▼そんな時に、先発陣の柱となっている森下暢仁が、自身ホームランを打って試合を決定づけた日があった。すると球団は気前よく、「森下投手ホームラン記念Tシャツ」を作ってくれた。あっという間に売り切れるとは思ったが、いちおう申し込んだところ、何とか手に入って飾っている。しかし飾っているだけでは楽しくないので、今日は着て、応援したい。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第854回目。森下暢仁ホームラン記念Tシャツ。3000円。似合う人になりたい。

http://ss104313.stars.ne.jp/230723.jpg
ホームページもご覧ください。
http://ss104313.stars.ne.jp/


† 神に感謝 †
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

年間第15主日(マタイ13:1-23)あなたにも神のことばは百倍の実を結ぶ

2023-07-15 | Weblog
当ブログをお読みくださり、ありがとうございます。

■■YouTubeチャンネル登録はこちら■■
https://www.youtube.com/channel/UCYRgrlA29PNjJmB0gngYQqA

↓↓聖週間の説教一覧はこちらから↓↓
ご覧ください。
http://ss104313.stars.ne.jp/

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://ss104313.stars.ne.jp/voice/230716.mp3
(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
2023/7/16(No.1246)
‥‥‥†‥‥‥‥
年間第15主日(マタイ13:1-23)
あなたにも神のことばは百倍の実を結ぶ
‥‥‥†‥‥‥‥

「ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。」(13・8)「聖書と典礼」のアレルヤ唱に、「種は神のことば、まく人はキリスト」とありますから、ここから少し掘り下げていくことにしましょう。最終的にイエスは、私たち自身が蒔かれた種の実りを分け合える人となれるように招いています。

神のことばが、イエスによって種蒔かれます。今日ここに集まったすべての人に、神のことばが蒔かれます。ただし、受け取る私たちの心の状態はさまざまです。体はここにいるけれども、心はここにない。そんな状態の人もいるかも知れません。第一朗読・第二朗読・福音朗読を通して神のことばが蒔かれても、鳥が来て食べられてしまったことすら気が付かない。そんな状態の人もいるかも知れません。

また、心も体もここにいると感じていますが、「自分が聞きたいことば」しか聞こうとしていない状態の人もいるでしょう。儲かりそうな話やうまい話。そうした話しか聞く気がなければ、心に届く神のことばは僅かでしょうし、根付くこともないでしょう。

渇きを覚えて、できるだけ神のことばを受け入れたい。そんな状態でミサに来た人もいるでしょう。心を開こうと努力しているので、神のことばに確かに触れ、なるほどそうだなぁと思うのですが、今の厳しい社会の中で暮らすうちに、神のことばに根を張って生きている人があまりにも少ないため、挫折してしまう人もいるかも知れません。

ただ、そんな中にあっても、「私が今あるのは神様のおかげ。神のことばに養われて私は生かされている」と固く信じている人は、神のことばを百倍、六十倍、三十倍にも実らせるのです。

「そうは言っても福江の商店街を歩いて『私は神のことばに生かされている』と考えている人なんていやしない」実際そうかもしれません。たとえそうであっても、「私は神に生かされている」あなたがこの信仰にしっかり立っていれば、ミサで受けた神のことば、家庭で聖書を開いて目に留まった神のことばは、あなたの中で必ず実を結ぶのです。

金曜日に、お告げのマリア修道会が経営している「マリアの園」という特別養護老人ホームにミサをしに行きました。その日の福音朗読で、迫害が始まっていた当時の社会の中で証しをするように励ますのですが、「引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる」(マタイ10・19)という箇所が中田神父の目に留まりました。

そこで入所者の皆さんに「皆さんはとっさの時、自分の信仰をちゃんと言えると思いますか?イエス様は、『心配いらない。言うべきことは教えられる』と言いますが、本当にちゃんと信仰を表せるでしょうか?」と投げかけたのです。その答えとして私は、「中田神父の体験から言うと、ちゃんと信仰は言い表せます。心配いりません」とお伝えしました。

言葉だけでは納得いかないでしょうから、体験談を添えました。かつて上五島の「頭ヶ島」に空港がありました。大村空港と福岡空港に、八人乗りのプロペラ機を運行していました。紙飛行機みたいでした。「物は試し」ということで、お金を払って大村空港行きの便に乗ったのです。

断崖絶壁の、小さな島のてっぺんを削って作った空港です。「この距離の滑走路でちゃんと離陸できるのかいな」と思いつつの離陸でした。案の定と言いますか、離陸した途端断崖絶壁に沿って10m、いや20m、機体が降下したのです。「あっ!」と思った次の瞬間に口をついて出てきた言葉は「めでたし聖寵、めでたし聖寵!」でした。「ちゃんと信仰を表せるものなんだなぁ」と、我ながら感心しました。

あの時中田神父が「助けて!」とだけ言っていたら、カトリックの信仰はひとかけらも見えなかった。けれども「めでたし聖寵、めでたし聖寵!」と叫んだおかげで、もし飛行機が墜落して私以外の誰かが生き残った時にきっと「めでたし聖寵、めでたし聖寵と叫んでいる人がいた」と証言してくれたはずです。

仮に、今週の説教を「めでたし聖寵の説教」と名付けたとしましょう。すると皆さんは、来週になっても再来週になっても、ひょっとしたら一年後でも、「あー、あの話ね」と思い出してくれるのではないでしょうか。思い出すきっかけは十分与えたつもりです。

これが神のことばの種蒔きです。中田神父がイエスからいただいたみことばを思い巡らし、分かち合ったことで、今週のミサに参加した30人の心の中に神のことばが根付きます。この時点で蒔かれた神のことばが三十倍になって実を付けた。そういうことではないでしょうか。おそらく「マリアの園」の30人にも実を付けてくれたと思いますから、「めでたし聖寵の説教」は六十倍の実を結んだと思っております。

今日、ミサが始まるまで何人かは「心ここにあらず」だったかも知れません。何人かは自分の聞きたいことだけを探していたかも知れません。いろんな状態の人が集まっていたはずですが、神様は中田神父を使って、今週の聖書のみことばがどうにかして根付くように働いてくださったのです。神様に感謝します。

一人ひとり、自分に問いかけてください。今日いただいた神のことば、「あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶ」これを自宅まで忘れることなく持ち帰ることができるでしょうか?来週まで、再来週まで、あるいはもっと長く、保ち続けることができるでしょうか。

一年のうち何回かでも、「あのみことばを説明してもらったあの日のミサは今でも覚えている」そんな日曜日があれば、神のことばは皆さんの中で百倍の実を結んでいるのだと思います。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
年間第16主日(マタイ13:24-43)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼7月3日トマスの霊名のお祝いを2日に祝ってもらい、お祝いの花として鉢植えを頂いた。「長く楽しみたいから」ということで花束ではなく鉢植えをお願いした。当然、「長く維持する」必要が出てくる。
▼花に、無頓着だったがせっかくいただいたのだから少しは世話をしようと思い、人に尋ねた。土の乾燥を防ぐことと、葉っぱをティッシュで拭いてあげること。この二つをお願いされた。二ヶ月は楽しめそう。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第853回目。霊名のお祝いでいただいた鉢植え。花の名前を忘れた。

http://ss104313.stars.ne.jp/230716.jpg
ホームページもご覧ください。
http://ss104313.stars.ne.jp/


† 神に感謝 †
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

年間第14主日(マタイ11:25-30)神の愛といつくしみに触れるための軛でありたい

2023-07-08 | Weblog
当ブログをお読みくださり、ありがとうございます。

■■YouTubeチャンネル登録はこちら■■
https://www.youtube.com/channel/UCYRgrlA29PNjJmB0gngYQqA

↓↓聖週間の説教一覧はこちらから↓↓
ご覧ください。
http://ss104313.stars.ne.jp/

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://ss104313.stars.ne.jp/voice/230709.mp3
(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
2023/7/9(No.1245)
‥‥‥†‥‥‥‥
年間第14主日(マタイ11:25-30)
神の愛といつくしみに触れるための軛でありたい
‥‥‥†‥‥‥‥

水曜日、葬儀ミサを終えて火葬場に向かいました。火葬場で、同業他社に会いました。体型は助任司祭の一人にそっくりでした。「別の教会で葬式を頼まれていたのかな?」と勘違いするほどでした。様子を見ているとその方が車の脇で白い布を何枚か重ね着して、最後に烏帽子をかぶったので「ああ、神主さんか」と理解しました。

福音朗読に移りましょう。今週の朗読は、偶然かも知れませんが葬儀のミサで頻繁に選ばれる朗読です。故人を振り返って「疲れた」「重荷を負った」いろんなことがあった人生に、イエス様が「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(11・28)と招くのは本当に慰められます。

もちろんイエスは、人生を終えたときのことだけを言っているのではありません。「だれでもわたしのもとに来なさい」と言っておられます。今「疲れている人」、今「重荷を負っている人」そういう人にも「来なさい」と招いています。

「だれでもわたしのもとに来なさい。」これは「もしよければ来てもいいよ」ではなさそうです。強い促しを感じます。そこにはそれなりの理由があるに違いありません。二つのことを考えてみました。

「疲れた者」は、疲れを実際に感じている人のことでしょう。「あー疲れた」と言える人は、休みが必要だと理解していて、休む場所を探しています。イエスはその人たちを休ませてくださいます。「重荷を負う者」は、疲れていることに気づいていない人たちかも知れません。最近中田神父は休養日にしている水曜日に二週連続で公務が入りました。助任司祭に任せて良かったかも知れませんが自分で引き受けました。

その後、用事があって御像を製作している中田ザビエル工房に電話をしたのですが、用件を話している私に「こうじ神父様、声に元気なかよ。大丈夫ね?」と心配されたのです。それは明らかに、疲れているのに本人が疲れに気づいていない状態でした。

イエスはどちらにも「休ませてあげよう」と言ってくださいます。疲れていると自覚している人も、疲れていることに気づいていない人にも、イエスは配慮してくださり、休ませてくださるのです。「私は誰からも気づいてもらえない」そんな無力感に打ちのめされた経験がある人は、ぜひイエスの「だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」との招きに信頼を寄せることにしましょう。

イエスがご自分のもとで休むようにと強く促す理由がもう一つあると思います。それは、「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」この招きが示しています。

「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」しかしなぜ、軛を負うことが、安らぎを得られることになるのでしょうか。たいてい、軛を負うことは、新たな重荷を負わされることに繋がります。すでに疲れて、重荷にあえいでいるのに、さらにイエスの言う軛を負う。なぜ安らぎを得られるのでしょうか。

そこで「軛」について見直してみると次のような説明がありました。「軛」とは、人間が生きるようにと神が与える指示に、心を開くという態度を指すそうです。当時のユダヤ教指導者も、律法を忠実に守ることが神の前に正しく生きることだ教えていました。しかし、自分たちは律法を実行していると誇る彼らから見れば、それを果たせない弱い者は神の救いからのけ者にされていると考えていました。

こうしてユダヤ教指導者の「軛」は神と人とを結ぶものにはならず、むしろ圧迫となってしまったのです。イエスはこのような「重荷」を負わされて疲れ果てた人々を招いて、全く新しい神と人とを結ぶ「軛」を示したのです。イエス自身が身をもって示したこの生き方こそ、新しい「軛」であり、神と人とを結ぶ「絆」だったのでした。

イエスの生き方、イエスが共に生きるようにと招く「軛」は、神の愛といつくしみに結ばれる「軛」です。ですからイエスの軛には安らぎがあります。イエスの「軛」が負いやすく軽いのは、神の愛といつくしみに人を結び合わせたいという神の思いを知るイエスが、その人の横に立ってともに背負ってくれるからです。

私たちは今週もこうして教会に来て、ミサに参加しています。「義務」に縛り付けられてここまで来ているなら、それは「疲れ」と「重荷」でしかありません。ミサに来ることが、神の愛といつくしみに少しでも触れる機会となっているなら、たとえミサ参加が「軛」であってもその軛は軽いはずです。

このミサが、参加する皆さんを休ませてあげるミサとなりますように。祭儀を執り行う司祭はもちろん、毎週の典礼奉仕者も、ミサが「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」とのイエスのみことばを参加者一人ひとりに感じるものとなるよう、努めていきましょう。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
年間第15主日(マタイ13:1-23)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼スマートフォンは電話料金とデータ料金の両方が請求書に含まれる。データ料金は何段階かに分かれ、最初の料金設定は1ギガ以下になる。この範囲内のデータ使用で一ヶ月を過ごすのは(携帯電話会社の思惑だろうが)なかなか難しい。
▼しばしば、次の20日くらいになると、「残りのデータ量が無くなりつつあります。制限を超えると、より高い料金の利用帯に移ります」みたいな案内が来る。先月は乱暴だが、残り一週間は「機内モード」に切り替えて乗り切った。迷惑を掛けた人もいたに違いない。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第852回目。最初のデータ使用限度を超えなかったが、かなり荒っぽい手段だ。

http://ss104313.stars.ne.jp/230709.jpg
ホームページもご覧ください。
http://ss104313.stars.ne.jp/


† 神に感謝 †
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする